故人に

       一

 わし村住居むらずまいも、満六年になった。こよみとしは四十五、鏡を見ると頭髪かみや満面の熊毛に白いのがふえたには今更いまさらの様に驚く。
 元来田舎者のぼんやり者だが、近来ます/\杢兵衛もくべえ太五作式になったことを自覚する。先日上野を歩いて居たら、車夫くるまやが御案内しましょうか、と来た。銀座日本橋あたりで買物すると、田舎者扱いされて毎々腹を立てる。あとでぺろり舌を出されるとは知りながら、上等のをいやごく上等じょうとうのをと気前を見せて言いでさっさと買って来る様な子供らしいこともついしたくなる。然し店硝子みせがらすにうつる乃公だいこう風采ふうさいを見てあれば、例令たとえ其れが背広せびろや紋付羽織袴であろうとも、着こなしの不意気さ、薄ぎたない髯顔ひげがおの間抜け加減、如何に贔屓眼ひいきめに見ても――いや此では田舎者扱いさるゝが当然だと、苦笑にがわらいして帰って来る始末。此程村の巡査が遊びに来た。日清戦争の当時、出征軍人が羨ましくて、十五歳を満二十歳と偽り軍夫になって澎湖島ほうことうに渡った経歴もある男で、今は村の巡査をして、和歌など詠み、新年勅題の詠進などして居る。其巡査の話に、正服せいふく帯剣たいけんで東京を歩いて居ると、あれは田舎のおまわりだと辻待つじまちの車夫がぬかす。如何してかるかときいたら、で知れますと云ったと云って、大笑した。成程なるほど眼で分かる――さもありそうなことだ。の目、鷹の目、掏摸すりの眼、新聞記者の眼、其様そんな眼から見たら、鈍如どんよりした田舎者の眼は、さぞ馬鹿らしく見えることであろう。実際馬鹿でなければ田舎住居は出来できぬ。人にすれずに悧巧になる道はないから。
 東京に出てはわしも立派な田舎者だが、田舎ではこれでもまだ中々ハイカラだ。儂の生活状態も大分変った。君が初めて来た頃のあのあばら家とは雲泥うんでいの相違だ。尤も何方が雲かどろかは、其れは見る人の心次第だが、兎に角著しく変った。引越した年の秋、お麁末そまつながら浴室ゆどのや女中部屋を建増した。其れから中一年置いて、明治四十二年の春、八畳六畳のはなれの書院を建てた。明治四十三年の夏には、八畳四畳板の間つきの客室兼物置を、ズッと裏の方に建てた。明治四十四年の春には、二十五坪の書院を西の方に建てた。而して十一間と二間半の一間幅の廊下を以て、母屋と旧書院と新書院の間を連ねた。何れも茅葺、古い所で九十何年新しいのでも三十年からになる古家を買ったのだが、外見は随分立派で、村の者は粕谷御殿かすやごてんなぞ笑って居る。二三年ぶりに来て見た男が、悉皆すっかり別荘式になったと云うた。御本邸無しの別荘だが、実際別荘式になった。畑も増して、今は宅地耕地で二千余坪よつぼになった。以前は一切無門関、勝手かってに屋敷の中を通る小学校通いの子供の草履ばた/\で驚いて朝寝のねむりをさましたもので、乞食こじき物貰ものもらい話客千客万来であったが、今は屋敷中ぐるりと竹の四ツ目籬めがきや、かなめ、萩ドウダンの生牆いけがきをめぐらし、外から手をさし入れて明けられるような形ばかりのものだが、大小だいしょう六つの門や枝折戸が出入口をかためて居る。われと籠を作って籠の中の鳥になって居るのが可笑おかしくもある。但花や果物を無暗にあらされたり、無遠慮なお客様にわずらわさるゝよりまだ可と思うて居る。個人でも国民でも斯様な所から「隔て」と云うものが出来、進んでは喧嘩けんか、訴訟、戦争なぞが生れるのであろう。
「後生願わん者は糂□甕じんたがめ一つも持つまじきもの」とは実際だ。物の所有は隔てのもとで、物の執着しゅうちゃくは争のである。儂も何時しか必要と云う名の下に門やら牆やら作って了うた。まさか忍び返えしのソギ竹を黒板塀の上に列べたり、煉瓦塀れんがべいうえに硝子の破片を剣の山とえたりはせぬつもりだが、何、程度ていどの問題だ、これで金でも出来たら案外其様そんな事もやるであろうよ。

       二

 畑の物は可なり出来る。昨年は陸穂おかぼの餅米が一俵程出来たので、自家で餅を舂いた。今年は大麦三俵もみで六円なにがしに売った。田園生活をはじめてこゝに六年、自家の作物が金になったのは、此れが皮切だ。去年は月に十日ずつきまった作男を入れたが、美的百姓と真物ほんものの百姓とはりが合わぬ所から半歳足らずで解雇かいこしてしまい、時々近所の人を傭ったり、毎日仕事に来る片眼のおかみを使って居る。自分も時々やる。少し労働をやめて居ると、手が直ぐ綺麗きれいになり、稀に肥桶をかつぐと直ぐ肩がれる。元来物事に極不熱心な男だが、其れでも年の功だね、畑仕事も少しは上手になった。最早もう地味ちみに合わぬ球葱たまねぎを無理に作ろうともせぬ。最早胡麻を逆につるして近所の笑草にもならぬ。甘藷苗の竪植たてうえもせぬ。しんをとめるものは心をとめ、肥料のやり時、中耕の加減かげんも、兎やら角やら先生なしにやって行ける。毎年わし蔬菜そさい花卉かきたね何円なんえんと云う程買う。無論其れ程の地積ちせきがあるわけでも必要がある訳でも無いが、種苗店の目録を見て居るとつい買いたくなって買うのだ。いてしまうのも中々骨だから、そだったら事だが、幸か不幸か種の大部分は地にはいって消えて了う。其度毎そのたびごとに種苗店の不徳義、種子の劣悪れつあくののしるが、春秋の季節になると、また目録をくって注文をはじめる。馬鹿な事さ。然し儂等は趣味空想に生きて、必しも結果けっかには活きぬ。馬鹿な事をしなくなったら、儂が最後だ。
 時のつは速いものだ。した年の秋実を蒔いた茶が、去年あたりからめ、今年は新茶が可なり出来た。砂利を敷いたり剪枝をしたり苦心の結果、水蜜桃も去年あたりから大分喰える。いちごは毎年移してばかり居たが、今年は毎日喫飽くいあきをした上に、苺のシイロップが二合瓶ごうびん二十余出来た。生籬の萩が葉を見て花を見てあとはられて萩籬の料になったり、林の散歩にぬいて来て捨植すてうえにして置いた芽生の山椒が一年中の薬味やくみになったり、構わずに置く孟宗竹のたけのこが汁の実になったり、杉籬のはさみすてが焚附たきつけになり、落葉の掃き寄せが腐って肥料になるも、皆時の賜物たまものである。追々と植込んだ樹木が根づいて独立が出来る様になり、支えの丸太が取り去られる。移転の秋坊主になる程苅り込んで非常の労力を以て隣村から移植いしょくし、中一年を置いてまた庭の一隅いちぐううつし植えた二尺八寸まわりの全手葉椎マテバシイが、此頃では梢の枝葉も蕃茂はんもして、何時花が咲いたか、つい此程うちの女児が其下で大きな椎の実を一つ見つけた。と見て、妻が更に五六つぶ拾った。「椎がった! 椎が実った!」驩喜かんきの声が家にちた。田舎住居は斯様な事がたいした喜の原になる。一日一日の眼には見えぬが、黙って働く自然の力をしみ/″\感謝せずには居られぬ。儂が植えた樹木は、大抵たいてい根づいた。儂自身も少しは村に根をおろしたかと思う。

       三

 少しはと儂は云うた。実は六年村に住んでもまだ村の者になり切れぬのである。固有の背水癖で、最初戸籍こせきまでひいて村の者になったが、過る六年の成績をかえりみると、儂自身もあまり良い村民であったと断言は出来ない。吉凶の場合、兵隊送迎は別として、村の集会なぞにも近来滅多に出ぬ。村のポリチックスには無論超然主義を執る。燈台下暗くして、東京近くの此村では、青年会が今年はじめて出来、村の図書館は一昨年やっと出来た。儂は唯傍観して居る。郡教育会、愛国婦人会、其他一切の公的性質を帯びた団体加入の勧誘は絶対的に拒絶する。村の小さな耶蘇教会にすらもほとんかぬ。昨年まで年に一回の月番役を勤めたが、月番の提灯をあずかったきりで、一切の事務は相番あいばんの肩に投げかけるので、皆迷惑したと見えて、今年から月番を諭旨免職になった。儂自身の眼から見る儂は、無月給の別荘番、墓掃除せぬ墓守、買って売る事をせぬ植木屋の亭主、位なもので、村の眼からは、儂は到底一個の遊び人である。遊人の村に対する奉公は、盆正月に近所の若い者や女子供の相手になって遊ぶ位が落である。儂は最初一の非望ひぼうを懐いて居た。其は吾家の燈火あかりが見る人の喜悦になれかしとうのであった。多少気張っても見たが、其内くたびれ、気恥きはずかしくなって、わし一切いっさい説法せっぽうをよした。而して吾儘一ぱいの生活をして居る。儂は告白する、儂は村の人にはなり切れぬ。此は儂の性分である。東京に居ても、田舎に居ても、何処までもたびの人、宿れる人、見物人なのである。然しながら生年百に満たぬひといのちの六年は、決して短い月日では無い。儂は其六年を已に村に過して居る。儂が村の人になり切れぬのは事実である。然し儂が少しも村をあいしないと云うのはうそである。ちと長い旅行でもして帰って来る姿すがたを見かけた近所の子供に「何処どけへ往ったンだよゥ」と云われると、油然ゆうぜんとした嬉しさが心のそこからこみあげて来る。
 東京が大分だいぶ攻め寄せて来た。東京を西にる唯三里、東京に依って生活する村だ。二百万の人の海にさすしおひくしおの余波が村に響いて来るのは自然である。東京で瓦斯を使うようになって、薪の需用が減った結果か、村の雑木山が大分ひらかれて麦畑むぎばたけになった。道側の並木のくぬぎならなぞ伐られ掘られて、短冊形の荒畑あらばたが続々出来る。武蔵野の特色なる雑木山を無惨□□むざむざ拓かるゝのは、儂にとっては肉をがるゝおもいだが、生活がさすわざだ、詮方せんかたは無い。筍が儲かるので、麦畑を潰して孟宗藪もうそうやぶにしたり、養蚕ようさんの割が好いと云って桑畑がえたり、大麦小麦より直接東京向きの甘藍白菜や園芸物に力を入れる様になったり、要するに曩時むかしの純農村は追々都会附属の菜園になりつゝある。京王電鉄が出来るので其等を気構え地価も騰貴した。儂が最初買うた地所は坪四十銭位であったが、此頃は壱円以上二円も其上もする様になった。地所買いも追々入り込む。儂自身東京から溢れ者の先鋒でありながら、滅多な東京者に入りまれてはあまり嬉しい気もちもせぬ。洋服、白足袋の男なぞ工場の地所見に来たりするのを傍見わきみする毎に、儂は眉をひそめて居る。要するに東京が日々攻め寄せる。以前聞かなかった工場こうばの汽笛なぞが、近来きんらい明け方の夢を驚かす様になった。村人もては居られぬ。十年前の此村を識って居る人は、皆が稼ぎ様の猛烈もうれつになったに驚いて居る。政党騒せいとうさわぎと賭博は昔から三多摩の名物めいぶつであった。此頃では、選挙争に人死ひとじにはなくなった。儂が越して来た当座とうざは、まだ田圃向うの雑木山に夜灯よるあかりをとぼして賭博をやったりして居た。村の旧家の某が賭博にけて所有地一切勧業銀行の抵当ていとうに入れたの、小農の某々が宅地たくちまでなくしたの、と云う噂をよく聞いた。然し此の数年来すうねんらい賭博風とばくかぜは吹き過ぎて、遊人と云う者も東京に往ったり、比較的ひかくてき堅気かたぎになったりして、今は村民一同真面目まじめに稼いで居る。其筋の手入れが届くせいもあるが、第一あそんで居られぬ程生活難が攻め寄せたのである。

       四

 儂の家族は、主人夫婦あるじふうふの外明治四十一年の秋以来兄の末女をもらって居る。名をつると云う。鶴は千年、千歳村に鶴はふさわしい。三歳の年もらって来た頃は、碌々口もきけぬ脾弱ひよわい児であったが、此の頃は中々強健きょうけんになった。もらいたては、儂がいつけおんぶで三軒茶屋まで二里てく/\らくに歩いたものだが、此の頃では身長三尺五寸、体量たいりょう四貫余。友達が無いがさびしいとも云わずそだって居る。子供は全く田舎で育てることだ。紙鳶たこすら自由に飛ばされず、まりさえ思う様にはつけず、電車、自動車、馬車、人力車、自転車、荷車にぐるま、馬と怪俄けがさせ器械の引切りなしにやって来る東京の町内にそだつ子供は、本当にみじめなものだ。雨にぬれて跣足はだしけあるき、栗でも甘藷いもでも長蕪でも生でがり/\食って居る田舎の子供は、眼から鼻にぬける様な怜悧ではないかも知れぬが、子供らしい子供で、衛生法を蹂躙して居るか知らぬが、中々病気はしない。儂等わしら親子おやこ三人の外に、女中が一人。阿爺おやじが天理教に凝って資産を無くし、母に死別れて八歳から農家の奉公に出て、今年二十歳だが碌にイロハも読めぬ女だ。東郷大将とうごうたいしょうの名は知って居るが、天皇陛下を知らぬ。明治天皇めいじてんのう崩御ほうぎょの際、妻は天皇陛下の概念を其原始的頭脳に打込うちこむべく大骨折った。天皇陛下を知らぬほどだから、無論皇后陛下こうごうへいかや皇太子殿下を知る筈が無い。明治天皇崩御の合点がてんが行くと、いわくだ、ムスコさんでもありますかい、おかみさんがさぞ困るでしょうねェ。御維新後四十五年、帝都ていとはなるゝ唯三里、加之しかも二十歳の若い女に、まだ斯様な葛天氏かつてんし無懐氏の民が居ると思えば、イワン王国の創立者も中々心強い訳だ。斯無懐氏の女のほかに、テリアル種の小さなくろ牝犬めいぬが一匹。名をピンと云う。鶴子より一月ひとつきまえにもらって、最早もう五歳いつつあごのあたりの毛が白くなって、大分だいぶばあさんになった。毎年二度三疋四疋ずつ子を生む。ピンの子孫しそんが近村に蕃殖した。近頃畜犬税がやかましいので、子供を縁づけるに骨が折れる。徒歩でも車でも出さえすると屹度いて来るが、此頃では東京往復はお婆さんほねらしい。一度車夫が戻り車にのせてやったら、其後は車に跟いて来て疲れると直ぐ車上の儂等を横眼に見上げる。今一疋デカと云うポインタァしゅ牡犬おいぬが居る。甲州街道の浮浪犬で、ポチと云ったそうだが、ズウ体がデカイから儂がデカと名づけた。デカダンを意味いみしたのでは無い。獰猛どうもうな相貌をした虎毛とらげの犬で、三四疋位の聯合軍れんごうぐんは造作もなくみ伏せる猛犬もうけんだったので、競争者を追払ってずる/\にピンの押入むことなったわけである。儂も久しくかんがえた末、届と税を出し、天下てんかれて彼を郎等ろうどうにした。郎等先生此頃では非常に柔和になった。第一眼光が違う。尤もわるくせがあって、今でも時々子供をおいかける。噛みはせぬが、威嚇いかくする。彼が流浪るろう時代に子供にいじめられた復讎心ふくしゅうしんが消えぬのである。子供と云えば、日本の子供はなぜ犬猫を可愛かあいがらぬのであろう。直ぐ畜生ちきしょうと云っては打ったり石を投げたりする。矢張大人の真似を子供はするのであろう。禽獣を愛せぬ国民は、大国民の資格しかくが無い。犬猫をいじめる子供は、やがて朝鮮人ちょうせんじん台湾人たいわんじんをいじめる大人である。ある犬通の話に、野犬やけんの牙は飼犬かいいぬのそれより長くて鋭く、且外方そっぽうくものだそうだ。生物せいぶつにはうえ程恐ろしいものは無い。食にはなれた野犬が猛犬になり狂犬になるのは唯一歩である。野武士のぶしのポチは郎等のデカとなって、犬相が大に良くなった。其かわり以前の強味はなくなった。富国強兵兎角両立し難いものとあって、デカが柔和に即ちよわくなったのものがれぬ処であろう。以上二頭の犬の外、トラと云う雄猫おねこが居る。犬好きの家は、猫まで犬化して、トラはたたみの上より土にるが好きで、儂等が出あるくとうさぎごとくピョン/\はねていて来る。米のめしよりむぎの飯、さかなよりも揚豆腐が好きで、主人を見真似たか梨や甜瓜まくわの喰い残りをがり/\かじったり、焼いた玉蜀黍とうもろこしを片手で押えてわんぐりみつきあの鋭い牙で粒をいかいてはぼり/\噛ったり、まさに田園でんえんの猫である。来客があって、めずらしく東京から魚を買ったら、トラ先生早速さっそく口中に骨を立て、両眼に涙、口もとからはよだれをたらし、人さわがせをしてよう/\命だけは取りとめた。犬猫の外に鶏が十羽。蜜蜂は二度って二度逃げられ、今は空箱だけ残って居る。天井てんじょうの鼠、物置の青大将あおだいしょう、其他無断同居のものも多いが、此等これら眷族けんぞくの外である。(著者追記。犬のデカは大正二年の二月自動車にかれて死に、猫のトラは正月行衛不明になり、ピンは五月肥溜に落ちて死んだ。)
 猫の話で思い出したが、わしは明治四十二年の春、塩釜しおがまの宿で牡蠣かきを食った時から菜食さいしょくした。明治三十八年十二月から菜食をはじめて、明治三十九、四十、四十一、と満三年の精進しょうじん、云わば昔の我に対する三年のをやったようなものだ。以前はダシにも昆布こんぶを使った。今は魚鳥獣肉何でもう。猪肉や鯛は尤も好物だ。然し葷酒くんしゅ(酒はおまけ)山門さんもんに入るを許したばかりで、平素の食料しょくりょうは野菜、干物、豆腐位、来客か外出の場合でなければ滅多に肉食にくじきはせぬから、折角の還俗げんぞくも頗る甲斐かいがない訳である。甲州街道に肴屋さかなやはあるが、無論塩物干物ばかりで、都会とかいに溢るゝしこ秋刀魚さんままわって来る時節でもなければ、肴屋の触れ声を聞く事は、殆ど無い。ある時、東京式に若者が二人威勢いせいよく盤台をかついで来たので、珍らしい事だと出て見ると、大きな盤台の中は鉛節なまりぶしが五六本にまぐろの切身が少々、それから此はと驚かされたのはだらけのさめの頭だ。鯊の頭にはギョッとした。蒲鉾屋かまぼこやからでも買い出して来たのか。誰が買うのか。ダシにするのか。て食うのか。儂は泣きたくなった。一生の思出に、一度は近郷きんごう近在きんざいの衆を呼んで、ピン/\した鯛の刺身煮附に、ゆきような米のめしで腹が割ける程馳走をして見たいものだ。実際此処ではさかなと云えば已に馳走で、鮮否は大した問題では無い。近所の子供などが時々真赤な顔をして居る。酒を飲まされたのでは無い。ふるいさばや鮪にうたのである。此頃は、儂の健啖けんたんも大に減った。而して平素菜食の結果、まれに東京で西洋料理なぞ食っても、うまいには甘いが、思う半分もえぬ。最早儂の腸胃も杢兵衛式もくべえしきになった。

       五

 ほん沢山たくさんあるうち、学を読む家、植木が好きな家、もとは近在の人達が斯く儂の家の事を云うた。儂を最初村に手引した石山君は、村塾を起して儂に英語を教えさせ自身漢学を教え、斯くて千歳村ちとせむらを風靡する心算つもりであったらしい。然し其は石山君の失望であった。儂は何処までも自己本位の生活をした。ある学生は、あなたの故郷こきょう此処ここでは無い、大きな樹木じゅもくを植えたり家を建てたりはよくない、と切に忠告した。儂は顧みなかった。古い家ながら小人数こにんずには広過ぎるうちを建て、盛に果樹観賞木を植え、一切いっさい永住方針を執って吾生活の整頓に六年を費した。儂は儂の住居が水草を逐うて移る天幕てんとであらねばならぬことを知らぬでは無かった。また儂自身に漂泊の血をもって居ることをいなむことは出来なかった。従来儂の住居が五六年を一期とする経歴を記憶せぬでは無かった。だから儂は落ちつきたかった。執着しゅうちゃくがして見たかった。自分の故郷を失ったからには、故郷を造って見たかった。而して六年間孜々ししとして吾巣を構えた。其結果は如何である? 儂が越して程なくようあって来訪した東京の一紳士しんしは、あまり見すぼらしい家の容子ようすに掩い難い侮蔑を見せたが、今年来て見た時は、眼色にあらそわれぬ尊敬を現わした。其れに引易え、或信心家は最初片っ方しか無い車井くるまいの釣瓶なぞに随喜したが、此頃ではつい近所に来て泊ってもってもかなくなった。即わしの田園生活は、或眼からは成功で、或眼からは堕落に終ったのである。
 堕落か成功か、其様そん屑々けちな評価は如何でも構わぬ。儂は告白する、儂は自然がヨリ好きだが、人間がいやではない。儂はヨリ多く田舎を好むが、都会とかいてることは出来ぬ。儂は一切が好きである。儂が住居すまいは武蔵野の一隅にある。平生読んだり書いたりする廊下の窓からは甲斐かい東部の山脈が正面に見える。三年前建てた書院からは、東京の煙が望まれる。一方に山の雪を望み、一方に都の煙を眺むる儂の住居は、即ち都の味と田舎の趣とを両手に握らんとする儂の立場たちばと慾望を示して居るとも云える。斯慾望が何処まで衝突なくげ得らるゝかは、疑問である。此両趣味の結婚は何ものをみ出したか、若くは生み出すか、其れも疑問である。唯儂一個人としては、六年の田舎住居いなかずまいの後、いさゝかたものは、土に対する執着の意味をやゝかいしはじめた事である。儂は他郷から此村に入って、唯六年を過ごしたに過ぎないが、それでも樹木じゅもくを植え、吾が種をき、我が家を建て、吾が汗をらし、わが不浄ふじょうつちかい、而してたま/\んだ吾家の犬、猫、鶏、の幾頭いくとう幾羽いくわを葬った一町にも足らぬ土が、今は儂にとりて着物きものの如く、むしろ皮膚ひふの如く、居れば安く、離るれば苦しく、之を失う場合を想像するにえぬ程愛着を生じて来た。おのれを以て人を推せば、先祖代々土の人たる農其人の土に対する感情も、其一端いったんうかがうことが出来る。この執着しゅうちゃくの意味を多少とも解し得るかぎを得たのは、田舎住居の御蔭おかげである。
 然しながらが造ったかたとらわれ易いのが人の弱点である。執着は常に力であるが、執着は終に死である。宇宙は生きて居る。人間は生きて居る。蛇がからを脱ぐ如く、人は昨日きのうの己が死骸を後ざまに蹴て進まねばならぬ。個人も、国民も、永久に生くべく日々死して新にうまれねばならぬ。儂は少くも永住の形式を取って村の生活をはじめたが、果して此処ここに永住し得るや否、疑問である。新宿八王子間の電車は、儂の居村きょそんから調布ちょうふまで已に土工を終えて鉄線を敷きはじめた。トンカンと云う鉄の響が、近来警鐘の如く儂の耳に轟く。此は早晩儂をこのから追い立てる退去令の先触さきぶれではあるまいか。愈電車でも開通した暁、儂は果して此処に踏止ふみとまるか、寧東京に帰るか、或は更に文明を逃げて山に入るか。今日に於ては儂自ら解き得ぬ疑問である。

大正元年十二月二十九日
都もひなおしなべて白妙しろたえる風雪の夕
武蔵野粕谷の里にて
徳冨健次郎


[#改丁]



   都落ちの手帳から

     千歳村

       一

 明治三十九年の十一月中旬、彼等夫妻は住家すみかを探すべく東京から玉川たまがわの方へ出かけた。
 彼は其年の春千八百何年前に死んだ耶蘇やその旧跡と、まだ生きて居たトルストイの村居そんきょにぶらりと順礼に出かけて、其八月にぶらりと帰って来た。帰って何をるのか分からぬが、かく田舎住居をしようと思って帰って来た。先輩の牧師に其事を話したら、玉川の附近に教会の伝道地がある、ったら如何だと云う。伝道師は御免を蒙る、生活に行くのです、と云ったものゝ、玉川と云うに心動いて、兎に角見に行きましょうと答えた。そうか、では何日なんにちに案内者をよこそう、と牧師は云うた。
 約束の日になった。案内者は影も見せぬ。無論牧師からはがき一枚も来ぬ。彼は舌鼓したつづみをうって、案内者なしに妻と二人ふたり西を指して迦南カナンの地を探がす可く出かけた。牧師は玉川の近くで千歳村ちとせむらだと大束おおたばに教えてくれた。彼等も玉川の近辺で千歳村なら直ぐ分かるだろうと大束にきめんで、例の如くぶらりと出かけた。

       二

「家を有つなら草葺くさぶきの家、而して一反でもいい、己が自由になる土を有ちたい」
 彼は久しく、斯様な事を思うて居た。
 東京は火災予防として絶対的草葺を禁じてしまった。草葺に住むと云うは、取りも直さず田舎に住むわけである。最近五年余彼が住んだ原宿の借家も、今住んで居る青山高樹町の借家も、東京では田舎近い家で、草花位つくる余地はあった。然し借家借地は気が置ける。彼も郷里の九州には父から譲られた少しばかりの田畑たはたを有って居たが、其土は銭に化けて追々おいおい消えてしまい、日露戦争終る頃は、最早一撮ひとつまみの土も彼の手には残って居なかった。そこで草葺の家と一反の土とは、新に之を求めねばならぬのであった。
 彼が二歳から中二年を除いて十八の春まで育った家は、即ち草葺の家であった。明治の初年薩摩境に近い肥後ひごの南端の漁村から熊本の郊外に越した時、父が求めた古家で、あとでは瓦葺かわらぶきの一棟が建増されたが、母屋おもやは久しく茅葺であった。其茅葺をつたう春雨のしずくの様に、むかしのなつかし味が彼の頭脳にみて居たのである。彼の家は加藤家の浪人の血をひいた軽い士のすえで、代々田舎の惣庄屋をして居て、農には元来縁浅からぬ家である。彼も十四五の頃には、僕に連れられ小作米取立の検分に出かけ、小作の家で飯を強いられたり無理に濁酒の盃をさゝれたりして困った事もあった。彼の父は地方官吏をやめて後、県会議員や郷先生ごうせんせいをする傍、殖産興業の率先をすると謂って、むすめを製糸場の模範工女にしたり、自家じかでも養蚕ようさん製糸せいしをやったり、桑苗販売そうびょうはんばいなどをやって、いつも損ばかりして居た。桑苗発送季の忙しくて人手が足りぬ時は、彼の兄なぞもマカウレーの英国史をほうり出して、の短い肥後鍬を不器用な手に握ったものだ。弟の彼も鎌を持たされたり、苗を運ばされたりしたが、吾儘で気薄な彼は直ぐいやになり、疳癪かんしゃくを起してやめてしまうが例であった。
 父は津田仙さんの農業三事や農業雑誌の読者で、出京の節は学農社からユーカリ、アカシヤ、カタルパ、神樹しんじゅなどの苗を仕入れて帰り、其他種々の水瓜、甘蔗さとうきびなど標本的に試作しさくした。好事となると実行せずに居れぬ性分で、ある時菓樹かじゅは幹に疵つけ徒長を防ぐと結果にこうがあると云う事を何かの雑誌で読んで、屋敷中の梨の若木わかきの膚を一本残らず小刀でメチャ/\に縦疵たてきずをつけて歩いたこともあった。子の彼は父にも兄にも肖ぬなまけ者で、実学実業が大の嫌いで、父が丹精して置いた畑を荒らしてまわり、甘蔗と間違えて西洋箒黍ほうききびんで吐き出したり、未熟の水瓜をそっと拳固で打破って川に投げ込んで素知そしらぬ顔して居たり、悪戯いたずらばかりして居た。十六七の際には、学業不勉強の罰とあって一切書籍を取上げられ、爾後養蚕専門たるべしとの宣告の下に、近所の養蚕家に入門せしめられた。其家には十四になる娘があったので、当座は真面目に養蚕稽古げいこもしたが、一年足らずで嫌になってズル/\にやめて了うた。但右の養蚕家入門中、桑を切るとて大きな桑切庖丁を左のてのひら拇指おやゆびの根にざっくり切り込んだ其疵痕きずあとは、彼が養蚕家としての試みの記念きねんとして今も三日月形に残って居る。
 斯様な記憶から、趣味としての田園生活は、久しく彼を引きつけて居たのであった。

       三

 青山高樹町のうちをぶらりと出た彼等夫婦は、まだ工事中の玉川電鉄の線路を三軒茶屋まで歩いた。唯有とあ饂飩屋うどんやに腰かけて、昼飯がわりに饂飩を食った。松陰神社で旧知きゅうちの世田ヶ谷往還を世田ヶ谷宿しゅくのはずれまで歩き、交番に聞いて、地蔵尊じぞうそんの道しるべから北へ里道に切れ込んだ。余程往って最早もう千歳村ちとせむらであろ、まだかまだかとしば/\会う人毎に聞いたが、中々村へは来なかった。妻は靴に足をくわれて歩行になやむ。農家に入って草履を求めたが、無いと云う。ようやく小さな流れに出た。流れに沿うて、腰硝子の障子など立てた瀟洒しょうしゃとした草葺くさぶきの小家がある。ドウダンが美しく紅葉して居る。此処ここは最早千歳村で、彼風流な草葺は村役場の書記をして居る人の家であった。彼様な家を、と彼等は思った。
 会堂かいどうがありますか、耶蘇教信者がありますか、とあるうちに寄ってきいたら、洗濯して居たかみさんが隣のかみさんと顔見合わして、「粕谷だね」と云った。粕谷さんの宅は何方どちらと云うたら、かみさんはふッとき出して、「粕谷た人の名でねェだよ、粕谷って処だよ」と笑って、粕谷の石山と云う人が耶蘇教信者だと教えてくれた。
 尋ね/\て到頭会堂に来た。其は玉川の近くでも何でもなく、見晴みはらしも何も無い桑畑の中にある小さな板葺のそれでも田舎には珍らしい白壁の建物であった。病人か狂人かと思われる様な蒼い顔をした眼のぎょろりとした五十余のおんなが、案内を請う彼の声に出て来た。会堂を借りて住んで居る人なので、一切の世話をする石山氏の宅は直ぐ奥だと云う。彼等は導かれて石山氏の広庭に立った。トタンぶきの横長い家で、一方には瓦葺の土蔵どぞうなど見えた。しばらくすると、草鞋ばきの人が出て来た。私が石山いしやま八百蔵やおぞうと名のる。年の頃五十余、頭の毛は大分禿げかゝり、猩々しょうじょうの様な顔をして居る。あとで知ったが、石山氏は村の博識ものしり口利くちききで、今も村会議員をして居るが、政争のはげしい三多摩の地だけに、昔は自由党員で壮士を連れて奔走し、白刃の間をくぐって来た男であった。推参すいさんの客は自ら名のり、牧師の紹介しょうかいで会堂を見せてもらいに来たと云うた。石山氏は心を得ぬと云う顔をして、牧師から何の手紙も来ては居ぬ、福富儀一郎と云う人は新聞などで承知をして居る、また隣村の信者で角田勘五郎と云う者の姉が福富さんの家に奉公して居たこともあるが、尊名は初めてだと、飛白かすりの筒袖羽織、禿びた薩摩下駄さつまげた鬚髯ひげもじゃ/\の彼が風采ふうさいと、煤竹すすたけ色の被布を着て痛そうにくつ穿いて居る白粉気も何もない女の容子ようすを、胡散うさんくさそうにじろじろ見て居た。然し田舎住居がしたいと云う彼の述懐じゅっかいを聞いて、やゝ小首をかしげてのち、それは会堂も無牧で居るから、都合によっては来ておもらい申して、月々何程かずつ世話をして上げぬことはない、と云う鷹揚おうような態度を石山氏はとった。兎に角会堂を見せてもろうた。天井てんじょうの低い鮓詰すしづめにしても百人がせい/″\位の見すぼらしい会堂で、裏に小さな部屋へやがあった。もと耶蘇教の一時繁昌した時、村を西へる一里余、甲州街道の古い宿調布町に出来た会堂で、其後調布町の耶蘇教が衰え会堂が不用になったので、石山氏外数名の千歳村の信者がこゝにひいて来たが、近来久しく無牧で、今は小学教員母子が借りて住んで居ると云うことであった。
 会堂を見て、渋茶の馳走になって、家の息子に道を教わって、甲州街道の方へ往った。
 晩秋の日は甲州こうしゅうの山に傾き、膚寒い武蔵野むさしのの夕風がさ/\尾花をする野路を、夫婦は疲れ足曳きずって甲州街道を指して歩いた。何処どこやらで夕鴉ゆうがらすが唖々と鳴き出した。我儕われらの行末は如何なるのであろう? 何処に落つく我儕の運命であろう? 斯く思いつゝ、二人は黙って歩いた。
 甲州街道に出た。あると云う馬車も来なかった。唯有とある店で、妻は草履ぞうりを買うて、靴をぬぎ、三里近い路をとぼ/\歩いて、漸く電燈の明るい新宿へ来た。


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     都落ち

       一

 二月ばかりった。
 明治四十年の一月である。ある日田舎の人が二人青山高樹町のかれ僑居きょうきょに音ずれた。一人は石山氏、今一人は同教会執事角田新五郎氏であった。彼は牧師に招聘しょうへいされたのである。牧師は御免を蒙る、然し村住居はしたい。彼は斯く返事したのであった。
 彼は千歳村にあまり気がなかった。近いと聞いた玉川たまがわは一里の余もあると云う。風景も平凡へいぼんである。使って居た女中じょちゅうは、江州ごうしゅう彦根在の者で、其郷里地方きょうりちほうには家屋敷を捨売りにして京、大阪や東京に出る者が多いので、うその様にやすい地面家作の売物うりものがあると云う。江州――琵琶湖東びわことうの地、山美しく水清く、松茸が沢山たくさんに出て、京奈良に近い――大に心動いて、早速郷里に照会しょうかいしてもらったが、一向に返事が来ぬ。今時分田舎から都へ出る人はあろうとも、都から田舎にわざ/\引込ひきこむ者があろうか、戯談じょうだんに違いない、とうっちゃって置いたのだと云う事が後で知れた。江州の返事が来ない内、千歳村の石山氏は無闇むやみ乗地のりじになって、さいわい三つばかり売地があると知らしてよこした。あまり進みもしなかったが、兎に角往って見た。
 一は上祖師ヶ谷で青山あおやま街道かいどうに近く、一は品川へ行く灌漑かんがい用水の流れにうて居た。此等これらは彼がふところよりもちと反別が広過ぎた。最後に見たのが粕谷の地所じしょで、一反五畝余。小高く、一寸見晴らしがよかった。風に吹飛ばされぬようはりがねで白樫しらかしの木にしばりつけた土間共十五坪の汚ない草葺の家が附いて居る。家の前は右の樫の一列から直ぐ麦畑むぎばたけになって、家の後は小杉林から三角形の櫟林くぬぎばやしになって居る。地面は石山氏外一人の所有で、家は隣字となりあざの大工の有であった。其大工のめかけとやらが子供と棲んで居た。此れで我慢するかな、彼は斯く思いつゝ帰った。
 石山氏はます/\乗地になって頻に所決を促す。江州からはたよりが無い。財布は日に/\軽くなる。彼は到頭粕谷の地所にきめて、手金を渡した。
 手金を渡すと、今度は彼があせり出した。万障ばんしょう一排いっぱいして二月二十七日を都落みやこおちの日と定め、其前日二十六日に、彼等夫婦は若い娘を二人連れ、草箒くさぼうき雑巾ぞうきんとバケツを持って、東京から掃除そうじに往った。案外道が遠かったので、娘等は大分弱った。雲雀ひばりの歌がわずかに一同の心を慰めた。
 来て見ると、前日中に明け渡す約束なのに、先住せんじゅうの人々はまだ仕舞しまいかねて、最後の荷車に物を積んで居た。以前石山君の壮士そうしをしたと云う家主やぬしの大工とも挨拶あいさつを交換した。其妾と云うかみみだした女は、都の女等をくさげににらんで居た。彼等は先住の出で去るを待って、畑の枯草の上にいこうた。小さな墓場一つ隔てた東隣ひがしどなりの石山氏の親類だと云ううちのおかみが、むしろを二枚貸してくれ、土瓶の茶や漬物のどんぶりを持て来てくれたので、彼等は莚の上にすわって、持参の握飯を食うた。
 十五六の唖に荷車をかして、出る人々はよう/\出て往った。待ちかねた彼等は立上って掃除に向った。引越しあとの空家あきやは総じて立派なものでは無いが、彼等はわがものになったうちのあまりの不潔に胸をついた。腐れかけた麦藁屋根むぎわらやね、ぼろ/\くずれ落ちる荒壁、小供の尿いばりみた古畳ふるだたみが六枚、茶色にすすけた破れ唐紙が二枚、はえたまごのへばりついた六畳一間の天井と、土間の崩れた一つへっついと、糞壺くそつぼの糞と、おはぐろ色したどぶ汚水おすいと、其外あらゆる塵芥ごみを残して、先住は出て往った。掃除の手をつけようもない。女連は長い顔をして居る。彼は憤然ふんぜんとして竹箒押取り、下駄ばきのまゝゆかの上に飛び上り、ヤケに塵の雲を立てはじめた。女連も是非なく手拭てぬぐいかぶって、たすきをかけた。
 二月の日は短い。掃除半途に日が入りかけた。あとは石山氏に頼んで、彼等は匆惶そそくさと帰途に就いた。今日きょうも甲州街道に馬車が無く、重たい足を曳きずり/\ようやく新宿に辿たどり着いた時は、女連はへと/\になって居た。

       二

 明くれば明治四十年二月二十七日。ソヨとの風も無い二月には珍らしい美日びじつであった。
 村から来てもらった三台の荷馬車と、厚意で来てくれた耶蘇教信者仲間の石山氏、角田新五郎氏、臼田うすだ氏、角田勘五郎氏の息子、以上四台の荷車に荷物をのせて、午食ひる過ぎに送り出した。荷物の大部分は書物と植木であった。彼は園芸えんげいが好きで、原宿五年の生活に、借家しゃくやに住みながら鉢物も地植のものも可なり有って居た。大部分は残して置いたが、其れでも原宿から高樹町へ持て来たものは少くはなかった。其等は皆持て行くことにした。荷車の諸君が斯様なものを、と笑った栗、株立かぶだちはんの木まで、駄々をねて車に積んでもろうた。宰領さいりょうには、原宿住居の間よく仕事に来た善良ぜんりょうな小男の三吉と云うのを頼んだ。
 加勢に来た青年と、昨日粕谷に掃除に往った娘とは、おの/\告別して出て往った。暫く逗留して居た先の女中も、大きな風呂敷包を負って出て往った。隣に住む家主は、病院で重態であった。其細君さいくんは自宅から病院へ往ったり来たりして居た。甚だ心ないわざながら、彼等は細君にわかれを告げねばならなかった。別を告げて、門を出て見ると、門には早や貸家札かしやふだが張られてあった。
 彼等夫妻は、当分加勢に来てくれると云う女中を連れ、手々に手廻てまわりのものや、ランプを持って、新宿まで電車、それから初めて調布行きの馬車に乗って、甲州街道を一時間余ガタくり、馭者ぎょしゃに教えてもらって、上高井戸かみたかいど山谷さんやで下りた。
 粕谷田圃に出る頃、大きな夕日ゆうひが富士の方に入りかゝって、武蔵野一円金色こんじきの光明をびた。都落ちの一行三人は、長いかげいて新しい住家すみかの方へ田圃を歩いた。遙向うの青山街道にくるまきしおとがするのを見れば、先発の荷馬車が今まさに来つゝあるのであった。人と荷物は両花道りょうはなみちから草葺の孤屋ひとつやに乗り込んだ。
 昨日きのう掃除しかけて帰った家には、石山氏に頼んで置いたへり無しの新畳が、六畳二室に敷かれて、流石に人間の住居らしくなって居た。昨日頼んで置いたので、先家主の大工だいくが、六畳裏の蛇でものたくりそうな屋根裏やねうらを隠す可く粗末な天井を張って居た。
 日の暮れ/″\に手車てぐるまの諸君も着いた。道具どうぐの大部分は土間に、残りは外にんで、荷車荷馬車の諸君は茶一杯飲んで帰って行った。兎も角もランプをつけて、東京からおはちごと持参じさんの冷飯で夕餐ゆうげを済まし、彼等夫妻は西の六畳に、女中と三吉は頭合せに次の六畳に寝た。
 明治の初年、薩摩近い故郷こきょうから熊本に引出で、一時寄寓きぐうして居た親戚の家から父が買った大きな草葺のあばら家に移った時、八歳の兄は「破れ家でも吾家わがいえが好い」と喜んで踊ったそうである。
 生れて四十年、一たんの土と十五坪の草葺のあばらぬしになり得た彼は、正に帝王ていおうの気もちで、楽々らくらくと足踏み伸ばして寝たのであった。


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     村入

 引越の翌日は、昨日の温和に引易えて、早速さっそく田園生活の決心を試すかの様な烈しいからッ風であった。三吉は植木うえきを植えて了うて、「到底一年とは辛抱しんぼうなさるまい」と女中にささやいて帰って往った。昨日荷車をいた諸君が、今日も来て井戸をさらえてくれた。家主の彼は、半紙二帖、貰物もらいものの干物少々持って、近所四五軒に挨拶にまわった。其翌日は、石山氏の息子の案内で、一昨、昨両日骨折ってくれられた諸君の家を歴訪して、心ばかりの礼を述べた。臼田君の家は下祖師ヶ谷で、小学校に遠からず、りょう角田君つのだくんは大分離れて上祖師ヶ谷に二軒隣り合い、石山氏の家と彼自身のうちは粕谷にあった。何れも千歳村の内ながら、水の流るゝ田圃たんぼりたり、富士大山から甲武連山こうぶれんざんを色々に見る原に上ったり、霜解しもどけの里道を往っては江戸みちと彫った古い路しるべの石の立つ街道を横ぎり、かしけやきの村から麦畑、寺の門から村役場前と、廻れば一里もあるかと思われた。千歳村は以上三のあざの外、船橋ふなばし廻沢めぐりさわ八幡山はちまんやま烏山からすやま給田きゅうでんの五字を有ち、最後の二つは甲州街道にい、余は何れも街道の南北一里余の間にあり、粕谷が丁度中央で、一番戸数の多いが烏山二百余戸、一番少ないのが八幡山十九軒、次は粕谷の二十六軒、余は大抵五六十戸だと、最早もうそろ/\小学の高等科になる石山氏の息子むすこが教えてくれた。
 期日は三月一日、一月おくれで年中行事をする此村では二月一日、稲荷講いなりこうの当日である。礼廻りから帰った彼は、村の仲間入すべく紋付羽織にあらためて、午後石山氏にいて当日の会場たる下田氏の家に往った。
 其家は彼の家から石山氏の宅に往く中途で、小高いどてを流るゝ品川堀しながわぼりと云う玉川浄水の小さな分派わかれに沿うて居た。村会議員も勤むるうちで、会場は蚕室さんしつの階下であった。千歳村でも戸毎にかいこは飼いながら、蚕室を有つ家は指を屈する程しか無い。板の間に薄べりいて、大きな欅の根株ねっこの火鉢が出て居る。十五六人も寄って居た。石山氏が、
「これは今度東京からされて仲間に入れておもらい申してァと申されます何某なにがしさんで」
紹介しょうかいする。其尾について、彼は両手りょうてをついて鄭重ていちょうにお辞儀じぎをする。皆が一人□□ひとりひとり来ては挨拶する。石山氏の注意で、樽代たるだい壱円仲間入のシルシまでに包んだので、皆がかわる/″\みやげのれいを云う。粕谷は二十六軒しかないから、東京から来て仲間にはいってくれるのは喜ばしいと云う意を繰り返し諸君が述べる。会衆中でただ一人チョンまげに結ったれぼったいまぶたをした大きなじいさんが「これははァ御先生様ごせんせいさま」と挨拶した。
 やがてニコ/\笑って居る恵比須顔えびすがおの六十ばかりの爺さんが来た。石山氏は彼を爺さんに紹介して、組頭の浜田さんであると彼に告げた。彼は又もや両手をついて、何も分からぬ者ですからよろしく、と挨拶する。
 二十五六人も寄った。これで人数は揃ったのである。煙草たばこけむり。話声。彼真新しい欅の根株の火鉢を頻に撫でて色々に評価する手合てあいもある。米の値段の話から、六十近いちいさい真黒な剽軽ひょうきんな爺さんが、若かった頃米がやすかったことを話して、
わしおまえは六合の米よ、早くイッショ(一緒いっしょ、一しょう)になれば好い」
 なんか歌ったもンだ、と中音ちゅうおんふしをつけて歌い且話して居る。
 腰の腫物はれもので座蒲団も無い板敷の長座は苦痛くつうの石山氏の注意で、雑談会ざつだんかいはやおら相談会に移った。慰兵会の出金問題しゅっきんもんだい、此は隣字から徴兵ちょうへいに出る時、此字から寸志を出す可きや否の問題である。馬鹿々々しいから出すまいと云う者もあったが、然し出して置かねば、此方から徴兵に出る時も貰う訳に行かぬから、結局出すと云う事に決する。
 其れから衛生委員えいせいいいんの選挙、消防長の選挙がある。テーブルが持ち出される。茶盆ちゃぼんで集めた投票とうひょうを、咽仏のどぼとけの大きいジャ/\ごえの仁左衛門さんと、むッつり顔の敬吉けいきちさんと立って投票の結果を披露ひろうする。彼が組頭の爺さんが、せがれは足がわるいから消防長はつとまらぬと辞退するのを、皆が寄ってたかって無理やりに納得なっとくさす。
 此れで事務はあらかた終った。これからは肝心かんじん飲食のみくいとなるのだが、新村入しんむらいりの彼は引越早々まだ荷も解かぬ始末しまつなので、一座いちざに挨拶し、勝手元に働いて居る若い人だちとおながら目礼して引揚げた。

           *

 日ならずして彼は原籍地げんせきち肥後国葦北郡水俣から戸籍を東京府北多摩郡千歳村字粕谷に移した。子供の頃、自分は士族だと威張いばって居た。戸籍を見れば、平民とある。彼は一時同姓の家に兵隊養子に往って居たので、何時の間にか平民となって居た。それを知らなかったのである。吾れからてぬきに、向うからさっさと片づけてもらうのは、魯智深ろちしんひげではないが、ちと惜しい気もちがせぬでもなかった。兎に角彼は最早浪人ろうにんでは無い。無宿者でも無い。天下晴れて東京府北多摩郡千歳村字粕谷の忠良なる平民何某となったのである。


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     水汲み

 玉川に遠いのが第一の失望で、いどの水の悪いのが差当っての苦痛であった。
 井は勝手口かってぐちから唯六歩、ぼろ/\に腐った麦藁屋根むぎわらやねが通路と井をおおうて居る。上窄うえすぼまりになったおけ井筒いづつ、鉄のくるまは少しけてよく綱がはずれ、釣瓶つるべは一方しか無いので、釣瓶縄つるべなわの一端を屋根の柱にわえてある。汲み上げた水が恐ろしく泥臭いのも尤、いかりを下ろして見たら、渇水かっすいの折からでもあろうが、水深すいしんが一尺とはなかった。
 移転の翌日、信者仲間の人達が来て井浚いどさらえをやってくれた。鍋蓋なべぶた古手拭ふるてぬぐい、茶碗のかけ、色々の物ががって来て、底は清潔になり、水量も多少は増したが、依然たる赤土水のにごり水で、如何に無頓着の彼でもがぶ/\飲む気になれなかった。近隣の水を当座とうざもらって使ったが、何れも似寄によった赤土水である。墓向うの家の水を貰いに往った女中が、井をのぞいたらごみだらけ虫だらけでございます、と顔をしかめて帰って来た。其向う隣の家に往ったら、其処そこの息子が、このうちの水はそれは好い水で、演習行軍に来る兵隊なぞもほめて飲む、と得意になって吹聴したが、其れは赤子の時から飲み馴れたせいで、大した水でもなかった。
 使い水は兎に角、飲料水いんりょうすいだけは他に求めねばならぬ。
 うちから五丁程西に当って、品川堀と云う小さな流水ながれがある。玉川上水たまがわじょうすいの分派で、品川方面の灌漑専用かんがいせんようの水だが、附近の村人は朝々顔も洗えば、襁褓おしめの洗濯もする、肥桶も洗う。ァに玉川の水だ、朝早くさえ汲めば汚ない事があるものかと、男役に彼は水汲みずくむ役を引受けた。起きぬけに、手桶ておけと大きなバケツとを両手に提げて、霜をんで流れに行く。顔を洗う。腰膚ぬいで冷水摩擦まさつをやる。日露戦争の余炎がまださめぬ頃で、めん籠手こてかついで朝稽古から帰って来る村の若者が「冷たいでしょう」と挨拶することもあった。摩擦を終って、はだを入れ、手桶とバケツとをずンぶり流れに浸して満々なみなみと水を汲み上げると、ぐいと両手に提げて、最初一丁が程は一気に小走りに急いで行く。こらえかねて下ろす。腰而下の着物はずぶ濡れになって、水は七に減って居る。其れから半丁に一休ひとやすみ、また半丁に一憩ひといこい、家を目がけて幾休みして、やっと勝手に持ち込む頃は、水は六分にも五分にも減って居る。両腕はまさにける様だ。斯くして持ち込まれた水は、細君さいくん女中じょちゅうによって金漿きんしょう玉露ぎょくろおしみ/\使われる。
 余り腕が痛いので、東京に出たついでに、渋谷の道玄坂どうげんざか天秤棒てんびんぼうを買って来た。丁度ちょうど股引ももひきしりからげ天秤棒を肩にした姿を山路愛山君に見られ、理想を実行すると笑止しょうしな顔で笑われた。買ってもどった天秤棒で、早速翌朝から手桶とバケツとを振り分けににのうて、汐汲しおくみならぬ髯男の水汲と出かけた。両手に提げるより幾何いくらましだが、使い馴れぬ肩と腰が思う様に言う事を聴いてくれぬ。天秤棒に肩を入れ、えいやっと立てば、腰がフラ/\する。膝はぎくりとれそうに、体は顛倒ひっくりかえりそうになる。うんと足を踏みしめると、天秤棒が遠慮会釈もなく肩を圧しつけ、五尺何寸其まゝ大地に釘づけの姿だ。思い切って蹌踉ひょろひょろとよろけ出す。十五六歩よろけると、息が詰まる様で、たまりかねてろす。尻餅く様に、捨てる様に下ろす。下ろすのではない、荷が下りるのである。どうと云うはずみに大切の水がぱっとこぼれる。下ろすのも厄介だが、またかつぎ上げるのが骨だ。路の二丁も担いで来ると、雪を欺く霜の朝でも、汗が満身に流れる。鼻息は暴風あらしの如く、心臓は早鐘をたゝく様に、脊髄せきずいから後頭部にかけ強直症きょうちょくしょうにかゝった様に一種異様の熱気ねつけがさす。眼が真暗になる。頭がぐら/\する。勝手もとに荷を下ろしたのちは、失神した様に暫くは物も言われぬ。
 早速右の肩がこぶの様にれ上がる。明くる日は左の肩を使う。左は勝手かってが悪いが、痛い右よりまだましと、左を使う。直ぐ左の肩が腫れる。両肩りょうかた腫瘤こぶで人間の駱駝が出来る。両方の肩に腫れられては、明日あすは何で担ごうやら。夢の中にも肩が痛い。また水汲みかと思うと、くるのが恨めしい。妻が見かねて小さな肩蒲団を作ってくれた。天秤棒てんびんぼうの下にはさんで出かける。少しは楽だが、矢張苦しい。田園生活もこれではやりきれぬ。全体ぜんたい誰に頼まれた訳でもなく、誰めてくれる訳でもなく、何を苦しんで斯様こんなことをするのか、と内々愚痴ぐちをこぼしつゝ、必要に迫られては渋面じゅうめん作って朝々通う。度重たびかさなれば、次第しだいに馴れて、肩の痛みも痛いながらに固まり、肩腰に多少ちから出来でき、調子がとれてあまり水をこぼさぬ様になる。今日きょうは八分だ、今日は九分だ、と成績せいせきの進むが一のたのしみになる。
 然しいつまで川水を汲んでばかりも居られぬので、一月ばかりして大仕掛おおじかけ井浚いどさらえをすることにした。赤土あかつちからヘナ、ヘナから砂利じゃりと、一じょうも掘って、無色透明無臭而して無味の水が出た。奇麗にさらってしまって、井筒にもたれ、井底せいてい深く二つ三つの涌き口から潺々せんせん清水しみずの湧く音を聴いた時、最早もう水汲みの難行苦行なんぎょうくぎょうあとになったことを、うれしくもまた残惜しくも思った。


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     憶出のかず/\

       一

 いて来た女中は、半月手伝って東京へ帰った。あとは水入らずの二人きりで、田園生活が真剣にはじまった。
 意気地の無い亭主に連添つれそうお蔭で、彼の妻は女中無しの貧乏世帯びんぼうじょたいは可なり持馴れた。自然が好きな彼女には、田園生活必しも苦痛ばかりではなかった。唯潔癖な彼女は周囲の不潔に一方ひとかたならずなやまされた。一番近いとなりが墓地に雑木林ぞうきばやし、生きた人間の隣は近い所で小一丁も離れて居る。引越早々所要あって尋ねて来た老年の叔母おばは「若い女なぞ、一人で留守るすは出来ない所ですねえ」と云った。それでも彼の妻は唯一人留守せねばならぬ場合もあった。墓地の向う隣に、今は潰れたが、其頃博徒のがあって、破落戸漢ならずものが多く出入した。一夜家をあけてあくる夕帰った彼は、雨戸の外に「今晩は」と、ざれた男の声を聞いた。「今晩は」と彼が答えた。雨戸の外の男は昨日主が留守であったことを知って居たが、先刻さっき帰ったことを知らなかったのである。大にドキマギした容子ようすであったが、調子を更えて「宮前みやまえのお広さん処へは如何どう参るのです?」と胡魔化した。宮前のお広さん処は、始終諸君が入りびたる其賭博とばくの巣なのである。主の彼は可笑しさをこらえ、素知らぬふりして、宮前のお広さん処へは、其処の墓地にうて、ずッとって、と馬鹿叮嚀ばかていねいに教えてやった。「へえ、ありがとうございます」と云って、舌でも出したらしい気はいであった。門戸もんこあけっぱなしで、人近く自然に近く生活すると、色々の薄気味わるい経験もした。ある時彼が縁に背向そむけて読書して居ると、うしろどうと物が落ちた。彼はふりかえって大きな青大将あおだいしょうを見た。きっぱなしの屋根裏の竹にからんでからを脱ぐ拍子に滑り落ちたのである。今一尺縁へ出て居たら、まさしく彼が頭上に蛇がるところであった。
 人烟稀薄な武蔵野むさしのは、桜が咲いてもまだ中々寒かった。中塗なかぬりもせぬ荒壁はほしいままに崩れ落ち、床の下は吹き通し、唐紙障子からかみしょうじも足らぬがちの家の内は、火鉢の火位で寒さは防げなかった。農家の冬は大きないのちである。農家の屋内生活に属する一切の趣味は炉辺に群がると云っても好い。炉の焚火たきび自在じざいの鍋は、彼が田園生活のおもなる誘因ゆういんであった。然し彼が吾有にした十五坪の此草舎には、小さな炉は一坪足らぬ板の間に切ってあったが、周囲あたりせまくて三人とはすわれなかった。加之しかも其処は破れ壁から北風が吹き通し、屋根が低い割に炉が高くて、さかんな焚火は火事を覚悟しなければならなかった。彼は一月ひとつきばかりして面白くないこのかたばかりの炉を見捨てた。先家主の大工や他の人に頼み、代々木新町の古道具屋ふるどうぐやで建具の古物を追々に二枚三枚と買ってもらい、肥車こえぐるまの上荷にして持て来てもろうて、無理やりにはめた。次の六畳の天井は、煤埃すすほこりにまみれた古葭簀ふるよしずで、くされ屋根から雨がると、黄ろいしずくがぼて/\畳に落ちた。屋根屋に頼んで一度ならず繕うても、たらいやバケツ、古新聞、あらん限りの雨うけを畳の上に並べねばならぬ時があった。驚いたのは風である。三本の大きなはりがねで家をかしの木にしばりつけてあるので、風当かぜあたりがひどかろうとは覚悟して居たが、実際吹かれて見て驚いた。西南は右の樫以外一本の木もない吹きはらしなので、南風西風は用捨ようしゃもなくウナリをうってぶつかる。はりがねにしばられながら、小さな家はおびえる様に身震いする。富士川の瀬を越す舟底の様にゆかおどる。それに樫の直ぐ下まで一面いちめん麦畑むぎばたけである。武蔵野固有の文言通もんごんどおり吹けば飛ぶ軽い土が、それ吹くと云えば直ぐ茶褐色の雲を立てゝ舞い込む。彼は前年蘇士スエズ運河の船中で、船房の中まで舞い込む砂あらしに駭いたことがある。武蔵野の土あらしも、やわかおとる可き。遠方から見れば火事の煙。寄って来る日は、眼鼻口はもとより、押入おしいれ箪笥たんす抽斗ひきだしの中まで会釈えしゃくもなく舞い込み、歩けば畳に白く足跡がつく。取りも直さず畑が家内やうちに引越すのである。
都をば塵の都といとひしに
    田舎も土の田舎なりけり
 あまり吹かれていさゝかヤケになった彼が名歌である。風が吹く、土が飛ぶ、霜がえる、水が荒い。四拍子そろって、妻の手足は直ぐひび、霜やけ、あかぎれに飾られる。オリーヴやリスリンをった位では、血が止まらぬ。主人の足裏あしうらさめあごの様に幾重いくえひだをなして口をあいた。あまり手荒てあらい攻撃に、虎伏す野辺までもといて来た糟糠そうこう御台所みだいどころも、ぽろ/\涙をこぼす日があった。以前の比較的ノンキな東京生活を知って居る娘などが逗留とうりゅうに来て見ては、零落れいらくと思ったのであろ、台所のすみで茶碗を洗いかけてしく/\泣いたものだ。

       二

 主人は新鋭の気に満ちて、零落どころか大得意であった。何よりも先ず宮益みやますの興農園からの長い作切鍬、手斧鍬ちょうなぐわ、ホー、ハァト形のワーレンホー、レーキ、シャヴル、草苅鎌、柴苅鎌しばかりがまなど百姓の武器と、園芸書類えんげいしょるい六韜三略りくとうさんりゃくと、種子となえとを仕入れた。一反五の内、宅地、杉林、櫟林を除いて正味一反余の耕地には、大麦小麦が一ぱいで、空地あきちと云っては畑の中程にせこけた桑樹と枯れかや枯れ草の生えたわずか一畝に足らぬ位のものであった。彼は仕事の手はじめに早速其草を除き、重い作切鍬よりも軽いハイカラなワーレンホーで無造作にうねを作って、原肥無し季節御構いなしの人蔘にんじん二十日大根はつかだいこんなどくのを、近所の若い者は東京流の百姓は彼様ああするのかと眼をみはってながめて居た。作ってある麦は、墓の向うの所謂いわゆる賭博とばくの宿の麦であった。彼は其一部を買って、邪魔じゃまになる部分はドシ/\青麦をぬいてしまい、果物好きだけに何よりも先ず水蜜桃を植えた。通りかゝりの百姓衆ひゃくしょうしゅうに、棕櫚縄しゅろなわ蠅頭はえがしらに結ぶ事を教わって、畑中に透籬すいがきを結い、風よけの生籬いけがきにす可く之にうて杉苗を植えた。無論必要もあったが、一は面白味から彼はあらゆる雑役ぞうえきをした。あらゆる不便と労力とを歓迎した。家から十丁程はなれた塚戸つかどの米屋が新村入を聞きつけて、半紙一帖持って御用聞ごようききに来た時、彼はやっと逃げ出した東京が早や先き廻りして居たかとばかりウンザリしてはなはだ不興気ふきょうげな顔をした。
 手脚を少し動かすと一廉いっかど勉強した様で、汚ないものでも扱うと一廉謙遜になった様で、無造作に応対をすると一廉人を愛するかの様で、酒こそ飲まね新生活の一盃機嫌いっぱいきげんで彼はさま/″\の可笑味を真顔でやってのけた。東京に居た頃から、園芸好きで、糞尿を扱う事は珍らしくもなかったが、村入しては好んで肥桶をかついだ。最初はよくカラカフス無しの洋服を着て、小豆革あずきかわの帯をしめた。斯革の帯は、先年神田の十文字商会で六連発の短銃を買った時手に入れた弾帯で、短銃其ものは明治三十八年の十二月日露戦役果て、満洲軍総司令部凱旋の祝砲を聞きつゝ、今後は断じて護身の武器を帯びずと心に誓って、庭石にあてゝ鉄槌でさん/″\に打破うちこわしてしまったが、帯だけは罪が無いとあって今に残って居るのであった。洋服にも履歴がある。そも此洋服は、明治三十六年日蔭町で七円で買った白っぽい綿セルの背広せびろで、北海道にも此れで行き、富士ふじで死にかけた時も此れで上り、パレスチナから露西亜ろしあへも此れで往って、トルストイの家でも持参じさんあわせと此洋服を更代こうたいに着たものだ。西伯利亜鉄道シベリアてつどうの汽車の中で、此一張羅の洋服を脱いだり着たりするたびに、流石さすが無頓着むとんちゃくな同室の露西亜の大尉も技師も、眼をまるく鼻の下を長くして見て居た歴史つきの代物しろものである。此洋服を着て甲州街道で新に買った肥桶を青竹あおだけで担いで帰って来ると、八幡様に寄合をして居た村のしゅうがドッと笑った。引越後ひっこしごもなく雪の日に老年の叔母が東京から尋ねて来た。其帰りにあまり路がわるいので、矢張此洋服で甲州こうしゅう街道かいどうまで車の後押しをして行くと、小供が見つけてわい/\はやし立てた。よく笑わるゝ洋服である。此洋服で、鍔広つばびろの麦藁帽をかぶって、塚戸にを買いに往ったら、小学校じゅうの子供が門口に押し合うて不思議な現象を眺めて居た。彼の好物こうぶつの中に、雪花菜汁おからじるがある。此洋服着て、味噌漉みそこし持って、村の豆腐屋に五厘のおからを買いに往った時は、流石ごうの者も髯と眼鏡めがねと洋服に対していさゝかきまりが悪かった。引越し当座は、村の者も東京人とうきょうじんめずらしいので、妻なぞ出かけると、女子供おんなこどもが、
「おっかあ、粕谷の仙ちゃんのおめかけの居たうちに越して来た東京のおかみさんがとおるから、出て来て見なァよゥ」
と、すばらしい長文句でわめき立てゝ大騒おおさわぎしたものだ。
 東京客が沢山たくさん来た。新聞雑誌の記者がよく田園生活の種取たねとりに来た。遠足半分えんそくはんぶんの学生も来た。演説依頼の紳士しんしも来た。労働最中に洋服でも着た立派な東京紳士が来ると、彼は頗得意であった。村人の居合わす処で其紳士が丁寧に挨拶あいさつでもすると、彼はます/\得意であった。彼は好んで斯様な都の客にブッキラ棒の剣突けんつくわした。芝居気しばいげ衒気げんきも彼には沢山にあった。華美はでの中に華美を得ぬ彼は渋い中に華美をやった。彼は自己の為に田園生活をやって居るのか、そもそもまた人の為に田園生活の芝居をやって居るのか、分からぬ日があった。ちいさな草屋のぬれえんに立って、田圃たんぼを見渡す時、彼は本郷座ほんごうざの舞台から桟敷や土間を見渡す様な気がして、ふッとき出す事さえもあった。彼は一時片時も吾を忘れ得なかった。趣味から道楽から百姓をする彼は、自己の天職が見ることと感ずる事と而して其れを報告するにあることを須臾しゅゆも忘れ得なかった。彼の家から西へ四里、府中町ふちゅうまちへ買った地所と家作の登記とうきに往った帰途、同伴の石山氏が彼をさそうて調布町のもと耶蘇教信者の家に寄った。爺さんが出て来て種々雑談の末、石山氏が彼を紹介しょうかいして今度村の者になったと云うたら、爺さん熟々つくづく彼の顔を見て、田舎住居も好いが、さァ如何どうして暮したもんかな、役場の書記と云ったって滅多めった欠員けついんがあるじゃなし、要するに村の信者の厄介者だと云う様な事を云った。そこで彼はぐっとしゃくさわり、う見えても憚りながら文字の社会ではちっとは名を知られた男だ、其様な喰詰くいつめ者と同じには見て貰うまい、と腹の中ではおおい啖呵たんかを切ったが、虫を殺して彼はうつむいて居た。家が日あたりが好いので、先の大工の妾時代から遊び場所にして居た習慣から、休日には若い者や女子供が珍らしがってよく遊びに来た。妻が女児の一人にそのうちをきいたら、小さな彼女は胸を突出し傲然ごうぜんとして「大尽だいじんさんのうちだよゥ」と答えた。要するに彼等はかろうじて大工の妾のふる巣にもぐり込んだ東京の喰いつめ者と多くの人に思われて居た。実際彼等は如何様どんな威張いばっても、東京の喰詰者であった。ただ字を書く事は重宝がられて、彼も妻もよく手紙の代筆をして、沢庵たくわんの二三本、小松菜の一二礼にもらっては、真実感謝して受けたものだ。彼はしば/\英語の教師たる可く要求された。妻は裁縫さいほうの師匠をやれと勧められた。自身じしん上州じょうしゅうの糸屋から此村の農家にとついで来たばあさんは、己が経験から一方ならず新参のデモ百姓に同情し、種子をくれたり、野菜をくれたり、桑があるから養蚕ようさんをしろの、何の角のと親切に世話をやいた。

       三

 東京へはよく出た。最初一年が間は、甲州こうしゅう街道かいどうに人力車があることすら知らなかった。調布新宿間の馬車に乗るすらまれであった。彼等が千歳村ちとせむらに越して間もなく、玉川電鉄は渋谷しぶやから玉川まで開通したが、彼等は其れすら利用することが稀であった。田舎者は田舎者らしく徒歩主義とほしゅぎを執らねばならぬと考えた。彼も妻も低い下駄、草鞋わらじ、ある時は高足駄たかあしだをはいて三里の路を往復した。しば/\暁かけて握飯食い/\出かけ、ブラ提灯を便たよりによるおそく帰ったりした。まるうち三菱みつびしが原で、大きな煉瓦の建物を前に、草原くさはらに足投げ出して、悠々ゆうゆうと握飯食った時、彼は実際好い気もちであった。彼は好んで田舎を東京にひけらかした。何時いつも着のみ着のまゝで東京に出た。一貫目余のたけのこを二本になって往ったり、よく野茨の花や、白いエゴの花、野菊や花薄はなすすきを道々折っては、親類へのみやげにした。親類の女子供も、稀に遊びに来ては甘藷いもを洗ったり、外竈そとへっついいて見たり、実地の飯事ままごとを面白がったが、然し東京の玄関げんかんから下駄ばきで尻からげ、やっとこさに荷物脊負せおうて立出る田舎の叔父の姿を見送っては、みやこ子女しじょとして至って平民的な彼等も流石にはずかしそうな笑止しょうしな顔をした。
 彼は田舎を都にひけらかすと共に、東京を田舎にひけらかす前に先ず田舎を田舎にひけらかした。彼は一切いっさいつのを隠して、周囲に同化す可くつとめた。彼はあらゆる村の集会しゅうかいに出た。諸君が廉酒やすざけを飲む時、彼はさかなの沢庵をつまんだ。葬式に出ては、「諸行無常」の旗持をした。月番つきばんになっては、慰兵会費を一銭ずつ集めて廻って、自身役場に持参じさんした。村の耶蘇教会にも日曜毎にちようごとに参詣して、彼が村入して程なくまねかれて来た耳の遠い牧師の説教せっきょうを聴いた。荷車を借りて甲州街道に竹買いに行き、椎蕈ムロをこしらえると云っては屋根屋の手伝をしたりした。都の客に剣突けんつくわすことはある共、田舎の客に相手あいてにならぬことはなかった。たれにでもヒョコ/\頭を下げ、いざとなれば尻軽しりがるに走り廻った。牛にひかれた妻も、外竈そとへっついの前に炭俵を敷いて座りながら、かき集めた落葉で麦をたき/\読書をしたりして「大分だいぶはなせる」と良人にほめられた。
 玉川に遠いのがいつも繰り返えされる失望であったが、井水がんだのでいさゝか慰めた。農家は毎夜風呂を立てる。彼等も成る可く立てた。最初寒い内は土間に立てた。水をかい込むのが面倒で、一週間もかしてははいり沸かしては入りした。五日目位からは銭湯の仕舞湯以上に臭くなり、風呂の底がぬる/\になった。それでも入らぬよりましと笑って、我慢がまんして入った。夏になってから外で立てた。いども近くなったので、水は日毎に新にした。青天井あおてんじょうの下の風呂は全く爽々せいせいして好い。「行水ぎょうずいの捨て処なし虫の声」虫のに囲まれて、月を見ながら悠々と風呂につかる時、彼等は田園生活を祝した。時々雨がり出すと、傘をさして入ったり、海水帽をかぶって入ったりした。夏休なつやすみに逗留に来て居る娘なども、キャッ/\笑いきょうじて傘風呂からかさぶろに入った。

       四

 彼等が東京から越して来た時、麦はまだ六七寸、雲雀の歌も渋りがちで、赤裸な雑木林のこずえから真白まっしろな富士を見て居た武蔵野むさしのは、裸から若葉、若葉から青葉、青葉から五彩美しい秋の錦となり、移り変る自然の面影は、其日□□其月□□の趣を、初めて落着いて田舎に住む彼等の眼の前に巻物まきものの如くのべて見せた。彼等は周囲あたりの自然と人とに次第に親しみつゝ、一方には近づく冬を気構えて、取りあえず能うだけの防寒設備をはじめた。東と北に一間の下屋げやをかけて、物置、女中部屋、薪小屋、食堂用の板敷とし、外に小さな浴室よくしつて、井筒いづつも栗の木の四角な井桁いげたえることにした。畑も一たん程買いたした。観賞樹木も家不相応に植え込んだ。夏から秋の暮にかけて、間歇的かんけつてきだが、小婢こおんなも来た。十月の末、八十六の父と七十九の母とが不肖児の田舎住居を見に来た時、其前日夫妻で唖の少年を相手に立てた皮つきのまゝの栗の木の門柱は、心ばかりの歓迎門として父母を迎えた。而してタヽキは出来て居なかったが、丁度彼の誕生日の十月二十五日に浴室の使用初つかいぞめをして、「日々新」と父がその板壁いたかべに書いてくれた。
 斯くて千歳村ちとせむらの一年は、馬車馬の走るように、さっさと過ぎた。今更いまさらの様だが、愉快は努力に、生命は希望にある。幸福は心の貧しきにある。感謝は物の乏しきにある。例令たとえこの創業そうぎょうの一年が、稚気乃至多少の衒気げんきを帯びた浅瀬の波の深い意味もない空躁からさわぎの一年であったとするも、彼はなお彼を此生活に導いた大能の手を感謝せずには居られぬ。
 彼は生年四十にして初めて大地に脚を立てゝ人間の生活をなし始めたのである。


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   草葉のささやき

     二百円

 かしの実が一つぽとりと落ちた。其かすかな響が消えぬうちに、と入って縁先に立った者がある。小鼻こばな疵痕きずあとの白く光った三十未満の男。駒下駄に縞物しまものずくめの小商人こあきんどと云う服装なり。眉から眼にかけて、夕立ゆうだちの空の様な真闇まっくらい顔をして居る。
わたしは是非一つ聞いていたゞきたい事があるンで」
と座に着くなり息をはずませて云った。
「私はかないに不幸な者でして……こう申上げると最早もう御分かりになりましょうが」
 最初は途切れ/\に、あとは次第に調子づいて、ちた心を傾くる様に彼は熱心に話した。
 彼は埼玉さいたまの者、養子であった。まゆ商法に失敗して、養家の身代をほとんどってしまい、其恢復の為朝鮮から安東県に渡って、材木をやった。こゝで妻子を呼び迎えて、しばらく暮らして居たが、思わしい事もないので、大連だいれんに移った。日露戦争の翌年の秋である。大連に来て好い仕事もなく、満人臭まんざくさい裏町にころがって居る内に、子供をくしてしまった。
「可愛いやつでした。五歳いつつでした、女児おんなのこでしたがね、れはよく私になずいて居ました。国に居た頃でも、私が外から帰って来る、母やかないは無愛想でしても、女児やつ阿爺とうさん、阿爺と歓迎して、帽子ぼうしをしまったり、れはよくするのです。私もまったく女児を亡くしてがっかりしてしまいました。病気は急性肺炎でしたがね、医者に駈けつけ頼むと、来ると云いながら到頭来ません。其内息を引きとってしまったンです。医者は耶蘇教信者だそうですが、私が貧乏者なんだから、それで其様そんな事をしたものでしょう。尤も医者もあとで吾子を亡くして、自分がかつて斯々の事をした、それで斯様かような罰を受けたと懺悔ざんげしたそうですがね」
 彼は暫く眼をつぶって居た。
「それから?」
「それから何時まで遊んでも居られませんから、夫婦である会社――左様、大連で一と云って二と下らぬ大きな会社と云えば大概御存じでしょう、其会社のまあ大将ですね、其大将のうちに奉公に住み込みました。なにしろ大連で一と云って二と下らぬ会社なものですから、生活なンかそりゃ贅沢ぜいたくなもンです。召使も私共夫婦の外に五六人も居ました。奥さんはい方で、私共によく眼をかけてくれました。其内奥さんは何か用事で一寸内地へ帰られました。奥さんが内地へ帰られてから、二週間程経つと、如何どうも妻の容子ようすかわって来ました。――妻ですか、何、美人なもンですか、ちっとも好くはないのです」と彼は吐き出す様に云った。
「妻の容子がドウもへんになりました。私も気をつけて見て居ると、に落ちぬ事がいくらもあるのです。主人が馬車で帰って来ます。二階で呼鈴が鳴ると、妻が白いエプロンをかけて、麦酒びいるを盆にのせて持て行くのです。私は階段下に居ます。妻が傍眼わきめに一寸私を見て、ずうと二階に上って行く。一時間も二時間も下りて来ぬことがあります。私は耳をすまして二階の物音を聞こうとしたり、そっと主人の書斎のどあの外に抜足ぬきあししてじいッと聴いたり、かぎの穴からものぞいて見ました。が、厚い厚いどあです。中は寂然ひっそりして何をて居るか分かりません。私は実に――」
 彼は泣き声になった。一つにった真黒まっくろい彼の眉はビリ/\動いた。くちびるふるえた。
「妻の眼色めいろを読もうとしても、主人の貌色かおいろに気をつけても、ただ疑念ぎねんばかりで証拠を押えることが出来ません。斯様こんな処に奉公するじゃないと幾度思ったか知れません。また其様そう妻に云ったことも一度や二度じゃありません。けれども妻は其度に腹を立てます。斯様にお世話になりながら奥様のお留守にお暇をいたゞくなんかわたしには出来ない、其様に出たければあなた一人で勝手に何処へでもおいでなさい、何処ぞへ仕事を探がしに御出おいでなさい、と突慳貪つっけんどんに云うンです。最早もう私も堪忍出来なくなりました」
「そこである日妻を無理に大連の郊外に連れ出しました。誰も居ない川原かわらです。種々と妻を詰問しましたが、如何どうしても実をきません。其れから懐中して居た短刀をぬいて、白状はくじょうするならゆるす、うそくなら命をもらうからそう思え、とかゝりますと、妻は血相を変えて、全く主人に無理されて一度済まぬ事をした、と云います。嘘を吐け、一度二度じゃあるまい、と畳みかけてめつけると、到頭とうとう悉皆すっかり白状してしまいました」
 彼はホウッと長い息をついた。
「それから私は主人に詰問の手紙を書きました。すると翌日主人が私を書斎に呼びまして『ドウも実に済まぬ事をした。主人のわしう手をついてあやまるから、何卒どうぞ内済ないさいにしてくれ。其かわり君の将来は必俺が面倒を見る。屹度きっと成功さす。これで一先ず内地に帰ってくれ』と云って、二百円、左様、手の切れるような十円さつでした、二百円呉れました」
「君は其二百円を貰ったンだね、何故なぜその短刀で其男を刺殺さなかった?」
 彼はうつむいた。
「それから?」
「それから一旦いったん内地に帰って、また大連に行きました。最早もう主人は私達に取合いません。面会もしてくれません」
そうして今は?」
「今は東京の場末ばすえに、小さな小間物屋を出して居ます」
細君さいくんは?」
「妻は一緒に居るのです」
 話は暫く絶えた。
「一緒に居ますが、面白くなくて/\、むねがむしゃくしゃして仕様しようがないものですから、それで今日こんにちは――」

           *

 忽然こつぜんと風の吹く様に来た男は、それっきり影も見せぬ。


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     百草園

 田のくろあか百合ゆりめいた萱草かんぞうの花が咲く頃の事。ある日太田君がぶらりと東京から遊びに来た。暫く話して、百草園もぐさえんにでも往って見ようか、と主人は云い出した。百草園は府中ふちゅうから遠くないと聞いて居る。府中まではざッと四里、これは熟路じゅくろである。時計を見れば十一時、ちとおそいかも知れぬが、然し夏の日永の折だ、行こう行こうと云って、早昼飯を食って出かけた。
 大麦小麦はとくにられて、畑も田も森も林も何処を見てもみどりならぬ処もない。其緑の中を一条ひとすじ白く西へ西へ山へ山へとって行く甲州街道を、二人は話しながらさッさと歩いた。太田君は紺絣こんがすりの単衣、足駄ばきで古い洋傘こうもり手挾たばさんで居る。主人の彼は例のカラカフス無しの古洋服の一張羅いっちょうらに小豆革の帯して手拭を腰にぶらさげ、麦藁の海水帽をかぶり、素足すあしえくたれた茶の運動靴をはいて居る。二人はさッさと歩いた。太田君は以前社会主義者として、主義しゅぎ宣伝せんでんの為、平民社の出版物を積んだ小車をひいて日本全国を漫遊しただけあって、中々健脚である。主人は歩くことは好きだが、足は云う甲斐もなく弱い。一日に十里も歩けば、二日目は骨である。二人は大胯おおまたに歩いた。蒸暑むしあつい日で、二人はしば/\額の汗をぬぐうた。
 府中に来た。千年の銀杏いちょうけやき、杉など欝々蒼々うつうつそうそうと茂った大国魂神社の横手から南に入って、青田の中の石ころ路を半里あまり行って、玉川たまがわかわらに出た。此辺を分倍河原ぶばいかわらと云って、新田義貞大に鎌倉かまくら北条勢ほうじょうぜいを破った古戦場である。玉川のわたしを渡って、また十丁ばかり、長堤ちょうていを築いた様に川と共に南東走する低い連山の中の唯有る小山をじて百草園に来た。もと松蓮寺の寺跡じせきで、今は横浜の某氏が別墅べっしょになって居る。境内に草葺の茶屋があって、料理宿泊も出来る。茶屋からまた一段堆丘たいきゅうを上って、大樹に日をよけた恰好かっこう観望台かんぼうだいがある。二人は其処の素床すゆか薄縁うすべりを敷いてもらって、汗を拭き、茶をのみ、菓子を食いながら眼をせた。
 東京近在で展望無双と云わるゝもうそではなかった。生憎あいにく野末の空少し薄曇うすぐもりして、筑波も野州上州の山も近い秩父ちちぶの山も東京の影も今日は見えぬが、つい足下を北西から南東へ青白く流るゝ玉川の流域から「夕立の空より広き」と云う武蔵野の平原をかけて自然を表わす濃淡の緑色と、かわらと人の手のあとの道路や家屋を示すちとの灰色とをもてえがかれた大きな鳥瞰画ちょうかんがは、手に取る様に二人が眼下にひろげられた。「なあ」二人はかわる/″\けいめた。
 やゝながめて居る内に、緑の武蔵野がすうとかげった。時計をもたぬ二人は最早もうるゝのかと思うた。蒸暑かった日は何時いつしか忘られ、水気を含んだ風が冷々と顔を撫でて来た。ると、玉川の上流、青梅あたりの空に洋墨いんき色の雲がむら/\と立って居る。
「夕立が来るかも知れん」
そう、降るかも知れんですな」
 二人は茶菓のしろを置いて、山を下りた。太田君はこれから日野の停車場に出て、汽車で帰京すると云う。日野までは一里強である。山の下で二人は手を分った。
「それじゃ」
「じゃ又」
 人家の珊瑚木さんごのき生籬いけがきを廻って太田君の後姿うしろすがたは消えた。残る一人は淋しい心になって、西北の空を横眼に見上げつゝわたしの方へ歩いて行った。川上かわかみの空に湧いて見えた黒雲は、玉川たまがわの水をうて南東に流れて来た。彼の一足毎に空はヨリくらくなった。彼は足を早めた。然し彼の足より雲の脚は尚早かった。いちみやの渡を渡って分倍河原に来た頃は、空は真黒になって、北の方で殷々□々ごろごろ雷が攻太鼓をうち出した。農家はせっせとほし麦を取り入れて居る。府中の方から来る肥料車こやしぐるまも、あと押しをつけて、曳々声えいえいごえして家の方へ急いで居る。
「太田君はの辺まで往ったろう?」
 彼は一瞬時またたくま斯く思うた。而して今にも泣き出しそうな四囲あたりの中を、黙って急いだ。
 府中へ来ると、煤色すすいろに暮れた。時間よりも寧空の黯い為に町は最早火をともして居る。早や一粒二粒夕立の先駆が落ちて来た。此処ここで夕立をやり過ごすかな、彼は一寸斯く思うたが、こゝに何時いつれるとも知らぬ雨宿りをすべく彼の心はとく四里を隔つるうちに急いで居た。彼は一の店に寄って糸経いとだてを買うてかぶった。腰に下げた手拭てぬぐいをとって、海水帽の上からしか頬被ほおかむりをした。而して最早大分こわばって来たすね踏張ふんばって、急速に歩み出した。
 府中の町を出はなれたかと思うと、おいかけて来た黒雲が彼の頭上ずじょう破裂はれつした。突然だしぬけに天の水槽たんくの底がぬけたかとばかり、雨とは云わず瀑布落たきおとしに撞々どうどうと落ちて来た。紫色の光がぱッと射す。ぐ頭上で、火薬庫が爆発した様にはげしいらいが鳴った。彼はぐっといきつまった。本能的に彼ははしり出したが、所詮此雷雨の重囲を脱けることは出来ぬと観念して、歩調をゆるめた。此あたりは、宿と村との中間で、雷雨を避くべき一軒の人家もない。人通りも絶え果てた。彼は唯一人であった。雨は少しおだれるかと思うと、また思い出した様にざあ□□ドウ□□とみなぎり落ちた。彼の頬被りした海水帽かいすいぼうから四方に小さな瀑が落ちた。糸経いとだてを被った甲斐もなく総身濡れひたりポケットにも靴にも一ぱい水がたまった。彼は水中を泳ぐ様に歩いた。紫色や桃色のいなずまがぱっ/\と一しきり闇に降る細引ほそびきような太い雨を見せて光った。ごろ/\/\かみなりがやゝ遠のいたかと思うと、意地悪く舞い戻って、おびただしい爆竹ばくちくを一度に点火した様に、ぱち/\/\彼の頭上にくだけた。長大ちょうだいな革の鞭を彼を目がけて打下ろす音かとも受取られた。そのたびに彼は思わず立竦たちすくんだ。如何どうしても落ちずにはまぬらいの鳴り様である。何時落ちるかも知れぬと最初思うた彼は、屹度きっと落ちると覚期かくごせねばならなかった。屹度彼の頭上に落ちると覚期せねばならなかった。この街道かいどうの此部分で、今動いて居る生類しょうるいは彼一人である。雷がき者に落ちるならば即ち彼の上に落ちなければならぬ。雷にうたれてぬ運命の人間が、地の此部分にあるなら、其は取りもなおさず彼でなくてはならぬ。彼は是非なく死を覚期した。彼は生命が惜しくなった。今此処から三里へだてゝ居る家の妻の顔が歴々と彼の眼に見えた。彼は電光の如く自己じこの生涯を省みた。其れはうつくしくない半生であった。妻に対する負債ふさいの数々も、緋の文字もじをもて書いた様に顕れた。彼は此まゝ雷にうたれて死んだあとに残る者の運命を考えた。「一人ひとりはとられ一人は残さるべし」と云う聖書の恐ろしい宣告が彼のあたまひらめいた。彼は反抗した。然し其反抗の無益なるを知った。雷はます/\はげしく鳴った。最早もう今度こんどは落ちた、と彼は毎々たびたび観念した。而して彼の心は却て落ついた。彼の心は一種自己に対し、妻に対し、一切の生類しょうるいに対する憐愍あわれに満された。彼の眼鏡めがねは雨の故ならずしてくもった。斯くして夕暮の街道二里を、彼は雷と共に歩いた。
 調布の町に入る頃は、雷は彼の頭上を過ぎて、東京の方に鳴った。雨も小降こぶりになり、やがて止んだ。暮れたと思うた日は、生白なまじろ夕明ゆうあかりになった。調布の町では、道の真中まんなかに五六人立って何かガヤ/\云いながらを見て居る。雷が落ちたあとであろう、煙の様なものがまだ地から立って居る。戸口に立ったかみさんが、向うのかみさんを呼びかけ、
「洗濯物取りにりゃあの雷だね、わたしゃ薪小屋まきごやに逃げ込んだきり、出よう/\と思ったけンど、如何しても出られなかったゞよ」
と云って居る。
 雷雨が過ぎて、最早大丈夫だいじょうぶと思うと、彼は急に劇しい疲労を覚えた。れた洋服の冷たさと重たさが身にこたえる。足が痛む。腹はすく。彼は重たい/\足を曳きずって、一足ずつ歩いた。滝坂近くなる頃は、永い/\夏の日もとっぶり暮れて了うた。雨は止んだが、東北の空ではまだ時々ぱッ/\と稲妻が火花を散らして居る。
 家へ六七丁のへんまで辿たどり着くと、白いものが立って居る。それはつまであった。家をあけ、犬を連れて、迎に出て居るのであった。あまりおそいので屹度先刻の雷におうたれなすったと思いました、と云う。

           *

 翌々日の新聞は、彼が其日行った玉川たまがわの少し下流で、雷が小舟に落ち、へさきに居た男はうたれて即死、而してともに居た男は無事だった、と云う事を報じた。
「一人はとられ、一人は残さるべし」の句がまた彼の頭に浮んだ。


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     月見草

 村の人になったとし、玉川のかわらからぬいて来た一本の月見草が、今はぬいて捨てる程にえた。此頃は十数株、すくなくも七八十輪宵毎よいごとに咲いて、黄昏たそがれの庭に月が落ちたかと疑われる。
 月見草は人好きのする花では無い。こと日間ひるまは昨夜の花があか凋萎しおたれて、如何にも思切りわるくだらりとみきに付いたざまは、見られたものではない。然し墨染すみぞめの夕に咲いて、あまの様に冷たく澄んだ色の黄、そのも幽に冷たくて、夏の夕にふさわしい。花弁はなびらの一つずつほぐれてぱっと開く音も聴くに面白い。独物思うそゞろあるきの黄昏に、唯一つ黙って咲いて居る此花と、はからず眼を見合わす時、誰か心跳こころおどらずに居られようぞ。月見草も亦心浅からぬ花である。
 八九歳の弱い男の子が、ある城下の郊外のうちから、川添いの砂道を小一里もある小学校に通う。途中、一方が古来こらい死刑場しおきば、一方が墓地の其中間ちゅうかんを通らねばならぬ処があった。死刑場には、不用になった黒く塗った絞台や、今も乞食が住む非人小屋があって、夕方は覚束ない火が小屋にともれ、一方の古墳こふん新墳しんふん累々るいるいと立並ぶ墓場の砂地には、初夏の頃から沢山月見草が咲いた。日間ひるま通る時、彼はつねに赭くうなれた昨宵ゆうべの花の死骸を見た。学校の帰りが晩くなると、彼は薄暗い墓場の石塔や土饅頭の蔭から黄色い眼をあいて彼をのぞく花を見た。くて月見草は、彼にとって早く死の花であった。
 其墓場の一端には、彼がおいの墓もあった。甥と云っても一つ違い、五つ六つの叔父おじ甥は常に共に遊んだ。ある時叔父は筆のじくを甥に与えて、犬の如くくわえて振れと命じた。従順な子は二度三度云わるゝまゝに振った。叔父はまた振れと迫った。甥はもういやだと頭をった。憎さげに甥をにらんだ叔父は、其筆の軸で甥のほおをぐっと突いた。甥は声を立てゝ泣いた。其甥は腹膜炎にかゝって、くる年の正月元日病院で死んだ。屠蘇とそを祝うて居る席に死のたよりがとどいた。叔父の彼は異な気もちになった。彼ははじめてかすかな Remorse を感じた。
 墓地は一方大川にめんし、一方は其大川の分流に接して居た。甥は其分流近くほうむられた。甥が死んで二三年、小学校に通う様になった叔父は、ある夏の日ざかりに、二三の友達と其小川に泳いだ。自分の甥の墓があると誇りに告げて、彼は友達を引張って、甥の墓にまいった。而して其小さな墓石の前に、真裸の友達とかわる/″\ひざまずいて、しおれた月見草の花を折って、墓前の砂にした。
 彼は今月見草の花に幼き昔を夢の様に見て居る。


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     腫物

       一

 人声がにぎやかなので、往って見ると、ひささんの家は何時いつの間にか解きくずされて、すすけたはり虫喰むしくった柱、黒光りする大黒柱、屋根裏の煤竹すすたけ、それ/″\るいを分って積まれてある。近所近在の人々が大勢寄ってたかって居る。くだん古家ふるやを買った人が、崩す其まゝ古材木を競売するので、れを買いがてら見がてら寄り集うて居るのである。一方では、まだ崩し残りの壁など崩して居る。時々壁土かべつちどうと落ちて、ぱっと汚ない煙をあげる。汚ないながらも可なり大きかった家が取り崩され、庭木にわきや境の樫木は売られて切られたり掘られたりして、其処らじゅう明るくガランとして居る。
 家族はと見れば、三坪程の木小屋に古畳ふるだたみを敷いて、眼の少し下ってあぶらぎったおかみは、例の如くだらしなく胸を開けはだけ、おはぐろのげた歯を桃色のはぐきまで見せて、買主に出すとてせっせと茶を沸かして居る。頬冠りした主人の久さんは、例の厚い下唇を突出つきだしたまゝ、吾不関焉と云う顔をして、コト/\わらを打って居る。婆さんや唖の巳代吉みよきちは本家へ帰ったとか。末の子の久三は学校へでも往ったのであろ、姿は見えぬ。
 一切の人と物との上に泣く様な糠雨ぬかあめが落ちて居る。
 あゝこのうち到頭とうとうつぶれるのだ。

       二

 今は二十何年の昔、村の口きゝ石山某に、女一人子一人あった。弟は一人前なかったので婿養子をしたが、婿むこと舅の折合が悪い為に、老夫婦としよりふうふは息子を連れて新家に出た。いまき崩されて片々ばらばらに売られつゝあるうちが即ち其れなのである。己が娘に己が貰った婿ながら、気が合わぬとなれば仇敵より憎く、老夫婦としよりふうふは家財道具万端好いものはみなひきたくる様にして持って出た。よく実る柿の木まで掘って持って往った。
 おろかな息子も年頃になったので、調布在から出もどりの女を嫁にもろうてやった。名をおひろと云って某の宮様にお乳をあげたこともある女であった。婿入むこいりの時、肝腎かんじんの婿さんが厚い下唇を突出したまま戸口もとにポカンと立って居るので、皆ドッと笑い出した。久太郎が彼の名であった。
 久さんに一人の義弟があった。久さんが生れて間もなく、村の櫟林くぬぎばやし棄児すてごがあった。農村には人手がたからである。石山の爺さんが右の棄児を引受ひきうけて育てた。棄児は大きくなって、名を稲次郎いねじろうと云った。彼の養父、久さんの実父は、一人前に足りぬ可愛の息子むすこく/\の力にもなれと、稲次郎の為に新家の近くに小さな家を建て彼にも妻をもたした。
 ある年の正月、石山の爺さんは年始に行くとうちを出たきり行方不明になった。探がし探がした結果、彼は吉祥寺きちじょうじ、境間の鉄道線路の土をとった穴の中に真裸になって死んで居た。彼は酒が好きだった。年始の酒に酔って穴の中に倒れ凍死こごえしんだのを物取りが来ていだか、それとも追剥おいはぎが殺して着物を剥いだか、死骸しがいは何も告げなかった。彼は新家の直ぐ西隣にある墓地に葬られた。
 主翁おやじが死んで、石山の新家はよめ天下てんかになった。誰もひささんのうちとは云わず、宮前のお広さんの家と云った。宮前は八幡前を謂うたのである。外交も内政も彼女の手と口とでやってのけた。彼女は相応そうおうに久さんを可愛かあいがって面倒を見てやったが、無論亭主とは思わなかった。一人前に足らぬ久さんを亭主にもったおかみは、義弟ぎてい稲次郎の子を二人までんだ。其子は兄が唖で弟が盲であった。罪の結果は恐ろしいものです、と久さんの義兄はある人に語った。其内、稲次郎は此辺で所謂即座師そくざし繭買まゆかいをして失敗し、田舎の失敗者が皆する様に東京に流れて往って、王子おうじで首をくくって死んだ。其妻は子供を連れて再縁し、其住んだ家は隣字となりあざの大工が妾の住家となった。私も棺桶をかつぎに往きましたでサ、王子まで、と久さん自身稲次郎の事を問うたある人に語った。

       三

 背後は雑木林、前は田圃たんぼ、西隣は墓地、東隣は若い頃彼自身遊んだ好人のたつじいさんの家、それから少し離れて居るので、云わば一つ家の石山の新家は内証事ないしょうごとには誂向あつらえむきの場所だった。石山の爺さんが死に、稲次郎も死んだあと、久さんのおかみは更に女一人子一人生んだ。唖と盲は稲次郎のたねと分ったが、あの二人ふたりは久さんのであろ、とある人が云うたら、否、否、あれは何某なにがしの子でさ、とある村人は久さんで無い外の男の名を云って苦笑にがわらいした。Husband-in-Law の子で無い子は、次第にえた。殖えるものは、父を異にした子ばかりであった。新家に出た時石山の老夫婦が持て出た田畑財産は、段々に減って往った。本家から持ち出したものは、少しずつ本家へかえって往った。新家は博徒破落戸ならずものの遊び所になった。博徒の親分は、人目を忍ぶに倔強な此家を不断ふだんの住家にした。眼のぎろりとした、胡麻塩髯ごましおひげの短い、二度も監獄の飯を食った、丈の高い六十じじいの彼は、村内に己が家はありながら婿夫婦むこふうふを其家に住まして、自身は久さんの家を隠れ家にした。ひる炉辺ろべたの主の座にすわり、夜は久さんのおかみと奥の間に枕をならべた。久さんのおかみは亭主の久さんに沢庵たくわんで早飯食わして、ぼくかなんぞの様に仕事に追い立て、あとでゆる/\鰹節かつぶしかいてうましるをこさえて、九時頃に起き出て来る親分に吸わせた。親分はまだ其上に養生の為と云って牛乳なぞ飲んだ。
おらかかとられちゃった」と久さんは人にこぼしながら、無抵抗主義を執って僕の如く追い使われた。戸籍面の彼の子供は皆彼を馬鹿にした。久さんのおかみは「良人やど正直しょうじきだから、良人が正直だから」と流石に馬鹿と云いかねて正直と云った。東隣のおとなしいばあさんも「久さん、お広さんは今何してるだンべ?」などからかった。久さんは怪訝けげんな眼を上げて、「え?」と頓狂とんきょうな声を出す。「何さ、今しがたお広さんがね、甜瓜まくわってたて事よ、ふ□□□」と媼さんは笑った。久さんの家には、久さんの老母があった。然しばあさんは□の乱行らんぎょう家の乱脈らんみゃくに対して手も口も出すことが出来なかった。若い時大勢の奉公人を使っておかみさんと立てられた彼女は、八十近くなって眼液めしるたらしてへっついの下をいたり、海老えびの様な腰をしてホウ/\云いながら庭をいたり、杖にすがってよめの命のまに/\使つかいあるきをしたり、れでもその無能むのうの子を見すてゝ本家に帰ることをなかった。それにばあさんは亡くなった爺さん同様酒を好んだ。本家の婿は耶蘇教信者で、一切酒を入れなかった。久さんのおかみは時々姑に酒を飲ました。白髪頭しらがあたまの婆さんは、顔を真赤にして居ることがあった。彼女は時々吾儘を云う四十男の久さんを、七つ八つの坊ちゃんかなんどの様に叱った。尻切しりきれ草履突かけて竹杖たけづえにすがって行く婆さんのうしろから、くわをかついだ四十男の久さんが、婆さんの白髪を引張ったりイタズラをして甘えた。酒でも飲んだ時は、□に負け通しの婆さんも昔の権式を出して、人が久さんを雇いに往ったりするのが気にくわぬとなると、「おひろ、断わるがいゝ」と啖呵たんかを切った。

       四

 死んだ棄児すてごの稲次郎が古巣に、大工の妾と入れ代りに東京からほんを読む夫婦の者が越して来た。地面は久さんの義兄のであったが、久さんの家で小作をやって居た。東京から買主が越して来ぬ内に、久さんのおかみは大急ぎで裏の杉林の下枝を落したり、櫟林の落葉を掃いて持って行ったりした。買主が入り込んでのちも、其栗の木は自分が植えたの、其にらや野菜菊は内で作ったの、其炉縁ろぶちは自分のだの、と物毎にあらそうた。稲次郎の記憶が残って居る此屋敷を人手に渡すを彼女は惜んだのであった。地面は買主のでも、作ってある麦はまだおかみの麦であった。地面の主は、麦の一部を買い取るべく余儀なくされた。おかみは義兄と其を争うた。買主は戯談じょうだんに「無代ただでもいゝさ」と云うた。おかみはムキになって「あなたも耶蘇教信者やそきょうしんじゃじゃありませんか。信者が其様そんな事を云うてようござンすか」とやりめた。彼女に恐ろしいものは無かった。ある時義兄が其素行そこうについて少し云々したら、泥足でぬれ縁に腰かけて居た彼女はきっと向き直り、あべこべに義兄にってかゝり、老人と正直者をまかせて置きながら、病人があっても本家として見もかえらぬの、慾張よくばってばかり居るのと、いきり立った。彼女は人毎に本家の悪口を云って同情を獲ようとした。「本家の兄が、本家の兄が」が彼女の口癖くちぐせであった。彼女は本家の兄を其魔力の下に致し得ぬを残念に思うた。相手かまわず問わずがたりの勢込いきおいこんでまくしかけ、「如何いかに兄がほんが読めるからって、村会議員そんかいぎいんだからって、信者だって、に二つは無いからね、わたしは云ってやりましたのサ」と口癖の様に云うた。人が話をすれば、「うんうん、ふん、ふん」とはならして聞いた。彼女の義兄も村に人望ある方ではなかったが、彼女も村では正札附の莫連者ばくれんもので、堅い婦人達は相手にしなかった。村に武太ぶたさんと云う終始ニヤ/\笑って居る男がある。かみさんは藪睨やぶにらみで、気が少し変である。ピイ/\ごえで言う事が、余程馴れた者でなければ聞きとれぬ。彼女は誰に向うても亡くした幼女の事ばかり云う。「子供ははァ背におぶっとる事ですよ。背からおろしといたばかしで、むすめもなくなっただァ」と云いかけて、斜視やぶの眼から涙をこぼして、さめ/″\泣き入るが癖である。また誰に向っても、「萩原はぎわらの武太郎は、五宿へ往って女郎買じょろうかいばかしするやくざもので」と其亭主の事を訴える。武太さんは村で折紙おりがみつきのヤクザ者である。武太さんに同情する者は、ひささんのおかみばかりである。「彼様な女房にょうぼ持ってるンだもの」と、武太さんを人が悪く言うごとに武太さんを弁護する。然し武太さんの同情者が乏しい様に、久さんのおかみもあまり同情者を有たなかった。唯村の天理教信者のおかずばあさんばかりは、久さんのおかみを済度さいどす可く彼女に近しくした。
 稲次郎のふる巣に入り込んだ新村入は、隣だけに此莫連女の世話になることが多かった。彼女も、久さんも、唖の子も、最初はよく小使銭取りに農事の手伝に来た。此方からも麦扱むぎこきを借りたり、饂飩粉を挽いてもらったり、豌豆えんどうや里芋を売ってもらったりした。おかみも小金こがねりに来たり張板をりに来たりした。其子供もよく遊びに来た。蔭でおかみも機嫌次第でさま/″\悪口を云うたが、顔を合わすと如才なく親切な口をきいた。彼女の家につど博徒ばくとの若者が、夏の夜帰よがえりによく新村入の畑にんで水瓜を打割って食ったりした。新村入は用があって久さんのうちに往く毎に胸を悪くして帰った。障子しょうじは破れたきり張ろうとはせず、たたみはらわたが出たまゝ、かべくずれたまゝ、すすほこりとあらゆる不潔ふけつみたされた家の内は、言語道断の汚なさであった。おかみはよくこのなかで蚕に桑をくれたり、大肌おおはだぬぎになって蕎麦粉を挽いたり、破れ障子の内でギッチョンとおとをさせて木綿機を織ったり、大きな眼鏡めがねをかけて縁先えんさき襤褸ぼろつくろったりして居た。

       五

 新村入が村に入ると直ぐ眼についた家が二つあった。一は久さんのうちで、今一つは品川堀の側にあるみせであった。其店には賭博ばくちをうつと云う恐い眼をした大酒呑の五十余のおかみさんと、白粉を塗った若い女が居て、若い者がよく酒を飲んで居た。其後大酒呑のおかみさんは頓死して店はつぶれ、目ざす家は久さんの家だけになった。が住む家の歴史を知るにつけ、新村入は彼の前に問題として置かれた久さんの家を如何にす可きかと思いわずろうた。色々の「我」が寄って形成けいせいして居る彼家は、云わばおおきな腫物はれものである。彼は眼の前にくさうみのだら/\流れ出る大きな腫物を見た。然し彼は刀を下す力が無い。彼は久しく機会を待った。
 ある夏の夕、彼は南向きの縁に座って居た。彼の眼の前には蝙蝠色こうもりいろの夕闇が広がって居た。其闇を見るともなく見て居ると、闇の中からいた様に黒い影がすうと寄って来た。ランプの光の射す処まで来ると、其れは久さんのおかみであった。彼は畳の上に退しざり、おかみは縁に腰かけた。
「旦那様、新聞に出て居りましてすか」
と息をはずませて彼女は云った。それは新宿で、床屋の亭主が、弟と密通した妻と弟とを剃刀かみそりで殺害した事を、彼女は何処どこからか聞いたのである。「余りだと思います」と彼女は剃刀の刃をにくにうけたかの様に切ない声で云った。
 聞く彼の胸はドキリとした。今だ、とある声がささやいた。彼はおかみに向うて、巳代公は如何して唖になったか、といた。おかみは、巳代が三歳みっつまでよく口をきいて居たら、ある日「おっかあ、お湯が飲みてえ」と云うたを最後の一言いちごんにして、医者にかけても薬を飲ましても甲斐が無く唖になって了うた、と言った。何の故か知って居るか、と畳みかけて訊くと、其頃った牛を不親切からつい殺してしまいました、其牛のたたりだと人が申すので、色々信心もして見ましたが、甲斐がありませんでした、と云う。巳代公ばかりじゃ無い、亥之公いのこうが盲になったのは如何したものだ、と彼は肉迫した。而して彼はさしうつむくおかみに向うて、このうちの最初の主の稲次郎と密通以来今日に到るまで彼女の不届ふとどきの数々を烈しく責めた。彼女は終まで俯いて居た。
 それから二三日つと、彼は屋敷下を通る頬冠ほおかむりの丈高い姿を認めた。其れが博徒の親分であることを知った彼は、声をかけて無理に縁側に引張ひっぱった。満地の日光を樫の影がくろめぬいて、あたりには人のかげもなかった。彼は親分に向って、彼の体力、智慧、才覚、根気、度胸、其様なものを従来私慾の為にのみ使う不埒ふらちを責め最早もう六十にもなって余生幾何もない其身、改心して死花しにばなを咲かせろと勧めた。親分は其稼業の苦しい事を話し、ぎろりとした眼から涙の様なものを落して居た。

       六

 然しながらかの癌腫がんしゅの様な家の運命は、往く所まで往かねばならなかった。
 己が生んだ子は己が処置しなければならぬので、おかみは盲の亥之吉を東京に連れて往って按摩あんまの弟子にした。家に居る頃から、盲目ながら他の子供と足場の悪い田舎道を下駄ばきでかけまわった勝気の亥之吉は、按摩の弟子になってめき/\上達し、追々おいおい一人前の稼ぎをする様になった。おかみは行々ゆくゆく彼をかゝり子にする心算つもりであった。それから自身によく太々ふてぶてしい容子をした小娘こむすめのお銀を、おかみは実家近くの機屋はたやに年季奉公に入れた。
 二人の兄の唖の巳代吉みよきちは最早若者の数に入った。彼は其父方の血をしめして、口こそ利けね怜悧な器用な華美はでな職人風のイナセな若者であった。彼は吾家に入りびたる博徒の親分をにらんだ。両手を組んでぴたりと云わして、親分とおっかあが斯様こんなだと眼色を変えて人に訴えた。親分とおかみは巳代吉を邪魔にし出した。ある時巳代公は親分の財布を盗んで銀時計を買った。母をぬすむ者の財布を盗むは何でもないと思ったのであろう。親分は是れ幸と巡査を頼んで巳代公を告訴し、巳代公を監獄に入れようとした。巳代公を入れるよりあの二人ふたりを入れろ、と村の者は罵った。巳代吉は本家から願下ねがいさげて、監獄に入れる親分とおかみの計画は徒労になった。然し親分は中々其居馴れた久さんのうちを動こうともしなかった。親分と唖の巳代吉の間はいよ/\睨合にらみあいの姿となった。或日巳代吉は手頃てごろぼうを押取って親分に打ってかゝった。親分も麺棒めんぼうをもって渡り合った。然し血気の怒にまかする巳代吉の勢鋭く、親分は右の手首を打折うちおられ、加之しかも棒に出て居た釘で右手の肉をかきかれ、大分の痛手いたでを負うた。隣家の婆さんがけつけて巳代吉をなだめなかったら、親分は手疵に止まらなかったかも知れぬ。繃帯ほうたいして右手めてくびから釣って、左の手で不精鎌ぶしょうがまを持って麦畑の草など親分が掻いて居るのを見たのは二月もあとの事だった。喧嘩の仲入なかいりに駈けつけた隣の婆さんは、側杖そばづえって右の手を痛めた。久さんのおかみは、び心に婆さん宅のへっついの下などきながら、喧嘩の折節おりふし近くに居合わせながら看過みすぐした隣村の甲乙を思うさま罵って居た。

       七

 田畑は勿論もちろん宅地たくちもとくに抵当ていとうに入り、一家中日傭ひやといに出たり、おかみ自身じしん手織ており木綿物もめんものを負って売りあるいたこともあったが、要するに石山新家の没落は眼の前に見えて来た。「お広さん、大層たいそうせいが出ますね」久さんが挽く肥車の後押して行くおかみを目がけて人が声をかけると、「天狗様てんごうさまの様に働くのさ」とおかみが答えたりしたのは、昔の事になった。おかみは一切稼ぎをした。而して時々丸髷に結って小ざっぱりとした服装なりをして親分と東京に往った。家には肴屋が出入したり、乞食物貰いが来れば気前きまえを見せて素手では帰さなかった。彼女は癌腫の様な石山新家を内から吹き飛ばすべき使命を帯びて居るかの様に不敵ふてきであった。

           *

 到頭腫物しゅもつつぶれる時が来た。
 おかみは独で肝煎きもいって、家を近在きんざいの人に、立木たちきを隣字の大工に売り、抵当に入れた宅地を取戻とりもどして隣の辰爺さんに売り、大酒呑のおかみのあとに品川堀の店を出して居る天理教信者の彼おかず媼さん処へ引揚げた後、一人残った腫れぼったいまぶたをした末の息子を近村の人に頼み、唯一つ残った木小屋を売り飛ばし、而して最早師匠の手を離れて独立して居る按摩の亥之吉いのきち間借まがりして住む可く東京へ往って了うた。
 酒好きの老母と唖の巳代吉は、家が売れる頃は最早本家へ帰って居た。
 かかに置去られ、家になくなられ、地面に逃げられ、置いてきぼりをって一人木小屋に踏み留まった久さんも、是非なく其姉と義兄の世話になるべく、頬冠ほおかむりの頭をうな垂れて草履ぞうりぼと/\懐手ふところでして本家に帰った。
 屋敷のあとはきかえされて、今は陸稲おかぼ緑々あおあおと茂って居る。


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     わかれの杉

 彼の家から裏の方へ百歩往けば、鎮守八幡ちんじゅはちまんである。型の通りの草葺の小宮こみやで、田圃たんぼを見下ろして東向きに立って居る。
 月のついたちには、太鼓が鳴って人を寄せ、神官が来て祝詞のりとを上げ、氏子うじこの神々達が拝殿に寄って、メチールアルコールの沢山たくさんはいった神酒を聞召し、酔って紅くなり給う。春の雹祭ひょうまつり、秋の風祭かざまつりは毎年の例である。彼が村の人になって六年間に、此八幡で秋祭りに夜芝居が一度、昼神楽ひるかぐらが一度あった。入営除隊の送迎は勿論、何角の寄合事よりあいごとがあれば、天候季節の許す限りは此処の拝殿はいでんでしたものだ。乞食が寝泊りして火の用心が悪い処から、つい昨年になって拝殿に格子戸こうしどを立て、しまりをつけた。内務省のお世話が届き過ぎて、神社合併がの、風致林ふうちりんこうのと、面倒な事だ。先頃も雑木ぞうきを売払って、あとには杉か檜苗ひのきなえを植えることに決し、雑木を切ったあとを望の者に開墾かいこんさせ、一時豌豆や里芋を作らして置いたら、神社の林地なら早々そうそう木を植えろ、畑にすれば税を取るぞ、税を出さずに畑を作ると法律があると、其筋からおどされたので、村はあわてゝ総出で其部分に檜苗を植えた。
 粕谷八幡はさしてふるくもないので、大木と云う程の大木は無い。御神木と云うのはうられた杉の木で、此はやしろうしろで高処だけに諸方から目標めじるしになる。烏がよく其枯れた木末こずえにとまる。
 宮から阪の石壇いしだんを下りて石鳥居を出た処に、また一本百年あまりの杉がある。此杉の下から横長い田圃たんぼがよく見晴される。田圃を北から南へ田川が二つ流れて居る。一筋の里道が、八幡横から此大杉の下を通って、直ぐ北へ折れ、小さな方の田川に沿うて、五六十歩往って小さな石橋いしばしを渡り、東に折れて百歩余往ってまた大きな方の田川に架した欄干らんかん無しの石橋を渡り、やがて二つに分岐ぶんきして、直な方は人家の木立の間を村にかくれ、一は人家の檜林にうて北に折れ、林にそい、桑畑くわばたけにそい、二丁ばかり往って、雑木山のはしからまた東に折れ、北に折れて、六七丁往って終に甲州街道に出る。此雑木山のまがかどに、一本の檜があって、八幡杉の下からよく見える。
 村居六年の間、彼は色々の場合に此杉のしたに立って色々の人を送った。かの田圃をわたり、彼雑木山の一本檜から横に折れて影の消ゆるまで目送もくそうした人も少くはなかった。中には生別せいべつそく死別しべつとなった人も一二に止まらない。生きては居ても、再びうや否疑問の人も少くない。此杉は彼にとりて見送みおくりの杉、さては別れの杉である。就中彼はある風雪の日こゝで生別の死別をした若者を忘るゝことが出来ぬ。
 其は小説寄生木やどりぎの原著者篠原良平の小笠原おがさわら善平ぜんぺいである。明治四十一年の三月十日は、奉天決勝ほうてんけっしょうの三週年。彼小笠原善平が恩人乃木将軍の部下として奉天戦に負傷したのは、三年前の前々日ぜんぜんじつであった。三月十日は朝からちら/\雪が降って、寒いさびしい日であった。突然彼小笠原は来訪した。一年前、此家の主人あるじは彼小笠原に剣をなげうつ可く熱心ねっしん勧告かんこくしたが、一年後の今日、彼は陸軍部内の依怙えこ情実に愛想あいそうをつかし疳癪かんしゃくを起して休職願を出し、北海道から出て来たので、今後は外国語学校にでも入って露語ろごをやろうと云って居た。陸軍を去る為に恩人の不興を買い、恋人との間も絶望の姿となって居ると云うことであった。雪は終日降り、夜すがら降った。主は平和問題、信仰問題等につき、彼小笠原と反覆はんぷく討論とうろんした。而して共に六畳にまくらを並べて寝たのは、夜の十一時過ぎであった。
 明くる日、午前十時頃彼は辞し去った。まだ綿のような雪がぼったり/\降って居る。此辺では珍らしい雪で、一尺のうえつもった。彼小笠原は外套の頭巾ずきんをすっぽりかぶって、薩摩下駄をぽっくり/\雪にみ込みながらうちて往った。主は高足駄を穿き、番傘ばんがさをさして、八幡下別れの杉まで送って往った。
「じゃァ、しっかりやりたまえ」
「色々お世話でした」
 傘を傾けて杉の下に立って見て居ると、また一しきりはげしく北から吹きつくる吹雪ふぶきの中を、黒い外套姿が少し前俛まえこごみになって、一足ぬきに歩いて行く。第一の石橋を渡る。やゝあって第二の石橋を渡る。檜林について曲る。段々小さくなって遠見の姿は、谷一ぱいの吹雪に消えたり見えたりして居たが、一本檜の処まで来ると、見かえりもせず東へれて、到頭とうとう見えなくなってしもうた。
 半歳はんとしの後、彼は郷里の南部なんぶで死んだ。
 漢人の詩に、
歩出ほしていづ城東門じやうとうのもん、     遙望はるかにのぞむ江南路こうなんのみち
前日ぜんじつ風雪中ふうせつのうち、     故人こじん従此去これよりさる
 別れの杉の下に立って田圃を見渡す毎に、吹雪の中の黒い外套姿が今も彼の眼さきにちらつく。


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     白

       一

 彼の前生は多分たぶんいぬであった。人間の皮をかぶった今生にも、彼は犬程可愛かあいいものを知らぬ。子供の頃は犬とばかり遊んで、着物は泥まみれになり、すそいさかれ、其様そんなに着物を汚すならわたしは知らぬと母にしかられても、また走り出ては犬と狂うた。犬の為には好きなうまものも分けてやり、小犬の鳴き声を聞けばねむたい眼を摩って夜半よなかにも起きて見た。明治十年の西郷戦争さいごうせんそうに、彼の郷里の熊本は兵戈へいかの中心となったので、家をげて田舎に避難したが、オブチと云う飼犬のみは如何してもうちを守って去らないので、近所の百姓に頼んで時々食物を与えてもらうことにして本意ない別を告げた。三月程して熊本城の包囲が解け、薩軍は山深く退いたので、欣々と帰って見ると、オブチは彼の家にじんどった薩摩健男さつまたけおに喰われてしまって、頭だけ出入の百姓によって埋葬されて居た。彼の絶望と落胆は際限が無かった。久しぶりにうちかえって、何の愉快もなく、飯も喰わずに唯なげいた。南洲なんしゅうの死も八千の子弟の運命も彼にはなんの交渉もなく、西南役は何よりも彼の大切なオブチをとり去ったものとして彼に記憶されるのであった。
 村入して間もなく、ある夜先家主せんやぬしの大工がポインタァ種の小犬を一疋抱いて来た。二子のわたしの近所から貰って来たと云う。鼻尖はなさきから右の眼にかけ茶褐色のぶちがある外は真白で、四肢は将来の発育を思わせて伸び/\と、気前きまえ鷹揚おうように、坊ちゃんと云った様な小犬である。既に近所からもらった黒い小犬もあるので、二の足踏んだが、折角貰って来てくれたのを還えすも惜しいので、到頭貰うことにした。今までたたみの上に居たそうな。早速さっそく畳に放尿いばりして、其晩は大きなかたまりの糞を板の間にした。
 新来のしろに見かえられて、間もなくくろは死に、白の独天下となった。畳から地へ下ろされ、麦飯むぎめし味噌汁みそしるで大きくなり、美しい、而して弱い、而して情愛の深い犬になった。おすであったが、めすの様な雄であった。
 主夫妻あるじふさいが東京に出ると屹度いて来る。甲州こうしゅう街道かいどうを新宿へ行くあいだには、大きな犬、強い犬、あらい犬、意地悪い犬が沢山居る。而してそれをしかけて、弱いものいじめを楽む子供もあれば、馬鹿な成人おとなもある。弱い白は屹度まれる。其れがいやさに隠れて出るようにしても、何処からか嗅ぎ出して屹度跟いて来る。而して咬まれる。悲鳴をあげる。二三疋の聯合軍に囲まれてべそをかいて歯をき出す。己れより小さな犬にすら尾をれて恐れ入る。果ては犬の影され見れば、われところんで、最初から負けてかゝる。それでも強者の歯をのがれぬ場合がある。最早もうりたろうと思うて居ると、今度出る時は、又候またぞろ跟いて来る。而して往復途中の出来事はよく/\頭に残ると見えて、帰ったあとでかしの木の下にぐったり寝ながら、夢中で走るかの様に四肢ししを動かしたり、夢中で牙をむき出しふアッと云ったりする。
 弱くても雄は雄である。交尾期になると、二日も三日も影を見せぬことがあった。てっきり殺されたのであろうと思うて居ると、村内唯一の牝犬めいぬもとに通うて、他の強い大勢の競争者に噛まれ、床の下に三日もぐり込んで居たのであった。武智十次郎ならねども、美しい白が血だらけになって、蹌踉よろよろと帰って来る姿を見ると、生殖の苦をう動物の運命を憐まずには居られなかった。一日其牝犬がひょっくり遊びに来た。美しいポインタァ種の黒犬で、家の人が見廻みまわりして来いと云えば、直ぐ立って家の周囲まわりを巡視し、夜中警報でもある時は吾体を雨戸にぶちつけて家の人に知らす程怜悧の犬であった。其犬がぶらりと遊びに来た。而して主人しゅじんに愛想をするかの様にずうと白の傍に寄った。あまりに近く寄られては白は眼を円くし、据頸すえくびで、はなはだ固くなって居た。牝犬はやがて往きかけた。白は纏綿てんめんとして後になり先きになり、果ては主人の足下に駆けて来て、一方の眼に牝犬を見、一方の眼に主人を見上げ、引きとめて呉れ、媒妁なかだちして下さいと云いがおにクンクン鳴いたが、主人はもとより如何ともすることが出来なかった。
 其秋白の主人あるじは、死んだ黒のかわりにかの牝犬の子の一疋をもらって来て矢張やはりれを黒と名づけた。白ははなはだ不平ふへいであった。黒を向うに置いて、走りかゝってどう体当たいあたりをくれて衝倒つきたおしたりした。小さな黒は勝気な犬で、縁代の下なぞ白の自由にうごけぬ処にもぐり込んで、其処そこから白に敵対して吠えた。然し両雄りょうゆう並び立たず、黒は足が悪くなり、久しからずして死んだ。しかしてふたたび白の独天下になった。可愛かあいがられて、大食して、弱虫の白はます/\弱く、どんの性質はいよ/\鈍になった。よく寝惚ねぼけて主人しゅじんに吠えた。主人と知ると、恐れ入って、膝行頓首しっこうとんしゅかめの様に平太張りつゝすり寄ってびた。わるい事をして追かけられて逃げ廻るが、果ては平身低頭へいしんていとうして恐る/\すり寄って来る。頭を撫でると、其手を軽くくわえて、衷心を傾けると云った様にはアッと長い/\溜息ためいきをついた。

       二

 死んだくろあにが矢張黒と云った。遊びに来ると、しろが烈しくねたんだ。主人等が黒に愛想をすると、白は思わせぶりに終日しゅうじつ影を見せぬことがあった。
 甲州こうしゅう街道かいどうに獅子毛天狗顔をした意地悪い犬が居た。坊ちゃんの白を一方ひとかたならず妬み憎んで、顔さえ合わすと直ぐんだ。ある時、裏の方ではげしい犬の噛み合う声がするので、て見ると、黒と白とが彼天狗てんぐいぬ散々さんざん咬んで居た。元来平和な白は、おまえが意地悪だからと云わんばかりうらめしげな情なげな泣き声をあげて、黒と共に天狗犬に向うて居る。聯合軍に噛まれて天狗犬は尾を捲き、獅子毛を逆立さかだてゝ、甲州街道の方に敗走するのを、白の主人は心地よげに見送みおくった。
 其後白と黒との間に如何どんな黙契が出来たのか、白はあまり黒の来遊らいゆうを拒まなくなった。白をもらって来てくれた大工が、牛乳ぎゅうにゅうぐるまの空箱を白の寝床に買うて来てくれた。其白の寝床に黒が寝そべって、尻尾ばた/\箱の側をうっておさまって居ることもあった。界隈かいわい野犬やけんが居て、あるいは一疋、ある時は二疋、稲妻いなずま強盗ごうとうの如く横行し、夜中鶏を喰ったり、豚を殺したりする。ある夜、白が今死にそうな悲鳴をあげた。雨戸あまど引きあけると、何ものか影の如くった。白は後援を得てやっと威厳いげんを恢復し、二足三足あとおいかけてしかる様に吠えた。野犬が肥え太った白を豚と思って喰いに来たのである。其様な事が二三度もつゞいた。其れで自衛の必要上白は黒と同盟を結んだものと見える。一夜いちや庭先にわさきで大騒ぎが起った。飛び起きて見ると、聯合軍は野犬二疋の来襲に遇うて、形勢頗る危殆きたいであった。
 白と黒は大の仲好なかよしになって、始終共に遊んだ。ある日近所の与右衛門よえもんさんが、一盃機嫌で談判だんぱんに来た。内の白とかの黒とがトチ狂うて、与右衛門の妹婿武太郎がはたけの大豆を散々踏み荒したと云うのである。如何してれるかと云う。仕方が無いから損害を二円払うた。其後黒の姿はこっきり見えなくなった。通りかゝりの武太ぶたさんに問うたら、与右衛門さんの懸合で、黒の持主の源さんとこでは余儀なく作男さくおとこに黒を殺させ、作男が殺してて食うたと答えた。うまかったそうです、と武太さんは紅いはぐきを出してニタ/\笑った。
 ある日見知らぬかみさんが来て、此方こちらの犬に食われましたと云って、汚ない風呂敷から血だらけの軍鶏しゃもの頭と足を二本出して見せた。内の犬は弱虫で、軍鶏なぞ捕る器量はないが、と云いつゝ、確に此方の犬とみとめたのかときいたら、かみさんは白い犬だった、聞けば粕谷かすやわりイ犬が居るちゅう事だから、れで来たと云うのだ。折よく白が来た。かみさんは、これですか、と少し案外の顔をした。然し新参者しんざんものの弱身で、感情をそこなわぬ為かく軍鶏の代壱円何十銭の冤罪費を払った。かれは斯様な出金を東京税とうきょうぜいと名づけた。彼等はしば/\東京税を払うた。
 白の頭上には何時となく呪咀のろいの雲がかゝった。黒が死んで、意志の弱い白はまた例の性悪しょうわるの天狗犬と交る様になった。天狗犬にそそのかされて、色々の悪戯も覚えた。多くの犬と共に、近在きんざいの豚小屋を襲うと云う評判も伝えられた。遅鈍なしろは、豚小屋襲撃引揚げの際逃げおくれて、其着物きものいちじるしい為に認められたのかも知れなかった。其内村の収入役の家で、係蹄わなにかけて豚とりに来た犬を捕ったら、其れは黒い犬だったそうで、さしあたり白の冤はれたようなものゝ、要するに白の上にあしき運命の臨んで居ることは、彼の主人の心に暗いかげを作った。
 到頭白の運命の決する日が来た。隣家りんかの主人が来て、数日来猫が居なくなった、不思議に思うて居ると、今しがた桑畑の中から腐りかけた死骸を発見した。貴家おうちの白と天狗犬とで咬み殺したものであろ、死骸を見せてよく白を教誡していただき度い、と云う意を述べた。同時に白が度々隣家の鶏卵を盗み食うた罪状も明らかになった。
 最早詮方は無い。此まゝにして置けば、隣家はゆるしてくれもしようが、かならず何処どこかで殺さるゝに違いない。折も好し、甲州こうしゅうの赤沢君が来たので、甲州に連れて往ってもらうことにした。白の主人は夏の朝早く起きて、赤沢君を送りかた/″\、白を荻窪おぎくぼ停車場ていしゃばまでいて往った。千歳村ちとせむらに越した年の春もろうて来て、この八月まで、約一年半白は主人夫妻と共に居たのであった。主婦は八幡下まで送りに来て、涙を流して白に別れた。田圃を通って、雑木山ぞうきやまに入るわかれ道まで来た時、主人は白を抱き上げて八幡下に立ってはるかに目送して居る主婦に最後の告別をさせた。白は屠所の羊の歩みで、牽かれてようやくいて来た。停車場前の茶屋で、駄菓子だがしを買うてやったが、白はおうともしなかった。貨物車の犬箱の中に入れられて、飯がわりの駄菓子を入れてやったのを見むきもせず、ベソをかきながら白は甲州へ往ってしもうた。

       三

 最初の甲州だよりは、白が赤沢君に牽かれて無事に其家に着いた事を報じた。第二信は、ある日白が縄をぬけて、赤沢君のうちから約四里甲府こうふの停車場まで帰路きろを探がしたと云う事を報じた。しかし甲府からは汽車である。甲府から東へは帰り様がなかった。
 赤沢君が白を連れて撮った写真を送ってくれた。眼尻が少しさがって、口をあんとあいたところは、贔屓目ひいきめにも怜悧な犬ではなかった。然し赤沢君の村は、ほかに犬も居なかったので、皆に可愛がられて居ると云うことであった。

           *

 白が甲州にやしなわれて丁度一年目の夏、旧主人きゅうしゅじん夫妻ふさいは赤沢君を訪ねた。そのうちに着いて挨拶して居ると庭に白の影が見えた。喫驚びっくりする程大きくなり、豚の様にまる/\と太って居る。「白」と声をかくるより早く、土足どそくで座敷に飛び上り、膝行しっこう匍匐ほふくして、忽ち例の放尿をやって、旧主人に恥をかゝした。其日は始終しじゅういてあるき、翌朝山の上の小舎こやにまだ寝て居ると、白は戸のくや否飛び込んで来て、蚊帳かやしにずうと頭をさし寄せた。かえりには、予め白をつないであった。わかれに菓子なぞやっても、喰おうともしなかった。しかして旧主人夫妻が帰った後、彼等が馬車に乗った桃林橋とうりんきょうの辺まで、しろは彼等の足跡をいでまわって、大騒ぎしたと云うことであった。
 翌年の春、夫妻は二たび赤沢君あかざわくんを訪うた。白は喜のあまり浮かれて隣家りんかの鶏を追廻し、到頭一羽を絶息させ、しかして旧主人きゅうしゅじんにまた損害を払わせた。
 そののち白に関する甲州だよりは此様な事を報じた。笛吹川ふえふきがわ未曾有みそうの出水で桃林橋が落ちた。防水護岸の為一村いっそんの男総出で堤防にむらがって居ると、川向うの堤に白いものゝ影が見えた。其は隣郡に遊びに往って居た白であった。白だ、白だ、白も斯水では、と若者等は云い合わした様に如何するぞと見て居ると、白は向うの堤を川上へおよそ二丁ばかり上ると、身をおどらしてざんぶとばかり濁流、箭のごとき笛吹川に飛び込んだ。あれよ/\とののしり騒ぐ内に、愚なる白、弱い白は、斜に洪水の川をおよぎ越し、陸に飛び上って、ぶる/\ッと水ぶるいした。若者共は一斉いっせいに喝采の声をあげた。弱い彼にも猟犬りょうけんすなわち武士の血が流れて居たのである。
 白に関する最近の消息はうであった。昨春さくしゅん当時とうじの皇太子殿下今日の今上陛下きんじょうへいかが甲州御出の時、演習御覧の為赤沢君の村に御入の事があった。そのときえたりして貴顕に失礼しつれいがあってはならぬと云う其の筋の遠慮から、白は一日拘束された。主人が拘束されなかったのはまだしもであった。

       四

 白の旧主きゅうしゅの隣家では、其家の猫の死の為に白が遠ざけられたことを気の毒に思い、其息子が甘藷売りに往った帰りに神田の青物問屋からテリアルしゅねずみほどな可愛い牝犬めいぬをもらって来てくれた。ピンと名をつけて、五年来ごねんらい飼うて居る。其子孫も大分界隈かいわいに蕃殖した。一昨年から押入婿おしいりむこのデカと云う大きなポインタァ種の犬も居る。昨秋からは追うてもてゝも戻って来る、いまだ名無しの風来ふうらいの牝犬も居る。然し愚な鈍な弱い白が、主人夫妻にはいつまでも忘られぬのである。


白は大正七年一月十四日の夜半病死し、赤沢君の山の上の小家の梅の木蔭に葬られました。甲州に往って十年です。村の人々が赤沢君に白のクヤミを言うたそうです。「白は人となり候」と赤沢君のたよりにありました。「白」は幸福な犬です。
  大正十二年二月九日追記


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     ほおずき

       一

 其頃は女中も居ず、門にしまりもなかった。一家いっか総出そうでの時は、大戸をして、ぬれ縁の柱に郵便箱をぶら下げ、
○○行
夕方(若くは明午○)帰る
御用の御方は北隣きたどなり△△氏へ御申残しあれ
小包も同断
  月日  氏名
 斯く張札はりふだして置いた。稀には飼犬を縁先えんさきの樫の木につないで置くこともあったが、多くは郵便箱に留守をさした。帰って見ると、郵便箱には郵便物の外、色々な名刺や鉛筆書きが入れてあったり、主人しゅじん穿きふるした薩摩下駄を物数寄ものずきにまだ真新まあたらしいのに穿きかえてく人なぞもあった。ノートを引きちぎって、斯様なものを書いたのもあった。
君を尋ねて草鞋わらぢで来れば
君はいまさず唯犬ばかり
縁に腰かけ大きなあくび
中で時計が五時をうつ

 明治四十一年の新嘗祭の日であった。東京から親類の子供が遊びに来たので、例の通り戸をしめ、郵便箱をぶら下げ、玉川に遊びに往った。子供等は玉川から電車で帰り、主人夫妻は連れて往った隣家の女児むすめと共に、つい其前々月もらって来た三歳の女児をのせた小児車しょうにぐるまを押して、星光を踏みつゝ野路のじを二里くたびれ果てゝ帰宅した。
 隣家の女児と門口で別れて、まだ大戸も開けぬ内、二三人の足音と車の響が門口に止まった。車夫が提灯の光に、丈高い男がぬっと入ってた。つゞいて女が入って来た。
「僕が滝沢です、手紙を上げてきましたが……」
 其様そんな手紙は未だ見なかったのである。来意らいいを聞けば、信州の者で、一晩ひとばん御厄介ごやっかいになりたいと云うのだ。主人は疲れて大にいやであったが、遠方から来たものを、と勉強して兎に角戸をあけて内にしょうじた。吉祥寺きちじょうじから来たと云う車夫は、柳行李やなぎごうりを置いて帰った。

       二

 ランプのあかりで見れば、男は五分刈ごぶがり頭の二十五六、意地張らしい顔をして居る。女は少しふけて、おとなしい顔をして、丸髷まるまげに結って居る。主人が渋い顔をして居るので、丸髷の婦人は急いで風呂敷包の土産物みやげものを取出し主人夫妻しゅじんふさいの前にならべた。葡萄液一瓶ひとびん、「醗酵はっこうしない真の葡萄汁ぶどうしるです」と男が註を入れた。あんずの缶詰が二個。「此はお嬢様に」と婦人が取出とりだしたのは、十七八ずつもった丹波酸漿たんばほおずきが二本。いずれもあかいカラのまゝ虫一つ喰って居ない。「まあ見事みごとな」と主婦が歎美の声を放つ。「私の乳母うば丹精たんせいして大事に大事に育てたのです」と婦人がほこに口を添えた。二つ三つ語をわす内に、男は信州、女は甲州の人で、共に耶蘇信者やそしんじゃ、外川先生の門弟、此度結婚して新生涯の門出に、此家の主人夫妻の生活ぶりを見に寄ったと云うことが分かった。畑の仕事でも明日あしたは少し御手伝しましょうと男が云えば、台所の御手伝でもしましょうと女が云うた。
 兎に角めしを食うた。飯を食うとやがて男が「腹が痛い」と云い出した。「そう、余程痛みますか」と女がうれわしそうにきく。「今日汽車の中で柿を食うた。あれが不好いけなかった」と男が云う。此大きな無遠慮な吾儘坊わがままぼっちゃんのお客様の為に、主婦は懐炉かいろを入れてやった。大分だいぶおちついたと云う。おそくなって風呂がいた。まあお客様からとしょうじたら、「私も一緒に御免蒙りましょう」と婦人が云って、夫婦一緒にさっさと入って了った。ると云っても六畳二室の家、唐紙一重に主人組しゅじんぐみ此方こち、客は彼方あちあたまき合わせである。無い蒲団を都合つごうして二つ敷いてやったら、御免を蒙ってお先に寝る時、二人は床を一つにして寝てしまった。

       三

 明くる日、男は、「私共は二食で、朝飯あさめしを十時にやります。あなた方はおかまいなく」と何方どちが主やら客やらからぬ事を云う。其れでは十時に朝飯として、其れ迄ちと散歩でもして来ようと云って、主人は男を連れて出た。
 畠仕事はたけしごとをして居る百姓の働き振を見ては、まるで遊んでる様ですな、と云う。かれは生活の闘烈しい雪の山国やまぐにに生れ、彼自身も烈しい戦の人であった。彼は小学教員であった。耶蘇を信ずる為に、父から勘当かんどう同様どうようの身となった。学校でも迫害を受けた。ある時、高等小学の修身科で彼は熱心に忍耐を説いて居たら、生徒の一人がつか/\立って来て、教師用の指杖さしづえを取ると、突然いきなりはげしく先生たる彼のせなかなぐった。彼はしずかに顧みて何をると問うた。その生徒は杖を捨てゝ涙を流し、御免下ごめんください、先生があまり熱心に忍耐を御説きなさるから、先生は実際どれ程忍耐が御出来になるか試したのです、とひざまずいてびた。彼は其生徒をめて、辞退するのを無理に筆を三本褒美ほうびにやった。
 斯様な話をして帰ると、朝飯の仕度が出来て居た。落花生がれて居る。「落花生は大好きですから、私が炙りましょう」と云うて女が炙ったのそうな。主婦は朝飯の用意をしながら、細々と女の身上話を聞いた。
 女は甲州の釜無川かまなしがわの西に当る、ある村の豪家のむすめであった。家では銀行などもやって居た。親類内しんるいうちに嫁に往ったが、弟が年若としわかなので、父は彼女夫妻を呼んでうちの後見をさした。結婚はあまり彼女の心に染まぬものであったが、彼女はよく夫婿に仕えて、夫婦仲も好く、他目よそめには模範的夫婦と見られた。良人おっとはやさしい人で、耶蘇やそ教信者で、外川先生の雑誌の読者であった。彼女はその雑誌に時々所感を寄する信州しんしゅうの一男子の文章を読んで、其熱烈な意気は彼女の心をうごかした。其男子は良人の友達の一人で、稀に信州から良人を訪ねて来ることがあった。何時いつとなく彼女と彼の間に無線電信むせんでんしんがかゝった。手紙の往復がはじまった。其内良人は病気になって死んだ。死ぬる前、つまに向って、自分の死後は信州の友の妻になれ、と懇々遺言して死んだ。一年程過ぎた。彼女と彼の間は、熱烈な恋となった。而して彼女の家では、父死し、弟は年若としわかではあり、母が是非居てくれと引き止むるを聴かず、彼女は到頭とうとううちを脱け出して信州の彼がもとはしったのである。

           *

 朝飯後、客の夫婦は川越の方へ行くと云うので、近所のおかみを頼み、荻窪まで路案内みちしるべかた/″\柳行李をわせてやることにした。
 彼は尻をからげて、莫大小めりやす股引ももひき白足袋しろたびに高足駄をはき、彼女は洋傘こうもりつえについて海松色みるいろ絹天きぬてん肩掛かたかけをかけ、主婦に向うて、
何卒どうぞおぼえて居て下さい、覚えて居て下さい」
と幾回も繰り返して出て往った。主人夫妻は門口に立って、影の消ゆるまで見送った。

       四

 一年程過ぎた。
 此世から消え失せたかの様に、二人の消息しょうそくははたと絶えた。
如何どうしたろう。はがき位はよこしそうなものだな」
 主人夫妻はおもたびに斯く云い合った。
 丁度ちょうど満一年の新嘗祭も過ぎた十二月一日の午後、珍しく滝沢の名を帯びたはがきが主人の手に落ちた。其は彼の妻の死を報ずるはがきであった。消息こそせね、夫婦は一日も粕谷の一日いちにち一夜いちやを忘れなかった、と書いてある。
 ああ彼女は死んだのか。友の妻になれと遺言して死んだ先夫の一言いちごんを言葉通り実行して恋に於ての勝利者たる彼等夫妻の前途は、決して百花園中ひゃっかえんちゅうのそゞろあるきではあるまい、とはして居たが、彼女は早くも死んだの乎。
 きたいのは、沈黙の其一年の消息である。知りたいのは、そのさまである。

           *

 あくる年の正月、主人夫妻は彼女の友達の一人なる甲州の某氏から彼女に関する消息の一端を知ることを得た。
 彼等夫妻は千曲川ちくまがわほとりに家をもち、養鶏ようけいなどやって居た。而して去年きょねんの秋の暮、胃病いびょうとやらで服薬して居たが、ある日医師が誤った投薬の為に、彼女は非常の苦痛をして死んだ。彼女の事を知る信者仲間には、天罰だと云う者もある、と某氏は附加つけくわえた。

           *

 某氏はまた斯様こんな話をした。亡くなった彼女は、思い切った女であった。人の為に金でも出す時は己が着類きるい質入しちいれしたり売り払ったりしても出す女であった。彼女の前夫ぜんふは親類仲で、慶応義塾出の男であった。最初は貨殖を努めたが、耶蘇やそを信じて外川先生の門人となるに及んで、聖書の教を文句通もんくどおり実行して、決して貸した金の催促をしなかった。其れをつけ込んで、近郷近在の破落戸ならずもの等が借金に押しかけ、数千円は斯くして還らぬ金となった。彼の家には精神病の血があった。彼も到頭遺伝病に犯された。其為彼の妻は彼と別居した。彼は其妻を恋いて、妻の実家の向う隣の耶蘇教信者のうちに時々来ては、妻を呼び出してもろうて逢うた。彼の臨終の場にも、妻は居なかった。此時彼女の魂はとく信州にあったのである。彼女の前夫が死んで、彼女が信州に奔る時、彼女の懐には少からぬ金があった。実家の母がいかったので、彼女は甲府まで帰って来て、其金を還した。然し其前彼女は実家に居る時から追々おいおいに金を信州へ送り、千曲川の辺のうちも其れで建てたと云うことであった。

           *

 彼夜彼女がて来てくれたほおずきは、あまり見事みごとなので、子供にもやらず、小箪笥こだんす抽斗ひきだしに大切にしまって置いたら、鼠が何時の間にかその小箪笥をうしろから噛破って喰ったと見え、としくれに抽斗をあけて見たら、中実なかみ無しのカラばかりであった。
 年々ねんねん酸漿ほおずきが紅くなる頃になると、主婦はしみ/″\彼女をおもい出すと云うて居る。


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     碧色の花

 色彩の中で何色なにいろを好むか、と人に問われ、色彩について極めて多情なかれは答に迷うた。
 吾墓の色にす可き鼠色ねずみいろ、外套に欲しい冬の杉の色、十四五の少年を思わす落葉松の若緑わかみどり、春雨を十分に吸うたむらさきがかった土の黒、乙女のほおにおう桜色、枇杷バナナの暖かい黄、檸檬れもん月見草つきみそうの冷たい黄、銀色のつばさを閃かして飛魚の飛ぶ熱帯ねったいの海のサッファイヤ、ある時は其面に紅葉をうかべ或時は底深く日影金糸をるゝ山川の明るいふちった様な緑玉エメラルド、盛り上りり下ぐる岩蔭の波のしたに咲く海アネモネの褪紅たいこう緋天鵞絨ひびろうどを欺く緋薔薇ひばら緋芥子ひげしの緋紅、北風吹きまくる霜枯の野の狐色きつねいろ、春の伶人れいじんの鶯が着る鶯茶、平和な家庭の鳥に属する鳩羽鼠はとはねずみ、高山の夕にも亦やんごとないそうの衣にもある水晶にも宿やどる紫、波の花にも初秋の空の雲にも山の雪野の霜にも大理石にもかばはだにも極北の熊の衣にもなるさま/″\のしろ、数え立つれば際限きりは無い。色と云う色、みなきである。
 然しながら必其一をえらまねばならぬとなれば、彼は種として碧色を、として濃碧のうへきを択ぼうと思う。碧色――三尺の春の野川のがわおもに宿るあるか無きかの浅碧あさみどりから、深山の谿たにもだす日蔭の淵の紺碧こんぺきに到るまで、あらゆる階級の碧色――其碧色の中でもことあざやかに煮え返える様な濃碧は、彼を震いつかす程の力をって居る。
 高山植物の花については、彼は呶々どどする資格が無い。園の花、野の花、普通の山の花の中で、碧色のものは可なりある。西洋草花せいようくさばなにはロベリヤ、チヨノドクサの美しい碧色がある。春竜胆はるりんどう勿忘草わすれなぐさの瑠璃草も可憐な花である。紫陽花あじさい、ある種の渓□あやめ、花菖蒲にも、不純ながら碧色を見れば見られる。秋には竜胆りんどうがある。牧師の着物を被た或詩人は、かつて彼の村に遊びに来て、路に竜胆の花をみ、熟々つくづく見て、青空の一片が落っこちたのだなあ、と趣味ある言を吐いた。露のの朝顔は、云う迄もなく碧色を要素ようそとする。それから夏の草花には矢車草がある。舶来種のまだわが邦土ほうどには何処やら居馴染いなじまぬ花だが、はらりとした形も、ふかい空色も、涼しげな夏の花である。これは園内えんないに見るよりも Corn flower と名にもある通り外国の小麦畑のばんだ小麦まじりに咲いたのが好い。七年前の六月三十日、朝早く露西亜の中部スチエキノ停車場から百姓の馬車に乗ってトルストイおうヤスナヤ、ポリヤナおもむく時、朝露にぬれそぼった小麦畑を通ると、苅入近い麦まじりに空色の此花が此処にも其処にも咲いて居る。睡眠不足の旅の疲れと、トルストイ翁に今会いに行く昂奮こうふんとで熱病患者の様であった彼の眼にも、花の空色は不思議に深い安息いこいを与えた。
 夏にはさら千鳥草ちどりそうの花がある。千鳥草、又の名は飛燕草。葉は人参の葉の其れに似て、花は千鳥か燕か鳥の飛ぶ様なさまをして居る。園養えんようのものには、白、桃色、また桃色に紫のしまのもあるが、野生のれは濃碧色のうへきしょくに限られて居る様だ。濃碧がうつろえば、菫色すみれいろになり、紫になる。千鳥草と云えば、直ぐチタの高原が眼に浮ぶ。其れは明治三十九年露西亜の帰途かえりだった。七月下旬、莫斯科もすくわを立って、イルクツクで東清鉄道の客車に乗換え、莫斯科を立って十日目とおかめチタを過ぎた。故国を去って唯四ヶ月、然しウラルを東に越すと急に汽車がまどろかしくなる。イルクツク乗換のりかえた汽車の中に支那人のボオイが居たのが嬉しかった。イルクツクから一駅毎に支那人を多く見た。チタではことに支那人が多く、満洲まんしゅう近い気もち十分じゅうぶんであった。バイカルから一路上って来た汽車は、チタから少し下りになった。下り坂の速力早く、好い気もちになって窓からのぞいて居ると、空にはあらぬ地の上の濃い碧色へきしょくがさっと眼にうつった。野生千鳥草の花である。彼は頭を突出して見まわした。鉄路の左右、人気も無い荒寥こうりょうを極めた山坡に、見る眼も染むばかり濃碧のうへきの其花が、今を盛りに咲き誇ったり、やゝ老いてむらさきがかったり、まだつぼんだり、何万何千数え切れぬ其花が汽車を迎えては送り、送りては迎えした。窓にもたれた彼は、気も遠くなる程其色に酔うたのであった。
 然しながら碧色の草花の中で、彼はつゆ草の其れにした美しい碧色を知らぬ。つゆ草、又の名はつき草、螢草ほたるぐさ鴨跖草おうせきそうなぞ云って、草姿そうしは見るに足らず、唯二弁よりる花は、全き花と云うよりも、いたずら子にむしられたあまりの花の断片か、小さな小さな碧色のちょうただかりそめに草にとまったかとも思われる。寿命も短くて、本当に露の間である。然も金粉きんふんを浮べた花蕊かずい映発えいはつして惜気もなく咲き出でた花のとおる様なあざやかな純碧色は、何ものもくらぶべきものがないかと思うまでに美しい。つゆ草を花と思うはあやまりである。花では無い、あれは色に出た露のせいである。姿もろく命短く色美しい其面影は、人の地に見る刹那せつなの天の消息でなければならぬ。里のはずれ、耳無地蔵の足下あしもとなどに、さま/″\の他の無名草ななしぐさ醜草しこぐさまじり朝露を浴びて眼がさむるように咲いたつゆ草の花を見れば、竜胆りんどうめた詩人の言を此にもりて、青空の□気こうきしたたり落ちて露となり露色に出てこゝに青空を地によみがえらせるつゆ草よ、地に咲く天の花よとたたえずには居られぬ。「ガリラヤ人よ、何ぞ天を仰いで立つや。」吾等は兎角青空ばかり眺めて、足もとに咲くつゆ草をつい知らぬみにじる。
 碧色の草花として、つゆ草はすいである。


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     おぼろ夜

 早夕飯のあと、晩涼ばんりょうに草とりして居た彼は、日は暮れる、ブヨは出る、手足を洗うて上ろうかとぬれ縁に腰かけた。其時門口から白いものがすうと入って来た。彼はじいと近づくものを見て居たが、
「あゝMくんですか」
こえをかけた。
 其は浴衣の着流きながしで駒下駄を穿いたM君であった。M君は早稲田わせだ中学の教師で、かたわら雑誌に筆を執って居る人である。彼が千歳村に引越したあくる月、M君は雑誌に書くりょうに彼の新生活を見に来た。丁度ちょうど樫苗かしなえを植えて居たので、ろく/\火の気の無い室に二時間も君を待たせた。君はいかる容子もなくしずかに待って居た。温厚な人である。其れから其年の夏、月の一夜いちや、浴衣の上に夏羽織など引かけて、ぶらりと尋ねて来た。M君は綱島つなしま梁川りょうせんくんの言として、先ず神を見なければ一切の事悉く無意義だ、神を見ずして筆を執るなぞ無用である、との説に関し、自身の懊悩おうのうを述べ、自分の様な鈍根の者は、一切を抛擲ほうてきして先ず神を見る可く全力を傾注する勇気が無い、と嘆息して帰った。
 其後久しく消息を聞かなかったが、今夜一年ぶりに突然君は来訪したのであった。
 君の所要は、先月さきで物故した一文士に関する彼の感想を聞くにあった。彼は故人について取りとめもない話をした。故人と彼とは同じ新聞社の編輯局へんしゅうきょくに可なり久しく居たのであったが、故人は才華発越、筆をとれば斬新警抜ざんしんけいばつ、話をすれば談論火花を散らすに引易え、彼はわれながらもどかしくてたまらぬ程の迂愚うぐ、編輯局の片隅に猫の如く小さくなって居たので、故人と心腹をひらいて語る機会もなく、故人の方には多少の侮蔑ぶべつあり、彼の方には多少の嫉妬しっと羨望せんぼうあり、身は近く心ははなれ/″\に住んだ。其後故人も彼も前後に新聞社を出て、おの/\自家じかの路を歩み、顔を見ること稀に、消息を聞かぬ日多く打過ぎた。然し彼は一度故人と真剣の話をしたいと久しく思うて居た。日露戦争の終った年の暮、彼は一の心的革命をけみして、まさに東京を去り山に入る決心をして居た時、ある夜彼は新橋停車場の雑沓ざっとうの中に故人を見出した。何処どこぞへ出かけるところと覚しく、茶色の中折なかおれをかぶり、細巻の傘を持ち、瀟洒さっぱりした洋装をして居た。彼は驚いた様な顔をして居る故人を片隅かたすみに引のけて、二分間の立話をした。彼は従来の疎隔そかくを謝し、自愛を勧め、握手して別れた。これが最始さいしの接近で、また最後の面会であった。
 M君と彼の話は、故人の事から死生の問題に入った。心霊の交感、精神療法と、話は色々に移って往った。
 彼等は久しく芝生の縁代えんだいで話した。M君がし去ったのは、夜もけて十二時近かった。
 彼はM君を八幡下まで送って別れた。夏ながら春の様なおぼろ月、谷向うの村は朦朧ぼんやりとうち煙り、田圃たんぼかわずの声も夢を誘う様なおぼろ夜である。
「それじゃ」
「失礼」
 駒下駄の音も次第しだいかすかになって、浴衣ゆかた姿すがたの白いM君は吸わるゝ様にもやの中に消えた。

           *

 其後ふっつりM君の消息を聞かなかったが、翌年よくとしある日の新聞に、M君が安心あんしんを求む可く妻子を捨てゝ京都山科やましな天華香洞てんかこうどうはしった事を報じてあった。間もなく君は東京に帰って来たと見え、ある雑誌に君が出家の感想を見たが、やがて君が死去の報は伝えられた。
 見神の一義に君は到頭とうとう精力せいりょく傾注けいちゅうせずに居られなくなったのである。しかして生涯の大事だいじ、生存の目的を果したので、君は軽く肉のころもを脱いだのであろう。


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     ヤスナヤ、ポリヤナの未亡人へ

       一

 夫人おくさん
 私はとくに手紙を差上げねばならなかったのでした。実は幾回いくたびも幾回もペンをったのでした。ペンを執りは執りながら、如何どうしても書くことが出来なかったのです。今日きょうビルコフさんの書いた故先生小伝の英訳を見て居ましたら、丁度先生の逝去せいきょ六週間前に撮影されたと云う先生とあなたの写真が出て居ました。熟々つくづく見て居る内に、私の眼はかすんで来ました。嗚呼ものが言いたい! 話がしたい! 然し先生は最早もう霊です。私のまずい言葉をらずとも、先生と話すことが出来ます。書くならあなたに書かねばならぬ。そこで此手紙を書きます。私はうちつけに書きます。万事直截其ものでお出のあなたは、私が心底しんそこから申すことをゆるして下さるだろうと思います。

       二

 何から申しましょうか。書く事があまり多い。最初先生の不可思議ふかしぎにわかの家出を聞いた時、私は直ぐ先生の終が差迫さしせまって来た事を知りました。それで先生のに接した時も、少しも驚きませんでした。勿論先生を愛する者にとっては、先生の最期は苦しい最期でした。何故なぜ先生は愛妻愛子愛女の心尽しの介抱かいほうの中に、其一片と雖も先生を吾有わがものと主張し要求し得ぬものはない切っても切れぬ周囲の中に、おだやかに死なれる事が何故出来なかったでしょうか? 何故其生の晩景ばんけいになって、あわれなひとり者の死に様をする為に其温かなからさまよい出られねばならなかったのでしょうか? 世故せこ経尽へつくし人事を知り尽した先生が、何故其老年に際し、いや墓に片脚かたあしおろしかけて、釈迦牟尼しゃかむにの其生の初にられた処をされねばならなかったか? 世間は誰しも斯く驚きあやしみました。不相変主我的しゅがてきだと非難した者も少なくありませんでした。一風いっぷうかわった天才の気まぐれと笑ったのは、まだよい方かも知れません。先生もつらかったでしょう。然し夫人おくさん、悲痛の重荷はひとえにあなたの肩上に落ちました。あなたの経歴された処は、思うも恐ろしい。長い長い生涯の間、先生とんで先生を愛されたあなたが、此世の旅の夕蔭ゆうかげに、見棄てゝしまわれた様な姿になられようとは! そうしてトルストイの邪魔物は此であると云った様に白昼ひるひなか世界の眼の前にさらしものになられようとは! 夫人、誰かあなたに同情をさゝげずに居られましょう乎。如何に頑固な先生の加担者かとうどでも、如何程にがり切ったあなたの敵対者てきたいしゃでも、堪え難いあなたの苦痛と断腸だんちょう悲哀かなしみとは、其幾分を感ぜずに居られません。彼池のほとりの一刹那いっせつなを思うては、戦慄せんりつせずには居られません。

       三

 然し夫人、世に先生を非難する者の多かった様に、あなたを非難する者も少くありませんでした。白状します、私も其一人でした。トルストイと云う様な偉大な名は、世界の目標です。先生や先生の一家一門の所作しょさは、万人のつぶさる所、批評のまとであります。そこで先生のかなしい最期前後の出来事は、如何様どのような微細な事までも、世界中の新聞雑誌に掲載されて、色々の評判を惹起ひきおこしました。私は漏らさず其記事を見ました。無論誤報ごほう曲説きょくせつも多かったでしょう。針小棒大しんしょうぼうだいの記事も沢山あったに違いありません。然し打明けて云えば、其記事については、私は非常に心をいたむる事が多かった。打明けて云えば、夫人、私はあなたに対して少からぬ不平があったのです。勿論白がいや白くなれば、鼠色ねずみいろ純黒まっくろいきおいなる様なもので、故先生があまりに物的ぶってき自我じがを捨てようとせられた為、其反動の余勢であなたは実際以上に自己を主張されねばならぬ様なハメになられたこともありましょう。それでなくても、婦人は自然に物質的になる可き約束のもとにあるのです。先生がさんおさむる事をやめられてから、一家の主人役に立たれたあなたが、児孫じそんの為に利益を計り権利を主張し、切々せっせと生活の資を積む可く努められたのも、致方はないと云った様な御気の毒なわけで、あなたの方から云えば先生にこそ不平あれ、先生から不足を云われる事はない筈です。と、誰もそう申しましょう。然し夫人、生計を立つると云うも、程度の問題です。あなたが家の為を思わるゝあまり、ノーベル賞金を辞された先生に不満をいだかれたり、何万ルーブルの為に先生の声を蓄音器に入れさせようとしたり、其外種々仁人じんじんとしても詩人としても心の富、霊の自由、人格の尊厳そんげんを第一位に置く霊活不覊れいかつふきなる先生の心をいたむるのは知れ切った事まで先生にしいられたのは、あまりと云えば無惨むざんではありますまいか。あなたはトルストイの名を其様そんなに軽いやすっぽいものに思ってお出なのでしょう乎。「吾未だ義人ぎじんすえの物乞いあるくを見し事なし」とソロモンは申しました。トルストイの妻はそのおっとをルーブルにして置かねばならぬ程貧しい者でしょう乎。トルストイの子女は、其父を食わねば生きられぬほど腑甲斐ふがいないものでしょう乎。私にはあなたがハズミに乗って機械的にられたと思う外、ドウもあなたのお心持が分かりません。全く正気の沙汰とは思われかねるのです。莫斯科モスクワの小店なぞに切々せっせ売溜うりだめの金勘定ばかりして居るかみさんのマシューリナ、カテーリナならいざ知らず、世界のトルストイの夫人の挙動ふるまいとしては、よく云えばあまりに謙遜けんそんな、まさしく云えばあまりに信仰がないさもしい話ではありますまい乎。私は先生の心中が思われて、つらくてなりません。昔先生が命をかけてれられた美しい素直なソフィ嬢は、斯様こんな心のうつろった老伯爵夫人になってしまわれたのでしょう乎。其れから先生逝去せいきょ後の御家の挙動ふるまいは如何です? 私はしば/\叫びました、先生も先生だ、何故なぜ先生は彼様な烈しい最後さいごの手段を取らずに、犠牲となっておだやかに家庭に死ぬることが出来なかっただろう乎、あまりに我強がづよい先生であると。然し此は先生がトルストイである事を忘れたからの叫びです。誰にでも其人相応そうおうの生きようがあり、また其人相応の死に様があります。トルストイの様な人でトルストイの様な境遇にある者は、彼様な断末魔だんまつまが当然で且自然であります。少しも無理は無い。余人にあっては兎も角も、先生にあっては彼様ああでなくては生の結末がつかぬのです。一切の人慾じんよく、一切の理想が恐ろしい火の如くうちに燃えてたたこうた先生には、灰色はいいろにぼかした生や死は問題の外なのです。あなたに対するしんの愛から云うても、理想に対する操節そうせつから云っても、出奔しゅっぽん浪死ろうしは必然の結果です。仮に先生が其趣味主張を一切胸にたたんで、所謂家庭の和楽わらくの犠牲となって一個の好々翁こうこうおうとして穏にヤスナヤ、ポリヤナ瞑目めいもくされたとして、先生は果してトルストイたり得たでしょう乎。其死が夫人おくさん、あなたをはじめとして全世界に彼様あん警策けいさくを与えることが出来たでしょう乎。あの最後さいご臨終りんじゅうあるが為に、先生等身の著作、多年の言説に画竜がりゅうせいてんじたのではありますまい乎。確に然です。トルストイは手軽に理想を実行してのける実行家では無い、然しトルストイは理想を賞翫しょうがんして生涯をおわる理想家で無い、トルストイは一切の執着しゅうちゃく煩悩ぼんのうを軽々にすべける木石人で無い、然しトルストイは最後の一息を以ても其理想を実現すべく奔騰ほんとうする火の如き霊であると云う事が、墨黒すみぐろの夜の空に火焔かえんの字をもて大書した様に読まるゝのです。獅子は久しく眼に見えぬおりの中で獅子吼ししくをしたり、まりもてあそんだり、無聊むりょうもだえたりして居ましたが、最後に身をおどらして一躍いちやく檻外らんがいに飛び出で、万里の野にはしって自由の死を遂げました。いたましく然も偉大なる死! 先生の死は、先生が最後の勝利でした。夫人、あなたは負けました。だからあなたの煩悶はんもんも、御家の沸騰ふっとうも起きたのです。但今は斯く思うものゝ、其当時私は思いました、先生は先生としても、何故あなたも令息令嬢達も黙ってかなしんで居られることが出来なかったのでしょう乎。何故のあの諍論そうろん? 何故の彼喧嘩? 無論先生の出奔と死は、云わば爆裂弾ばくれつだんを投げたもので、あとの騒ぎが大きいのが自然であるし、また必要でもあるし、石が大きければ水煙もおびただしいと云った様なもので、傍眼わきめには醜態しゅうたい百出トルストイ家の乱脈らんみゃくと見えても、あなたの卒直そっちょく一剋いっこくな御性質から云っても、令息令嬢達の腹蔵ふくぞうなき性質から云っても、世界の目の前にある家の立場たちばから云っても、云うべき事は云わねばならず、弁難べんなん論諍ろんそうも致方はもとよりありますまい。苟且かりそめの平和より真面目の争はまだましです。ただ私は先生のあのいたましい死を余儀なくした其事情を思うに忍びず、また先生の墓上ぼじょうなみだいまだ乾かざるに家族の方々が斯く喧嘩けんかさるゝを見るに忍びなかったのであります。然し我々は人間です。人間として衝突は自然の約束であります。先生もよく/\思い込まるればこそ、彼死様しにようをされた。そうしていつわることをトルストイ家の人々なればこそ、彼あらそいもあったのでしょう。加之それに、承われば此頃では諸事しょじ円滑えんかつに運んで居るとやら、愚痴ぐちは最早言いますまい。唯先生を中心として起った悲劇にり御一同の大小だいしょう浅深せんしんさま/″\に受けられた苦痛から最好きものゝ生れ出でんことを信じ、且いのるのみであります。

       四

 勿論先生があなたを深く深く愛された事は、誰よりもあなたこそ御存じのはず。あなたを離れて出奔される時にも、先生はあなたを愛して居られた。いや、深くあなたを愛さるればこそ先生は他人に出来ない事を苦痛を忍んでられたのです。頗無理な言葉の様ですが、先生の家出の動機の重なる一が、あなたはじめ先生の愛さるゝ人達の済度さいどにあった事は決して疑はありません。人は石を玉と握ることもあれば、玉を石となげうつ場合もあります。獅子は子をがけから落します。我々の捨てるものは、往々我々にとって一番捨て難いたからなのです。先生にとって人のかたちをとった一番の宝は、あなたでした。臨終の譫言うわごとにもあなたの名を呼ばれたのでも分かる。あなたは最後までも先生の恋人でした。あなたの為に先生は彼様あんな死をされた。あなたは衷心ちゅうしんに確にソレを知ってお出です。夫人、あなたは其深い深い愛のもとに頭をれて下さることは出来ないのでしょう乎。人の霊魂は不覊ふき独立どくりつなもの、肉体一世の結合は彼もしくば彼女の永久の存在を拘束することは出来ないのですから、先生の生前、先生は先生の道、あなたはあなたのみちを別々に辿たどられたのも致方は無いものゝ、先生が肉のころもを脱がれた今日、私は金婚式でも金剛石婚式こんごうせきこんしきでもなく、第二の真の結婚が御両人おふたりの間に成就されん事を祈ってまないのであります。悲哀ひあいを通して我々はきよめられるのです。苦痛を経由けいゆして我々は智識に達するのです。敬愛する夫人よ、先生はあなたの良人御家族の父君で御いででしたが、また凡そ先生を信愛する者の総ての父でした。敬愛する夫人よ、あなたは今ヤスナヤ、ポリヤナ小王国しょうおうこくの皇太后で御出ですが、同時にあなたをる程の者の母君となられるのである事をおわすれなすってはなりません。夫人、御安心なさい、あなたにお目にかゝった程の者は、誰かあなたの真面目なそうして勇敢な霊魂たましいを尊敬せぬ者がありましょう乎。誰かあなたの故先生に対する愛の助勢によって、人類に貢献されたはたらきを知らない者がありましょう乎。あなたがおいででなかったら、先生が果してあの偉大なトルストイと熟された乎、否乎いなか、分かりません。先生が不朽ふきゅうである如く、あなたも不朽です。あなたはかつて自伝を書いて居ると云うお話でした。あれは著々ちゃくちゃく進行しつゝあることゝ思います。私は其面白かる可きページのぞきたくてなりません。出版されたら、種々分明する事があろうと思います。我々一同に対してあなたはたての一面を示される義務があります。何卒どうぞ独得の真摯しんしと気力とをもてあなたの御言おいぶんをお述べ下さい。我々一同其一日も早く出版されんことを待って居る者であります。

       五

 今日きょうは七月の三日です。七年前の丁度ちょうど今日は、ヤスナヤ、ポリヤナ御厚遇ごこうぐうけて居ました。其折お目にかゝった方々や色々の出来事を、私は如何様どんなにはっきりと記憶して居るでしょう。正に今日でした、私はあのはなれからペンとインキを持ち出して、彼かえでの下の食卓に居られる皆さんの署名を記念の為に求めました。其手帳は今私の手近にあります。私はけて見ました。みなある焉。先生のも、あなたのも、其他皆さんの手によって署せられた皆さんの名が歴々れきれきとして其処にあります。インキもまだ乾かないかと思われるばかりです。然るに、おもえば先生の椅子いす最早もう永久に空しいのです。此頃はかえでの下の彼食卓もさぞさびしいことでしょう。私はマウド氏の先生の伝を見て、オボレンスキー公爵夫人マリーさんも、私がお目にかゝって間もなく死去された事を知りました。私はマリーさんが大好だいすきでした。最早あの方もホンの記憶になってしまわれたのです。先頃莫斯科モスクワから帰って来られた小西君に面会しました。小西君は彼かなしい出来事の少し前に先生に会われ、それから葬儀にも出られたそうです。然しあなたや御家族の事については、あまり知って居られないのでした。多分伯アンドリゥ君は御同居だろうと思います。ドウかよろしく、私は時々アンドリゥ君の事を思うて居るとおつたえ下さい。レオ君の御一家は聖彼得堡サンペテルブルグにお住いですか。ヤスナヤ、ポリヤナの園でトチ/\歩みをして居られたお孫達も、最早大きなむすこさん達になられたでしょう。伯令嬢はくれいじょうアレキサンドラは如何して居られますか。私は折々あの□ロンカの川辺で迷子になって、令嬢をわずらわして探しに来ていたゞいた事をおもい出します。ミハイル君は如何です。私は唯一度、それもホンの一寸会ったゞけですが、大層好きな方と思いました。ジュリヤ嬢はとくにヤスナヤ、ポリヤナを去られたとか。マコ□ィッキー[「マコ□ィッキー」に傍線]君は今何処に居られるでしょう? スホーチン君は矢張やはりヂュマの議員でお出ですか。オボレンスキー公爵と、鼻眼鏡をかけて居られる其母堂ぼどうとは、御息災ですか。イリヤはまだ勤めて居ますか。曾て其人を私も手伝って牧草をいた料理番の老細君は達者にして居ますか。
 嗚呼彼の楓の下の雪白まっしろの布をおおうた食卓、其処そこに朝々サモ□ルが来りむ人を待ってぎんじ、其下の砂は白くて踏むにやわらかなあの食卓! 先生は読み、あなたはうて居られた彼露台バルコニーゆうべ! 家の息達と令嬢とマンドリンをいて歌われた彼□ランダの一夜! 彼□ロンカの水浴! 彼すずしい、そうして木の葉の網目あみめる日光が金の斑点はんてんを地に落すあの白樺しらかばの林の逍遙しょうよう! 先生も其処に眠って居られる。記憶から記憶と群がり来って果しがない。ああ今一度なつかしいヤスナヤ、ポリヤナに往って見たい!
 敬愛する夫人よ。私は長い手紙を書いてしまいました。最早こゝでペンをさしおかねばなりません。願わくば神あなたの寂寥せきりょうを慰めて力を与え玉わんことを。願わくばあなたの晩年が、彼露西亜ろしあうるわしい夏のゆうべの様に穏に美しくあらんことを。おわりのぞみ、私の妻もあなたのわれ負わるゝ数々かずかずの重荷に対し、真実御同情申上げる旨、呉々くれぐれも申しました。
一九一二年 七月三日
ヤスナヤ、ポリヤナと其記念を永久に愛する
―――  ―――――


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     安さん

 乞食こじきも色々のが来る。春秋しゅんじゅうの彼岸、三五月の節句せっく、盆なンどには、服装なりも小ざっぱりした女等が子供をおぶって、幾組も隊をなして陽気にやって来る。何処どこから来るのかと聞いたら、新宿しんじゅくからと云うた。浅草紙、やす石鹸やす玩具おもちゃなど持て来るほンの申訳もうしわけばかりの商人実際のおもらいも少からず来る。いつめた渡り職人、仕事にはなれた土方、都合つごう次第で乞食になったり窃盗せっとうになったり強盗ごうとうになったり追剥おいはぎになったりする手合も折々おりおり来る。曾てある秋の朝、つい門前もんぜん雑木林ぞうきばやしの中でがさ/\音がするので、ふっと見ると、昨夜此処に寝たと見えて、一人ひとりの古い印半纏しるしばんてんを着た四十ばかりの男が、ねむたい顔して起き上り、欠伸あくびをして往って了うた。
 一般的乞食の外に、特別名指しの金乞いも時々来る。やりたくても無い時があり、あってもやりたくない時があり、二拍子ふたひょうしそろって都合よくやる時もあり、ふかし甘藷いも二三本新聞紙につつんで御免を蒙る場合もある。然し斯様こんな特別のは別にして、彼が村居そんきょ六年の間に懇意こんいになった乞食が二人ある。せんさんとやすさん。
 仙さんは多少たしょう富裕ゆたかな家の息子の果であろう。乞食になっても権高けんだかで、中々吾儘である。五分苅頭ごぶがりあたま面桶顔めんつうがお、柴栗を押つけた様な鼻と鼻にかゝる声が、昔の耽溺たんできを語って居る。仙さんは自愛家である。飲料いんりょうには屹度きっと湯をくれと云う。曾て昆布こんぶの出しがらをやったら、次ぎに来た時、あんな物をくれるから、醤油しょうゆを損した上に下痢げりまでした、といかった。小婢こおんな一人留守して居る処に来ては、茶をくれ、飯をくれ、果てはお前の着て居る物を脱いでくれ、と強請ねだって、婢は一ちゞみになったことがある。主婦が仙さんの素生すじょうを尋ねかけたら、「乃公おれに喧嘩を売るのか」と仙さんは血相を変えた。ある時やるものが無くて梅干うめぼしをやったら、斯様なものと顔をしかめる。居合わした主人は、思わず勃然むっとして、貰う者の分際ぶんざい好悪よしあしを云う者があるか、としかりつけたら、ブツ/\云いながら受取ったが、門を出て五六歩行くと雑木林ぞうきばやしに投げ棄てゝ往った。追かけてちのめそうか、と思ったが、やっとこらえた。彼は此後仙さんをにくんだ。其後一二度来たきり、此二三年は頓斗とんと姿すがたを見せぬ。
 我強がづよい仙さんに引易ひきかえ、気易きやすの安さんは村でもうけがよい。安さんは五十位、色の浅黒あさぐろい、眼のしょぼ/\した、何処どこやらのっぺりした男である。安さんは馬鹿を作って居る。夏着なつぎ冬着ありたけの襤褸ぼろ十二一重じゅうにひとえをだらりとまとうて、破れしゃっぽのこともあり、黒い髪を長く額に垂らして居ることもあり、或は垢染あかじみた手拭を頬冠ほおかむりのこともある。下駄を片足、藁草履わらぞうりを片足、よく跛いてあるく。かつ穿きふるしの茶の運動靴うんどうぐつをやったら、早速穿いて往ったが、十日たゝぬ内に最早もう跣足はだしで来た。
 江戸の者らしい。何時いつ、如何な事情の下に乞食になったか、余程話を引出そうとしても、中々其手に乗らぬ。唯床屋をして居たと云う。剃刀そりぐのでもありませんか、とある時云うた。主人のひげは六七年来放任主義であまりうるさくなるとはさみるばかりだし、主婦はして来て十八年来一度も顔をったことがないので、家には剃刀かみそりと云うものが無い。折角の安さんの親切も、無駄であった。然し剃刀そりがあった処で、あの安さんの清潔きれいな手では全く恐れ入る。
 いつも門口かどぐちに来ると、杖のさきでぱっ/\とごみを掃く真似をする。其おとを聞いたばかりで、安さんとわかった。「おゝそれながら……」と中音で拍子ひょうしをとって戸口に立つこともある。「春雨はるさめにィ……」と小声で歌うて来ることもある。ある時来たのをつらまえて、ざるで砂利を運ぶ手伝をさせ、五銭やったら、其れから来る毎に「仕事はありませんか」と云う。時々は甘えて煙草をくれと云う。此家うちではまぬと云っても、忘れてはまた煙草をくれと云う。正直の仙さんは一剋いっこくで向張りが強く、智慧者ちえしゃの安さんは狡獪ずるくてやわらかな皮をかぶって居た。
 夏は乞食の天国である。夏は我儕われらも家なンか厄介物を捨てゝしもうて、野に寝、山に寝、日本国中世界中乞食してまわりたい気も起る。夏は乞食の天国である。唯だけがきずだが、至る処の堂宮どうみや寝室ねま日蔭ひかげの草はしとね、貯えれば腐るので家々の貰い物も自然に多い。ある時、安さんが田川たがわの側にひざまずいて居るのを見た。
「何をして居るのかね、安さん?」
 こえをかけると、安さんは寝惚ねぼけた様な眼をあげて、
「エ、エ、洗濯をして」
と答えた。麦藁帽むぎわらぼうの洗濯をして居るのであった。処々の田川は彼の洗濯場で、また彼の浴槽であった。
 冬はみじめだ。小屋かけ、木賃宿きちんやど、其れ等に雨雪をしのぐのは、乞食仲間でも威張いばった手合で、其様な栄耀えいようが出来ぬやからは、村の堂宮どうみや、畑の中の肥料こやし小屋、止むなければ北をよけたがけの下、雑木林の落葉の中に、焚火たきびを力にうと/\一夜をあかすのだ。そこでよく火事が起る。彼が隣の墓地ぼちにはもと一寸した閻魔堂えんまどうがあったが、彼が引越して来る少し前に乞食の焚火たきびから焼けて了うて、木の閻魔様ははいになり、石の奪衣婆だつえばばかり焼け出されて、露天ろてんに片膝立てゝこわい顔をして居る。鎮守ちんじゅ八幡でも、乞食の火が険呑けんのんと云うので、つい去年拝殿に厳重な戸締りを設けて了うた。安さんの為に寝所しんじょが一つ無くなったのである。それかあらぬか、近頃一向安さんの影を見かけなくなった。
「安さんは如何したろ?」
 彼等はしば/\斯くうわさをした。
 昨日おんなが突然安さんの死を報じた。近所の女児むすめが斯く婢に云うたそうだ。
「安さんなァ、安さんな内のお安さんが死んだ些前ちょっとまえに、は、死んじまったとよ」
 近所のお安さんと云う娘が死んだのは、五月の初であったから、乞食の安さんは桜の花の頃に死んだものと見える。
 安さんは大抵たいてい甲州街道南裏の稲荷いなりの宮に住んで居たそうだ。埋葬は高井戸でしたと云うが、如何どん臨終りんじゅうであったやら。
「あれで中々女が好きでね、女なんかゞ一人で物を持って往ってやるといけないって、みんなが云ってました」
と婢が云うた。
 安さんが死んだか。乞食の安さんが死んだか。
「死んで安心な様な、可哀想かあいそうな様な気もちがしますよ」
 主婦が云うた。
 秋の野にさす雲のかげの様に、あわかなしみがすうと主人あるじの心をかすめて過ぎた。


[#改丁]



   麦の穂稲穂

     村の一年

       一

 都近いこのへんの村では、陽暦陰暦を折衷せっちゅうして一月おくれで年中行事をやる。陽暦正月は村役場の正月、小学校の正月である。いさゝか神楽かぐらの心得ある若者連が、松の内の賑合にぎわいを見物かた/″\東京に獅子舞ししまいに出かけたり、甲州街道を紅白美々しくかざり立てた初荷の荷馬車が新宿さしてきしらしたり、黒の帽子に紫の袈裟けさ、白足袋に高足駄の坊さんが、年玉を入れた萌黄もえぎの大風呂敷包をくびからつるして両手でかかえた草鞋わらじばきの寺男を連れて檀家だんかの廻礼をしたりする外は、村は餅搗もちつくでもなく、門松一本立つるでなく、至極しごく平気な一月である。唯農閑のうかんなので、青年の夜学がはじまる。井浚いどざらえ、木小屋の作事さくじ、屋根のき更え、農具の修繕しゅうぜんなども、此すきにする。日なたぼこりで孫いじりにも飽いた爺の仕事は、くわ煙管ぎせる背手うしろでで、ヒョイ/\と野らの麦踏むぎふみ。若い者の仕事は東京行の下肥しもごえりだ。寒中の下肥には、うじかぬ。堆肥たいひ製造には持て来いの季節、所謂寒練かんねりである。夜永の夜延よなべには、親子兄弟大きな炉側ろばたでコト/\わらっては、俺ァ幾括いくぼおめえ何足なんぞくかと競争しての縄綯なわな草履ぞうり草鞋わらじ作り。かみさんや娘は、油煙ゆえん立つランプのはたでぼろつぎ。兵隊に出て居る自家うちの兼公の噂も出よう。東京帰りに兄が見て来た都の嫁入よめいりぐるまの話もあろう。
 都でははれの春着もとうに箪笥の中に入って、歌留多会の手疵てきずあとになり、お座敷ざしきつゞきのあとに大妓だいぎ小妓のぐったりとして欠伸あくびむ一月末が、村の師走しわす煤掃すすはき、つゞいて餅搗もちつきだ。寒餅かんもちはわるくならぬ。水にひたして置いて、年中の茶受ちゃうけせわしい時の飯代り、多い家では一石も二石も搗く。縁者えんじゃ親類加勢し合って、歌声うたごえにぎやかに、東でもぽったん、西でもどったん、深夜しんやの眠を驚かして、夜の十二時頃から夕方までもく。陽暦で正月をましてとくに餅は食うてしもうた美的びてき百姓の家へ、にこ/\顔の糸ちゃん春ちゃんが朝飯前に牡丹餅ぼたもちを持て来てくれる。辰じいさんとこのは大きくて他家よその三倍もあるが、きが細かで、上手じょうずに紅入の宝袋たからぶくろなぞこさえてよこす。下田の金さんとこのは、あんは黒砂糖だが、手奇麗てぎれいで、小奇麗な蓋物ふたものに入れてよこす。気取ったおかず婆さんからは、餡がお気に召すまいからと云って、唯搗き立てをちぎったまゝで一重ひとじゅうよこす。礼に往って見ると、おくは正月前らしく奇麗にかれて、土間どまにはちゃんと塩鮭しおざけの二枚もつるしてある。

       二

 二月は村の正月だ。松立てぬうちはあるとも、着物更えて長閑のどかに遊ばぬ人は無い。甲州街道は木戸八銭、十銭の芝居しばいが立つ。浪花節が入り込む。小学校で幻燈会げんとうかいがある。大きな天理教会、小さな耶蘇教会で、東京から人を呼んで説教会がある。府郡の技師が来て、農事講習会がある。節分は豆撒まめまき。七日が七草ななくさ。十一日が倉開き。十四日が左義長さぎちょう。古風にやる家も、手軽でやらぬ家もあるが、要するに年々昔は遠くなって行く。名物は秩父ちちぶおろし乾風からっかぜ霜解しもどけだ。武蔵野は、雪は少ない。一尺の上も積るはまれで、五日と消えぬは珍らしい。ある年四月に入って、二尺の余も積ったのは、季節からも、量からも、井伊いい掃部かもんさん以来の雪だ、と村の爺さん達も驚いた。武蔵野はしもの野だ。十二月から三月一ぱいは、おびただしい霜解けで、草鞋か足駄あしだ長靴でなくては歩かれぬ。霜枯しもがれの武蔵野を乾風が□々ひゅうひゅうと吹きまくる。霜と風とで、人間の手足も、土の皮膚はだも、悉くひびあかぎれになる。乾いた畑の土は直ぐちりに化ける。風が吹くと、雲と舞い立つ。遠くから見ればまさに火事の煙だ。火事もよくある。乾き切った藁葺わらぶきの家は、このうえも無い火事の燃料、それにへっついも風呂も藁屑をぼう/\燃すのだからたまらぬ。火事の少ないのがむしろ不思議である。村々字々に消防はあるが、無論間に合う事じゃない。夜遊び帰りの誰かが火を見つけて、「おゝい、火事だよゥ」と呼わる。「火事だっさ、火事は何処どこだンべか、――火事だよゥ」と伝える。「火事だよう」「火事だァよゥ」彼方あち此方こちで消防の若者が聞きつけ、家に帰って火事かじ袢纏ばんてんを着て、村の真中まんなかの火の番小屋のじょうをあけて消防道具を持出し、わッしょい/\けつける頃は、大概の火事ははいになって居る。人家が独立して周囲に立木たちきがある為に、人家じんか櫛比しっぴの街道筋を除いては、村の火事は滅多めったに大火にはならぬ。然し火の一つ飛んだらば、必焼けるにきまって居る。東京は火事があぶねえから、好い着物は預けとけや、と云って、東京の息子むすこの家の目ぼしい着物を悉皆すっかり預って丸焼にした家もある。
 梅は中々二月には咲かぬ。尤も南をうけた崖下がけしたの暖かいくまなぞには、ドウやらするとすみれの一輪、紫に笑んで居ることもあるが、二月は中々寒い。下旬になると、雲雀ひばりが鳴きはじめる。チ、チ、チ、ドウやら雲雀が鳴いた様だと思うと、翌日は聞こえず、又の日いと明瞭に鳴き出す。あゝ雲雀が鳴いて居る。例令たとえ遠山とおやまは雪であろうとも、武蔵野の霜や氷は厚かろうとも、落葉木らくようぼくは皆はだかで松のみどりは黄ばみ杉の緑は鳶色とびいろげて居ようとも、秩父ちちぶおろしは寒かろうとも、雲雀が鳴いて居る。えかえる初春の空に白光しろびかりする羽たゝきして雲雀が鳴いて居る。春の驩喜よろこびは聞く人の心にいて来る。雲雀は麦の伶人れいじんである。雲雀の歌から武蔵野の春は立つのだ。

       三

 武蔵野に春は来た。暖い日は、甲州の山が雪ながらほのかにかすむ。庭の梅の雪とこぼるゝあたりに耳珍しくも藪鶯やぶうぐいすの初音が響く。然しまだえ返える日が多い。三月もまだ中々寒い月である。初午はつうまには輪番りんばんに稲荷講の馳走ちそう各自てんでに米が五合に銭十五銭宛持寄って、飲んだり食ったりかんを尽すのだ。まだ/\と云うて居る内に、そろ/\はたの用が出て来る。落葉おちばき寄せて、甘藷さつま南瓜とうなす胡瓜きゅうり温床とこの仕度もせねばならぬ。馬鈴薯じゃがいもも植えねばならぬ。
 彼岸前ひがんまえの農家の一大事は、奉公男女の出代でがわりである。田舎も年々人手がすくなく、良い奉公人は引張りあいだ。近くに東京と云う大渦おおうずがある。何処へ往っても直ぐぜにになる種々の工場があるので、男も女も愚図□□ぐずぐず云われると直ぐぷいと出て往って了う。寺本さんの作代さくだいは今年も勤続つづくと云うが、盆暮の仕着せで九十円、彼様あんな好い作代ならやすいもンだ、と皆が羨む。亥太郎さんの末の子は今年十二で、下田さんの子守こもりに月五十銭でやとわれて行く。下唇したくちびるの厚いひささんは、本家で仕事の暇を、大尽の伊三郎さんとこで、月十日のきめで二十五円。石山さんが隣村の葬式に往って居ると娘がけて来て、作代が逃げ出すと云うので、石山さんはあわてゝ葬式の場からしりっからげて作代引とめに走って行く。勘さんの嗣子あととりの作さんは草鞋ばきで女中を探してあるいて居る。ちとさそうな養蚕かいこやといの女なぞは、去年の内に相談がきまってしまう。メレンスの半襟はんえり一かけ、足袋の一足、そっひとの女中のたもとにしのばせて、来年のえさにする家もある。其等の出代りも済んで、やれ一安心と息をつけば、最早彼岸だ。
 線香、花、水桶なぞ持った墓参はかまいりが続々やって来る。丸髷まるまげや紋付は東京から墓参に来たのだ。さびしい墓場にも人声ひとごえがする。線香の煙が上る。沈丁花ちんちょうげや赤椿が、竹筒たけづつされる。新しい卒塔婆そとばが立つ。袈裟けさかけた坊さんが畑の向うを通る。中日は村の路普請みちぶしん。遊び半分若者総出で、道側みちばたにさし出た木の枝を伐り払ったり、ちっとばかりの芝土を路の真中まんなかほうり出したり、路壊みちこわしか路普請か分からぬ。

       四

 四月になる。いよいよ春だ。村の三月、三日にはひなを飾る家もある。菱餅ひしもち草餅くさもちは、何家でも出来る。小学校の新学年。つい去年までろくに口もけなかった近所の喜左坊きさぼうが、兵隊帽子に新らしいカバンをつるし、今日きょうから小学第一年生だと小さな大手を振って行く。五六年前には、式日しきじつ以外いがい女生のはかまなど滅多に見たこともなかったが、此頃では日々の登校にも海老茶えびちゃが大分えた。小学校に女教員が来て以来の現象である。桃之ももの夭々ようよう、其葉蓁々しんしん、桃の節句は昔から婚嫁こんかの季節だ。村の嫁入よめいり婿取むことりは多く此頃に行われる。三日三晩村中呼んでの飲明のみあかしだの、「目出度めでた□□□めでた若松様わかまつさまよ」の歌で十七の嫁入荷物を練込ねりこむなぞは、大々尽だいだいじんの家の事、大抵は万事手軽の田舎風、花嫁自身髪結の家から島田で帰って着物をえ、車は贅沢ぜいたく、甲州街道まで歩いてガタ馬車で嫁入るなぞはまだ好い方だ。足入れと云ってこっそり嫁を呼び、都合つごうの好い時あらためて腰入こしいれをする家もある。はずんだところで調布ちょうふあたりから料理を呼んでの饗宴ふるまいは、唯親類縁者まで、村方むらかた一同へは、婿は紋付で組内若くは親類の男に連れられ、軒別に手拭の一筋半紙の一帖も持って挨拶に廻るか、嫁は真白に塗って、掻巻かいまきほどの紋付のすそを赤い太い手で持って、後見こうけんばあさんかかみさんに連れられてお辞儀じぎをして廻れば、所謂顔見せの義理は済む。村は一月晩ひとつきおくれでも、寺は案外陽暦ようれきで行くのがあって、四月八日はお釈迦様しゃかさま誕生会たんじょうえ。寺々のかねが子供を呼ぶと、とうかあねえに連れられた子供が、小さな竹筒をげて、嬉々ききとして甘茶あまちゃを汲みに行く。
 東京は桜の盛、車も通れぬ程の人出だった、と麹町まで下肥しもごえひきに往った音吉の話。村には桜は少いが、それでも桃が咲く、すももが咲く。野はすみれ、たんぽゝ、春竜胆はるりんどう草木瓜くさぼけあざみが咲き乱るゝ。「木瓜薊、旅して見たく野はなりぬ」せわしくなる前に、此花の季節きせつを、御岳詣みたけまいり、三峰かけて榛名詣はるなまいり、汽車と草鞋わらじで遊んで来る講中の者も少くない。子供連れて花見、潮干に出かける村のハイカラも稀にはある。浮かれてちょうが舞いはじめる。意地悪いじわるの蛇も穴を出る。空では雲雀ひばりがます/\勢よく鳴きつれる。其れにび出される様に、むぎがつい/\と伸びてに出る。子供がぴいーッと吹く麦笛むぎぶえに、武蔵野の日は永くなる。三寸になった玉川のあゆが、密漁者の手からそっと旦那の勝手に運ばれる。仁左衛門さんとこ大欅おおけやきが春の空をでて淡褐色たんかっしょくに煙りそめる。雑木林のならが逸早く、くぬぎはやゝ晩れて、芽をきそめる。貯蔵かこい里芋さといもも芽を吐くので、里芋を植えねばならぬ。月の終は、若葉わかば盛季さかりだ。若々とした武蔵野に復活の生気があふれる。色々の虫が生れる。田圃たんぼに蛙が泥声だみごえをあげる。水がぬるむ。そろ/\種籾たねもみひたさねばならぬ。桑のがほぐれる。彼方あち此方こちも養蚕前の大掃除おおそうじ蚕具さんぐを乾したり、ばた/\むしろをはたいたり。月末には早いとこではき立てる。蚕室をつ家は少いが、何様どんな家でも少くも一二枚わぬ家はない。たけのこの出さかりで、孟宗藪もうそうやぶを有つ家は、朝々早起きがたのしみだ。肥料もかゝるが、一反八十円から百円にもなるので、雑木山は追々おいおい孟宗藪に化けて行く。

       五

 五月だ。来月のせわしさを見越して、村でも此月ばかりは陽暦ようれきで行く。大麦も小麦も見渡す限り穂になって、みどりの畑は夜の白々と明ける様に、総々ふさふさとした白い穂波ほなみただよわす。其が朝露をびる時、夕日にえて白金色に光る時、人は雲雀と歌声うたごえきそいたくなる。五日は□餅かしわもちの節句だ。目もさむる若葉の緑から、黒い赤い紙のこいがぬうと出てほら/\おどって居る。五月五日は府中ふちゅう大国魂おおくにたま神社所謂六所様の御祭礼ごさいれい。新しい紺の腹掛、紺股引こんももひき、下ろし立てのはだし足袋たび、切り立ての手拭をあごの下でチョッキリ結びの若い衆が、おやじをせびった小使の三円五円腹掛に捻込ねじこんで、四尺もある手製の杉のばちかついで、いさんで府中に出かける。六所様にはけい六尺の上もある大太鼓おおだいこが一個、中太鼓が幾個いくつかある。若いたくましい両腕が、撥と名づくる棍棒で力任ちからまかせに打つ音は、四里を隔てゝ鼕々とうとうと遠雷の如くひびくのである。府中の祭とし云えば、昔から阪東男ばんどうおとこの元気任せに微塵みじんになる程御神輿の衝撞ぶつけあい、太鼓の撥のたゝき合、十二時を合図あいず燈明あかりと云う燈明を消して、真闇まっくらの中に人死が出来たり処女むすめおんなになったり、乱暴の限を尽したものだが、警察の世話が届いて、此頃では滅多な事はなくなった。
 落葉木らくようぼくは若葉から漸次青葉になり、すぎまつかしなどの常緑木が古葉をおとし落して最後の衣更ころもがえをする。田は紫雲英れんげそうの花ざかり。林には金蘭銀蘭の花が咲く。ぜんまいや、稀にわらびも立つが、滅多に見かえる者も無い。八十八夜だ。其れ茶もまねばならぬ。茶は大抵たいてい葉のまゝで売るのだ。隠元いんげん玉蜀黍とうもろこし、大豆もかねばならぬ。降って来そうだ。桑はったか。桑つきが悪いはお蚕様こさまが如何ぞしたのじゃあるまいか。養蚕ようさん教師きょうしはまだ廻って来ないか。種籾たねもみは如何した。田のあらおこしもせねばならぬ。苗代掻しろかきもせねばならぬ。最早早生わせ陸稲おかぼも蒔かねばならぬ。何かと云う内、胡瓜きゅうり南瓜とうなす甘藷さつま茄子なすも植えねばならぬ。ひえきびの秋作も蒔かねばならぬ。月の中旬には最早大麦おおむぎが色づきはじめる。三寸の緑から鳴きはじめた麦の伶人れいじんの雲雀は、麦がれるぞ、起きろ、急げと朝未明あさまだきからさえずる。折も折とて徴兵ちょうへいの検査。五分苅頭で紋付羽織でも引かけた体は逞しく顔は子供□□した若者が、此村からも彼村からも府中に集まる。川端のかあちゃんは甲種合格だってね、おらとこの忠はまだ抽籤くじは済まねえが、海軍にられべってこんだ、俺もかせげる男の子はなし、忠をとられりゃ作代さくだいでも雇うべい、国家の為だ、仕方が無えな、と与右衛門さんが舌鼓したつづみうつ。下田の金さんとこでは、去年は兄貴あにきが抽籤でのがれたが、今年は稲公があの体格たいかくで、砲兵にとられることになった。当人はいさんで居るが、阿母おふくろが今からしおれて居る。
 頓着とんちゃくなく日は立って行く。わかれ霜を気遣うたは昨日の様でも、最早春蝉はるぜみが鳴き出して青葉のかげがそゞろこいしい日もある。詩人が歌う緑蔭りょくいん幽草ゆうそう白花はくかを点ずるの時節となって、はたけの境には雪の様にの花が咲きこぼれる。林端りんたんには白いエゴの花がこぼれる。田川のくろには、花茨はないばらかんばしく咲き乱れる。然し見かえる者はない。大切だいじの大切のお蚕様こさまが大きくなって居るのだ。然し月の中に一度雹祭ひょうまつりだけは屹度きっと鎮守の宮でする。甲武の山近い三多摩の地は、甲府の盆地から発生する低気圧が東京湾へぬける通路に当って居るので、雹や雷雨は名物である。秋の風もだが、春暮しゅんぼ初夏しょかの雹が殊に恐ろしいものになって居る。雹の通る路筋みちすじはほゞきまって居る。大抵上流地から多摩川たまがわに沿うてくだり、此辺の村をかすめて、東南に過ぎて行く。既に五年前も成人おとな拳大こぶしほどの恐ろしい雹を降らした。一昨年も唯十分か十五分の間に地が白くなる程降って、場所によっては大麦小麦はたねも残さず、桑、茶、其外青物あおもの一切全滅した処もある。可なりの生活くらしをして居ながら、ぜにになると云えば、井浚いどざらえでも屋根ふきの手伝でも何でもする隣字となりあざの九右衛門じいさんは、此雹に畑を見舞みまわれ、失望し切って蒲団ふとんをかぶって寝てしもうた。ゾラの小説「土」に、ある慾深よくふかの若い百姓が雹に降られて天に向ってこぶしをふり上げ、「何ちゅうこつをしくさるか」と怒鳴どなるところがあるが、無理はない。此辺では「雹乱ひょうらん」と云って、雹は戦争いくさよりも恐れられる。そこで雹祭ひょうまつりをする。榛名様はるなさんに願をかける。然し榛名様も、鎮守の八幡も、如何どうともしかね玉う場合がある。出水のうれいが無い此村も、雹の賜物たまものは折々受けねばならぬ。村の天に納める租税そぜいである。

       六

 六月になった。麦秋むぎあきである。「富士一つうづみ残して青葉あをばかな」其青葉の青闇あおぐらい間々を、れた麦が一面日のの様に明るくする。陽暦六月は「農攻のうこう五月ごげつ急於弦げんよりもきゅうなり」と云う農家の五月だ。農家の戦争で最劇戦さいげきせんは六月である。六月初旬は、小学校も臨時農繁休のうはんきゅうをする。猫の手でも使いたい時だ。子供一人、ドウして中々馬鹿にはならぬ。初旬には最早もうかいこが上るのだ。中旬ちゅうじゅんには大麦、下旬には小麦をるのだ。
 最早梅雨つゆに入って、じめ/\した日がつゞく。簑笠みのかさで田も植えねばならぬ。畑勝はたがちの村では、田植は一仕事、「植田うえだをしまうとさば/\するね」と皆が云う。雨間あままを見ては、苅り残りの麦も苅らねばならぬ。苅りおくれると、畑の麦が立ったまゝに粒から芽をふく。油断を見すまして作物さくもつ其方退そっちのけに増長して来た草もとらねばならぬ。甘藷さつまつるもかえさねばならぬ。陸稲おかぼきびひえ、大豆の中耕ちゅうこうもしなければならぬ。二番茶にばんちゃまねばならぬ。お屋敷にしかられるので、東京の下肥しもごえひきにも行かねばならぬ。時も時とて飯料はんりょうの麦をきらしたので、水車に持て行って一晩ひとばんずの番をしていて来ねばならぬ。最早甲州の繭買まゆかいが甲州街道に入り込んだ。今年はが好くて、川端かわばたの岩さん家では、四円十五銭に売ったと云ううわさが立つ。隣村の浜田さんも繭買をはじめた。工女の四五人入れて足踏あしぶみ器械きかいで製糸をやる仙ちゃん、長さんも、即座師そくざしの鑑札を受けて繭買をはじめた。自家うちのお春っ子お兼っ子に一貫目いっかんめ何銭のき賃をくれて、大急ぎで掻いた繭を車に積んで、重い車を引張って此処其処相場そうばを聞き合わせ、一銭でも高い買手をやっと見つけて、一切合切いっさいがっさい屑繭くずまゆまで売ってのけて、手取てどりが四十九円と二十五銭。夜の目も寝ずに五十両たらずかと思うても、矢張やはりまとまった金だ。持て帰って、古箪笥ふるだんすの奥にしまって茶一ぱい飲むと直ぐ畑に出なければならぬ。
 空ではまだ雲雀が根気よく鳴いて居る。村の木立の中では、何時の間にか栗の花が咲いて居る。田圃の小川では、葭切よしきりが口やかましく終日しゅうじつさわいで居る。杜鵑ほととぎすいて行く夜もある。ふくろうが鳴く日もある。水鶏くいながコト/\たゝくよいもある。螢が出る。せみが鳴く。蛙が鳴く。蚊が出る。ブヨが出る。蠅が真黒まっくろにたかる。のみ跋扈ばっこする。カナブン、瓜蠅うりばえ、テントウ虫、野菜につく虫は限もない。皆生命いのちだ。皆生きねばならぬのだ。到底どうせ取りきれる事ではないが、うっちゃって置けば野菜が全滅になる、取れるだけは取らねばならぬ。此方こっちも生きねばならぬ人間である。手が足りぬ。手が足りぬ。自家の人数にんずではやりきれぬ。果ては甲州街道から地所にはなれた百姓をやとうて、一反何程の請負うけおいで、田も植えさす、麦も苅らす。それでもまだやり切れぬ。墓地の骸骨がいこつでも引張り出して来て使いたい此頃には、死人か大病人の外は手をあけて居る者は無い。盲目めくらの婆さんでも、手さぐりで茶位ちゃぐらいかす。豌豆えんどう隠元いんげんは畑に数珠じゅずりでも、もいでて食うひまは無い。如才じょさいない東京場末の煮豆屋にまめやりんを鳴らして来る。飯の代りにきびの餅で済ます日もある。近い所は、起きぬけに朝飯前あさめしまえの朝作り、遠い畑へはお春っ子が片手に大きな薬鑵やかん、片手に茶受の里芋か餅かを入れた風呂敷包を重そうにげ、小さな体をゆがめておつを持て行く。この季節きせつに農家を訪えば大抵たいていは門をしめてある。猫一疋居ぬ家もある。何を問うても、くる/\とした眼をみはって、「知ンねェや」と答うる五六歳いつつむつの女の子が赤ンぼうと唯二人留守して居るうちもある。斯様こんな時によく子供の大怪我おおけががある。家の内は麦ののげだらけ、墓地は草だらけで、お寺や教会では坊さん教師が大欠伸おおあくびして居る。後生なんか願うて居る暇が無いのだ。

       七

 せわしい中に、月は遠慮えんりょなく七月に入る。六月は忙しかったが、七月も忙しい。
 忙しい、忙しい。何度云うても忙しい。日は永くても、仕事はえない。夜はみじかくてもおち/\眠ることが出来ぬ。何処どこの娘も赤い眼をして居る。何処のかみさんも、半病人はんびょうにんあおい顔をして居る。短気の石山さんが、どんな久さんを慳貪けんどんに叱りつける。「車の心棒しんぼうかねだが、鉄だァて使つかるからナ、おらァ段々かせげなくなるのも無理はねえや」と、小男こおとこながら小気味よく稼ぐたつ爺さんがこぼす。「ちげえねえ、俺ァ辰さんよか年の十も下だンべが、何糞なにくそッ若けもんに負けるもンかってやり出しても、第一いきがつゞかんからナ」と岩畳がんじょうづくりの与右衛門さんが相槌あいづちをうつ。然し耗ってもびても、心棒は心棒だ。心棒が廻わらぬと家が廻わらぬ。折角せっかくり入れた麦も早くいてって俵にしなければ蝶々ちょうちょうになる。今日も雨かと思うたりゃ、さあお天道様てんとさまが出なさったぞ、みんなうと呼ばって、胡麻塩頭ごましおあたまに向鉢巻、手垢に光るくるりぼう押取おっとって禾場うちばに出る。それっと子供が飛び出す。兄が出る。弟が出る。よめが出る。娘が出る。腰痛ようつうでなければ婆さんも出る。奇麗に掃いた禾場うちばに一面の穂麦をいて、男は男、女は女と相並んでの差向い、片足かたあし踏出ふみだし、気合を入れて、一上一下とかわる/″\打下ろす。男は股引ももひきに腹かけ一つ、くろ鉢巻はちまき経木きょうぎ真田さなだの帽子を阿弥陀あみだにかぶって、赤銅色しゃくどういろたくましい腕によりをかけ、菅笠すげがさ若くは手拭で姉様冠あねさまかぶりの若い女は赤襷あかだすき手甲てっこうがけ、腕で額の汗を拭き/\、くるり棒の調子を合わして、ドウ、ドウ、バッタ、バタ、時々ときどきむれの一人が「ヨウ」といさみを入れて、大地もひしげと打下ろす。「おまえさんとならばヨウ、何処どこまでもウ、親を離れて彼世あのよまでもゥ」わかい女の好いこえが歌う。「コラコラ」皆がはやす。禾場うちばの日はかん/\照って居る。くるり棒がぴかりと光る。若い男女の顔は、熟した桃の様に紅光あかびかって居る。空には白光りする岩雲いわぐもうずたかいて居る。
 七月中旬、梅雨つゆがあけると、真剣に暑くなる。明るい麦が取り去られて、田も畑もみどりに返える。然し其は春暮しゅんぼやわらかな緑では無い、日中は緑のほのおく緑である。朝夕はひぐらしの声で涼しいが、昼間は油蝉あぶらぜみの音のりつく様に暑い。涼しい草屋くさやでも、九十度に上る日がある。家の内では大抵誰も裸体はだかである。畑ではズボラの武太さんはふんどし一つで陸稲おかぼのサクを切って居る。十五六日は、東京のおぼんで、此処ここ其処に藪入姿やぶいりすがたの小さな白足袋があるく。甲州街道の馬車は、此等の小僧さんで満員である。

       八

 暴風にも静な中心がある。せわしい農家の夏の戦闘いくさにも休戦のがある。
 七月すえか、八月初か、麦も仕舞しまい、草も一先ず取りしもうたほどよい頃を見はからって、月番から総郷上そうごうあがり正月のふれを出す。総郷業を休み足を洗うて上るの意である。その期は三日。中日は村総出そうでの草苅り路普請みちぶしんの日とする。右左からほしいままに公道をおかした雑草や雑木の枝を、一同らした鎌で遠慮会釈えしゃくもなく切払う。人よく道をひろむを、文義もんぎ通りやるのである。慾張よくばりと名のある不人望な人の畑や林は、此時こそ思い切り切りまくる。昔は兎に角、此の頃では世の中せちからくなって、物日にもかせぐことが流行する。総郷上り正月にも、畑に田にぽつ/\働く影を見うける。
 八月は小学校も休業やすみだ。八月七日は村の七夕たなばた、五色の短冊たんざくさげたささを立つる家もある。やがて于蘭盆会うらぼんえ苧殻おがらのかわりに麦からで手軽に迎火むかえびいて、それでも盆だけに墓地も家内やうちも可なり賑合にぎわい、緋の袈裟けさをかけた坊さんや、仕着せの浴衣単衣で藪入やぶいりに行く奉公男女の影や、断続だんぞくして来る物貰いや、盆らしい気もちを見せて通る。然しこのまずしい小さな野の村では、昔から盆踊ぼんおどりと云うものを知らぬ。一年中で一番好い水々みずみずしい大きな月があがっても、其れは断片的きれぎれに若者の歌をそそるばかりである。まる/\とした月をかたどるを作って、大勢の若い男女が、白い地をみ、黒い影を落して、歌いつおどりつ夜を深して、かたぶく月に一人ひとり二人ふたり寝に行き、到頭とうとう「四五人に月落ちかゝる踊かな」のおもむきは、このへんの村では見ることが出来ぬ。
 夏蚕なつごう家はないが、秋蚕を飼う家は沢山たくさんある。秋蚕を飼えば、八月はまだせわしい月だ。然し秋蚕のまだ忙しくならぬすきねらって、富士詣ふじまいり、大山詣、江の島鎌倉の見物をして来る者も少くない。大山へは、夜立ちして十三里日着ひづきする。五円持て夜徹よどおし歩るき、眠たくなれば堂宮どうみやに寝て、唯一人富士に上って来る元気な若者もある。夏のいのちは日と水だ。照らねばならず、降らねばならぬ。多摩川遠い此村里では、水害のうれいは無いかわり、旱魃かんばつの恐れがある。大抵は都合よく夕立ゆうだちが来てくれる。雨乞あまごいは六年間に唯一度あった。降って欲しい時に降れば、直ぐ「おしめり正月」である。伝染病が襲うて来るも此月だ。赤痢せきり窒扶斯ちぶすで草葺の避病院が一ぱいになる年がある。真白い診察衣しんさついを着た医員が歩く。大至急清潔法施行の布令ふれが来る。村の衛生係が草鞋ばきの巡査さんとどぶ掃溜はきだめを見てあるく。其巡査さんの細君が赤痢になったと云う評判が立つ。かねや太鼓で念仏ねんぶつとなえてねりあるき、厄病禳やくびょうばらいする村もある。
 其様そんさわぎも何時しか下火になって、暑い/\と云う下から、ある日秋蝉つくつくぼうしがせわしく鳴きそめる。武蔵野の秋が立つ。早稲が穂を出す。尾花おばなが出てのぞく。甘藷を手掘りすると、早生は赤児あかごの腕程になって居る。大根、漬菜つけなを蒔かねばならぬ。蕎麦、秋馬鈴薯もそろ/\蒔かねばならぬ。しばらく緑一色であった田は、白っぽい早稲の穂の色になり、畑ではひえが黒く、きびが黄に、粟が褐色かちいろれて来る。粟や黍はもちにしてもまだ食える。稗は乃木さんでなければ中々食えぬ。此辺では、米を非常、挽割麦ひきわりむぎを常食にして、よく/\の家でなければ純稗さらひえの飯は食わぬ。下肥しもごえひきの弁当に稗の飯でも持って行けば、冷たい稗はザラ/\してのどを通らぬ。湯でも水でもぶっかけてざぶ/\流し込むのである。若い者のたのしみの一は、食う事である。主人は麦を食って、自分に稗を食わした、と忿いかって飛び出した作代さくだいもある。

       九

 九月は農家の厄月やくづき、二百十日、二百二十日を眼の前に控えて、朔日ついたちには風祭をする。麦桑にひょうを気づかった農家は、稲に風を気づかわねばならぬ。九月は農家の鳴戸なるとの瀬戸だ。瀬戸を過ぐれば秋の彼岸ひがん蚊帳かやを仕舞う。おかみや娘の夜延よなべ仕事が忙しくなる。秋の田園詩人の百舌鳥もずが、高い栗の梢から声高々と鳴きちぎる。栗がむ。豆の葉が黄ばむ。雁来紅けいとうむを相図に、夜は空高くかりがする。林の中、道草の中、家の中まで入り込んで、虫と云う虫が鳴き立てる。早稲が黄ろくなりそめる。蕎麦の花は雪の様だ。彼岸花と云う曼珠沙華まんじゅしゃげは、此辺に少ない。此あたりの彼岸花は、はぎ女郎花おみなえし嫁菜よめなの花、何よりも初秋のさかえを見せるのが、紅く白く沢々つやつや絹総きぬぶさなびかす様な花薄はなすすきである。子供が其れをって来て、十五夜の名月様に上げる。萱は葺料にして長もちするので、小麦からの一束ひとたば五厘に対し、萱は一銭も其上もする。そこで萱野かやのを仕立てゝ置く家もある。然し東京がます/\西へ寄って来るので、萱野も雑木山も年々減って行くばかりである。
 九月は農家の祭月まつりづき、大事な交際季節シーズンである。風の心配も兎やらうやら通り越して、先収穫しゅうかくの見込がつくと、何処どこの村でも祭をやる。木戸銭御無用、千客万来の芝居、お神楽かぐら、其れが出来なければ詮方せんかた無しのお神酒みきまつり。今日は粕谷か、明日あす廻沢めぐりさわ烏山からすやまは何日で、給田が何日、船橋では、上下祖師ヶ谷では、八幡山では、隣村の北沢では、と皆が指折ゆびおりかぞえて浮き立つ。彼方の村には太鼓が鳴る。此方こちあざでは舞台ぶたいがけ。一村八字、寄合うて大きくやればよさそうなものゝ、八つの字には八つの意志と感情と歴史があって、二百戸以上の烏山はもとより、二十七戸の粕谷でも、十九けんの八幡山でも、各自に自家うちの祭をせねば気がまぬ。祭となれば、何様な家でも、強飯おこわふかす、煮染にしめをこさえる、饂飩うどんをうつ、甘酒あまざけを作って、他村の親類縁者を招く。東京に縁づいた娘も、子を抱き亭主や縁者を連れて来る。今日は此方のお神楽かぐらで、平生ふだんは真白な鳥のふんだらけの鎮守の宮も真黒まっくろになる程人が寄って、安小間物屋、駄菓子屋、鮨屋すしや、おでん屋、水菓子屋などの店が立つ。神楽は村の能狂言のうきょうげん、神官が家元で、村の器用な若者等が神楽師かぐらしをする。無口で大兵の鉄さんが気軽に太鼓をうったり、気軽の亀さんが髪髯かみひげ蓬々ぼうぼうとした面をかぶって真面目に舞台に立ちはだかる。「あ、ありゃ亀さんだよ、まァ」と可笑おかしざかりのお島がくつ/\笑う。今日自家の祭酒に酔うた仁左衛門さんが、明日は隣字の芝居で、透綾すきやの羽織でも引被ひっかけ、寸志の紙包かみづつみを懐中して、芝居へ出かける。毎日近所で顔を合して居ながら、畑のくろの立話にも、「今日は」「今日は」とそもそも天気の挨拶からゆる/\とはじめる田舎いなか気質かたぎで、仁左衛門さんと隣字の幹部の忠五郎さんとの間には、芝居しばい科白せりふの受取渡しよろしくと云う挨拶が鄭重ていちょうに交換される。輪番りんばんに主になったり、客になったり、呼びつ喚ばれつ、祭は村の親睦会だ。三多摩は昔から人の気の荒い処で、政党騒ぎではよく血の雨を降らし、気の立った日露戦争時代は、農家の子弟が面籠手こてかついで調布まで一里半撃剣の朝稽古に通ったり柔道を習ったりしたものだが、六年前に一度粕谷八幡山対烏山の間に大喧嘩おおげんかがあって、仕込杖しこみづえが光ったり怪我人が出来たり長い間めくった以来、此と云う喧嘩の沙汰も聞かぬ。泰平有象たいへいしょうあり村々酒そんそんのさけ。祭が繁昌すれば、田舎は長閑のどかである。

       十

 十月だ。稲の秋。地は再び黄金の穂波が明るく照り渡る。早稲わせから米になって行く。性急せいきゅう百舌鳥もずが鳴く。日が短くなる。赤蜻蛉あかとんぼが夕日の空に数限りもなく乱れる。柿が好い色に照って来る。ある寒い朝、不図ふと見ると富士の北の一角いっかくに白いものが見える。雨でも降ったあとの冷たい朝には、水霜がある。
 十月は雨の月だ。雨がつゞいたあとでは、雑木林にきのこが立つ。野ら仕事をせぬ腰の曲った爺さんや、赤児を負ったお春っ子が、ざるをかゝえて採りに来る。楢茸ならたけ湿地茸しめじだけ、稀に紅茸、初茸は滅多になく、多いのが油坊主あぶらぼうずと云う茸だ。一雨一雨に気は冷えて行く。田も林も日に/\色づいて行く。甘藷さつまが掘られて、続々都へ運ばれる。田舎は金が乏しい。村会議員の石山さんも、一銭ちがうと謂うて甲州街道の馬車にも烏山から乗らずに山谷さんやから乗る。だから、村の者が甘藷を出すにも、一貫目につき五厘もがよければ、二里のはたに下ろすより四里の神田へ持って行く。
 茶の花が咲く。雑木林の楢にから自然薯じねんじょつるの葉が黄になり、やぶからさし出る白膠木ぬるでが眼ざむる様なあかになって、お納戸色なんどいろの小さなコップを幾箇もつらねて竜胆りんどうが咲く。かしの木の下は、ドングリがほうきで掃く程だ。最早豌豆えんどう蚕豆そらまめかねばならぬ。蕎麦も霜前にらねばならぬ。また其れよりも農家の一大事、月の下旬から来月初旬にかけて、最早麦蒔きがはじまる。後押しの二人もついて、山の如く堆肥たいひを積んだ車がしきりに通る。先ず小麦を蒔いて、後に大麦を蒔くのである。奇麗にならした畑は一条ひとすじ一条丁寧に尺竹しゃくだけをあて、縄ずりして、真直ぐに西から東へうねを立て、堆肥を置いて土をかけ、七蔵が種をれば、赤児を負った若いかみさんが竹杖たけづえついて、片足かわりに南から北へと足で土をかけて、奇麗に踏んづけて行く。燻炭くんたん肥料の、条播すじまきのと、農会の勧誘かんゆうで、一二年やって見ても、矢張仕来りの勝手がよい方でやって行くのが多い。

       十一

 霜らしい霜は、例年明治天皇の天長節てんちょうせつ、十一月三日頃に来る。手をきよめに前夜雨戸をあくれば、鍼先はりさきを吹っかくる様な水気すいきが面をって、あわてゝもぐり込む蒲団の中でも足の先がちぢこまる程いやにつめたい、と思うと明くる朝は武蔵野一面の霜だ。草屋根と云わず、禾場うちばと云わず、檐下のきしたから転び出た木臼の上と云わず、出し忘れた物干竿の上のつぎ股引ももひきと云わず、田も畑も路もからすの羽の上までも、真白だ。日が出ると、晶々きらきらとした白金まつになり、紫水晶末になるのである。山風をあらしと云えば霜の威力を何にたとえよう? 地の上の白火事しろかじとでも云おう。大抵のものはただれてしまう。桑と云う桑の葉は、ぐったりとなって、二日もすれば、歯がぬける様にひとりでにぼろりと落ちる。生々いきいきとして居た甘藷の蔓は、唯一夜に正しく湯煎うでられた様にしおれて、明くる日は最早真黒になり、さわればぼろ/\のこなになる。シャンとして居た里芋さといもくきも、ぐっちゃりと腐った様になる。畑が斯うだから、園の内も青い物は全滅ぜんめつ、色ある物は一夜にただれて了うのである。霜にめげぬは、青々あおあおとした大根の葉と、霜で甘くなる漬菜つけなたぐいと、それから緑のしまを土に織り出して最早ぼつ/\生えて来た大麦小麦ばかりである。
 霜ははれに伴う。霜の十一月は、日本晴にっぽんばれの明るい明るい月である。富士は真白。武蔵野の空は高く、たゝけばカン/\しそうな、碧瑠璃へきるりになる。朝日夕日が美しい。月や星がえる。田は黄色から白茶しらちゃになって行く。此処其処の雑木林や村々の落葉木が、最後のさかえを示して黄にかちに紅に照り渡る。緑の葉の中に、柚子ゆずが金の珠を掛ける。光明はそらからり、地からもいて来る。小学校の運動会で、父兄が招かれる。村の恵比寿えびすこう、白米五合銭十五銭の持寄りで、夜徹よっぴての食ったり飲んだり話したりがある。日もいよ/\短くなる。甘藷や里芋も掘って、土窖あなしまわねばならぬ。中稲なかても苅らねばならぬ。其内に晩稲おくても苅らねばならぬ。でも、夏の戦闘たたかいに比べては、何を云っても最早しめたものである。朝霜、夜嵐よあらし、昼は長閑のどかな小春日がつゞく。「小春日や田舎に廻る肴売さかなうり」。「しこは? □?」「秋刀魚さんまや秋刀魚!」のふれ声が村から村をまわってあるく。牛豚肉は滅多めったに食わず、川魚はすくなし、まれいたちに吸われたとりでも食えばほねまでたゝいて食い、土の物の外は大抵塩鮭しおざけ、めざし、棒鱈にのみ海の恩恵を知る農家も、斯様こんな時にはあぶれば青いほのおつ脂ぎった生魚を買って舌鼓したつづみうつのである。
 月の末方すえがたには、除隊の兵士が帰って来る。近衛か、第一師団か、せめて横須賀よこすかぐらいならまだしも、運悪く北海道三界旭川あさひがわへでもやられた者は、二年ぶり三年ぶりで帰って来るのだ。親類しんるい縁者えんじゃは遠出の出迎、村では村内少年音楽隊を先に立て、迎何々君之帰還なになにくんのきかんをむかうの旗押立てゝ、村界まで迎いに出かける。二年三年の兵営へいえい生活せいかつで大分世慣よなれ人ずれて来た丑之助君が、羽織袴、靴、中折帽、派手はでをする向きは新調のカーキー服にギュウ/\云う磨き立ての長靴、腰のさびしいのを気にしながら、胸に真新まあたらしい在郷軍人徽章きしょうをつるして、澄ましかえって歩いて来る。面々各自てんでの挨拶がある。鎮守の宮にねり込んで、取りあえず神酒みき一献いっこん、古顔の在郷軍人か、若者頭の音頭おんどで、大日本帝国、天皇陛下、大日本帝国陸海軍、何々丑之助君の万歳がある。丑之助君が何々有志諸君の万歳を呼ぶ。其れから丑之助君をたくへ送って、いよ/\飲食のみくいだ。赤の飯、刻※きざみするめ[#「魚+昜」、上巻-147-8]菎蒻こんにゃく里芋蓮根の煮染にしめ、豆腐に芋の汁、はずんだ家では菰冠こもかぶりを一樽とって、主も客も芽出度めでたいと云って飲み、万歳と云っては食い、満腹満足、真赤まっかになって祝うのだ。二三日すると帰り新参しんざんの丑之助君が、帰った時の服装なり神妙しんみょうに礼廻りをする。軒別に手拭か半紙。入営に餞別せんべつでも貰った家へは、隊名姓名を金文字で入れた盃や塗盆ぬりぼんを持参する。兵士一人出す家の物入も大抵では無い。
 兵隊さんの出代でがわりで、除隊を迎えると、直ぐ入営送りだ。体格がよく、男の子が多くて、陸海軍拡張の今日と来て居るので、何れの字からも二人三人兵士を出さぬ年は無い。白羽しらはの箭が立った若者には、勇んで出かける者もある。抽籤くじのがれた礼参りに、わざ/\こうざいの何宮さんまで出かける若者もある。二十歳はたち前後が一番百姓仕事にが入る時ですから、とこぼす若いとっさんもある。然し全国皆兵の今日だ。一人息子でも、可愛息子でも、云い聞かされた「国家の為」だ、出せとあったら出さねばならぬ。出さぬと云ったら、お上に済まぬ。近所に済まぬ。そこで父の右腕みぎうで、母のおもい子の岩吉も、頭は五分刈、中折帽、紋付羽織、袴、靴、りゅうとしたなりで、少しは怯々おどおどした然しました顔をして、鎮守の宮で神酒みきを飲まされ、万歳の声と、祝入営の旗五六本と、村楽隊と、一字総出の戸主連に村はずれまで見送られ、知らぬ生活に入る可く往ってしまう。二三日、七八日ななようか過ぐると、軒別に入営済にゅうえいずみの御礼のはがきが来る。

       十二

 兵隊さんの出代りを村の一年最後の賑合にして、あとはさびしい初冬の十二月に入る。
稼収かおさまって平野濶へいやひろし」晩稲も苅られて、田圃たんぼも一望ガランとして居る。畑の桑は一株ずつもとどりわれる。一束ずつ奇麗に結わえた新藁しんわらは、風よけがわりにずらりと家の周囲まわりにかけられる。ざら/\と稲をく音。カラ/\と唐箕車とうみぐるまを廻すおと。大根引、漬菜洗い、若い者は真赤な手をして居る。ひるは北を囲うた南向きの小屋のむしろの上、夜ははたで、かみさんはせっせと股引、足袋をつくろう。夜は晩くまで納屋なやもみずりの響がする。突然だしぬけにざあと時雨しぐれが来る。はら/\とひさしをうってあられが来る。ちら/\と風花かざはなが降る。北からこがらしが吹いて来て、落葉した村の木立を騒々しく鳴らす。乾いた落葉が、あわてゝカラカラと舞いはしる。箒をさかさに立てた様な雑木山に、長いのこを持った樵夫さきやまが入って、くわ煙管ぎせるならくぬぎを薪にる。海苔疎朶のりそだを積んだ車が村を出る。冬至までは、日がます/\つまって行く。六時にまだ小暗おぐらく、五時には最早もうくらい。流しもとに氷が張る。霜が日に/\深くなる。
 十五日が世田せたのボロ市。世田ヶ谷のボロ市は見ものである。松陰しょういん神社じんじゃの入口から世田ヶ谷の上宿かみじゅく下宿を打通して、約一里の間は、両側にずらり並んで、農家日用の新しい品々は素より、東京中の煤掃すすはきの塵箱ごみばこを此処へ打ち明けた様なあらゆる襤褸ぼろやガラクタをずらりと並べて、売る者も売る、買う者も買う、と唯驚かるゝばかりである。見世物が出る。手軽な飲食店が出る。のどひえが通る様に、店の間を押し合いへし合いしてぞろ/\人間にんげんが通る。近郷きんごう近在の爺さん婆さん若い者女子供が、股引ももひき草鞋わらじで大風呂敷を持ったり、荷車をいたり、目籠めかごを背負ったりして、早い者は夜半から出かける。新しいむしろ筍掘器たけのこほり、天秤棒を買って帰る者、草履ぞうりの材料やつぎ切れにする襤褸ぼろを買う者、古靴を値切ねぎる者、古帽子、古洋燈、講談物こうだんものの古本を冷かす者、稲荷鮨いなりずし頬張ほおばる者、玉乗の見世物の前にぽかんと立つ者、人さま/″\物さま/″\の限を尽す。世田ヶ谷のボロ市をさとらねばならぬ、世に無用のものは無い、そうして悲観は単に高慢であることを。
 ボロ市過ぎて、冬至もやがてあとになり、行く/\年もくれになる。へびは穴に入り人は家にこもって、霜枯しもがれの武蔵野は、静かなひるにはさながら白日まひるの夢にじょうに入る。寂しそうな烏が、此かしの村から田圃を唖々ああと鳴きながら彼けやきの村へと渡る。稀には何処から迷い込んだか洋服ゲートルの猟者が銃先つつさきしぎひよのけたゝましく鳴いて飛び立つこともあるが、また直ぐともとの寂しさに返える。こがらしの吹く夜は、海の様なひびきが武蔵野に起って、人の心を遠く遠くさそうて行く。但東京の屋敷にたのまれて餅を搗く家や、小使取りに餅舂もちつきに東京に出る若者はあっても、村其ものには何処どこ師走しわすせわしさも無い。二十五日、二十八日、晦日みそか、大晦日、都の年の瀬は日一日と断崖だんがいに近づいて行く。三里東の東京には、二百万の人の海、さぞさま/″\の波も立とう。日頃ひごろ眺むる東京の煙も、此四五日は大息おおいき吐息といきの息巻荒くあがる様に見える。然し此処ここは田舎である。都の師走しわすは、田舎の霜月しもつき冬枯ふゆがれの寂しい武蔵野は、復活の春を約して、麦が今二寸に伸びて居る。気に入りの息子を月の初に兵隊にとられて、寂しい心のたつじいさんは、冬至が過ぎれば日が畳の目一つずつ永くなる、冬のあとには春が来る、と云う信仰の下に、時々竹箆たけべらで鍬の刃につく土を落しつゝ、悠々ゆうゆうと二寸になった麦のサクを切って居る。


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     媒妁

 結婚の媒妁なかだちを頼まれた。式は宜い様にやってくれとの事である。新郎しんろうとは昨今の知合で、新婦は初めて名を聞いた。媒妁なンか経験もなし、断ったが、是非とのたのみ、よしと面白半分引受けてしもうた。
 明治四十年の九月某日それのひ、媒妁夫妻は小婢こおんなと三人がかりで草屋の六畳二室をきよめ、赤、白、鼠、婢のものまで借りて、あらん限りの毛布を敷きつめた。家のまわりもひとわたりいた。隔ての唐紙からかみを取払い、テーブルを一脚いっきゃく東向きにえ、露ながら折って来た野の草花を花瓶かへい一ぱいにした。女郎花おみなえし地楡われもこう、水引、螢草、うつぼ草、黄碧紫紅こうへきしこう入り乱れて、あばら家も為に風情ふぜいを添えた。媒妁夫妻は心嬉しく、主人は綿絽めんろの紋付羽織に木綿茶縞の袴、妻は紋服もんぷくは御所持なしで透綾すきやの縞の単衣にあらためて、しずかに新郎新婦の到着を待った。
 正午過ぎ、村を騒がして八台の車が来た。新郎新婦及縁者の人々である。新婦は初めて見た。眼のきれの長い佳人かじんである。更衣室も無いので、仕切りの障子をしめ、二畳の板の間を半分はんぶんめた古長持の上に妻の鏡台きょうだいを置いた。鏡台の背には、破簾やれみすを下げてすすだらけの勝手を隔てた。二十分の後此楽屋がくやから現われ出た花嫁君はなよめぎみを見ると、秋草の裾模様すそもようをつけた淡紅色ときいろの晴着で、今咲いた芙蓉ふようの花の様だ。花婿も黒絽紋付、仙台平の袴、りゅうとして座って居る。
 媒妁は一咳いちがいしてやおら立上った。
「勝田慶三郎」
「松居千代」
 卒業免状でも渡す時の様に、こえおごそかに新郎新婦を呼び出して、テーブルの前に立たせた。そうして媒妁は自身愛読する創世記そうせいきイサクリベカ結婚の条を朗々ろうろうと読み上げた。
祈祷きとうを致します」
 斯く云って、媒妁がやゝ久しく精神を統一すべく黙って居ると、
「祈祷を致すのでございますか」
と新郎がやゝ驚いた様に小声できく。媒妁は頓着とんじゃくなく祝祷しゅくとうをはじめた。
 祈祷が終る。妻が介抱かいほうして、新郎新婦を握手させる。一旦新婦の手からぬいて置いた指環を新郎に渡し、あらためて新郎の手ずから新婦の指にめさす。二人ながら震えて居る。
 屋敷に門無く、障子は穴だらけである。村あってより見たこともないおびただしい車の入来じゅらいに眼を驚かした村の子供が、草履ぞうりばた/\大勢おおぜい縁先えんさきに入り込んで、ぽかんとした口だの、青涕あおばなの出入する鼻だの、驚いた様な眼だのが、障子の穴からのぞいて居る。「何だ、ありゃ」。「あ、あ、あら、如何どうするだンべか」なンか云って居る。
 六畳の大広間には、新郎新婦相並んで正面赤毛布の上にすわって居る。結婚証書を三通新婦はなよめの兄者人に書いてもらって、新郎新婦をはじめ其尊長達そんちょうたち、媒妁夫妻も署名した。これで結婚式は芽出度終った。小婢こおんなが茶を運んで来た。菓子が無いので、有り合せのなしき、数が無いので小さく切って、小楊枝こようじえて出した。
 四時過ぎお開きとなった。
 媒妁なかだちの役目相済んだつもりで納まって居ると、神田かんだの料理屋で披露の宴をするとの事で、連れて来られた車にのせられ、十台の車は静かな村をひしめかして勢よく新宿に向った。新宿から電車でお茶の水に下り、某と云う料理店に案内された。
 媒妁は滅多に公会祝儀の席なぞに出た事のない本当の野人やじんである。酒がはじまった。手をついたり、お辞儀じぎをしたり、小むつかしい献酬けんしゅうの礼が盛に行われる。酒を呑まぬ媒妁は、ぽかんとして皆の酒を飲むのを眺めて居る。料理が出たが、菜食主義の彼は肉食をせぬ。腹は無闇むやみに減る。新郎の母者人が「ドウカお吸物すいものを」との挨拶あいさつが無い前に、勝手に吸物すいものわんの蓋をとって、きすのムスビは残して松蕈まつだけとミツバばかり食った。
 九時過ぎやっとお開きになった。媒妁夫婦は一同に礼して、寿じゅの字の風呂敷に包んだ引き物の鰹節籠かつぶしかごを二つ折詰おりづめを二つもらって、車で送られてお茶の水停車場に往った。媒妁の家は菜食で、ダシにも昆布こんぶを使って居るので、二つの鰹節包は二人の車夫にやった。車夫は眼をまるくして居た。
 新宿に下りると、雨がさかんに降って居る。夜も最早もう十時、甲州街道口に一台の車も居ない。媒妁夫婦は、くぐりの障子だけあかりのさした店に入って、足駄あしだと傘とブラ提灯ちょうちんと蝋燭とマッチと糸経いとだてを買った。そうしておの/\糸経をかぶり、男が二人のぬいだ日和下駄を風呂敷包ふろしきづつみにして腰につけ、小婢こおんなにみやげの折詰二箇ふたつ半巾はんかちに包んで片手にぶら下げて、尻高々とからげれば、妻は一張羅いっちょうらの夏帯をらすまいとて風呂敷を腰に巻き、単衣の裾短に引き上げて、提灯ぶら提げ、人通りも絶え果てた甲州街道三里の泥水をピチャリ/\足駄に云わして帰った。
如何どうだ、このざまを勝田君に書いてもらったら、一寸ちょっと茶番ちゃばんの道行が出来ようじゃないか」
 夫が笑えば、妻もき出し、
「本当にね」
相槌あいづちをうった。
 新郎しんろう勝田君は、若手で錚々そうそうたる劇作家ドラマチストである。


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     螢

 先刻さっきから田圃たんぼに呼びかわす男の子の声がして居たと思うたら、やみの門口から小さな影が二つ三つ四つ縁先にあらわれた。小さな握拳にぎりこぶしの指の間から、ちら/\あおい光を見せて居る。
 皆近所の子で、先夜主人あるじが「ミゼラーブル」の話を聞いて息をのんだ連中れんじゅうである。
「螢をったね」
「え」
と一人が云ったが、
「あ、此れにわせて見べいや」
と云って、縁先えんさきえてある切株の上の小さな姫蘆ひめあし橢円形だえんけい水盤すいばんへ、そっこぶしの中のものを移した。
 すると、の子供が吾も吾もと皆手を水盤の上にいた。水を吹いた小さな姫蘆の葉の上、茎の間、蘆の根ざす小さな岩の上に、生きた、緑玉りょくぎょく、碧玉、孔雀石くじゃくせきの片がほろ/\とこぼれて、其数約二十余、葉末の露にも深さ一分の水盤の水にもうつって、光ったり、消えたり、うれしそうに明滅めいめつして、飛び立とうともしない。
綺麗きれいなあ
「綺麗だ喃」
 皆嬉々ききとしてしたりがおにほめそやす。
「皆何してるだか」
 云って、また二人ふたり男の子が草履ぞうりの音をさせて入って来た。
「あッ綺麗だな、おらがのも明けてやるべ」
と云って、また二人して八九ひき螢の島へ螢をはなった。
 主人あるじと妻と逗留とうりゅうに来て居る都の娘と、ランプを隅へしやって、螢と螢を眺むる子供を眺める。田圃たんぼの方から涼しい風が吹いて来る。其風にまたたく小さな緑玉エメラルドの灯でゞもあるように、三十ばかりの螢がかわる/″\明滅する。縁にかけたりしゃがんだりして、子供は黙って見とれて居る。
 斯涼しい活画いきえを見て居る彼の眼前に、何時いつとはなしにランプの明るい客間パーラーがあらわれた。其処に一人の沈欝ちんうつな顔をして丈高たけたかい西洋人が立って居る。前には学生が十五六人腰かけて居る。学生の中に十二位の男の子が居る。其は彼自身である。彼は十二の子供で、京都同志社の生徒である。彼は同窓諸子と宣教師デビス先生に招かれて、今茶菓と話の馳走になって居るのである。米国南北戦争に北軍の大佐であったとか云うデビス先生は、軍人だけに姿勢が殊に立派で、何処やら武骨ぶこつな点もあって、真面目な時は頗る厳格げんかく沈欝ちんうつな、一寸おそろしい様な人であったが、子供の眼からも親切な、笑えば愛嬌の多い先生だった。何かと云うと頭をるのが癖だった。毎度先生に招かるゝ彼等学生は、今宵こよいも蜜柑やケークの馳走になった。赤い碁盤縞ごばんじまのフロックを着た先生の末子ばっし愛想あいそに出て来たが、うっかり放屁ほうひしたので、学生がドッと笑い出した。其子が泣き出した。デビス先生は左の手で泣く子の頭をで、右手の金網の炮烙ほうろくでハゼ玉蜀黍もろこしをあぶりつゝ、プチヽヽプチヽヽ其はぜるおとを口真似して笑いながら頭を掉られた。其つゞきである。先生は南北戦争の逸事いつじを話して、ある夜火光あかりを見さえすれば敵が射撃するので、時計を見るにマッチをることもならず、ちょうど飛んで居た螢をつかまえて時計にのせて時間を見た、と云う話をされた。
 其れは彼が今此処に居る子供の一番小さなの位の昔であった。其後彼はデビス先生に近しくする機会を有たなかった。先生の夫人は其頃から先生よりも余程ふけて居られた。のち気が変になり、帰国の船中太平洋の水屑みくずになられたと聞いて居る。デビス先生は男らしく其苦痛に耐え、宣教師排斥はいせきが一の流行になった時代にしょして、いからず乱れず始終一貫同志社にあって日本人の為に尽し、「吾生涯即吾遺言也」との訣辞けつじを残して、先年終に米国にかれた。
 螢を見れば常におもい出すデビス先生を、彼は今宵こよいも憶い出した。


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     夕立雲

 畑のものも、田のものも、林のものも、園のものも、虫も、牛馬も、犬猫も、人も、あらゆる生きものは皆雨を待ちこがれた。
「おしめりがなければ、街道は塵埃ほこりで歩けないようでございます」と甲州街道から毎日仕事に来るおかみが云った。
「これでおしめりさえあれば、本当に好いおぼんですがね」と内のおんなもこぼして居た。
 両三日来非常にす。東の方に雲が立つ日もあった。二声ふたこえ三声雷鳴らいめいを聞くこともあった。
「いまに夕立が来る」
 斯く云って幾日か過ぎた。
 今日早夕飯を食って居ると、北からやりと風が来た。眼を上げると果然はたして、北に一団紺□色インジゴーいろの雲が蹲踞しゃがんで居る。其紺□の雲をうしろに、こんもりした隣家の杉樫の木立、孟宗竹のやぶなどが生々なまなましい緑をかして居る。
「夕立が来るぞ」
 主人あるじは大声に呼んで、手早く庭の乾し物、履物はきものなどを片づける。裏庭では、婢が駈けて来て洗濯物を取り入れた。
 やがて食卓から立って妻児が下りて来た頃は、北天の一隅に埋伏まいふくし居た彼濃い紺□色インジゴーいろの雲が、倏忽たちまちの中にむら/\とった。何のつやもない濁った煙色にり、見る/\天穹てんきゅうい上り、大軍の散開する様に、東に、西に、天心に、ず、ずうと広がって来た。
 三人は芝生に立って、驚嘆きょうたんの眼をみはって斯おびただしい雨雲の活動を見た。
 あな夥しの雲の勢や。黙示録に「天は巻物をくが如く去り行く」と歌うたも無理はない。青空は今南の一軸に巻きちぢめられ、煤煙ばいえんの色をした雲の大軍は、其青空をすらあまさじものをと南を指してヒタ押しに押寄おしよせて居る。つい今しがたまで雨を恋しがって居た乾き切った真夏まなつあえぎは何処へ往ったか。唯十分か十五分の中に、大地は恐ろしい雨雲の下に閉じこめられて、冷たいくら冥府よみになった。
 雲の運動は秒一秒はげしくなった。南を指して流るゝ雲、うずまく雲、真黒にとまって動かぬ雲、雲の中から生るゝ雲、雲をさすって移り行く雲、淡くなり、濃くなり、淡くなり、北から東へ、東から西へ、北から西へ、西から南へ、逆流ぎゃくりゅうして南から東へ、世界中の煙突えんとつと云う煙突をこゝに集めて煤煙の限りなくく様に、眼を驚かす雲の大行軍だいこうぐん音響おとを聞かぬが不思議である。
 彼等は驚異の眼を□って、此活動する雲の下に魅せられた様にたたずんだ。冷たい風がすうっすうっと顔に当る。おくれ馳せにかみなりがそろ/\鳴り出した。北の方で、すじをなさぬくれないや紫の電光いなずまが時々ぱっぱっと天の半壁はんぺきてらしてひらめく。近づく雷雨を感じつゝ、彼等は猶頭上の雲から眼を離し得なかった。薄汚うすぎたない煤煙色をした満天の雲はます/\南に流れる、水の様に、霧の様に、煙の様に。空は皆動いて居る。ひろい空のの一寸四方として動いて居ないのはない。皆恐ろしい勢を以て動いて居る。仰ぎ見る彼等は、流るゝ雲に引きずられてやゝもすればけ出しそうになる足をみしめ踏みしめ立って居なければならなかった。時々西の方で、ある一処雲がうすれて、探照燈たんしょうとうの光めいた生白なまじろい一道のあかりななめに落ちて来て、深い深いいどの底でも照す様に、彼等と其足下の芝生しばふだけ明るくする。彼等ははっと驚惶おどろきの眼を見合わす。と思うと、怒れる神のひたいの如く最早真闇まっくらに真黒になって居る。妻児さいじの顔は土色になった。草木も人も息をひそめたかの様に、一切の物音は絶えた。何処どこから来たか、犬のデカが不安の眼つきをして見上げつゝ、大きな体を主人の脚にすりつける。
 空は到頭雲をかぶって了った。著しく水気すいきを含んだ北風が、ぱっ/\と顔をって来た。やがて粒だった雨になる。らいも頭上近くなった。雲見くもみ一群ひとむれは、急いで家に入った。母屋おもやの南面の雨戸だけ残して、悉く戸をしめた。暗いのでランプをつけた。
 ざあっと降り出した。雷が鳴る。一庭いっていの雨脚をすさまじく見せて、ピカリと雷が光る。ざあ、颯と烈しく降り出した。
 見る/\庭は川になる。雨が飛石とびいしをうってねかえる。目に入る限りの緑葉あおばが、一葉々々に雨をびて、うれしげにぞく/\身を震わして居る。
「あゝ好いおしめりだ」
 斯く云った彼等は、更に
「まだ七時前だよ、まあ」
おんなの云う声に驚かされた。
 夕立から本降りになって、雨は夜すがら降った。
(大正元年 八月十四日)


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     葬式

       一

 午前十時と云う触込ふれこみなので、十一時に寺本さんの家に往って見ると、納屋なやと上塗せぬ土蔵どぞうの間の大きな柿の木の蔭に村のしゅうがまだ五六人、紙旗を青竹あおだけいつけて居る。
「ドウも御苦労さま、此方様こちらさまでも御愁傷ごしゅうしょうな」
と云う慣例かんれいの挨拶をわして、其のむれに入る。一本の旗には「諸行無常しょぎょうむじょう」、一本には「是生滅法ぜしょうめっぽう」、一本には「皆滅々己かいめつめっき」、今一本には何とか書いてある。其上にはいずれも梵字ぼんじで何か書いてある。
「お寺は東覚院とうがくいんですか」
いや、上祖師ヶ谷の安穏寺あんのんじです」
 其安穏寺のぼうさんであろう、紫紺しこんの法衣で母屋おもやの棺の前に座って居るのが、此方こちから見える。棺は緑色のすだれをかけた立派な輿こしに納めて、母屋の座敷の正面にえてある。洋服の若い男が坊さんと相対してすわって居る。医者であろう。左のうでに黒布を巻いた白衣はくいの看護婦の姿が見える。
「看護婦さんも、なおって帰るじゃ帰り力があるが」と誰やらが嘆息する。
 時分じぶんだから上れと云わるゝので、諸君の後について母屋のおもて縁側えんがわから上って、棺の置いてある十畳の次ぎの十畳に入る。頭の禿げた石山氏が、黒絽の紋付、仙台平の袴で、若主人に代って応対おうたいする。諸君と共に二列に差向って、ぜんに就く。大きな黒塗の椀にうずたかく飯を盛ってある。汁椀しるわんは豆腐と茄子なす油揚あぶらあげのつゆで、向うに沢庵たくあんが二切つけてある。眼のくぼい、鮫の歯の様な短い胡麻塩ごましおひげの七右衛門爺さんが、年増としまの婦人と共に甲斐□□しく立って給仕きゅうじをする。一椀をやっと食い終えて、すべり出る。

       二

 柿の木蔭こかげは涼しい風が吹いて居る。青苔あおごけした柿の幹から花をつけた雪の下が長くぶら下って居る。若い作男が其処にあった二台の荷車を引きのけ、大きなかぎで土蔵の戸前を開けて、むしろを七八枚出して敷いてくれた。其れにすわった者もある。足駄ばきのまゝしゃがんで話して居る者もある。彼は納屋なや檐下のきしたにころがって居る大きな木臼きうすの塵を払って腰かけた。追々人がえて、柿の下は十五六人になった。
なんしろむつかしい事がありゃ一番に飛び込もうと云うンだからエライや」
「全くだね。寺本さんはソノ粕谷の人物ばかりじゃねえ、千歳村の人物だからね」
紺飛白こんがすりで何処やらひんの好い昨年おふくろをなくした仁左衛門さんが相槌をうつ。「おらァ全くがっかりしちまった。コウ兄か伯父おじ見たいで、何と云いや来ちゃ相談したもンだからな。今後これから何処へ往って相談したらいゝんだか――勘さん、おめえの所へでも往くだね」としまの夏羽織を着たちいさい真黒な六十爺さんの顔を仁左衛門さんは見る。爺さんは黙って左のてのひらにこつ/\煙管きせるをはたいて居る。
「寺本さんも、こちとら見たいにぜにが無かったから何だが、あれで金でも持って居たらソラエライ事をやる人だったが」と隅の方から誰やら云うた。
ひとが死にゃ働くなンか全くいやになっちまうね」まだ若い組の浜田の金さんが云う。
「いやになったって、死にゃえゝが、生命いのちがありゃ困っちまうからな」
 故人の弟達や縁者のこころざしだと云って、代々木の酒屋の屋号やごうのついた一升徳利が四本持ち出された。茶碗と箸と、それから一寸五分角程に切った冷豆腐ひやどうふに醤油をぶっかけた大皿と、輪ぎりにした朝漬あさづけ胡瓜きゅうりの皿が運ばれた。皆むしろの上に車座になった。茶碗になみ/\と酒ががれた。彼も座って胡瓜の漬物をつまむ。羽織袴の幸吉さんが挨拶に来た。故人の弟である。故人は丈高いにがみ走った覇気満々たる男であったが、幸さんは人の好さそうなちいさい男だ。一戸から一銭出した村香奠むらこうでんの礼を丁寧に述べて、盃を重ぬべく挨拶して立つ。
「幸さん一つ」と誰やらが茶碗をさす。
「酒どころかよ、兄貴が死んだンだ、本当に」と来た時からすでに真赤な顔して居た辰爺さん――勘さんの弟――が怒鳴る。皆がドッと笑う。
「兄貴が死んだンだ、本当に、酒どころかよ」と辰爺さんはつぶやく様に繰りかえす。
 皆好い顔になって立上った。村中で唯一人ただひとりのチョン髷の持主、彼に対してはいつも御先生ごせんせいと挨拶する佐平爺さんは、荒蓆あらむしろの上にころり横になって、肱枕ひじまくらをしたが、風がソヨ/\吹くので直ぐい気もちに眠ってしまったと見え、其れぼったいまぶたはヒタとおっかぶさって、浅葱縞あさぎじまの単衣のわきがすう/\息つく毎に高くなり低くなりして居る。

       三

 母屋の方では、頻に人が出たり入ったりして居る。白襦袢、白の半股引、紺の腹掛、手拭を腰にさげた跣足はだしの若い衆は、忙しそうに高張の白提灯しらちょうちんの仕度をしたり、青竹のもとをなたいだりして居る。
 二人びきの車が泥塗どろまみれになって、入って来た。車から下りた銀杏返の若い女は、鼠色のコオトをぬいで、草色の薄物うすもので縁に上り、出て来た年増としまの女と挨拶して居る。
いどは何処ですかな」
 つかんだ手拭で額の汗を拭き/\、真赤になった白襦袢の車夫くるまやの一人が、柿の木の下のむれに来て尋ねる。
「井かね、井は直ぐそのうらにあるだよ、それ其処をそう往ってもえゝ、彼方あっちへ廻ってもいかれるだ」辰爺さんがあごでしゃくる。
 美的百姓は木臼きうすに腰かけたまゝ、所在しょざいなさに手近にある大麦の穂を摘んでは、掌でもみってかじって居る。不図気がつくと、納屋の檐下のきしたには、小麦も大麦も刈入れたたばのまゝまだきもせずに入れてある。他所よそでは最早棒打ぼううちも済んだ家もある。此家の主人の病気が、如何に此家の機関を停止して居たかがかる。美的百姓も、くらい気分になった。此家の若主人に妻君かみさんがあったか如何どうか、と辰爺さんに尋ねて見た。
「まだ何もありませんや。ソラ、去年の暮にけえって来たばかりだからね」
 そうだ。若主人は二年の兵役にとられて、去年の十二月初やっと帰って来たのであった。一人息子だったので、彼を兵役に出したあと、五十を越した主人は分外に働かねばならなかった。彼の心臓病しんぞうびょうは或は此無理の労働の結果であったかも知れぬ。尤も随分酒は飲んで居た。故人は村の兵事係へいじがかりであった。一人子でも、兵役に出すは国家に対する義務ですからと、つねに云うて居た。若主人の留守中、彼の手助けは若い作男であった。故人は其作代が甲斐々々しく骨身を惜まず働く事を人毎ひとごとめて居た。
 時が大分移った。酔った辰爺さんは煙管と莨入たばこいれを両手に提げながら、小さな体をやおら起して、相撲が四股しこを踏む様に前を明けはたげ、「のら番は何しとるだんべ。のら番を呼んでう」と怒鳴った。
「野良番を呼んで来う。のら番は何しとるだンべ。酔っぱらって寝てしまったンべ」と辰爺さんは重ねて怒鳴った。
なあに、銀平さんに文ちゃんだから、酔っぱらってなンか居るもンか。最早もう来る時分だ」仁左衛門さんがなだめる。
「いや野ら番ばかりァ酒が無えじゃやりきれねえナ。あのにおいがな」と誰やらが云う。
「来た、来た、噂をすりゃ影だ、野ら番が来た」
 墓掘番はかほりばんの四人が打連れて来た。
「御苦労様でしたよ」皆が挨拶する。
「棺が重いぞ。四人じゃ全くやりきれねえや。八人きだもの」と云う声がする。
 勘爺さんがうなずいた。「然だ/\、手代てがわりでやるだな。野良番が四人よったりに、此家の作代に、おらが家の作代に、それから石山さんの作代に、それから、七ちゃんでもいてもらうべい」
 野良番四人の為に蓆の上に膳が運ばれた。赤児の風呂桶大ふろおけほど飯櫃おはちが持て来られる。食事なかばに、七右衛門爺さんが来て切口上で挨拶し、棺をかついで御出の時たすきにでもと云って新しい手拭を四筋置いて往った。粕谷で其子を中学二年までやった家は此家ここばかりと云う程万事派手はでであった故人が名残なごりは、斯様こんな事にまであらわれた。

       四

「念仏でもやるべいか」
と辰爺さんが言い出した。「おい、幸さんとこの其児、かねを持て来いよ」
 呼ばれた十二三の子がひもをつけた鉦と撞木しゅもくを持て来た。辰爺さんはガンと一つ鳴らして見た。「こらいけねえな、斯様こんおとをすらァ」ガン/\と二つ三つ鳴らして見る。えない響がする。
「さあ、念仏は何にしべいか。ァまァぶつにするか。ジンバラハラバイタァウンケンソバギャアノベイロシャノにするか」
「ジンバラハラバイタァが後生ごしょうになるちゅうじゃねいか」仁左衛門さんが真面目に口を入れた。「辰さん、おめえ音頭おんどうをとるンだぜ」
うん乃公おらが音頭とるべい。音頭とるべいが、皆であとやらんといけねえぞ。音頭取りばかりにさしちゃいけねえぞ――ソラ、ジンバラハラバイタァ」ガーンと鉦が鳴る。
「ジンバラハラバイタァ――」仁左衛門さんが真面目について行く。多くは唯笑って居る。
「いかん/\、今時の若けい者ァ念仏一つ知んねえからな。昔は男は男、女は女、月に三日宛寄っちゃ念仏の稽古したもンだ」辰爺さん躍起やっきとなった。
「教えて置かねえからだよ」若い者の笑声が答える。
炬火たいまつ如何どうだな。おゝ、ひささんが来た。久さん/\、済まねえが炬火をこさえてくんな」
 唇の厚い久さんは、やおら其方そちを向いて「炬火かね、炬火は幾箇いくつ拵えるだね?」
「短くてえからな、四つも拵えるだな。そ、其処の麦からが好いよ」
うん」と久さんは答えて、のそり/\檐下のきしたから引き出して、二握三握一つにして、トンと地につきそろえて、無雑作むぞうさに小麦からでしばって、炬火をこさえた。
「まだかな」先刻さっきから焦々いらいらして居る辰爺さんが大声につぶやく。
「今本膳が出てる処だからな」母屋の方を見ながら一人が辰さんをなだめる。
「それはソウと、上祖師かみそしの彦さんは分ったかな」
「分からねえとよ。中隊でも大騒ぎして、平服で出る、制服で出る、何でも空井戸からいどを探してるちゅうこンだ」
いじめられたンですかね?」
「ナニ、中隊では評判がよかったンですよ。正直でね」
「正直者が一番あぶねえだ。少し時間におくれたりすると、直ぐ無分別をやるからな」
「違えねえ」
 皆一寸黙った。
 辰爺さんは、美的百姓に大きな声でささやいた。「岩もね、上等兵の候補者になりましたってね」
そうかね。岩さんは何処に往っても可愛がられる男だよ」
「毎月ね、」辰爺さんは声を落して囁いた。「毎月ね、三りょうずつやりますよ。それから兄の所から三りょう宛ね、くれますよ。ソレ小遣こづかいが足りねえと、上祖師ヶ谷の様にならァね」
「月に六円宛、其れは大変だね」
「岩もね、其当座は腹が減って困ったてこぼして居ましたっけ。なんしろ麦飯の七八はいもひっかけて居ったンだからね。酒保しゅほに飛んで行き/\したって話してました。今じゃ大きにらくになったってますよ。最早もうあと一年半でけえって来ますだよ」
 農家から大切な働き男を取って、其上間接に小使としての税金を金の乏しい農村から月々六円もとる兵役と云うものについて、美的百姓は大に考えざるを得なかった。

       五

 母屋では、最早もう仕度が出来たと見え、棺が縁の方にき出された。柿の木の下では、寝た者も起き、総立になった。手々てんでに白張提灯を持ったり、紙のはたを握ったり、炬火たいまつをとったりした。辰爺さんはやおら煙草入を腰に插してかね撞木しゅもくをとった。
「旗が先に行くかね、提灯ちょうちんかね?」
冥土めいどの案内じゃ提灯が先だんべ」
「東京じゃ旗が先きに行くようだね、ねえ先生」
「東京は東京、粕谷は粕谷流で行こうじゃねえか」と誰やらの声。
「炬火が一番先だよ」
「応、そうだ、炬火が一番先だ」
 白無垢しろむくを着た女達が、縁から下りて草履をはいた。其草履は墓地でぬぎ棄てるので、帰途かえり履物はきものがいる。大きな目籠めかごに駒下駄も空気草履も泥だらけの木履も一つにぶち込んで、久さんが背負せおって居る。
南無阿弥陀なむあみだぶつ
 辰爺さんが音頭おんどをとりながら先に立つ。鉦がガァンと鳴る。講中こうじゅうが「南無阿弥陀ァ仏」と和する。鉦、炬火、提灯、旗、それから兵隊帰りの喪主もしゅが羽織袴で位牌をささげ、其後から棺をおさめた輿こしは八人でかれた。七さんは着流きながしに新しい駒下駄で肩を入れて居る。此辺には滅多に見た事も無い立派な輿だ。白無垢の婦人、白衣の看護婦、黒い洋服の若い医師、急拵きゅうごしらえの紋を透綾すきやの羽織にった親戚の男達、其等が棺の前後に附添うた。大勢の子供や、子守がいて来る。婆さんかみさんが皆出て見る。
 昨夜ゆうべ豪雨ごううは幸にからりれて、道も大抵乾いて居る。風が南からソヨ/\吹いて、「諸行無常」「是生滅法」の紙幟はたがヒラ/\なびく。「南無阿弥陀ァ仏――南無阿弥陀ァ仏」単調たんちょうな村のかなしみは、村の静寂の中に油の様に流れて、眠れよ休めよと云う様に棺を墓地へと導く。
 葬列はとどこおりなく、彼が家の隣の墓地に入った。此春墓地拡張の相談がきまって、三あまりの小杉山をひらいた。其杉を買った故人外二名の人々が、大きな分はって売り、小さなのは三人で持って来て彼の家に植えてくれた。其れは唯三月前の四月の事であった。其れから最早墓が二つも殖えた。二番目が寺本さんである。
 墓地のしきみの木にさわるので、若い洋服の医師が手を添えて枝をもたげたりして、棺は掘られた墓の前に据えられた。輿を解くのが一仕事、東京から来た葬儀社の十七八の若者は、真赤になってやっと輿をはずした。白木綿しろもめんで巻かれたひつぎは、荒縄あらなわしばられて、多少の騒ぎと共に穴の中におろされた。野良番はくわをとった。どさりと赤土のくれが柩の上に落ちはじめた。
「皆入れてしまうとよ」ささやき合うて、行列の先頭に来た紙幟は青竹からはずして、柩の上に投げ込まれた。
 土がまたドサ/\落ちる。

           *

 葬式の五日目に、話題に上った上祖師ヶ谷の行衛不明の兵士の消息を乳屋ちちやが告げた。兵士の彦さんは縊死いっししたのであった。代々木の山の中に、最早くさりかけて、両眼はからすにつゝかれ、空洞うろになって居たそうだ。原因は分らぬが、彦さんの実父は養子で、彦さんの母に追出され、今のおやじ後夫あといりと云う事であった。


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     田川

 最初近いと聞いた多摩川たまがわが、家から一里の余もある。玉川上水すら半里からある。好い水の流れに遠いのが、幾度いくたびも繰り返えさるゝ失望であった。つい其まゝに住むことになったが、流水りゅうすいがあったらと思わぬことは無い。せめて掘抜井ほりぬきいどでも掘ろうかと思うが、経験ある人の言によると、此附近では曾て多額の費用をかけて掘った人があって、水は地面まで来るには来たが、如何してもき上らぬと云うのである。水のたのしみは、普通の井と、家内に居ては音は聞こえぬ附近の田川たがわで満足しなければならぬ。
 彼の家から五六丁はなれて品川堀がある。品川へ行く灌漑専用の堀川で、村の為には洗滌あらいすすぎの用にしかならぬ。一昨々年の夏の出水に、村内で三間ばかり堤防が崩れ、つつみから西は一時首までつかる程の湖水になり、村総出で防水工事をやった。曾て村の小児が溺死したこともあって、村の為にはあまり有り難くもない水である。品川堀の外には、彼が家の下なる谷を西から東へ流るゝ小さな田川と、八幡田圃たんぼを北から南東に流るゝ大小二筋ふたすじの田川がある。
 彼の屋敷下の小さな谷を流るゝ小川は、何処から来るのか知らぬが、冬は大抵れて了う。其かわり夏の出水には堤を越して畑にあふれる。其様な時には、村の子供が大喜悦おおよろこびで、キャッ/\騒いで泳いで居る。本当の畑水練である。農としては出水を憂うべきだが、遊び好きなる事に於て村の悪太郎あくたろう等に劣るまじい彼は、畑を流るゝ濁水だくすいの音颯々さっさつとして松風の如く心耳しんじ一爽いっそうの快を先ず感じて、しり高々とからげ、下駄ばきでざぶ/\渡って見たりして、其日りに水が落ちて了うのをつねに残念に思うのである。兎に角此気まぐれな小川でも、これあるが為に少しは田も出来る。つつみかやよしは青々としげって、殊更ことさらたけも高い。これあるが為に、夏はほたる根拠地こんきょちともなる。朝から晩までべちゃくちゃさえず葭原雀よしわらすずめの隠れにもなる。五月雨さみだれの夜にコト/\たた水鶏くいなの宿にもなる。
 八幡田圃たんぼを流るゝ田川の大きな方を、此辺では大川と云う。一間はばしかない大川で、玉川浄水じょうすいを分った灌漑用水である。此水あるが為に、千歳村から世田せたかけて、何百町の田が出来る。九十一歳になる彼の父は、若い頃は村吏そんり県官けんかんとして農政には深い趣味と経験を有って居る。其子の家に滞留中此田川のくろを歩いて、熟々つくづくと水を眺め、喟然きぜんとして「仁水じんすいなあ」と嘆じた。趣味を先ず第一に見る其子の為にも不仁の水とは云われない。此水あるが為に田圃がある。春は紫雲英れんげそう花氈はなむしろを敷く。淋しい村をにぎわしてかわずが鳴く。朝露白い青田の涼しさも、黄なる日の光を震わしていなご飛ぶ秋の田の豊けさに伴うさま/″\の趣も、此水の賜ものである。こゝにこの水流るゝがために、水を好む野茨のばら心地ここちよく其のほとりに茂って、麦がれる頃は枝もたわかんばしい白い花をかぶる。薄紫の嫁菜よめなの花や、薄紅の犬蓼いぬたでや、いろ/\の秋の草花も美しい。ふなどじょうを子供が捕る。水底みなそこに影をいて、メダカがおよぐ。ドブンと音して蛙が飛び込む。まれにはしなやかな小さな十六盤橋そろばんばしを見せて、二尺五寸の蛇が渡る。田に入るとて水をく頃は、高八寸のナイヤガラが出来て、蛙の声にまぎらわしい音を立てる。玉川に行くかわりに子供はこゝで浴びる。「蘆の芽や田に入る水も隅田川」そうだ。彼の村を流るゝ田川も、やはり玉川、玉川のまごであった。祖父様の玉川の水が出る頃は、この孫川まごがわの水もはいがゝった乳色になるのである。乞食は時々こゝに浴びる。去年の夏はてりがつゞいたので、村居六年はじめて雨乞あまごいを見た。八幡に打寄って村の男衆が、神酒みきをあげ、「六根清浄ろっこんしょうじょう………………懺悔□□さんげさんげ」と叫んだあとで若い者がふんどし一つになって此二間はばの大川に飛び込み、肩から水を浴びて「六根清浄」……何とかして「さんげ□□□」と口々に叫んだ。其声は舜旻天しゅんびんてん号泣ごうきゅうする声の如くいじらしく耳に響いた。霜の朝など八幡から眺めると、小川の上ばかり水蒸気がほうっと白くって、水の行衛ゆくえが田圃はるかにゆびさゝれる。
 かけひの水音を枕に聞く山家やまがの住居。山雨常に来るかと疑う渓声けいせいうち。平時は汪々おうおうとして声なく音なく、一たび怒る時万雷の崩るゝ如き大河のほとり。裏にを飼い門に舟をつなぐ江湖の住居。色と動と音と千変万化の無尽蔵たる海洋のほとり。野にいた彼には、此等のものが時々まぼろしの如く立現われる。然しながらかりサハラゴビの一切水に縁遠い境に住まねばならぬとなったら如何どうであろう。またかまどひるへび寝床ねどこもぐ水国すいごく卑湿ひしつの地に住まねばならぬとなったら如何であろう。中庸は平凡である。然し平凡には平凡の意味があり強味つよみがある。
 田川の水よ。なんじに筧の水の幽韻ゆういんはない。雪氷をかした山川の清冽せいれつは無い。瀑布ばくふ咆哮ほうこうは無い。大河の溶々ようようは無い。大海の汪洋おうようは無い。□は謙遜な農家の友である。高慢な心のつのを折り、騒がしい気のあわたゞしさをおさえて、心静こころしずかに□の声低く語る教訓を聴かねばならぬ。


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     驟雨浴

 両三日来、西の地平線上、甲相武信の境を造くる連山の空に当って、屡々しばしば黒雲が立った。遠寄とおよせの太鼓の様に雷も時々鳴る。黒雲の幕の中で、ぱっ/\と火花を散す様に、電光も射す。夕立が来ると云いながら、一滴も落ちずして二三日過ぎた。
 土用太郎どようたろうは涼しい彼の家でも九十一度と云う未曾有の暑気であった。土用二郎の今日きょうは、朝来少し曇ったが、風と云うものはたと絶え、気温は昨日程上って居ないにも拘わらず、脂汗あぶらあせが流れた。
 昼飯を食って汗になったので、天日で湯といて居る庭のかめの水を浴び、とうの寝台に横になって新聞を見て居る内に、い心地になって眠って了うた。
 一寝入して眼をさますと、室内が暗くなって居る。時計を見ると、まだ二時廻ったばかりである。縁側に出て見た。南の方は明るく、午後二時の日がかん/\照って居るが、西の方が大分暗い。近村の二本松を前景ぜんけいにして、いつも近くは八王子在の高尾小仏、遠くて甲州東部の連峰が見ゆるあたりだけ、卵色の横幕を延いた様に妙に黄色になり、其上層は人をおどす様な真黯まっくらい色をして居る。西北の空が真暗になって、甲州の空の根方のみみょう黄朱おうしゅなすった様になる時は、屹度何か出て来る。すでに明治四十一年の春の暮、成人おとな握掌大にぎりこぶしほどの素晴しい雹が降った時もそうだった。斯う思いながら縁から見て居ると、頭上ずじょうの日はカン/\照りながら、西の方から涼しいと云うよりむしろつめたい気が吻々ふつふつと吹っかけて来る。彼の家から、東は東京、南は横浜、夕立は滅多に其方からは来ぬ。夕立は矢張西若くは北の山から来る。山から都へ行く途中、彼が住む野の村をぎるのである。
 西は本気に曇った。雷様も真面目に鳴り出した。最早多摩川の向うは降って居るのであろう。彼は大急ぎで下りて、庭に乾してあった仕事着やはだし足袋たびを取り入れた。帰って北の窓をあけると、つらが冷やりとした。北の空は一面鼠色になって居る。日傭ひようのおかみが大急ぎで乾し麦や麦からを取り入れて居る。
 北の硝子窓がらすまどをしめて、座敷の南縁に立って居ると、ぽつりと一つ大きな白いつぶが落ちて、乾いて黄粉きなこの様になった土にころりところんだ。
「来たぞ、来たぞ」
 四十五歳の髯男ひげおとこ、小供か小犬の様にうれしい予期よき気分きぶんになって見て居ると、そろそろ落ち出した。大粒小粒、小粒大粒、かわる/″\はすに落ちては、地上にもんどりうって団子だんごの様にころがる。二本松のあたり一抹いちまつの明色は薄墨色うすずみいろき消されて、推し寄せて来る白い驟雨ゆうだち進行マアチが眼に見えて近づいて来る。
 彼は久しくうらやんで居た。熱帯を過ぐる軍艦の甲板で、海軍の将卒が折々やると云う驟雨浴しゅううよく「総員入浴用意!」の一令で、手早く制服ふくをぬぎすて、石鹸しゃぼんとタオルを両手につかんで、真黒の健児共がずらり甲板に列んだ処は、面白い見ものであろう。やがて雷鳴電光よろしくあって、錨索大いかりづなだいの雨の棒が瀑布落たきおとしに撞々どうどうと来る。さあ、今だ。総員あひるの如くきゃッ/\笑い騒いで、大急ぎで石鹸を塗る、洗う。大洋の真中で大無銭湯が開かれるのだ。愚図々々すれば、石鹸を塗ったばかりの斑人形まだらにんぎょうを残して、いたずらな驟雨しゅううはざあとけぬけて了う。四方水の上に居ながら、バケツ一ぱいの淡水まみずにも中々ありつかれぬ海の子等に、蒸溜水の天水浴てんすいよくとは、何等贅沢の沙汰であろう。世界一の豪快ごうかいは、甲板の驟雨浴であらねばならぬ。
 不幸にして美的百姓氏は、海上ならぬ陸上に居る。熱帯ならぬ温帯に居る。壮快限り無い甲板の驟雨浴に真似られぬが、自己流の驟雨浴なら出来ぬことは無い。やって見るかな、と思うて居ると、妻児が来た。彼は手早てばやく浴衣をぬいで真裸になり、と走り出て、芝生の真中に棒立ちに立った。
 ポトリ肩をうつ。脳天まで冷やりとする。またぽとり。ぽと/\ぽと/\。其たびに肩や腹や背が冷やり/\とする。好い気もちだ。然しまだ夕立の先手で、手痛くはやってぬ。
「此れをかぶっていらっしゃいな」
と云って、妻は硝子がらすの大きなはちを持て来た。硝子は電気を絶縁する、雷よけのまじないにかぶれと謂うのだ。よしと受取って、いきなり頭にかぶった。黒眼鏡をかけた毛だらけの裸男はだかおとこが、硝子鉢がらすばちを冠って、直立不動の姿勢をとったところは、新式の河童かっぱだ。不図思いついて、彼は頭上の硝子盂を上向けにし、両手でささえて立った。一つ二つと三十ばかりかぞうると、取り下ろして、ぐっと一気に飲みした。やわらかな天水である。二たび三たび興に乗じて此大さかずきを重ねた。
「もうあがっていらっしゃいよ」
 妻児が呼ぶ頃は、夕立の中軍ちゅうぐんまさに殺到さっとうして、四囲あたりは真白いやみになった。電がピカリとする。らいが頭上で鳴る。ざあざあっと落ち来る太い雨に身の内たれぬ処もなく、ぐっと息が詰まる。驟雨浴しゅううよくもこれまでと、彼はたきの如くほとばし樋口といぐちの水に足を洗わして、身震いして縁に飛び上った。
 上ると土砂降どしゃぶりになった。庭の平たいかめの水を雨が乱れ撲って、無数の魚児の□□げんぎょうする様にね上って居たが、其れさえ最早見えなくなった。
あっえんが」
つまが叫んだ。南西からざァっと吹かけて来て、縁はたちまち川になった。妻とおんなあわてゝ書院の雨戸をくる。主人は障子、廊下の硝子窓がらすまどをしめてまわる。一切の物音は絶えて、唯ざあと降る音、ざあっと吹くおとばかりである。忽珂□からんと硝子戸がひびいた。また一つ珂□と響いた。ひょうである。彼はまだ裸であった。飛び下りて、雨の中から七八つ白いのを拾った。あまり大きなのではない。小指のさき位なのである。透明、不透明、不透明のかくをもった半透明のもある。主人は二つ食った。妻は五六個食った。歯が痛い程冷たい。
 座敷の縁は川になった。母屋おもやの畳は湿しとる程吹き込んだ。家内は奥の奥まで冷たい水気がほしいまゝにかけわる。
「あゝい夕立だ。降れ、降れ、降れ」
 斯う呼わって居る内、夜の明くる様に西の空が明るくなり出した。霽際あがりぎわほそい雨が、白い絹糸をひらめかす。一足ひとあし縁へ出て見ると、東南の空は今真闇である。最早夕立の先手が東京に攻め寄せた頃である。二百万の人の子のあわてふためくさまが見える様だ。
 何時いつの間にかばったり雨は止んで、金光こんこういかめしく日が現われた。見る/\地面を流るゝ水が止まった。風がさあっと西から吹いて来る。庭の翠松がばら/\としずくを散らす。何処かでキリン/\とひぐらしが心地よく鳴き出した。
 時計を見ると、二時三十分。夕立は唯三十分つゞいたのであった。
 浴衣ゆかたを引かけ、低い薩摩下駄を突かけて畑に出た。さしもはしゃいで居た畑の土がしっとりと湿うるおうて、玉蜀黍とうもろこしの下葉やコスモスの下葉や、ね上げた土まみれになって、身重げに低れて居る。何処どこを見ても、うれしそうにみどりがそよいで居る。東の方ではらいがまだ鳴って居る。
虹収仍白雨にじおさまってなおはくう雲動忽青山くもうごいてたちまちせいざん
 斯く打吟うちぎんじつゝ西の方を見た。高尾、小仏や甲斐の諸山は、一風呂浴びて、濃淡のみどりあざやかに、富士も一筋ひとすじ白い竪縞たてじまの入った浅葱あさぎの浴衣を着て、すがすがしくんで居る。
「キリン、キリンキリン!」
 ひぐらしがまた一声鳴いた。
 隣家となりの主人が女児こどもを負って畑廻わりをして居る。
「好いおしめりでございました」
と云う挨拶を透垣越すいがきごしに取りかわす。
 二時間ばかりすると、明日あすは「おしめり正月」との言いつぎが来た。
詩篇しへんを出して、大声に第六十五篇を朗詠ろうえいする。
なんぢ地にのぞみて水そゝぎ、大に之をゆたかにし玉へり。神の川に水満ちたり。なんぢかくそなへをなして、穀物たなつものをかれらにあたへたまへり。なんぢたみぞを大にうるほし、うねをたひらにし、白雨むらさめにてこれをやはらかにし、そのえ出づるを祝し、また恩恵めぐみをもて年の冕弁かんむりとしたまへり。なんぢの途にはあぶらしたゝれり。その恩滴したゝりは野の牧場まきをうるほし、小山はみなよろこびにかこまる。牧場はみなひつじの群を、もろ/\の谷は穀物たなつものにおほはれたり。彼等はみなよろこびてよばはりまたうたふ』
(明治四十五年 七月廿一日)


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     村芝居

 うらの八幡で村芝居むらしばいがある。
 一昨日おとついは、一字の男総出で、隣村の北沢から切組きりくみ舞台ぶたいを荷車で挽いて来た。昨日は終日舞台かけで、村で唯一人ただひとりの大工は先月来仕かけて居る彼が家の仕事をやすんで舞台や桟敷さじきをかけた。今夜は愈芝居である。
 十一月も深い夜の事だ。外套がいとうを着て、彼等夫妻は家を空虚からあきにして出かけた。
 平生から暗くてさびしい八幡界隈かいわいが、今夜は光明世界人間の顔の海に化けて居る。八幡横手の阪道から、宮裏みやうらの雑木林をかけて、安小間物屋、鮨屋すしや、柿蜜柑屋、大福駄菓子店、おでん店、ずらりと並んで、カンテラやランプの油煙ゆえんを真黒に立てゝ、人声がや/\さわいで居る。其中をうて、宮の横手に行くと、山茶花さざんか小さな金剛纂やつでなぞ植え込んだ一寸した小庭が出来て居て、ランプを入れた燈籠とうろうが立ち、杉皮葺すぎかわぶきの仮屋根の下に墨黒々と「彰忠しょうちゅう」の二大字を書いた板額いたがくかかって居る。然る可き目的がなければ村芝居の興行は許されぬと云う其筋の御意だそうで、此度の芝居も村の諸君が智慧ちえをしぼって、日露戦役記念の為とこじつけ、ようやく役場や警察の許可を得た。其れについて幸い木目もくめ見事みごと欅板けやきいたがあるので、戦役記念の題字を書いてくれと先日村の甲乙たれかれが彼に持込んで来たが、書くが職業と云う条あまりの名筆故めいひつゆえ彼は辞退した。そこで何処どこかの坊さんに頼んだそうだが、坊さんはいいすみがなければ書けぬと云うたそうで、字を書かぬなら墨を貸してくれと村の人達が墨を借りに来た。幸い持合せのちと泥臭どろくさいが見かけは立派な円筒形えんとうけいの大きな舶来はくらい唐墨とうぼくがあったので、こころよく用立てた。今夜見れば墨痕ぼくこん美わしく「彰忠しょうちゅう」の二字にって居る。
 拝殿には、村の幹部が、其ある者は紋付羽織など引かけて、他村から来る者に挨拶したり、机に向って奉納寄進のビラを書いたりして居る。「さあ此方こちへ」と招かれる。ビラを書いてくれと云う。例の悪筆を申立てゝ逃げる。
 拝殿から見下ろすと、驚く可し、東向きのだら/\坂になって居た八幡の境内けいだいが、何時の間にか歌舞伎座か音楽学校の演奏室の様な次第高の立派な観劇場になり済ました。坂の中段もとに平生ふだん並んで居る左右二頭の唐獅子からじしは何処へかかつぎ去られ、其あとには中々馬鹿にはならぬ舞台花道が出来て居る。桟敷さじきも左右にかいてある。拝殿下はいでんしたから舞台下までは、次第下りに一面むしろを敷きつめ、村はもとより他村の老若男女彼此四五百人も、ぎっしり詰まって、煙草をったり、話したり、笑ったり、晴れと着飾った銀杏返いちょうがえしの娘が、立って見たりすわったり、桟敷からつるした何十と云うランプの光の下にがや/\どよめいて居る。無論屋根が無いので、見物の頭の上には、霜夜しもよほしがキラ/\光って居る。舞台横手のチョボのゆかには、見た様な朝鮮簾ちょうせんみすが下って居ると思うたは、其れは若い者等が彼の家から徴発ちょうはつして往った簾であった。花道には、ひとつきん何十銭也船橋何某様、一金何十銭也廻沢何某様と隙間すきまもなくびらをった。引切りなしに最寄もよりの村々から紋付羽織位引かけた人達がやって来る。拝殿の所へ来て、「今晩こんばん御芽出度おめでとう、此はホンの何ですが」と紙包を出す。幹部が丁寧に答礼して、若い者を呼び、桟敷や土間に案内さす。ビラを書く紙がなくなった、紙を持てうと幹部が呼ぶ。素通すどおし眼鏡をかけたイナセな村の阿哥あにいが走る。「ありゃ好い男だな」と他村の者が評する。耳の届く限り洋々たる歓声かんせいいて、理屈屋の石山さんも今日きょうはビラを書き/\莞爾□□にこにこ上機嫌で居る。
 彼等の来様きようちとおそかったので、三番叟さんばそうは早や済んで居た。伊賀越いがごえの序幕は、何が何やら分からぬ間に過ぎた。彼等夫妻も拝殿から下りて、土間にり込み、今幕があいた沼津の場面を眺める。五十円で買われて来た市川某尾上某の一座が、団十菊五芝翫しかん其方退そっちのけとばかり盛に活躍する。お米は近眼の彼には美しく見えた。お米の手に持つ菊の花、かざった菊の植木鉢、それから借金取が取ってき出す手箒てぼうきも、皆彼の家から若者等が徴発ちょうはつして往ったのである。分かるも、分からぬも、観客けんぶつは口あんごりと心もそらに見とれて居る。平作へいさくは好かった。隣に座って居る彼が組頭くみがしら恵比寿顔えびすがおした爺さんが眼をうるまして見て居る。頭上ずじょうの星も、霜夜も、座下の荒莚あらむしろも忘れて、彼等もしばし忘我の境に入った。やがてきり□□と舞台が廻る。床下ゆかしたで若者が五人がゝりで廻すのである。村芝居に廻り舞台は中々贅沢ぜいたくなものだ。
 次ぎは直ぐ仇討かたきうちの幕になった。狭い舞台にせゝこましく槍をしごいたり眉尖刀なぎなたを振ったり刀を振り廻したりする人形が入り乱れた。唐木からき政右衛門まさえもんが二刀を揮って目ざましく働く。「あの腰付こしつきを御覧なさい」と村での通人つうじん仁左衛門さんが嘆美する。「星合団四郎なンか中々強いやつが向う方に居るのですからナ」と講談物こうだんもの仕入れの智識をふり廻す。
 夜は最早十二時。これから中幕の曾我対面がある。彼等は見残して、留守番も火の気も無い家に帰った。平作やお米がおどる彼等が夢の中にも、八幡の賑合にぎわいは夜すがら海の音の様に響いて居た。
(明治四十年 十一月)


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     夏の頌

       一

 夏は好い。夏が好い。夏ばかりでも困ろうが、四時春なンか云う天国は平に御免を蒙る。米国加州人士の中には、わざ□□夏を迎えに南方に出かける者もあるそうな。不思議はない。
 夏は放胆ほうたんの季節だ。小心しょうしん怯胆きょうたん屑々乎せつせつこたる小人の彼は、身をめぐる自然の豪快を仮って、わずかに自家の気焔を吐くことが出来る。排外的に立籠めた戸障子を思いきり取り払う。小面倒な着物なンか脱いでしもうて、毛深い体丸出しの赤裸々黒条々をきめ込む。大抵の客には裸体若くは半裸体で応接する。一夏過ぎると、背も腹も手足も、海辺に一月も過した様に真黒になる。臆病者も頗英雄になった気もちだ。夏の快味は裸の快味だ。裸の快味は懺悔ざんげの快味だ。さらけ出したからだ土用干どようぼし霊魂れいこん煤掃すすはき、あとの清々すがすがしさは何とも云えぬ。起きぬけに木の下で冷たい水蜜桃をもいでがぶりと喰いついたり、朝露に冷え切った水瓜すいかを畑で拳固げんこって食うたり、自然の子が自然に還る快味は言葉に尽せぬ。
 彼が家では、夏の夕飯ゆうめしをよく芝生でやる。椅子テーブルのこともあり、むしろを敷いて低い食卓の事もある。金をとらかす日影椎の梢に残り、芝生はすでに蔭に入り、ひぐらしの声何処からともなく流れて来ると、成人おとなも子供も嬉々ききとして青芝の上の晩餐ばんさんの席に就くのである。犬や猫が、主人も大分開けて我党に近くなった、頗話せると云った様な顔をして、主人の顔と食卓の上を等分に見ながら、おとなしく傍に附いて居る。毎常いつもの夕飯がうまく喰われる、永くなる。梢に残った夕日が消えて、樺色かばいろの雲が一つ波立たぬ海の様な空に浮いて居る。夏の夕明ゆうあかりは永い。まだ暮れぬ、まだ暮れぬ、と思う間に、其まゝすうと明るくなりまさる、眼をあげると、何時の間にか頭の上にまん丸な月が出て居て、団欒だんらんの影黒く芝生に落ちて居る。

       二

 強烈な日光の直射程痛快なものは無い。日蔭ひかげゆうに笑む白い花もあわれ、曇り日に見る花のやわらかに落ちついた色も好いが、真夏の赫々かくかくたる烈日を存分受けて精一ぱい照りかえす花の色彩の美は何とも云えぬ。彼は色が大好きである。緋でも、紅でも、黄でも、紫でも、碧でも、凡そ色と云う色皆ほのおと燃え立つ夏の日の花園を、経木きょうぎ真田さなだの帽一つ、真裸でぶらつく彼は、色のうたげ、光のバスに恍惚とした酔人である。彼は一滴の酒も飲まぬが、彼は色にはタワイもなく酔う。曾て戯れにある人のはがきじょうに、
此身てふにもあるまじけれど
わけもなくうれしかりけり日はなる
真夏まなつそのの花のいろ/\

       三

 変化の鮮やかは夏の特色である。彼の郷里熊本などは、昼間ひるまは百度近い暑さで、夜も油汗あぶらあせが流れてやまぬ程蒸暑むしあつい夜が少くない。蒲団ふとんなンか滅多に敷かず、ござ一枚で、真裸に寝たものだ。此様こんなでも困る。朝顔の花一ぱいにたまる露の朝涼ちょうりょう岐阜ぎふ提灯ちょうちんの火も消えがちの風の晩冷ばんれい、涼しさを声にした様なひぐらし朝涼あさすず夕涼ゆうすずらして、日間ひるまは草木も人もぐったりとしおるゝ程の暑さ、昼夜の懸隔けんかくする程、夏は好いのである。
 ヒマラヤいつつも積み重ねた雲の峰が見る間にくずれ落ちたり、いインキの一点を天の一角にうった雲が十分間に全天空ぜんてんくうを鼠色に包んだり、電をひらめかしたり、ひょういたり、雷を鳴らしたり、夕立になったり、にじを見せたり。そうして急に青空になったり、分秒を以てする天空の変化は、眼にもとまらぬ早わざである。夏の天に目ざましい変化があれば、夏の地にも鮮やかな変化がある。尺を得れば尺、寸をれば寸と云う信玄流しんげんりゅうの月日を送る田園の人も、夏ばかりは謙信流けんしんりゅう一気呵成いっきかせいを作物の上にあじわうことが出来る。生憎あいにく草も夏は育つが、さりとて草ならぬものも目ざましくしげる。煙管きせるくわえて、後手うしろで組んで、起きぬけに田の水を見るたつじいさんの眼に、露だらけの早稲わせが一夜に一寸も伸びて見える。昨日花を見た茄子なすが、明日はもうもげる。瓜のつるは朝々伸びて、とめてもとめてもしんをとめ切れぬ。二三日打っちゃって置くと、甘藷さつまいもの蔓は八重がらみになる。如何に一切を天道様に預けて、時計に用がない百姓でも、時には斯様こんなはき/\した成績せいせきを見なければ、だらけてしまう。夏は自然の「ヤンキーズム」だ。そうして此夏が年が年中で、正月元日浴衣がけで新年御芽出度も困りものだが、此処ここらの夏はぐず/\するとさっさと過ぎてしまう位なので、却ってよいのである。

       四

 夏のいのちは水だが、川らしい川に遠く、海に尚遠いこの野の村では、水のたのしみが思う様にとれぬ。
 昨年さくねんの夏、彼は大きなかめを買った。わたり三尺、深さはたった一尺五寸の平たい甕である。これを庭の芝生のはしに据えて、毎朝水晶の様ないどの水をたして置く。大抵大きなバケツ八はいであふるゝ程になる。水気の少い野の住居は、一甕ひとかめの水も琵琶びわ洞庭どうていである。太平洋大西洋である。書斎しょさいから見ると、甕の水に青空が落ちて、其処に水中の天がある。時々は白雲しらくもが浮く。空を飛ぶ五位鷺ごいさぎの影もぎる。風が吹くとさざなみが立つ。風がなければ琅□ろうかんの如くって居る。
 日は段々高く上り、次第に熱して来る。一切の光熱線こうねつせんが悉く此径三尺の液体えきたい天地に投射とうしゃせらるゝかと思われる。冷たく井を出た水も、日の熱心にほだされて、段々冷たくなくなる。生温なまぬるくなる。所謂日なた水になる。正午の頃は最早湯だ。非常に暑い日は、甕の水もうめ水が欲しい程に沸く。
 午後二時三時のあいだは、涼しいと思う彼の家でも、九十度にも上る日がある。風がぱったり止まる日がある。昼寝にも飽きる。新聞を見るすらいやになる。此時だ、此時彼は例の通り素裸すっぱだかで薩摩下駄をはき、手拭てぬぐいを持って、と庭に出る。日ざかりの日は、得たりやおうと真裸の彼を目がけて真向から白熱箭はくねつせんを射かける。彼はあわてず騒がず悠々と芝生を歩んで、甕の傍に立つ。まず眼鏡めがねをとって、ドウダンの枝にのせる。次ぎにしたおびをとって、春モミジの枝にかける。手拭を右の手に握り、甕から少しはなれた所に下駄を脱いで、下駄から直に大胯おおまたに片足を甕に踏み込む。あつ、と云いたい位。つゞいて一方の足も入れると、一気にどう尻餅しりもちく様にわる。甕のふちを越して、水がざあっとあふれる。彼は悠然と甕の中に坐って、手拭をらして、頭からつら、胸から手と、ゆる/\洗う。水はます/\溢れて流れる。乾いた庭に夕立のあとの如く水が流れる。油断をしたありけらあわって逃げる。逃げおくれて流される。彼は好い気もちになって、じいと眼をつぶる。眼をいて徐に見廻わす。上には青天がある。下には大地がある。中には赤裸あかはだかの彼がある。見物人は、太陽と雀と虫と樹と草と花と家ばかりである。時々は褌の洗濯もする。而してそれをかえでの枝にらして置く。五分間で火熨斗ひのしをした様に奇麗に乾く。
 十分十五分ばかりして、甕を出る。濡手拭ぬれてぬぐいを頭にのせたまゝ、四体は水のるゝまゝに下駄をはいて、今母の胎内を出た様に真裸で、天上天下唯我独尊と云う様な大踏歩だいとうほして庭を歩いて帰る。帰って縁に上って、手拭で悉皆体を拭いて、尚暫くは縁に真裸で立って居る。全く一皮ひとかわいだ様で、が体のあたりばかり涼しい気がそよぐ。縁から見ると、七分目にった甕の水がまだ揺々ゆらゆらして居る。其れは夕蔭に、かわかわいた鉢の草木にやるのである。稀には彼が出たあとで、妻児さいじが入ることもある。青天白日、庭の真中で大びらに女が行水ぎょうずいするも、田舎住居のお蔭である。
 夏は好い。夏が好い。


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     低い丘の上から

       一

 彼はつねに武蔵野の住民と称して居る。然し実を云えば、彼が住むあたりは、武蔵野も場末ばすえで、景が小さく、豪宕ごうとうな気象に乏しい。真の武蔵野を見るべく、彼の家から近くて一里強北に当って居る中央東線の鉄路を踏み切って更に北せねばならぬ。武蔵野に住んで武蔵野の豪宕莽蒼もうそうの気をりょうすることが出来ず、且居常きょじょう流水の音を耳にすることが出来ぬのが、彼の毎々繰り返えす遺憾である。然し縁なればこそ来て六年も住んだ土地だ。平凡は平凡ながら、平凡の趣味も万更捨てたものでもない。
 彼の住居は、東京の西三里、玉川の東一里、甲州街道から十丁程南に入って、北多摩郡中では最も東京に近い千歳村字粕谷かすや南耕地みなみこうちと云って、昔は追剥おいはぎが出たの、大蛇が出てばばが腰をぬかしたのと伝説がある徳川の御林おはやしを、明治近くにひらいたものである。林を拓いて出来た新開地だけに、いずれも古くて三十年二十年前かぶを分けてもらった新家の部落で、粕谷中でも一番新しく、且人家がことまばらな方面である。就中なかんずく彼の家は此新部落の最南端に一つ飛び離れて、直ぐ東隣は墓地、生きた隣は背戸せどの方へ唯一軒、加之しかも小一丁からある。田圃たんぼ向うの丘の上を通る青山街道から見下ろす位の低い丘だが、此方から云えば丘の南端に彼の家はあって、東一帯は八幡の森、雑木林、墓地の木立にふさがれて見えぬが、南と西とは展望に障るものなく、小さなパノラマの様な景色が四時朝夕眺められる。

       二

 三鷹村みたかむらの方から千歳村をて世田ヶ谷の方に流るゝ大田圃の一の小さなえだが、入江いりえの如く彼が家の下を東から西へ入り込んで居る。其西の行きどまりはき上げた品川堀のつつみやぶだたみになって、其上から遠村近落のかしの森や松原を根占ねじめにして、高尾小仏から甲斐東部の連山が隠見出没して居る。冬は白く、春は夢の様にあわく、秋のゆうべは紫に、夏の夕立後はまさまさと青く近寄って来る山々である。近景の大きな二本松が此山のくさり突破とっぱして居る。
 此山の鏈を伝うて南東へ行けば、富士をかんした相州連山の御国山みくにやまから南端の鋭い頭をした大山まで唯一目に見られる筈だが、此辺で所謂富士南に豪農の防風林ぼうふうりんの高い杉の森があって、正に富士を隠して居る。少し杉を伐ったので、冬は白いものが人をらす様にちら/\いて見えるのが、却て懊悩おうのうの種になった。あの杉の森がなかったら、と彼は幾度思うたかも知れぬ。然し此頃では唯其杉の伐られんことを是れ恐るゝ様になった。下枝したえだを払った百尺もある杉の八九十本、欝然うつぜんとして風景を締めて居る。斯杉の森がなかったら、富士は見えても、如何に浅薄の景色になってしまったであろう。春雨はるさめの明けの朝、秋霧あきぎりの夕、此杉の森のこずえがミレージの様にもやから浮いて出たり、棚引く煙をしゃの帯の如くまとうて見たり、しぶく小雨に見る/\淡墨うすずみの画になったり、梅雨にはふくろうの宿、晴れた夏には真先にひぐらしの家になったり、雪霽ゆきばれには青空に劃然くっきりそびゆる玉樹の高い梢に百点千点黒いからすをとまらして見たり、秋の入日のそら樺色にくんずる夕は、濃紺のうこん濃紫のうしの神秘な色をたたえて梢をる五尺の空に唯一つ明星をきらめかしたり、彼の杉の森は彼に尽きざる趣味を与えてくれる。

       三

 彼の家の下なる浅い横長の谷は、畑がおもで、田は少しであるが、此入江から本田圃に出ると、長江の流るゝ様に田が田に連なって居る。まだ北風の寒い頃、子を負った跣足はだしの女の子が、小目籠めかいと庖刀を持って、せり嫁菜よめななずな野蒜のびるよもぎ蒲公英たんぽぽなぞ摘みに来る。紫雲英れんげそうが咲く。蛙が鳴く。膝まで泥になって、巳之吉亥之作が田螺拾たにしひろいに来る。簑笠みのかさの田植は骨でも、見るには画である。螢には赤い火が夏の夜にちら/\するのは、子供が鰌突どじょうつきして居るのである。一条の小川が品川堀の下を横にくぐって、彼の家の下の谷を其南側に添うて東へ大田圃の方へと流れて居る。最初は女竹めだけの藪の中を流れ、それから稀によしを交えたかやの茂る土堤どての中を流れる。夏は青々として眼がさめる。葭切よしきり水鶏くいな棲家すみかになる。螢が此処からふらりと出て来て、田面に乱れ、墓地を飛んでは人魂ひとだまを真似て、時々は彼が家の蚊帳かやの天井まで舞い込む。夏は翡翠ひすい屏風びょうぶ光琳こうりんの筆で描いた様に、青萱あおかやまじりに萱草かんぞうあかい花が咲く。萱、葭の穂が薄紫に出ると、秋は此小川のつつみに立つ。それから日に/\秋風あきかぜをこゝに見せて、其薄紫の穂が白く、青々とした其葉が黄ばみ、更に白らむ頃は、漬菜つけなを洗う七ちゃんが舌鼓したつづみうつ程、小川の水は浅くなる。行く/\としけて武蔵野の冬深く、枯るゝものは枯れ、枯れたものは乾き、風なき日には光り、風ある日にはがさ/\と人が来るかの様にひびく。其内ある日近所の辰さん兼さんが※々さくさく[#「竹/(束+欠)」、上巻-195-4][#「「竹/(束+欠)」、上巻-195-4]々と音さして悉皆堤の上のをって、たばにして、持って往ってしまう。あとは苅り残されの枯尾花かれおばな枯葭かれよしの二三本、野茨のばらの紅い実まじりにさびしく残って居る。のぞいて見ると、小川の水は何処へくぐったのか、くぼい水道だけ乾いたまゝに残される。

       四

 谷の向う正面は、雑木林、小杉林、畑などの入り乱れた北向きの傾斜である。此頃は其筋の取締も厳重げんじゅうになったが、彼が引越して来た当座は、まだ賭博とばくが流行して、寒い夜向うの雑木林に不思議の火を見ることもあった。其火を見ぬ様になったはよいが、真正面ましょうめんに彼が七本松と名づけてでゝ居た赤松が、大分伐られたのは、惜しかった。此等の傾斜を南に上りつめたおかいただきは、隣字の廻沢めぐりさわである。雑木林に家がホノ見え、杉の森に寺が隠れ、此程並木のくぬぎを伐ったので、畑の一部も街道も見える。彼が粕谷かすやに住んだ六年の間に、目通りに木羽葺こっぱぶきが一軒、麦藁葺むぎわらぶきが一軒出来た。最初はけば/\しい新屋根が気障きざに見えたが、数年の風日は一をくすんだ紫に、一を淡褐色たんかっしょくにして、あたりの景色としっくり調和して見せた。このおかを甲州街道の滝阪たきざかから分岐ぶんきして青山へ行く青山街道が西から東へとって居る。青山に出るまでには大きな阪の二つもあるので、甲州街道の十分の一も往来は無いが、街道は街道である。肥車こやしぐるまが通う。馬士まごが歌うて荷馬車をいて通る。自転車が鈴をらして行く。稀に玉川行の自動車が通る。年に幾回か人力車が通る。道は面白い。すわって居て行路の人をながむるのは、断片だんぺんの芝居を見る様に面白い。時々はみどり油箪ゆたんや振りのくれないを遠目に見せて嫁入りが通る。附近に寺があるので、時々は哀しい南無阿弥陀なむあみだぶつの音頭念仏に導かれて葬式が通る。
 街道は此丘を東に下りて、田圃を横ぎり、また丘に上って、東へみやこへと這って行く。田圃をはさむ南北の丘が隣字の船橋ふなばしで、幅四丁程の此田圃は長く世田ヶ谷の方へつゞいて居る。田圃のはるか東に、いつも煙が幾筋か立って居る。一番南が目黒の火薬製造所の煙で、次が渋谷の発電所、次ぎが大橋発電所の煙である。一度東京から逗留とうりゅうに来たおさないめいが、二三日すると懐家病ホームシックに罹って、何時いつも庭の端に出ては右の煙を眺めて居た。五月雨さみだれで田圃が白くなり、雲霧くもきりで遠望が煙にぼかさるゝ頃は、田圃の北から南へ出るみさきと、南から北へと差出るはなとが、ながら入江をかこむ崎の如く末は海かと疑われる。廻沢めぐりさわと云い、船橋と云い、地形から考えても、昔は此田圃は海かみずうみかであったろうと思われる。

       五

 谷から向うのおかにかけて、麦と稲とが彼の為に一年両度緑になり黄になってくれる。雑木林が、若葉と、青葉と、秋葉と、三度のさかえを見せる。常見てはありとも見えぬあたりに、春来ればすももや梅が白く、桃が紅く、夏来れば栗の花が黄白く、秋は其処此処に柿紅葉、白膠木ぬるで紅葉もみじ、山紅葉が眼ざましくえる。雪も好い。月も好い。真暗い五月闇さつきやみ草舎くさやの紅い火を見るも好い。雨も好い。春陰しゅんいんも好い。秋晴も好い。る様な星の夜も好い。西の方甲州境の山から起って、玉川を渡り、彼が住む村を過ぎて東京の方へ去る夕立を目迎まむかえて見送るに好い。向うの村のこずえに先ずおとずれて、丘の櫟林、谷の尾花が末、さては己が庭の松と、次第に吹いて来る秋風を指点してんするに好い。かげったり、照ったり、さわいだり、だまったり、雲と日と風の丘と谷とに戯るゝ鬼子っこを見るにも好い。白鯉しろこいうろこを以て包んだり、蜘蛛くもの糸を以て織りなした縮羅しじらきぬを引きはえたり、波なき海をふちどるおびただしい砂浜を作ったり、地上の花をしぼます荘厳そうごん偉麗いれいの色彩を天空にかがやかしたり、諒闇りょうあんの黒布を瞬く間に全天におおうたり、摩天まてん白銅塔はくどうとうを見る間に築き上げては奈翁なぽれおんの雄図よりも早く微塵みじんに打崩したり、日々眼を新にする雲の幻術げんじゅつ天象てんしょうの変化を、出て見るも好い。
 四辺あたりさびしいので、色々な物音が耳に響く。ひなびて長閑のどかな鶏の声。あらゆる鳥の音。子供の麦笛むぎぶえ。うなりをうって吹く二百十日の風。おとなくして声ある春の雨。音なく声なき雪の緘黙しじま。単調な雷の様で聞く耳に嬉しい籾摺もみずりのおと。凱旋の爆竹ばくちくを聞く様な麦うちの響。秋祭りの笛太鼓。月夜の若い者の歌。子供の喜ぶ飴屋あめやの笛。降るかと思うと忽ち止む時雨しぐれのさゝやき。東京の午砲どんにつゞいて横浜の午砲。湿しめった日の電車汽車のひびき。稀に聞く工場の汽笛。夜は北から響く烏山の水車。隣家となり井汲いどくむ音。向うの街道を通る行軍兵士の靴音くつおとや砲車の響。小学校の唱歌。一丁はなれた隣家の柱時計が聞こゆる日もある。一番好いのは、春四月の末、隣の若葉した雑木林に朝日が射す時、ぽたり……ぽたりと若葉をすべる露のしたたりを聴くのである。
 夏秋の虫の音の外に、一番嬉しいのは寺のかね。真言宗の安穏寺あんのんじ。其れはずッと西南へ寄って、寺は見えぬが、鐘のは聞こえる。東覚院とうがくいん、これも真言宗、つい向うの廻沢めぐりさわにあって、寺は見えぬが、鐘の音は一番近い。尤も東にあるのが船橋の宝性寺ほうしょうじ、日蓮宗で、其草葺の屋根と大きな目じるしのとちの木は、小さく彼の縁から指さゝれる。
 大木は地のさかえである。彼の周囲に千年の古木こぼくは無い。甲州の山鏈さんれんを突破する二本松と、豪農の杉の森の外、木らしい木は、北の方三丁ばかり畑をへだてゝけやきもりの大欅が亭々と天を摩してそびえて居る。其若葉は此あたりで春の目じるし、其鳶色とびいろは秋も深い目じるしである。北の方は、此欅の中の欅と下枝を払った数本のはら/\松を点景にして、林から畑、畑から村と、遠く武蔵野につゞいて居る。

       六

 家の門口は東にある。出ると直ぐ雑木林。彼のものではないが、千金ただならず彼に愛される。彼が家のうしろに、三角形をなす小さな櫟林くぬぎばやしと共に、春夏の際は若葉青葉の隧道とんねるを造る。青空から降る雨の様に落葉おちばする頃は、人の往来ゆききの足音が耳に立つ。蛇のでもあるが、春は香の好いツボスミレ、金蘭銀蘭、エゴ、ヨツドヽメ、夏は白百合、撫子花、日おうぎ、秋は萩、女郎花、地楡われもこう竜胆りんどうなどが取々とりどりに咲く。ヨツドヽメの実もくれないの玉をつづる。楢茸ならたけ湿地茸しめじだけも少しは立つ。秋はさながらの虫籠むしかごで、松虫鈴虫の好いはないが、轡虫くつわむしなどは喧しい程で、ともすれば家の中まで舞い込んでわめき立てる。今は無くなったが、先年まで其林の南、墓地の東隣に家があって、十五六の唖の兄と十二三になる盲の弟が、兄が提灯ちょうちんつけて見る眼を働かすれば、おとうとが聞く耳を立てゝ虫の音を指し、不具二人寄って一人前の虫採むしとりをしたものだ。最早もう其家はつぶれ、弟は東京で一人前の按摩あんまになり、兄は本家に引取られて居るが、虫は秋毎に依然として鳴いて居る。家がさながら虫の音におぼれる様なよいがある。


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[#201ページ、地蔵尊の写真]


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大正十二年九月一日の大震に倒れただけで無事だった地蔵尊が、大正十三年一月十五日の中震に二たび倒れて無惨や頭が落ちました。私共の身代りになったようなものです。身代り地蔵と命名して、倒れたまま置くことにしました。

  大正十三年 春彼岸の中日


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   ひとりごと

     地蔵尊

 地蔵様が欲しいと云ってたら、甲州街道の植木なぞ扱う男が、荷車にのせて来て、庭の三本松のかげに南向きにえてくれた。八王子のざい、高尾山下浅川附近の古い由緒ゆいしょある農家の墓地から買って来た六地蔵の一体だと云う。眼を半眼に開いて、合掌がっしょうしてござる。近頃出来の頭の小さい軽薄な地蔵に比すれば、頭が余程大きく、曲眉きょくび豊頬ほうきょうゆったりとした柔和にゅうわ相好そうごう、少しも近代生活の齷齪あくせくしたさまがなく、大分ふるいものと見えて日苔ひごけが真白について居る。惜しいことには、鼻の一部と唇の一部にホンの少しばかりけがあるが、なさけの中に何処か可笑味おかしみを添えて、却て趣をなすと云わば云われる。台石の横側に、○永四歳(丁亥)十月二日と彫ってある。最初一瞥いちべつして寛永と見たが、見直すと寿永じゅえいに見えた。寿永では古い、平家没落の頃だ。寿永だ、寿永だ、寿永にして措け、と寿永で納まって居ると、ある時好古癖こうこへきの甥が来て寿永じゃありません宝永ですと云うた。云われて見ると成程宝永だ。暦を繰ると、干支えとも合って居る。そこで地蔵様の年齢としも五百年あまり若くなった。地蔵様は若くなって嬉しいとも云わず、古さが減っていやとも云わず、ゆったりしたほおに愛嬌を湛えて、気永に合掌してござる。宝永四年と云えば、富士が大暴れに暴れて、宝永山ほうえいざんが一夜に富士の横腹を蹴破っておどり出た年である。富士から八王子在の高尾までは、直径にして十里足らず。荒れ山が噴き飛ばす灰を定めて地蔵様はかぶられたことであろう。如何いかがでした、其時の御感想は? 滅却心頭火亦涼と澄ましてお出でしたか? 何と云うても返事もせず、雨が降っても、日が照りつけても、昼でも、夜でも、黙って只合掌してござる。時々は馬鹿にした小鳥が白い糞をしかける。いたずらなくもめが糸でくびをしめる。時々は家の主が汗臭い帽子を裏返しにかぶせて日にらす。地蔵様は忍辱にんにく笑貌えがおを少しも崩さず、堅固に合掌してござる。地蔵様を持て来た時植木屋が石の香炉を持て来て前に据えてくれた。朝々其れに清水を湛えて置く。近在を駈け廻って帰ったデカやピンがあえぎ/\来ては、こがれた舌で大きな音をさせて其水を飲む。雀や四十雀しじゅうから頬白ほおじろが時々来ては、あたりをうかがって香炉の水にぽちゃ/\行水をやる。時々は家の主も瓜の種なぞひたして置く。松葉まつばが沈み、蟻や螟虫あおむし溺死できしして居ることもある。尺に五寸の大海に鱗々の波が立ったり、青空や白雲がこころ長閑のどかに浮いて居る日もある。地蔵様は何時も笑顔で、何時も黙って、何時も合掌してござる。
 地蔵様の近くに、若い三本松と相対して、株立かぶだちの若い山もみじがある。春夏は緑、秋は黄と紅のがいをさしかざす。家のあるじは此山もみじの蔭に椅子テーブルを置いて、時々読んだり書いたり、而して地蔵様を眺めたりする。彼の父方の叔母おばは、故郷ふるさとの真宗の寺の住持の妻になって、つい去年まで生きて居たが、彼は儒教実学の家に育って、仏教には遠かった。唯乳母が居て、地獄、極楽、つるぎの山、三途さんずの川、さい河原かわらや地蔵様の話を始終聞かしてくれた。よつ五歳いつつの彼は身にしみて其話を聞いた。而して子供心にやるせない悲哀かなしみを感じた。其様な話を聞いたあとで、つく/″\眺めたうすぐらい六畳のすすけ障子にさして居る夕日の寂しい/\光を今も時々憶い出す。
 さいの河原はかなしい而して真実な俚伝りでんである。此世は賽の河原である。大御親おおみおやの膝下から此世にやられた一切衆生は、皆賽の河原の子供である。子供は皆小石を積んで日をすごす。ピラミッドを積み、万里の長城を築くのがエライでも無い。村の卯之吉が小麦くのがツマラヌでも無い。一切の仕事は皆努力である。一切の経営は皆遊びである。而して我儕われらが折角骨折って小石を積み上げて居ると、無慈悲の鬼めが来ては唯一棒に打崩す。ナポレオンが雄図ゆうときずくと、ヲートルルーが打崩す。人間がタイタニックを造って誇りに乗り出すと、氷山ひょうざんが来て微塵みじんにする。勘作が小麦を蒔いて今年は豊年だと悦んで居ると、ひょうって十分間に打散らす。蝶よ花よと育てた愛女まなむすめが、堕落書生のえばになる。身代をぎ込んだ出来の好い息子が、大学卒業間際に肺病で死んで了う。蜀山しょくさんがした阿房宮が楚人そびと一炬いっきょに灰になる。人柱を入れた堤防が一夜に崩れる。右を見、左を見ても、賽の河原は小石の山を鬼に崩されて泣いて居る子供ばかりだ。泣いて居るばかりならまだい。試験に落第して、鉄道往生をする。財産を無くして、きちがいになる。世の中が思う様にならぬでヤケを起し、太く短く世を渡ろうとしてさま/″\の不心得ふこころえをする。鬼にいじめられて鬼になり、他の小児の積む石を崩してあるくも少くない。賽の河原は乱脈らんみゃくである。慈悲柔和じひにゅうわにこ/\した地蔵様が出て来て慰めて下さらずば、賽の河原は、実に情無なさけない場所ではあるまいか。旅は道づれ世はなさけ我儕われらは情によって生きることが出来る。地蔵様があって、賽の河原はえられる。
 庭に地蔵様を立たせて、おのれは日々ひび鬼の生活をして居るでは、全く恥かしい事である。


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     水車問答

 田川の流れをひいて、小さな水車すいしゃが廻って居る。水車のほとりに、かしの木が一本立って居る。
 白日まひるも夢見る村の一人の遊び人が、ある日樫の木の下の草地に腰を下して、水車の軋々ぎいぎいと廻るを見つゝ聞きつゝ、例の睡るともなくむるともなく、此様な問答を聞いた。
 ぎいと一声長く曳張ひっぱるかと思えば、水車が樫の木を呼びかけたのであった。
「おい樫君、樫君。君は年が年中其処そこにつくねんと立って居るが、全体何をするのだい? 斯忙しい世の中にさ、本当に気が知れないぜ。吾輩を見玉え。吾輩は君、君も見て居ようが、そりゃァ忙しいんだぜ。吾輩は君、地球と同じに日夜にちや動いて居るんだぜ。よしかね。吾輩は十五びょうで一回転する。ソレ一時間に二百四十回転。一昼夜に五千七百六十回転、一年には勿驚おどろくなかれやく二百十万○三千八百四十回転をやるんだ。なんと、眼が廻るだろう。君は吾輩が唯道楽に回転して居ると思うか。戯談じゃない、全く骨が折れるぜ。吾輩は決して無意味の活動をするんじゃない。吾輩は人間の為にこくくのだ、こなく。吾輩は昨年中に、エヽと、搗いた米がざっと五百何十石、餅米が百何十石、大麦が二千何百石、小麦が何百石、粟が……ひえが……きびが……挽いた蕎麦粉そばこが……饂飩粉うどんこが……まだ大分あるが、まあざっと一年の仕事が斯様こんなもんだ。如何だね、自賛じゃないが、働きも此位やればまず一人前はたっぷりだね。それにお隣に澄まして御出おいで御前ごぜん如何どうだ。如何に無能か性分か知らぬが、君の不活動も驚くじゃないか。朝から晩までさ、年が年中其処そこにぬうと立ちぽかァんと立って居て、而して一体お前は何をするんだい? 吾輩は決してその自ら誇るじゃないが、君の為に此顔をあこうせざるを得ないね。おい、如何どうだ。樫君かしくん言分いいぶんがあるなら、聞こうじゃないか」
 云い終って、口角沫こうかくまつを飛ばす様に、水車は水沫しぶきを飛ばして、響も高々と軋々ぎーいぎーいと一廻り廻った。
 其処に沈黙の五六秒がつゞいた。かさ/\かさ/\頭上に細い葉ずれの音がするかと思うと、其れは樫君が口を開いたのであった。
そうつけ/\云わるゝと、わしあなへでも入りたいが、まあ聞いてくれ。そりゃ此処に斯うして毎日君の活動を見て居ると、うらやましくもなるし、だまって立って居る俺は実以て済まぬと恥かしくもなるが、此れが性分だ、造り主の仕置だから詮方しかたは無い。それに君は俺が唯遊んで昼寝ひるねして暮らす様に云うたが、俺にも万更仕事が無いでもない。聞いてくれ。俺のあたまの上には青空がある。俺の頭は、日々にちにち夜々ややに此青空の方へ伸びて行く。俺の足の下には大地だいちがある。俺の爪先は、日々夜々に地心へと向うて入って行く。俺の周囲ぐるりには空気と空間とがある。俺は此周囲に向うて日々夜々に広がって行く。俺の仕事は此だ。此が俺の仕事だ。成長が仕事なのだ。俺の葉蔭で夏の日に水車小屋の人達がすずんだり昼寝をしたり、俺の根が君を動かす水の流れの岸をば崩れぬ様に固めたり、俺のドングリを小供が嬉々と拾うたり、其様な事は偶然の機縁で、仕事と云う俺の仕事ではない。俺は今一人だが、俺の友達も其処そこ此処ここに居る。其一人は数年前にられて、今は荷車にぐるまになって甲州街道を東京の下肥のせて歩いて居る。他の友達は、下駄げたになって、泥濘どろの路石ころ路を歩いて居る。他の一人はかんなの台になって、大工の手脂てあぶらに光って居る。他の友達はまきになって、とうに灰になった。ドブ板になったのもある。また木目が馬鹿に奇麗だと云って、茶室ちゃしつ床柱とこばしらなンかになったのもある。根こぎにされて、都のやしきの眼かくしにされたのもある。お百姓衆のくわかまになったり、空気タイヤの人力車の楫棒かじぼうになったり、さま/″\の目に遭うてさま/″\の事をして居る。失礼ながら君の心棒も、俺の先代が身のなる果だと君は知らないか。俺は自分の運命を知らぬ。何れ如何どうにかなることであろう。唯其時が来るまでは、俺は黙って成長するばかりだ。君は折角眼ざましく活動し玉え。俺は黙って成長する」
 云い終って、一寸つばいたと思うと、それはドングリが一つ鼻先はなさきに落ちたのであった。夢見男は吾に復えった。そうして唯いつもの通り廻る水車と、小春日に影も動かず眠った様な樫の木とを見た。


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     農

我父は農夫なり  約翰ヨハネ伝第十五章一節

       一

 土の上に生れ、土のむものを食うて生き、而して死んで土になる。我儕われらは畢竟土の化物である。土の化物に一番適当した仕事は、土に働くことであらねばならぬ。あらゆる生活の方法の中、尤もよきものをえらみ得た者は農である。

       二

 農は神の直参じきさんである。自然のふところに、自然の支配の下に、自然をたすけて働く彼等は、人間化した自然である。神を地主とすれば、彼等は神の小作人である。主宰しゅさいを神とすれば、彼等は神の直轄ちょくかつの下に住む天領てんりょうの民である。綱島梁川君の所謂「神と共に働き、神と共に楽む」事を文義通り実行する職業があるならば、其れは農であらねばならぬ。

       三

 農は人生生活のアルファにしてオメガである。
 ナイルユウフラテほとりに、木片で土を掘って、野生のこくいて居た原始的農の代から、精巧な器械を用いて大仕掛にやる米国式大農の今日まで、世界は眼まぐろしい変遷をけみした。然しながら土は依然として土である。歴史は青人草あおひとぐさの上を唯風の如く吹き過ぎた。農のいのちは土の命である。諸君は土を亡ぼすことは出来ない。幾多のナポレオン維廉ヰルヘルムシシルローヅをして勝手に其帝国を経営せしめよ。幾多のロスチャイルドモルガンをして勝手に其ドルフランを掻き集めしめよ。幾多のツェッペリンホルランドをして勝手に鳥の真似魚の真似をせしめよ、幾多のベルグソンメチニコフヘッケルをして盛んに論議せしめ、幾多のショウハウプトマンをして随意に笑ったり泣いたりせしめ、幾多のガウガンロダンをして盛にり且きざましめよ。大多数の農は依然として、日出而作ひいでてさくし日入而息ひいってやすみ掘井而飲いどをほってのみ耕田而食たをたがやしてくらうであろう。倫敦、巴里、伯林、紐育、東京は狐兎のくつとなり、世は終に近づく時も、サハラ沃野よくやにふり上ぐる農の鍬は、夕日にきらめくであろう。

       四

 大なる哉土の徳や。如何なる不浄ふじょうれざるなく、如何なる罪人も養わざるは無い。如何なる低能の人間も、爾の懐に生活を見出すことが出来る。如何なる数奇さくきの将軍も、爾の懐に不平を葬ることが出来る。如何なる不遇の詩人も、爾の懐に憂をることが出来る。あらゆる放浪ほうろう為尽しつくして行き処なき蕩児も、爾の懐に帰って安息を見出すことが出来る。
 あわれなる工場の人よ。可哀想なる地底ちていの坑夫よ。気の毒なる店頭の人、デスクの人よ。笑止なる台閣だいかくの人よ。羨む可き爾農夫よ。爾の家は仮令豕小屋に似たり共、爾の働く舞台は青天の下、大地の上である。爾の手足は松のはだの如く荒るゝ共、爾の筋骨は鋼鉄を欺く。烈日れつじつもとに滝なす汗を流す共、野の風はヨリ涼しく爾を吹く。爾は麦飯むぎめしを食うも、夜毎に快眠を与えられる。急がず休まず一鍬一鍬土を耕し、あわてずいからず一日一日其苗の長ずるを待つ。仮令思いがけない風、ひでり、水、ひょう、霜の天災を時に受くることがあっても、「エホバ与え、エホバ取り玉う」のである。土が残って居る。来年がある。昨日富豪となり明日あす乞丐こじきとなる市井しせい投機児とうきじをして勝手に翻筋斗とんぼをきらしめよ。彼愚なる官人をして学者をして随意に威張らしめよ。爾の頭は低くとも、爾の足は土について居る、爾の腰は丈夫である。

       五

 農程呑気らしく、のろまに見える者は無い。彼の顔は沢山の空間と時間を有って居る。彼の多くは帳簿を有たぬ。年末になって、残った足らぬと云うのである。彼の記憶は長く、与え主が忘れて了う頃になってのこ/\礼に来る。利を分秒ふんびょうに争い、其日々々に損得の勘定を為し、右の報を左に取る現金な都人から見れば、馬鹿らしくてたまらぬ。辰爺さんの曰く、「悧巧なやつは皆東京へ出ちゃって、馬鹿ばかり田舎に残って居るでさァ」と。遮莫さもあれ農をオロカと云うは、天網てんもうい、月日をのろいと云い、大地を動かぬと謂う意味である。一秒時の十万分の一で一閃いっせんする電光を痛快と喜ぶは好い。然し開闢以来まだ光線の我儕われらに届かぬ星の存在をいなむは僻事ひがごとである。所謂「神の愚は人よりも敏し」と云う語あるを忘れてはならぬ。

       六

 農と女は共通性を有って居る。彼美的百姓は曾て都の美しい娘達の学問する学校で、「女は土である」と演説して、娘達の大抗議的笑をはくした事がある。然しけんを父と称し、こんを母と称す、Mother Earth なぞ云って、一切を包容し、忍受にんじゅし、生育する土と女性の間には、深い意味の連絡がある。土と女の連絡は、土に働く土の精なる農と女の連絡である。
 農の弱味は女の弱味である。女の強味は農の強味である。蹂躙じゅうりんされる様で実は搭載し、常に負ける様で永久に勝って行く大なる土の性を彼等は共にそなえて居る。

       七

 農程臆病なものは無い。農程無抵抗主義なものは無い。権力の前には彼等は頭が上がらない。「田家衣食無厚薄、不見県門身即楽」で、官衙に彼等はびく/\ものである。然し彼等の権力を敬するは、敬して実は遠ざかるのである。税もこぼしながら出す。徴兵にも、泣きながら出す。御上おかみの沙汰としなれば、大抵の事は泣きの涙でも黙って通す。然し彼等が斯くするは、必しも御上に随喜ずいきの結果ではない。彼等が政府の命令に従うのは、彼等が強盗に金を出す様なものだ。此辺の豪農の家では、以前よく強盗に入られるので、二十円なり三十円なり強盗に奉納ほうのう小金こがねを常に手近に出して置いたものだ。無益の争して怪我するよりも、とあきらめて然するのである。農は従順である。土の従順なるが如く従順である。土は無感覚の如く見える。土の如く鈍如どんよりした農の顔を見れば、限りなく蹂躙じゅうりんしてよいかの如く誰も思うであろう。然しながら其無感覚の如く見える土にも、恐ろしい地辷じすべりあり、恐ろしい地震があり、深い心の底には燃ゆる火もあり、く水もあり、すずしい命の水もあり、せば力の黒金剛石の石炭もあり、無価の宝石もひそんで居ることを忘れてはならぬ。竹槍席旗は、昔から土にひとしい無抵抗主義の農が最後の手段であった。露西亜ろしあの強味は、農の強味である。莫斯科モスクワまで攻め入られて、初めて彼等の勇気は出て来る。農の怒は最後まで耐えられる。一たび発すれば、是れ地盤じばんの震動である。何ものか震動する大地の上に立てようぞ?

       八

 農家に附きものは不潔である。だらしのないが、農家の病である。然し欠点は常に裏から見た長所である。土と水とが一切の汚物を受けれなかったら、世界の汚物は何処へ往くであろうか。土が潔癖になったら、不潔は如何どうなることであろうか。土の土たるは、不潔を排斥して自己の潔を保つでなく、不潔を包容し浄化して生命の温床おんしょうたるにある。「吾父は農夫也」と耶蘇の道破した如く、神はまさしく一の大農夫である。神は一切をよしと見る。「吾の造りたるものを不潔とするなかれ」是れ大農夫たる神の言葉である。自然の眼に不潔なし。而して農は尤も正しい自然主義に立つものである。

       九

 土なるかな。農なるかな。地に人の子の住まん限り、農は人の子にとって最も自然且つ尊貴な生活の方法で、且其救であらねばならぬ。


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     蛇

       一

 虫類で、彼の嫌いなものは、蛇、蟷螂かまきり蠑□いもり蛞蝓なめくじ尺蠖しゃくとり
 蠑□の赤腹を見ると、嘔吐へどが出る。蟷螂はあの三角の小さな頭、淡緑色の大きな眼球に蚊のはし程のほそく鋭い而してじいと人を見詰むるひとみを点じたすごい眼、黒く鋭い口嘴くちばし、Vice の様な其両手、いて見れば黒い虫の様にうごめく腸を満たしたふくれ腹、身を逆さにして草木の葉がくれに待伏まちぶせし、うっかり飛んで来る蝉の胸先にみついてばた/\苦しがらせたり、小さな青蛙ののどに爪うちかけてひい/\云わしたり、要するに彼はこれ虫界の Iago 悪魔の惨忍ざんにんを体現した様なものである。引捉えてやろうとすれば、彼は小さな飛行機ひこうきの如く、羽をひろげてぱッぱた/\と飛んで往って了う。憎いやつである。それから、家を負う蝸牛かたつむりの可愛気はなくて、ぐちゃりと唯意気地なさを代表した様で、それで青菜甘藍キャベツを何時の間にか意地汚なく喰い尽す蛞蝓と、枯枝の真似して居て、うっかりさわれば生きてますと云い貌にびちりと身をもじり、あっと云ってね飛ばせば、虫のくせに猪口才ちょこさいな、頭と尾とで寸法とって信玄流に進む尺蠖とは、気もちの悪い一対いっついである。此等は何れも嬉しくない連中だが、然しまだ/\蛇にはかなわぬ。

       二

 蛇嫌いは、我等人間の多数に、祖先から血で伝わって居る。話で聞き、画で見、幼ない時から大蛇は彼の恐怖の一であった。子供の時から彼はよく蛇の夢を見た。今も心身にいやな事があれば、直ぐ蛇を夢に見る。うつつに彼が蛇を見たのは五六歳の頃であった。腫物の湯治に、郷里熊本から五里ばかり有明ありあけ海辺うみべ小天おあまの温泉に連れられて往った時、宿が天井の無い家で、寝ながら上を見て居ると、真黒にすすけた屋根裏の竹を縫うて何やら動いて居た。所謂青大将あおだいしょうであったが、是れ目に見ていやなものと蛇を思う最初であった。
 彼の兄は彼に劣らぬ蛇嫌いで、ある時家の下の小川で魚をすくうとて蛇を抄い上げ、きゃっと叫んでざるほうり出し、真蒼まっさおになって逃げ帰ったことがある。七八歳の頃、兄弟連れ立っての学校帰りに、川泳ぎして居た悪太郎が其時は一丈もあろうと思うた程の大きな青大将の死んだのを路の中央に横たえて恐れて逡巡する彼を川の中から手をって笑った。兄が腹を立て、彼の手を引きずる様にして越えようとする。大奮発して二足三足、蛇の一間も手前まで来ると、死んで居る動かぬとは知っても、長々と引きずった其体、白くかえした其段だらのはらを見ると、彼の勇気は頭の頂辺てっぺんからすうとぬけてしもうて如何しても足が進まぬ。已むを得ず土堤どての上を通ろうとすれば、悪太郎が川から上って来て、また蛇を土堤の上に引きずって来る。結局如何して通ったか覚えぬが、生来斯様な苦しい思をさせられたことはなかった。彼の従弟いとこは少しも蛇を恐れず、杉籬すぎがきからんで居るやつを尾をとって引きずり出し、まわす様に大地に打つけて、楽々らくらくと殺すのが、彼には人間以上の勇気神わざの様にすさまじく思われた。十六歳の夏、兄と阿蘇あその温泉に行く時、近道をして三里余も畑のくろ草径くさみちを通った。吾儘わがままな兄は蛇払へびはらいとして彼に先導せんどうの役を命じた。其頃は蛇より兄が尚こわかったので、ず/\五六歩先に立った。出るわ/\、二足行ってはかさ/\/\、五歩往ってはくゎさ/\/\、烏蛇、山かゞし、地もぐり、あらゆる蛇が彼の足許あしもとから右左に逃げて行く。まるで蛇を踏分けて行くようなものだ。今にもんで巻きつかれるのだと観念し、絶望の勇気を振うて死物狂しにものぐるい邁進まいしんしたが、到頭直接接触の経験だけは免れた。阿蘇の温泉に往ったら、彼等が京都の同志社でって居た其処の息子が、先日川端の湯樋ゆどいを見に往ってまむしに噛まれたと云って、跛をひいて居た。彼の郷里では蝮をヒラクチと云う。ある年の秋、西山に遊びに往って、唯有とあがけじて居ると、「ヒラクチが居ったぞゥ」と上から誰やら警戒を叫んだ。其時の魂も消入る様な心細さを今も時々憶い出す。

       三

 村住居をする様になって、隣は雑木林だし、墓地は近し、是非なく蛇とは近付になった。蝮はまだ一度も見かけぬが、青大将、山かゞし、地もぐりの類は沢山居る。最初は生類御憐みで、虫も殺さぬことにして居たが、此頃では其時の気分次第、殺しもすれば見□みのがしもする。殺しても尽きはせぬが、打ちゃって置くとえて仕様がないのである。書院の前に大きな百日紅さるすべりがある。もと墓地にあったもので、百年以上の老木だ。村の人々が五円で植木屋に売ったのを、すでに家の下まで引出した時、彼が無理に譲ってもらったのである。中は悉皆すっかり空洞うろになって、枝の或ものは連理れんりになって居る。其れを植えた時、墓地の東隣に住んで居た唖の子が、其幹を指して、何かにょろ/\と上って行くさまをして見せたが、墓地にあった時から此百日紅は蛇の棲家すみかであったのだ。彼の家に移って後も、梅雨つゆまえになると蛇が来て空洞うろあなから頭を出したり、みきからんだり、枝の上にトグロをまいて日なたぼこりしたりする。三疋も四疋も出て居ることがある。百日紅の枝其ものがすべっこく蛇のはだに似通うて居るので、蛇も居心地がよいのであろう。其下を通ると、あまり好い気もちはせぬ。時々は百日紅から家の中へ来ることもある。ある時書院の雨戸をしめて居た妻がきゃっとさけんだ。南の戸袋に蛇が居たのである。雀が巣くう頃で、雀のにおいを追うて戸袋へ来て居たのであろう。其翌晩、妻が雨戸をしめに行くと、今度は北の戸袋に居た。妻がまたけたゝましく呼んだ。往って繰り残しの雨戸でそっと当って見ると、確にやわらかなものゝ手答てごたえがする。釣糸に響く魚の手答は好いが、蛇の手応てごたえはくださらぬ。雨戸をしめれば蛇の逃所がなし、しめねばならず、ランプを呼ぶやら、青竹を吟味ぎんみするやら、小半時こはんときかゝって雨戸をしめ、隅に小さくなって居るのを手早くたゝき殺した。其れがめすでゞもあったか、翌日他の一疋がのろ/\とそのともを探がしに来た。一つって、ふりかえる処をつゞけざまに五六つたゝいて打殺した。殺してしもうて、つまらぬ殺生をしたと思うた。
 彼が家のはなれの物置兼客間の天井てんじょうには、ぬけがらからはかって六尺以上の青大将が居る。其家が隣村にあった頃からの蛇で、家を引移ひきうつすと何時の間にか大将も引越して、吾家貌わがいえがおに住んで居る。所謂ヌシだ。隣村の千里眼に見てもらったら、旧家主もとやぬしの先代のおかみの後身こうしんだと云うた。夥しい糞尿をしたり、夜は天井をぞろ/\重い物きずる様な音をさせてあるく。梅雨つゆの頃、ある日物置に居ると、パリ/\と音がした。見ると、其処そこに卵のからを沢山入れた目籠に、彼ぬしでは無いが可なり大きな他の青大将が来て、盛に卵の殻を食うて居るのである。見て居る内に、長持のうしろからまた一疋のろ/\這い出して来て、先のとからみ合いながら、これもパリ/\卵の殻を喰いはじめた。青黒い滑々ぬめぬめしたあの長細いからだが、なわの様に眼の前に伸びたり縮んだりするのは、見て居て気もちの好いものではない。不図見ると、あっ此処ここにも、はりの上に頭は見えぬが、大きなものがどうからした波うって居る。人間が居ないので、蛇君等が処得貌に我家と住みなして居るのである。天井裏まで上ったら、右の三疋に止まらなかったであろう。彼は其日一日頭が痛かった。
 ある時栗買いに隣村の農家に往った。上塗うわぬりをせぬ土蔵どぞう腰部ようぶ幾個いくつあながあって、孔から一々縄が下って居る。其縄の一つが動く様なので、眼をとめて見ると、其縄は蛇だった。見て居る内にずうと引込んだが、またのろ/\と頭を出して、丁度他の縄の下って居ると同じほどにだらりと下がった。何をするのか、何の為に縄の真似をするのか。鏡花君の縄張に入る可き蛇の挙動と、彼は薄気味悪くなった。
 勇将の下に弱卒なし。彼が蛇を恐れる如く、彼が郎党ろうとうの犬のデカも獰猛どうもうな武者振をしながら頗る蛇を恐れる。蛇を見ると無闇むやみえるが、中々傍へは寄らぬ。主人あるじが勇気を出して蛇を殺すと、デカは死骸の周囲まわりをぐる/\廻って、一足寄ってはワンとえ、二足寄ってはあわてゝ飛びのいてワンと吠え、ワンと吠え、ワンと吠え、廻り廻って、中々傍へは寄らぬ。ある時、麦畑に三尺ばかりの山かゞしが居た。山かゞしは、やゝ精悍せいかんなやつである。主人が声援せいえんしたので、デカは思切ってワンと噛みにかゝったら、口か舌かをされたと見え、一声いっせい悲鳴ひめいをあげて飛びのき、それから限なく口から白泡しらあわを吐いて、一時は如何どうなる事かと危ぶんだ。此様な記憶があるので、デカは蛇を恐るゝのであろう。多くの猫は蛇を捕る。彼が家のトラはよく寝鳥ねとりってはむしゃ/\喰うが、蛇をまだ一度もとらぬ。ある時、トラが何ものかと相対あいたいがおに、芝生にすわって居るので、のぞいて見たら、トグロを巻いた地もぐりが頭をちゞめて寄らばたんと眼を怒らして居る。トラが居ずまいを直すたびに、蛇は其頭をトラの方へ向け直す。トラは相関せざるものゝ様に、キチンと前足をそろえて、何か他の事を案じ顔である。彼が打殺す可く竿さおをとりに往った間に、トラも蛇も物別ものわかれになって何処かへ往ってしもうた。

       四

 斯く蛇に近くなっても、まだ嫌悪の情はれぬ。百花の園にも、一疋の蛇が居れば、最早もう園其ものが嫌になる。ある時、書斎の縁の柱の下に、一疋の蛇がにょろ/\頭をもたげて、上ろうか、と思う様子をして居た。あわてゝ蛇打捧を取りに往った間に、蛇が見えなくなった。びく/\もので、戸袋の中や、室内のデスクの下、ソファの下、はてはがくの裏まで探がした。居ない。居ないが、何処かに隠れて居る様で、安心が出来ぬ。枕を高くして昼寝ひるねも出来ぬ。其日一日は終に不安の中に暮らした。蛇を見ると、彼が生活の愉快がすうとあわの様に消える。彼は何より菓物が好きで、南洋に住みたいが、唯蛇が多いので其気にもなれぬ。ボア、パイゾンの長大なものでなく、食匙蛇はぶ響尾蛇ラッツルスネーキ蝮蛇まむしの毒あるでもなく、小さい、無害な、臆病な、人を見れば直ぐ逃げる、二つ三つ打てば直ぐ死ぬ、眼のかたきに殺さるゝ云わば気の毒な蛇までも、何故なぜ斯様こんなに彼は恐れ嫌がるのであろう? 田舎の人達は、子供に到るまで、あまり蛇を恐れぬ。卵でも呑みに来たり、余程わるさをしなければ滅多に殺さぬ。自然に生活する自然の人なる農の仕方は、おのずから深い智慧ちえかなう事が多い。
 奥州の方では、昔蛇が居ない為に、夥しい鼠に山林の木芽このめを食われ、わざ/\蛇を取寄せて山野に放ったこともあるそうだ。食うものが無くて、蛇を食う処さえある。好きとあっては、ポッケットに入れてあるく人さえある。
 悪戯いたずらに蛇を投げかけようとした者を已に打果うちはたすとてかたなの柄に手をかけた程蛇嫌いの士が、後法師になって、蛇のと云わるゝ竹生島ちくふじまいおりを結び、蛇の中で修行した話は、西鶴さいかくの物語で読んだ。東京の某耶蘇教会で賢婦人の名があった某女史は、眼が悪い時落ちたたすき間違まちがえて何より嫌いな蛇をにぎり、其れから信仰に進んだと伝えられる。糞尿ふんにょうにも道あり、蛇も菩提ぼだいに導く善智識であらねばならぬ。
「世の中に這入はいりかねてや蛇の穴」とは古人の句。みにくい姿忌み嫌わるゝ悲しさに、大びらに明るい世には出られず、常に人目を避けて陰地いんちにのたくり、弱きをいじめて冷たく、執念深く、笑うこともなく世を過す蛇を思えば、彼は蛇を嫌う権理がないばかりではなく、蛇は恐らく虫にって居る彼自身ではあるまいか。みにくさを見せらるゝ為に、彼は蛇を忌み嫌い而して恐るゝのであるまいか。
 生命は共通である。生存は相殺そうさつである。自然は偏倚へんいゆるさぬ。愛憎あいぞうは我等が宇宙にすがる二本の手である。好悪は人生を歩む左右の脚である。
 好きなものが毒になり、嫌いなものがくすりになる。好きなものを食うて、嫌いなものに食われる。宇宙の生命いのちは斯くしてたもたるゝのである。
 好きなものを好くは本能である。嫌いなものを好くに我儕われらの理想がある。
「天の父の全きが如く全くす可し」
 本能から出発して、我等は個々理想に向わねばならぬ。


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     露の祈

 今朝庭を歩いて居ると、眼が一隅いちぐうに走る瞬間、はッとして彼は立とまった。枯萩かれはぎの枝にものが光る。玉だ! 誰が何時いついたのか、此枝にも、彼枝にも、紅玉、黄玉、紫玉、緑玉、碧玉の数々、きらり、きらりと光って居る。何と云う美しい玉であろう! 嗟嘆さたんしてやゝしばし見とれた。近寄って一の枝にさわると、ほろりと消えた。何だ、露か。そうだ、やはりいつもの露であった。露、露、いつもの露を玉にした魔術師は何処に居る? 彼はふりかえって、東の空に杲々こうこうと輝く朝日を見た。
あゝ朝日!
なんじの無限大を以てして一滴いってきの露に宿るを厭わぬ爾朝日!
須臾しゅゆいのち小枝さえだに托するはかない水の一雫ひとしずく、其露を玉と光らす爾大日輪!
「爾の子、爾のさかえを現わさん為に、爾の子の栄をあらわし玉え」
の祈は彼の口を衝いて出た。
天つ日の光に玉とかがやかば
    などか惜まん露の此の身を


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     草とり

       一

 六、七、八、九の月は、農家は草と合戦である。自然主義の天は一切のものを生じ、一切の強いものを育てる。うっちゃって置けば、比較的脆弱ぜいじゃくな五穀蔬菜は、野草やそうふさがれてしまう。二宮尊徳の所謂「天道すべての物を生ず、裁制補導さいせいほどうは人間の道」で、こゝに人間と草の戦闘が開かるゝのである。
 老人、子供、大抵の病人はもとより、手のあるものは火斗じゅうのうでも使いたい程、畑の草田の草は猛烈もうれつに攻め寄する。飯焚めしたく時間を惜んでもちを食い、茶もおち/\は飲んで居られぬ程、自然は休戦の息つく間も与えて呉れぬ。
「草に攻められます」とよく農家の人達は云う。人間が草を退治たいじせねばならぬ程、草が人間を攻めるのである。
 唯二反そこらの畑を有つ美的百姓でも、夏秋ははげしく草に攻められる。起きぬけに顔も洗わず露蹴散らして草をとる。日の傾いた夕蔭ゆうかげにとる。取りきれないで、日中にっちゅうにもとる。やっと奇麗になったかと思うと、最早一方では生えて居る。草と虫さえ無かったら、田園の夏は本当に好いのだが、と愚痴ぐちをこぼさぬことは無い。全体草なンか余計なものが何になるのか。何故人間が除草くさとり器械きかいにならねばならぬか。除草は愚だ、うっちゃって草と作物の競争さして、全滅とも行くまいから残っただけを此方にもらえば済む。というても、実際眼前に草の跋扈ばっこを見れば、らずには居られぬ。隣の畑が奇麗なのを見れば、此方の畑を草にして草のたねを隣に飛ばしても済まぬ。近所の迷惑も思わねばならぬ。
 そこでまた勇気を振起ふりおこして草をとる。一本また一本。一本除れば一本るのだ。草の種は限なくとも、とっただけは草が減るのだ。手には畑の草をとりつゝ、心に心田しんでんの草をとる。心が畑か、畑が心か、兎角に草が生え易い。油断をすれば畑は草だらけである。吾儕われらの心も草だらけである。四囲あたりの社会も草だらけである。吾儕は世界の草の種を除り尽すことは出来ぬ。除り尽すことは、また我儕人間の幸福でないかも知れぬ。然しうっちゃって置けば、我儕は草にもれて了う。そこで草を除る。が為に草を除るのだ。生命いのちの為に草をとるのだ。敵国外患なければ国常に亡ぶで、草がなければ農家は堕落だらくして了う。
なんじ我言に背いて禁菓きんかいたれば、土は爾の為にのろわる。土は爾の為に荊棘いばらあざみしょうずべし。爾は額に汗して苦しみて爾のパンをくらわん」
 斯く旧約聖書きゅうやくせいしょは草を人間の罰と見た。実は此の罰は人の子に対する深い親心の祝福である。

       二

 美的百姓の彼は兎角見るに美しくする為に草をとる。るとなれば気にして一本残さずとる。農家は更に賢いのである。草を絶やすと地力を尽すと云う。草をとって生のまゝ土に埋め、或は烈日に乾燥させ、焼いて灰にし、積んで腐らし、いずれにしても土の肥料こやしにしてしまう。馴付なつけた敵は、味方である。「年々や桜をこやす花の塵」美しい花が落ちて親木おやきの肥料になるのみならず、邪魔の醜草しこぐさがまた死んで土の肥料になる。清水却て魚棲まず、草一本もない土は見るに気もちがよくとも、或は生命なき瘠土せきどになるかも知れぬ。本能は滅す可からず、不良青年は殺さずして導く可きであることを忘れてはならぬ。誰か其ふところに多少の草の種を有って居らぬ者があろうぞ?
 畑の草にも色々ある。つまんでぬけばすぽっとぬけて、しかも一種のかんばしいを放つ草もある。此辺で鹹草しょっぱぐさと云う、たけひくくきあかぶとりして、頑固らしくわだかまって居ても、根は案外浅くして、一挙手に亡ぼさるゝ草もある。葉も無く花も無く、地下一尺の闇を一丈も二丈も這いまわり、人知れず穀菜に仇なす無名草ななしぐさもある。厄介なのは、地縛じしばり。単弁たんべんの黄なる小菊の様に可憐な花をしながら、蔓延又蔓延、糸の様な蔓は引けば直ぐ切れて根を残し、一寸の根でも残れば十日とたゝずまた一面の草になる。土深く鍬を入れて掘り返えし、丁寧に根を拾う外にほろぼす道は無い。我儕は世を渡りて往々此種の草に出会う。
 草を苅るには、朝露のかわかぬ。露にそぼぬれた寝ざめの草は、鎌の刃を迎えてさく/\切れて行く。一挙に草を征伐するには、夏の土用どようの中、不精鎌ぶしょうがまと俗に云うの長い大きなカマボコ形の鎌で、片端からがり/\いて行く。梅雨中つゆうちには、掻く片端からついてしまう。土用中なら、一時間で枯れて了う。
 夏草は生長猛烈でも、気をつけるから案外制し易い。恐ろしいのは秋草である。行末短い秋草は、種がこぼれて、生えて、小さなまゝで花が咲いて、直ぐ実になる。其あわただしさ、草から見れば涙である。然し油断してうっかり種をこぼされたら、事である。一度落した草の種は中々急にり切れぬ。田舎を歩いて、奇麗に鍬目くわめの入った作物のよく出来た畑の中に、草が茂って作物のはばがきかぬ畑を見ることがある。昨年の秋、病災びょうさい不幸ふこうなどでつい手が廻らずに秋草をとらなかった家の畑である。
 草をろうよ。草を除ろうよ。


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     不浄

       上

 此辺の若者は皆東京行をする。此辺の「東京行」は、直ちに「不浄取ふじょうとり」を意味する。
 東京を中心として、水路は別、陸路五里四方は東京の「掃除そうじ」を取る。荷車を引いて、日帰りが出来る距離である。荷馬車もあるが、九分九厘までは手車である。ずッと昔は、細長い肥桶こえおけで、馬に四桶附け、人も二桶になって持って来たが、後、輪の大きい大八車で引く様になり、今は簡易な荷車になった。彼の村では方角上大抵四谷、赤坂がおもで、稀には麹町まで出かけるのもある。弱い者でも桶の四つは引く。少し力がある若者は、六つ、甚しいのは七つも八つも挽く。一桶の重量十六貫とすれば、六桶も挽けば百貫からの重荷おもにだ。あまり重荷を挽くので、若者の内には眼を悪くする者もある。
 股引草鞋、夏は経木真田の軽い帽、冬は釜底かまぞこぼう阿弥陀あみだにかぶり、焦茶こげちゃ毛糸の襟巻、中には樺色のあらい毛糸の手袋をして、雨天には簑笠姿みのかさすがたで、車の心棒に油を入れた竹筒たけづつをぶらさげ、空の肥桶の上に、馬鈴薯じゃがいも甘薯さつまいもの二籠三籠、焚付たきつけ疎朶そだの五把六束、季節によっては菖蒲あやめや南天小菊の束なぞ上積にした車が、甲州街道を朝々幾百台となく東京へ向うて行く。午後になると帰って来る。両腕に力を入れ、前俛まえかがみになって、みあげにあせたまをたらして、重そうに挽いて帰って来る。上荷には、屋根の修繕に入用のはりがねの二巻三巻、棕櫚縄しゅろなわの十束二十束、風呂敷かけた遠路籠の中には、子供へみやげの煎餅の袋も入って居よう。かみさんの頼んだメリンスの前掛も入って居よう。或は娘の晴着の銘仙も入って居よう。此辺の女は大抵留守ばかりして居て、唯三里の東京を一生見ずに死ぬ者もある。娘の婚礼着すら男親が買うことになって居る。「阿爺おとッつぁんおらこのしまやァだ」と、毎々阿娘おむすの苦情が出る。其等の車が陸続として帰って来る。東京場末の飯屋めしやに寄る者もあるが、多くは車を街道に片寄せて置いて、木蔭こかげで麦やひえの弁当をつかう。夏の日ざかりには、飯を食うたあとで、杉の木蔭に□々ぐうぐう焉と寝て居る。荷が重いか、路が悪い時は、弟や妹が中途まで出迎えて、後押して来る。里道にきれ込むと、砂利も入って居らぬ路はひどくぬかるが、路が悪い悪いとこぼしつゝ、格別路をよくしようともせぬ。其様な暇も金も無いのである。
 甲州街道の新宿出入口は、町幅が狭い上に、馬、車の往来が多いので、時々肥料車が怪我けがをする。帰りでもおそいと、気が気でなく、無事な顔見るまでは心配でならぬと、村の婆さんが云うた。水の上を憂うる漁師の妻ばかりではない。平和な農村にも斯様な行路難こうろだんがある。
 東京界隈かいわいの農家が申合せて一切下肥を汲まぬとなったら、東京は如何様どんなに困るだろう。彼が東京住居をして居た時、ある日隣家となり御隠居ごいんきょばあさんが、「一ぱいになってこぼるゝ様になってるものを、せっせと来てくれンじゃ困るじゃないか」と疳癪声かんしゃくごえで百姓を叱る声を聞いた。それ権高けんだかな御後室様の怒声よりも、れた子供の頼無たよりなげな恨めしげな苦情声くじょうごえであった。大君の御膝下おひざもと、日本の中枢ちゅうすうと威張る東京人も、子供の様に尿屎ししばばのあと始末をしてもらうので、田舎の保姆ばあやの来ようが遅いと、斯様に困ってじれ給うのである。叱られた百姓は黙って其糞尿ふんにょう掃除そうじして、それを肥料に穀物蔬菜を作っては、また東京に持って往って東京人を養う。不浄を以て浄を作り、廃物を以て生命を造る。「吾父は農夫なり」と神の愛子は云ったが、実際神は一大農夫で、百姓は其かたを無意識にやって居るのである。
 衆議院議員の選挙権位は有って居る家の息子や主人あるじが掃除に行く。東京を笠に被て、二百万の御威光で叱りつくる長屋のかみさんなど、掃除人そうじにんの家に往ったら、土蔵の二戸前もあって、喫驚びっくりする様な立派な住居に魂消たまげることであろう。斯く云う彼も、東京住居中は、昼飯時ひるめしどきに掃除に来たと云っては叱り、門前に肥桶こえおけを並べたと云っては怒鳴どなったりしたものだ。園芸を好んだので、糞尿ふんにょうを格別忌むでもいやしむでもなかったが、不浄取りの人達を糞尿をとってもらう以外没交渉のやからとして居た。来て其人達の中に住めば、此処ここうれかなしい人生である。息子を兵役にとられ、五十越した与右衛門さんが、甲州街道を汗水らして肥車を挽くのを見ると、仮令たとい其れが名高い吾儘者の与右衛門さんでも、心から気の毒にならずには居られぬ。そうして此頃では、むッといきれの立つ堆肥たいひの小山や、肥溜こえだめ一ぱいにうずたかふくれ上る青黒い下肥を見ると、彼は其処に千町田ちまちだ垂穂たりほを眺むる心地して、快然と豊かな気もちになるのである。

       下

「新宿のねェよ、女郎屋じょうろうやでさァ、女郎屋に掃除そうじを取りに行く時ねェよ、饂飩粉うどんこなんか持ってってやると、そりゃ喜ぶよ」
 辰爺さんはう云うた。
 同じくそでも、病院の糞だの、女郎屋の糞だのと云うと、余計に汚ない様に思う。
 不潔を扱うと、不潔が次第に不潔でなくなる。葛西かさい肥料屋こやしやでは、肥桶こえおけにぐっとうでを突込み、べたりと糞のつくとつかぬで下肥しもごえ濃薄こいうすい従って良否を験するそうだ。此辺でも、基肥もとごえを置く時は、下肥を堆肥に交ぜてぐちゃ/\したやつをった肥桶をくびからつるし、後ざまにうねを歩みつゝ、一足毎に片手につかみ出してはやり、掴み出してはやりする。或は更に稀薄きはくにしたのを、剥椀はげわんすくうてはざぶり/\水田にくれる。時々は眼鼻に糞汁ふんじゅうがかゝる。
「あっ、糞がなけはいっちゃった」と若いのが云う。
「其れが本当の眼糞めくそだァ」おやじは平然たるものだ。
 平然たる爺が、ある時三四歳の男の子を連れて遊びに来た。誰のかと云えば、お春のだと云う。お春さんは爺さんの娘分むすめぶんになって居る若い女だ。
「お春が拾って来たんでさァ」とじいさんがにや/\笑いながら曰うた。
「拾って来た? 何処どこで?」
 野暮やぼ先生正に何処かで捨子を拾って来たのだと思うた。爺は唯にや/\笑って居た。それは私生児であった。お春さんの私生児であった。
 お春さん自身が東京芸者の私生児であった。里子からずる/\に爺さんの娘分になり、近所に奉公に出て居る内に、丁度母の芸者が彼女を生んだ十六の年に、彼女も私生児を生んだ。歴史はり返えす。細胞の記憶も執拗しつようなものである。十六の母は其私生児をおぶって、平気に人だかりの場所へ出た。無頓着な田舎でも、「ありゃ如何どうしたンだんべ?」と眼をまるくして笑った。然し女に廃物すたりは無い。お春さんは他の東京からもらわれて来た里子のはての男と出来合うて、其私生児を残して嫁に往った。而して二人は今幸福に暮らして居る。
 ある爺さんのおかみは、昔若かった時一度亭主を捨てゝ情夫と逃げた。然し帰って来ると、爺さんは四の五の云わずに依然かみさんのすわらした。太公望たいこうぼうの如く意地悪ではなかった。夫婦に娘が出来て、年頃になった。其娘が出入の若い大工と物置の中にひそむ日があった。昔男と道行の経験があるおかみはしきりと之を気にして、裏口から娘の名を呼び/\した。爺さんの曰く、うっちゃっておけやい、若ェ者だもの、ちったむしもつくべいや。此は此爺さんのズボラ哲学である。差別派からは感心は出来ぬが、中に大なる信仰と真理がある。
 甲吉がかかをもらう。其は隣村の女で、奉公して居る内主人の子を生んだのだと云う。乙太郎の女が嫁に行く。其は乙の妻が東京から腹の中に入れて来たおみやげの女だ。東京の糞尿と共に、此辺はよく東京のあらゆるり物を頂戴する。すべての意味に於ての不浄取りをするのだ。此辺の村でも、風儀は決して悪くない。甲州街道から十丁とは離れて居ぬが、街道筋の其れと比べては、村は堅いと云ってよい。男女の間も左程にみだれては居らぬ。然し他の不始末に対しては概して大目である。だから疵物きずものでもずん/\片づいて行く。尤も疵物は大抵貧しい者にやられる。潔癖は贅沢だ。貧しい者は、其様な素生調すじょうしらべに頓着しては居られぬ。金の二三十両もつければ、懐胎かいたいの女でももらう。もと誰の畑であっても、自分のものになればさっさとたねく。せんの蒔き残りのものがあっても、仔細なしに自分のにして了う。種を蒔くに必しも Virgin Soil を要しない。要するに東京の尻を田舎がぬぐう。田舎でも金もちが吾儘をして、貧しい者が後尻あとしりを拭うにきまって居る。何処までも不浄取りが貧しい農の運命である。
 神は一大農夫である。彼は一切の汚穢おかいを捨てず、之を摂取し、之を利用する。神程吝嗇爺けちおやじは無い。而して神程太腹ふとっぱらの爺も無い。彼に於ては、一切の不潔は、生命を造る原料である。所謂不垢不浄、「神の潔めたるものを爾きよからずとするなかれ」一切のものは土に入りて浄まる。自然は一大浄化場である。おのずから神心に叶う農の不浄観について、我等は学ぶ所なくてはならぬ。
 生命は共通である。潔癖は吾儘者の鄙吝けちな高慢である。


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     美的百姓

 彼は美的百姓である。彼の百姓は趣味の百姓で、生活の百姓では無い。然し趣味に生活する者の趣味の為の仕事だから、生活の為と云うてもよい。
 北米の大説教家ビーチアルは、曾て数塊の馬鈴薯を人にきょうして曰くだ、此は吾輩の手作だ、而して一塊一ドルはかゝって居るのだ、折角食ってくれ玉えと。美的百姓は憚りながらビーチアル先生よりも上手だ。然し何事にも不熱心の彼には、到底那須野なすのひえを作った乃木さん程の上手な百姓は出来ぬ。川柳氏歌うて曰く、釣れますか、などと文王そばへ寄り、と。美的百姓先生の百姓も、太公望の釣位なものだ。太公望は文王を釣り出した。美的百姓は趣味を掘り出さんとして手に豆をこさえる。
 百姓として彼は終に落第である。彼は三升の蕎麦そばいて、二升の蕎麦をたことがある。彼が蒔く種子は、不思議に地に入って雪の如く消えて了う。彼が作るは多くにがい。彼が水瓜は九月彼岸前にならなければ食われない。彼が大根は二股三股はまだしも、正月の注連飾しめかざりの様に螺旋状らせんじょうにひねくれからみ合うたのや、章魚たこの様な不思議なものを造る。彼の文章は格に入らぬが、彼の作る大根は往々芸術の三昧に入って居る。
 彼は仕事着にはだし足袋、戦争いくさにでも行く様な意気込みで、甲斐々々しく畑に出る。少し働いて、大に汗を流す。鍬柄くわづかついて畑の中に突立つったった時は、天も見ろ、地も見ろ、人も見てくれ、吾れながら天晴見事の百姓振りだ。額の汗を拭きもあえずほうと一息ひといき入れる。曇った空から冷やりと来て風が額を撫でる。此処ここが千両だ、と大きな眼を細くして彼はえつに入る。向うの畑で、本物の百姓が長柄の鍬で、後退あとしざりにサクを切るのを熟々つくづく眺めて、彼運動に現わるゝリズムが何とも云えぬ、と賞翫する。小雨ほと/\雲雀ひばりの歌まじり、眼もさむる緑の麦畑に紅帯あかおびの娘が白手拭を冠って静に働いて居るを見ては、歌か句にならぬものか、と色彩いろ故に苦労する。彼自身肥桶でもかついで居る時、正銘の百姓が通りかゝれば、彼は得意である。農家のおかみに「お上手ですねえ」とお世辞せじでも云われると、彼は頗る得意である。労働最中に美装びそうした都人士女の訪問でも受けると、彼はます/\得意である。
 稀に来る都人士には、彼の甲斐々々しい百姓姿を見て、一廉いっかど其道の巧者こうしゃになったと思う者もあろう。村の者は最早もう彼の正体しょうたいを看破して居る。田圃向うのお琴婆さんの曰くだ、旦那は外にお職がおありなすって、おあしは土用干なさる程おありなさるから、と。一度百円札の土用干でもしたいものと思うが、兎に角外にお職がおあんなさる事は、彼自身あざむく事が出来ぬ。彼は一度だって農事講習会に出たことは無い。
 美的百姓の家は、東京から唯三里。東の方を望むと、目黒の火薬製造所や渋谷発電所の煙が見える。風向きでは午砲どんも聞こえる。東京の午砲を聞いたあとで、直ぐ横浜の午砲を聞く。闇い夜は、東京の空も横浜の空も、火光あかりあかく空に反射して見える。東南は都会の風が吹く。北は武蔵野である。西は武相それから甲州の山が見える。西北は野の風、山の風が吹く。彼の書院は東京に向いて居る。彼の母屋おもやの座敷は横浜に向いて居る。彼の好んで読書し文章を書く廊下の硝子窓は、甲州の山に向うて居る。彼の気は彼の住居すまいの方向の如く、彼方あっちにもかれ、此方にも牽かれる。
 彼は昔耶蘇教伝道師見習の真似をした。英語読本の教師の真似もした。新聞雑誌記者の真似もした。漁師の真似もした。今は百姓の真似をして居る。
 真似は到底本物で無い。彼は終に美的百姓である。


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   過去帳から

     墓守
     
       一

 彼は粕谷かすや墓守はかもりである。
 彼が家の一番近い隣は墓場である。門から唯三十歩、南へ下ると最早墓地だ。誰が命じたのでもない、誰に頼まれたのでもないが、家の位置が彼を粕谷の墓守にした。
 墓守と云って、別に墓掃除するでもない。然し家が近くて便利なので、春秋の彼岸に墓参に来る者が、線香の火を借りに寄ったり、水を汲みに寄ったりする。彼の庭園には多少の草花を栽培さいばいして置く。花の盛季さかりは、大抵農繁の季節に相当するので、悠々ゆうゆうと花見の案内する気にもなれず、無論見に来る者も無い。然し村内に不幸があった場合には、必庭園の花を折って弔儀ちょうぎに行く。少し念を入れる場合には、花環はなわなどをこさえて行く。
 墓守のついでに、墓場を奇麗にして、花でも植えて置こうかと思うが、それでは皆が墓参に自家の花を手折って来ても引立たなくなる。平生ふだん草をしげらして、春秋の彼岸や盆に墓掃除に来るのも、農家らしくてよい。墓地があまりにキチンとして居るのも、好悪よしあしである。と思うので、一向構わずに置く。然し整理熱は田舎に及び、彼の村人も墓地を拡張整頓するそうで、此程周囲まわりの雑木を切り倒し、共有の小杉林をひらいてしもうた。いまにかなめ生牆いけがきめぐらし、桜でも植えて奇麗にすると云うて居る。惜しい事だ。

       二

 彼は墓地が好きである。東京に居た頃は、よく青山墓地へ本を読みに夢を見に往った。粕谷の墓地近くに卜居した時、墓が近くて御気味が悪うございましょうと村人が挨拶したが、彼は滅多な活人の隣より墓地を隣に持つことが寧嬉しかった。誰も胸の中に可なり沢山の墓を有って居る。眼にこそ見えね、我等は夥しい幽霊の中に住んで居る。否、我等自身が誰かの幽霊かも知れぬ。何も墓地を気味悪がるにも当らない。
 墓地は約一反余、東西に長く、うしろは雑木林、南は細い里道から一段低い畑田圃。入口は西にあって、墓は※[横線に長い縦線四本の記号、上巻-241-12]形に並んで居る。古い処で寛文元禄位。銀閣寺義政時代の宝徳のが唯一つあるが、此は今一つはりがねで結わえた二つに破れた秩父青石の板碑と共に、他所よそから持って来たのである。以前小さな閻魔堂えんまどうがあったが、乞食の焚火から焼けてしまい、今は唯石刻の奪衣婆ばかり片膝立てゝ凄い顔をして居る。頬杖ほおづえをついて居る幾基の静思菩薩せいしぼさつ、一隅にずらりと並んだにこ/\顔の六地蔵ろくじぞうや、春秋の彼岸に紅いべゝを子を亡くした親が着せまつる子育こそだて地蔵、其等それらが「長十山、三国の峰の松風吹きはらふ国土にまぢる松風の音」だの、上に梵字ぼんじを書いて「爰追福者為蛇虫之霊発菩提也ここについふくするものはだちゅうのれいぼだいをはっせんがためなり」だのと書いた古い新しいさま/″\の卒塔婆と共に、さびしい賑やかさを作って居る。植えた木には、しきみや寒中から咲く赤椿など。百年以上の百日紅さるすべりがあったのは、村の飲代のみしろに植木屋に売られ、植木屋から粕谷の墓守に売られた。余は在来の雑木である。春はすみれ、蒲公英たんぽぽが何時の間にか黙って咲いて居る。夏は白い山百合が香る。蛇が墓石の間を縫うてのたくる。秋には自然生の秋明菊しゅうめいぎくが咲く。冬は南向きの日暖かに風も来ぬので、隣の墓守がよくやって来ては、乾いた落葉を踏んで、其処に日なたぼこりをしながら、取りとめもない空想にふける。

       三

 田舎でも人が死ぬ。彼が村の人になってから六年間に、唯二十七戸の小村で、此墓場にばかり葬式の八つもした。多くは爺さん婆さんだが、中には二八の少女も、またいたい気の子供もあった。
 ある爺さんは八十余で、死ぬる二日前まで野ら仕事をして、ぽっくり往生した。うらやましい死に様である。ある婆さんは、八十余で、もとは大分難義もしたものだが辛抱しんぼうしぬいて本家分家それ/″\繁昌はんじょうし、まご曾孫ひこ大勢持って居た。ある時分家に遊びに来て帰途かえりみち、墓守が縁側に腰かけて、納屋大小家幾棟か有って居ることを誇ったりしたが、つえを忘れて帰って了うた。其杖は今カタミになって、墓守が家の浴室ゆどのの心張棒になって居る。ある爺さんは、困った事には手が長くなる癖があった。さまで貧でもないが、よく近所のものを盗んだ。野菜物を採る。甘藷を掘る。下肥を汲む。木の苗を盗む。近所の事ではあり、病気と皆が承知して居るので、表沙汰にはならなかったが、一同みんな困り者にして居た。杉苗すぎなえでもとられると、見附次第黙って持戻もちもどったりする者もあった。此れから汁の実なぞがなくならずにようござんしょう、と葬式の時ある律義な若者が笑った。さる爺さんは、とし其様そんなでもなかったが、若い時の苦労で腰が悉皆かがんで居た。きかぬ気の爺さんで、死ぬるまでおまえに世話はかけぬと婆さんに云い云いしたが、果して何人の介抱かいほうも待たず立派に一人で往生した。其以前、墓守が家の瓜畑うりばたけに誰やら入込んでごそ/\やって居るので、誰かと思うたら、此爺さんが親切に瓜のしんをとめてくれて居たのであった。よく楢茸ならたけの初物だの何だのっては、味噌漉みそこしに入れて持って来てくれた。時には親切に困ることもあった。ある時畑のくろの草を苅ってやると云ってかまげて来た。其畑の畔にはかやすすきが面白く穂に出て、捨て難い風致ふうちこみちなので其処だけわざ/\草を苅らずに置いたのであった。其れを爺さんが苅ってやると云う。頭を掻いて断わると、親切を無にすると云わんばかり爺さんむっとして帰って往ったこともある。最早もう楢茸が出ても、味噌漉しかゝえて、「今日は」と来る腰の曲った人は無い。

       四

 燻炭くんたん肥料ひりょうと云う事が一時はやって、芥屑ごみくず燻焼くんしょうする為に、大きな深い穴が此処其処に掘られた。其穴の傍で子を負った十歳の女児むすめと六歳になる女児が遊んで居たが、誤って二人共穴に落ちた。出ることは出たが、六になる方は大火傷おおやけどをした。一家残らず遠くの野らへ出たあとなので、泣き声を聞きつける者もなく、十歳になる女児むすめしかられるがこわさに、火傷した女児をそっ自家うちへ連れて往って、火傷部に襤褸ぼろかぶせて、其まゝにして置いた。医者が来た頃は、最早手後れになって居た。墓守が見舞に往って見ると、煎餅せんべいの袋なぞ枕頭に置いて、アアン□□□かすかな声でうめいて居た。二三日すると、其父なる人が眼に涙を浮めて、牛乳屋が来たら最早牛乳ちち不用いらんと云うてくれと頼みに来た。亡くなったのである。此辺では、墓守の家か、博徒の親分か、重病人でなければ牛乳など飲む者は無い。火傷した女児は、瀕死の怪我で貴い牛乳を飲まされたのである。父なる人は神酒みきに酔うて、赤い顔をして頭をくせがある人である。妙に不幸な家で、先にも五六歳の女児が行方不明で大騒おおさわぎをした後、品川堀から死骸になって上ったことがある。火傷した女児の低いうめき声と、其父の涙にうるんだ眼は、いつまでも耳に目にくっついて居る。
 牛乳と云えば、墓守の家から其家へとしばらく廻って居た配達が、最早其方へは往かなくなった。牛乳をのんで居た娘は、五月の初に亡くなったのである。墓守夫婦が村の人になった時、彼女は十一であった。からだを二ツ折にしてガックリお辞儀するしゃくんだ顔の娘を、墓守夫婦は何時となく可愛がった。九人の兄弟姉妹の真中まんなかで、あまり可愛がられる方ではなかった。可愛がられる其妹は、姉の事を云って、「おやすさんな叱られるクセがある」と云った。やゝ陰気な、然し情愛の深い娘だった。墓守の家に東京から女の子が遊びに来ると、「ひいちゃん」「お安さん」とよく一緒に遊んだものだ。彼女も連れて玉川に遊びに往ったら、玉川電車で帰る東京の娘を見送って「別れるのはつらい」と黯然あんぜんとして云った。彼女は妙に不幸な子であった。ある時村の小学校の運動会で饌立ぜんだて競走きょうそうで一着になり、名を呼ばれて褒美ほうびを貰ったあとで、饌立の法が違って居ると女教員から苦情が出て、あらためて呼び出され、褒美を取り戻された。姉が嫁したので、小学校も高等を終えずに下り、母の手助てだすけをした。間もなく彼女は肺が弱くなった。成る可く家の厄介になるまいと、医者にも見せず、熟蚕しきを拾ったり繭を掻いたり自身働いて溜めた巾着の銭で、売薬を買ったりして飲んだ。
 去る三月の事、ある午後墓守一家が門前にぶらついて居ると、墓地の方から娘が来る。彼女であった。「あゝお安さん」と声をかけつゝ、顔を見て喫驚びっくりした。其処の墓地の石の下から出て来たかと思わるゝ様なすごくらい顔をして居る。「あゝ気分が悪いのですね、早く帰ってお休み」と妻が云うた。気分が悪くて裁縫さいほうの稽古から帰って来たのであった。彼女は其れっきり元気には復さなかった。彼女の家では牛乳をとってのませた。彼女の兄は東京に下肥引きに往った帰りにさかなを買って来ては食わした。然し彼女は日々衰えた。遠慮勝の彼女は親兄弟にも遠慮した。死ぬる二三日前、彼女はぶらりと起きて来て、産後の弱った体で赤ん坊を見て居る母のうしろに立ち、わたしが赤ん坊を見て居るから阿母おっかさんは少しお休みと云うた。死ぬる前日は、父に負われて屋敷内を廻ってもらって喜んだ。其翌日も父は負って出た。父が唯一房咲いた藤の花を折ってやったら、彼女は枕頭まくらもとの土瓶に插して眺めて喜んだ。其夜彼女は父をり起し、「わたしがくなったら如何でもして恩報じをするから、今夜は苦艱くげんだから、済まないが阿爺さん起きて居てお呉れ、阿母おっかさんは赤ん坊や何かでくたびれきって居るから」と云うた。而して翌朝到頭息を引取った。彼女は十六であった。彼女の家は、神道しんどう禊教みそぎきょうの信徒で、葬式も神道であった。兄の二人、弟の一人と、姉婿が棺側に附いて、最早墓守夫妻が其亡くなった姉をはじめて識った頃の年頃としごろになった彼女の妹が、紫の袴をはいて位牌を持った。六十前後の老衰した神官が拍手かしわでを打って、「下田安子のみことが千代の住家と云々」と祭詞を読んだ。快くなったら姉の嫁した家へ遊びに行くと云って、彼女は晴衣をこさえてもらって喜んで居たが、到頭其れを着る機会もなかった。棺の上には銘仙のあわせおおうてあった。其棺の小さゝを見た時、十六と云う彼女の本当にまだ小供であったことを思うた。赤土を盛った墓の前には、彼女が常用の膳の上に飯を盛った茶碗、清水をたした湯呑なぞならべてあった。墓が近いので、彼女の家の者はよく墓参に来た。墓守の家の女児も時々園の花を折って往って墓にした。三年前砲兵にとられた彼女の二番目の兄は、此の春肩から腹にかけて砲車にかれ、已に危い一命をわずかにとりとめて先日めでたく除隊じょたいになって帰った。「お安さんは君の身代りに死んだのだ、ねんごろに弔うて遣り玉え」墓守は斯く其の若者に云うた。

       五

 墓地が狭いので、新しい棺は大抵古い骨の上に葬る。先年村での旧家の老母を葬る日、墓守がぶらりと墓地に往って見たら、墓掘り役の野ら番の一人が掘り出した古い髑髏されこうべを見せて、
「御覧なさい、頬の格好がう仁左衛門さんに肖てるじゃありませんか。先祖ってえものは、矢張り争われないもんですな」
と云うた。泥まみれの其の髑髏は、成程頬骨の張り方が、当主の仁左衛門さんそっくりであった。土から生れて土に働く土の精、土の化物ばけものとも云うべき農家の人は、死んで土になる事を自然の約束として少しも怪むことをない。ある婆さんを葬る時、村での豪家と立てられる伊三郎さんが、野ら番の一人でさっさと赤土を掘りながら、ホトケの息子むすこの一人に向い、
「でも好い時だったな、来月になると本当に忙しくてやりきれンからナ」と極めて平気で云うて居た。息子も平気でうなずいて居た。死人の手でも借りたい程忙しい六七月に葬式があると、事である。村の迷惑になるので、小供の葬式は、成るべくこっそりする。ある夜、墓守が外から帰って来ると、墓地に一点の火光あかりが見える。やゝあかい火である。立とまってじいと見て居た彼は、と墓地に入った。其は提灯の火であった。黒い影が二つ立って居る。近づいて、村の甲乙であることを知った。側に墓穴が掘ってある。「誰か亡くなられたのですか」と墓守が問うた。「えゝ、小さいのが」と一人が答えた。彼等は夜陰やいんに墓を掘り終え、小さな棺が来るのを待って居たのである。

       六

 古家を買って建てた墓守が二つの書院は、宮の様だ、寺の様だ、と人が云う。外から眺めると、成程某院とか、某庵とか云いそうな風をして居る。墓地が近いので、ます/\寺らしい。演習えんしゅうに来た兵士の一人が、青山街道から望み見て、「あゝお寺が出来たな」と云った。居は気を移すで、寺の様な家に住めば、粕谷の墓守時には有髪うはつの僧の気もちがせぬでも無い。
 然し此れが寺だとすれば、住持じゅうじは恐ろしく悟の開けぬ、煩悩満腹、貪瞋痴どんじんちの三悪を立派に具足した腥坊主なまぐさぼうずである。彼は好んで人をう。生きた人を喰う上に、亜剌比亜夜話にある「ゴウル」の様に墓を掘って死人しびとを喰う。彼は死人を喰うが大好きである。
 無論生命は共通である。生存は喰い合いである。犠牲なしでは生きては行かれぬ。犠牲には、つねに良いものがなる。耶蘇は「吾は天よりくだれる活けるパンなり。吾肉は真の喰物、吾血は真の飲物」と云うたが、実際良いものゝ肉を喰い血を飲んで我等は育つのである。粕谷の墓守、睡眠山無為寺の住持も、想い来れば半生に数限りなき人を殺し、今も殺しつゝある。人を殺して、猶飽かず、其の死体まで掘り出して喰う彼は、畜生道にしたのではあるまいか。墓守実は死人喰いの「ゴウル」なのではあるまいか。彼は曾て斯んな夢を見た。誰やら憤って切腹した。彼ではなかった様だ。無論去年の春の事だから、乃木さんでは無い。誰やら切腹すると、瞋恚しんいの焔とでも云うのか、いた腹から一団のとろ/\したあかい火の球が墨黒の空に長い/\尾を曳いて飛んで、ある所に往って鶏のくちばしをした異形いぎょうの人間にった。而して彼は其処に催うされて居る宴会の席に加わった。夢見る彼は、眼を挙げてずうと其席を見渡した。手足てあし胴体どうたいは人間だが、顔は一個として人間の顔は無い。狼の頭、豹の頭、さめの頭、蟒蛇うわばみの頭、蜥蜴とかげの頭、鷲の頭、ふくろの頭、わにの頭、――恐ろしい物の集会である。彼は上座の方を見た。其処には五分苅頭の色蒼ざめた乞食坊主が Preside して居る。其乞食坊主が手を挙げて相図をすると、一同前なる高脚たかあしの盃を挙げた。而して恐ろしい声を一斉にわッと揚げた。彼は冷汗にひたってめた。惟うに彼は夢に畜生道に堕ちたのである。うつつの中で生きた人を喰ったり、死んだ死骸を喰ったりばかりして居る彼が夢としては、ふさわしいものであろう。
 彼は粕谷の墓守である。彼の住居は外から見てのお寺である。如何様どんなお寺にも過去帳がある。彼は彼の罪亡ぼしに、其の過去帳から彼の餌になった二三亡者もうじゃの名を写して見よう。


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     綱島梁川君

 明治四十年九月某の日、柄杓ひしゃくが井に落ちた。女中が錨を下ろして探がしたが、上らぬ。妻が代って小一時間も骨折ったが、水底深く沈んだ柄杓は中々上ろうともしない。最後に主人の彼が引受け、以前相模の海できすを釣った手心で、錨索いかりなわをとった。偖熱心に錨を上げたり下げたりしたが、時々はコトリと手答はあっても、錨の四本の足の其何れにも柄杓はかゝらない。果ては肝癪かんしゃくを起して、井の底を引掻き廻すと、折角の清水を濁らすばかりで、肝腎かんじんの柄杓は一向上らぬ。上らぬとなるとます/\意地になって、片手は錨、片手は井筒いづつの縁をつかみ、井の上にしかゝって不可見水底の柄杓とたたかって居ると、
「郵便が参りました」
と云って、女中が一枚のはがきを持て来た。彼は舌打して錨を引上げ、其はがきを受取った。裏をかえすと黒枠くろわく。誰かと思えば、綱島梁川君のであった。
 彼は其はがきを持ったまゝ、井戸傍いどのはなを去って母屋の縁に腰かけた。

           *

 程明道ていめいどうの句に「道通天地有形外」と云うのがある。梁川君の様な有象うしょうから無象に通う其「道」を不断に歩いて居る人は、過去現在未来と三生を貫通して常住して居るので、死は単に此生態から彼生態に移ったと云うに過ぎぬ。斯く思うものゝ、死は矢張かなしい而して恐ろしい事実である。
 彼は梁川君と此生に於て唯一回相見た。其は此春の四月十六日であった。梁川君の名は久しく耳にして居た。其「見神の実験」及び病間録に収められた他の諸名篇を、彼は雑誌新人の紙上に愛読し、教えらるゝことが多かった。木下尚江君がある日粕谷に遊びに来た時、梁川君の事を話し、「一度逢って御覧なさい、あの病体に恐入った元気」と云うた。丁度四月十六日には、救世軍のブース大将歓迎会が東京座に開かるゝ筈で、彼も案内をうけて居たので、出京のついでに梁川君を訪うことにしたのであった。
 肺患者には無惨なほこりまじりの風が散り残りの桜の花を意地わるく吹きちぎる日の午後、彼は大久保余丁町の綱島家の格子戸こうしどをくゞった。梁川先生発熱の虞あり、来訪諸君は長談を用捨されたく云々、と主治医の書いた張札はりふだが格子戸にってある。食事中との事で、しばらく薄暗い一室に待たされた。「自彊不息」と主人のしょくによって清人か鮮人かの書いた額が掛って居た。やがて案内されて、硝子戸になって居る縁側えんがわ伝いに奥まった一室に入った。古い段通を敷いた六畳程の部屋、下を硝子戸の本棚にして金字の書巻のギッシリ詰まった押入を背にして、蒲団の上に座って居る浅黒い人が、丁寧に頭を下げて、吸い込む様なカスレ声で初対面の挨拶をした。処女の様なつゝましさがある。たゞ其の人を見る黒い眸子ひとみの澄んで凝然と動かぬ処に、意志の強い其性格が閃めく様に思われた。最初其カスレた声を聞き苦しく思い、斯人に談話を強うるの不躾ぶしつけを気にして居た彼は、何時の間にかつり込まれて、悠々と話込んだ。話半に家の人が来客を報ぜられた。綱島君は名刺を見て、「あゝ丁度よい処だった。御紹介しようと思って居ました」と云う。やがて労働者の風をした人が一青年を連れて入って来た。梁川君は、西田市太郎君と云うて紹介し、「実地の経験には、西田さんに学ぶ所が多い」と附け加えた。話は種々に渉った。彼は聖書に顕れた耶蘇基督について不満と思う所は、と梁川君に問うた。れいせばなき無花果をのろった様な、と彼は言を添えた。梁川君は「僕も丁度今其事を思うて居たが、不満と云う訳ではないが、耶蘇の一特色は其イラヒドイ所謂いわゆる Vehement な点にある」と答えた。話は菜食の事に移って、彼は旅順閉塞に行く或船で、最後訣別の盃を挙ぐるに、生かして持って来た鶏を料理しようとしたが、誰云い出すともなく、鶏は生かして置こうじゃァないかと、到頭其まゝにして置いた、と云う逸話を話した。梁川君は首をかしげて聴いて居たが、「面白いな」と独語した。一座の話は多端に渉ったが、要するに随感随話で、まとまった事もなかった。唯愉快に話し込んで思わず時を移し、二時間あまりにして西田君列と前後に席を立った。
 其れから其足で三崎町の東京座に往って、舞台裏ぶたいうらで諸君のあとから彼もブース大将の手を握るの愉快を獲た。大将は肉体も見上ぐるばかりの清げな大男で、其手は昨年の夏握ったトルストイの手の様に大きくあたたかであった。午後には梁川君と語り、夜はブース大将の手を握る。四月十六日は彼にとって喜ばしい一日であった。嬉しいあまりに、大将の演説終って喜捨金集めの帽が廻った時、彼は思わず乏しい財布をさかさにして了うた。
 其後梁川君とははがきの往復をしたり、回光録を贈ってもらったりしたきり、彼も田園の生活多忙になって久しく打絶えて居た。そこで此訃は突然であった。精神的に不朽な人は、肉体も例令其れが病体であっても猶不死の様に思われてならなかったのである。梁川君が死ぬ、其様そんな事はあまり彼の考には入って居なかった。一枚の黒枠くろわくのはがきは警策の如く彼が頭上に落ちた。「死ぬぞ」と其はがきは彼の耳もとに叫んだ。

           *

 梁川君の葬式は、秋雨の瀟々しとしとと降る日であった。彼は高足駄をはいて、粕谷から本郷教会に往った。教会は一ぱいであった。やがて棺が舁き込まれた。草鞋ばきの西田君の姿も見えた。某嬢の独唱も、先輩及友人諸氏の履歴弔詞の朗読も、真摯なものであった。牧師が説教した。「美人の裸体らたいは好い、然しこれに彩衣さいいせると尚美しい。梁川は永遠の真理を趣味滴る如き文章に述べた」などの語があった。梁川、梁川がやゝ耳障みみざわりであった。
 彼は棺の後にいて雑司ヶ谷の墓地に往った。葬式が終ると、何時の間にか車にのせられて綱島家に往った。梁川君に親しい人が集って居て、晩餐の饗があった。西田君、小田君、中桐君、水谷君等面識の人もあり、識らない方も多かった。
 新宿で電車を下りた。夜が深けて居る。雨は止んだが、路は田圃たんぼの様だ。彼は提灯ちょうちんもつけず、更らに路をえらばず、ザブ/\泥水をわたって帰った。新宿から一里半も来た頃、真闇な藪陰やぶかげで真黒な人影に行合うた。彼方はずうと寄って来て、顔をすりつける様にして彼をのぞく。彼は肝を冷やした。
「君はだれだ?」
 先方から声をかけた。彼は住所姓名を名乗った。而して「貴君あなたは?」ときいた。
「刑事です。大分晩く御帰りですな」
 八幡近くまで帰って来ると、提灯ともして二三人下りて来た。彼の影を見て、提灯はとまったが、透かして見て「福富さんだよ」と驚いた様な声をして行き過ぎた。此は八幡山の人々であった。先日八幡山及粕谷の若者と烏山の若者の間に喧嘩があって、怪我人なぞ出来た。其のあとがいまだにごたごたして居るのだ。
 帰ると、一時過ぎて居た。

           *

 其後梁川君の遺文寸光録が出た。彼の名がちょい/\出て居る。彼の事を好く云うてある。総じて人は自己の影を他人に見るものだ。梁川君が彼にうつした己が影に見惚みとれたのも無理はない。
 梁川君が遺文の中、病中唯一度母君に対してやゝ苛□かれいの言を漏らしたと云って、痛恨して居る。若し其れをだに白璧の微瑕と見るなら、其白璧の醇美は如何であろう。彼の様な汚穢な心と獣的行の者は慙死ざんししなければならぬ。

           *

 梁川君のに接した其日井底に落ちた柄杓は、其の年の暮井浚いどさらえの時上がって来た。
 然し彼は彼の生前に於て宇宙の那辺なへんにか落したものがある。彼は彼の生涯をささげて、天の上、地の下、火の中、水の中、糞土の中までもぐっても探し出ださねばならぬ。梁川君は端的たんてきに其求むるものを探し当てゝ、堂々と凱旋し去った。鈍根どんこんの彼はしば/\とらえ得たと思うては失い、つかんだと思うては失い、今以て七転八倒の笑止な歴史を繰り返えして居る。但一切のもの実は大能掌裡の筋斗翻とんぼがえりに過ぎぬので人々皆通天の路あることを信ずるの一念は、彼が迷宮の流浪さすらいに於ける一の慰めである。


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     梅一輪

       一

「おけいさんの梅が咲きましたよ」
 斯く妻が呼ぶ声に、彼は下駄を突っかけて、植木屋の庭の様に無暗むやみに樹木を植え込んだ園内を歩いて、若木わかきの梅の下に立った。成程咲いた、咲いた。青軸あおじくまた緑萼りょくがくと呼ばるゝ種類の梅で、花はまだ三四輪、染めた様に緑ながくから白くふくらみ出たつぼみの幾箇を添えて、春まだ浅い此の二月の寒を物ともせず、ぱっちりと咲いて居る。きょくの雪の様にいさゝか青味を帯びた純白のはなびら芳烈ほうれつな其香。今更の様だが、梅は凜々りりしい気もちの好い花だ。
 白っぽい竪縞たてじまの銘仙の羽織、紫紺しこんのカシミヤの袴、足駄を穿いた娘が曾て此梅の下に立って、一輪の花を摘んで黒い庇髪ひさしびんに插した。お馨さん――其娘の名――は其年の夏亜米利加に渡って、翌年まだ此梅が咲かぬ内に米国で亡くなった。
 其れ以来、彼等は此梅を「お馨さんの梅」と呼ぶのである。

       二

 米国の画家ヂャルヂ、ヘンリー、バウトンいた「メェフラワァの帰り」と云う画がある。メェフラワァは、約三百年前、信仰、生活の自由をけん為に、欧洲からはる/″\大西洋を越えて、亜米利加の新大陸に渡った清教徒の一群いちぐんピルグリム、ファザァスが乗った小さな帆前船ほまえせんである。画は此船が任務を果してまた東へ帰り去る光景をえがいた。海原の果には、最早もう小さく小さくなった船が、陸から吹く追手風おいてに帆を張って船脚ふなあし軽く東へ走って居る。短い草が生えて、岩石の処々に起伏した浜にはピルグリムの男女の人々が、彼処に五六人、此処に二三人、往く船を遙に見送って居る。前景ぜんけいに立つ若い一対いっついの男女は、伝説のジョン、アルデンメーリー、チルトンででもあろうか。二人共まだ二十代の立派な若い同士。男は白い幅濶はばひろの襟をつけた服を着て、ステッキをついた左の手に鍔広つばひろのピュリタン帽を持つ右の手を重ね、女は雪白せっぱくのエプロンをかけて、半頭巾ボンネットを冠り、右の手は男の腕にすがり、半巾はんかちを持った左の手をわが胸に当てゝ居る。二人の眼はじっと遠ざかり行くメェフラワァ号の最後の影にそそがれて居る。メェフラワァは故国との最後の連鎖れんさである。メェフラワァの去ると共に故国のえんは切れるのである。なつかしい過去、旧世界、故国、歴史、一切の記念、其等との連鎖は、かの船脚ふなあしの一歩□□に切れて行くのである。彼等の胸は痛み、眼には涙が宿って居るに違いない。然しながら彼等は若い。彼等は新しい大陸に足を立てゝ居る。彼等の過去は、彼船と共に夢と消ゆる共、彼等の現在は荒寥こうりょうであるとも、彼等は洋々ようようたる未来を代表して居る。彼等は新世界のアダム、イヴである。
 此の画を見るたびに、彼はおけいさんと其恋人葛城かつらぎ勝郎かつおおもい出さぬことは無い。

       三

 葛城は九州の士の家の三男に生れた。海軍機関学校に居る頃から、彼は外川先生に私淑ししゅくして基督を信じ、他の進級、出世、肉の快楽けらくにあこがるゝ同窓青年の中にありて、彼は祈祷きとうし、断食だんじきし、読書し、瞑想めいそうする青年であった。日露戦争に機関少尉として出陣した彼は、戦争が終ると共に海軍を見限って、哲学文学を以て身を立つる可く決心した。寡婦かふとして彼を育て上げた彼の母、彼の姉、彼の二兄、家族の者は皆彼が海軍を見捨つることに反対した。唯一人満腔まんこうの同情を彼に寄せた人があった。其れは其頃彼の母の家に寄寓きぐうして居る女学生であった。女学生の名はお馨さんと云った。
 お馨さんは、上総かずさの九十九里の海の音が暴風しけの日には遠雷の様に聞ゆる或村の小山のふところにある家の娘であった。四人の兄、一人の姉、五人の妹を彼女はって居た。郷里の小学を終えて、出京して三輪田女学校をえ、更に英語を学ぶべく彼女はある縁によって葛城の母の家に寄寓きぐうして青山女学院に通って居た。彼女も又外川先生の門弟で、日曜毎に隅の方に黙って聖書の講義を聴いて居た。富裕な家の女に生れて、彼女は社会主義に同情を有って居た。葛城が軍艦から母の家に帰って来る毎に、彼は彼女と談話だんわを交えた。信仰を同じくし、師を同じくし、同じ理想をう二人は多くの点に於て一致を見出した。彼女は若い海軍士官が軍籍を脱することについて家族総反対の中に唯一人の賛成者であった。斯くて二人は自然に相思そうしの中となった。二人は時に青山から玉川まで歩いて行く/\語り、玉川のかわらの人無き所にひざまずいて、流水の音を聞きつゝ共に祈った。身は雪の如く、心は火の如く、二人の恋は美しいものであった。

       四

 本文の筆を執る彼は、明治三十九年の正月、逗子ずしの父母の家で初めて葛城に会った。恰も自家の生涯に一革命をけみした時である。間もなく彼は上州の山にこもる。ついで露西亜に行く。外国から帰った時は、葛城は已に海軍を退いて京都の大学に居た。
 明治四十年の初春、此文の筆者は東京から野に移り住んだ。八重桜も散り方になり、武蔵野の雑木林が薄緑うすみどりに煙る頃、葛城は渡米の暇乞いとまごいに来た。一夜泊って明くる日、村はずれで別れたが、中数日を置いて更に葛城を見送る可く彼は横浜に往った。港外のモンゴリヤ号は已にいかりを抜かんとして、見送りに来た葛城の姉もおけいさんもとくに去り、葛城独甲板のらんって居た。時間が無いので匆々そこそこに別を告げた。此時初めて葛城はお馨さんの事を云うた。ゆく/\世話になろうと思うて居ると云うた。そうして今後度々上る様に云って置いたから宜しく頼む、と云うた。斯くて葛城は亜米利加に渡った。
 其年夏休前にお馨さんは初めて粕谷に来た。美しいと云う顔立かおだちでは無いが、色白の、微塵みじん色気も鄙気いやしげも無いすっきりした娘で、服装みなりも質素であった。其頃は女子英学塾に寄宿して居たが、後には外川先生の家に移った。粕谷に遊びに往ったと云うてやると、米国から大層喜んでよこす、と云ってよく遊びに来た。今日は学校から玉川遠足をしますから、私は此方こちらへ上りました、と云って朝飯前に来た事もあった。体質極めて強健で、病気と云うものを知らぬと云って居た。新宿から三里、大抵足駄をはいて歩いた。日がえりに往復することもあった。彼女は女中も居ぬ家の不自由を知って居るので、来る時に何時もたすきたもとに入れて来た。而して台所の事、拭掃除ふきそうじ、何くれとなく妻を手伝うた。家の事情、学校の不平、前途の喜憂、何も打明けて語り、慰められて帰った。妻は次第に彼女を妹の如く愛した。
 葛城は新英州ニューイングランドの大学で神学を修めて居た。欧米大陸の波瀾万丈えかえる様な思潮に心魂を震蕩しんとうされた葛城は、非常の動揺と而して苦悶くもんを感じ、大服従のあと大自由に向ってあこがれた。彼が故国の情人に寄する手紙は、其心中の千波万波をみなぎらして、一回は一回より激烈なるものとなった。彼はイブセンを読む可く彼女に書き送った。彼女を頭がかたいと罵ったりした。而して彼女をも同じ波瀾に捲き込むべく努めた。斯等の手紙が初心うぶな彼女を震駭しんがい憂悶ゆうもんせしめたさまは、傍眼わきめにも気の毒であった。彼女は従順にイブセンを読んだ。ツルゲーネフも読んだ。然し彼女は葛城が堕落に向いつゝあるものと考えた。何ともして葛城を救わねばならぬと身を藻掻もがいた。彼女は立っても居ても居られなくなった。而して自身亜米利加に渡って葛城を救わねばならぬと覚期かくごした。
 粕谷かすやの夫妻は彼女を慰めて、葛城が此等の動揺はまさに来る可き醗酵はっこうで、少しも懸念す可きでないとさとした。然しおけいさんの渡米には、二念なく賛同した。彼葛城の為にも、彼女自身の鍛錬たんれんの為にも、至極好い思立おもいたちたのである。彼女は葛城の渡米当時已に自身も渡米す可く身をもだえたが、父の反対によって是非なく思い止まったのであった。
 米国からは、あまり乗気でもないが、来るなら紐育ニューヨークブルックリンの看護婦学校に口があると知らして来た。彼女の師外川先生も、自身新英蘭ニューイングランドで一時白痴院はくちいんの看護手をしたことがあると云うて、彼女の渡米に賛同した。お馨さんは母の愛女であった。母は愛女の為に其望を遂げさすべく骨折る事をだくした。彼女の長兄は、其母を悦ばす可く陰に陽に骨折る事を妹に約した。残る所は彼女の父の承諾だけであった。彼女の父は田舎の平相国へいしょうこく清盛きよもりとして、其小帝国内に猛威を振うている。彼女と葛城の縁談えんだんも、中に立って色々骨折る人があったが、彼女の父は断じて許さなかった。葛城の人物よりも其無資産をおもんぱかったのである。葛城の母、兄姉も皆お馨さんの渡米には不賛成であった。葛城の勉強の邪魔になると謂うた。静かにこゝで勉強して葛城の帰朝を待てと勧めた。然しお馨さんは如何しても思い止まることが出来なかった。それに、日本に愚図々々ぐずぐずして居れば、心にまぬ結婚を父にいられる恐れがあった。
 斯様な事情と彼女の切なる心情を見聞する粕谷の夫妻は、打捨てゝ置く訳に行かなかった。葛城が家族の反対に関せず、何を措いても彼女の父の結婚及渡米の許諾を獲べく、単刀直入桶狭間おけはざまの本陣に斬込まねばならぬと考えた。

       五

 朧月おぼろづきの夜、葛城家の使者といつわる彼は、房総線ぼうそうせんの一駅で下りて、車に乗ってお馨さんの家に往った。長い田舎町をぬけて、田圃たんぼ沿いの街道を小一里も行って、田中路を小山の中に入って、其山ふところの行止ゆきどまりが其家であった。大きな長屋門の傍のくぐりを入って、勝手口から名刺を出した。色のめた黒紋付の羽織を着た素足すあしの大きな六十爺さんが出て来た。お馨さんの父者人ててじゃひとであった。
 其夜は烈しい風雨であった。十二畳の座敷に寝かされた彼は、夢を結び得なかった。明くる早々起きて雨戸をあけて見た。庭には大きな泉水を掘り、向うの小山を其まゝ庭にして、蘇鉄そてつを植えたり、石段をたたんだり、石燈籠を据えたりしてある。下駄突かけて、裏の方に廻って見ると、小山のすそを鬼のいわやの如くりぬいた物置がある。家は茅葺かやぶきながら岩畳がんじょうな構えで、一切の模様が岩倉いわくらと云う其姓にふさわしい。まだ可なり吹きりの中を、お馨さんによくた十四五、十一二の少女が、片手に足駄をげ、頭から肩掛しょうるをかぶり、跣足はだしで小学校に出かけて行く。座敷に帰って、昼の光であらためて主翁しゅおうと対面した。住居にふさわしい岩畳なかっぷくである。左の目がすがめかと思うたら、其れは眼の皮がたるんでいるのであった。其れが一見人を馬鹿にした様に見える。芳野金陵の門人で、漢学の素養がある。其父なる人は、灌漑用の潴水池ちょすいちを設けて、四辺あたりに恩沢を施して居る。お馨さんの父者人は、十六にして父に死なれ、一代にして巨万の富をなした。六十爺の今日も、名ある博士の弁護士などを顧問に、万事自身で切って廻わして居る。此辺は数名の博士、数十名の学士を出して居る位で、此富豪翁も子女の教育には余程身を入れて居るのであった。
 障子に日がさして来た。障子を明けると、青空にうつる花ざかりの大きな白木蓮はくもくれんが、夜来の風雨に落花狼藉、満庭雪をいて居る。推参の客は主翁に対して久しぶりにうそと云うものをいた。彼は葛城家の使者だと云うた。お馨さんを将来葛城勝郎の妻に呉れと云うた。旅費学資は一切葛城家から出すによって、お馨さんを米国へ遣ってくれと云うた。学校は師範学校見た様なもので、育児衛生を旨とすると云うた。主翁は逐一聞いた上で、煙管きせるをポンと灰吹はいふきにはたき、十二三の召使の男児おのこを呼んで御寮様ごりょうさまに一寸御出と云え、と命じた。やがてお馨さんの母者人が出て来た。よくお馨さんに肖て居る。十一人の子供を育て、恐ろしい吾儘者わがままものの良人に仕えて、しっかり家をおさえて行く婦人の尋常の婦人であるまいと云う事は、葛城家の偽使者も久しく想う処であった。主翁は今一応先刻の御話をと云うた。似而非えせ使者ししゃは、試験さるゝ学生の如く、真赤な嘘を真顔で繰り返えした。母者人は顔の筋一つ動かさず聴いて居た。主翁は兎も角せがれや親戚の者共とも相談の上追って御返事すると云うた。「六ヶ敷むつかしいな」彼は斯く思いつゝ帰途に就いた。
 然しながら天はお馨さんに味方するかと思われた。彼女の父は意外にも承諾を与えた。旅券も手に入った。そうして葛城が米国へ向け乗船した二年と三月目の明治四十二年の七月六日、横浜出帆の信濃丸で米国に向うた。葛城の姉、お馨さんの長兄夫婦、末の兄、お馨さんによく肖た妹達は、桟橋さんばしでお馨さんを見送った。粕谷の夫妻も見送り人の中にあった。妹達は涙を流して居た。水草の裾模様すそもようをつけた空色そらいろのお馨さんは、同行の若い婦人と信濃丸の甲板から笑みて一同を見て居た。彼女は涙をおとし得なかった。其心はとく米国に飛んで居るのであった。船はやおら桟橋を離れた。空色そらいろぎぬ笑貌えがおの花嫁は、白い手巾はんかちを振り/\視界の外に消えた。

       六

乗船いたしましてから五日目になりますが、幸に海は非常に静かで……友人と同室で御座いますから心配もなく、朝より夕まで笑いつゞけて居る次第にて、非常に幸福で愉快に暮して居ります。互に語り、読書し、議論し、歌を唱い、少しも淋しき事はなく暮して居ります。非常に元気なる故、隣室よりうらやましがられて居る程で御座います。……然し葛城は下等で荷物同様な取扱いをされて非常に苦しんで参りましたのに、私は上等室にて御客様扱いを受けて安楽に暮らして居りますからまぬような申訳なきような心地がいたして居ります。
     七月十日
信濃丸にて
馨子
   愛する御姉君に参らす
         *
去廿一日午後無事シヤトルに上陸いたしましたから、御安心下さいませ、……明日朝九時発の汽車でニューヨークに参ります。
     七月廿四日夜
シヤトルにて
馨子
   姉上様
         *
昨日ニューヨークに着いたし、漸く目的の地に達し得候まゝ誠にうれしく存じ居り候。……葛城よりもよろしく、非常によろこび居り候。
     七月卅一日
ニューヨークにて
馨子
   姉上様
         *
身の平和、心の喜、筆にも言葉にも尽されず候。
勝郎
あまりのうれしさに、今の米国は天国に候。
     八月三日
馨子
        ニューヨークにて
         *
前略、無事にニューヨークに着きました。ニューヨークの停車場から独りで学校へ行く積りで居りましたら、思いもかけず葛城が迎えに来て居りました。手紙では随分強い事を申してよこしましたが、来て見れば非常によろこんで、よく来たと申して居ります。
前月の十日に病院に参りまして、直ぐ其日から働きました。慣れぬわざと言葉が始めは聞き取れぬので実に困りましたが、だん/\と慣れてよくなりました。実に病院の仕事はハードで御座います。
朝の七時から夜の七時までは腰も掛る事が出来ず、始終立って居りますから、足が痛くて/\実に初めは困りました。然し一日の内二時間は休めますから、一日の働時間は十時間で御座います。身体の工合のよき時はともかく、悪しき時は実にいやになります。慣れぬ仕事の上に一日立ちきりで御座いますから、身体の工合が妙になりまして、種々な変動を起しますが、慣れゝばよろしくなるとの事で御座います。
私は今は外科室の患者が四十人ばかり居る室で働いて居ります。随分ひどい重傷の人も居ります。脊骨せぼねくじいた人が三人程に、火傷やけどの人や、三階や二階から落ちた人や、盲腸炎もうちょうえんの人や、なか/\種々な種類の患者が居ります。
脊骨が折れても余病さえ起さねば大丈夫で御座います。一人は肺炎を起して死にましたが、後の二人は丈夫で居りますが、然し実に痛たそうで随分気の毒で御座います。初めは手術室から帰って来た患者のそばに居って看護をいたします事が一番恐ろしく、殊に睡眠剤すいみんざいにおいが鼻について自分が心地が悪くなりましたが、近頃は慣れて平気になりました。それからどんないやな恐ろしい事でも、自分がせねばならぬと思いますれば、何でも出来ます。未だ初めで御座いまして、ベッドを作る事や、病人の敷布しいつをかえる事や、器械をて消毒する事や、床ずれの出来ぬように患者のせなかをアルコールでこする事や、氷嚢やら湯嚢ゆたんぽやらをあてゝやったり、呑物のみものを作って与えましたり、何やかやと、一日をわしく、足は棒のようになりまして、七時に室に帰って参りましても、疲れて起きて居る事が出来ません程で御座います。
朝は六時に起きまして、六時半に食堂に参りますが、初めは慣れぬし、三十分間に顔を洗い髪を結い制服を着、また床をなおす事が出来ませんでしたが、今では出来得るようになりました。慣れゝば十五分位でも出来得るようになるそうで御座います。見ないでうしろのボタンを掛けるのがむずかしく、出来ないで始めはよわりましたが、いつの間にか慣れて来ました。昼はわしいのと、夜は疲れますので、つい/\不調法ぶちょうほうにもなりまして、皆様に御無沙汰を申上て居ります。然し夢はなつかしき千歳村の御宅の様子や、また私の母や妹の事など夢みます。いつも夢では日本に居ります。未だ此の地に参りましてから西洋の夢は見ません。年来聞き及びました理想を実際に行う事が出来まして、実に愉快ゆかいに思います。患者は米国人も居れば、独乙人どいつじん、伊太利人、ギリーク人、黒色人、実にあらゆる人を交えて居ります。初めは何だか異人のような気がして妙でしたが、今は平気になりまして、黒人でも誰でも自分の同胞の如く思われ、出来得るだけ親切に世話してやりたいと務めて居ります。初めは患者の方でも妙に思うたらしゅう御座いましたが、近頃ではよくなずいて、随分よくおとなしくして居てくれますし、病人の方から親切に語をかけてくれますようになりました。
校長もよろしい御方で、親切にして居て下さいます。私も日本に居りました時は、丈夫でいばりましたが、ニューヨークに参りましてから余り丈夫ではなく、風土やら食物やら万事が変った故で御座いましょう、昨日からも少し工合が悪しく寝て居りましたら、校長も度々見舞に来て呉れますし、なか/\手厚き看護して呉れますから、感謝いたして居ります。今日は午後から病院の働きに出ようと思いましたが、校長から許しが出ませんから、病院に参りませんで、床の上にすわって先日から書きかけました御手紙を書きつゞけました。
葛城は明年ユニオンを卒業いたしますから、出ましたら直ぐ独乙へ行って二年程居って、それから直ぐ日本へ帰りたいと申して居ります。私は身体からだのつゞく限りは病院に居りたいと思うて居ります。出来るなら卒業をしたいと思いますが、卒業せぬでもかまいませんが、とにかく半年居ってもためになると思います。……葛城も本月の三日頃からとう/\働きに参りました。随分やはり骨が折れるそうで、気の毒に思いますが、少しは働いて見た方がよろしいと思います。……前には手紙を書いてから見るまでは一月もかゝりましたが、今は四時間程たてば手紙は参りますし一時間かゝればニューヨークにも行かれます、一週間に一度は多分逢えますから、幸福に思うて居ります。私は是非とも三四年は米国に居りたく思うて居ります、今の処では。
葛城は米国嫌いで、来年になったら直ぐ独乙へ行くと申して居ります。私も独乙行を勧めて居ります。是非行くようにと望んで居ります。
ニューヨークへ行きますには、地下の電車でも、亦エレベーターでもどちらでも取って参れます。私は近頃はニューヨークに独りで参れるようになりました。……御蔭様にて只今は満足して感謝して働いて居ります。少しも日本にだ帰りたく思いません。永く米国に居りたく思います。米国に参りまして気が清々せいせいとなりました。葛城が居りますから、何かと心強う御座います。然し手足まといにならぬよう世話にならぬようには充分致して居ります。末筆ながら鶴子様にはどんなに御可愛らしくいらっしゃいましょう。鶴子様位の御子様を見ます度に思い出されます。毎朝小児科の方に三つ四つの床を作りに参りますが、此の頃では子供も慣れて言葉をかけ、また私が帰ります時にはグードバイと皆口々に可愛いゝ声でさけんでくれますから、可愛くてたまらなくなります。可愛いゝ子供も赤児あかんぼも沢山居ります。どうか御姉上様にも御丈夫でいらっして下さいませ。
     九月八日
ブルックリン病院にて
馨子
   御なつかしき
    御姉上様
        御まえに
身体の工合が悪いと申しましたが、大した事は御座いません。ことに病院で御座いますから、病気の心配は少しも御座いませんから、御安心下さいませ。
         *
もはや秋となりました。故郷ふるさとを思い出す時は、第一に粕谷の御家をなずかしく思い出します。去る八日、校長より学生として他の見習いの生徒と共に受け入れられ、今はキャプももらい受け、真の看護婦になりました。無事に二ヶ月の苦しい見習いの時代は終りましたから、御安心下さいませ。
     十月十二日
ブルックリン病院にて
馨子
   姉上様
         *
御はがきと御写真、夢ではないかとあやしむ程うれしく御なずかしく拝見いたしました。……相かわらず働きがはげしいので、私のような者には、身体からだがとても続かぬと思いましたから止めようと思いましたが、然し倒れる迄は病院に居る積りで居ります。只信仰をもって神の助けによって日々の務をいたして居ります。
     十月廿四日
ブルックリン病院にて
馨子
   姉上様
         *
十一月三日、今日は天長節で御座いますが、私に取っては何の変りもなく今日も一日働きました。然しなずかしき故郷ふるさとの事が今日は一しお恋しくなずかしく思われます。其後は如何御過し遊ばされますか。いつも御なずかしく、先日御送り下さいました御写真を眺めては自分の弱さを励まして居ります。私は其後変りもなく自分の天職と信じて従事いたして居りますから、御安心下さいませ。先ず御なずかしきまゝに一寸御伺いいたしました。
     十一月三日
ブルックリンにて
馨子
   姉上様
         *
目出度きクリスマスを遙かに御祝い申上ます。
此のエハガキにある可愛い子供は誰で御座いましょうか。つるちゃんでは御座いませんでしょうか。あまりよく似て居りますもの。とにかく此の児はクリスマスを是非千歳村のなずかしい御家で迎えたいと申します。大急ぎで今出立いたさせますから、よろしく御願い申します。
     一千九百○九年基督降誕クリスマスになりて
ブルックリンにて
馨子
   御姉上様に

       七

 明治四十三年二月三日、粕谷草堂の一家が午餐ごさんの卓について居ると、一通の電報が来た。おけいさんの兄者人あにじゃひとからである。眼を通した主人は思わずああと叫んだ。
馨急病にて死せりと
 妻は声を立てゝいた。
 主人あるじは直ちに葛城の母と長兄をたずねた。彼は面目ない心地がした。若し死が人生の最大不幸なら、お馨さんの渡米をはばんだ彼人々は先見の明があったのである。彼は其足で更にお馨さんの父母を訪うことにした。銀座で手土産てみやげの浅草海苔を買ったら、生憎あいにく御結納おんゆいのう一式調進仕候」の札が眼につく。昨年の春頼まれもせぬ葛城家の使者としてお馨さんの実家に約婚の許諾を獲に往った彼は、一年もたゝぬに此様こんな用事で二たび其家を訪おうとは思わなかった。
 終列車は千葉までしか行かなかった。彼は千葉にとまって、翌朝房総線の一番に乗った。停車場に下りると、お馨さんの兄さんが待って居た。兄さんは赤い紙に書いた葛城から来た電文を見せた。
馨子急病昨夜世を去る
とある。兄さんはまた、父は非常に興奮こうふんして、終夜よすがら酒を飲み明かし、母や私に出て行けと申しますと云った。
 岩倉家の玄関で車を下りると、お馨さんの阿爺おとうさんが出て来た。座にしょうぜられて、一つ二つ淀みがちな挨拶をすると、阿爺さんが突然わァッと声を立てゝいた。少し話してまた声を放って哭いた。やがて阿母おっかさんが出て来た。沈着な阿母も、挨拶半に顔が劇しく痙攣けいれんして、涙と共に声を呑んだ。彼は人の子を殺した苛責かしゃくを劇しく身に受け、唯黙って辞儀ばかりした。
 やがて酒が出た。彼は平生一滴も飲まぬが、今日はせめてもの事に阿爺おとうさん阿母おかあさんと盃の取りやりをしるしばかりした。岩倉家では丁度十四になる末から三番目の女を、阿母の実家にやる約束をして、其祝いをして居る所にお馨さんの訃報ふほうが届いたのだそうだ。丁度お馨さんが米国で亡くなった其晩に、阿母さんが玄関の式台に靴のおとを聞きつけ、はッとして出て見たら誰も居なかったそうである。たましいの彼女は其時早く太平洋を渡って帰って来たのであった。
 彼はお馨さんの兄さんと共に葛城家へ往ってあとの相談をすることにした。阿爺さんは是非新築中の別荘を見て呉れと云って、草履ぞうりをつッかけて案内に立った。酒ぶとりした六十翁の、みぞね越え、阪をけ上る元気は、心の苦からのがれようとする犠牲のもがきの様で、彼の心をいたませた。やがて別荘に来た。其は街道の近くにある田圃の中の孤丘こきゅうけずって其上に建てられた別荘で、質素な然し堅牢けんろうなものであった。西には富士も望まれた。南には九十九里の海――太平洋の一片が浅黄あさぎリボンの様に見える。お馨さんは去年此処の海を犬吠ヶ崎の方へ上って米国に渡ったのである。「如何です、海が見えましょう。馨が見えるかも知れん」と主翁しゅおうが云う。広々とした座敷を指して、「葛城さんが帰って来たら、此処ここ祝言しゅうげんさせようと思って居ました」と主翁がまた云う。
 彼は一々胸に釘うたるゝ思であった。

       八

 お馨さん死去の電報に接して二週間目の二月十六日、午餐ごさんの席に郵便が来た。彼此とり分けて居た妻は、「あらッ、お馨さんが」と情けない声を立てた。
 其はお馨さんが亡くなる二週間余り前のはがきであった。

新年をことほぎまいらせ候。
御正月になりましたら、くわしい御手紙をしたためたいと思うて思うて居りましたが、御正月も元旦からいつもと同じに働いて休みなどは取れませんでしたから、つい/\御無沙汰いたしました。随分久しく御無沙汰申上ました。御許様おんもとさま御家内皆々様には御変りも御座いませんか。私はいつもながら達者で、毎日/\働いて居ります。其後は何の変りもなく無事に病院で勤めて居ります。知らぬ内に種々の事を覚えて行きます。
御正月にはホームシックにかゝりまして実に淋しく、毎日千歳村のなつかしい御家族の御写真のみ眺めて居りました。私は只神の御助けと御導きにより只神の御保護を信じて其日を暮して居ります。いずれ後よりくわしく申上ます。御なずかしきまゝに一寸申上ました。
     一月十三日
米国ブルックリンにて
岩倉馨子
   姉上様

 彼世あのよからのたよりが又一つ来た。其はお馨さんが臨終りんじゅう十一日前の手紙であった。

クリスマスと新年の祝いも、いつしか過ぎ去りまして、はや今日は二十日はつか正月となりました。昨年さくねんの御正月には、御なずかしき御家に上りまして、御雑煮おぞうにの御祝いに預りました。今でも実に何ともかとも申されぬなずかしきその時の光景ありさま追懐ついかいいたします。実に月日の過ぎ行くのは早いもので御座いまして、もはや当地に参りましてから年の半分は立ちました。此様こんなですから、また御目にかゝる事の出来得る日は近きにある事と思います。
次に私事は相かわらず此病院で働いて居ります。三ヶ月程前からわしき婦人の病室の方へ参りましたもので、夜になって室に帰りましても、筆を取る勇気もなく過しましたが、二三日前から前にった病室に帰りましたので、非常にらくになりました。
三ヶ月間は実に苦しい思いをいたしました。然し実によい経験を得ました。私は日本の看護婦のトレーニングにつきましては、どんなか少しも知りませんが、米国のトレーニング、スクールは、たしかに日本よりはまさって居ると思います。随分軍隊と同じような組織で、きびしゅう御座います。実にある点は高尚で完全ですが、またある点はおとって居る処もありますよう思われます。日本に居りました時とすっかり何から何まで変って居りまして、働いた事とて別に朝から夕までつゞけた事もありませんで、生活が全く異って居りますから、実に苦しく感じました。
近頃は朝から夕まで一度も腰もかけなくとも平気で働いて居ります。然し三ヶ月の間は、実に困りまして、幾度も止めようかと思いましたが、とう/\つゞけました。仕事が苦しいばかりでなく、上のヘッドの看護婦が余り人物の人でないもので、下の私共は実につらく思いました。実にせわしいと申しましたら、あのような思いは実に/\初めてゞ御座います。若し日本に居ってならば、とても私には勤まりません。此処ではいや応なしですから、とにかく務めて居ります。私は卒業はするかしないか、私はどうしてもいやになれば明日にも止める積りで居ります、たゞ葛城が米国に居ります間は、厄介をかけるのが気の毒ですから、どうか続けたく思います。
友人の中にも、なか/\よい家庭に育って性質のよい人もありますが、また意地の悪い人もあります。やはり面も性質も日本人と同じで御座います。人類ですから、やはり皆人情は同じで御座います。
私は自分のベストを尽して居ります。親切と正直とをむねとして居ります。病人もよくなついて呉れますし、自分の受持の病人には満足を与える事が出来ましたから、此れは自分の第一のたからと思うてよろこんで居ります。家に帰る時は、皆よろこんで感謝して帰りますから、是れが私の楽しみで御座いました。
婦人の病室に居りました時は、何から何まで一切世話をせねばなりませんし、中には老人で不随の人もありますから、床ずれの出来ぬようにそれ/″\手あてもせねばなりませんし、何ともかとも申されぬ程忙わしゅう御座います。大抵十二人位の人の世話を一人でいたしますし、また他の病室の病人の事も世話をせねばなりませんから、実に苦しゅう御座います。
看護法の実例なぞは、校長が一々生徒を集めて教えて呉れます。また今は医師が解剖かいぼうと生理など講じて居ります。昨年はバクテリヤについて講義もきゝました。また校長が自ら看護法など学術的に教えて居ります。講義なども、学術の名は私は知りませんから、なか/\むずかしいですが、またこちらの人もあまりよくは知りませんから、共に勉強して居ります。むずかしいですが、少しは興味が御座います。看護婦は医学の事も知らねばなりませんから、余程勉強せねばなりません。一日一日と少しずつ何かと覚えて参りますから、有り難く思うて居ります。初めての米国にてのクリスマス、余り楽しくも御座いませんでしたが、然しクリスマスの時は、此処ここでもなか/\にぎやかで御座いました。当日は四時間ひまが取れました。クリスマスディナーも御座いまして、なか/\盛んで御座います。皆々上機嫌で、うれしそうで御座います。
学校でもクリスマスにはクリスマスダンスが御座いました。私は生れて初めて真の舞踏会と云うものを見ました。実に優美なもので御座います。夜の八時頃から翌朝の二時か三時までおどって居ります。元気のよいのには、おどろきました。私は夜会服のかわりに日本服を久々で着ました。皆々非常によろこんでくれました。
御正月には休みもなく、元日から常と同じに働きました。御正月には何となく故郷ふるさとがなずかしく、さびしくってたまりませんでした。毎日/\忙わしく働いて居りますから、常にはホームシックも起りませんが、半日ひまの時などは、実にさびしくて堪らぬ事があります。余り私は外出はいたしません。少なくも一週間に一度は出て、外の変った空気をすわねばならぬと知りつゝも、疲れるのがいやなので、つい/\出ません。当地の人は皆元気です。夜十二時に帰っても、翌日はやはり同じに務めます。学校では、一週に一度は十二時までの許しを貰えますし、三度は十一時までの許を貰えますし、常には十時までは何処に行ってもかまわぬようになって居ります。此処は感心で御座います。此の様に自由でも少しも乱れません。日本の女学校などには、見ようと思うても見られぬ処で御座いましょう。
私は今は自分で働いて自分で生活して居りますから、日本に居った時よりも、苦しみながらも、或一種の愉快が御座います。
葛城はユニオンの方も卒業に近づきました。早いもので、三年もつかの間に過ぎ去りました。いつも私共は御なずかしき御両人様おふたりさまの御噂のみいたして居ります。千歳村、実になずかしく思います。
大抵二週間に一度は、逢います。前から私はニューヨークには独りで参れますから、半日暇を取れる時は、二週に一度は参ります。
当地は実に寒さはきびしゅう御座いまして、雪は度々降りますが、家の中の寒防かんぼうはよく備わって居りますから、家の中の温度は、春のような気候で御座います。私はシモヤケは毎年出来ましたが、今年はつめたい思いなどは少しもいたしませんから、手はきれいで、少しも出来ませんから御安心下さいませ。日本に居りました時は、シモヤケには困りました。外は随分寒く、身を切らるゝ様で御座います。雪が降りますと、なか/\けませんで、幾日も/\つもって居ります。
今日も雪模様ですから、午後から降るかもわかりません。
書きたい事は山々御座いますが、また次の便りの時にいたします。
乱筆を御許し下さいませ。日本語を此の頃は話しませんし、只葛城と日本語で話すものですから、乱暴な語ばかり習いまして、いつも余り無礼の語をつかって驚く事が御座います。
何卒どうぞ乱筆乱文御許し下さいませ。
先は御無沙汰御詫びかた/″\御機嫌御伺いまで。
     一月廿日
岩倉けい
   御なつかしき
    御姉上様
        御まえに

 此れがお馨さんの粕谷に寄せた最後の心の波であった。此手紙を書いて十一日目に、彼女は其最後の戦場なる米国ブルックリン病院看護婦学校の病室に二十四年の生涯を終えたのである。
 お馨さんは死んだ。
 新生涯の新夫婦、メェフラワァを目送するピュリタンの若い男女の一対いっついの其一人はけた。残る一人は如何いかがであろう?

一月卅一日午後七時半、最愛の我が馨子高貴なる人生の戦に戦い死す。忠信なりし彼の女は、死に至る迄忠信なりき。病は敗血症と腸炎ちょうえんの併発、事極めて意外、病勢は急転直下、僅かに二十時間にして彼女は去る。
盛大なりし葬式(ユニオン神学校に於ける)は、彼女と予とをとこしえに結ばん為めの結婚の式なりき。多く言わず、唯察し玉え。
     二月三日
勝郎
         *
「日蓮は泣かねど、涙隙無し」と。涙隙無きに止まらず、声を挙げて泣ける事も幾たびぞ。怨み、嘆き、悲しみ、悔い、悩み、如何にしてこの幽闇ゆうあんの力破らんと、空しくあたり見廻わせるも幾度び。……幾度我れ死せば此の苦しみあらざりしものをと思い候。
されど若してい先んぜば、馨子の悲痛は弟にもまさりて激しかりしならんか。弟をして此の憂闇ゆうあんの力を破り得しむるものは、唯一つ馨子生きて之れが為に戦い、死に及んで止まざりし我等の理想也。彼女の短かき生涯は、その一切の瑕瑾かきんと不完全を以てして、遂に人生最高の理想を追い、之れが為めに戦い、戦い半ばならずしてたおれし英雄の生涯也。遂に蜉蝣ふゆうの如き人生は、生きて甲斐なけん。昔者むかしプラトー、ソクラテスの口をして曰わしめて曰く、“It is not mere life, but a good life that we court”と。仮令たとい馨子凱歌の中に光栄の桂冠けいかんいただくを得ざりしにせよ、彼女の生はその畢生ひっせいの高貴なるほのおのあらん限を尽して戦い、戦の途上戦い死せる光栄ある戦死者の生也。此の事、弟をして敬虔けいけん馨子の死の前にぬかずき、無限のインスピレーションをここましむ。
     二月十八日
勝郎

       九

 五月の初、お馨さんが髪と骨になって日本に帰って来た。お馨さんのカタミを連れ帰ったのは、日本に帰化した米国のおんな宣教師せんきょうしで、彼女は横須賀に永住して海軍々人の間に伝道し、葛城も久しく世話になって「マザー」と呼んで居た人で、お馨さんの病死の時は折よく紐育ニューヨークに居合わせ、始終万事の世話をしたのであった。
 五月の四日、粕谷草堂の夫妻は鶴子を連れて、お馨さんの郷里きょうりに於ける葬式につらなるべく出かけた。両国の停車場で、彼等は古びた中折帽を阿弥陀あみだにかぶった、咽喉のどよごれた絹ハンカチを巻いた、金歯の光って眼のするどい、癇癪持かんしゃくもちらしい顔をした外川先生と、強情ごうじょうできかぬ気らしい、日本人の彼等よりも却てヨリ好き日本語をつかうF女史にった。
 いつもの停車場で下りて、一同は車をつらねてかのおかの上の別荘に往っていこい、それから本宅に往った。お馨さんの父者人、母者人と三度目の対面をした。十二畳二間ふたまを打ぬいて、正面の床に遺髪と骨を納めた箱を安置し、昨日から来て葛城の姉さんが亡き義妹の為に作った花環はなわをかざり、また藤なぞ生けてあった。お馨さんは自身の写真と云う写真を残らず破り棄てたそうで、目に見るべき其姿は残って居なかった。然しお馨さんによくた妹達が五人まで居て、其幼な立から二十歳前後を眼の前に見る様であった。外川先生が司会し、お馨さんの学友がオルガンを弾いて、一同讃美歌の「やゝにうつり行く夕日かげの、残るわがいのち、いまか消ゆらん。御使みつかいよ、つばさをのべ、とこしえのふるさとに、つれゆきてよ、……」と云うのを歌うた。
 粕谷の彼はってお馨さんと彼等の干繋かんけいを簡単に述べ、父者人に対して卑怯なる虚言の罪を謝し、終に臨み、お馨さんの早世そうせいはまことに残念だが、自身の妹か娘があるならば、十人は十人矢張お馨さんの様に戦場に送りたいと思うと言った。
 次ぎにF女史が立って、お馨さんの臨終前後の事を述べた。お馨さんは、ブルックリン病院の生徒となって以来、忠実に職分を尽して、校長はじめ先輩、同僚、患者、すべての人の信愛をち得た。発病以来苦痛も中々あったであろうが、一言も不平ふへい憂悶ゆうもんの語なく、何をしてもらっても「有難ありがとう/\」と心から感謝し、信仰と感謝を以て此世を去った。真に見上げた臨終で、校長はじめ一人として其美しい勇ましい臨終に感激せぬ者は無かった。F女史は斯く事細かに語り来って「私も斯様に米国から御国おくにに伝道に参って居りますが、馨子さんの働きを見れば、其働きの間は実にしばらくの間でございましたが、私は恥入る様に思います。馨子さんは実にやさしい方で、其上男も及ばぬ凜々りりしいたましいを持ってお出でした。春の初に咲く梅の花の様な方でした」と云うた。
 言下ごんかに、粕谷の彼は、彼の園内の梅の下に立ち白い花を折って黒髪にすお馨さんの姿をまざまざと眼の前に見た。本当に彼女は人になった梅の花であった。だから其花を折ってかんざしにしたのだ。彼女にして初めて梅の花を簪にすることが出来る。彼は重ねて思うた。米国からF女史が帰化きかして、日本に伝道に来る。日本からお馨さんが米国に往って米国の人達に敬愛されて死ぬる。斯うして日米の間は自然につながれる。お馨さんは常に日米感情の齟齬そごを憂えて居る女であった。日米の親和を熱心に祈って居た女であった。其祈は聴かれて、彼女は米国に死んだ。米国のはいになり米国の土になった彼女は、しんに日本が米国につかわした無位無官の本当の平和の使者つかいの一人であったと。けだしたからの在る所心もまた在る」道理で、お馨さんを愛する程の人は、お馨さんの死んだ米国をおもわずには居られないのである。
 最後に外川先生が師弟の関係を述べ、「彼女は強い女であったが、からだは強健だし、貧乏はしないし、思いやりと云うものが或はける恐れがあった。だから自分は米国渡航を賛成したのであった。自分は考えた、彼女が二三年も米国にまれると、実にエライ女になって来る。然るに今Fさんの言を聞けば、彼女は短かい期間であったが立派に其人格を完成することが出来た。だから死んだのである」と云うた。
 外川先生の祈祷きとうで式は終えた。一同記念の撮影をして、それから遺髪と遺骨を岩倉家の菩提寺ぼだいじの妙楽寺に送った。寺は小山の中腹にある。本堂の背後うしろ、一段高い墓地の大きな海棠かいどうの下に、
岩倉馨子之墓
と云う小さな墓標ぼひょうが立てられた。
           *
 葛城は其後間もなく独逸に渡った。

  千九百十年 六月十八日
             ニューヨーク
本日午後三時当地出帆。
三年苦戦健闘のアメリカを去らんとして感慨強し。闘争は一個微弱なる一少年を化して、兎も角も男を作り候。
馨子を煙とせし北米の空、ふり仰いで涙煙の如く胸をおそう。
勝郎

       十

 生きて居る者は、苦まねばならぬ。死んだお馨さんは、霊になって猶働きつゝあるのだ。
「お馨さんの梅」は、木の生くる限り春毎に咲くであろう。短く此生に生きたお馨さんは、永久に霊に活きて働くであろう。


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     関寛翁

       一

 明治四十一年四月二日の昼過ぎ、妙なじいさんがたずねて来た。北海道の山中に牛馬を飼って居る関と云うじじいと名のる。鼠の眼の様に小さな可愛い眼をして、十四五の少年の様に紅味ばしった顔をして居る。長い灰色の髪を後に撫でつけ、あごちと疎髯そぜんをヒラ/\させ、木綿ずくめの着物に、足駄ばき。年を問えば七十九。強健な老人振りに、主人は先ずを折った。
 兎も角も上にしょうじ、問わるゝまゝにトルストイの消息など話す。爺さんは五十年来実行して居る冷水浴の話、元来医者で今もアイヌや移住民に施療して居る話、数年前物故した婆さんの話なぞして、自分は婆の手織物ほか着たことはない、此も婆の手織だと云って、ごり/\した無地の木綿羽織の袖を引張って見せた。面白い爺さんだと思うた。
 其後「命の洗濯」「旅行日記」「目ざまし草」など追々爺さんから自著の冊子を送って来た。面白い爺さんの一癖も二癖もある正体が読めて来た。経歴の一端も分かった。爺さん姓は関名は寛、天保元年上総国に生れた。貧苦の中から志を立て、佐倉佐藤泰然の門に入って医学を修め、最初銚子に開業し、更に長崎に遊学し、後阿波蜂須賀侯に招かれて徳島藩の医となった。維新の際は、上野の戦争から奥羽戦争まで、官軍の軍医、病院長として、熱心に働いた。順に行けば、軍医総監男爵は造作ぞうさもないことであったろうが、持って生れた骨が兎角邪魔をなして、上官とりが合わず、官に頼って事を為すは駄目と見限りをつけて、阿波徳島に帰り、家禄を奉還して、開業医の生活を始めたのが、明治五年であった。爾来こゝに、孜々ししとして仁術を続け、貧民の施療、小児の種痘なぞ、其数も夥しいものになった。家も相応に富んだ。五男二女、孫も出来、明治三十四年には翁媼おうおんともに健やかに目出度金婚式を祝うた。剛気の爺さんは、此まゝ楽隠居で朽果つるをきらった。札幌農学校に居た四男を主として、北海道の山奥開墾牧場経営を企て、老夫婦は養老費の全部及びいの生命二つを其牧場に投ず可く決心した。婆さんもエラ者である。老夫婦は住み馴れた徳島をあとにして、明治三十五年北海道に移住し、老夫婦自ら鍬をとり鎌をとって働いた。二年を出でずして婆さんは亡くなる。牧場主任の四男は日露戦役に出征する。爺さん一人淋しく牛馬と留守の任に当って居たが、其後四男も帰って来たので、寒中は北海道から東京に出て来て、旧知を尋ね、新識を求め、朝に野に若手の者と談話を交換し意見を闘わすを楽の一として居る。読書、旅行と共に、若い者相手の他流試合は、爺さんの道楽である。旅行をするには、風呂敷包一つ。人を訪うには、初対面の者にも紹介状なぞ持っては往かぬ。先日の来訪も、かたの如く突然たるものであった。
 爺さんが北海道に帰ってからよこした第一の手紙は、十三行の罫紙けいし蠅頭じょうとうの細字で認めた長文の手紙で、農とも読書子ともつかぬ中途半端ちゅうとはんぱな彼の生活を手強く攻撃したものであった。爺さんは年々雁の如く秋は東京に来て春は北に帰った。上京毎にわざ/\来訪して、追々懇意の間柄となった。手ずから採った干薇ほしわらび、萩のステッキ、鶉豆うずらまめなぞ、来る毎に持て来てくれた。或時彼は湘南しょうなんの老父に此爺さんのうわさをしたら父は少し考えて、待てよ、其は昔関寛斎と云った男じゃないかしらん、長崎で脚疾の治療をしてもらったことがある、中々きかぬ気の男で、松本良順など手古摺てこずって居た、と云った。爺さんに聞いたら、果して其は事実であった。其後爺さんは湘南漫遊のみぎり老父がもとに立寄って、八十八の旧患者は八十一の旧医師と互に白鬚を撫して五十年前崎陽の昔を語ると云う一幕があった。所謂縁は異なものである。
 北海道も直ぐ開けて了う、無人境が無くならぬ内遊びに来い遊びに来いと、爺さん頻りにうながす。彼も一度は爺さんの生活ぶりを見たいと思いながら、何や角と延ばして居る内に、到頭爺さんの住む山中まで汽車が開通して了った。そこで彼は妻、女を連れてあたふた武蔵野から北海道へと遊びに出かけた。
 左にかかぐるは、訪問記の数節である。

       二

「北海道十勝の池田駅で乗換えた汽車は、秋雨寂しい利別川としべつがわの谷を北へ北へまた北へ北へとはしって、夕の四時※別りくんべつ[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻-289-15]駅に着いた。明治四十三年九月二十四日、網走あばしり線が※[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻-289-15]別まで開通した開通式の翌々日である。
 今にはじめぬ鉄道の幻術げんじゅつ、此正月まで草葺の小屋一軒しかなかったと聞く※[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻-290-1]別に、最早もう人家が百戸近く、旅館の三軒料理屋が大小五軒も出来て居る。開通即下のごったかえす※[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻-290-2]別館の片隅で、いわいの赤飯で夕飯を済まし、人夫の一人に当年五歳の女児鶴、一人に荷物を負ってもらい、余等夫婦洋傘をしてあとにつき、斗満とまむの関牧場さして出かける。
 新開町しんかいまちの雑沓を後にして、道は直ぐ西にあお黄昏たそがれけむりに入った。やがて橋を渡る。※[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻-290-5]別橋である。開通を当に入り込んだ人間が多く仕事が無くて困ると云う人夫のはなしを聞きながら、滑りがちな爪先上りの路を、懐中電燈の光に照らして行く。雨はんで、日はとっぷり暮れた。不図耳に入るものがある。颯々さあさあ――颯々と云う音。はっとして余は耳を立てた。松風まつかぜか。いや、松風でない。峰の嵐でもない。水声すいせいである。余は耳を澄ました。何と云うさわやかな音か。此世の声で無い。確に別天地からかようて来る、聴くまゝに耳澄み心澄み魂も牽き入れらるゝ様ななつかしいである。人夫にきくと、果して斗満川とまむがわであった。やがて道は山側やまばたをめぐってだら/\下りになった。水声の方からぱっと火光あかりがさす。よく見れば右側山の手に家がある。道の左側にも家がある。人の話声はなしごえがして止んだ。此だな、と思って音なわすと、道側のひくい草葺の中から真黒な姿がぬっと出て「東京のお客さんじゃありませんか。御隠居が毎日御待兼ねです」と云って、先に立って案内する。水声にす橋を渡って、長方形の可なり大きな建物に来た。導かるゝまゝにドヤ/\戸口から入ると、まぶしい洋燈らんぷの光に初見の顔が三つ四つ。やがて奥から咳払せきばらいと共に爺さんが出て来た。
「おゝ鶴坊来たかい。よく来た。よく来た」

           *

 九月二十五日。雨。
 爺さんでは長過ぎる。不躾ぶしつけでもある。あらためて翁と呼ぶ。翁が今住んで居る家は、明治三十九年に出来た官設の駅逓えきていで、四十坪程の質素な木造。立派ではないが建てはなしの納屋、浴室、窖室あなぐらもあり、裏に鶏を飼い、水も掘井戸ほりいど、山から引いたのと二通りもあって、贅沢ぜいたくはないが不自由もない住居だ。翁は此処に三男余作君、牧場創業以来の老功ろうこう片山八重蔵君夫婦、片山夫人の弟にして在郷軍人たる田辺新之助君、及び其病妹と共に住んで居る。此処は十勝で、つい川向うが釧路、創業当時の草舎も其の川向かわむかいにあって、今四男又一君が住んで居る。駅逓の前は直ぐ北見街道、其向うは草叢くさむらひらいて牛馬舎一棟、人の住むひく草舎くさやが一棟。道側に大きなヤチダモが一樹黄葉して秋雨あきさめらして居る。
 駅逓東南隅の八畳が翁の居間である。硝子窓がらすまどから形ばかりらちを結った自然のまゝの小庭こにわや甘藍畑を見越して、黄葉のウエンシリ山をつい鼻のさき見る。小机一つ火の気の少ない箱火鉢一つ。床には小杉こすぎ榲邨おんそんの「淡きもの味はへよとの親こゝろ共にしのびて昔かたらふ」と書いた幅を掛けてある。翁は今日も余等が寝て居る内に、山から引いた氷の様な水を浴び、香をいて神明に祈り、机の前に端座たんざして老子を読んだのである。老子は翁の心読書、其についでは創世記、詩篇、約百記ヨブきなぞも愛読書目の中にある。アブラハム、ヤコブなぞ遊牧族ゆうぼくぞくの老酋長の物語は、十勝の山中に牛馬と住むが境涯に引くらべて、殊に興味が深いのであろう。
 おちつけよとの雨が終日降りくらす。翁の室と板廊下一つ隔てた街道側の八畳にくつろいで居ると、翁は菓子、野葡萄、玉蜀黍、何くれと持て来ては鶴子にも余等にも与え、小さな炉を中に、黒い毛繻子の前掛の膝をきちんと座って、さま/″\の話をする。昔からタヾの医者でなかった翁の所謂灌水は単に身体の冷水浴をのみ意味せぬ如く、治術も頗活機に富んだもので、薬でなくてはならぬときめこんだ衆生の為に、徳島に居た頃は不及飲ふぎゅういんと云う水薬を調合し、今も待効丸と云う丸薬を与えるが、其れが不思議によくくそうだ。然し翁の医術はゴマカシではない。此を見てくれとさし出す翁の右手をよく見れば、第三指のさきが左の方に向って鉤形かぎなりに曲って居る。打診だしんに精神がこもる証拠だ。乃公わしの打診は何処をたゝいても患者の心臓しんぞうにピーンと響く、と云うのが翁の自慢である。やがて翁は箱の様なものをかかえて来た。関家の定紋九曜をりぬいた白木のがんで、あなたが死ぬ時一処に牧場ぼくじょうに埋めて牛馬の食う草木を肥やしてくれと遺言した老夫人の白骨は、此中に在るのだ。翁も夫人には一目置いて、婆は自分よりエラかったと口癖の様に云う。それから五郎君の噂が出る。五郎君は翁の末子である。明治三十九年の末から四十年の始にかけ、余は黒潮こくちょうと云う手紙代りの小さな雑誌を出したが、其内田舎住居をはじめたので、三号迄も行かぬ二号雑誌に終った。あとを催促の手紙が来た中に、北海道足寄あしょろ郵便局の関五郎と云う人もあって、手紙に添えて黒豆なぞ送って来た。通り一遍の礼状を出したきり、関とも五郎とも忘れて居ると、翌年関又一と云う人から五郎君死去の報が来た。形式的に弔詞は出したが、何れの名も余には遠いものであった。処があとで関翁の話を聞けば、思いきや五郎君は翁の末子で、翁が武蔵野の茅舎ぼうしゃを訪われたのも、実は五郎君のすすめであった。要するに余等は五郎君の霊に引張られて今此処に来て翁と対座して居るのである。
 翁は一冊の稿本を取り出して来て示される。題して関牧場創業記事と云う。ひらいて見ると色々面白い事がある。牧場も創業以来已に十年、汽車も開通して、万事がこゝに第二期に入らんとして居る。既往を思えば翁も一夢の感があろう。翁はまた此様なものを作ったと云って見せる。場内の農家にわか刷物すりものである。
    日々の心得の事
一 一家和合なかよくして先祖を祭り老人としよりを敬うべし
一 朝は早く起き家業に就き夜は早くにつくべし
一 諸上納しょじょうのうは早く納むべし
一 金銭取引の勘定かんじょうは時々致すべし
一 他人と寄合よりあいの時或は時間ときの定ある時は必ず守るべし
一 何事にても約束ある上は必ず実行すべし
一 偽言うそは一切いうべからず
一 火の要心を怠るべからず
一 掃除そうじに成丈注意すべし
一 流し元と掃溜はきだめとは気をつけて衛生に害なきよう且肥料こやしにすべき事
一 家具の傷みと障子の切張とに心付くべし
一 喰物くいものはむだにならぬ様に心を用い別して味噌と漬物とは用いたる跡にも猶心を用うべし
一 他人より物をもらいたる時は返礼を忘るべからず
一 買物は前以てねだんを聞き現金たるべし一厘にてもむだにならぬ様にすべし
一 総て身分より内輪に諸事に心懸くべし人を見さげぬ様に心懸くべし
一 常着つねぎは木綿筒袖たるべし
一 種物は成るべく精撰して取るべし
一 農具はさびぬ様に心懸くべし
一 貯金は少しずつにても怠るべからず
一 一ヶ年の収入に応じて暮方を立つべし
一 一家の経済は家族一同に能く知らせ置くべし
一 他人ひとの子をも我子にくらべて愛すべし
一 他人より諸品しなものを借りたる時は早く返すことに心がくべし
一 場内の農家は互に諸事を最も親しくすべし
一 平生自己の行に心を尽すべし且世上に対すべし
    明治四十三年

 翁はもと/\我利がりから広大の牧場地を願下げたと思わるゝをしんから嫌って、目下場内の農家がまだ三四戸に過ぎぬのをいたく慙じ、各十町を所有する中等自作農をせめて百戸は場内に入るべく切望して居る。
 午後アイヌが来たと呼ばれるので、台所に出て見る。アツシを着た四十左右の眼の鋭い黒髯こくぜん蓬々たる男が腰かけて居る。名はヱンデコ、翁の施療せりょうを受けに利別としべつから来た患者の一人だ。此馬鹿野郎、何故なぜもっと早く来ぬかと翁が叱る。アイヌはキマリ悪るそうに笑って居る。着物をぬいで御客様に毛だらけのはだを見せろ、と翁が云う。からだくさいからとモジ/\するのを無理やりに帯解かせる。上半身があらわれた。正に熊だ。腹毛はらげ胸毛むなげはものかは、背の真中まで二寸ばかりの真黒な熊毛がもじゃ/\うずまいて居る。余も人並はずれて毛深い方だが、此アイヌに比べては、中々足下にも寄れぬ。熟々つくづく感嘆して見惚みとれる。翁は丁寧に診察を終って、白や紫沢山の薬瓶やくびんが並んだ次の間に調剤ちょうざいに入った。
 河西支庁の測量技手が人夫を連れて宿泊に来たので、余等は翁の隣室の六畳に移る。不図硝子窓から見ると、庭の楢の切株に綺麗きれい縞栗鼠しまりすが来て悠々と遊んで居る。開けたと云っても、まだ/\山の中だ。
 四時過ぎになると、翁の部屋で謡がはじまった。「今を初の旅衣――」ポンと鼓が鳴る。高砂だ。謡も鼓もあまり上手とも思われぬが、毎日午後の四時にかゆ二椀を食って、然る後高砂一番を謡い、日が暮るゝと灌水かんすいして床に入るのが、翁の常例だそうな。
 夕飯から余等も台所の板敷で食わしてもらう。食後台所の大きな暖炉を囲んで、余作君片山君夫婦と話す。余作君は父翁の業を嗣いで医者となり、日露戦後哈爾賓ハルピンで開業して居たが、此頃は牧場分担の為め呼ばれて父翁の許に帰って居る。片山君は紀州の人、もと北海道鉄道に奉職し、後関家に入って牧場の創業に当り、約十年斗満の山中に努力して、まだ東京の電車も知らぬと笑って居る。夫妻に子供が無い。少し痘痕あばたある鳳眼にして長面の片山君は、銭函ぜにばこの海岸で崖崩れの為死んだ愛犬の皮を胴着にしたのを被て、手細工らしい小箱から煙草をつまみ出しては長い煙管でふかしつゝ、悠然とストーブの側に胡踞あぐらかき、関翁が婆ァ婆ァと呼ぶほおげたきかぬ気らしい細君は、モンペはかまをはいて甲斐□□しく流しもとに立働いて居ると、隅の方にはよく兎を捕ると云う大きな猫の夫婦が箱の中に共寝して居る。話上手の片山君から創業時代の面白い話を沢山に聞く。※別りくんべつ[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻-296-11]は古来鹿の集る所で、アイヌ等が鹿を捕るに、係蹄わなにかゝった瘠せたのは追放し、肥大なやつばかり撰取りにして居たそうだ。さけますやまべなぞは持ちきれぬ程釣れて、草原にうっちゃって来ることもあり、銃を知らぬ山鳥はうてば落ちうてば落ちして、うまいものゝためしにもなる山鳥の塩焼にもいて了まった。たゞ小虫の多いは言語道断で、蛇なぞは人をくることを知らず、追われても平気にのたくって居たそうな。寒い話では、鍬の刃先はさきにはさまった豆粒まめつぶを噛みに来た鼠の舌が鍬に氷りついたまゝ死に、鼠をげると重たい開墾かいこんぐわがぶらり下ってもはなれなかった話。哀れな話では、十勝から生活のたつきを求めて北見に越ゆる子もちの女が、食物に困って山道に捨子した話。寂しい話では、片山夫人が良人おっとの留守中犬を相手に四十日も雪中斗満の一つ家に暮らし、四十日間に見た人間の顔とては唯アイヌが一人通りかゝりに寄ったと云う話。不便な話では、牧場は釧路十勝に跨るので、斗満から十勝の中川郡本別村ほんべつむらの役場までの十余里はまだいいとして、釧路の白糠しらぬか村役場までは足寄を経て近道の山越えしても中途露宿して二十五里、はがき一枚の差紙さしがみが来てものこ/\出かけて行かねばならなかった話。ちんな話ではつい其処の斗満川原で、鶺鴒せきれいが鷹の子育てた話。話から話と聞いて居ると、片山君夫婦がねたましくなった。片山君も十年精勤の報酬の一部として、牧場内の土地四十余町歩を分与され、これから関家を辞して自家生活の経理にかゝるのであるが、過去十年関家に尽した創業の労苦の中に得た程の楽は、中々再びし難いかも知れぬ。
 九月廿六日。はれ
 翁の縁戚の青年君塚貢君の案内で、親子三人※別りくんべつ[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻-297-11]の方に行って見る。斗満橋を渡ると、街道の北側に葭葺の草舎が一棟。明治三十五年創業の際建てた小屋だ、と貢君説明する。今は多少の修補をして、又一君と其縁戚の一少年とが住んで居る。直ぐ其側に二十坪程の木羽葺こっぱぶきの此山中にしては頗立派なまだ真新しい家が、戸をしめたまゝになって居る。此は関翁の為に建てられた隠宅だが、隠居嫌の翁は其を見向きもせずして寧駅逓に住み、台所の板敷にストーブを囲んで一同と黍飯きびめしを食って居るのである。道をはさんで、粗造な牛舎や馬舎が幾棟、其処らには割薪わりまきが山のように積んである。此辺はわらびを下草にしたならの小山を北に負うて暖かな南向き、斗満の清流直ぐそばを流れ、創業者の住居に選びそうな場所である。山角やまはなをめぐって少し往くと、山際やまぎわに草葺のあばらがある。片山君等が最初に建てた小舎だが、便利のわるい為め見すてゝ川側かわはたに移ったそうな。何時の間にか※別谷りくんべつだに[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻-298-3]別橋に来た。先夜は可なりあるように思ったが、駅逓えきていから十丁には過ぎぬ。聞けば、関牧場は西の方ニオトマムの辺から起って、斗満の谷を川と東へ下り、※[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻-298-4]別川クンボベツ川斗満川の相会する※[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻-298-5]を東のトマリとして南に折れ、三川合して名をあらためて利別川としべつがわの谷を下って上利別原野の一部に及び、云わば一大いちだい鎌状かまなりをなして、東西四里、南北一里余、三千余町歩、※別駅りくんべつえき[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻-298-7]別停車場及※[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻-298-7]別市街も其内にある。鉄道院では、池田駅高島駅等附近の農牧場所有者の姓氏を駅の名に附する先例により、今の停車場も関と命名すべく内意を示したが、関翁が辞して※[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻-298-8]となったそうな。市街は見ず、橋から引返えす。帰路斗満橋上に立って、やゝ久しく水の流を眺める。此あたり川幅かわはば六七間もあろうか。※[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻-298-10]別橋からながむる※[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻-298-10]別川の川床荒れて水の濁れるに引易ひきかえ、斗満川の水の清さ。一個々玉をあざむこいしの上を琴の相の手弾く様な音立てゝ、金糸と閃めく日影ひかげみだしてはしり行く水の清さは、まさしく溶けて流るゝ水晶である。「千代かけてそゝぎ清めん我心、斗満とまむの水のあらん限りは」と翁の歌が出来たも尤である。貢君の話によれば、斗満川の水温は※[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻-298-14]別川の其れより三四度も低いそうな。人跡到らぬキトウス山の陰から来るのだ。もあろう。今こそ駅逓には冬も氷らぬ清水しみずが山から引かれてあるが、まだ其等の設備もなかった頃、翁の灌水は夏はもとより冬も此斗満川でやったのだ。此斗満の清流が数尺の厚さに氷結した冬の暁、爛々たる曙の明星の光を踏んで、浴衣ゆかた一枚草履ばきで此川辺に下り立ち、おので氷を打割って真裸に飛び込んだ老翁の姿を想い見ると、畏敬の情は自然に起る。
 駅逓に帰って、道庁技師林常夫君に面会。駒場こまばの壮年の林学士。目下ニオトマムに天幕てんまくを張って居る。明日関翁と天幕訪問の約束をする。
 昨夕来泊した若年じゃくねんの測量技手星正一君にも面会。星君が連れた若い人夫が、食饌のあと片付、掃除、何くれとまめ/\しく立働くを、翁は喜ばしげに見やって、声をかけ、感心だとめる。
 午後は親子三人、此度は街道を西南に坂を半上って、牧場の埒内らちないに入る。東向きの山腹、三囲みかかえ四囲よかかえもあるならの大木が、幾株も黄葉の枝を張って、其根もとに清水がいたりして居る。馬牛の群の中を牛糞をけ、馬糞をまたぎ、牛馬舎の前を通って、斗満川に出た。少し川辺に立って居ると、小虫が黒糠くろぬかの様にたかる。関翁が牧場記事の一節もうなずかれる。左程大くはないと云ってもたけ六尺はあるふきや、三尺も伸びたよもぎ、自然生の松葉独活アスパラガス、馬の尾についてえると云う山牛蒡、反魂香と云う七つ葉なぞが茂って居る川沿いのこみちを通って、斗満橋のたもとに出た。一坪程の小さな草舎くさやがある。屋後うしろには熊の髑髏あたまの白くなったのや、まだ比較的なましいのを突きしたさお、熊送りに用うるアイヌの幣束イナホなどが十数本、立ったり倒れたりして居る。此は関家で熊狩くまがりやとって置くアイヌのイコサックルが小屋で、主は久しく留守なのである。のぞいて見ると、小屋の中は薄暗く、着物の様なものが片隅に置いてある。昔は置きっぱなしで盗まるゝと云う様な事はなかったが、近来人が入り込むので、何時かも大切の鉄砲を盗まれたそうだ。(イコサックルは何を悲観したのか、大正元年の夏多くの熊を射た其鉄砲で自殺した。)
 駅逓にはいる時、大勢の足音がする。見れば、巨鋸おおのこや嚢を背負い薬鑵をげた男女が、幾組も/\西へ通る。三井の伐木隊ばつぼくたいである。富源の開発も結構だが、ならはオークの代用に輸出され、エゾ松トヾ松は紙にされ、胡桃くるみは銃床に、ドロはマッチの軸木じくぎになり、樹木の豊富を誇る北海道の山も今に裸になりはせぬかと、余は一種猜忌さいきの眼を以て彼等を見送った。
 夕方台所が賑やかなので、出て見る。真白に塗った法界屋ほうかいやの家族五六人、茶袋を手土産に、片山夫人と頻に挨拶に及んで居る。やがて月琴げっきんを弾いてさかんおどった。
 夕食にまぐろ刺身さしみがつく。十年ぶりに海魚うみざかなの刺身を食う、と片山さんが嘆息する。汽車の御馳走だ。
 要するに斗満も開けたのである。
 九月二十七日。美晴。
 今日は斗満の上流ニオトマムに林学士りんがくし天幕てんとう日である。朝の七時関翁、余等夫妻、草鞋ばきで出掛ける。鶴子は新之助君がおぶってくれる。貢君は余等の毛布や、関翁から天幕へみやげ物の南瓜とうなす真桑瓜まくわうり玉蜀黍とうもろこし甘藍きゃべつなぞを駄馬だばに積み、其上に打乗って先発する。仔馬こうまがヒョコ/\ついて行く。又一君も馬匹ばひつを見がてら阪の上まで送って来た。
 阪を上り果てゝ、かこいのトゲつき鉄線はりがねくぐり、放牧場を西へ西へと歩む。赭い牛や黒馬が、親子友だち三々伍々、れ離れ寝たり起きたり自在じざいに遊んで居る。此処ここはアイヌ語でニケウルルバクシナイと云うそうだ。平坦へいたん高原こうげんの意。やゝ黄ばんだならかしわの大木が処々に立つ外は、打開いた一面の高原霜早くして草皆枯れ、彼方あち此方こちひくむらをなすはぎはすがれて、馬の食い残した萩の実が触るとから/\おとを立てる。此萩の花ざかりにこまの悠遊する画趣がしゅが想われ、こんな所に生活する彼等が羨ましくなった。そこで余等も馬におとらじと鼻孔びこうを開いて初秋高原清爽の気を存分ぞんぶんいつゝ、或は関翁と打語らい、或はもくして四辺あたりの景色を眺めつゝ行く。南の方は軍馬ぐんば補充部ほじゅうぶの山又山狐色の波をうち、北は斗満の谷一帯木々の色すでに六分の秋をめて居る。ふりかえって東を見れば、※別谷りくんべつだに[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻-301-6]しきるヱンベツの山々をまえて、釧路くしろ雄阿寒おあかん雌阿寒めあかんが、一はたけのこのよう、他は菅笠すげがさのようななりをして濃碧の色くっきりと秋空に聳えて居る。やゝ行って、倒れた楢の大木に腰うちかけ、一休ひとやすみしてまた行く。高原漸くせまって、北の片岨かたそばには雑木にまじって山桜やまざくらの紅葉したのが見える。桜花さくら見にはいつも此処へ来る、と関翁語る。
 やがて放牧場の西端に来た。直ぐ眼下めした白樺しらかば簇立ぞくりつする谷がある。小さな人家一つ二つ。煙が立って居る。それからずっと西の方は、斗満上流の奥深く針葉樹しんようじゅを語る印度藍色インジゴーいろの山又山重なり重なって、秋の朝日に菫色すみれいろ微笑えみを浮べて居る。余等はやゝ久しく恍惚こうこつとして眺め入った。あゝ彼の奥にこそ玉の如き斗満の水源はあるのだ。「うき事に久しく耐ふる人あらば、共に眺めんキトウスの月」と関翁の歌うた其キトウスの山は、あの奥にあるのだ。しかして関翁の夢魂むこん常に遊ぶキトウス山の西、石狩岳十勝岳の東、北海道の真中に当る方数十里の大無人境は、其奥の奥にあるのだ。翁の迦南カナン其処そこにある。創業から創業に移る理想家の翁にとって、汽車が開通した※[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻-301-16]別なんぞは最早もう久恋きゅうれんの地では無い。其身斗満の下流に住みながら、翁の雄心ゆうしんはとくの昔キトウスの山を西に越えて、開闢かいびゃく以来人間を知らぬ原始的大寂寞境の征服にせて居る。共に眺めんキトウスの月、翁は久しくキトウスの月を共に眺むる人を求めて居る。若い者さえ見ると、胸中きょうちゅうをほのめかす。此日放牧場の西端に立って遙に斗満とまむ上流の山谷さんこくを望んだ時、余は翁が心絃しんげんふるえをせつないほど吾むねに感じた。
 鉄線はりがねくぐって放牧場を出て、谷に下りた。関牧場はこれから北へ寄るので、此れからニオトマムまでは牧場外を通るのである。善良な顔をした四十余の男と、十四五の男児むすこと各裸馬はだかうまに乗って来た。関翁が声をかける。路作りかた/″\※別りくんべつ[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻-302-7]まで買物に行くと云う。三年前入込んだ炭焼すみやきをする人そうな。やがて小さな流れに沿熊笹葺くまざさぶきの家に来た。炭焼君の家である。白樺しらかばの皮をかべにした殖民地式の小屋だが、内は可なりひろくて、たたみを敷き、奥に箪笥たんす柳行李やなぎごうりなどならべてある。妻君かみさんい顔をして居る。囲炉裏側いろりばたに腰かけて渋茶しぶちゃ馳走ちそうになって居ると、天幕から迎いの人夫が来た。
 茶を飲みながらふと見ると、壁の貼紙はりがみに、彼岸会ひがんえ説教せっきょう斗満寺とまむじと書いてある。斗満寺! 此処ここ其様そんなお寺があるのか。えゝありますと云う。折りからさきに馬に乗ってた子の弟が二人、本をかかえて其お寺から帰って来たので、早速案内を頼む。白樺の林の中を五六丁行くと、所謂いわゆるお寺に来た。此はまた思い切って小さな粗造そぞうな熊笹葺き、手際悪てぎわわるく張った壁の白樺赤樺あかかばの皮はっくりかえって居る。関翁を先頭せんとうにどや/\入ると、かたばかりのゆか荒莚あらむしろを敷いて、よごれた莫大小めりやすのシャツ一つた二十四五の毬栗頭いがぐりあたまの坊さんが、ちょこなんとすわって居る。うしろに、細君であろ、十八九のひっつめにって筒袖つつそで娘々むすめむすめした婦人が居る。土間には、西洋種の瓢形ふくべがた南瓜かぼちゃや、馬鈴薯じゃがいもうずたかく積んである。奥の壁つきには六字名号みょうごうふくをかけ、御燈明おとうみょうの光ちら/\、真鍮しんちゅう金具かなぐがほのかに光って居る。みょうむねせまって来た。紙片しへんと鉛筆を出して姓名を請うたら、斗満大谷派説教場創立係世並よなみ信常しんじょう、と書いてくれた。朝露のは子供にほんを教え、それから日々夫婦で労働して居るそうだ。御骨も折れようが御辛抱ごしんぼうなさい、急いで立派な寺なぞ建てないで、と云ってわかれを告げる。戸外そとに紫の蝦夷菊えぞぎくが咲いて居た。あとで聞けば、坊さんは越後者えちごものなる炭焼小屋の主人あるじが招いたので、去年も五十円から出したそうだ。檀家だんか一軒のお寺もゆかしいものである。
 樺林かばばやしひらいて、また一軒、熊笹と玉蜀黍とうもろこしからいた小舎こやがある。あたりにはかばったり焼いたりして、きびなど作ってある。関翁が大声で、「婆サン如何どうしたかい、何故なぜ薬取りに来ない?」と怒鳴どなる。じいさんが出て来て挨拶する。婆さんは留守だった。十一二の男児むすこが出て来る。翁は其肩をたゝき顔をのぞき込むようにして「如何どうだ、せきじいってるか。ウム、識ってるか」子供がにこ/\笑う。路は樺林をぬけて原に出る。霜枯れた草原に、野生やせい松葉独活アスパラガスが紅玉をちりばめて居る。不図白木の鳥居とりいが眼についた。見れば、子供がかかえて行ってしまいそうな小さな荒削あらけずりのほこらが枯草の中に立って居る。誰が何時いつ来て建てたのか。誰が何時来ておがむのか。西行さいぎょうならばたしかに歌よむであろ。歌も句もなく原を過ぎて、がけの下、小さなながれ沿うてまた一つ小屋がある。これが斗満最奥さいおく人家じんかで、駅逓えきていから此処ここまで二里。最後の人家を過ぎてしばらく行く程に、イタヤの老樹ろうじゅが一株、大分紅葉もみじした枝を、ふり面白くさしべて居る小高いおかに来た。少し早いが此処で昼食ちゅうじきとする。人夫がふきの葉やよもぎ熊笹くまざさ引かゞってイタヤのかげに敷いてくれたので、関翁、余等夫妻、鶴子も新之助君のせなかから下りて、一同草の上に足投げ出し、梅干うめぼしさい握飯にぎりめしを食う。流れは見えぬが、斗満とまむ川音かわおとは耳さわやかに、川向うに当る牧場内ぼくじょうないの雑木山は、の日をうけて、黄に紅に緑にえて居る。やがてこゝを立って小さな渓流けいりゅうを渡る時、一同石にひざまずいて清水しみずをむすぶ。
 最早もう人気ひとけは全く絶えて、近くなる時斗満の川音を聞くばかり。たかなぞ落ちて居る。みちまれに渓流を横ぎり、多く雑木林ぞうきばやし穿うがち、時にじめ/\した湿地ヤチを渉る。先日来の雨で、処々に水溜みずたまりが出来て居るが、天幕てんとの人達が熊笹を敷き、丸木まるきわたしなぞして置いて呉れたので、大に助かる。関翁は始終しじゅう一行いっこう殿しんがりとして、股引ももひき草鞋わらじしりひきからげてつえをおともにてく/\やって来る。足場の悪い所なぞ、思わず見かえると、あと見るな/\と手をふって、一本橋にも人手をらず、堅固けんごに歩いて来る。斯くて四里をあゆんで、午後の一時渓声けいせい響く処に鼠色ねずみいろ天幕てんまくが見えた。林君以下きながしのくつろいだ姿で迎える。
 斗満川辺の少しばかりの平地をひらいて、天幕が大小六つ張ってある。アイヌの小屋も一つある。はやし林学士を統領とうりょうとして、属員ぞくいん人夫にんぷアイヌ約二十人、此春以来此処ここ本陣ほんじんとして、北見界きたみざかいかけ官有針葉樹林しんようじゅりんの調査をやって居るのである。別天地の小生涯しょうせいがい川辺かわべ風呂ふろ炊事場すいじばを設け、林の蔭に便所をしつらい、麻縄あさなわを張って洗濯物をし、少しの空地あきちには青菜あおなまで出来て居る。
 茶の後、直ぐ川を渡って針葉樹林の生態せいたいを見に行く。はばけん程の急流に、ならの大木が倒れて自然に橋をなして居る。幹を踏み、こずえを踏み、終に枝を踏む軽業かるわざ、幸に関翁も妻も事なく渡った。水際みぎわの雑木林に入ると、「あゝ誰れか盗伐とうばつをやったな」と林学士が云う。胡桃くるみってある。木の名など頻に聞きつゝ、針葉樹林に入る。此林特有の冷気がすうと身をつつむ。蝦夷松えぞまつ椴松とどまつ、昔此辺の帝王ていおうであったろうと思わるゝ大木たおれて朽ち、朽ちた其木のかばねから実生みしょう若木わかぎ矗々すくすくと伸びて、若木其ものがけい一尺にあまるのがある。サルオガセがぶら下ったり、山葡萄やまぶどうからんだり、それ自身じしん針葉樹林の小模型しょうもけいとも見らるゝ、りょくかつおう、さま/″\の蘚苔こけをふわりとまとうて居るのもある。其間をトマムの剰水あまり盆景ぼんけい千松島ちまつしまと云った様な緑苔こけかたまりめぐって、流るゝとはなく唯硝子がらすを張った様に光って居る。やがてふもとに来た。見上ぐれば、蝦夷松椴松みねみねへといやが上に立ち重なって、日の目もれぬ。此辺はもうせき牧場ぼくじょうの西端になっていて、りんは直ちに針葉樹の大官林につゞいて居るそうだ。此永劫の薄明うすあかりの一端にたたずんで、果なくつゞく此深林の奥の奥を想う。林学士は斯く云うた、北見、釧路、十勝にまたがる針葉樹の処女林しょじょりんには、アイヌを連れた技師技手すら、踏み迷うて途方とほうに暮るゝことがある、其様そんな時には峰をじ、峰にひいずる蝦夷松椴松の百尺もある梢にましらの如く攀じのぼり、展望して方向をきめるのです、と。突然銃声じゅうせいが響いた。唯一発――あとはまたしんとなる。日光恋しくなったので、ここから引返えし、林の出口でサビタの杖などってもらって、天幕に帰る。
 勝手元かってもと御馳走ごちそう仕度したくだ。人夫がって来た茶盆大ちゃぼんだい舞茸まいたけは、小山の如くむしろまれて居る。やがて銃をうてアイヌが帰って来た。腰には山鳥やまどりを五羽ぶら下げて居る。また一人川下かわしもの方から釣棹つりざお肩に帰って来た。やまべ釣りに往ったのだ。やがてまた一人銃を負うて帰った。人夫が立迎えて、「何だ、たった一羽か」と云う。此も山鳥。先刻さっき聞いた銃声じゅうせいはてなのであろう。火をく、味噌みそる、魚鳥ぎょちょうを料理する、男世帯おとこじょたいの目つらをつかむ勝手元の忙しさを傍目よそめに、関翁はじめ余等一同、かわる/″\川畔かわばたに往って風呂の馳走ちそうになる。荒削あらけずりの板を切り組んだ風呂で、今日は特に女客おんなきゃくの為め、天幕てんまくのきれを屏風びょうぶがわりにれてある。好い気もちになって上ると、秋の日は暮れた。天幕にはつりランプがつく。外はかば篝火かがり真昼まひるの様に明るい。余等の天幕の前では、地上にかん/\炭火すみびおこして、ブツ/\切りにした山鳥や、尾頭おかしらつきのやまべ醤油したじひたしジュウ/\あぶっては持て、炙っては持て来る。煮たのも来る。舞茸まいたけ味噌汁みそしるが来る。焚き立ての熱飯あつめしに、此山水の珍味ちんみえて、関翁以下当年五歳の鶴子まで、健啖けんたん思わず数碗すうわんかさねる。
 日はもうとっぷり暮れて、斗満とまむの川音が高くなった。幕外そとは耳もきれそうな霜夜しもよだが、帳内ちょうないは火があるので汗ばむ程の温気おんき。天幕の諸君はなおも馳走に薩摩さつま琵琶びわを持出した。十勝の山奥に来て薩摩琵琶とは、思いかけぬ豪興ごうきょうである。弾手ひきて林学士りんがくしが部下の塩田君しおだくん鹿児島かごしま壮士そうし。何をと問われて、取りあえず「城山しろやま」を所望しょもうする。今日きょうは九月二十七日、城山没落ぼつらくは三十三年前の再昨日さいさくじつであった。塩田君はやおら琵琶をかかえ、眼を半眼はんがんに開いて、がい一咳。外は天幕総出で立聞く気はい。「れ――達人たつじんは――」声はいさゝかふるえて響きはじめた。余は瞑目めいもくして耳をすます。「大隅山おおすみやまかりくらにィ――真如しんにょつきの――」弾手は蕭々しょうしょうと歌いすゝむ。「何をいかるやいかの――にわかげきする数千突如とつじょとして山くずれ落つ鵯越ひよどりごえ逆落さかおとし、四絃しげんはし撥音ばちおと急雨きゅううの如く、あっと思う間もなく身は悲壮ひそう渦中かちゅうきこまれた。時は涼秋りょうしゅうげつ、処は北海山中の無人境、篝火かがりびを焚く霜夜の天幕、まくそとには立聴くアイヌ、幕の内には隼人はやと薩摩さつま壮士おのこ神来しんらいきょうまさにおうして、歌ゆる時四絃続き、絃黙げんもくす時こえうたい、果ては声音せいおん一斉いっせい軒昂けんこう嗚咽おえつして、加之しかも始終しじゅう斗満川とまむがわ伴奏ばんそう。手をひざに眼をじて聴く八十一のおきなをはじめ、皆我を忘れて、「戎衣よろいそでをぬらしうらん」と結びの一句ひくむせんで、四絃一ばつ蕭然しょうぜんとしてきょく終るまで、息もつかなかった。讃辞さんじ謝辞しゃじ口をいて出る。天幕の外もさゞめいた。きょう未だ尽きぬので、今一つ「墨絵すみえ」の曲を所望する。終って此興趣きょうしゅ多い一日の記念に、手帳を出して関翁以下諸君の署名を求める。
 それから話聞くべくアイヌを呼んでもらう。御召おめしにつれて髭顔ひげがお二つランプの光にあらわれ、天幕の入口に蹲踞そんこした。若い方は、先刻さっき山鳥五羽うって来た白手しらで留吉とめきち、漢字で立派に名がかけて、話も自由自在なハイカラである。一人は、胡麻塩髯ごましおひげ胸にるゝ魁偉おおきなアイヌ、名は小川おがわヤイコク、これはあまり口がけぬ。アイヌの信仰しんこう葬式そうしきの事、二三風習ふうしゅうの質問などして、最後に、日本人シャモに不満な点はと問うたら、ヤイコクは重い口から「日本人シャモのゴロツクがイヤだ」とき出す様に云った。ゴロツクは脅迫きょうはくの意味そうな。乳呑子ちのみご連れたメノコが来て居ると云うので、二人と入れ代りに来てもらう。眼に凄味すごみがあるばかり、れい刺青いれずみもして居らず、毛繻子けじゅすえりがかゝった滝縞たきじま綿入わたいれなぞ着て居る。名もお花さんと云うそうだ。妻が少し語をまじえて、何もないのでむらさきメレンスの風呂敷ふろしきをやった。
 惜しい夜もけた。手をきよめに出て見ると、樺の焚火たきびさがって、ほの白いけむりげ、真黒な立木たちきの上には霜夜の星爛々らんらんと光って居る。何処どこかの天幕でぱっと火光あかりがさして、黒い人影が出て来たが、直ぐ入ってしまった。川音が颯々さあさあと嵐の様にひびく。持て来た毛布までかさねて、関翁と余等三人、川音を聞き/\おもむき深い天幕の夢を結んだ。
 九月二十八日。微雨。
 関翁は起きぬけに川に灌水かんすいかれた。
 朝飯後、天幕の諸君に別れて帰路にく。成程なるほどニオトマムは山静に水清く、関翁が斗満とまむを去って此処に住みたく思うて居らるゝも尤である。然し余等は無人境のホンの入口まで来たばかり、せめてキトウス山見ゆるあたりまで行かずに此まゝ帰って了うのは、甚遺憾のこり多かった。
 帰路きろ余は少し一行におくれて、林中りんちゅうにサビタのステッキをった。足音がするのでふっと見ると、むこうのこみちをアイヌが三人歩いて来る。真先まっさきかの留吉とめきち、中にお花さんが甲斐□□かいかいしく子をって、最後に彼ヤイコクがアツシを藤蔓ふじづるんだくつ穿き、マキリをいて、大股おおまたに歩いて来る。余は木蔭からまたたきもせず其行進マアチを眺めた。秋びた深林しんりん背景はいけいに、何と云う好調和こうちょうわであろう。彼等アイヌはほろび行く種族しゅぞく看做みなされて居る。然し此森林しんりんに於て、彼等はまさあるじである。眼鏡めがねやリボンの我等は畢竟ひっきょう新参しんざん侵入者しんにゅうしゃに過ぎぬ。余はことに彼ヤイコクが五束いつつかもある鬚髯しゅぜん蓬々ぼうぼうとしてむねれ、素盞雄尊すさのおのみことを見る様な六尺ゆたかな堂々どうどう雄偉ゆうい骨格こっかく悲壮ひそう沈欝ちんうつな其眼光まなざし熟視じゅくしした時、優勝者と名のある掠奪者りゃくだつしゃが大なる敗者はいしゃに対して感ずる一種の恐怖を感ぜざるを得なかった。関翁が曾て云われた、山中で山葡萄やまぶどうなどちぎるとさるに対して気の毒に思う、と。本当だ。山葡萄をちぎっては猿に気の毒、コクワをっては熊に気の毒、深林を開いてはアイヌに気の毒なのも、自然である。そこで余は思った、熊一変いっぺんせばアイヌに到らん、アイヌ一変せば日本人シャモに到らん、日本人シャモ一変せば悪魔に到らん。余はアイヌを好む。尤も熊を好む。
 天幕を出る時ぽと/\落ちて居た雨はみ、かさす程にもなかった。炭焼君すみやきくんの家で昼の握飯にぎりめしを食って、放牧場ほうぼくじょうはしから二たび斗満上流じょうりゅう山谷さんこくを回顧し、ニケウルルバクシナイに来ると、妻は鶴子をいて駄馬だばに乗った。貢君みつぎくん口綱くちづなをとって行く。後から仔馬こうまがひょこ/\いて行く。時々道草を食っておくれては、あわてゝけ出しおっついて母馬はは横腹よこはらあたまをすりつける様にして行く。関翁と余と其あとから此さまを眺めつゝ行く。斯くて午後二時駅逓えきていに帰った。
 関翁は過日来足痛そくつうすこぶる行歩ぎょうぶなやんで居られると云うことをあとで聞いた。それに少しも其様な容子ようすも見せず、若い者なみに四里の往復は全く恐れ入った。
 此夕台所だいどこで大きな甘藍きゃべつはかりにかける。二貫六百目。肥料もやらず、移植いしょくもせぬのだから驚く。関翁が家の馳走ちそうで、甘藍の漬物つけもの五升藷ごしょういも馬鈴薯じゃがいも)の味噌汁みそしるは特色である。斗満で食った土のものゝ内、甘藍、枝豆えだまめ玉蜀黍とうもろこし、馬鈴薯、南瓜とうなす蕎麦そば大根だいこきびもち、何れも中々味が好い。唯真桑瓜まくわうりは甘味が足らぬ。
 九月二十九日。晴。
 今日は余等三人余作君及貢君の案内で、放牧場の農家を見に出かける。阪を上って放牧場の埒外らちそとを南へ下り、ニタトロマップの細流さいりゅうを渡り、斗満殖民地入口と筆太ふでぶとに書いた棒杭ぼうぐいを右に見て、上利別かみとしべつ原野げんやに来た。野中のなかおかに、ぽつり/\小屋が見える。先ず鉄道線路を踏切って、伏古古潭ふしここたんの教授所を見る。代用小学校である。かたの如き草葺くさぶきの小屋、子供は最早帰って、田村たむら恰人まさとと云う五十余の先生が一人居た。それから歩を返えして、利別としべつ川辺かわべ模範もはん農夫のうふの宮崎君を訪う。矢張草葺だが、さすがに家内何処となくうるおうて、屋根裏には一ぱい玉蜀黍をつり、土間には寒中蔬菜そさいかこあなぐらを設け、農具のうぐ漁具ぎょぐ雪中用具せっちゅうようぐそれ/″\ならべて、横手よこての馬小屋には馬が高くいなないて居る。にがちゃれて、森永もりながのドロップスなど出してくれた。余等は注文ちゅうもんしてもぎ立ての玉蜀黍をの火で焼いてもらう。あるじは岡山県人、四十余の細作ほそづくりな男、余作君に過日こないだくすりは強過ぎ云々と云って居た。宮崎君夫婦はもともと一文無いちもんなしで渡道とどうし、関家に奉公中貯蓄ちょちくした四十円を資本とし、ひらけの約束で数年前此原野を開墾かいこんしはじめ、今は十町歩も拓いて居る。今年は豆類其他で千円も収入みいりがあろうと云うことであった。細君の阿爺ちゃん遙々はるばる讃岐さぬきから遊びに来て居る。宮崎君の案内で畑を見る。裏には真桑瓜まくわうりつるの上に沢山ころがり、段落だんおちの畑には土が見えぬ程玉蜀黍が茂り、大豆だいずうねから畝にさやをつらねて、こころみに其一個をいて見ると、豆粒つぶ肥大ひだい実に眼を驚かすものがある。他の一二の小屋は訪わず、玉蜀黍をい喰い帰る。北海道の玉蜀黍は実にうまい。先年皇太子殿下(今上きんじょう陛下へいか)が釧路くしろで玉蜀黍をしてそれから天皇陛下へおみやげに玉蜀黍を上げられたももっともである。
 午後は又一君の案内で、アイヌの古城址こじょうしなるチャシコツを見る。※別川りくんべつがわ[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻-310-15]に臨んだちょっとした要害ようがいの地、川の方は断崖だんがいになり、うしろはザッとしたものながら、塹濠ざんごうをめぐらしてある。此処から見ると※[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻-310-17]別は一目だ。関翁は此坂の上に小祠しょうしてゝ斃死へいしした牛馬のれいまつるつもりで居る。
 夕方三人で又一君宅の風呂ふろをもらいに行く。実は過日来往返おうへんたび斗満橋とまむばしの上から見てうらやましく思って居たのだ。風呂は直ぐ川端かわばたで、露天ろてんえてある。水に強いと云うかつらわたり二尺余のりぬき、鉄板てっぱんそこき、其上に踏板ふみいたを渡したもので、こんな簡易かんい贅沢ぜいたくな風呂には、北海道でなければ滅多めったに入られぬ。秋の日落ち谷蒼々そうそうと暮るゝゆうべ、玉の様な川水をわかした湯にくびまでひたって、直ぐそばを流るる川音を聴いて居ると、陶然とうぜんとして即身成仏そくしんじょうぶつ妙境みょうきょうって了う。
 夜上利別かみとしべつのマッチ製軸所せいじくしょ支配人久禰田くねだ孫兵衛まごべえ君に面会。もと小学教師をした淡路あわじの人、真面目な若者である。二里の余もある上利別から始終しじゅう関翁の話を聞きに来るそうだ。
 九月三十日。晴。雪のような朝霜。
 最早斗満を去らねばならぬ日となった。
 早朝関翁以下駅逓えきていの人々に別を告げる。斗満橋を渡って、見かえると、谷をむるあお朝霧あさぎりの中に、関翁は此方に向い、つえかしらに両手をんで其上にひたい押付おしつけて居られた。
 ※[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、上巻-311-12]別で余作君に別れ、足寄駅あしょろえきで五郎君の勤務した郵便局を教えられ、高島駅たかしまえきで又一君に別れ、池田駅で旭川行あさひかわゆきの汽車に乗換え、帯広おびひろで貢君に別れ、余等は来た時の同行三人となって了った。汽車は西へ西へと走って、日の夕暮ゆうぐれ十勝とかち国境こっきょう白茅はくぼうの山を石狩いしかりの方へとのぼった。此処の眺望ながめは全国の線路にほとんど無比である。越しかたかえりみれば、眼下がんかに展開する十勝の大平野だいへいやは、蒼茫そうぼうとして唯くもの如くまた海の如く、かえって北東の方を望めば、黛色たいしょく連山れんざん波濤はとうの如く起伏して居る。彼山々こそ北海道中心の大無人境を墻壁しょうへきの如く取囲とりかこむ山々である。関翁の心は彼の山々の中にあるのだ。余は窓にって久しく其方を眺めた。中に尤も東北の方に寄って一峯いっぽう特立とくりつすこぶる異彩いさいある山が見える。地理を案ずるに、キトウス山ではあるまいか。斗満川とまむがわの水源、志ある人と共にうち越えて其山の月を東に眺めんと関翁が歌うたキトウス山ではあるまいか。関翁の心はとく彼山を越えて居る。然しながら翁も老齢ろうれい已に八十を越した。其身其心に随うて彼山を越ゆることが出来るや否や、疑問である。或は翁は摩西モーゼの如く、はるか迦南カナンを望むことを許されて、入ることを許されずに終るかも知れぬ。然し翁の心は已にキトウス山を越えて居る。而して翁が百歳の後、其精神は後の若者のからだって復活し、必彼山を越え、必彼大無人境をひらくであろう。汽車はます/\国境の山を上る。尾花に残る日影ひかげは消え、蒼々そうそうと暮れ行く空に山々の影も没して了うた。余はなお窓に凭って眺める。突然白いものが目の前にひらめく。はっと思って見れば、老木ろうぼくこずえである。年久しく風霜ふうそうと闘うてかわは大部分げ、葉も落ちて、老骨ろうこつ稜々りょうりょうたる大蝦夷松おおえぞまつが唯一つ峰に突立つったって居るのであった。
 余の胸は一ぱいになった。
君に別れ十勝の国の国境くにざかひ
    今ゆるとてふりかへり見し
かへりれば十勝は雲になりにけり
    心に響く斗満とま川音かはおと
雲か山か夕霧ゆふぎり遠くへだてにし
    おきなうへかみまもりませ
 斯く出たらめをはがきに書いつけ、石狩いしかり鹿越駅しかごええきで関翁あて投函とうかんした。」

       三

 武蔵野の彼等が斗満をうた其年の冬、関翁は最後の出京して、翌明治四十四年の四月斗満に帰った。出京中に二度粕谷かすや茅廬ぼうろに遊びに来た。三月の末二度目に来た時は、他の来客や学生なぞに深呼吸の仕方などして見せ、一泊して帰った。最早今回限り東京には出て来ぬ決心という話であった。主人あるじは甲州街道まで翁を送った。馬車を待って乗るからかまわず帰れと翁が云うので、翁を茶店の前に残し、少し用をしてもどりかけると、馬車はすれちがいに通ったが、車中に翁の影が見えない。と見ると茶店の方から古びた茶の中折帽なかおれぼうをかぶって、れいくせ下顋したあごを少し突出し、れ手拭を入れた護謨ごむふくろをぶらげながら、例の足駄あしだでぽッくり/\刻足きざみあしに翁が歩いて来る。此時も明治四十一年の春初めて来た時着て居た彼無地むじの木綿羽織だった。「乗れませんでしたか」「満員だった」「今車を呼んで来ます」「何、構わん、構わん」と翁が手をる。然し翁の足つきは両三年前よりは余程弱って見えた。四五丁走って、懇意こんいの車屋を頼み、翁のあとを追いかけさせた。
 翁は斗満に帰ってから、実桜チェリーなえ二本送って呉れた。其夏久しく気にかけて居た余作君の結婚がんだ事を報じてよこした。其秋の九月二十六日は雨だった。一周年前彼等が斗満に着いた其翌日よくじつも雨だった。彼はこんな出たらめを翁に書き送った。
去年こぞ今日けふくはりきとあきの雨
    眺めて独君をしぞおもふ
 程なく翁から其雑著ざっちょ出版しゅっぱんの事を依頼して来た。此春翁と前後して北へ帰ったかりがまた武蔵野の空にく時となった。然し春の別れの宣言の如く、翁は再び斗満を出なかった。秋から冬にかけて、翁は心身の病に衰弱甚しく、已に覚期かくごをした様であったが、年と共にたまあらたに元気づき、わずかに病床を離るゝと直ぐ例の灌水かんすいをはじめ、例の細字さいじの手紙、著書の巻首かんしゅに入る可き「千代かけて」の歌を十三枚、著書を配布はいふす可き二百幾名の住所姓名を一々明細めいさいに書いて来た。翁にとりては此が形見かたみのつもりであったのである。
いのち洗濯せんたく」「いのち鍛錬たんれん」「旅行日記」「目ざまし草」「関牧場創業記事」「斗満とまむ漫吟まんぎん」をまとめて一さつとした「命の洗濯」は、明治四十五年の三月中旬東京警醒社書店けいせいしゃしょてんから発行された。翁は其出版を見ていささかよろこびの言をらしたが、五月初旬にはいよいよ死を決したと見えて、逗子ずしなる老父のもと粕谷かすやの其子の許へカタミの品々を送って来た。其は翁が八十のいわいに出来た関牧場の画模様えもよう服紗ふくさと、命の洗濯、旅行日記、目ざまし草に一々うたおよび俳句はいく自署じしょしたものであった。両家族の者残らずにてゝ、各別かくべつに名前を書いてあった。「人並ひとなみの道はとおらぬ梅見かな」の句が其の中にあった。短冊たんざくには、
辞世 一 もろともにちぎりし事はなかばにて
         斗満とまむの露と消えしこの身は
八十三老白里
辞世 二 骨も身もくだけて後ぞ心には
         永く祈らん斗満とまにぎはひ
八十三老白里
死後希望 露の身を風にまかせてそのまゝに
         落れば土と飛んでそらまで
八十三老白里
死後希望 死出しでの山越えて後にぞ楽まん
         富士の高根たかねを目の下に見て
八十三老白里
と書いてあった。

           *

 七月初旬、翁の手紙が来て、余作君は斗満を去り、以前の如く医を以て立つことに決し、自身は斗満に留ることを報じた。書末しょまつに左の三首の歌があった。
  寄川恋
我恋は斗満とまむの川の水の音
    夜ひるともにやむひまぞなき
  病床独吟
憂き事の年をかさねて八十三やそみとせ
    尽きざる罪になほなやみつゝ
  死後希望
身は消えて心はうつるキトウスと
    十勝石狩両たけのかひ
翁の絶筆ぜっぴつであった。

       四

 翁が晩年の十字架は、家庭に於ける父子意見の衝突であった。父は二宮流にのみやりゅうに与えんと欲し、子は米国風べいこくふうに富まんことを欲した。そのため関家のあらそいは、北海道中の評判となり、色々の風説をすら惹起ひきおこした。翁は其為に心身の精力を消磨しょうました。然し翁はみずから信ずることあつく、子を愛すること深く、神明しんめいに祈り、死を決して其子をす可く努めた。
 最後の手紙を受取ってから四ヶ月過ぎた。武蔵野の家族が斗満とまむおとずれた其二周年が来た。かりは二たび武蔵野の空にいた。此四ヶ月の間には、明治天皇の崩御ほうぎょ乃木翁のぎおう自刃じじん、など強い印象を人に与うる事実が相ついだ。北の病翁びょうおうに如何にひびいたであろうか、と気にかゝらぬではなかったが、推移おしうつって居る内に、突然翁の訃報ふほうが来た。
 翁は十月十五日、八十三歳の生涯を斗満なる其子の家に終えたのである。翁の臨終りんじゅうには、かたちに於て乃木翁に近く、精神に於てトルストイ翁に近く、而していずれにもない苦しみがあった。然し今はつまびらかに説く可き場合でない。
 翁の歌に、
遠く見て雲か山かと思ひしに
    帰ればおのが住居すまひなりけり
 遮莫さもあらばあれ永い年月としつき行路難こうろだん遮莫さもあらばあれ末期まつご十字架のくるしみ、翁は一切いっさいを終えて故郷ふるさとに帰ったのである。


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     次郎桜

 朝、珍らしく角田つのだの新五郎さんが来た。何事か知らぬが、もうこゝでと云うのを無理やりに座敷ざしきしょうじた。新五郎さんは耶蘇やそ信者しんじゃで、まことに善良な人であるが、至って口の重い人で、疎遠そえん挨拶あいさつにややしばし時間をうつした。それから新五郎さんは重い口を開いて、
「実は――となりの勘五郎さんでございますが、其の――勘五郎さんとこの次郎さんが亡くなられまして――」
「エッ、次郎さんが? 次郎さんが死んだんですか」
 青山あおやま学院がくいん最早もう試験前のせわしくして居るであろうと思った次郎少年が死んだとは、うその様な話だ。
 新五郎さんは、持て来た医師の診断書を見せた。急性肺炎とある。急報に接して飛んで往った次郎さんの阿爺おとっさんも、に合わなかったそうである。夜にかけて釣台つりだいにのせて連れて来て、組合中くみあいじゅう都合つごう今日きょう葬式そうしきをすると云うのである。
 新五郎さんは直ぐ帰り、夫婦も直ぐあとから出かけた。
 次郎さんは、千歳村ちとせむらで唯五軒の耶蘇信者の其一軒に生れて、名の如く次男であった。粕谷かすやの夫妻が千歳村に移住いじゅうした其春、好成績こうせいせきで小学校を卒業し、阿爺は師範しはん学校がっこうにでも入れようかと云って居たのを、すすめて青山学院に入れた。学資不足なので、彼は牛乳を配達はいだつしたり、学校食堂の給仕をしたりして勉強して居た。うして約一年過ぎ、最初の学年試験も今日明日あすと云うきわになって、突然病死したのである。彼は父の愛子であった。
 連日れんじつの雪や雨にさながらぬまになった悪路に足駄あしだを踏み込み/\、彼等夫妻はなまりの様に重い心で次郎さんの家に往った。
 禾場うちばには村の人達が寄って、板をけず寝棺ねがんこさえて居る。以前もとは耶蘇教信者と嫌われて、次郎さんのお祖父じいさんの葬式の時なぞは誰も来て手伝てつどうてくれる者もなかったそうだ。土間には大勢おおぜい女の人達が立ち働いて煮焚にたきをして居る。彼等夫妻はあがって勘五郎さんに苦しい挨拶した。恵比須えびすさまの様な顔をしたかみさんも出て来た。勧めて無理な勉強をさして、此様こんな事になってしまって、まことにみません、とぶる外に彼等はなぐさめの言を知らなかった。
 奥座敷おくざしきに入ると、次郎さんは蒲団ふとんの上に寝て居る。昨日雨中をいて来たまゝなので、蒲団がれて居る。筒袖つつそで綿入わたいれ羽織ばおりを着て、次郎さんは寝入った様に死んで居る。ひたいでるとこおりの様につめたいが、地蔵眉の顔は如何にも柔和で清く、心の美しさもしのばれる。次郎さんをはじめ此家の子女むすこむすめは、皆小柄こがらの色白で、可愛げな、そうしてひんい顔をして居る。阿爺おとっさんは、亡児なきこ枕辺まくらべすわって、次郎さんのおさだちの事から臨終前後の事何くれとこまかに物語った。勘五郎さんはもと気負肌きおいはだで、はげしい人、不平の人であったが、子の次郎さんは非常に柔和な愛のかたまりの様なであった。次郎さんの小さな時、えんの上から下に居る弟を飛び越し/\しては遊んで居ると、たまたま飛びそこねて弟を倒し、自分も倒れてしたゝか鼻血はなぢを出した。次郎さんは鼻血をらしつゝ、弟の泣くかたへ走せ寄って吾をわすれて介抱かいほうした。父は次郎さんを愛してよくせなかおぶったが、次郎さんは成丈なるたけ父のせなを弟にゆずって自身は歩いた。次郎さんは到る処で可愛がられた。学課の出来も好かった。両三日前の大雪に、次郎さんは外套がいとうもなくれて牛乳を配達したので、感冒かぜから肺炎はいえんとなったのである。彼は気分の悪いを我慢がまんして、死ぬる前日迄働いた。死ぬる其朝も、ふら/\する足を踏みしめて、苦学仲間のなにがしへやに往って、其日の牛乳の配達を頼んだりした。病気は早急さっきゅうであった。医師が手を尽した甲斐もなかった。次郎さんは終に死んだ。しかばねを踏み越えて進む乱軍らんぐんの世の中である。学校は丁度試験中で、彼の父が急報きゅうほうに接してけつけた時、死骸しがいそばには誰も居なかった。次郎さんは十六であった。
 やがて納棺のうかんして、葬式が始まった。調子はずれの讃美歌さんびかがあって、牧師ぼくし祈祷きとう説教せっきょうがあった。牧羊者ひつじかいが羊のむれみちびいて川を渡るに、先ず小羊こひつじいて渡ると親羊おやひつじいて渡ると云う例をひいて、次郎少年の死は神が其父母生存者せいぞんしゃみちびかん為の死である、と牧師は云うた。
 日がみじかい頃で、葬式が家を出たのは日のくれ/″\であった。青山あおやま街道かいどうに出て、鼻欠はなかけ地蔵じぞうの道しるべから畑中を一丁ばかり入り込んで、薄暗うすぐらい墓地に入った。大きな松が枝を広げて居る下に、次郎さんの祖母ばばさんや伯母おばさんの墓がある。其の祖母さんの墓と向き合いに、次郎さんの棺はめられた。
「祖母さんとはなししてる様だァね」
墓掘はかほりの人が云う。
「祖母さんが可愛がって居たからナ」
と次郎さんの阿爺おとっさんが云う。
 自身じしん子が無くて他人ひとの子ばかり殺して居る夫妻は、すさんだ心になって、黙って夜道を帰った。

           *

 一月ひとつきあまり過ぎた。
 梅から桜、八重桜と、園内えんないの春は次第に深くなった。ある朝庭を漫歩そぞろあるきして居た彼は、
ああいた、咲いた」
と叫んだ。其は庭の片隅かたすみに、坊主ぼうずになる程られた若木わかぎ塩竈桜しおがまざくらであった。昨年次郎さんが出京入学して程なく、次郎さんの阿爺が持って来てくれたのである。其時は満開であった。惜しい事をしたものだ、此花ざかりを移し植えて、無事につくであろうか、枯れはしまいか、と其時はあやぶんだ。果して枯枝かれえだが大分出来たが、肝腎かんじんいのちは取りとめて、り残されの枝にホンの十二三りんだが、美しい花をつけたのである。彼はあらためてつく/″\と其花を眺めた。晩桜おそざくらと云っても、普賢ふげん豊麗ほうれいでなく、墨染すみぞめ欝金うこんの奇をてらうでもなく、若々わかわかしく清々すがすがしい美しい一重ひとえの桜である。次郎さんのたましいが花に咲いたら、取りも直さず此花が其れなのであろう。
 清い、単純な、あたたかな其花を見つめて居ると、次郎さんのニコ/\した地蔵顔じぞうがお花心かしんから彼をのぞいた様であった。
(明治四十一年)


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     きぬや

 明治四十三年十二月二十六日。
 書院前しょいんまえ野梅やばいに三輪の花を見つけた。年内に梅花を見るはめずらしい。しもに葉をむらさきめなされた黄寒菊きかんぎくと共に、折って小さな銅瓶どうへいす。
 例年れいねん隣家となりを頼んだもち今年ことし自家うちくので、懇意こんいな車屋夫妻がうすきね蒸籠せいろうかままで荷車にぐるまに積んで来て、悉皆すっかり舂いてくれた。となり二軒に大威張おおいばり牡丹餅ぼたもちをくばる。肥後流ひごりゅう丸餅まるもちを造る。碁石ごいし程のおかさねは自分でこさえて、鶴子つるこ女史じょし大得意である。
 逗子ずしの父母から歳暮せいぼ相模さがみの海のたい薄塩うすじおにして送って来た。
 同便どうびんで来た手紙はがきの中に、思いがけない報知が一つあった。二十二日にとめやのきぬやが面疔めんちょうで死んだ、と云うしらせである。
 彼女は粕谷草堂夫妻の新生涯にからんで忘れ難い恩人の一人ひとりである。
 明治三十九年美的百姓が露西亜ろしあから帰って、青山あおやま高樹町たかぎちょうきょを定むるともなく、ある日銀杏返いちょうがえしに白い薔薇ばら花簪はなかんざしを插したほおまぶたのぽうとあからんだ二十前後の娘が、突然唯一人でやって来て、女中じょちゅうになると云う。名はとめと云って江州ごうしゅう彦根在ひこねざいの者であった。兄が東京で商売をして居るので、彼女も出京してある家に奉公中、逗子で懇意になった老人夫婦の家の女中から高樹町の家の事を聞き込み、みずか推薦すいせんして案内もなく女中に来たのであった。使つかって見ると、少しおろかしいとこもあるが、如何にも親切な女で、いつ莞爾々々にこにこして居る。一度泥棒が入って後、彼女は離れて独女中部屋に寝るを恐れたが、部屋に戸締とじまりをつけてやると、安心して寝た。その兄はシャツ、ズボンしたなど莫大小物めりやすもの卸売おろしうりをして居るので、彼女も少しミシンを稽古けいこして置きたいと云う。承知したら、彼女は喜んで日々弁当持参べんとうじさんで高樹町から有楽町ゆうらくちょうのミシン教場きょうじょうへ通ったが、教場があまり騒々そうぞうしくて頭がのぼせるし、加上そのうえミシンだいの数が少ないので、生徒間に競争がはげしく、ズウズウしい女達おんなたち順番じゅんばんになった彼女を押のけてミシンを占領したりするので、彼様あんな処へは最早もう行くのはいやでござりますと云って、到頭とうとう女中専門になった。
 彼女が奉仕ほうしの天使の如く突然高樹町のうちあらわれてから六月目むつきめに、主人夫婦は東京を引払うて田舎に移った。如何に貧乏な書生生活でも、東京で二十円の借家から六畳二室ふたま田舎いなかのあばら家への引越しは、人目ひとめには可なりの零落れいらくであった。奉公人にはよい見切時みきりどきである。然しとめやは馴染なじみもまだそれ程深くない主人夫婦を見捨てなかった。彼女は東京に居らねばならぬ身体からだであったが、当分御手伝をすると云うて、風呂敷に包んだランプをかゝえて彼等にいて来た。
 東京から引越ひっこし当座とうざの彼等がざまは、笑止しょうしなものであった。昨今の知り合いの石山さんをのぞく外知人しりびととてはもとよりなく、何が何処にあるやら、れを如何どうするものやら、何角なにかの様子は一切からず。せまいと汚穢きたなさとは我慢するとしても、ひとの寒さは猛烈もうれつに彼等に肉迫にくはくした。二百万の人いきれで寄り合うて住む東京人は、人烟じんえん稀薄きはくな武蔵野の露骨ろこつな寒さを想い見ることが出来ぬ。二月の末、三月の始、雲雀ひばりは鳴いて居たが、初めて田舎のあばら住居ずまいをする彼等は、大穴のあいた荒壁あらかべ、吹通しの床下ゆかした建具たてぐは不足し、ある建具はやぶれた此の野中の一つ家と云った様な小さな草葺くさぶきを目がけて日暮れがたから鉄桶てっとうの如く包囲ほういしつゝずうと押寄おしよせて来る武蔵野のさむさ骨身ほねみにしみてあじわった。風吹き通す台所だいどこに切ってある小さなに、木片こっぱ枯枝かれえだ何くれとされる限りをくべてあたっても、顔は火攻ひぜめせな氷攻こおりぜめであった。とめやが独で甲斐々々しくけ廻った。煮焚にたき勿論もちろん、水ももろうてあるき、五丁もはなれた足場の悪い品川堀しながわぼりまでたらいをかゝえて洗濯に往っては腰を痛くし、それでも帰途かえりにはふきとうなぞ見つけて、んで来ることを忘れなかった。たすきがけのまゝ人に聞き/\近在きんざい買物かいものに駈け歩いて、今日きょう斯様こんな処を歩きました、みょうな処にみせは出してない呉服屋ごふくやがありましたと一々報告した。彼女は忽ち近隣きんりんの人々と懇意こんいになった。墓地向うのうちの久さんの子女こどもが久さんを馬鹿にするのを見かねて、あんまりでございますねとうったえた。唖の子の巳代吉みよきちとはことに懇意になって、手真似てまね始終しじゅう話して居た。唖との交渉はとめやに限ると主人夫婦は云うた。馬鈴薯じゃがいもうて来ることを巳代公みよこうに頼むと云って、とめやがくわで地をる真似をして、ゆびまるいものをこさえて見せて、口にあてゝ食うさまをして、東を指し北を指し、巳代公がうなずいたと云っておさまって居ると、巳代公は一時間っても二時間経ってもやって来ぬので、往って見ると自分の事をして居たので、始めてとめやの早合点はやがてん、巳代公がからずに居た事が分かって、一同大笑いしたことがある。兎に角彼女の無我にして骨身ほねみを惜まぬ快活の奉仕は、主人夫婦の急激な境遇変化に伴う寂寥せきりょうと不安とを如何ばかり慰めたか知れぬ。移転いてんさわぎも一型ひとかたついて、日々の生活もほゞ軌道に入ったので、彼女は泣く/\東京に帰った。妻も後影うしろかげを見送って泣いた。
 三月の末東京に帰って、五月中またいちごなど持ってたずねて来た。翌年丁度引越しの一周年に、彼女はまた手土産てみやげを持って訪ねてくれた。去年帰西して、昨日きのう江州ごうしゅうから上京したばかりだと云った。四日程逗留とうりゅうして、台所だいどこをしたり、裁縫しごと手伝てつだったり、折から不元気で居た妻を一方ならず助けて往った。其翌年の春、彼女は同郷どうきょうの者で姓も同じく商売も兄のと似寄によった男に縁づいたことを知らして来た。秋十月の末、ある日丸髷まるまげった血色けっしょくの好い若いおかみさんが尋ねて来た。とめやであった。名もきぬとあらためて、立派なおかみさんになって居た。夫妻共稼ともかせぎで中々せわしいと云った。其れから東京では正直な人を得難いことをかこって、誰か好い子僧こぞうはあるまいかなぞ折から居合わした懇意の大工に聞いて居た。彼女の話の中に一つ面白い事があった。ある時両国橋りょうごくばしの上で彼女は四十あまりの如何にも汚ない風をしたたちぼうに会うた。つく/″\其顔を見て居た彼女は、立ン坊に向い、好い仕事があるかと聞いた。立ン坊は無いと答えた。橋の上に立って居るよりわたしの家に来て商売の手伝てつだいをしないかと云うた。立ン坊も彼女の顔を見て居たが、手伝しましょうと云うた。とめやのきぬやは早速立ン坊を連れて良人おっとに引合わせ、翌日から車をかせて行商こうしょうに出したが、立ン坊君正直に働いて双方喜んで居る云々。此話は非常に旧主人夫婦を悦ばした。あの温順おとなしい女にも、中々濶達かったつな所がある、所謂近江商人の血が流れて居る、とあとで彼等は語り合った。
 彼女は其時已に六月むつき身重みおもであった。今年の春男子を挙げたと云うたよりがあった。今日のそのは実に突然である。
 彼女の臨終は如何であったろうか。当歳の子と夫を残してく彼女はさぞ残念であったであろう。然し彼女自身はあしたうまれてゆうべに死すともうらみは無い善良の生涯を送って居たので、生の目的は果した。彼女の実家は仏教の篤信者とくしんじゃで、彼女の伯母おばなぞは南無阿弥陀仏なむあみだぶつとなえつゝ安らかな大往生だいおうじょうげた。彼女にも其血が流れて居る。
 謙遜な奉仕の天使、彼等が我等と共に在るの日、高慢な我等は微笑を以て其弱点じゃくてんを見つゝ十分に尊敬をはらわず、当然の事の如くながらにして其心尽こころづくしの奉仕を受けやすい。彼等が去るの日に於て、我等は今更の如く其人と其働の意味を知り得て、あらためて感謝と慚愧ざんきを感ずるのである。


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     命がけ

 昨夜ははげしく犬がさわいだ。
 今朝けさ起きて見ると、裏庭うらにわ梧桐あおぎりの下に犬が一ぴき横になって居る。寝たのかと思うと、死んで居るのであった。以前もと時々内のピンに通って来たきつね見た様な小柄こがらの犬だ。デカがみ殺したと見える。
 裏のはなれに泊って居るA君の話によれば、昨夜ピンを張りに来た此犬を、デカがはなれの縁の下に追い込んで、足をくわえて引きずり出し、そうして睾丸こうがんを啣えて体をドシ/\と大地に投げつけた。A君が余程引きはなそうと骨折ったが、デカが如何しても放さなかったと云う事である。
 此辺には牝犬めいぬが少ないので、春秋の交尾期こうびきになると、猫程しかないピンを目がけて、るわ/\、白君、斑君ぶちくん、黒君、虎君、ポインタァ君、スパニール君、美君、醜君……婿むこ八人どころの騒ぎではない。デカも昨春までは、其一人であったが、抜群の強猛きょうもう故に競走者を追払おっぱらって、押入婿おしいりむこになりましたのである。今は正規の夫婿顔ふせいがおして、凡そ眼のとどかん限り、耳の聞かん限り、一切の雄犬おいぬを屋敷の内へは入れぬ。其目一たび雄犬の影を見ようものなら、血相変えて追払う。宛ながら足の四本に止まるをうらむが如く、一口ひとくちに他の犬をうてしまうことが出来ぬを悲しむ如く、しこ壮夫ますらおデカ君が悲鳴をあげつゝ追駈おっかける。其時はピンもさながらデカに義理を立てるかの如く、横合よこあいからワン/\えて走って行く。
 最初飼った「しろ」は弱虫だったので、交尾期には他の強い犬に噛まれて、つねに血だらけになった。デカは強いので、滅多にひけは取らぬ。然し其悲鳴して他の雄犬を追かける声は、世にも情無なさけなげな、苦痛其ものゝ声である。弱い者素より苦み、強い者がまた苦む。生物せいぶつは皆苦む。思うにいたましく、見るに浅ましい。然し此れが自然の約束である。即ち命を捨てゝも命は自己を伝えずにはかぬ。
 都々逸どどいつ歌うて曰く、
色のいの字といのちのいの字
    そこで色事いろごと命がけ
 生殖は命がけ。嫉妬は必死。遊戯で無い。
 命がけで入り込んで、生殖の為に一命を果した彼無名犬ななしいぬの死骸を、けやきの根もとにほうむった。向うの方には、二本投げ出した前足まえあしあたまをのせて、頬杖ほおづえつくと云う見得みえでデカがけろりとして眺めて居た。

           *

 二時間の後、用達ようたしに上高井戸に出かけた。八幡はちまんの阪で、誰やら脹脛ふくらはぎを後からと押す者がある。ふっと見ると、烏山からすやま天狗犬てんぐいぬが、前足をげて彼のはぎを窃とでて彼の注意をいたのである。此犬はあまり大きくもないが、金壺眼かなつぼまなこの意地悪い悪相あくそうをした犬で、滅多めったに恐怖と云うものを知らぬ鶴子すら初めて見た時はおびえて泣いた。「しろ」が居た頃、此犬はつねに善良な「白」をいじめ、「白」を誘惑して共に隣家となりの猫をみ殺し、到頭とうとう「白」を遠方えんぽうにやるべく余儀なくした、云わば白のかたきである。白の主人の彼は此犬をにくんで、打殺そうとしば/\思った。デカがうちは、此犬もピンに通うて来た犬の一つであった。其犬すら雌犬めいぬのピン故に、ピンの主人の彼に斯くびるのである。甚あわれになった。天狗犬は訴うる様な眼付めつきをしてしば/\彼を見上げ、上高井戸にってかえるまで、始終彼にくっついてあるいた。
 帰って家近くなると、天狗犬はデカを恐れて、最早もういて来なかった。ピンの主人を見送って、悄然しょうぜんくぬぎの下のこみちに立て居った。

           *

 先日行衛ゆくえ不明で、もし来たら留めて置いてくれと照会があった角谷すみや消息しょうそくが分かった。彼は十八日の夜、大森停車場附近で鉄道自殺を遂げたのである。
 あのオトナしい角谷、今年ことし十九の彼律義りちぎな若者が――然し此驚きは、我迂濶うかつ浅薄せんぱく証拠しょうこてるに過ぎぬ。
 角谷は十三四の年地方から出京して、其主人は親類筋しんるいすじに当る某書店に奉公した。美的百姓が「寄生木やどりぎ」を出す時、角谷はその校正こうせいを持って銀座と粕谷の間を自転車で数十回往復した。著者が校正を見る間に、彼は四歳の女児じょじの遊び相手になったり、根が農家の出身だけに、時には鍬取くわとりもしてくれた。ルビ振りを手伝えと云うたら、頭をいて尻ごみした。眉の濃い、眼の可愛い、倔強くっきょうな田舎者らしい骨格をしながら色の少しあおい、真面目まじめな様で頓興とんきょうな此十七の青年と、著者の家族は大分懇意になった。角谷は自分の巾着から女児にねずみ画本えほんなど買って来た。一度日本橋で、著者の家族三人、電車満員で困って居ると、折から自転車で来かゝった彼が見かけて、自転車を知辺しるべの店に預け、女児を負って新橋まで来てくれた。去年の夏の休には富士ふじ山頂さんちょうから画はがきをよこしたりした。
 来たら留めて置いてくれとのはがきに接した時、いさゝか不審に思いは思いながら、まさか彼がせい見捨みすてようとは思わなかった。
 角谷は十二日から三日間、例によって夏休をもろうた。十一日に貯金の全部百二十円を銀行から引出し、同店員で従兄いとこに当る若者あて遺書いしょしたため、己がデスクの抽斗ひきだしに入れた。其の遺書には、自分は十九歳を一期いちごとして父のもとへ行く――父は前年郷里で死んだ――主人には申訳もうしわけが無いから君から宜しく云うてくれ、荷物は北海道に居る母の許に送ってくれ、運賃として金五円封入ふうにゅうして置く、不足したら店員某に七十二銭の貸しがあるから、其れで払ってくれ、と書いてあった。
 十二日には、主人の出社を待って、暇乞いとまごいして店を出で、麻布の伯父の家をうて二階に上り、一時間半程ねむった。それから日比谷ひびやで写真をって、主人、伯父、郷里の兄、北海道の母にとどく可く郵税ゆうぜい一切いっさいはらって置いた。日比谷から角谷は浅草あさくさに往った。浅草公園の銘酒屋めいしゅやに遊んで、田舎出の酌婦しゃくふ貯蓄債券ちょちくさいけんをやろうかなどゝ戯談じょうだんを云った。彼は製本屋せいほんやの職工から浅草、吉原の消息を聞いて居たのである。
 角谷の踪跡そうせき此処ここではたと絶えた。其れから一週間彼は何処どこ如何どう迷うて歩いたか、一切分からぬ。
 十八日の夜八時過ぎ、神戸発新橋行の急行列車が、角谷の主人の居に近い大森で一人の男子をいた。足は切れ、顔もメチャ/\になって居たが、濃い眉で角谷と分かった。店を出る時白がすりを着て出たが、死骸は紺飛白こんがすりを着て居た。百二十円の貯金全部を引出した角谷の蟇口がまぐちには、唯一銭五厘しか残って居なかった。死骸は護謨ごむ草履ぞうり穿いて居た。護謨草履が欲しい/\と角谷は云って居たのであった。
 彼は久しく死ぬ/\と云って居た。死ぬ/\と云って死ぬ者はないものだ、貯金なぞ精出して死ぬ者があるか、と他の店員が笑うと、死ぬ前には奇麗に使って仕舞しまうと角谷は戯談の様に云って居た。角谷は手が器用きようで、書籍の箱造り荷拵にごしらえなどがうまかった。職人になればよかった、と自身もしばしばこぼして居た。
 角谷は十九であった。みせは耶蘇教主義であるが、角谷は夜毎の家庭かてい祈祷会きとうかいなどに出るのをいやがって居た。彼の本箱には、梅暦うめごよみや日本訳のマウパッサン短篇集たんぺんしゅうが入って居た。
 なぞおのずから解ける。
 ヱデキンドが「春の目ざめ」のモリッツを想わずに居られぬ。

           *

 夜、外の闇から火光あかりを眼がけて猛烈にカナブンが飛んで来る。ばたンばたンと障子しょうじにぶつかる音が、つぶての様だ。つかんでは入れ、掴んでは入れして、サイダァの空瓶あきびんが忽一ぱいになった。
(明治四十四年 八月二十二日)


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     暁斎画譜

 重田しげたさんが立寄たちよった。重田さんは隣字となりあざの人で、気が少し変なのである。躁暴狂そうぼうきょうでもなく、憂欝狂ゆううつきょうと云う訳でもなく、唯家業の農を抛擲ほうてきしてぶらぶら歩いて居る。美的百姓が遊び人であるためか、時々音ずれる。
 今日きょうも立寄った。挨拶あいさつうだ。
「えゝ私は、晩寝郡おそねごおり早起村はやおきむら濡垂ぬれたら拭兵衛ふくべえと申しますが、その、私のおとうと発狂はっきょういたしまして……」
 くど/\二言ふたこと三言みこと云うかと思うと、「それじゃまた」とお辞儀じぎをして往ってしまった。「弟が発狂した」が彼の口癖くちぐせである。弟とはけだし夫子ふうしみずからうのであろう。
 重田さんの影がゆると、安達君あだちくんの顔が歴々ありあり主人あるじの頭に現われた。
 安達君は医学士で、紀州きしゅうの人であった。
 紀州は蜜柑みかん謀叛人むほんにん本場ほんばである。紀州灘きしゅうなだ荒濤あらなみおにじょう巉巌ざんがんにぶつかって微塵みじんに砕けて散る処、欝々うつうつとした熊野くまのの山が胸に一物いちもつかくしてもくして居る処、秦始皇しんのしこうていのよい謀叛した徐福じょふく移住いじゅうして来た処、謀叛僧文覚もんがく荒行あらぎょうをやった那智なち大瀑おおだき永久えいきゅうみなぎり落つ処、雄才ゆうさい覇気はきまかり違えば宗家そうかの天下をひともぎにしかねまじい南竜公なんりゅうこう紀州きしゅう頼宣よりのぶが虫を抑えて居た処、此国には昔から一種熬々いらいらした不穏ふおんの気がただようて居る。明治になっても、陸奥むつ宗光むねみつを出し、大逆だいぎゃく事件じけんにも此処から犠牲ぎせい一人ひとりを出した。安達君は此不穏の気の漂う国に生れたのである。
 余が始めて君を識った時、君はまだ医科大学に居た。小説「黒潮こくちょう」の巻頭辞かんとうじを見て、いやしくも兄たる者に対して、甚無礼ぶれい詰問きつもんの手紙をよこした。君自身兄であった。間もなく相見た時は、君もやゝ心解けて居たが、茶色の眼鋭くまゆけわしく、熬々いらいらした其顔は、一見不安の念を余におこさした。君は医学を専門にして居たが、文芸を好み高山たかやま樗牛ちょぎゅうの崇拝者で、兄弟打連れて駿州すんしゅう竜華寺りゅうげじに樗牛の墓を弔うたりした。君の親戚が当時余の僑居きょうきょと同じく原宿はらじゅくにあったので、君はよく親戚に来るついでに遊びに来た。親戚の家の飼犬かいいぬに噛まれて、用心の為数週間芝の血清けっせい注射ちゅうしゃに通うたなぞ云って居た。君はまた余に惺々しょうじょう暁斎ぎょうさい画譜がふ二巻を呉れた。惺々暁斎は平素ねこの様につゝましい風をしながら、一旦酒をあおると欝憤うっぷんばらしに狂態きょうたい百出当る可からざるものがあった。画帖がちょうの画も、狸が亀を押しころがしてジッと前足で押さえて居たり、蛇がはばたく雀をわんぐりとくわえて居たり、大きな猫が寝そべりながらすごい眼をしてまだ眼の明かぬ子鼠の群をにらんで居たり、要するに熬々した頭の状態が紙の一枚毎にまざ/\と出て居た。安達君の贈物だけに、一種の興味を感じた。
 君は其年医学士になって郷里紀州に帰り、妻を迎え子をもうけ、開業医の生活をして居た。
 余が千歳村に引越した其夏、遊びに来た一学生をちと没義道もぎどうに追払ったら、学生は立腹してひとはがき五拾銭の通信料をもらわるゝ万朝報よろずちょうほう文界ぶんかい短信たんしんらん福富ふくとみ源次郎げんじろうは発狂したと投書した。自分は可なり正気の積りで居たが、新聞なるものゝ平気にうそをつく事をまだよく知らぬ人達の間には大分影響えいきょうしたと見え、見舞やら問合せの手紙はがきなどいくらか来て、余は自身で自身の正気を保証ほしょうす可く余儀なくされた。ある日、庭で覚束おぼつかない手つきをして小麦をいて居ると、入口で車を下りて洋装の紳士が入って来た。余は眼を挙げて安達君を見た。安達君は彼万朝報の記事を見て、余を見舞にわざ/\東京から来てくれたのであった。君は余の不相変あいかわらずぼんやりして麦扱むぎこきをして居るのを見て、正気だと鑑定かんていをつけたと見え、来て見て安心したと云った。そうして此れから北海道の増毛ましげ病院長となって赴任する所だと云った。妻子は? ときいたら、はっきりした返事をしなかった。
 北海道から林檎りんごやらうたやら送って来た。病院長の生活は淋しいものらしかった。家庭の模様もようを聞いてやっても、其れだけは何時いつもお茶を濁して来た。余は
北の国五百重いほへにつもる白雪も
    うづみは果てじ胸の焔を
 わけの分からぬ歌など消息のはしにかきつけた。
 間もなく君はまた郷里紀州に帰った。而して相変らず医を業としつゝ、其熬々いらいらもらす為に「はまゆふ」なぞ云う文学雑誌を出したり、俳句に凝ったりして居た。曾て夏密柑を贈ってくれた。余は
紀の国のたより来る日や風かを
 斯様こん悪句あくくを書いてむくうた。或時君の令弟が遊びに来た。聞けば、細君は別居して、家庭はあまり面白くもなさそうだが、遠隔えんかくの地突込んで聞きもならず、其まゝに打過ぎた。
 梅雨ばいうは誰しも発狂しそうな時節だ。安達君から、
梅霖欝々、憂愁如水
などはがきに書いて来た。
 翌年の春、突然他の紀州の人から安達君が発狂して自殺したと知らして来た。驚いて令弟れいていあて弔状ちょうじょうを出したら、其れと行き違いに先の人から、安達君は短刀で自殺しかけたが、負傷したまゝで人にめられたと云って、紀州の新聞を一枚送って来た。其れには安達君の直話じきわとして、いやしくも書を読み理義りぎを解する者が、此様な事を仕出来しでかして、と恥じて話して居た。
 余は慰問状を出した。其れが紀州に届いたと思う頃、令弟から安達君は到頭とうとう先度の傷の為に亡くなった、と知らして来た。
 安達君は余の発狂を見舞に来てくれたが、余は安達君の病原びょうげんるゝことが出来なかった。
 記念の暁斎ぎょうさい画譜がふ大切だいじしまって居る。


[#改丁]


[#ここで上巻終わり]

   落穂の掻き寄せ

     デデン

 一月一日
 七時起床きしょう。戸を開けば、霜如雪しもゆきのごとし。裏の井戸側いどばたに行って、素裸すっぱだかになり、釣瓶つるべで三ばい頭から水を浴びる。不精者ぶしょうものくせで、毎日の冷水浴をせぬかわり、一年分を元朝がんちょうまそうと謂うのである。
 戸、まどの限りをけ、それから鶏小屋とりごや開闢かいびゃく
 はたけに出てあか実付みつき野茨のばら一枝ひとえだって廊下の釣花瓶つりはないけけ、蕾付つぼみつき白菜はくさい一株ひとかぶって、旅順りょじゅんの記念にもらった砲弾ほうだん信管しんかんのカラを内筒ないとうにした竹の花立はなたてし、食堂の六畳にかざる。旧臘きゅうろう珍らしくあたたかだったので、霜よけもせぬ白菜に蕾がついたのである。
 十時過ぎ、右の食堂で家族打寄り、梅干茶うめぼしちゃわん枯露柿ころがき今日きょう此家ここで正月を迎えた者は、主人夫妻、養女、旧臘から逗留中とうりゅうちゅうの秋田の小娘こむすめ、毎日仕事に来る片眼のかみさん。猫のトラ、犬のデカ、ピン、小犬のチョン、クマ、鶏が十五羽。
 十一時雑煮ぞうに。東京仕入の種物たねもの沢山で、すこぶるうまい。長者気ちょうじゃきどりで三碗える。尤ももちは唯三個。

           *

 朝は晴、やがて薄曇うすぐもって寒かったが、正午頃しょうごころからまた日が出てあたたかになった。
 自家うちは正月元日でも、四囲あたりが十二月一日なので、一向正月らしい気もちがせぬ。年賀に往く所もなく、来る者も無い。
 デデンがぶらりと遊びに来た。デデンは唖の巳代吉みよきちが事である。唖で口が利けぬが、挨拶あいさつをする場合には、デデンと云う声を出す。彼は姦淫かんいんの子である。戸籍面こせきめんの父はおろかで、母は莫連者ばくれんもの、実父は父の義弟ぎていで実は此村の櫟林くぬぎばやしひろわれた捨子すてごである。捨てた父母は何者か知らぬが、巳代吉が唖ながら心霊しんれい手巧しゅこう職人風のイナセな容子を見れば、祖父母の何者かが想像されぬでもない。巳代吉は三歳みっつまでは口をきいた。ある日「おっかあ、お湯が呑みてえ」と呼んだきり唖となった。何ものが彼の舌をしばったか。同じたねと云う彼の弟も盲であるのを見れば、梅毒ばいどくの遺伝もあろう。父母の心のとがめあずかって力あるかも知れぬ。兎に角彼は唖になった。
「イエス行く時、生来うまれつきなるめくらを見しが、其弟子彼に問ふて曰ひけるは、ラビ、此人の瞽に生れしは誰の罪なるや、己に由るか、又二親に由るか。イエス答へけるは、此人の罪に非ず、亦其二親の罪にもあらず、彼に由て神の作為わざの顕はれん為也。此事を言ひて地につばきし、唾にて土をき、其泥を瞽者めしひの目にり、彼に曰ひけるは、シロアムの池に往きてあらへ。彼則ち往きて洗ひ、目見ることを得て帰れり。」
 耶蘇やそほど霊力れいりょくがあるなら、巳代吉の唖は屹度きっとなおる。年来ねんらい眼の前に日々此巳代吉にあらわるゝなぞを見ながら、かなしいかな不信ふしん軽薄けいはくの余には、其謎をき其舌のしばりを解く能力ちからが無い。彼がデデンと呼んで来れば、デデンと応ずるまでゝある。

           *

 さびしい元日であった。
 あまり淋しいので、よる隣家となりの人々を案内にやったら、皆浪花節なにわぶしに出かけて留守だった。
(明治四十四年)


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     芝生の上

 正月に入って、連日れんじつ美晴びせい
 庭を歩くと、吹くともない風が冷やり/\顔をでる。日はほか/\と暖かい。すぎ鳶色とびいろになり、松は微黄びこうび、はだかになったかえでえだには、四十雀しじゅうからが五六白頬しろほ黒頭くろあたまかしげて見たり、ヒョイ/\と枝から枝に飛んだりして居る。地蔵様じぞうさまの影がうっすら地に落ちて居る。
 デカとピンとチョンが、白茶しらちゃのフラシてん敷物しきものを敷きつめた様な枯れてかわいた芝生しばふ悠々ゆうゆうそべり、満身に日をびながら、遊んで居る。過去は知らず、将来は知らず、現在の彼等は幸福こうふくである。幸福な彼等をながめてたのし主人あるじも、不幸な者とは云われない。
 勝手の方で、めしをやる合図あいず口笛くちぶえが鳴ったので、犬の家族はね起きて先を争うて走って往った。主人はやおら下駄げたをぬいで、芝生の真中まんなかに大の字に仰臥ぎょうがした。而して一鳥ぎらず片雲へんうんとどまらぬ浅碧あさみどりそらを、何時までも何時までも眺めた。
(明治四十五年 一月十日)


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     小鳥

 芝生を焼く。
 水島生みずしませいが来た。社会主義しゃかいしゅぎ神髄しんずいを返えし、大英遊記だいえいゆうきを借りて往った。林の中でひろったと云って、弾痕だんこんあるつぐみを一持て来た。食う気になれぬので、楓の下に埋葬まいそう
 銃猟じゅうりょうは面白いものであろう。小鳥はうまいものである。此村にはあまり銃猟に来る都人士もないので、小鳥は可なり多い。ある日庭を歩いて居ると、突然東の方からあらしの様な羽音はおとを立てゝ、おびただしい小鳥のむれ悲鳴ひめいをあげつゝ裏の雑木林ぞうきばやしに飛んで来た。と思うと、やがて銃声がした。小鳥はうまいものである。銃猟は面白いものであろう。然しあのあわただしい羽音と、小さな心臓しんぞう破裂はれつせんばかり驚きおびえた悲鳴を聞いては……
 午後鳥打とりうち帽子ぼうしをかぶった丁稚風でっちふうの少年が、やゝ久しく門口に立って居たが、思切ったと云う風で土間に入って来た。年は十六、弟子にして呉れと云う。えんの方へ廻れと云うたら、障子をあけてずンずン入って来たから、縁から突落して馬鹿と叱った。もと谷中村やなかむらの者で、父は今深川ふかがわ石工いしく、自身はボール箱造って、向うまかないつき六円とるそうだ。小説家なぞになるものでない、と云って聞かして、干柿ほしがきを三つくれて帰えす。
(明治四十二年 一月十七日)


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     炬燵

 雪がまだけぬ。
 夜、二畳の炬燵こたつに入って、架上かじょうの一冊をいたら、「多情多恨たじょうたこん」であった。器械的きかいてきページひるがえして居ると、ついつり込まれて読み入った。ふっと眼を上げると、向うには鶴子がやぐら突伏つっぷして好い気もちにスヤ/\寝て居る。炬燵の上には、猫がのどらさず巴形ともえなりに眠って居る。九時近い時計がカチ/\鳴る。台所では細君がさらの音をさして居る。
 茫々ぼうぼうたる過去と、漠々ばくばくたる未来の間に、この一瞬いっしゅんの現今は楽しい実在じつざいであろう。
 またさら/\と雪になった。
 余は多情多恨を読みつゞける。何と云うても名筆である。柳之助りゅうのすけ亡妻ぼうさいの墓に雨がしょぼ/\降って居たと葉山はやまに語るくだりを読むと、青山あおやま墓地ぼちにある春日かすが燈籠とうろうの立った紅葉山人こうようさんじんの墓が、と眼の前にあらわれた。忽ち其墓の前に名刺めいしを置いて落涙らくるいする一青年せいねん士官しかん姿すがたが現われる。それは寄生木やどりぎ原著者げんちょしゃである。あゝ其青年士官――彼自身最早もう故山の墓になって居るのだ。
 皆さっさと過ぎて行く。
御徐おしずかに!」
 斯く云いたい。
 何故なぜ人生はうさっさと過ぎて往ってしまうのであろう?
(明治四十二年 一月二十二日)


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     蓄音器

 あまりさびしいので、昔は嫌いなものゝ一にして居た蓄音器ちくおんきを買った。無喇叺むらっぱの小さなもので、肉声にくせいをよく明瞭めいりょうに伝える。呂昇ろしょう大隈おおすみ加賀かが宝生ほうじょう哥沢うたざわ追分おいわけ磯節いそぶし雑多ざったなものが時々余等の耳に刹那せつな妙音みょうおんを伝える。
 あたりがしずかなので、戸をしめきっても、四方に余音よいんつたわる。蓄音器があると云う事を皆知って了うた。そこで正月には村の若者四十余名を招待しょうだいして、蓄音器を興行こうぎょうした。次ぎには平生世話になる耶蘇教やそきょう信者しんじゃの家族を招待した。次ぎには畑仕事で始終厄介やっかいになる隣字となりあざの若者等を案内した。今夜は村の婦人連をまねいた。生憎あいにく前日来の雨で、到底来者きてはあるまいと思うて居ると、それでもかさをさして夕刻ゆうこくから十数人の来客らいきゃく
 妻と鶴子と逗留中とうりゅうちゅうの娘とが席に出て取持つ。
 余は母屋おもやようして、ほんを見ながら時々書院のさゞめきに耳傾ける。一曲終る毎に、入り乱れたほめ言葉が聞こえる。曲中ながら笑声が起る。二時間ばかりも過ぎた。茶菓が運ばれた。やがて誰やらクド/\言う様子であったが、音譜おんぷの中には聞き覚えのない肉声が高々と響き出した。
 余は廊下ろうかづたいに書院に往って、障子の外にたたずんだ。蓄音器が歌うのではない。田圃向たんぼむこうのお琴婆さんが歌うのである。
 田圃向うの浜田のげんさんの母者ははじゃは、余のあざで特色ある人物の一人である。彼女は神道しんどう大成教たいせいきょうの熱心な信者で、あまり大きくもない屋敷の隅には小さなほこらが祭ってあって、今でも水垢離みずごりとって、天下泰平てんかたいへい国土安穏こくどあんのん五穀成就ごこくじょうじゅ息災延命そくさいえんめいを朝々祈るのである。彼女は村の生れでなく、うわさによればさるさむらい芸妓げいしゃに生ませた女らしい。其信心は何時から始まったか知らぬが、其夫が激烈げきれつ脚気かっけにかゝって已に衝心しょうしんした時、彼女は身命しんめいなげうって祈ったれば、神のお告に九年余命よめいさずくるとあった。果然はたして夫の病気はたたみの目一つずつ漸々快方に向って、九年の後死んだ。顔の蒼白い、頬骨ほおぼねの高い、眼のすごい、義太夫語りの様な錆声さびごえをした婆さんである。「折目高おりめだかなる武家ぶけ挨拶あいさつ」と云う様な切口上で挨拶をするのが癖である。今日も朝方あさがた蓄音器招待のれいに、季節には珍らしいたけのこ二本持て来てくれた。
 琴婆さんは蓄音器の返礼へんれいにと云って、文句もんくは自作の寿ことぶきを唄うて居る。
「福富サンが、皆を集めて遊ばせて下さるゥ……(如何どうも声が出ないものですから、エヘン、エヘン――ウーイ、ウーイ、ウーイ)……御親切な福富さんの(ウーイ、ウーイ)ます/\御繁昌ごはんじょうで(ウーイ、ウーイ)おもての方から千両箱、右の方から宝船たからぶね(ウーイ、ウーイ)……
 障子の外に立聞く主人は、冷汗が流れた。彼はそっとぬき足して母屋に帰った。うたはまだつゞいて、(ウーイ、ウーイ)が Refrain の様に響いて来る。
(明治四十五年 二月六日)


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     春七日

       (一)雛節句

 三月三日。別に買った雛も無いから、細君が鶴子を相手に紙雛を折ったり、色紙いろがみの鶴、香箱こうばこ三方さんぼう四方しほうを折ったり、あらん限りの可愛いものを集めて、雛壇ひなだんかざった。
 草餅くさもちが出来た。よもぎは昨日鶴子が夏やと田圃たんぼに往ってんだのである。東京の草餅は、染料せんりょうを使うから、色は美しいが、肝腎かんじんの香がうすい。
 今朝は非常の霜だった。ひるの前後はまた無闇むやみあたたかで、急に梅が咲き、雪柳ゆきやなぎが青く芽をふいた。山茱萸さんしいは黄色の花ざかり。赤いつぼみ沈丁花ちんちょうげも一つ白い口をった。春蘭しゅんらん水仙すいせんの蕾が出て来た。
 雲雀ひばりしきりに鳴く。麦畑むぎばた陽炎かげろうが立つ。
 唖の巳代吉が裸馬はだかうまに乗って来た。女子供がキャッ/\さわぎながら麦畑の向うを通る。若い者が大勢おおぜい大師様の参詣さんけいに出かける。
 春だ。
 恋猫こいねこ恋犬こいいぬにわとりは出しても/\につき、すずめは夫婦で無暗むやみに人のうち家根やねに穴をつくり、木々は芽を吐き、花をさかす。犬のピンのはらははりきれそうである。
 夜は松の心芽しんめほどの小さな蝋燭ろうそくをともして、雛壇がうつくしかった。

       (二)春雨

 三月六日。
 尽日じんじつ雨、山陽さんよう所謂いわゆる春雨はるさめさびしく候」と云う日。
 書窓しょそうから眺めると、灰色はいいろをした小雨こさめが、噴霧器ふんむきく様に、ふっ――ふっと北からなかぱらの杉の森をかすめてはすいくしきりもしぶいて通る。
 つく/″\見て居る内に、英国の発狂はっきょう詩人しじんワットソンの God comes down in the rain 神は雨にてくだり玉う、と云う句を不図ふとおもい出した。其れは「田舎いなか信心しんじん」と云う短詩の一句である。全詩ぜんしは忘れたが、右の句と、「此処ここ田舎の村にては、神を信頼しんらいの一念今も尚存し」と云う句と、結句の「此れぞ田舎の信心なる、此れに越すものあらめやも」と云う句を覚えて居る。
 農村のうそん天道様てんとうさまの信心が無くなったら、農村の破滅はめつである。然るに此信心は日に/\消亡しょうもうして、人智人巧唯我唯利の風が日々農村人心の分解ぶんかいうながしつゝあるのだ。少しでも農村の実情を見知る者は、前途を懸念けねんせずには居られぬ。

       (三)雨後

 三月七日。
 近来よく降る。降らなければくもる。所謂養花ようかの天。
 今日は日が出た。朝からあたたかだ。鶏の声が殊に長閑のどかに聞こえる。昨日終日終夜の雨で、畑も土も真黒に潤うた。麦の緑が目立ってうなった。緑の麦は、見る眼の驩喜よろこびである。其れがやわらかな日光にみ、若くは面を吹いて寒からぬ程の微風びふうにソヨぐ時、或は夕雲ゆうぐもかげに青黒くもだす時、花何ものぞと云いたい程美しい。
 隣家では最早もう馬鈴薯じゃがいもを植えた。
 午後少し高井戸の方を歩く。米俵を積んだ荷馬車が来る。行きすりに不図目にとまった馬子まご風流ふうりゅうたわらに白い梅の枝がしてある。白い蝶が一つ、黒に青紋あおもんのある蝶が一つ、花にもつれて何処までもひら/\飛んでいて行く。馬子は知らずに好い声を張り上げて、
「飲めよ、ネェ、騒げェよ、三十がァゥめェよゥ。三十ぎればァ、たゞのひいとゥ。コラ/\」
 朝の模様で、今日は美晴と思われたが、矢張気の定まらぬ日であった。時々ざあと時雨しぐれの様に降っては止み、東ににじが出たり、西に日があらわれて遠方の屋根が白く光ったり、北風が来て田圃たんぼの小川のふちとる女竹めたけやぶをざわ/\鳴らしてはきら/\日光をおどらせたりした。そらの一部は印度藍色いんどあいいろ片曇かたくもりし、村と緑の麦の一部はまぶしい片明かたあかりして、ミレーの「春」を活かして見る様であった。

       (四)摘草

 三月八日。
 今日も雲雀ひばりが頻に鳴く。
 午食前ひるめしまえに、夫妻鶴子ピンを連れて田圃に摘草つみくさに出た。田のくろの猫柳が絹毛きぬげかつぎを脱いできいろい花になった。路傍みちばた草木瓜くさぼけつぼみあけにふくれた。花は兎に角、吾儕われら附近あたりは自然の食物には極めて貧しい処である。せり少々、嫁菜よめな少々、蒲公英たんぽぽ少々、野蒜のびる少々、ふきとうが唯三つ四つ、穫物えものは此れっきりであった。
 午後ほんを読んで居ると、空中くうちゅうに大きな物のうなり声が響く。縁から見上げると、夏に見る様な白銅色の巻雲けんうんうしろにして、南のそらに赤い大紙鳶おおだこが一つあがって居る。ブラ下げた長い長い二本のなわあしやわらかに空中に波うたして、紙鳶たここころ長閑のどか虚空こくうの海に立泳たちおよぎをして居る。ブーンと云うウナリが、武蔵野一ぱいに響き渡る。
 春だ。
 晩食に摘草の馳走。野蒜の酢味噌すみそ、ひたし物の嫁菜はにがかった。

       (五)彼岸入り

 三月十八日。彼岸の入り。
 風はまだつめたいが、雲雀の歌にも心なしかちからがついて、富士も鉛色なまりいろあわかすむ。
 庭には沈丁花ちんちょうげあまが日も夜もあふれる。梅は赤いがくになって、晩咲おそざき紅梅こうばいの蕾がふくれた。犬が母子おやこ芝生しばふにトチくるう。猫が小犬の様にまわる。
 春だ。
 彼岸入りで、団子だんごが出来た。
 墓参が多い。
 夕方、しずかになった墓地に往って見る。沈丁花ちんちょうげ赤椿あかつばきの枝が墓前ぼぜん竹筒たけつつや土にしてある。線香せんこうけむりしずかにあがって居る。不図見ると、地蔵様の一人ひとり紅木綿べにもめんの着物をて居られる。先月おさな娘をくした松さんとこでせ申したのであろう。

       (六)蛇出穴

 三月二十八日。
 近来の美晴。朝飯後高井戸に行って、石を買う。武蔵野に石は無い。砂利じゃり玉石たまいしは玉川最寄もよりから来るが、沢庵たくあん重石おもし以上は上流青梅あおめ方角から来る。一貫目一銭五厘の相場そうばだ。えらんだ石をはかりにかけさせて居たら、土方体どかたていの男が通りかゝって眼をみはり、
「石を衡にかける――驚いたな」
と云った。
 午後は田圃たんぼ伝いに船橋ふなばしの方に出かける。門を出ると、墓地で蛇を見た。田圃の小川のいびの下では、子供がふなって居る。十丁そこら往って見かえると、吾家も香爐こうろいえ程に小さくかすんで居る。
 今日は夕日の富士が、画にかいた「理想りそう」の様に遠くて美しかった。

       (七)仲春

 四月十七日。
 戸をけて、海――かと思うた。家をめぐって鉛色なまりいろ朝霞あさがすみ。村々の森のこずえが、幽霊ゆうれいの様にそらに浮いて居る。雨かと舌鼓したつづみをうったら、かすみの中からぼんやりと日輪にちりんが出て来た。見る/\日の威力は加わって、光は白く霞にむせぶ。
 庭の桜の真盛りである。落葉松らくようしょう海棠かいどうは十五六の少年と十四五の少女を見る様。紫の箱根つゝじ、雪柳ゆきやなぎ、紅白の椿、皆真盛り。一重山吹も咲き出した。セイゲン、ヤシオなど云う血紅色けっこうしょく紅褐色こうかっしょくの春モミジはもとより、もみじかえでならけやき、ソロなどの新芽しんめは、とり/″\に花より美しい。
 畑に出て見る。ただ一叢ひとむらの黄なる菜花なのはなに、白い蝶が面白そうに飛んで居る。南の方を見ると、中っ原、廻沢めぐりさわのあたり、桃のくれないは淡く、李は白く、北を見ると仁左衛門の大欅おおけやきが春の空をでつゝ褐色かっしょくけぶって居る。
 春の日も午近くなれば、大分青んで来た芝生に新楓しんふうの影しげく、遊びくたびれてふたともえに寝て居る小さな母子おやこの犬の黒光くろびかりするはだの上に、さくら花片はなびらが二つ三つほろ/\とこぼれる。風が吹く。木影こかげうごく。蛙が鳴く。一寸ちょっと耳をびちっと動かした母犬おやいぬは、またスヤ/\と夢をつゞける。
 夕方は、まんまるなあかい日が、まんじりともせず悠々ゆうゆうと西に落ちて行く。横雲よこぐもが一寸一刷毛ひとはけ日の真中を横になすって、画にして見せる。最早もうはらんだ青麦あおむぎが夕風にそよぐ。
 夜は蛙の声の白い月夜。
(明治四十三年)


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     ある夜

 梅におそく桜に早い四月一日の事。
 余は三時過ぎから、ある事の為にある若い婦人を伴うて、粕谷から高輪たかなわに往った。午後の六時から十一時過ぎまで、ある家の主人を訪うてある事を弁じつゞけ、要領を得ずして其家を辞した時は、最早十二時近かった。それでも終電車に乗るを得て、婦人は三宅坂みやけざかで下りて所縁しょえんの家へ、余は青山で下りて兄の家に往った。
 寝入りばなと見えて、門をたたけど呼べど叫べど醒めてくれぬ。つい近所にめいの家があるが、臨月近い彼女を驚かすのも面白くない。余は青山の通を御所ごしょの方へあるいて、交番に巡査を見出し、其指図で北町裏の宿屋を一二軒敲き起した。寤めは寤たが、満員と体の好いうそを云って謝絶された。
 電車はとくに寝に往って了った。夜が明けたら築地の病院に腫物しゅもつんで入院して居る父を見舞うつもりで、其れ迄新橋停車場の待合室にでも往って寝ようと、月明りと電燈瓦斯の光を踏んで、ぶら/\溜池の通を歩いて新橋に往った。往って見ると此は不覚ふかくがしまって居る。駅夫えきふに聞くと、睡むそうな声して、四時半まではあけぬと云う。まだ二時前である。
 電燈ばかり明るくてポンペイの廃墟はいきょの様にさびしい銀座の通りを歩いて東へ折れ、歌舞伎座前を築地の方へ往った。万年橋のたもとに黙阿弥の芝居に出て来そうな夜啼よなき饂飩うどんが居る。夜は丑満うしみつごろで、薄寒くもあり、腹もった。
「おい、饂飩を一つくれんか」
「へえ」
 の蔭から六十近いおやじが顔を出して一寸余を見たが、直ぐ団扇うちわでばたばたやりはじめた。後の方には車が二台居る。車夫の一人はいびきをかいて居る。一人は蹴込けこみに腰をえて、膝かけを頭からかぶって黙って居る。
「へえ、出来ました」
 割箸わりばしを添えて爺が手渡すどんぶりを受取って、一口ひとくちすすると、なまぐさいダシでむかッと来たが、それでも二杯食った。
「おい、もう二つこさえて呉れ」
 余は代を払い、「ドウモ御馳走様! おい、旦那が下さるとよ」と車夫が他の一人を呼びさます声を聞きすてゝ万年橋を渡った。つい其処の歌舞伎座の書割かきわりにある様な紅味あかみを帯びた十一日の月が電線でんせんにぶら下って居る。
 築地外科病院の鉄扉てっぴは勿論しまって居た。父のと思わるゝ二階の一室に、ひいた窓帷まどかけしに樺色かばいろの光がさして居る。余は耳を澄ました。人のうめき声がしたかと思うたが、其は僻耳ひがみみであったかも知れぬ。父は熟睡じゅくすいして居るのであろう。其子の一人が今病室のあかりながめて、この深夜よふけに窓の下を徘徊して居るとは夢にも知らぬであろう。
 ねむくなった。頭がしびれて来た。何処でもよい、此重い頭を横たえたくなった。余はうつら/\と夢心地に本願寺の近辺をぶらついた。体で余は歩かなかった。幽霊のようにふら/\とさまようた。不図墓地に入った。此処は余も知って居る。曾て一葉いちよう女史じょしの墓を見に来た時歩き廻った墓地である。余は月あかりに墓と墓の間をうて歩いた。誰やらの墓の台石だいいしに腰かけて見た。然し此処は永く眠るべき場所である。一夜の死をく可き場所ではない。余は墓地から追い出されて、また本願寺前の広場に出た。
 不図本願寺の門があいて居るのを見つけた。門口には巡査か門番かの小屋こやがあって、あかりがついて居る。然し誰とがむる者も無いので、突々つつと入って、本堂のえんに上った。大分西に傾いた月の光は地をうて、本堂の縁はくらかげになって居る。やっと安息の場所をて、広縁ひろえんに風呂敷を敷き、手枕たまくらをして横になった。少しウト/\するかと思うと、直ぐ頭の上で何やらばさ/\と云う響がした。余は眼をいて頭上ずじょうやみを見た。同時に闇の中に「ク□ク□」と云うささやきを聞いた。
「あ、はとだ」
 余はまたウト/\となった。
 月は次第に落ちて行く。
(明治四十二年 四月一日)


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     与右衛門さん

 村の三月節句で、皆が遊んであるく。家はつぶされ、法律上の妻には出て往かれ、今は実家の厄介やっかいになって居るひささんが、なに発心ほっしんしてか今日はまる/\の青坊主あおぼうずって、手拭肩に独ぶら/\歩いて居る。
 甲州街道の小間物屋のおかみが荷を背負せおって来た。「ドウもねえあなた、天道様てんとうさまに可愛がられまして、此通り真黒でございます」とほおでる。気の利いた口のきゝぶり、前半生に面白い話を持て居そうな女だ。負ってあるく荷は十貫目からあると云う。細君が鬢櫛びんぐしと鶴子の花簪はなかんざしを買うた。
 小間物屋のおかみが帰ると、与右衛門よえもんさんが地所を買わぬかと云うて来た。少しばかりの地面を買って古い家を建てたりしたので、やれ地面を買わぬかの、古い天水桶用てんすいおけようかまを買わぬかの、植木の売物があるのと、あり砂糖さとうにつく如くたかってくる。金が無いと云っても、中々本当ほんとにしてくれぬ。与右衛門さんも其一人である。
 与右衛門さんは、村内そんないっての吾儘者わがままもの剛慾者ごうよくものとしてのけものにさるゝ男である。村内でも工面くめんのよい方で、としもまだ五十左右さう、がっしりした岩畳がんじょうの体格、濃い眉の下にいたじゃの目の様な二つの眼は鋭く見つめて容易に動かず、頭の頂辺てっぺんから足の爪先つまさきまで慾気よくけ満々まんまんとして寸分のタルミも無い。岩畳な彼をるゝその家は、基礎どだい切石きりいしにし、はしらの数を多くし、屋根をトタンでつつみ、えんけやきで張り、木造のおにいわやの如く岩畳である。彼に属する一切のものは、其堅牢けんろうな意志の発現はつげんである。彼が家の子女は何処の子女よりも岩畳である。彼の家の黒猫は、小さな犬より大きく、村内の如何なる猫も其に恐れぬものは無い。彼が家の麦からのたばは、他家よその二倍もある。彼が家の夜具よるのものは、宇都宮うつのみや釣天井つりてんじょう程に重く大きなものだ。彼が家の婆さんは、七十過ぎて元気おさ/\若者をしのぐ婆さんである。婆さんの曰く、わたしうちは信心なんざしませんや。正に其通り、与右衛門さんは神仏かみほとけなんか信ずる様な事はせぬ、徹頭徹尾自力宗じりきしゅうの信者である。遠い神仏しんぶつを信心するでもなければ、近所隣の思惑おもわくや評判を気にするでもなく、流行はやりとか外聞がいぶんとかつきあいとか云うことは、一切禁物で、たのむ所は自家の頭と腕、目ざすものは金である。与右衛門さんには道楽どうらくと云うものが無いが、金と酒は生命いのちにかけて好きである。うち晩酌ばんしゃくに飲み、村の集会で飲み、有権者だけに衆議院議員の選挙せんきょ振舞ぶるまいで飲み、どうやらすると昼日中ひるひなかおかずばあさんの小店こみせで一人で飲んで真赤まっか上機嫌じょうきげんになって、笑って無暗むやみにお辞義をしたり、くだを巻いたり、気焔きえんいたりして居ることがある。皆が店をのぞいて、与右衛門さんのおかぶ梅ヶ谷の独相撲ひとりずもうがはじまりだ、と笑う。与右衛門さんは何処までも自己中心である。人が与右衛門さんの地所を世話すれば、世話人は差措さしおいて必直談じきだんに来る。自身の世話しかけた地所を人が直談にすれば、一盃機嫌で怒鳴どなり込んで来る。
 然し与右衛門さんは強慾ごうよくであるかわり、彼はうそを云わぬ。詐は貨幣かね同様どうよう天下のとおり物である。都でも、田舎でも、皆それ/″\に詐をつく。多くの商売は詐にかれた蜃気楼しんきろうと云ってもよい。此辺の田舎でも、ちっとまとまった買物を頼めば、売主は頼まれた人に、受取うけとり幾何金いくらと書きましょうか、ときく。コムミッションの天引てんびきほとんど不文律になって居る。人を見てを云う位は、世にも自然な事共である。東京から越して来た人にまきを売った者がある。他の村人が、あまり値段ねだんが高いじゃないかと注意したら、売り主の曰く、そりゃちったア高いかもんねえが、何某なにがしさんは金持かねもちだもの、此様な時にでもちったうけさしてもらわにゃ、と。そうして薪の売主は、衆議院議員選挙権を有って居る、新聞位は読んで居る男である。売る葺萱ふきがやの中にくずをつめ込んでたばを多くする位は何でも無い。
 誰も平気にうそをつく。然し看板かんばんを出した慾張り屋の与右衛門さんは、詐を云わぬ、いかさまをせぬ。それから彼は作代さくだいに妻をもたせて一家を立てゝやったり、義弟が脚部に負傷ふしょうしたりすると、荷車にのせて自身いて一里余の道を何十度も医者へ通ったり、よく縁者の面倒めんどうを見る。与右衛門さんに自慢話じまんばなしがある。東京者が杉山か何か買って木をらした時、其木が倒れてあやまって隣合となりあって居る彼与右衛門が所有林しょゆうりん雑木ぞうきの一本を折った。最初無断むだんで杉を伐りはじめたのであった。与右衛門さんはれい毛虫眉けむしまゆをぴりりとさせて苦情くじょうを持込んだ。御自分に御買いになった木を御伐おきりになるに申分は無いが、何故なぜ此方の山の木まで御折りになったか、金が欲しくて苦情を申すでは無い、金は入りません、折れた木をもとの様にしていただきたい。思いがけない剛敵ごうてき出会でっくわして、東京者も弱った。与右衛門さんは散々並べて先方せんぽうこまらせぬいた揚句あげく、多分の賠償金ばいしょうきん詫言わびごとをせしめて、やっと不承ふしょうした。右は東京者に打勝った与右衛門さんの手柄話の一節である。与右衛門さんは、東京者に此手で行くばかりでなく、近所隣までも此の筆法で行く。そこで与右衛門さんをはばかって、其の地所の隣地に一寸した事をするにも、屹度きっとわたりをつける。
 与右衛門さんは評判の長話家ながばなしやである。鍬を肩にして野ら仕事の出がけに鉢巻とって「今日こんにちは」の挨拶あいさつからはじめて、三十分一時間の立話たちばなしは、珍らしくもない。今日も煙管きせるをしまっては出し、しまっては出し、到頭二時間と云うものぶっ通しに話された。与右衛門さんは中々の精力家である。「どうもダイさんとしては地所程好いダイ産はありませんからナ」の百万べんを聞かされた。
「でも斯様こんな時代もあったですよ」
と云って、与右衛門さんは九度目ここのたびめき出した煙管きせるに煙草をつめながら、斯様こんな話をした。
 此辺はもと徳川様の天領てんりょうで、おさめ物の米や何かは八王子はちおうじ代官所だいかんしょまで一々持って往ったものだ。八王子まではざっと六里、余り面倒なので、田はうっちゃってしまえと云う気になり、粕谷では田を一切烏山からすやまにやるからもらってくれぬかと相談をかけた。烏山では、タヾでは貰えぬ、と言う。到頭馬弐駄に酒樽さかだるをつけて、やっと厄介な田を譲った。
うその様な話でさ。惜しい事さね、今ならば……」
と云って、与右衛門さんは煙管きせる雁管がんくびをポンと火鉢にはたいて、今にも水がりそうな口もとをした。
(明治四十四年 四月三日)


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     五月五日

 五月五日。日曜。節句。余等が結婚十九年の記念日。例によって赤の飯、若芽わかめ味噌汁みそしる
 朝飯すまして一家買物に東京行。東京には招魂祭、府中には大国魂おおくにたま神社じんしゃの祭礼があるので、甲州街道も東へ往ったり西へ来たり人通りがにぎやかだ。新宿、九段、上野、青山とまわって、帰途に就いたのが、午後四時過ぎ。東京は賑やかで面白い。賑やかで面白い東京から帰って来ると、田舎も中々悪くない。西日にしびに光る若葉の村々には、あかい鯉が緑の中からふわりと浮いて居る。麦の穂は一面白金色はくきんしょくに光り、かわず鳴く田は紫雲英れんげそうくれないを敷き、短冊形たんざくがた苗代なわしろには最早嫩緑どんりょくはりがぽつ/\芽ぐんで居る。夕雲雀ゆうひばりが鳴く。日の入る甲州の山の方からちりのまじらぬ風がソヨ/\顔を吹く。府中の方から大国魂神社の大太鼓おおたいこがドン/\とはるかひびいて来る。
 帰宅したのが六時過ぎ。正面まともに見てまぶしくない大きな黄銅色しんちゅういろ日輪にちりんが、今しも橋場はしば杉木立すぎこだちに沈みかけた所である。
 本当に日が永い。
 留守に隣から今年ことし□餅かしわもちをもらった。
 留守に今一つの出来事があった。橋本のいさちゃんが、浜田のばあさんに連れられ、高島田たかしまだ紋付もんつき、真白にって、婚礼こんれい挨拶あいさつに来たそうだ。うつくしゅうござんした、とおんなが云う。
 いさちゃんは此辺でのハイカラ娘である。東京のさる身分ある人の女で、里子に来て、もらわれて橋本の女になった。橋本の嗣子あととりが亡くなったので、実弟の谷さんを順養子じゅんようしにして、いさちゃんをめあわしたのである。余等が千歳村にして程なく、時々遊びに来る村の娘の中に、あかぬけした娘が居た。それがいさちゃんであった。彼女は高等小学をえ、裁縫さいほう稽古けいこに通った。正月なんか、庇髪ひさしってリボンをかけて着物をえた所は、争われぬ都の娘であったが、それでも平生ふだんは平気に村の娘同様の仕事をして、路の悪い時は肥車こやしぐるま後押あとおしもし、目籠めかご背負せおって茄子なす隠元いんげん収穫しゅうかくにも往った。実家の母やマアガレットに結って居る姉妹等が遊びに来ても、いさちゃんはさして恥じらう風情ふぜいも無かった。
 田舎はさびしい。人がえ家が殖えるのは、田舎の歓喜よろこびである。人が喰合くいあう都会では、人口の増加は苦痛くつうの問題だが、自然を相手に人間のたたかう田舎の村では、味方の人数が多い事は何よりも力で強味つよみである。小人数こにんずの家は、田舎ではみじめなものだ。の家でも、五人六人子供の無いうちは無い。この部落ぶらくでも、鴫田しぎだや寺本の様に屈強くっきょう男子おとこのこの五人三人持て居るうちは、いえさかえるし、何かにつけて威勢いせいがよい。養蚕ようさんおも副業ふくぎょうの此地方では、女の子も大切だいじにされる。貧しいうち扶持ふちとりに里子をとるばかりでなく、有福ゆうふくうちでも里子をとり、それなりに貰ってしまうのが少なくない。其まゝに大きくして、内のよめにするのが多い。所謂いわゆるつぼみからとる花嫁御はなよめご」である。一家総労働の農家では、主僕の間にへだてがない様に、実の娘と養女の間に格別かくべつ差等さとうはない。養われた子女が大きくなっても、別に東京恋しとも思わず、東京に往っても直ぐ田舎に帰って来る。
 都会に近い田舎の事で、うちも多少の親類を東京にって居る。村の祭には東京からも遊びに来る。農閑のうかんの季節には、田舎からも東京に遊びに行く。たつじいさんは浅草に親類がある。時々遊びに行くが、帰ると溜息ためいきついて曰く、全く田舎がえナ、浅草なンか裏が狭くて、雪隠せっちんに往ってもはなつっつく、田舎にけえると爽々せいせいするだ、親類のやつが百姓は一日いちにちにいくらもうかるってきくから、こちとらは帳面なンかつけやしねえ、年の暮になりゃ足りた時は足りた、あまらねえ時は剰らねえンだ、って左様そう云ってやりましたよ、と。
 東京に往けば、人間にけます、と皆が云う。むぎ程人間の顔がある東京では、人間の顔見るばかりでも田舎者はくたびれてしまう。其処そこ電話でんわりんが鳴る。電車がとおる。自動車が走る。号外ごうがいが飛ぶ。何かは知らず滅多めった無性むしょうせわしそうだ。斯様こんうずの中にまれると、杢兵衛もくべえ太五作たごさくも足の下が妙にこそばゆくなって、宛無あてなしの電話でもかけ、要もないに電車に飛び乗りでもせねばまぬ気になる。ゆっくりした田舎の時間じかん空間くうかんの中に住みれては、東京好しといえど、久恋きゅうれん住家すみかでは無い。だから皆帰りには欣々として帰って来る。
 田舎では、ゆたかな生計くらしうちでも、むすめを東京に奉公に出す。女の奉公と、男の兵役とは、村の両遊学りょうゆうがくである。勿論弊害もあるが、軍隊に出た男はがいして話せる男になって帰って来る。いさちゃんのお婿むこさんなども、日露戦争にも出て、何処どこやらあかぬけのした在郷ざいごう軍人ぐんじんである。奉公に出た女にも、東京に嫁入よめいる者もあるが、田舎に帰ってとつぐ者が多い。何を云うても田舎は豊かである。田舎に生れた者が田舎をうばかりでなく、都に生れた者でも田舎に育てば矢張田舎が恋しくなる。
 いさちゃんも好い生涯しょうがいを与えられた。
(明治四十五年)


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     紫雲英

 午後の散歩に一家打連うちつれて八幡山はちまんやま北沢間きたざわかん田圃たんぼに往った。紫雲英れんげそうの花盛りである。
 此処は西欝々うつうつとした杉山すぎやまと、東若々わかわかとした雑木山ぞうきやまみどりかこまれた田圃で、はるか北手きたてに甲州街道が見えるが、豆人とうじん寸馬すんば遠く人生行路じんせいこうろを見る様で、かえってあたりのしずけさをえる。主人と妻と女児むすめと、田のくろ鬼芝おにしばに腰を下ろして、持参じさん林檎りんごかじった。背後うしろには生温なまぬる田川たがわの水がちょろ/\流れて居る。前はうねから畝へ花毛氈はなもうせんを敷いた紫雲英の上に、春もやゝ暮近くれちかい五月の午後の日がゆたかににおうて居る。ソヨ/\と西から風が来る。見るかぎり桃色ももいろさざなみが立つ。白い蝶が二つもつれ合うてヒラ/\と舞うて居る。いて来た大きな犬のデカと小さなピンが、かえるを追ったり、何かフッ/\いだりして、面白そうに花の海をみ分けて、淡紅ときの中になかくぼい緑のすじをつける。熟々つくづくと見て居ると、くれない歓楽かんらくの世にひとり聖者せいじゃさびしげな白い紫雲英が、彼所かしこに一本、此処ここに一かぶ、眼に立って見える。主人はやおら立って、野に置くべきを我庭にうつさんと白きを掘る。白い胸掛むねかけをした鶴子は、むしろ其美しきをえらんでみ且摘み、小さな手に持ち切れぬ程になったのを母の手にあずけて、また盛に摘んで居る。
 主人は田川の生温なまぬるい水で泥手どろてを洗って、鬼芝の畔に腰かけつゝ、紫雲英を摘む女児を眺めて居る。ぽか/\した暮春ぼしゅん日光ひざしと、目にうつる紫雲英のあたたかい色は、何時しか彼をうっとりと三十余年の昔に連れ帰るのであった。
 時は明治十年である。彼は十歳の子供である。彼の郷里は西郷戦争の中心になった。父は祖父をして遠方に避難ひなんし、兄は京都の英学校に居り、家族の中で唯一人ただひとりの男の彼は、母と三人の姉と熊本を東南にる四里の山中の伯父おじの家に避難した。山桜やまざくらも散ってたけのこが出る四月の末、熊本城のかこみけたので、避難の一家は急いで帰途に就いた。伯父の家から川にうて一里下れば木山町、二里下ると沼山津ぬやまづ村。今夜は沼山津とまりの予定であった。皆徒歩かちだった。木山まで下ると、山から野に出る。彼等は川堤かわつつみを水と共に下って往った。堤の北は藻隠もがくれにふなの住む川で、堤の南は一面の田、紫雲英が花毛氈はなもうせんを敷き、其の絶間たえま□□たえまには水銹みずさび茜色あかねいろ水蓋みずぶたをして居た。行く程に馬上の士官が来た。母が日傘ひがさを横にして会釈えしゃくし、最早もう熊本に帰っても宜しゅうございましょうかと云うた。いとも/\、みんなひどい目にったなあ。と士官が馬上から挨拶あいさつした。其処そこ土俵どひょうきずいた台場だいば――堡塁ほるいがあった。木山の本営ほんえい引揚ひきあげる前、薩軍さつぐんって官軍をふせいだ処である。今はけんの兵士が番して居た。会釈して一同其処を通りかゝると、蛇が一疋のたくって居る。蛇嫌へびぎらいの彼は、色を変えて立どまった。兵士が笑って、銃剣じゅうけんさきで蛇をつっかけて、堤外ていがいほうり出した。無事にこの関所せきしょも越して、彼は母と姉と□々ききとして堤を歩んだ。春の日はぽかり/\春の水はのたり/\、堤外は一面の紫雲英で、空には雲雀ひばり、田にはかわずが鳴いて居る。明日あすうちに帰る前に今夜とまる沼山津の村は、一里向うに霞んで居る。……
阿父おとうさん、ほら此様こんなに摘んでよ」
 吾にえった彼の眼の前に、両手りょうてにつまんで立った鶴子のしろ胸掛むねかけから、花の臙脂えんじがこぼれそうになって居る。
(明治四十四年 五月八日)


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     印度洋

 夜、新聞で見ると、長谷川はせがわ二葉亭ふたばてい氏が肺病で露西亜から帰国の船中、コロムボ新嘉坡シンガポールの間で死んだとある。去十日の事。
 馬琴物ばきんものから雪中梅型せっちゅうばいがたのガラクタ小説に耽溺たんできして居た余に、「浮雲うきぐも」は何たる驚駭おどろきであったろう。余ははじめて人間の解剖室かいぼうしつに引ずり込まれたかの如く、メスの様な其筆尖ふでさきが唯恐ろしかった。それからツルゲーネフの翻訳「あひゞき」を国民の友で、「めぐりあひ」を都の花で見た時、余は世にも斯様こんな美しい世界があるかと嘆息した。り返えし読んで足らず、手ずからうつしたものだ。其後「血笑記けっしょうき」を除く外、翻訳物は大抵見た。「その面影おもかげ」はあまり面白いとも思わなかった。「平凡へいぼん」は新聞で半分から先きを見た。浮雲の筆はれきって、ぱっちり眼を開いた五十男の皮肉ひにく鋭利えいりと、めきった人のさびしさが犇々ひしひしと胸にせまるものがあった。朝日から露西亜へ派遣はけんされた時、余は其通信の一ぎょうも見落さなかった。通信の筆は数回ではたと絶えた。そうして帰朝中途の死!
 印度洋はよく人の死ぬ所である。昔から船艦せんかんの中で死んで印度洋の水底にほうむられた人は数知れぬ。印度洋で死んだ日本人も一人や二人では無い。知人ちじん柳房生りゅうぼうせいの親戚某神学士ぼうしんがくしも、病を得て英国から帰途印度洋で死んで、新嘉坡シンガポールに葬られた。二葉亭氏も印度洋で死んで新嘉坡で火葬され、骨になって日本に帰るのである。
 高山こうざんふもとの谷は深い。世界第一の高峻こうしゅん雪山せつさんつ印度のうみは、幾干いくばくの人の死体を埋めても埋めても埋めきれぬ。其りく菩提樹ぼだいじゅの蔭に「死の宗教」の花が咲いた印度のうみは、を求めてくことを知らぬ死の海である。烈しいあつさのせいもあろうが、印度洋は人の気を変にする。日本郵船のある水夫は、コロムボで気が変になり、春画しゅんがなど水夫部屋にかざっておがんだりして居たが、到頭印度洋の波を分けて水底深くしずんで了うた、と其船の人が余に語り聞かせた。印度洋のかの不可思議ふかしぎな色をして千劫せんごう万劫まんごうむ時もなくゆらめくなぞの様な水面すいめん熟々つくづくと見て居れば、引き入れられる様で、吾れ知らず飛び込みたくなる。
 三年前余は印度洋を東から西へと渡った。日々海をながめて暮らした。海の魔力まりょくが次第に及ぶを感じた。三等船客の中に、眼がわるいので欧洲おうしゅうまわりで渡米する一青年があって「思出おもいで」を持て居た。ペナンからコロムボ中間ちゅうかんで、余は其思出の記を甲板かんぱんから印度洋へほうり込んだ。思出の記は一瞬いっしゅん水煙みずけむりを立てゝ印度洋の底深そこふかく沈んで往ったようであったが、彼小人菊池慎太郎が果して往生おうじょうしたや否は疑問である。印度洋は妙に人を死にさそう処だ。
(明治四十二年 五月十二日)


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     自動車

 九十一歳の父と、八十四歳の母と逗留とうりゅうに来ると云う。青山から人力車では、一時間半はかゝる。去年までは車にしたが、今年ことしは今少しらくなものをと考えて、到頭以前睥睨へいげいして居た自動車をとることにした。実は自身乗って見たかったのである。
 自動車は余の嫌いなものゝひとつである。曾て溜池ためいけ演伎座前えんぎざまえで、微速力びそくりょくけて来た自動車をけおくれて、田舎者の婆さんが洋傘こうもりを引かけられてころんだ。幸に大した怪我けがはなかったが、其時自動車の内から若い西洋人がやおら立上り、小雨こさめいとうて悠々ゆうゆう洋傘こうもりをひらいて下り立った容子のあまりに落つき払ったのを、眼前に見た余は、其西洋人を合せて自動車に対する憎悪ぞうおおさえかねた。自動車は其後余の嫌いなものゝひとつであった。
 然るに自身乗って見れば、案外乗心地が好い。青山から余の村まで三十分で来た。父が「一家鶏犬一車上、器機妙用瞬間行」なぞ悪詩あくしを作った。工合ぐあいが好いので、帰りも自動車にした。今度のはちと大きく、宅のそばまでは来ぬと云う。五丁程歩んで、乗った。栗梅色くりうめいろった真新まあたらしい箱馬車式はこばしゃしきの立派なものだ。米国から一昨日着いたばかり、全速ぜんそく五十まいる、六千円出たそうだ。父、母、姉、妻、女は硝子戸がらすどの内に、余は運転手うんてんしゅと並んで運転手台に腰かけた。
 運転手の手にハンドルが一寸ねじられると、物珍らしさにたかる村の子供のむれはなれて、自動車はふわりとすべり出した。村路そんろを出ぬけて青山街道に出る。る顔の右から左から見る中を、余は少しは得意に、多くは羞明まぶしそうに、眼を開けたりつぶったりしてせて行く。坂を下って、田圃たんぼを通って、坂を上って、車は次第に速力を出した。荷車が驚いて道側みちばた草中くさなかける。にわとり刮々くわっくわっ叫んであわてゝげる。小児こどもかたとらえ、女が眼をまるくして見送る。囂々ごうごう機関きかんる。弗々々ふっふっふっの如くらすガソリンの余煙よえんあとには塵も雲と立とうが、車上の者には何でもない。あたり構わず突進する現代精神を具象ぐしょうした車である。但人通りが少ないので、此街道は自動車には理想的な道路と云ってよい。
 豪徳寺ごうとくじ附近に来ると、自動車はひとかく入れた馬の如く、決勝点けっしょうてんを眼の前に見る走者そうしゃの如く、ながら眼をみはり、うんと口を結んで、疾風の如くせ出した。余は帽子に手をえた。麦畑や、地蔵や、眼と口を一緒いっしょにあけた女の顔や、人の声や、まぐろしくけて来てはうしろへ飛ぶ。機関の響は心臓の乱拍子らんぴょうし、車は一の砲弾ほうだんの如くひゅうしゅっうなって飛ぶ。
「今三十五まいるの速力です」
と運転手が云う。
 余は痛快であった。自動車の意志は、さながら余に乗りうつって、臆病者おくびょうものも一種の恍惚エクスタシーに入った。余は次第に大胆だいたんになった。自動車が余を載せて駈けるではなく、余自身が自動車を駆ってせて居るのだ。余はきょうじょうじた。運転手台に前途を睥睨へいげいして傲然ごうぜんとして腰かけた。道があろうと、無かろうと、斯速力で世界の果まで驀地まっしぐらに駈けて見たくなった。山となく、野となく、人でもけものでもあらゆるものを乗り越え踏みつけ、唯真直に一文字に存分に駈けて駈けて駈けぬいて見たくなった。硝子戸がらすどの内を見かえれば、母は眼を閉じ、父は口を開き、姉と妻児さいじは愉快そうに笑って話して居る。
の位でとめられるですかね」またそろ/\臆病風おくびょうかぜが吹いて来た余は、右手にかけて居る運転手に問うた。
「三間前げんまえならトメます。運転手は中々頭がなければ出来ません」
「随分神経を使うですね」
「エ、然し愉快です――ちからですから」
 たちまち世田ヶ谷村役場の十字路に来た。南に折れて、狭い路を田圃に下り、坂を上って世田ヶ谷街道に出るまで、荷車が来はせぬか、荷馬車が来はせぬか、と余はびく/\ものであった。
 世田ヶ谷に出て、三軒茶屋以往は、最早東京の場末である。電車、人力車、荷車、荷馬車、馬、さま/″\の人間の間を、悧巧りこうな自動車は巧に縫うて、家を出て三十分、まさに青山に着いた。
 余は老人子供をたすけ下ろして、ホット一息ついた。
(明治四十五年 五月十八日)


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     デカの死

 昨日隣字となりあざ知辺しるべの結婚があった。余は「みゝずのたはこと」の校正を差措さしおいて、鶴子を連れて其席につらなり、日暮れて帰ると、提灯ちょうちんともして迎えに来た女中は、デカが先刻せんこく甲州街道で自動車にかれたことを告げた。今朝も奥の雨戸をけると、芝生しばふ腹這はらばいながら、主人の顔を見て尻尾しっぽり/\した。書院の雨戸を開けると、起きて来てえんに両手をつき、主人にあたまでられてうれしそうに尾を振って居た。正午の頃までは、裏の櫟林くぬぎばやしえたりして居た。何時の間に甲州街道に遊びに往って無惨むざん最後さいごげたのか。
 尤も彼は此頃ひどく弱って居た。彼は年来ピンの押入婿おしいりむこであったが、昨秋新に村人の家に飼われた勇猛ゆうもうの白犬の為に一度噛み伏せられてピンをとられて以来、俄に弱っていちじるしく老衰して見えた。彼は其の腹慰はらいせであるかの如く、何処からかまだ子供々々した牝犬めいぬを主人の家に連れ込んだ。如何に犬好きの家でも、牝犬二匹は厄介である。主人は度々牝犬を捨てたが、直ぐ舞戻まいもどって来た。到頭近所の人を頼み、わざ/\汽車で八王子まで連れて往って捨てゝもろうた。二週間前の事である。其後デカが夜毎に帰っては来たが、ひるは其牝犬をがしあるいて居るらしかった。探がし探がして探がし得ず、がっかりした容子ようすは、主人の眼にも笑止しょうしに見えた。其様そんな事で弱って居る矢先やさき、自動車にかるゝ様なことになったのだろう。春秋しんじゅう筆法ひっぽうを以てすれば、取りも直さず牝犬を捨てた主人の余の手にかゝって死んだのである。
 彼ははたの阪川牛乳店に生れて、其処そこ此処ここに飼われた。名もポチと云い、マルと云い、色々の名をもって居た。ある大家では、籍まで入れて飼って居たが、交尾期こうびきにあまり家をあけるので、到頭離籍りせきして了うた。其様そんな事で彼は甲州街道の浮浪犬ふろういぬになり、可愛がられもしいじめられもした。最後に主従の縁を結んだのが、粕谷の犬好きの家だった。デカは粕谷の犬になって二年た。渡り者のくせで、子飼こがいから育てたピンの如くはあり得なかった。主人にいて出ても、中途から気が変って道草をったりしては、水臭みずくさいやつだと主人におこられた。雄犬のくせでもあるが、よく家をあけた。せんぬし、先々の主、其外一飯いっぱんおんあるうちをも必たずねた。悪戯いたずらでもして叱られると、直ぐ甲州街道に逃げて往った。然し彼はよく主人をはじめ一家の者になずいて、仮令余が彼をちたゝくことがあっても、彼は手足をちゞめて横になり、神妙しんみょうに頭をのべてむちを受けた。其為め余が鞭の手は自然ににぶるのであった。彼は長い間浮浪犬としてひもじい目をしたせいであろ、食物を見ると意地汚いじきたなくよだれを流した。文豪ぶんごうジョンソンが若い時非常の貧苦を経た結果、位置が出来ても、物を食えばひたいふとすじあらわれ、あせを流し、犬の如くむしゃ/\喰うた、と云う逸話を思いうかべて、甚可哀想かあいそうになった。其れから彼はもちでもやると容易よういに食わず、じっと主人の顔を見て、其れ切りですか、まだありますかと云うかおをした。三つも投げて、両手をひらいて見せると、彼は納得なっとくして、三個ながら口にくわえて、芝生に行ってゆる/\食うのが癖であった。彼は浮浪の癖が中々けなかった。せんの白も彼に色々の厄介をかけたが、デカも近所のとりを捕ったりして一再いっさいならず迷惑めいわくをかけた。去年の秋の頃は、あまりに家をあけるので、煩悩ぼんのうも消え失せ、既に離籍りせきしようかとした程であった。其れがまた以前の如く居付いつく様になり、到頭余が家のデカで死んだ。
 今朝懇意こんいの車屋がデカの死骸しがいを連れて来た。死骸は冷たくなって、少し眼をあいて居たが、一点の血痕けっこんもなく、唯鼻先はなさきに土がついて居た。其死を目撃もくげきした人の話に、デカは昨日甲州街道の給田きゅうでんに遊びに往って、夕方玉川から帰る自動車目がけてえ付いた。と思うたら、自動車のタイヤに鼻づらをかれたのであろう、ひょろ/\と二度ばかりころんだ。自動車は見かえりもせず東京の方に奔って往って了うた。其容子を見て居た人は、デカを可愛がる人であったので、デカを連れ込んで、水天宮すいてんぐう御符おふだなど飲ましたが、駄目であった。
 余は鶏柵内けいさくないのミズクサの木の根を深く掘って、こもつつんだまゝ眠った様なデカの死骸をほうむった。
(大正二年 二月十七日)


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     ハムレット

 帝国劇場で文芸協会のハムレットがある。芝居と云うものを久しく見ず、評判の帝国座もまだのぞいたことが無いので、見物に出かける。
 劇場の外観は白っぽくつめたく、あまり好い感じがせぬ。内は流石に綺羅きらびやかなものであった。二階の正面に陣取じんどって、舞台や天井てんじょう、土間、貴顕きけんのボックスと、ずっと見渡した時、吾着物の中で土臭つちくさからだ萎縮いしゅくするように感じた。
 幕が上った。十五六世紀の西洋の甲冑かっちゅうけた士卒が出て、鎌倉武士かまくらぶしせりふを使う。亡霊ぼうれいの出になる。やがて丁抹でんまるく王城おうじょうの場になる。道具立どうぐだてさびしいが、国王は眼がぎろりとして、如何にも悪党あくとうらしい。ガァツルードは血色が好過ぎ若過ぎ強過ぎた。緑の上衣の若者を一寸ハムレットかと思うたら、そうではなくて、少し傍見わきみをして居た内に、黒い喪服もふくのハムレットが出て来て、低い腰掛こしかけにかけて居た。余は熟々つくづくとハムレットの顔を見た。成程違わぬ。舞台のハムレットには、おさな顔の土肥どい君が残って居る。
 土肥君は余の同郷、小学校の同窓どうそうである。色の浅黒い、あごの四角な、ねずみの様な可愛いゝ黒い眼をした温厚おんこうな子供であった。阿父おとっさん書家しょか樵石しょうせき先生だけに、土肥君も子供の時から手跡しゅせき見事に、よく学校の先生にめられるのと、阿父が使いふるしの払子ほっすの毛先をはさみ切った様な大文字筆を持って居たのを、余は内々ひどくうらやんだものだ。其れは西郷戦争前であった。余等の仲間なかまでは、仲の好い同志遊びに往ったり来たりとまったりしたものだ。ある時余は学校の帰りに土肥君と他の二三人を「遊びにらし」と引張って、学校から小一里もある余の家にとものうた。遊んで居る内日が暮れたので、皆泊ることにした。土肥君はあのねずみの様な眼を見据みすえて、やゝ不安なさびしそうな面地をして居たが、皆に説破されて到頭泊った。枕を並べて一寝入ひとねいりしたと思うと、余等は起された。土肥君の宅から迎えの使者が来たと云うのである。土肥君はいそ/\起きて一人帰って往った。為めに余等ははなはだ興を失ったが、子供の事だ、其まゝ寝ついた。翌日はみやげにすると云うて父が秘蔵ひぞうのシャボテンのをかいで、一同土肥君の宅に押しかける途中、小川で水泳して、枯れてはいけぬと云うて砂の中にシャボテンの芽を仮植かりうえしたりしたことがある。其頃の土肥君は、色は黒いが少女おとめの様なつゝましい子であった。余は西郷戦争の翌年京都に往った。其れからかけちがって君に逢わざること三十三年。三十四年目に帝国座の舞台で丁抹でんまるくの王子として君を見るのである。
 興味は一幕毎に加わって行く。オフィリャは可憐かれんであった。劇中劇の幕の終、ハムレットの狂喜きょうきことに好かった。諫言の場もハムレットの出来は好かった。矢張王妃おうひが強過ぎた。ポロニアスは手に入ったもの。ホラシオはがぬけた。オフィリャの狂態きょうたいになっての出はすごく好かった。墓場はかば墓掘はかほりの歌う声が実に好く、仕ぐさも軽妙であった。
 要するに帝国劇場は荘麗なもの、沙翁劇さおうげき真面目まじめで案外面白いものであった。
 大詰おおづめの幕がひかれたのが、九時過ぎ。新宿から車で帰る。提灯ちょうちんの火がうつる程、街道かいどうは水がたまって居る。
「降ったね」
「えゝ/\。ひどい降りでした。かみではひょうが降ったてます」
 余等が帝劇のハムレットに喜憂きゆうそそいで居る間に、北多摩きたたまでは地が真白になる程雹が降った。余が畑の小麦こむぎも大分こぼれた。隣字となりあざでは、麦はたねがなくなり、くわ蔬菜そさいも青い物全滅ぜんめつ惨状さんじょううた。
(明治四十四年 五月二十四日)


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     春の暮

 庭石菖にわせきしょう、またの名は草あやめの真盛りである。あかねがかった紫と白と、一本二本はさしてめでたい花でもないが、の日を受けて何万となく庭一面に咲く時は、緑のに紫と白の浮き模様もよう花毛氈はなもうせんを敷いた様に美しい。見てくれる人がないから、日傭ひようのおかみを引張って来て見せる。
 草あやめの外には、芍薬しゃくやく、紫と白と黄の渓□あやめ薔薇ばら石竹せきちく矍麦とこなつ虞美人草ぐびじんそう花芥子はなげし紅白こうはく除虫菊じょちゅうぎく、皆存分に咲いて、庭も園も色々にあかるくなった。
 畑では麦が日に/\照って、周囲あたりくらい緑にきそう。春蝉はるぜみく。剖葦よしきりが鳴く。かわずが鳴く。青い風が吹く。夕方は月見草つきみそうが庭一ぱいに咲いてかおる。
 今日きょうは雨が欲しく、風がこいしく、かげがなつかしい五月下旬の日であった。せみ、色づいた麦、耳にも眼にもじり/\とあつく、ひかる緑に眼はいたい様であった。果然かぜん寒暖計かんだんけい途方とほうもない八十度をした。
 落葉木らくようぼく悉皆すっかり若葉から青葉になった処で、かしまつすぎもみしい等の常緑樹ときわぎたけるいが、日に/\古葉ふるはを落しては若々しい若葉をつけ出した。此頃は毎日いても掃いても樫の古葉が落ちる。
 気軽きがるな落葉木の若葉も美しいが、重々しい常緑樹のがらにないやわらかな若葉をつけた処も中々好い。ゆさ/\とやわらかなえそうな若葉をかぶった白樫しらかし瑞枝みずえ、杉は灰緑かいりょく海藻かいそうめいた新芽しんめ簇立むらだて、赤松あかまつあか黒松くろまつは白っぽい小蝋燭ころうそくの様な心芽しんめをつい/\と枝の梢毎うらごとに立て、竹はまた「暮春には春服已に成る」と云った様にたとえ様もないあざやかな明るい緑のみのをふっさりとかぶって、何れを見ても眼のよろこびである。
 今夜はじめてが一つぶゥんとうなった。
「蚊一つにられぬよひや春の暮」
 春は最早もう暮るゝのである。
(明治四十五年 五月二十六日)


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     首夏

 先日七のうちから茄子苗なすなえを買ったら、今朝七の母者ははじゃがわざ/\茄子の安否あんぴを見に来た。
 此頃の馳走ちそう豌豆えんどうめしだ。だが、豌豆にたかる黒虫、青虫の数は、実に際限がない。今日も夫婦で二時間ばかり虫征伐むしせいばつをやった。虫と食をあらそい、はえ住居すまいを争い、人の子もこゝさん/″\のていたらくだ。
 午後筍買たけのこかいに隣村まで出かける。筍も末だ。其筈である、新竹しんちくびて親竹おやだけより早一丈も高くなって居る。往復に田圃たんぼを通った。萌黄もえぎえ出した苗代なわしろが、最早もう悉皆すっかりみどりになった。南風みなみがソヨ/\吹く。苗代の水にうつ青空あおぞらさざなみが立ち、二寸ばかりの緑秧なえが一本一本すずしくなびいて居る。
 両三日来夜になると雷様かみなりさま太鼓たいこをたゝき、夕雲ゆうぐもの間から稲妻いなずまがパッとしたりして居たが、五時過ぎ到頭大雷雨だいらいうになり、一時間ばかりしてれた。
 あわせでは少しひやつくので、羅紗らしゃ道行みちゆきを引かけて、出て見る。門外の路には水溜みずたまりが出来、れた麦はうつむき、くぬぎならはまだ緑のしずくらして居る。西は明るいが、東京の空は紺色こんいろに曇って、まだごろ/\遠雷えんらいが鳴って居る。武太ぶたさんと伊太いたさんが、胡瓜きゅうりの苗を入れた大きな塵取ごみとりをかゝえて、跣足はだしでやって来る。
 最早夏に移るのだ。
(明治四十四年 五月二十七日)


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     憎むと枯れる

 戸をけると、露一白つゆいっぱく芝生しばふには吉野紙よしのがみを広げた様な蜘網くものあみが張って居る。小さな露の玉を瓔珞ようらくつらぬいたくもの糸が、枝から枝にだらりとさがって居る。
 門の入口にあまかおりがすると思うたら、籬根かきねにすいかずらの花が何時の間にか咲いて居る。
 生々せいせい又生々。営々えいえいかつ営々。何処どこを向いてもすさまじい自然の活気かっき威圧いあつされる。田圃たんぼには泥声だみごえあげてかわずが「めよえん」とわめく。雀やつばめ出産しゅっさんを気がまえて、新巣しんす経営けいえいせわしく、昨日も今日も書院しょいん戸袋とぶくろをつくるとて、チュッ/\チュッ/\やかましくさえずりながら、さま/″\のあくたをくわえ込む。はえがうるさい。がうるさい。薔薇ばらにも豌豆えんどうにも数限りもなく虫が涌く。地は限りなく草をやす。四囲あたりの自然に攻め立てられて、万物ばんぶつ霊殿れいどのも小さくなってしまいそうだ。
 隣のかねさんが苗をくれた南瓜とうなすの成長を見に来たついでに、斯様こんな話をした。金さんの家に、もと非常によく葡萄ぶどうがあった。一年あるとし家の新ちゃんが葡萄をちぎるとたなから落ち、大分の怪我をした。それからと云うものは、家の者一同深く其葡萄の木を憎んだ。すると、葡萄は何時となく枯れて了うた。憎むと枯れる。面白い話。新約聖書に、耶蘇やそみのらぬ無花果いちじくを通りかゝりにのろうたら、夕方帰る時最早枯れて居たと云う記事がある。耶蘇程の心力の強い人には出来そうな事だ。
 夕方真紅まっか提灯ちょうちんの様な月が上った。雨になるかと思うたら、水の様な月夜になった。此の頃は宵毎よいごとに月が好い。夜もすがら蛙が鳴く。剖葦よしきりが鳴く。月にひたされて生活する我儕われらも、さながら深い静かな水のそこに住んで居る心地がする。
(明治四十五年 六月一日)


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     麦愁

 机に向うて、終日兀座こつざ
 外は今にも降りそうな空の下に、一村ひとむら総出の麦収納むぎしゅうのう此方こちでは鎌の音※々さくさく[#「竹/(束+欠)」、下巻-60-3]彼方あちでは昨日苅ったのを山の様に荷車に積んで行く。時々にぎやかな笑声がひびく。皆欣々として居る。労働の報酬むくいが今来るのだ。うれしい筈。
 例年麦秋になると、美的百姓先生の煩悶はんもんがはじまる。余は之を自家の麦愁ばくしゅうと名づける。先生のうちにも、大麦小麦を合わせて一反そこらの麦の収納をするが、其れは人をやとうたりして直ぐ片づいてしまう。なぐさみにくるり棒を取った処で、大した事も無い。買った米を食う先生には、大麦の二俵三俵取れたところで、何でもないのだ。単純な充実じゅうじつした生活をする農家が今勝誇かちほこる麦秋の賑合にぎわいの中に、気の多い美的百姓は肩身狭く、つかれた心と焦々いらいらした気分で自ら己をのろうて居る。さっぱりと身を捨てゝ真実の農にはなれず。さりとて思う様に書けもせず。彼方あちうらやんで見たり、自ら憐んで見たり。中途半端はんぱ吾儘わがまま生活をするばちだ。致方は無い。もとより見物人も役者の一人ではある。然しはなれて独り見物は矢張さびしい。
 終日懊悩おうのう。夕方庭をぶら/\歩いた後、今にも降り出しそうな空の下に縁台えんだいに腰かけて、庭一ぱいに寂寥さびしさく月見草の冷たい黄色の花をやゝ久しく見入った。
(明治四十五年 六月五日)


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     堀川

       一

 新聞を見たら、今夜本郷中央会堂で呂昇の堀川がある。蓄音器では、耳にタコの出来る程鳥辺山とりべやまも聞いて居る。しょうの声で呂昇の堀川は未だ聞かぬ。咽喉のどが悪いとて療治をして居ると云うが如何だろう、と好奇心も手伝うて、午後独歩どっぽ荻窪おぎくぼ停車場すてえしょんさして出かける。
 デカがいて来る。ピンは一昨夜子を生んだので、隣家となりの前まで見送って、御免をこうむった。朝来の雨は止んで、日が出たが、田圃はまだ路が悪い。田植時たうえどきも近いので、の田も生温なまぬるい水満々とたたえ、短冊形たんざくがたの苗代は緑の嫩葉わかば勢揃せいぞろい美しく、一寸其上にころげて見たい様だ。どろ楽人がくじん蛙の歌が両耳にあふれる。甲州街道を北へ突切つっきって行く。大麦は苅られ、小麦は少し色づき、馬鈴薯や甘藷さつまいも草箒くさほうきなどが黒い土をいろどって居る。其間をふといはりがねを背負って二本ずつ並んで西から北東へ無作法ぶさほうに走って居るのが、東京電燈の電柱である。一部を赤くって、大きな黒文字で危険と書き、注意と書いてある。其様そんな危険なものなら、百姓の頭の上を引張ひっぱらずと、地下でも通したらよさそうなものだ。
 よく身投みなげがあるので其たもと供養くよう卒塔婆そとばが立って居る玉川上水の橋を渡って、田圃に下り、また坂を上って松友しょうゆうの杉林の間を行く。此処の杉林は見ものである。ほばしら、電柱、五月鯉さつきのこいさおなどになるのが、奇麗に下枝をろされ、殆んど本末の太さの差もなく、矗々すくすくと天を刺して居る。電燈会社は、此杉林を横断おうだんして更に電線を引きたがって居るが、松友の財産家が一万円出すと云う会社の提議ていぎねつけて応ぜぬので、手古摺てこずって居るそうである。
 雨がはら/\と来た。ステッキ一本の余は、降ったり止んだりするあぶなげな空を眺め□□行く。田無街道を突切って、荻窪停車場に来た。
 中野まで汽車。中野から電車。お茶の水で下りて、本郷中央会堂に往った。

       二

 何の為の慈善演芸会か知らぬが、中央会堂はほゞ一ぱいになって居た。演壇では、筒袖つつそでの少年が薩摩さつま琵琶びわいて居た。凜々りりしくて好い。次ぎは呂昇の弟子の朝顔日記浜松小屋。まだ根から子供だ。其れから三曲さんきょく合奏がっそう熊野ゆや。椅子にかけての琴、三絃さみせんは、見るにあぶなく、弾きにくゝはあるまいかと思われた。三曲んで休憩きゅうけいになった。
 九時二十分頃、呂昇が出て来て金屏風きんびょうぶの前の見台けんだい低頭ていとうした。びきは弟子の昇華しょうか。二人共時候にふさわしい白地に太い黒横縞くろよこしま段だらの肩衣かたぎぬを着て居る。有楽座で初めて中将姫を聞いた時よりヨリ若く今宵こよいは見えた。場内は一ぱいになった。頭の禿げた相場師らしいのや、瀟洒しょうしゃとした服装なりの若い紳士や、すずしく装うた庇髪ひさしがみ、皆呂昇の聴者ききてである。場所柄に頓着とんじゃくなく、しっかり頼みますぞ、など声をかける者がある。それを笑う声も起った。
 呂昇は無頓着に三絃取ってしゃに構え、さっさと語り出した。咽喉のどをいためて療治りょうじ中だと云うに、相変らず美しい声である。少しは加減して居る様だが、調子に乗ると吾を忘れて声帯せいたいふるうらしい。語り出しは、今少しだ。鳥辺山とりべやまは矢張好かった。灯影ほかげ明るい祇園町の夜、線香のけぶり絶々たえだえの鳥辺山、二十一と十七、黒と紫とに包まれた美しい若い男女が、美しい呂昇の声に乗ってさながら眼の前におどった。おしゅんのさわりはます/\好い。呂昇が堀川のお俊や、酒屋のお園や、壺坂つぼさかのお里を語るは、自己を其人にたくするのだ。同じ様な上方女かみがたおんな、同じ様な気質きだての女、芸と人とがピッタリ合うて居るのだ。悪かろう筈がない。呂昇が彼美しい声で語り出す美しい女性にょしょうたましいは、舞台のノラを見たり机の上の青鞜せいとうを読んだりする娘達に、如何様どん印象いんしょうを与うるであろうか。余は見廻わした。直ぐ隣の腰かけに、水際立みずぎわたってすっきりとしたなりをした十八九の庇髪ひさしがみが三人並んで居る。二人は心をそらにして呂昇の方を見入って居る。一人の金縁眼鏡には露が光って居る。日の若い単純たんじゅんも、複雑な今日も、根本こんぽんの人情に差違はない。唯真故新ただしんゆえにしん、古い芸術も新しい耳によく解せられるのである。
 猿廻さるまわしに来た。此は呂昇のがらにも無いし、連れ弾もまずいし、大隈おおすみを聞いた耳には、無論物足らぬ。と思いつゝ、十数年前の歌舞伎座かぶきざが不図眼の前に浮んだ。ぽっとかつらをかぶった故人菊五郎の与次郎が、本物の猿を廻わしあぐんで、長いつえで、それ立つのだ、それ辞義じぎだと、が物好きから舞台面の大切たいせつな情味を散々に打壊ぶちこわして居る。今の梅幸の栄三郎のお俊が、美しい顔に涙はなくて今にも吹き出しそうにして居る。故人片市のばあさんと、故人菊之助の伝兵衛がひとり神妙しんみょうにお婆さんになり伝兵衛になって舞台をめて居る。余は菊之助が好きだった。彼が真面目まじめな努力の芸術は、若いながらも立派なものであった。彼は自身がする程の役には、何様どんな役でも身を入れて勤めた。養父ようふも義弟も菊五郎や栄三郎いっそ寺島父子になってしもうた堀川の芝居の此猿廻わしのきりにも、菊之助のみは立派りっぱな伝兵衛であった。最早彼は此世に居ない。片市も、菊五郎も居ない。
 おびただしい拍手が起った。吾にかえると呂昇と昇華が演壇の上に平伏ひれふして居た。

       三

 堀川は十時十五分に終った。外に出ると、雨がぼと/\落ちて居る。雨傘あまがさと、懐中電燈の電池でんちを買って、電車で新宿に往った。追分おいわけで下りて、停車場前の陸橋を渡ると、一台居合わした車に乗った。若い車夫はさっさとき出す。新町を出はなれると、甲州街道は真暗で、四辺あたりはひっそりして居た。余程降ったと見えて、道が大分悪い。
「旦那は重うございますね。二十かんから御ありでしょう」
「なまけるからね」
「エ、如何どうしても体をはげしく使つかうと、ふとりませんな。私ですか、私は十四貫しかありません」
 車夫は市川の者、両親は果て、郷里の家は兄がもち、自身は今十二社じゅうにそうに住んで、十三の男児むすこを頭に子供が四人、六畳と二畳を三円五十銭で借り、かみさんはあさつなぎの内職をして居る。
「だから中々遊んで居られませんや」
 烏山からすやまくちで下りて、代を払い、南へ切れ込んだ。
 雨は止んで居る。懐中電燈の光を便たよりに、真黒い藪蔭やぶかげの路を通って、田圃たんぼに下りた。夜目にも白い田の水。かわずの声が雨の様だ。不図東のそらを見ると、大火事の様に空が焼けて居る。空にうつる東京の火光あかりである。見る/\すうとちぢみ、またふっと伸びる。二百万の生霊せいれいいきひく息がほのおになるのかと物凄ものすごい。田圃の行き止まりに小さな流れがある。其処そこに一つあおい光が居る。はっと思うと、ついと流れた。ほたるであった。田圃を上りきると、今度は南の空の根方ねかたが赤く焼けて居る。東京程にもないが、此は横浜の火光あかりであろう。村々は死んだ様に真黒まっくろに寝て居る。都はおそわれた様に深夜しんやに火の息を吐いて居る。
(明治四十五年 六月十日)


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     ムロのおかみ

 目籠めかご背負せおって、ムロのおかみが自然薯じねんじょを売りに来た。一本三銭宛で六本買う。十五銭にけろと云うたら、それではこれがめぬと、左の手で猪口ちょこをこさえ、口にあてがって見せた。
 ムロのおかみは酒が好きである。
 ムロのおかみは近村きんそんの者である。夫婦はもと兄の家のムロに住んで居たので、今も「ムロ」さん/\と呼ばれて居る。夫婦してひとつコップから好きな酒を飲み合い、暫時しばしも離れぬので、一名鴛鴦おしの称がある。夫婦は農家の出だが、別にたがやす可き田畑もたぬ。自然薯でも、田螺たにしでも、どじょうでも、終始他人ひとの山林田畑からとって来ては金にえ、めしに換え、酒に換える。門松すらって売ると云う評判がある。村に行わるゝ自然しぜん不文律ふぶんりつで、相応な家計くらしを立てゝ居る者が他人のくぬぎの枝一つ折っても由々敷ゆゆしいとがになるが、貧しい者はちっとやそとのものをとっても、大目に見られる。ムロの鴛鴦夫婦は、この寛典かんてんの中に其理想的享楽生活きょうらくせいかつを楽しんで居るのである。
 午後到頭雨になった。かわずの声がおとらじと雨にきそうてわめく。
 夜皆寝て了うたあとで、母屋おもや段落だんおちで二葉亭訳「うき草」を読んだ。此処ここは引越した年の秋、無理に北側きたがわにつぎ足した長五畳の板張いたばりで、一尺程段落になって居る。勾配こうばいがつかぬので、屋根は海鼠板なまこいたのトタンにし、爪立つまだてば頭がつかえる天井てんじょうを張った。先には食堂にして居たので、此狭い船房カビンの様な棺の中の様なしつで、色々の人が余等と食を共にした。今は世にき人々の記憶が、少なからず此処こここもって居る。
 夜はけた。余は「うき草」の巻をけたまゝ、読むともなく、想うともなく、テェブルにもたれて居る。雨がぼと/\頭上ずじょうのトタンをたゝく。ランプが※[#「虫+慈」、下巻-68-4]々ともえる。
 うき草の訳者二葉亭は印度洋で死んだ。原著者のツルゲーネフはとうに死んだ。然しルヂンは生きて居る。ナタリーも生きて居る。アレキサンドラも、ビカソーフも、バンタレフスキーもワルインツオフも生きて居る。
 人生短、芸術千古。
(明治四十二年 六月十五日)


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     田圃の簑笠

 朝から驟雨性しゅううせいの雨がざあと降って来たり、ほそい雨が煙ったり、蛞蝓なめくじが縁に上り、井戸ぶちに黄なきのこえて、畳の上に居ても腹の底までみ通りそうな湿しめっぽい日。
 今日も庭の百日紅さるすべりの梢に蛇が居る。何処かの杉の森でふくろがごろ/\のどを鳴らして居る。麦が収められて、緑暗い村々に、すこしの明るさを見せるのは卵色の栗の花である。
 蛙の声の間々あいあいに、たぶ/\、じゃぶ/\田圃におとがする。見れば簑笠みのかさがいくつも田に働いて居る。遠く見れば水戸様のぜんにのりそうな農人形が、膝まで泥に踏み込んで、柄の長い馬鍬まんがを泥に打込んではえいやっとね、また打込んでは曳やっとひく。他所では馬に引かすすきを重そうに人間が引張って、牛か馬の様に泥水どろみずの中を踏み込み/\ひいて行く。労力ろうりょく其ものゝ画姿を見る様で、気の毒すぎて馬鹿□□しく、腹が立つ。労働は好いが、何故なぜ牛馬のはたらきまでせねばならぬ乎。
 然し千歳村は約千町歩の面積めんせきの内、田はやっと六十町歩に過ぎぬ。田のろうは多くない。馬を使う程でもない、と皆が云う。此れでも昔は馬も居たそうだが、今は馬をうも不経済ふけいざいで、馬を使うより人力がまだ/\ましと皆が云う。共同して馬を飼うたらと云ったこともあるが共同が中々行われぬ。
 馬も一利一害である。余のあざには、二三年来二十七戸の内で馬を飼う家が三軒出来た。内二軒は男の子が不足なので、東京からの下肥しもごえひきに馬を飼う事を思い立ったのである。然し石山の馬は、口綱をとって行く主人と調子が合わなかった為、一寸した阪路を下る車に主人は脾腹ひばら太腿ふとももをうたせ、二月も寝る程の怪我をした。寺本の馬は、新宿で電車に驚いて、盲目の按摩あんまを二人き倒し、大分の面倒を惹起ひきおこした。其隣の馬は、節句の遊びに乗った親類の村蔵と云う男をね落して、肩骨かたぼねくじき、接骨医せっこついに二月も通わねばならぬ様の怪我をさせ、其為一家の予算に狂いが来て、予定の結婚が半歳も延ばされた。
 だから馬も考えものだ、と皆が言う。
(明治四十五年 六月十七日)


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     つゆ霽れ

 梅雨中とは云いながら、此十日余思わしい日の目も見ず、たたみを拭くと新しい雑巾ぞうきんかびで真黒になった。今日はからりと霽れて、よろこばしい日光のになった。待ちかねた様にせみ高音たかねをあげる。ほやり/\水蒸気立つ土には樹影こかげ黒々と落ち、処女おとめそでの様に青々と晴れた空には、夏雲が白く光る。戸、障子、窓の限りを開放あけはなして存分に日光と風とをれる。
 今日の晴を待ちつけた農家は、小踊こおどりして、麦うちをはじめた。東でもばた/\、西でもばったばた。東の辰さんの家では、なりは小さいが気前の好い男振りの好い岩公が音頭とりで、「人里ひとざとはなれた三軒屋でも、ソレ、住めば都の風がゥくゥ、ドッコイ」歌声うたごえにぎやかにばったばた。北のかねさんとこは口の重い人達ばかり、家族中で歌の一つも歌おうと云う稲公いねこうは砲兵に、春っ子は小学校に往って居るので、おやじ、長男長女、三男の四人よったり、歌は歌わぬかわり長男の音公が時々「ヨウ」と懸声にいきおいをつけて、規則正しくばったばた。西も東も南も北も勇ましい歓喜の勝鬨かちどき。聞くからにむねおどる。
つゆれやたう/\/\とむぎ
(明治四十三年 六月二十九日)


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     有たぬ者

 新宿八王子間の電車線路工事が始まって、大勢の土方どかたが入り込み、村は連日れんじつ戒厳令のもとにでも住む様に兢々きょうきょうとして居る。
 天下無敵の強者と云えば、土方人足は其一であろう。彼等は頂天ちょうてん立地りっち何の恐るゝ処もない赤裸あかはだかの英雄である、原人げんじんである。彼等は元来裸である。何ものもたない。有たないから失うことが出来ない。失うものがないから、彼等は恐るゝことを知らぬ。生存競争の戦闘たたかいに於て、彼等は常に寄手よせてである。唯進んでち而して取ればよいのである。守ると云うは、有つ者の事である。守ると云うは、已に其第一歩に於て敗北はいぼくである。
 世には有たぬ程強い事はない。有たぬ者は、すべてのものを有つのである。彼等には明日は無い。昨日も無い。唯今日がある、刹那せつながある。彼等は神を恐れない。王者おうしゃを恐れない。名聞みょうもんを思わない。彼等は失うべき富もない。おしむ可き家族も無い。彼等は其れより以下に落つ可き何等の位置も有たない。国家か、何ものぞ。法律か、何の関係ぞ。習慣しゅうかん、何の束縛そくばくぞ。彼等は胃の命令と、ちょうの法律と、皮膚ひふの要求と、舌頭の指揮と、生殖器の催促さいそくの外、何のしばらるゝ処がない。彼等は自然力其ものである。一触いっしょくしてタイタニックを沈めた氷山である。華麗かれいな羅馬の文明を鉄蹄てってい蹂躙じゅうりんした北狄ほくてき蛮人である。一切の作為さくい文明ぶんめいは、彼等の前に灰の如く消えて了う。
 土を穿ち、土を移し、土をらし、土を積む。彼等は工兵のありである。同じ土に仕事する者でも、農は蚯蚓みみずである。蚯蚓は蟻を恐れる。
 有つ者にとっては、有たぬ者程恐ろしい者は無い。土方人足の村で恐れられるももっともである。然しながら何ものも有たぬ彼等も、まだ生命いのちと云うものを有って居る。彼等は生命をおしむ。此れが彼等の弱点である。有たずに強い彼等も、有てば弱くなるおそれがある。世にも恐ろしい者は、其生命さえも惜まぬのみか、如何なる条件をもって往っても妥協だきょうの望がない人々である。彼等は何ものを有っても満足せぬ。彼等は全宇宙ぜんうちゅう吾有わがものにしなければ満足せぬ。むしろ吾を全宇宙に与えなければ満足せぬ。其一切を獲ん為には、有てる一切をてゝ了う位は何でもない。耶蘇も仏陀ぶつだも斯恐ろしい人達である。
(明治四十五年 七月十三日)


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     食われるもの

 奥の座敷で日課を書いて居ると、縁にうずくまって居た猫のトラがひらりと地に飛び下りた。またひらり縁に飛び上ったのを見ると、蜥蜴とかげくわえて居る。と下ろした。蜥蜴は死んだのか、気絶したのか、少しも動かぬ。トラはわんぐりといはじめた。まだ生きて居ると見えて、蜥蜴のが右左にうごいた。トラはあわてず、眼をじ、頭をかしげて、悠々ゆうゆうと味わい/\食って居る。小さなひょうか虎かを見て居る様で、すごい。蜥蜴の体は最早トラの胃の中にあるに、切れて落ちた鋼鉄色こうてついろの尾の一片は、小さな一疋の虫かなんぞの様にぐるっといたりほどけたりして居る。トラめは其れも鵜呑うのみにして了うた。蜥蜴のカタミは何も無い。日は相変らず昭々しょうしょうと照らして居る。地球は平気ではしって居る。木の葉一つソヨがぬ。トラは蜥蜴を食ってしまって、世にも無邪気むじゃきな顔をして、眼を閉じて眠って了うた。
 昨日は庭で青白い螟蛉あおむし褐色かちいろのフウ虫二疋でし殺して吸うて居るのを見た。
 一昨日おとといは畑を歩いて、苦しいかわずの鳴き声を聞いた。ドウしてもへびにかゝった蛙の鳴き声と思って見まわすと、果然はたして二尺ばかりの山かゞしが小さな蛙の足をくわえて居る。余は土塊つちくれを投げつけた。山かゞしは蛇の中でも精悍せいかんなやつである。蛙のももを啣えながら鎌首かまくびをたてゝ逃げて行く。竹ぎれを取ってもどると、玉蜀黍とうもろこしの畑に見えなくなった了うた。

 優勝ゆうしょう劣敗れっぱいは天理である。弱肉強食は自然である。宇宙は生命いのちのとりやりである。然し強いものゝ上に尚強いものがあり、弱いものゝ下に尚弱いものがある。而して一番弱いものが一番強いものに勝つ場合もある。顕微鏡下けんびきょうかかろうじて見得る一細菌さいきんが、神の子だイヤ神だとおごる人間を容易に殺して了うではないか。畢竟ひっきょう宇宙は大円だいえん。生命は共通。強い者も弱い。弱い者も強い。死ぬるものが生き、生きるものが死に、勝つ者が負け、負ける者が勝ち、食う者が食われ、食われるものも却て食う。般若心経はんにゃしんきょうに所謂、不増不減不生不滅不垢不浄、宇宙の本体は正に此である。
 然し我等は人間である。差別界しゃべつかいに住んで居る。煩悩ぼんのうもある。愚痴ぐちもある。我等は精神的に生きんと欲する如く、肉体の命も惜しい。吾情を以て他を推す時、犠牲ぎせいさけびは聞きづらい。
 ダァヰンの兄弟分ワレース博士は、蛇にのまるゝかわずは苦しい処ではない、一種の温味おんみにうっとりとなって快感かいかんを以て蛇ののどを下るのだ、と云うた。大役たいえき小志しょうしの志賀氏は、旅順戦役をいて、決死の兵士は精神的せいしんてき高調こうちょうに入って、所謂苦痛なるものをたいして感じない、と云って居る。如何にも道理で、また事実さもあろうと思わるゝ。
 然し我々は人間である。犠牲の声は聞きづらい。
(明治四十五年 七月二十日)


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     蜩

 今年の自家うちの麦は、大麦も小麦も言語道断の不作だ。仔細は斯様こうである。昨秋の麦蒔むぎまき馬糞ばふん基肥もとごえに使った。其れが世田ヶ谷騎兵聯隊から持って来た新しい馬糞で、官馬の事だから馬が食ってまだよく消化しょうかしない燕麦えんばくが多量にまじって居た。総じて新しい肥料はよくないものだが、自家うちには堆肥たいひの用意がない為に、拠所よんどころなく新しい馬糞に過燐酸かりんさんを混じて使った。麦がえると同時に、馬糞の中の燕麦が生えた。麦がびると、燕麦も伸びた。燕麦は麦より強い。麦に追肥おいごえをやると、燕麦が勝手にってしまってドン/\生長する。麦畑むぎばたが一面燕麦の畑の様になった。非常な手数をかけて一々燕麦をぬいたが、最早もう肝腎かんじんの麦は燕麦に負けてそのせこけたものになって居た。肥料が肥料を食ってしまったのである。世には斯様こんな事が沢山ある。
 トルストイの遺著いちょの中、英訳になった劇「けるしかばね」を読む。トルストイ化した「イナック、アヽデン」と云う様なものだ。「暗黒あんこくちから」程の力は無いが、捨てられぬ作である。
 縁の籐椅子とういすに腰かけて右のドラマを読んで居ると、トルストイ翁の顔やら家族の人々の顔やらが眼の前に浮ぶ。今日きょうは七月一日、丁度六年前ヤスナヤ、ポリヤナに居た頃である。くもったりれたりするそらのぼったり下ったりするおか、緑が茂って、小麦がれて、余の今の周囲も其時にて居る。
 最早はっきりとは文字の見えぬ本をひざにのせて、先刻さっきから音もなく降って居たほそい雨の其まゝけたあお夕靄ゆうもやを眺めて居ると、忽ち向うの蒼い杉の森から、
「リン、――リン、リン」
 白銀はくぎんりんを振る様な鋭いひぐらしの音が響いた。
(明治四十五年 七月一日)


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     夏の一日

 眼をさますと、真裸まっぱだかで寝て居る。外では最早ひぐらしが鳴いて居る。蚊帳外かやそとの暗い隅では、蚊が□々うんうんうなって居る。ね起きて時計を見れば、五時に十分前。戸をくると、櫟林くぬぎばやしから朝日の金光線がして居る。
 顔を洗うと、真裸で芝生に飛び下り、ぎ立てのかまで芝を苅りはじめる。雨の様な露だ。草苅くさかりは露のの事。ざくり、ざくり、ザク、ザク。面白い様に苅れる。
 足をあらって、からだを拭いて、上ると八時。近来朝飯ぬきで、十時に牛乳ちち一合。
 今日は少し日課を書いた。
 朝餐あさめしの午餐は赤の飯だ。今日は細君の誕生日たんじょうびである。昨日何か手に隠して持って来たのを、開けて見たら白髪しらがが三本だった。彼女にも白髪がえたのだ。余は十四五から五本や十本の白髪はあった。兎に角部分的には最早もう偕白髪ともしらがと云ういきに達した訳である。
 主婦しゅふの誕生日だが、赤の飯に豆腐汁で、いわしの一尾も無い。午前に果樹園かじゅえんを歩いて居たら、水蜜の早生わせが五つばかりじゅくして居るのを見つけた。取りあえず午餐の食卓にのぼす。時にとっての好いお祝。
 今日は夏になって以来のあつい日だ。午後は到頭室内九十度に上った。千歳村の生活をはじめて六年、九十度は今日が初である。戸と云う戸、障子と云う障子、窓と云う窓を残らず開放あけはなし、母屋おもやは仕切の唐紙からかみ障子しょうじを一切取払うて、六畳二室板の間ぶっ通しの一間ひとまにした。飲むとあせになると知りつゝ、たまりかねてつめたい麦湯を飲む、サイダアを飲む。飲む片端かたはしからぼろ/\汗になって流れる。犬のデカもピンも、猫のトラも、樫の木蔭こかげにぐったり寝て居た。
 あまり暑いからかみでも苅ろうかと、座敷の縁に胡踞あぐらかく。バリカンが駄目なので、はさみで細君が三分に苅ってくれた。今朝苅った芝が、最早枯れて白くかわいて居る。北海道の牧場の様ですね、と細君が曰う。主人あるじは芝を苅り、妻は主人の髪を苅る。芝の心は知らぬが主人は好い心地になった。
 建具たてぐ取払って食堂がひろくなった上に、風が立ったので、晩餐のたくすずしかった。飯を食いながら、ると、夕日の残る葭簀よしずの二枚屏風に南天の黒い影がおどって居る。そうして其葭簀をかして大きな芭蕉の緑の葉がはた/\うごいて居る。
 自動車のおとが青山街道にしたかと思うと、東京のN君外三名が甲斐かいの山の写真をりに来たのだ。時刻がおそくて駄目だったが、無理に二枚程撮って帰った。
 日がかたむくとソヨ吹きそめた南風みなみが、夜に入ると共に水の流るゝ如く吹き入るので、ランプをつけて置くのが骨だった。母屋の縁に胡座あぐらかいて、身も魂も空虚からにして涼風すずかぜひたる。ランプの光射あかりさす程は、かし、ふさもじ、小さな孟宗竹もうそうちくの葉が一々緑玉に光って、ヒラ/\キラ/\躍って居る。光の及ばぬあたりは、墨画すみえにかいた様な黒い葉が、千も万も躍って居る。木立こだちの間には白けた夏の夜のそらが流れ、其処そこにはまた数限も無い星がチラ/\またたいて居る。庭の暗の方から、あまい香や強い刺戟性しげきせいの香が弗々ふつふつと流れて来る。山梔子くちなし、山百合の香である。「夏の夜や蚊をきずにして五百両」これで蚊さえ居なかったら。
 今日誤ってもいだ烏瓜からすうりって細君が鶴子の為に瓜燈籠うりどうろうをつくり、帆かけ舟をって縁につり下げ、しば/\風に吹きされながら、小さな蝋燭をともした。緑色にとおった小天地、白い帆かけ舟が一つ中にともした生命いのちの火のつゞく限りいつまでもと其おもてはしって居る。
(明治四十五年 七月十八日)


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     明治天皇崩御の前後

       一

 明治四十五年七月二十一日。
 日曜だが、起きぬけに二時間の芝苅しばかり
 天皇陛下御不例ごふれいの発表があった。わざ/\発表がある程だ。御重態ごじゅうたいの程も察せられる。
 真黒い雲が今我等の頭上ずじょうおおうて居る。

           *

 午後二時過ぎ、雷鳴、電光、沛然はいぜんと降雨があった。少しひょうまじって居た。
 月番から回章かいしょうで、二十七日から二十九日まで、「総郷あがり正月」のふれが来た。中日が総出で道路の草苅りだ。回章の月番の名に、見馴みなれた寺本の七蔵の名はなくて、息子むすこの喜三郎の名が見える。七蔵さんは此六日にくなったのである。変った月番の名を見て、一寸ちょっと哀愁あいしゅうを覚えた。

       二

 七月二十二日。
 土用三郎と云うに、昨日の夕立以来、今日もくもって涼しいことである。
 白桔梗しろききょう、桔梗の花が五つ六つ。白っぽけた撫子なでしこの花が二つ三つ。芝生しばふの何処かで、※□□じじじ[#「虫+慈」、下巻-68-4]と虫が鳴いて居る。
 さびしい。
 見る/\小さな雨がほと/\落ちて来た。
 寂しい。
夏さびし桔梗きちかうの花五つ六つ小雨こさめまじりに虫の声して

       三

 七月三十日。
 れいによって芝苅り。終って、桃の木の下で水蜜桃すいみつとう立喰たちぐい
 大きなプリマウス種の雄鶏おんどりが、鶏舎の外で死んで居た。羽毛が其処そこ此処ここにちらかって居る。昨夜鶏舎の戸をしめる時あやまって雄鶏をしめ出したので、夜中いたちおそわれたのである。随分死の苦しみをしたであろうに、家の者はぐっすり寝込ねこんでちっとも知らなかった。昨秋以来鼬のなんにかゝることこゝに五たびだ。前度にりて、鶏舎のしまりを厳重にしたが、外にしめ出しては詮方しかたが無い。なしの木の下に埋葬。
 午後東京から来た学生の一人が、天皇陛下今暁こんぎょう一時四十三分崩御ほうぎょあらせられたと云う事を告げた。
 陛下崩御――其れは御重態ごじゅうたいの報伝わって以来万更まんざら思い掛けぬ事ではなかったが。
 園内えんないを歩いて陛下の御一生を思うた。
 東の方を見ると、空も喪装もそうをしたのかと思われて、墨色すみいろの雲が東京の空をうちおおうて居る。暮れ方になって降り出した。

       四

 七月三十一日。
 欝陶うっとうしく、物悲しい日。
 新聞は皆黒縁くろぶちだ。不図新聞の一面に「睦仁むつひと」の二字を見つけた。下に「先帝御手跡」とある。孝明天皇の御筆かと思うたのは一瞬時いっしゅんじ、陛下は已に先帝とならせられたのであった。新帝陛下の御践祚ごせんそがあった。明治と云う年号ねんごうは、昨日限り「大正たいしょう」と改められる、と云う事である。
 陛下が崩御になれば年号もかわる。其れを知らぬではないが、余は明治と云う年号は永久につゞくものであるかの様に感じて居た。余は明治元年十月の生れである。即ち明治天皇陛下が即位式そくいしきを挙げ玉うた年、初めて京都から東京に行幸みゆきあった其月東京を西南にる三百里、薩摩に近い肥後葦北あしきた水俣みなまたと云う村に生れたのである。余は明治のよわいを吾齢と思いれ、明治と同年だとほこりもし、恥じもして居た。
 陛下の崩御ほうぎょは明治史の巻をじた。明治が大正となって、余は吾生涯が中断ちゅうだんされたかの様に感じた。明治天皇が余の半生はんせいを持って往っておしまいになったかの様に感じた。
 物哀ものかなしい日。田圃向うに飴屋あめやが吹く笛の一声ひとこえ長く響いて、はらわたにしみ入る様だ。

       五

 八月一日。
 月のついたちで、八幡様に神官が来て、お神酒みきあがる。諒闇りょうあん中の御遠慮で、今日は太鼓たいこも鳴らなかった。
 今日から五日間おきょうをたてる、と云う言いつぎが来た。先帝の御冥福ごめいふくの為。
 鶏小屋とりごやに大きな青大将が入って、模型卵もけいらんをのんだ、と日傭ひようのおかみが知らして来た。往って見ると、五尺もある青大将が喉元のどもとふくらして、そこらをのたうちまわって居る。卵の積りで陶物やきものの模型卵を呑んで、苦しがって居るのだ。折から来合わして居たT君が、尻尾しっぽをつまんで鶏小屋から引ずり出すと、余が竹竿たけざおでたゝき殺した。竹で死体をいたら、ペロリと血だらけの模型卵をいた。此頃一向卵が出来ぬと思ったら、此先生が毎日召上めしあがってお出でたのだ。青大将の死骸しがい芥溜ごみために捨てた。少しって見たら、如何どうしたのか見えなかった。復活ふっかつして逃げたのかも知れぬ。

       六

 八月二日。
 紅蜀葵こうしょくきの花が咲いた。
 甲州玉蜀黍とうもろこしをもぎ、たり焼いたりして食う。世の中に斯様こんなうまいものがあるかと思う。田園生活も此では中々やめられぬ。
 今日は土用中ながら薄寒うすさむい日であった。朝は六十二三度しかなかった。尽日じんじつ北の風が吹いて、時々つめたいほそい雨がほと/\落ちて、見ゆる限りの青葉が白いうらをかえして南になびき、さびしいうらかなしい日であった。
 今日は鶏小屋にほゞいたちと見まごうばかりの大鼠が居た。

       七

 八月八日。
 八月に入って四五日、フランネルをる様な日が続いた。小雨こさめが降る。雲がかぶさる。北から冷たい風が吹く。例年九月に鳴く百舌鳥もずが無暗に鳴いたりした。薄い掻巻かいまき一つでは足らず、毛布を出す夜もあった。
 今日は久しりに晴れた。空には一片の雲なく、日は晶々あかあかとして美しく照りながら、寒暖計は八十二三度をえず、涼しい南風みなみが朝から晩まで水の流るゝ様に小止おやみなく吹いた。颯々さっさつと鳴る庭の松。かさ/\と鳴る畑の玉蜀黍とうもろこし。ざわ/\と鳴る田川のくろ青萱あおかや。見れば、眼に入る緑は皆動いて居る。庭の桔梗ききょうの紫うごき、雁来紅けいとうの葉の紅そよぎ、撫子なでしこの淡紅なびき、向日葵ひまわりの黄うなずき、夏萩の臙脂えんじ乱れ、蝉の声、虫のも風につれてふるえた。夕日傾く頃となれば、風はます/\涼しく、樹影こかげは黒く芝生におどった。
「秋来ぬと眼にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる」。風の音に驚くばかりかは、さやかに眼に見えて立つ秋の姿すがたである。
 昨夜は雁声がんせいを聞いた。
 今朝向うの杉の森に「ツクツクウシ、ツクツクウシ」と云うほのかな秋蝉の声を聞いた。
 こよみを見たら、今日が立秋である。

       八

 八月十五日。
 此頃のくせで、起き出る頃は、いつ満目まんもくきり。雨だなと思うと、朝飯食ってしまう頃からからりとれて、申分なき秋暑しゅうしょになる。
 隣の大豆畑にむらがったカナブンの大軍が、大豆の葉をば食いつくして、今度は自家うちの畑に侵入しんにゅうした。起きぬけに、夫婦してむしろを畑にひろげ、枝豆やいちごや果樹に群がるカナブンを其上にふるい落して、石油の空鑵あきかんにぶちあけ、五時から八時過ぎまでかゝって、カナブンの約五升をとりこにし、熱湯をあびせて殺した。でもまだ十分の一もとれない。
 あまり美事みごとの出来だからと云うて、廻沢めぐりさわから大きな水瓜すいか唯一個かついで売りに来た。緑地に黒縞くろしまのある洋種の丸水瓜まるすいかである。重量三貫五百目、三十五銭は高くない。井戸にやして、午後切って食う。味も好かった。
 一月おくれの盆で、墓地がにぎやかである。細君が鶴子の為に母屋おもやの小さな床に茄子馬なすうまをかざり、黒い喪章もしょうをつけたおもちゃの国旗をかざり、ほおずきやら烏瓜からすうりやら小さな栗やら色々供物くもつをならべて、于蘭盆うらぼんの遊びをさせた。
 風鈴ふうりん短冊たんざくが先日の風に飛ばされたので、先帝の「星のとぶ影のみ見えて夏の夜も更け行く空はさびしかりけり」の歌を書いて下げた。西行さいぎょうでもみそうな歌だ。

       九

 八月十六日。
 隣の家鴨あひるが二羽迷い込んだ。めすは捕えて渡したが、雄がゆかの下深く逃げ込んで、ドウしてもつかまらない。隣の息子むすこが雌を連れて来て、刮々くゎくくゎく云わしたら、雄はひとりでに床の下から出て来て、難なくつかまった。今更の様だが女の力。
 夕方えん籐椅子とういすに腰かけて、静に夕景色を味う。かりあと青い芝生も、庭中の花と云う花もかげに入り、月下香の香が高く一庭にくんずる。金の鎌の様な月が、時々雲に入ったり出たり。南方にあわい銀河が流れる。星もちらほら出て居る。村々は最早もう黒う暮れて、時々まぶしい火光あかりがぱっと射す。船橋の方には、先帝せんていの御為に上げるのか、哀々あいあいとした念仏の声が長くいて聞こえる。庭ではスイッチョが鳴く。蟋蟀きりぎりすが鳴く。夜と云うに、蝉の一種が鳴く。隣の林にはガチャ/\が鳴く。
 さびしい涼しい初秋の夜。


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     御大葬の夜

 明治天皇大葬たいそうの夜である。
 七時五十分、母屋おもやの六畳をいて、きよい白布をかけた長方形の大きな低い卓子つくえを東向きに直した。上には、秋草の花をけた小花瓶を右左に置き、正面には橢円形だえんけいの小さな鏡を立て、其前に火を入れた青磁せいじの香炉、紫の香包をそばに置いた。いさゝかランプの心をねじると、卓子の上の物皆明るく、心もおのずからあらたまる。家族一同手をひざに、息をのんでひかえた。
 柱時計の短針たんしんが八時をすか指さぬに、
 ドオ………ン!
 待ちもうけても今更人の心魂をおどろかす大砲の音が、家をも我等の全身をもうごかして響いた。
 今霊轜れいじゅ宮城を出でさせられるのだ。
 主人あるじは東に向い一拝して香をき、再拝して退さがった。妻がつゞいて再拝して香を焚き、三拝して退いた。七歳ななつの鶴子も焼香しょうこうした。最後におんなも香を焚いて、東を拝した。
 余が家の奉送ほうそうは終った。

           *

 余は提灯ちょうちんともして、妻と唯二人門を出た。
 曇ったくらい夜である。
 八幡下の田圃まで往って東を見る。田圃向うの黒い村をあざやかにしきって、東の空は月の出の様に明るい。何千何万の電燈でんとう瓦斯がす松明たいまつが、彼夜の中の昼をして居るのであろう。見て居ると、其おびただしい明光あかりが、さす息引く息であるかの様にびたり縮んだりする。其明りの中から時々いなずまの様なひかりがぴかりとあがる。
「何の光だろう?」
「写真をるマグネシウムの光でしょうか」
いや、弔砲の閃光ひかりかも知れん」
 先程から引つゞいて、大きな心臓しんぞうの鼓動の如く、ただしい時をへだてゝ弔砲がひびいて居る。――あゝ鐘が鳴って居る。南のは東覚院とうがくいん宝性寺ほうしょうじ安穏寺あんのんじ、北のは――寺、――寺、東にも、西にも、おのがじし然も申合わせた様に、我君ねむりませ、永久とこしえに眠りませ、と哀音長く鳴り連れて居る。二つの響はあたかも余等のむねの響に通うた、砲声の雄叫おたけび、鐘声の悲泣ひきゅう
 都もひな押並おしなべて黒きをる斯大なるかなしみの夜に、余等は茫然ぼうぜんと東の方を眺めて立った。生温なまあたたかい夜風がそよぐ。稲のがする。
きなさるかね」半丁ばかり北の方で突然人声ひとごえがした。
「エ、ちっとンべ行って見べいとって」
 田圃道たんぼみちを東の方へ人の足音がした。やがてパチ/\と拍手かしわでの音がやみに響く。
 轜車じゅしゃは今の辺を過ぎさせられるのであろう?
(大正元年 九月十三日)


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     東の京西の京
       (明治天皇の御始終)

 西なるきやうに君はれましき。
 西なる京に生れ玉へる君はしも、東に覇府はふありてより幾百年、唯東へ東へと代々よよみかど父祖ふその帝の念じ玉ひし東征の矢竹心やたけごころを心として、白羽二重にはかま五歳いつつ六歳むつつ御遊ぎよいうにも、侍女つかへをみなを馬にして、東下あづまくだりとらしつゝ、御所の廊下をり玉ひき。
 御父祖のゆめは、君がうつつとなりつ。君は維新のおん帝、御十七の若帝わかみかど、御束帯に御冠みかんむり御板輿おんいたごしに打乗らせ、天下取ったる公卿くげ将卒に前後左右をまもらして、錦の御旗を五十三つぐの雄風にひるがへし、東下りをはたし玉ひぬ。
 西の京より移り来て、東の京に君はしも四十五年住み玉ひぬ。東の京に住む君は、西なる京なつかしとおぼさぬにてはあらざりき。父の帝の眠ります西の京、其処そこれまし十六までそだち玉ひし西の京、君に忘られぬ西の京。せめて暑中しよちうは西の京へでも、侍臣斯く申せば、御気色みけしきかはり、のたまひけらく「ちん西京をきらふと思ふか。いな、朕は西の京が大好きなり。さりながら、朕、東の京を去らば、誰か日本のまつりごとを見むものぞ?」
 大政おほまつりごとしげくして、西なる京へ君はしも、御夢みゆめならでは御幸みゆきなく、比叡ひえいの朝はかすむ共、かもの夕風涼しくも、禁苑きんゑんの月ゆとても、鞍馬の山に雪降るも、御所の猿辻さるつじ猿のに朝日は照れど、からすむくこずゑに日は入れど、君は来まさず。君が御名みなさちの井の、ゐどのほとりの常磐木ときはぎや、落葉木らくえふぼく若葉わかばして、青葉あをばとなりて、落葉おちばして、としまた年と空宮くうきうに年はうつりぬ四十五しじふいつ
 四十五年の御代みよ長く、事しげき代の御安息みやす無く、六十路むそぢあまり一年ひととせ御顔みかおに寄する年の波、御魂みたましたふ西の京、吾事終へつとうそむきて、君きましぬ東京に。
 東下り、京上り、往来ゆききに果つるおん旅や、御跡おんあとしる駅路うまやぢの繰りひろげたる絵巻物ゑまきもの、今巻きかへす時は来ぬ。時こそ来つれ、生涯の御戦闘みいくさへて凱旋がいせんの。時こそ来つれ、生涯の御勤労みつとめ果てゝ御安息おんやすの。
 曩昔そのかみの東下りの御板輿おんいたごしを白き柩車きうしやに乗り換へて、今こそ君は浄土きよつちの西の京へとかへり玉はめ。
(大正元年 九月十三日)


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     乃木大将夫妻自刃

 九月十五日、御大葬ごたいそうの記事を見るべく新聞をひらくと、たちまち初号活字が眼を射た。
乃木大将夫妻の自殺
 余はいきを飲んで、眼を数行の記事に走らした。
「尤だ、無理は無い、尤だ」
 斯くつぶやきつゝ、余は新聞を顔に打掩うちおおうた。

           *

 日清戦争中、山地中将が分捕ぶんどりの高価の毛皮の外套を乃木少将に贈ったら、少将は、傷病兵しょうびょうへいにやってしまった。此事を新聞で読んだのが、乃木のぎ希典まれすけに余のインテレストを持つ様になった最初であった。其れから明治廿九年乃木中将が台湾たいわん総督そうとくとなる時、母堂が渡台の御暇乞に参内さんだいして、皇后陛下の御問に対し、ばばは台湾の土にならん為、せがれ先途せんどを見届けん為に台湾にまいります、と御答え申上げたと云う記事は、また深く余の心にみた。余は此母子がきになった。明治三十四年中、ゴルドン将軍伝を書く時、余はゴルドンをえがく其原稿紙上に乃木将軍の面影おもかげがちらり/\とったりたりするを禁じ得なかった。
 縁はなもので、ゴルドン伝を書いた翌々年「寄生木やどりぎ」の主人公から突然「寄生木」著作の事を委托いたくされた。恩人たる乃木将軍の為めにと云う彼のであった。余は例に無く乗地のりじになって引受けた。結果が小説寄生木である。
 小説寄生木は、該書がいしょの巻頭にもことわって置いた通り、主人公にして原著者なる「篠原良平」の小笠原善平が「寄生木」で、厳密げんみつなる意味に於て余の「寄生木」では無い。寄生木の大木将軍夫妻は、篠原良平の大木将軍夫妻で、余の乃木大将夫妻では無い。余は厳に原文にって、如何なる場合にも寸毫すんごうも余の粉飾ふんしょく塗抹とまつを加えなかった。そこで、寄生木は、南部なんぶの山中からけ出した十六歳の少年が仙台で将軍の応接間おうせつまの椅子に先ず腰かけて「馬鹿ッ!」と大喝だいかつされてから、二十八歳の休職士官が失意失恋故山に悶死もんしするまで、其単純な眼にえいじた第一印象の実録である。固より将軍夫妻は良平の恩人である為に、温かい感謝のまくへだてゝ見たところもある。然し彼は徹頭徹尾てっとうてつび単純にしていつわることを得為えせぬ男で、且如何なる場合にも見且感ずるを得る自然の芸術家であったことを忘れてはならぬ。余は寄生木によって、乃木大将夫妻をヨリ近く識り得た。
 篠原良平は「寄生木」の原稿を余に托し置いて、明治四十一年の秋悶死した。而して、恩人乃木将軍が其名を書いてくれた墓碣ぼかつが故山に建てられた明治四十二年十二月小説寄生木が世に出た。即ち将軍は幕下ばくかの彼が為め死後の名を石に書き、彼は恩人の為に生前せいぜんの断片的記伝を紙の上に立てたわけである。
 余は寄生木を乃木大将に贈呈そうていしなかった。然し伝聞でんぶんする処によれば、将軍夫妻は読んだそうだ。将軍は巻中にある某の学資金がくしきんは某大佐に渡したかと夫人に問い、夫人が渡しましたと答えた事、夫人は通読し終って、著者は一度も材料の為に訪われもしなかったに、よくも斯く精確せいかくに書かれた、と云われた事、を聞いた。精確なはずだ、記憶のい本人良平がいのちがけで書いたのである。余は将軍夫妻の感想を聞く機会をたなかった。然しながら寄生木を読んだ将軍夫妻は、生前せいぜん顔を合わすれば棒立ぼうだちに立ってよくは口もきけず、幼年学校でも士官学校でも学科はなまけ、病気ばかりして、晩年には殊に謀叛気むほんぎを見せて、恩義をわきまえたらしくもなかった篠原良平が、案外深い感謝あり、理解あり、同情あり、而して個性あり、痛切な苦悶あり、要するに一個真面目の霊魂れいこんであったことを今更の様に発見したであろう。兎に角篠原良平の死と「寄生木」とが、さびしい将軍の晩年に於てまた一の慰藉いしゃとなったことは、さっするに難からぬ。篠原良平が「寄生木」をのこした目的の一は達せられたのである。
 余は篠原良平の晩年に於て、剣をなげうつ可く彼に勧告し、彼を乃木将軍からうばう可く多少の努力をして、彼が悶死の一因を作ったのと、学習院に於て余の為可すべかりし演説が某の注意にり院長たる将軍の言によって差止さしとめられたことを聞いた外、乃木将軍とは一回の対面もせず、一通の書信の往復もなかった。茫々ぼうぼうたる宇宙に於て、大将夫妻と余をいさゝかつなぐものがあるならば、其は「寄生木」である。
 然しながら寄生木は、篠原良平の寄生木で、余の寄生木では無い。唯将軍と余の間に一のえんを作ったに過ぎぬ。乃木将軍夫妻程死花しにばないた人々は近来きんらい絶無ぜつむと云ってよい。大将夫妻は実に日本全国民の崇拝すうはい愛慕あいぼまととなった。乃木文学は一時に山をなして出た。斯上このうえ蛇足だそくを加うる要はないかも知れぬ。然し寄生木によりて一種の縁を将軍夫妻に作った余には、また余相応そうおうの義務が感ぜられる。此義務は余にとって不快な義務では無い。余は如何いかなるかたちに於てかこの義務を果したいと思うて居る。


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     コスモス

 今日は夏をおもい出す様な日だった。午後寒暖計が六十八度に上った。白いちょうが出て舞う。はえが活動する。せみさえ一しきり鳴いた。
 今はコスモスの真盛まさかりである。濃紅、紅、淡紅、白、庭にも、園にも、畑にも、掃溜はきだめはたにも、惜気もなくしんを見せて思いのまゝに咲きさかって居る。誰か見に来ればよいと思うが、終日誰もぬ。唯主人のみ黄金こがねの雨と降る暖かい秋の日をびて、存分に色彩の饗応に預かる。
 たま/\屋敷下やしきしたを荷車挽いて通りかゝったたつじいさんが、
花車だしの様だね」
とほめて通った。
 庭内も、芙蓉、萩、蓮華れんげつゝじは下葉したばから色づき、梅桜は大抵落葉し、ドウダン先ず紅に照り初め、落霜紅うめもどきは赤く、木瓜ぼけは黄に、松はます/\緑に、山茶花さざんかは香を、コスモスは色を庭に満たして、実に何とも云えぬ好い時候だ。
 夕方屋敷の南端にあるけやき切株きりかぶに上って眺める。日は何時いつしか甲州の山に落ちて、山は紫ににおうて居る。白茶色になって来た田圃たんぼにも、白くなった小川のつつみ尾花おばなにも夕日が光って、眼には見る南村北落の夕けぶり。烏啼き、小鳥鳴き、あきしずかに今日も過ぎて行く。東京の方を見ると、臙脂色えんじいろそらに煙が幾条いくすじも真直に上って居る。一番南のが、一昨日火薬が爆発ばくはつして二十余名を殺傷さっしょうした目黒の火薬庫の煙だ。
(明治四十四年 十月二十三日)


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     秋さびし

 今日きょうはさびしい日である。
 ダリヤの園を通ると、二尺あまりの茶色ちゃいろひもが動いて居る、と見たは蛇だった。蜥蜴とかげの様なほそい頭をあげて、黒いはりの様なしたをペラ/\さして居る。殺そうか殺すまいかと躊躇ちゅうちょして見て居る内に、彼は直ぐ其処そこにあるけい一寸ばかりのあな這入はいりかけた。見る中に吸わるゝ様にズル/\とすべり込んで了うた。
 園内を歩くと、せみのヌケがら幾個いくつも落ちて居る。昨夜は室内で、小さなものゝ臨終りんじゅう呻吟うめきの様なかすかな鳴声なきごえを聞いたが、今朝けさ見ればオルガンの上によわりはてたスイッチョが居た。彼は未だ死に得ない。そうして死に得るまでは鳴かねばならぬのである。
 自然は老いて行く。座敷ざしきの前をはちが一疋歩いて行く。両羽りょうはねをつまんでも、そうともせぬ。何に弱ってか、彼はぶ力ももたぬのである。そっと地に下ろしたら、また芝生の方へそろ/\歩いて行く。
 今日はさびしい日である。
 午後はくもって泣き出しそうな日であった。
 午後になって、いやに蒸暑むしあつ空気くうきたたえた。ものうい自然の気を感じて、眼ざとい鶴子が昼寝ひるねした。掃き溜には、犬のデカがぐたりと寝て居る。芝生には、ねこのトラがねむって居る。
 南から風が吹く。暖かい事は六月の風の様で、目をつぶって聞くと、冬も深いこがらしおとがする。
 今日はさびしい日である。
 今は午後四時である。雲をれて、西日にしびの光がぱっとして来た。散りかゝった満庭まんていのコスモスや、咲きかゝった菊や、残る紅の葉鶏頭はげいとうや、蜂虻はちあぶの群がる金剛纂やつでの白い大きな花や、ぼうっと黄を含んだ芝生や、下葉したは褐色かっしょくしおれてかわいた萩や白樺や落葉松や、皆斯夕日にさびしくえて居る。鮮やかであるが、泣いて居る。うるわしいが、寂しい。
 今日はさびしい日である。
(大正元年 十月二十八日)


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     展望台に上りて

       上

 余の書窓しょそうから西にながむる甲斐かい山脈さんみゃくして緑色近村きんそんの松のこずえに、何時の程からか紅白染分そめわけの旗がひるがえった。機動演習きどうえんしゅう目標もくひょうかと思うたら、其れは京王電鉄けいおうでんてつが沿線繁栄策の一として、ゆく/\東京市の寺院墓地を移す為めに買収ばいしゅうしはじめた敷地しきち二十万坪をしきる目標の一つであった。
 京王電鉄調布上高井戸間の線路せんろ工事こうじがはじまって、土方どかた人夫にんぷ大勢おおぜい入り込み、鏡花君の風流線にある様な騒ぎが起ったのは、夏もまだ浅い程の事だった。娘が二人はずかしめられ、村中の若い女は震え上り、年頃としごろの娘をもつ親は急いで東京に奉公に出すやら、無銭飲食を恐れて急に酒樽を隠すやら、土方が真昼中甲州街道をまだ禁菓きんかわぬアダム同様無褌むふんどし真裸まっぱだかで横行濶歩、夜はの様な家へでも入込むので、未だ曾て戸じまりをしたことがない片眼かためばあさんのあばら家まで、あわてゝかけがねくぎよと騒いだりした。其れも工程の捗取はかどると共に、何時いつしか他所よそに流れて往って了うた。やがて起ったのが、東京の寺院墓地移転用敷地廿万坪買収の一件である。
 京王電鉄も金が無い。東京の寺や墓地でも引張ひっぱって来て少しは電鉄沿線の景気をつけると共に、買った敷地を売りつけて一儲ひともうけする、此は京王の考としてさもありそうな話である。田舎はもとより金が無い。比較的小作料の低廉な此辺の大地主は、地所を荷厄介にやっかいにして居る。また大きな地主でちと派手はでにやって居る者に借金が無い者はほとんどない。二十万坪買収は、金にかわき切った其或人々にとって、旱田ひでりだ夕立ゆうだち福音ふくいんであった。財政整理の必要に迫られて居ると知られた某々の有力者は、電鉄の先棒となって、さかん仲間なかまを造りはじめた。金は無論しい。脅嚇おどかしも勿論く。二十万坪の内八万坪、五十三名の地主の内十九名は、売渡うりわたし承諾しょうだく契約書けいやくしょに調印してしまった。踟□ちちゅうする者もあった。余はある人にう云うた、不用の地所があるなら兎も角、恰好かっこうの代地があったら格別、でなければ農が土を手放てばなすはうおの水にはなれるようなものだ、金なんか直ぐあわの様に消えて了う、今更農をやめて転業するなぞは十が十堕落だらくもとだ。
 売らぬと云うがわは、人数にんずで関係地主の総数そうすう五十三人中の三十名、坪数で二十万坪の十二万坪を占めて居る。彼等の云い分はざッと斯様こうだ。東京が段々だんだん西へ寄って来て、豊多摩とよたま荏原えばらの諸郡は追々市外宅地や工場等の場所になり、以前もっぱ穀作こくさく養蚕ようさんでやって居た北多摩郡が豊多摩荏原にかわって蔬菜そさい園芸品えんげいひんを作る様になり、土地のあたいは年々上って来て居る。然るに北多摩郡でももっとも東京に近い千歳村の僅か五百五十町歩の畑地はたちの中、地味ちみも便利も屈指くっしの六十余町歩、即ち畑地の一割強を不毛ふもうの寺院墓地にして了うのは、惜しいものだ。殊に寺院墓地の如き陰気なものに来られては、陽気な人間は来なくなり、多くなるものは農作物の大敵たる鳥雀の類ばかりだ。廿万坪の内には宅地もある。貧乏鬮びんぼうくじ引当ひきあてた者は、祖先伝来の家屋敷や畑をすてゝ、代地だいちと云えば近くて十丁以内にはなく、他郷に出るか、地所が不足では農をよして他に転業しなければならぬ者もあろう。千歳村五百五十戸の中、小作が六割にも上って居る。大面積だいめんせきの寺院墓地が出来て耕地減少の結果、小作料は自然騰貴とうきする。小作料の騰貴はまだいが、中には小作地が不足して住みれた村にも住めなくなり、東京に流れ込んだり、悪くすると法律の罪人ざいにんが出来たりする。それから寺院墓地は免租地めんそちだから、結局村税の負担が増加する。何も千歳村の活気ある耕地をつぶさず共、電車で五分間乃至十分も西に走れば、適当の山林地などが沢山あって、そのへんの者は墓地を歓迎して居る。其方そちけばよいじゃないか。反対の理由は、ざっと右の通りだ。尤も中に多少の魂胆こんたんもあろうが、大部分は本当に土に生き土に死ぬ自作農の土に対する愛着からである。変化を喜び刺戟しげきに生きる都会人には、土に対する本当の農の執着の意味は中々せない。しんの農にとって、土はたゞの財産ではない、生命いのち其のものである。祖先伝来一切の生命の蓄積して居る土は、其一塊いっかいも肉の一片一滴いってきである。農から土をうばうは、霊魂から肉体を奪うのである。換言すれば死ねと云うのである。農をこの土からかの土に移すのは、霊魂の宿換やどがえを命ずるのである。其多くは死ぬるのである。農も死なゝければならぬ場合はある。然しそれ軽々かるがるしく断ずべき事ではない。一は田中正造翁に面識めんしきなく谷中村やなかむらを見ないからでもあろうが、余は従来じゅうらい谷中村民のあまり執念深いのを寧ろ気障きざに思うて居た。六年の田舎住居、多少は百姓の真似まねもして見て、土に対する農の心理の幾分をしはじめて見ると、余はいやでも曩昔むかしみとめずには居られぬ。即ち千歳村の墓地問題の如きも、京王電鉄会社や大地主等にとっては利益問題だが、純農者にとっては取りも直さぬ死活問題であるのだ。
 然るに京王電鉄は、一方先棒さきぼうの村内有力者某々等をして頗る猛烈に運動せしむると共に、一方田夫野人何事をか仕出来しでかさんとたかくくって高圧的こうあつてき手段しゅだんに出た。即ち関係地主の過半数は反対であるにも関せず、会社は村長の奥印おくいんをもって東京府庁にてゝ墓地新設予定地御臨検願を出して了う。霊場敷地展望台を畑の真中まんなかに持て来て建てる。果ては、云う事を聴かねば土地収用法を適用するまでの事だ、電鉄の手で買えば一反五百七十円から五百五十円までゞ買うが、土地収用法がものを云えば一反三百円か高くても三百五十円はさない、それでもいか、好ければ今に見ろ。斯様こんな調子でのしかゝって来た。
 売る者は売れ、俺等おいらは売らぬ、とまして居た反対がわの人達も、流石さすがおこり出した。腰弁当、提灯持参、草鞋わらじがけの運動がはじまった。村会に向って、墓地ぼち排斥はいせきの決議を促す申請書を出す。村会に於てはまた、大多数を以て墓地排斥の建議案を通過するぞと意気込いきごむ。それから連判れんぱんの陳情書を東京府庁へ出すとて余にも村民の一人として賛成を求めて来た。昨朝の事である。

       下

 今日きょう余は女児と三疋の犬とを連れて、柿を給田きゅうでんに買うべく出かけた。薄曇りした晩秋の寂しい午後である。
 品川堀に沿うて北へあゆむ。昨日連判状を持って来た仲間なかまの一人が、かみさんと甘藷さつまを掘って居る。
此処ここらも予定地よていちの内ですか」
「え、あの道路からずっとなんですよ。彼処あすこはたが立ってますだ」
 成程余が書窓しょそうから此頃常に見る旗と同じ紅白染分の旗が、路傍の松のこずえにヒラヒラして居る。東北の方にも見える。あの旗が敗北の白旗しろはたに変らなかったなら、此夫婦は来年此処で甘藷を掘ることは出来ぬのである。
 余は麦畑に踏込む犬をしかり、道草みちくさむ女児をうながし、品川堀に沿うて北へ行く。路傍みちばたの尾花は霜枯れて、かさ/\鳴って居る。丁度ちょうど七年前の此月である。余は妻とこの住家すみかがして、東京から歩いて千歳村に来た。而して丁度其日の夕方に、つかれた足をきずって、正に此路を通って甲州街道に出たのであった。夕日の残る枯尾花かれおばな何処どこやらに鳴く夕鴉ゆうがらすの声も、いとどさすらえ人の感を深くし、余も妻も唯だまって歩いた。我儕われらの行衛は何処どこに落ちつくのであろう? 余等は各自てんでに斯く案じた。余は一個の浮浪ふろう書生しょせい、筆一本あれば、住居は天幕てんまくでもむ自由の身である。それでさえねぐらはなれた小鳥の悲哀かなしみは、其時ヒシと身にみた。土から生れて土をい土をたがやして終に土になる土のけものの農が、土を奪われ土から追われた時の心は如何どうであろう!
 品川堀が西へ曲るとこに来た。丸太を組んだ高櫓たかやぐらが畑中に突立って居る。上には紅白の幕を張って、回向院の太鼓櫓たいこやぐらを見るようだ。北表面きたおもてまわると、墨黒々と筆太ふでぶと
霊場敷地展望台
洋紙ようしに書いて張ったのが、少し破れて風にばた/\して居る。品川堀を渡って、展望台の方へ行くと、下の畑で鉢巻はちまきをした禿頭はげじいさんが堆肥つくておけかついで、よめか娘か一人の女と若い男と三人して麦蒔むぎまきをして居る。爺さんは桶をろし、鉢巻をとって、目礼もくれいした。此は昨夕村会議員の一人と訪ねて来た爺さんである。其宅地も畑も所有地全部買収地ばいしゅうち真中まんなかに取こめられ、仮令たとい収用法しゅうようほうの適用が出来ぬとしても、もし唯一人売らぬとなればふくろねずみの如く出口をふさがれるし、売るとなれば一寸の土も残らず渡して去らねばならぬので、最初から非常に憂惧ゆうぐし、ほとんど仕事も手につかず、昨日ずねて来た時もオド/\した斯老人の容子は余のむねいたましめた。今其畑に来て見れば、直ぐ隣の畑には爺さんを追い払う云わば敵の展望台があたりを睥睨へいげいして立って居る。爺さんは昼は其望台の蔭で畑打ち、夜は望台の夢におそわるゝことであろう。爺さんの寿命を日々にちにち夜々ややちぢめつゝあるものは、斯展望台である。余は爺さんに目礼して、展望台の立つ隣の畑に往った。ちゃくわと二方をしきった畑の一部を無遠慮に踏み固めて、棕櫚縄しゅろなわ素縄すなわ丸太まるたをからげ組み立てた十数間の高櫓たかやぐらに人は居なかった。余は上ろうか上るまいかと踟□ちちゅうしたが、つい女児じょじと犬を下に残して片手てすりを握りつゝ酒樽のこもを敷いた楷梯はしごを上った。北へ、折れて西へ、折れて南へ、三じゅうの楷梯を上って漸く頂上に達した。中々高い。いただきは八分板を並べ、丈夫にゆかをかいてある。
 余は思わず嗟嘆さたんして見廻みまわした。好い見晴らしだ。武蔵野の此辺では、中々斯程の展望所は無い。望台を中心としてほゞ大円形だいえんけいをなした畑地は、一寸程になった麦の緑縞みどりじま甘藷さつまを掘ったあとの紫がかった黒土、べったり緑青ろくしょうをなすった大根畑、明るい緑色の白菜畑はくさいばたけ、白っぽい黄色の晩陸稲おくおかぼ、入乱れて八方に展開し、其周囲にはしもみた雑木林、人家を包むかし木立こだち、丈高い宮の赤松などが遠くなり近くなりくるり取巻とりまいて居る。北を見ると、最早もう鉄軌れえるを敷いた電鉄の線路が、烏山の木立の間に見え隠れ、此方こなたのまだ枕木も敷かぬ部分には工夫が五六人鶴嘴つるはしり上げて居る。西を見れば、茶褐色にこがれた雑木山の向うに、濃い黛色たいしょくの低い山が横長く出没して居る。多摩川たまがわの西岸をふちどる所謂多摩の横山で、川は見えぬが流れのすじ分明ぶんみょうに指さゝれる。少し西北には、青梅あおめから多摩川上流の山々が淡く見える。西南の方は、富士山も大山も曇った空にひそんで見えない。唯藍色あいいろの雲の間から、弱い弱い日脚ひあしが唯一筋はすに落ちて居る。
 やゝ久しく吾を忘れてながめ入った余は、今京王電鉄が建てた墓地敷地展望台の上に立って居ることに気がついた。余は更に目をあげてあたりを見廻わした。此望台を中心として、二十万坪六十余町歩の耕地宅地を包囲して、南に東に北に西に規則正しく間隔かんかくを置いて高く樹梢に翻って居る十数流の紅白旗は、戦わずして已に勝を宣する占領旗せんりょうきかと疑われ、中央に突立ってあたり見下みおろす展望台は、蠢爾しゅんじとしてこゝに耕す人と其住家すみかとをんでかゝって威嚇いかくして居る様で、余は此展望台に立つのが恥かしくなった。
 雪空の様に曇りつゝ日は早やくるるにもなくなった。何処どこかにからすが鳴く。余はさながら不測の運命におそわれて悄然しょうぜんとして農夫の顔其まゝにものいわぬ哀愁に満ちた自然の面影にやるせなき哀感あいかんさそわれて、独望台ぼうだいにさま/″\の事を想うた。都会と田舎の此争は、如何に解決せらるゝであろう乎。京王は終に勝つであろうか。村は負けるであろうか。資本の吾儘わがままが通るであろう乎。労力のなげきが聴かるゝであろう乎。一年両度みどりになりになりいのちを与うる斯二十万坪のきた土は、終古しゅうこ死の国とならねばならぬのであろうか。今うれい重荷おもにうて直下すぐしたに働いて居る彼爺さん達、彼処あち此処こちに鳶色にこがれたけやきの下かしの木蔭に平和を夢みて居る幾個いくつ茅舎ぼうしゃ其等それらは所謂文明の手にはえの如く簑虫みのむし宿やどの如く払いのけられねばならぬのであろうか。数で云うたらたった二十万坪の土地、喜憂きゆうくる人と戸数と、都の場末の一町内にも足らぬが、大なる人情の眼は唯統計とうけいを見るであろうか。東京は帝都ていと寸土すんど寸金すんきん、生がさかれば死は退かねばならぬ。寺も移らねばなるまい。墓地も移らずばなるまい。然しながら死にたるほねは、死にたるやすんずべきではあるまい乎。寺と墓地とは縁もゆかりもない千歳村の此耕さるべき部分の外に行き得る場所はないのであろう乎。都会が頭なら、田舎は臓腑ぞうふではあるまい乎。頭が臓腑を食ったなら、ついには頭の最後ではあるまい乎。田舎はもとより都会のおんる。然しながら都会を養い、都会のあらゆる不浄をはこび去り、新しい生命いのちと元気を都会にそそぐ大自然の役目を勤むる田舎は、都会に貢献する所がないであろう乎。都会が田舎の意志と感情を無視して吾儘わがままを通すなら、其れこそ本当の無理である。無理は分離である。分離は死である。都会と田舎は一体いったいである。農がみだりに土を離るゝの日は農の死である。みやこが田舎をつぶす日は、都自身の滅亡めつぼうである。
 彼旗をてっし、此望台をこぼち、今自然もうれうる秋暮の物悲しきが上に憂愁不安の気雲の如くおおうて居る斯千歳村に、雲霽れてうら/\と日のひかりす復活の春をもたらすを得ば、其時こそ京王の電鉄も都と田舎をつなぐ愛の連鎖、あたたかい血のかよ脈管みゃくかんとなるを得るであろう。
(大正元年 十一月八日)


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     暮秋の日

 竜田姫たつたひめのうっとりと眼をほそくし、またぱっと目をみひらく様な、曇りつ照りつ寂しい暮秋の日。
 こよみの冬は五六日前に立った。霜はまだ二朝ふたあさ三朝みあさ、しかも軽いのしからない。但先月の嵐がるいをなしたのか、庭園の百日紅、桜、梅、沙羅双樹さらそうじゅ、桃、李、白樺、欅、厚朴ほう、木蓮の類の落葉樹は、大抵葉を振うて裸になり、柿やトキワカエデの木の下には、美しいひろ落葉おちばが落葉の上にかさなって厚いしとねを敷いて居る。菊はまだうつろわずして狂うものは狂いそめ、小菊、紺菊の類は、園の此処彼処にさま/″\な色を見せ、紅白の茶山花さざんかは枝上地上に咲きこぼれて居る。ドウダン、ヤマモミジ、一行寺、大盃、イタヤ、ハツシモ、など云うたぐいかえで銀杏いちょうは、深く浅く鮮やかにまたしぶく、紅、黄、かちあかね、紫さま/″\の色に出で、気の重い常緑木ときわぎや気軽な裸木はだかぎの間をいろどる。常緑木の中でも、松や杉は青々とした葉の下に黄ばんだ古葉ふるは簇々むらむられて、自ら新にす可く一吹いっすいの風を待って居る。菊、茶山花の香を含んで酒の様に濃い空気を吸いつゝ、余はさながらあぶの様に、庭から園、園から畑と徘徊はいかいする。庭を歩く時、足下に落葉がかさと鳴る。梅の小枝に妙な物がと目をとめて見ると、かわず干物ひものが突刺してある。此はイタズラ小僧の百舌鳥もずめが食料にしていて其まゝ置き忘れたのである。園を歩く時、大半は種になったコスモスのこずえに咲き残った紅白の花が三つ四つさびしく迎える。畑には最早大麦小麦が寸余に生えて居る。大根漬菜が青々とまだ盛んな生気せいきを見せて居る。かきの外の畑では、まだ晩蒔おそまきの麦を蒔いて居る。向うの田圃では、ザクリ/\鎌の音をさして晩稲おくてって居る。
 今は午後の四時である。先程からぱっとして色と云う色をえさして居た日は、雲のまぶたの下に隠れて、眼に見る限りの物は沈欝ちんうつそうをとった。松の下の大分黄ばんだ芝生に立って、墓地の銀杏いちょうを見る。さまで大きくもあらぬけい六寸程の比較的若木わかぎであるが、魚の背骨せぼねの一方を削った様に枝は皆北方へ出て、南へは唯一本しか出て居ない。南の枝にも梢にも、残る葉はなくて、黄葉こうようは唯北方に密集して居る。其裸になった梢に、はしの大きな痩鴉やせがらすが一羽とまって居る。永く永くとまって居たが、尾羽で一つ梢をうって唖々ああと鳴きさまに飛び立った。黄いろい蝶の舞う様に銀杏の葉がはら/\とひるがえる。
 廻沢の杉森すぎもりのあなたを、葬式が通ると見えて、「南無阿弥陀ァ仏、南無阿弥陀ァ仏」単調な念仏ねんぶつが泣く様に響いて来る。
(大正元年 十一月十日)


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     二つの幻影

 北風が寒く、冬らしい日。
 然し東京附近で冬を云々するのは烏滸おこがましい。如何に寒いと云っても、大地が始終真白まっしろになって居るではなし、少し日あたりのよい風よけのある所では、寒中かんちゅうにも小松菜こまつな青々あおあおして、がけの蔭ではすみれ蒲公英たんぽぽが二月に咲いたりするのを見るのは、珍らしくない。
 北へ行かねば、冬の心地は分からぬ。せめて奥州、北海道、樺太かばふと乃至ないし大陸の露西亜ろしあとか西比利亜とかでなければ、本当の冬の趣味は分からぬ。秋日々ひびに老いて近づく冬の気息が一刻々々に身に響く頃の一種の恐怖おそれ、死に先だつ深い絶望と悲哀は、東京附近の浅薄な冬の真似では到底分からぬ。東京附近の冬は、せい/″\半死半生である。冬が本当の死である国土でなければ、秋の暮の淋し味も、また春の復活の喜も十分には分からぬ。
「おゝ神よ、吾をしてこの春に会うを得せしめ給うを感謝す」と畑で祈ると云う露西亜の老農の心もちには、中々東京附近の百姓はなれぬ。
 いやでもおうでも境遇に我等は支配される。我々のくにでは一切の事が兎角徹底せぬわけである。

           *

 午後散歩、田圃たんぼでは皆欣々喜々として晩稲おくてを苅って居る。
 甲斐かいの山を見る可く、青山街道から十四五歩、船橋ふなばしの方へ上って居ると、東京の方から街道を二台の車が来る。護謨輪ごむわの奇麗な車である。道の左右の百姓達が鎌の手をとゞめて見て居る。予は持て居た双眼鏡そうがんきょうかざした。前なるかしほろの内は、丸髷に結って真白まっしろに塗った美しい若い婦人である。後の車には、乳母うばらしいのが友禅ゆうぜんの美しい着物に包まれた女の児をいて居る。玩具など幌の扇骨ほねに結いつけてある。今日は十一月の十五日、七五三の宮詣みやもうでに東京に往った帰りと見える。二台の護謨輪ごむわが威勢の好い白法被しろはっぴの車夫にかれて音もなくだら/\坂を上って往って了うと、余はものゝ影が余の立つ方に近づきつゝあるに気づいた。骸骨がいこつが来るのかと思うた。其は一人のばばであった。両の眼の下瞼したまぶたことごとあけりかえって、しいの実程の小さな鼻が右へゆがみなりにくっついて居る。小さな風呂敷包をくびにかけて、草履ぞうりの様になった下駄げたを突かけて居る。余は恐ろしくなって、片寄ってばあさんを通した。今にも婆さんが口をきゝはせぬかと恐れた。然し婆さんは、下瞼のあかく反りかえった眼でじろり余を見たまゝ、余のわきを通り過ぎて了うた。程なく雑木山に見えなくなった。
 余は今しがた眼の前を過ぎた二つのまぼろしの意味を思いつゝ、山を見ることを忘れて田圃の方へ下りて往った。
(大正元年 十一月十五日)


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     入営

 たつじいさんとこ岩公いわこうが麻布聯隊に入営する。
 寸志の一包と、吾れながら見事みごとに出来た聖護院しょうごいん大根だいこを三本げて、挨拶に行く。禾場うちばには祝入営の旗が五本も威勢いせいよく立って、広くもあらぬ家には人影ひとかげ人声ひとごえが一ぱいに溢れて居る。土間の入口で、阿爺ちゃんの辰さんがせっせと饂飩粉うどんこねて居る。是非ぜひあがれと云うのを、後刻とふりきって、大根を土間に置いて帰る。
 午後万歳の声を聞いて、あわてゝ八幡はちまんに往って見る。最早もう楽隊がくたいを先頭に行列が出かける処だ。岩公は黒紋付の羽織、袴、靴、ちゃ中折帽なかおれぼうと云うなりで、神酒みき所為せいもあろう桜色になって居る。岩公の阿爺ちゃん体格なりは小さい人の好いじいさんだが、昔は可なり遊んだ男で、小供まで何処かイナセなところがある。
 余も行列に加わって、高井戸まで送る。真先まっさきに、紫地に白く「千歳村粕谷少年音楽隊」とぬいた横旗を立てゝ、村の少年が銀笛ぎんてき太鼓たいこ手風琴てふうきんなぞピー/\ドン/\にぎやかにはやし立てゝ行く。入営者の弟の沢ちゃんも、銀笛を吹く仲間なかまである。次ぎに送入営ののぼりが五本行く。入営者の附添人としては、岩公の兄貴の村さんが弟と並んで歩いて居る。若い時は、亭主が夜遊びするのでしば/\淋しい留守をして、宵夜中よいよなか小使銭こづかい貸せの破落戸漢ならずものに踏み込まれたり、苦労にとしよりもけた岩公の阿母おふくろが、孫の赤坊を負って、草履をはいて小走りに送って来る。四五日前に除隊になった寺本の喜三さんも居る。水兵服すいへいふく丈高たけたかい男を誰かと思うたら、休暇で横須賀から帰って来た萩原の忠さんであった。一昨日母者ははじゃ葬式そうしきをして沈んだ顔の仁左衛門さんも来て居る。余は高井戸の通りで失敬して、径路こみちから帰った。ふりかえって見ると、甲州街道の木立に見え隠れして、旗影と少年音楽隊のきょくが次第に東へ進んで行く。
 今日は何処どこも入営者の出発で、船橋の方でも、万歳の声が夕日の空にあがって居た。
(明治四十四年 十一月三十日)

           *

 辰爺さんが酔うて昨日の礼に饂飩を持て来た。うっかりして居たが、吾家うちは組内だから昨日も何角なにか手伝てつだいに行かねばならなかったのであった。
 爺さんは泣声なきごえして、
「岩もね、二週間すると来ますだよ」と云う。「兵隊に出すのが嫌だなンか云うことァ出来ねえだ。何でも大きくなる時節で、天子様てんしさまくにを広くなさるだから」と云う。
 誰が教えたのかしら。
(同 十二月一日)


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     生死

 霜無く、風無く、雲無く、静かなしずかな小春の日。
 昨夜、台所の竈台へっついだいの下の空籠からかごの中で、犬のピンがうめいたりさけんだりして居たが、到頭四疋子を生んだ。茶色ちゃいろが二疋、くろが二疋、あの小さな母胎ぼたいからよく四疋も生れたものだ。つい今しがた母胎を出たばかりなのに、小猫こねこの様な啼声なきごえを出して、いきおいもうに母の乳にむしゃぶりつく。
 子犬の生れた騒ぎに、猫のミイやが居ないことを午過ひるすぎまで気付きづかなかった。「おや、ミイは?」と細君さいくんが不安な顔をして見廻みまわした時は、午後の一時近かった。そうがかりで家中探がす。居ない。屋敷中探がす。居ない。したが痛くなる程呼んでも、答が無い。民やをやって、近所をあまねく探がさしたが、何処にも居ず、誰も知らぬ、と云う。まだ遠出とおでをする猫ではなし、何時いつ居なくなったろうと評議する。細君が暫らく考えて「朝は居ましたよ、ねぎとりに往く時私にいて畑なぞ歩いて居ました」と云う。如何どうなったのだろう? 烏山の天狗犬てんぐいぬまれたのかも知れぬ。三毛みけは美しい小猫だったから、或は人にいて往かれたかも知れぬ。可愛い、剽軽ひょうきんな、怜悧りこうな小猫だったに、行方不明とは残念な事をして了うた。ひょっとしたら、仲好なかよくして居たピンに子犬が生れたから、ミイが嫉妬して身を隠したのではあるまいか、などあられもない事まで思う。
 夕食の席で、民やが斯様こんな話をした。今日きょう午後猫をさがして居ると、八幡下で鴫田しぎたの婆さんと辰さんとこの婆さんと話して居た。先刻田圃たんぼ向うの雑木山の中で、印半纏しるしばんてんを着た廿歳許の男と、小ざっぱりした服装なりをした二十はたち前後の女が居た。男はせっせと手で土をって居た。女は世にも蒼ざめた顔をして居た。自然薯じねんじょでも掘るのですかい、と通りかゝりの婆さんがきいたら、何とも返事しなかった。程経てまた通ると、先の男女はまだ其処そこに居た。其前八幡山はちまんやまの畑の辺をまご/\して居たそうである。多分やみから闇にとりた胎児たいじを埋めたのであろう。鴫田の婆さんは、自家うちの山に其様そんな事でもしられちゃ大変だ、と云うて畑の草の中なぞつえのさきでせゝって居たそうだ。
 其若い男女が、ひょっとしたらまた其処そこへ来て居るかも知れぬ。あるいは無分別をせぬとも限らぬ。
 はしくと、外套がいとう引かけて出た。からだたましい倔強くっきょうな民が、私おとも致しましょう、と提灯ちょうちんともして先きに立つ。
 八幡下の田圃を突切つっきって、雑木林の西側をこみちに入った。立どまってややひさしく耳をました。人らしいものゝもない。
何処どこに居るかね、不了簡ふりょうけんをしちゃいかんぞ。わしに相談をして呉れんか」
 声をかけて置いて、じっと聞き耳を立てたが、吾声わがこえ攪乱かきみだした雑木山の静寂せいじゃくはもとにえって、落葉おちば一つがさとも云わぬ。霜を含んだ夜気やきは池の水の様にって、上半部をいた様な片破かたわれ月が、はだかになった雑木のこずえに蒼白く光って居る。
 立とまっては耳をかたむけ、こたえなき声を空林くうりんにかけたりして、到頭甲州街道に出た。一廻りして、今度は雑木山の東側のこみちを取って返した。提灯は径を歩かして、余は月のあかりを便りに今一度疑問の林に分け入った。株立になった雑木は皆落葉おちばして、林の中は月明つきあかりでほの白い。くぬぎからならと眼をつけ、がさ/\と吾がみ分くる足下あしもとの落葉にも気をつけ、木を掘ったあとのくぼみを注視し、時々立止って耳を澄ました。
 ない。終に何者も居ない。土の下もだまって居る。
(明治四十二年 十二月二日)


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     天理教の祭

 おかずばあさんが、天理教会秋祭あきまつりの案内に来た。
 紙の上の天理教てんりきょうは見て居るが、教会をのぞいた事はだ無い。好いおりだ。往って見る。
 下足札げそくふだを出して、百畳敷一ぱいの人である。正面には御簾みすを捲いて、鏡が飾ってある。太鼓たいこしょう篳篥ひちりきこと琵琶びわなんぞを擁したり、あるいは何ものをも持たぬ手をひざに組んだ白衣びゃくいの男女が、両辺に居流れて居る。其白衣の女の中には、おかずばあさんも見えた。米俵が十数ひょうも神前にまれて、奉納者ほうのうしゃの名を書いた奉書紙ほうしょがみが下げてある。
 やがて鳴物なりものが鳴り出した。
 太鼓の白衣氏がばちにぎって単調な拍子ひょうしをとりつゝ
「ちょっとはなし、神の云うこと聞いてくれ」
となえ出した。琴が鳴る。篳篥ひちりきが叫ぶ。琵琶がする。
 黒紋付木綿の綿入にはかま穿いた倔強くっきょうな若い男が六人、歌につれて神前に踊りはじめた。一進一退、うらむきおもてむき、立ったりしゃがんだり、黒紋付の袖からぬっと出たたくましい両の手を合掌がっしょうしたりほどいたり、真面目に踊って居る。無骨ぶこつで中々愛嬌あいきょうがある。「もっこかついでひのきしん」と云う歌のところでは、六人ながら新しい畚をになって踊った。
 鳴物は単調に鳴る。歌は単調につゞく。踊は相も変らぬ手振がつゞく。余は多少あき気味であたりをながめる。皆近辺の人達で、多少の識った顔もある。皆嬉々ききとして眺めて聴いて居る。

           *

 天理教祖は実に偉い婆さんであった。其広大な慈悲心は生きて働き、死んでます/\働き、老骨ろうこつ地に入ってこゝに数十年、其流れをむ人の数は実におびただしい数を以て数えられる。仮令たとい大和の本教会ほんきょうかいは立派な建築を興し、中学などを建て、小むずかしい天理教聖書を作り、已に組織病にかかったとしても、婆さんから流れ出た活ける力はまだ/\盛に本当の信徒の間に働いて居る。信ずる者は幸福である。仮令たとい其信仰の為に財産をなくして人の物笑ものわらいとなり、政府の心配となるとも、信ずる者は幸福である。彼等の多くは無学である。彼等に教理を問うても、彼等は唯にこ/\と笑うて、立派な言葉で明かに答える事は出来ぬ。然し信仰を説く者必しも信仰をつ者でない。信ずる彼等はたしかに其信仰に生きて居るのである。
 信仰と生活の一致は、容易で無い。何れの信仰でも雑多ざったな信者はある。世界の信者が其信仰を遺憾いかんなく実現したら、世界はとうに無事に苦んで居るはずだ。天理教徒にも色々ある。財産を天理様にささげてしまって、嬉々ききとして労役者ろうえきしゃの生活をして居る者もある。天理教で財産をって、其報償むくいを手あたり次第に徴集ちょうしゅうし、助けなき婆さんをいじめて店賃たなちんをはたる者もある。病気の為に信心して幸にゆれば平気で暴利をむさぼって居る者もある。信徒の労力を吸ってえて居る教師もある。然しこのせちからい世の中に、人知れず美しい心の花を咲かす者も随処ずいしょにある。此春妻が三軒茶屋さんげんぢゃやから帰るとて、車はなしひょろ/\する程荷物をげてあるいて居ると、畑にはたらいて居た娘が、今しも小学校の卒業式から優等の褒美をもろうて帰る少年を追かけて呼びとめてくれたので、其少年に荷物を分けて持ってもろうて帰って来た。親切な人々と思うて聞いて見れば、それは天理教信者であった。
 人が平気にみしだく道辺みちべ無名草ななしぐさの其小さな花にも、自然の大活力は現われる。天理教祖は日本の思いがけない水村山郭さんかくの此処其処に人知れず生れて居るのである。

           *

 斯様な事を思うて居る内に、御神楽歌おかぐらうた一巻をとなはやし踊る神前の活動はやんで、やがて一脚の椅子テーブルが正面にえられ、洋服を着た若い紳士が着席し、木下藤吉郎秀吉が信長の草履取ぞうりとりとなって草履をふところに入れてあたためた事をきい/\声で演説した。其れが果てると、余は折詰おりづめ一個をもらい、正宗まさむね合瓶ごうびんは辞して、参拾銭寄進きしんして帰った。
 耶蘇教はつよく、仏教は陰気いんきくさく、神道に湿しめりが無い。かの大なる母教祖ははきょうそ胎内たいないから生れ出た、陽気で簡明切実せつじつな平和の天理教が、つちの人なる農家に多くの信徒をつは尤である。
(明治四十二年 十二月四日)


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     渦巻

 小春日がつゞく。
 十二月は余の大好だいすきな月である。絢爛けんらんの秋が過ぎて、落つるものは落ちつくし、るゝものは枯れ尽し、見るもの皆乾々かんかん浄々じょうじょうとして、さびしいにも寂しいが、寂しい中にも何とも云えぬあじがある。秋に別れて冬になろうと云う此ひまに、自然が一寸静座の妙境みょうきょうに入る其幽玄のおもむきは言葉に尽くせぬ。
 隣字となりあざの仙左衛門が、根こぎの山豆柿やままめがき一本と自然薯じねんじょを持て来てくれた。一を庭に、一をにわとりさくに植える。今年ことし吾家うち聖護院しょうごいん大根だいこが上出来だ。種をくれと云うから、二本やる。少し話して行けと云うたら、また近所きんじょさけが出来たからと云うて、急いで帰った。鮭とは、ぶら下がるの謎で、首縊くびくくりがあったと云うのである。
 橋本の敬さんが、実弟の世良田せらだぼうを連れて来た。五歳いつつの年四谷よつやに養子に往って、十年前渡米し、今はロスアンゼルス砂糖さとう大根だいこん八十町、セロリー四十町作って居るそうだ。つまを持ちに帰って来たのである。カンタループ、草花の種子をもらう。
 此村から外国がいこく出稼でかせぎに往った者はあまり無い。朝鮮、北海道の移住者も殆んど無い。余等が村住居の数年間に、隣字の者で下総しもうさの高原に移住し、可なり成功した者が一度帰って来たことがある。の家にも、子女の五六人七八人居ない家はないが、それで一向いっこう新しいかまどえる様子もない。如何どうなるかと云えば、女は無論とつぐが、息子むすこの或者は養子に行く、ある者は東京に出て職を覚える、みせを出す。何しろ直ぐ近所に東京と云う大渦おおうずが巻いて居るので、村を出ると直ぐ東京に吸われてしもうて、移住出稼などに向く者は先ず無いと云うてよい。世良田せらだ君なんどは稀有けうの例である。
 東京に出て相応そうおうに暮らして行く者もあるが、春秋の彼岸やぼんに墓参に来る人の数は少なく、余の直ぐ隣の墓地でも最早もう無縁むえんになった墓が少からずあるのを見ると、故郷はなれた彼等の運命が思いやられぬでもない。「家鴨馴知灘勢急、相喚相呼不離湾」何処どこぞへ往ってしまいたいと口癖くちぐせの様に云う二番目息子の稲公いねこうを、阿母おふくろ懸念けねんするのも無理は無い。
(明治四十四年 十二月五日)


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     透視

 非常の霜、地皮ちひが全くしもやけして了うた。
 の前後はまた無闇むやみあたたかだ。こがらしだまり、時雨しぐれねむり、かわいてりかえった落葉おちばは、木の下にゆめみて居る。からすいたあとに、隣のにわとりき、すずめが去ったあとのかえでえだに、鷦鷯みそさざいがとまる。静かにさす午後の日に白くひかって小虫こむしが飛ぶ。蜘糸くものいの断片が日光の道を見せてひらめく。甲州の山は小春こはるそらにうっとりとかすんで居る。
 落ちついて、はっきりして、寂しい中に暖かがあって、あたたかい中に寂し味があって、十二月は本当に好い月である。
 日曜だが、来客もなくてしずかなことだ。主と妻と女児と、日あたりの母屋おもや南縁なんえんで、日なたぼっこをして遊ぶ。白茶しらちゃ天鵞絨びろうどの様に光る芝生しばふでは、犬のデカとピンと其子のタロウ、カメが遊んで居る。大きなデカおやじが、自分の頭程あたまほどもない先月生れの小犬ののみんでやったり、小犬が母の頸輪くびわくわえて引張ったり、犬と猫と仲悪なかわるたとえにもするにデカと猫のトラとはなつき合わしてたがいうたがいもせず、皆悠々と小春の恩光おんこうもとに遊んで居る。「小春」とか「和楽わらく」とかのになりそう。

           *

 細君が指輪ゆびわをなくしたので、此頃勝手元の手伝てつだいに来る隣字となりあざのおすずに頼み、きちさんに見てもらったら、母家おもやいぬい方角ほうがく高い処にのって居る、三日みっか稲荷様いなりさまを信心すると出て来る、と云うた。
 吉さんは隣字の人で、日蓮宗の篤信者とくしんじゃ、病気が信心でなおった以来千里眼を得たと人が云う。吉凶きっきょう其他分からぬ事があれば、界隈かいわいの者はよく吉さんに往って聞く。造作ぞうさなく見てくれる。馬鹿にして居る者もあるが、信ずる者が多い。信ずる者は、吉さんのことばで病気もなおり、なくなったものも見出す。此辺での長尾ながお郁子いくこ御船みふね千鶴子ちづこである。
 裏の物置に大きな青大将あおだいしょうが居る。吉さんは、其れを先々代の家主のかみさんのれいだと云う。兎に角、聞く処によれば、これまで吉さんの言が的中てきちゅうした例は少なくない。吉さんは人の見得ないものを見る。汽車の轢死人れきしにんがあった処を吉さんが通ると、青い顔の男女なんにょがふら/\いて来て仕方しかたがないそうだ。
 余の家にも他の若い者なみに仕事に来ることがある。五十そこらの、せて力があまりなさそうな無口な人である。
 我等は信が無い為に、統一が出来ない為に、おのずから明瞭なものも見えず聞こえずして了うのである。信ずる者には、奇蹟は別に不思議でも何でもないはずだ。
 然しながら我等凡夫ぼんぷは必しも人々尽く千里眼たることは出来ぬ。また必ずしも悉く千里眼たるを要せぬ。長尾郁子や千鶴子も評判が立つと間もなく死んで了うた。不信が信を殺したとも云える。また一方から云えば、幽明ゆうめい物心ぶっしん死生しせい神人しんじんの間をへだつる神秘の一幕いちまくは、容易にかかげぬ所に生活の面白味おもしろみも自由もあって、みだりに之を掲ぐるのむくいすみやかなる死或は盲目である場合があるのではあるまいか。命をしても此帷幕の隙見すきみをす可く努力せずに居られぬ人をわらうは吾儕われらどん高慢こうまんであろうが、同じ生類しょうるいの進むにも、鳥の道、魚の道、むしの道、またけものの道もあることを忘れてはならぬ。
 吾儕われらは奇蹟を驚異し、透視とうしの人を尊敬し、而して自身は平坦な道をあるいて、道の導く所に行きたいものである。

           *

 夜、鶴子つるこ炬燵こたつに入りながら、昨日東京客からみやげにもらった鉛筆で雑記帳にアイウエオの手習てならいをしたあとで、雑記帳の表紙ひょうしに「トクトミツルコノデス」と書き、それから
コイヌガウマレマシテ、カワイコトデアリマス
と書いた。これは鶴子女史が生れてはじめての作文だ。細君が其下に記憶の為「ゴネントムツキ」と年齢としをかゝせた。
(明治四十四年 十二月十日)


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     雪

 暮の廿八日は、午食前ひるめしまえから雨になり、降りながら夜に入った。
 夜の二時頃、枕辺まくらべ近くどすと云った物音ものおとに、余は岸破がばね起きた。身繕みづくろいしてやゝしばし寝床ねどこ突立つったって居ると、忍び込んだと思った人の容子ようすは無くて、戸のそとにサラ/\サラ/\忍びやかな音がする。
「雪だ!」
 先刻さっきの物音は、かしの枝を滑り落ちた雪のおとだったのだ。余は含笑ほほえみつゝまた眠った。
 六時、起きて雨戸をあけると、白いひかりがぱっと眼をた。縁先えんさきまで真白だ。最早もう五寸から積って居るが、まださかんに降って居る。
 去年は暖かで、ついぞ雪らしい雪を見なかった。年の内に五寸からの雪を見ることは、余等が千歳村の民になってからはじめてゞある。
 余は奥書院おくしょいんの戸をあけた。西南を一目に見晴みはらす此処ここの座敷は、今雪の田園でんえん額縁がくぶちなしのにして見せて居る。庭の内に高低こうてい参差しんしとした十数本の松は、何れもしのび得るかぎり雪にわんで、最早はらおうか今払おうかと思いがおに枝を揺々ゆらゆらさして居る。素裸すっぱだかになってた落葉木らくようぼくは、従順すなおに雪の積るに任せて居る。枯萩かれはぎ一叢ひとむらが、ぴったりと弓形ゆみなりに地に平伏ひれふして居る。余は思わず声を立てゝ笑った。背向うしろむきの石地蔵いしじぞうが、看護婦の冠る様な白い帽子をせられ、両肩りょうかたには白い雪のエパウレットをかついで澄まして立ってござるのだ。
 余は障子をしめて内に入り、仕事にかゝる前に二通の手紙を書いた。筑波山下つくばさんか医師いしなる人に一通。東京銀座の書店主人に一通。水国すいこくの雪景色と、歳晩さいばんの雪の都会の浮世絵がまぼろしの如く眼の前に浮ぶ。手紙を書き終えて、余は書き物をはじめた。障子が段々だんだんまぶしくなって、時々吃驚びっくりする様な大きなおとをさしてドサリどうと雪が落ちる。机のそばでは真鍮しんちゅう薬鑵やかんがチン/\云って居る。
 午餐ごさんの案内に鶴子が来た。室を出て見ると、雪はぽつり/\まだ降って居るが、四辺あたりは雪ならぬ光を含んで明るく、母屋おもやまえの芝生は樫のしずくで已にまだらに消えて居る。
「何だ、此れっ切りか。春の雪の様だね」
 ののしりつゝ食卓しょくたくく。黒塗膳くろぬりぜんに白いものが三つせてある。南天なんてんあか眼球めだまにしたうさぎと、竜髭りゅうのひげあお眼球めだまうずらや、眉を竜髭の葉にし眼を其実にした小さな雪達磨ゆきだるまとが、一盤ひとばんの上に同居して居る。鶴子の為に妻が作ったのである。
この達磨だるまさん西洋人せいようじんよ、だって眼があおいンですもの」と鶴子がう。
 雪で、今日は新聞がぬ。朝は乳屋ちちや、午後は七十近い郵便ゆうびん配達はいたつじいさんが来たばかり。明日あす餅搗もちつきを頼んだので、隣の主人あるじ糯米もちごめを取りに来た。其ついでに、かし立ての甘藷さつまいもを二本鶴子にれた。
 余は奥座敷で朝来ちょうらいの仕事をつゞける。寒いので、しば/\火鉢ひばちすみをつぐ。障子がやゝかげって、丁度ちょうど好い程のあかりになった。さあと云う音がする。ごうと云うひびきがする。風が出たらしい。四時やゝまわると、妻がちゃれ、鶴子が焼栗やきぐりを持て入って来た。
雪水ゆきみずかしたのですよ」
と妻がう。ペンをさしおいて、取あえず一わんかたむける。銀瓶ぎんびんと云う処だが、やはりれい鉄瓶てつびんだ。其れでも何となく茶味ちゃみやわらかい。手々てんでに焼栗をきつゝ、障子をあけてやゝしばし外を眺める。北から風が吹いて居る。田圃たんぼむこうの杉の森をかすめて、白い風がふっふっ幾陣いくしきりはすに吹き通る。庭の内では、の如く花の様な大小の雪片せっぺんが、んだり、ねたり、くるうたり、筋斗翻とんぼがえりをしたり、ダンスをする様にくるりとまわったり、面白そうにふざけ散らして、身軽みがる気軽きがるに舞うて居る。消えかけて居た雪の帽が、また地蔵の頭上に高くなった。庭の主貌あるじがおした赤松の枝から、時々サッと雪のたきが落ちる。
「今夜も降りますよ」
 斯く云いすてゝ妻は鶴子と立って往った。
 余は風雪の音を聞き/\仕事をつゞける。一枚も書くと、最早もう書く文字がおぼろになった。余はペンをいて、立って障子をあけた。
 蒼白あおじろい雪の黄昏たそがれである。眼の届く限り、耳の届く限り、人通りもない、物音もしない。唯雪が霏々ひひまた霏々と限りもなく降って居る。ややひさしく眺める。不図縁先えんさきを黒い物が通ると思うたら、それは先月来余の家に入込んで居る風来犬ふうらいいぬであった。まだ小供□□した耳の大きな牝犬めいぬで、何処から如何どうして来たか知らぬが、勝手にありついて、追えども逐えども去ろうともせぬ。余の家には雌雄しゆうひきの犬が居るので、此上牝犬を飼うも厄介である。わざ/\人を頼んで、玉川向うへ捨てさせた。すると翌日ひょっくり帰って来た。汽車に乗せたらとって、荻窪おぎくぼから汽車で吉祥寺きちじょうじに送って、林の中につないで置いたら、くびに縄きれをぶらさげながら、一週間ぶりにもどった。隣字の人に頼んで、二子在の犬好きの家へ世話してもらうつもりで、一先ず其家に繋いで置いてもらうと、長いくさりを引きずりながら帰って来た。詮方せんかたなくて今は其まゝにしてある。余が口笛くちぶえいたら、彼女かのじょはふっと見上げたが、やがて尾をれて、小さな足跡あしあとを深く雪に残しつゝ、裏の方へ往って了うた。
 雪はまだしきりに降って居る。
 余は思うともなく今年一年の出来事をさま/″\と思いうかべた。身の上、家の上、村の上、自国の上、外国の上、さま/″\と事多い一年であった。種々のかたちで世界の各所かくしょあらわるゝ、人心じんしん昂奮こうふん、人間の動揺が、まぐろしくあらためて余の心の眼にうつった。
 何処どこに落着く世の中であろう?
 余は久しく久しく何を見るともなく雪の中を見つめる。
 大正元年暮の二十九日は蒼白あおじろう暮れて行く。
おのがじし舞ひ狂ひつるあともなし
    世は一色ひといろの雪の夕暮
(大正元年 十二月二十九日)


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   読者に


       (一)

読者諸君。
「みみずのたはこと」の出版は、大正二年の三月でした。それから今大正十二年十二月まで何時しか十年余の月日が立ちました。此十年余の限りない波瀾にも、最近の大震災にも幸につつがなく、ここに「みみずのたはこと」の巻末に於て、粕谷の書斎から遙に諸君と相見るを得るは、感謝の至です。
 まことに大正の御代になっての斯十余年は、私共に、諸君に、日本に、はた世界にとって、極めて多事多難な十余年でありました。
 大正元年暮の二十九日、雪の黄昏を眺めた私の心のやるせない淋しさ――それは世界を掩うて近寄り来る死の蔭のひいやりとしたあゆみをわれ知らず感じたのでした。大正二年「みみずのたはこと」の出版をさながらのきっかけに、日一日、歩一歩、私は死に近づいて来ました。死にたくない。のがれたい、私は随分もがきました。一家を挙げて秋の三月みつきを九州から南満洲、朝鮮、山陰、京畿けいきとぶらついた旅行は、近づく運命をかわそうとてののたうち廻りでした。然しさかずき否応いやおうなしに飲まされます。私は阿容□□おめおめとまた粕谷の旧巣ふるすに帰って来ました。
 大正三年が来ました。「死」の年です。五月に私の父が九十三歳で死にました。私は父を捨て、「みみずのたはこと」の看板娘であった鶴子を其父母に返えし、門を閉じ、人を謝して、生きながら墓の中に入りました。八月に独逸を相手の世界戦が始まります。世界は死の蔭に入りました。
 其十二月に私は自伝小説「黒い眼と茶色の目」を出しました。私にとって自殺の第一刀です。同時に「生」への安全弁でもありました。然し要するに自他を傷つくる爆弾であった事もあらそえません。早速妻が瀕死の大病にかかり、四ヶ月を病院に送りました。生命を取りとめたが不思議です。
 世界が血みどろになって戦う大正四年、大正五年、大正六年、私は閉門生活をつづけて居ました。懊悩おうのうは気も狂うばかりです。かたわらに妻あり踏むに土あって、私は狂わず死なざるを得ました。私は真面目に畑仕事をしました。然し文筆の人に鍬のみでは足りません。大正六年の三月「死の蔭に」を出しました。大正二年の秋の逃避旅行の極めて皮相な叙述です。
 すべてにはきりがあります。「死の蔭に」が出で、父の三年のが果てる頃から、私はそろ/\死の蔭を出ました。大正七年は私共夫妻の銀婚です。其四月、母の九十の誕辰に私は「新春」を出しました。生の福音、復活の凱歌です。春に「新春」が出て、秋の十一月十一日に、さしも五年にわたって世界を荒らした大戦がばったり止んだのであります。
 世界が死の蔭を出て、大戦後始末の会議が□ルサイユに開かれた大正八年一月私共夫妻は粕谷を出でて世界一周の旅に上りました。旅費の前半は「新春」の読者、後半はあとで出た「日本から日本へ」の読者から出たのであります。新嘉坡シンガポオルまで往った時、私の母が東京で九十一歳で死にました。父を捨てた子は、母の死に目にも会いません。私共はなお西へ西へと旅をつづけ、何時しか世界を一周して、大正九年の三月日本に帰って来ました。
母なしとなどかは嘆くわれを生みし
    国土こくど日本にっぽんとこしへの母
 日本近くなった太平洋船中での私の感懐であります。
 帰って丁度一年目の大正十年三月、私共は夫妻共著の「日本から日本へ」を出しました。
 中一年置いて、今大正十二年四月に私は「竹崎順子」を出しました。日露戦争中肥後の熊本で八十一で亡くなった私の伯母――母の姉の実伝で、十八年前の遺嘱いしょくを果したのであります。
 それから九月一日の大震にもお蔭でつつがなく、五十六歳と五十歳のアダム、イヴは、今年七月秋田から呼んだ、デダツ(モンペの方言)を穿いて「奥様、あれ持って来てやろか」と云う口をきく、アイウエオが十分には読めぬ「今」という十四の女中と、Bと名づくる牝猫一疋、淋しい忙しい生活をつづけて居ります。

           *

 世界一周から帰村した三日目の夜、私共は近所の人人を呼んでおみやげ話をしました。ざっと行程を話したあとで、私は曰いました。
世界を一周して見て、日本程好い処はありません。日本では粕谷程好い処はありません。
諸君が手をたたいて喝采かっさいしました。
 お世辞ではありません。全然まったくです。
 私は九州肥後の葦北あしきた水俣みなまたという海村に生れ、熊本で成長し、伊予の今治、京都と転々てんてんして、二十二歳で東京に出で、妻は同じ肥後の菊池郡隈府わいふという山の町に生れ、熊本に移り、東京に出で、私が二十七妻が二十一の春東京で一緒いっしょになり、東京から逗子、また東京、それから結婚十四年目の明治四十年に初めて一反五畝の土と一棟ひとむねのあばら家を買うて夫妻此粕谷に引越して来ました。戸籍まで引いたは、永住の心算つもりでした。然し落ち着きは中々出来ないものです。村居七年目に出した「みみずのたはこと」は、開巻第一に臆面おくめんもなく心のぐらつきを告白して居ます。永住方針で居たが、果して村に踏みとどまるか、東京に帰るか、もっと山へ入るか、分からぬと言うて居ます。其挙句あげく前述ぜんじゅつの通り十年のドウ/\めぐりです。私は自分の幼稚な吾儘わがままと頑固な気まぐれから、思うようにならぬとうては第一自分自身がいやになり、周囲がいやになり、日本がいやになり、世界がいやになり、到頭生きる事がいやになり、自己をけたい、何処ぞへ移りたい、面倒臭い、いっそ死んでのけたいとまで思いつめ、落ちつく故郷を安住の地をひたもの探がし廻ったのでした。然し駄目でした。一足飛びに自分が聖人にもなれません。一から十まで気に入るような人間にも会えません。またしっくりと身に合うような出来合いの理想郷は此世にありません。然らば如何どうする? だらしなく無為にちるか。太く短く反逆の芝居を打って一思いに花やかな死を遂げるか。さもなくば自己に帰って、客観的にはへりくだってすべてに顕わるる神を見、主観的には自己をかくにして内にも外にも好きな世界を創造すべく努めるか。私は其一を撰ばねばならなくなりました。而して到頭自己に帰りました。「盍反其本なんぞそのもとにかえらざる」で、畢竟ひっきょう其本に、自己に、わがうちいます神、やがてすべてに在す神――に帰ったのであります。帰れば其処が故郷でした。安住の地でした。私の母の歌に
西、東、北の果までたづねても
    みなみ(南、――皆身みなみ)にかへる地獄極楽
というのがありますが、まさにそれです。皆身にかえる外はありません。私も五十年来さま/″\の旅をしつくし、駄目を押し、終に世界を一周ひとめぐりして来て見て、いよ/\自己に、而して自己の住む此処日本粕谷にしっかりと腰を据えたのであります。
 十七年前、村入当時私は東隣の墓地の株に加入を勧められました。私は生返事して十数年を過ごしました。今年ある村の寄合の場で、私は斯く言いました。
「私共もいよ/\粕谷の土になる事にきめました。何分よろしく」
「世界で日本、日本で粕谷」に拍手喝采した諸君は、此時破顔一笑、会心かいしんのさざめきを以てむくうてくれました。
 いよ/\私共も粕谷の土になるにきめました。東隣の墓地は狭いが、四千坪近い所有地は何処にやすらうも自由です。墓地をきめると云う事は、旅行しない意味では無論ありません。何処で死ぬか、私共は知りません。唯何処で死んでもいずれ粕谷の土です。
 とまりがきまると、行手ゆくてを急ぐ要はありません。のろ/\歩きましょう。一歩は一歩のたのしみです。父は九十三、母は九十一、何卒どうか私共もあやかりたい。先頃の大地震に、私はある人に言いました。「借金もちは、天道様てんとうさまが中々殺さぬよ」。私もおびただしい借金もちです。五十年来幾度となく死地を脱して斯く生かされて居るのも、あの因業爺いんごうおやじが「分厘までも」払わさずには置かぬ心底がまざ/\と読まれます。私も昔は借金とも思わず無暗むやみかさねた時代がありました。借金と気がついて急に悄気しょげた時期もあります。わが借金はたなにあげ、ひとの少々の貸金をはたって歩いた時もあります。山なす借金、所詮しょせん払えそうもないので、ドウセ毒皿だ、クソ、ドシドシ使い込んでやれ、踏倒して逃げてやれ、と悪度胸わるどきょうえた時もあります。然しもういさぎよく観念しました。返えします。奇麗に返えします。成る事なら利子をつけて返えします。返えさずに居れなくなりました。返えすが楽にさえ悦喜にさえなって来ました。目下整理中です。そうじて義務が道楽にならねば味がない。借金返えしも渋面じゅうめんつくって、さっさと返えしてはきょくが無い。『人生は厳粛也、芸術は快活也。』真面目まじめに計算しましょう。笑顔えがおで払いましょう。其為にこそ私共は生れて来、生きて来たのです。

       (二)

 私共が粕谷に越して来ての十七年は、やはり長い年月でした。村も大分変りました。東京が文化が大胯おおまたに歩いて来ました。「みみずのたはこと」が出た時、まだ線路工事をやって居た京王電鉄が新宿から府中まで開通して、朝夕の電車が二里三里四里の遠方から東京へ通う男女学生で一ぱいになったり、私共の村から夏の夕食後に一寸九段下あたりまで縁日をやかしに往って帰る位何の造作ぞうさもなくなったのは、もう余程以前の事です。私共の外遊中に、名物巣鴨の精神病院がつい近くの松沢に越して来ました。うれしいような、またこわいような気がします。隣字となりあざの烏山には文化住宅が出来ました。別荘式住宅も追々建ちます。思いがけなく藪陰から提琴ヴァイオリンの好い音が響いたり、気どったトレモロが聞こえたりします。燈台下暗かった粕谷にも、昨秋から兎に角電燈がつきました。私共が村入当時二十七戸の粕谷が、新家が出来たり、村入があったり、今は三十三戸です。このあたりもう全くの蔬菜村です。東京が寄って来た事が知れます。現に大東京の計画中には、北多摩郡でも一番東部の千歳村、きぬた村の二村が包含される事になって居ます。此処までお出と私共が十七年前逃げ出した東京を手招きした訳でもないが、東京の方から追いかけて来るのを見れば、切っても切れぬ情縁がやはりあるものと見えます。もう私共は今の粕谷が東京の中心になっても、動きません。村が蔬菜村になって、水瓜などは殆んど番がいらぬまで普通になりました。水瓜好きの私共には特別の恩恵です。農家も追々豊になり、此頃では荷車挽きに牛をわぬ家は稀です。本文の「不浄」にも書いた通り、荷出しや下肥引きに村の人人が汗みずくになって、眼を悪くして重い車を引くのを気にして居た私共に、牛車は何と云ううれしい変化でしょう。牛の牟々もうもう程農村を長閑のどかにするものはありません。道路も追々よくなります。村役場も改築移転し、烏山にも小学が出来、もとの塚戸小学校も新築されて私共に近くなりました。運動時間などはわァわァと子供の声がうしおの如く私の書斎に響いて来ては、子無しの私共に力をつけます。
 台湾を取り、樺太の半をおさめ、朝鮮をあわせ、南満洲に手を出し、布哇を越えて米国まで押寄する日本膨脹の雛型ひながたででもあるように、明治四十年の二月に一反五畝の地面と一棟のあばら家からはじめた私共の住居すまいも、追々買い広げて、今は山林宅地畑地を合わせて四千坪に近く、古家ながら茅葺かやぶき四棟よむねもあって、廊下、雪隠、物置、下屋一切を入れて建坪が百坪にも上ります。村の人となって程なく、二尺余の杉苗を買うて私は母屋おもやの南面に風よけの杉籬すぎかきいました。西の端に唯一本木鋏きばさみを免れた其杉苗が、今は高さ二丈五尺、みきふとさは目通り一尺五寸六分になりました。十七年の杉の成長としては思わしくありませんが、二尺の苗の昔を思えば隔世かくせいの感があります。私共の村住居むらずまい年標ねんひょうとして、私は毎々まいまいお客に此杉の木をゆびさします。年標の杉が太り、屋敷も太りました。巻頭の写真にも其面影はうかがわれます。一町二反余の地主で、文筆による所得税を納めるので、私も今は衆議院議員選挙権の所有者です。已に一回投票というものをして見ました。それは兎に角私も粕谷の住人としてもう新参ではありません。住居の雅名がめいしくなったので、私の「新春」が出た大正七年に恒春園こうしゅんえんと命名しました。台湾の南端に恒春と云う地名があります。其恒春に私共の農園があるという評判がある時立って其処に人を使うてくれぬかとある人から頼まれた事があります。思もかけない事でしたが、縁喜えんぎいので、一つは「永久に若い」意味をこめて、台湾ならぬ粕谷の私共の住居を恒春園と名づけたのであります。恒春園は荒れました。四千坪の大部分は樹木とかや、雑草で、畑は一反足らずです。外遊中は人気ひとけがないので野兎のうさぎが安心して園に巣をつくりました。此頃ではペン多忙で、滅多めったくわは取りません。少しばかりの野菜は、懇意な農家に頼んで居ます。金になると云う上からは、恒春園はぜろです。毎年堆肥たいひ温床用おんしょうようの落葉を四円に売ります。四千坪の年収が金四円です。庭園は荒れに荒れ、家も大分ふるびて、雨漏りがします。明治四十二年の春に買った一棟ひとむねなぞは、萱沢山かやたくさんの厚さ二尺程にも屋根をいて、一生大丈夫の気で居ましたら、何時しか木蔭から腐って、骨が出ました。家屋でも、身体からだでも、修繕なしにやって往けよう筈はありません。四十と三十四で東京から越して来た私共夫妻が、五十六と五十になって、眼が薄くなったり、物忘れをしたり、五体の何処かが絶えず修補をうながします。私共も肝油を飲んだり、歯科眼科に通ったり、腸胃の為に弦斎さんのタラコン散を常薬にして居ます。身体の修繕斯通りで、家屋のそれも決して忘れた訳ではありません。全く住宅と衣服は出来合いで済まされません。洋服の利は分かって居ます。私共も外遊以来一切和服の新調をやめ――以前からろくに和服という和服もなかったのですが――内にも外にも簡易な洋服生活です。住居はこれからです。古家ばかり買い込んで、小人数には広過ぎ、手長足長、血のめぐりの悪い此住居を取毀とりこわし、しっくりとした洋式住宅を建てよう心算はとくに出来て居ますが、実現がまだ出来ません。畳の上に椅子テエブル、障子を硝子にしたり、井を米国式軽快なポンプにしたり、書斎に独逸暖炉を据えたり、室内電話を使ったり、心ばかりの進出をして居ます。先頃の地震でいっそ一思いにつぶれるか、焼けるかしたら、借金してもバラック位新築せねばならなかったでしょうが、無理さすまいとてか、地震は御愛想に私共の壁を崩し戸障子の建てつきを悪くしただけで往ってしまったので、当分現状維持です。然し新造が見えすいて居る住居に、大工左官を入れるも馬鹿らしいので、地震後一月あまり私は毎日鎚と鋸と釘抜と釘とを持って、壁の大崩れに板や古障子を打ちつけ、妻や女中が古新聞で張って、兎や角凌いで居ます。書斎も母屋おもやも壁の亀裂ひわれもまだ其ままで、母屋に雨のしと降る夜はバケツをたゝく雨漏りの音に東京のバラックをしのんで居ます。

       (三)

 九月一日の地震に、千歳村は幸に大した損害はありませんでした。甲州街道すじには潰れ半潰れの家も出来、松沢病院では死人もありましたが、粕谷は八幡様の鳥居が落ちたり、墓石がころんだ位の事で、私の宅なぞが損害のひどかった方でした。村の青年達が八幡様の鳥居を直した帰途かえりに立寄って、廊下の壁の大破たいはを片づけたり、地蔵様をき起したりしてくれました。あとは前述の如く素人大工で済ませて置きます。九月一日の午餐と夕食は、母屋の庭のかぶ立ちの山楓やまもみじの蔭でしたためました。今夜十二時前後に大震が来るかも知れぬ、世田ヶ谷の砲兵聯隊で二発大砲が鳴ったら、飛び出してくれ、という不思議な言いつぎが来て、三日の夜の十一時半から二時頃まで、庭のかしわの木に提灯ちょうちんつるして天の河の下で物語りなどして過ごした外は、唯一夜も家の外には寝ませんでした。四日にはもう京王電車が一部分通います。五日には電燈がつきます。十日目には東京の新聞がぼつぼつ来ました。十一日目には郵便が来ました。村の復旧は早い。済まぬ事ですが、震災の百ヶ日も過ぎて私共は未だ東京を見ません。然し程度の差こそあれ、私共も罹災者りさいしゃです。九月一日、二日、三日と三宵にわたり、庭の大椎おおしいくろく染めぬいて、東に東京、南に横浜、真赤に天をこがす猛火のほのおは私共の心魂しんこんおののかせました。頻繁な余震も頭を狂わせます。来る人、来る人の伝うる東京横浜の惨状も、累進的に私共の心をいためます。関心する人人の安否をたしかむるまでは、何日も何日も待たねばなりませんでした。大抵は無事でした。然し思いかけない折に、新聞が相識る人のを伝えたのも二三に止まりません。すべてが戦時気分でした。そうです。世界戦に日本はずさわるとは云うじょう、本舞台には出ませんでした。戦争過ぎて五年目に、日本は独舞台で欧洲中原の五年にわたる苦艱くげんを唯一日の間に甞めました。あの大戦に白耳義以外何処どこの国が日本のようにぐいと思うさま国都をかれたものがありましょう? 欧羅巴に火と血を降らせたのは人間わざでしたが、日本の受けたむちは大地震です。日本は人間の手で打たれず、自然の手でたたかれました。「誰か父のらしめざる子あらんや」と云う筆法ひっぽうから云えば、災禍さいかの受けようにも日本は天の愛子であります。ところで此愛子の若いことがまたおびただしい。強そうな事を言うて居て、まさかの時は腰がぬけます。真闇まっくら逆上ぎゃくじょうします。鮮人騒ぎは如何でした? 私共の村でもやはり騒ぎました。けたたましく警鐘が鳴り、「来たぞゥ」と壮丁の呼ぶ声も胸を轟かします。隣字の烏山では到頭労働に行く途中の鮮人を三名殺してしまいました。済まぬ事はずかしい事です。
 斯様こんな中にもうれしい事はやはりありました。粕谷の人々が相談して、九月の六日に水瓜、玉蜀黍とうもろこし茄子なす、夏大根、馬鈴薯じゃがいもなどを牛車十一台に満載まんさいして、東京へお見舞をしました。村の青年達がきりっとしたなりをして左腕に一様に赤い布を巻き、牛車毎に「千歳村青年会粕谷支部」と書いた紙札を押立て、世話方数名附添うて、朝早く粕谷からり出した時、私は思わず青年会の万歳を三唱しました。慰問隊は専ら麹町区に活動して、先方の青年団の協力の下に、水瓜をり、馬鈴薯をつかみ、手ずから罹災の人々にわかち、玄米と味噌で五日過した人々を「生き返える」と悦ばしたそうです。其報告が私共を喜ばせました。斯くてこそ田舎、十七年前都落ちした私共も都に会わす顔があります。
 中一日置いて、九月の八日には千歳村全体から牛車六十台の見舞車が、水気沢山の畑のものをまだ余燼よじんの熱い渇き切った東京に持って行きました。私も村人甲斐に馬鈴薯百貫を出しました。私の直接労働のではありません。金にして弐拾円です。
 東京の焼け出されが、続々都落ちして来ます。甲州街道は大部分繃帯ほうたいした都落ちの人々でさながら縁日のようでした。途中でこんきて首をくくったり、倒れて死んだ者もあります。寿永じゅえいの昔の平家都落ち、近くば維新当時の江戸幕府の末路をしのぶ光景です。村のの家にも避難者の五人三人収容しました。私共の家にも其母者が粕谷出身の縁故から娘の一人を預かりました。田舎が勝ち誇る時が来ました。何と云うても人間は食うて生きる動物です。生きものに食物程大切なものはありません。食物をつくる人は、まさかの時にびくともしない強味があります。東京のあるおやしきの旦那は、平生権高けんだかで、出入りの百姓などに滅多に顔見せたこともありませんでした。今度の震災で、家は焼け残ったが、早速食う物がありません。見舞に来た百姓に旦那がお辞義の百遍もして、何でもよいから食う物を、とおがむように頼んだものです。ある避難の家族は、むぎがまずいと云うて、「贅沢な」と百姓から、頭ごなしに叱りつけられました。去五月の末まで私共の家に働いて居た隣字のS女の家の傭女やといめが水瓜畑に働いて居ると、裏街道を都落ちの人と見えて母子づれが通りかゝり、水瓜を一つ無心しました。傭人の遠慮して小さなのを一つもいでやると、悦んでそれを持って木蔭に去りました。やがてS女が来たので、傭女は其話をして、あの水瓜は未熟だったかも知れぬと言います。S女は直ぐ大きなよく出来たのをもいで、後追いかけました。都落ちの母子は木蔭で未熟の水瓜を白い皮まで喰い尽して居た所でした。「斯様こんなにうまい水瓜をはじめて食べました」とS女に悦びをのべたのでした。こんな時にこそ都会住者も自然のふところのうれし味をしみ/″\思い知ります。田舎の懐を都に開かせ、都のを自然に下げさせる――震災の働きの一つはこれでした。
 それは東京に住む東京人に限りません。十七年来村住居の私共だって、米麦つくらぬ美的百姓は同様です。「或る百姓の家」を出した江渡幸三郎君のような徹底した百姓と、私共のように米麦を買うて暮らす村落住者の相違は、斯様な時にあらわれます。私共では年来取りつけの東京四谷の米屋の米を食います。震災で直ぐ食料の心配が来ました。不時の避難客で、早速村の糧食不足となります。東京には玄米の配給があっても、田舎は駄目です。当時私共の家族は、夫妻に、朝鮮から遊びに来て居た二十歳はたちになる妻のめい、七月に秋田から呼んだ十四の女中、それから焼け出されの十七娘、外に猫一疋でした。丁度収穫を終えたばかりの馬鈴薯と畑に甘藷があるので、差迫っての餓死は兎に角、粒食りゅうしょくは直ぐ危くなりました。私共夫妻は朝夕パンで、米飯は午食だけです。パンが切れる。ふかしパンをつくる。メリケン粉は二升以上売ってはくれず、それも直ぐ尽きました。砂糖も同様です。ついでに蝋燭も同断です。朝は粥にして、玉蜀黍とうもろこしおぎない、米を食い尽し、少々の糯米もちごめをふかし、真黒い饂飩粉うどんこ素麺そうめんや、畑の野菜や食えるものは片端かたっぱしから食うて、粒食の終はもう眼の前に来ました。いよ/\馬鈴薯、甘藷に落ちつく外ありません。其処に前顕ぜんけんのS女が見舞に来ました。彼女は本文「次郎桜」の主人公にはすえの妹で、私共の外遊帰来三年間恒春園に薪水の労を助けた娘です。其長姉Y女も、私共の外遊前二年足らず私共の為に働いてくれたのでした。S女に相談すると、翌日の夕、彼女の長兄のI君が一担いったんの食糧を運んでくれました。I君は「次郎桜」の兄者あにじゃで、十七年前私共が千歳村へ引越す時、荷車引いて東京まで加勢に来てくれた村の耶蘇信者四人の其一人、本文に「角田つのだ勘五郎かんごろう息子むすこ」とあるのがそれです。其頃は十六七のにこにこした可愛い息子でした。それが適齢になって兵役に出で、満洲守備に行き、帰って結婚してもう四人の子女の父、郷党きょうとうのちゃきちゃきです。I君がになうて来てくれたは、白米一斗、それは自家の飯米はんまいを分けてくれたのでした。それから水瓜、甘藍キャベツ球葱たまねぎ、球葱は此辺ではよく出来ませんが、青物市場であまりやすかったからI君が買って来たその裾分すそわけという事でした。玄米でも饂飩粉でもよかった、「働く人の食料を分けてもらうのは気の毒」と私が申すと、「働くから上げられるのです」とI君が昂然こうぜんこたえました。これは確に一本参りました。全くです。働くから自ら養い他を養う事が出来るのです。私共は唯二つ残って居た懐中汁粉かいちゅうじるこをI君に馳走して、色々話しました。千歳村移転当時の話からI君は其時私が諸君に向い、「東京も人間が多過ぎる、あまり頭に血が寄ると日本も脳充血になる、だから私は都を出でて田舎に移る」と申した事を私に想い出さしてくれました。兎に角私共はよくぞ其時都落ちをしました。でなければ私はもうとくに青山あたりの土になって居たかも知れません。十七年を過して、此処ここに斯くる事は、本当に感謝です。I君の贈物は肝腎かんじんな時に来て、大切なツナギになりました。その一斗の米が終る頃は、四谷の米屋のみちも開けました。
 私は最初「みみずのたはこと」の広告に、斯様な告白をしました。
『著者は田舎を愛すれども、都会を捨つる能わず、心ひそかに都会と田舎の間に架する橋梁きょうりょうの其板の一枚たらん事を期す。』
 不徹底な言い分のようですが、それが私の実情でした。今とても同然です。私は土を愛し、田舎を愛し、土の人なる農を愛しますが、私の愛は都市にも海にもあらゆる人間と其いとなみとを忘るゝ事は出来ません。私は慾張りです。私は一切を愛します。そうじて血のめぐりの好い生体せいたいは健全です。病はへんです。不仁が病です。脳貧血のわるいは、脳充血のわるいに劣りません。私共の農村移住は随分吾儘な不徹底なものでしたが、それですら都鄙の間に通う血の一縷いちるとなったと思えば、自ら慰むるところがあります。「みみずのたはこと」は自嘲気分を帯びた未熟な産物ですが、大正二年以来十年間に版を改むる百〇七、拾余万部を売り尽し、私共の耳目に触るゝ反響から見るも、農村を自愛させ、すべてに農村を愛さす上に幾分の効があったと知る事は、私共にとって大なる悦喜であります。
 私も以前は農村に住んで農になり切れず、周囲に同化しきれぬきまり悪さを「美的百姓」などと自から茶かして居ました。然し其懊悩おうのうはもうけました。私共は粕谷に腰を据えました。私共は農村に骨をうずめます。然し私共は所謂農ではありません、私共の鍬はペンです。土は米麦も、草木もそだてます。畑の真中にだって、坊主にされながら赤松が立って居たり、碌に実がらぬ柿の木さえ秋は美しく紅葉し、裸になっては平気にからすをとまらして居るではありませんか。私共は九州の土に生れて、彼方此方と移植され、到頭此粕谷へ来た雌雄相生の樹です。随分長い間ぐらついて居ましたが、到頭根づきました。もうちっとやそっとの風雨が来ても、びくともする事ではありません。あたりの邪魔にならぬ限りってまきにもされず成長をつづける事が出来ようと思います。

       (四)

 村の寄合などにたまに出て、私は諸君の頭の白くなったに毎々まいまい驚かされます。驚く私自身が諸君に驚かるゝ程としをとりました。全く十七年は短い月日でありません。私共が引越当年生れた赤ン坊が、もう十七になるのです。赤ン坊が青春男女になり、青年が一人前になり、男女ざかりが初老になり、老人が順繰じゅんぐり土の中に入るも自然の推移うつりです。「みみずのたはこと」が出てから十年間に、あの書に顔を出して居る人人も、大分だいぶ故人になりました。
 今年の六月には、村の牧師下曾根しもぞね信守のぶもり君を葬りました。六十九歳でした。下曾根さんは旧幕名家の出、伊豆韮山にらやまの江川太郎左衛門と相並んで高島秋帆門下の砲術の名人であった下曾根金之丞は父でした。砲術家の三男に生れた下曾根さんは、つとに耶蘇教信者となり、父とは違った意味の軍人―耶蘇教伝道師になりました。せんにも数年間調布町に住んで伝道し、会堂が建つばかりになって、会津へ転任して行きました。其後調布の耶蘇教が衰微すいびし、会堂は千歳村の信者が引取り、粕谷に持って来ました。本文の初に、私共が初めて千歳村に来て見た会堂がそれです。随分見すぼらしい会堂でした。村住居はしても、会堂の牧師になる事を私が御免蒙ったので、信者の人々は昔馴染むかしなじみの下曾根さんをあらためて招聘しょうへいしたのでした。下曾根さんは其時もう五十を過ぎ、耳が遠く、招かれても働きは思うように出来ぬと断ったそうですが、養老の意味で、たって来てもらったとの事です。私共が村入りの二月ふたつき目に下曾根さんは来て、信者仲間の歓迎会には私共も共々お客として招かれたのでありました。私共に代って貧乏籤びんぼうくじをひいてくれた下曾根さんは、十七年間会堂うら自炊じすい生活せいかつをつづけました。下曾根さんは独身で、身よりも少なく、淋しい人でした。寄る年と共にますます耳は遠くなり、貧乏教会の牧師で自身の貯金も使い果した後は、随分ずいぶんみじめな生活でした。私は個人的に少許すこしの出金を気まぐれに続けたばかりで、会堂には一切手も足も出しませんでした。下曾根さんは貧しい羊の群を忠実に牧して、よく職務を尽しました。砲術家の出だけに明晰めいせきな頭脳の持主でしたが、趣味があって、書道をたしなみ、俳句を作り、水彩画をかいたり、園芸を楽しんだり、色々に趣味をもって自ら慰めて居りました。とぼしい中から村の出金、教会としての中央への義務寄金も心ばかりはしました。くなる前には、自身の履歴、形見分けの目録、後の処分の事まで明細に書きのこし、あらうが如き貧しさの中から葬式万端ばんたんの費用を払うて余剰あまりある程の貯蓄をして置いた事が後で分かりました。信仰ある、而して流石さすがに武士の子らしいたしなみです。下曾根さんは私共の東隣ひがしどなりの墓地に葬られました。其葬式には最初私共に千歳村を教えた「先輩の牧師」も東京から来て、「下曾根信守之墓」「我父の家には住家多し」と云う墓標の文字も其人の筆で書かれました。
 其葬式には、塚戸小学校の前校長H君も来て居ました。Hさんは越後の人、上野うえのの音楽学校の出で、漢文が得意です。明治二十九年に千歳村に来て小学校長となり、在職二十五年の長きに及びました。村人として私共より十二年も前です。私共夫妻が最初千歳村に来て、ある小川の流れにを洗う女の人に道問うた其れはH夫人であったそうです。私共が外遊から帰って来ると、H君は二十五年の小学校奉仕をめて、六十近く新に進出の路を求めねばならぬ苦境に居ました。其後帝大に仕事を見出し、日々村から通うて居ましたが、このたび都合により吉祥寺の長男の家と一つになるとうて告別に来たのは、つい此新甞祭の当日でした。地下に他郷に古い顔馴染かおなじみが追々遠くなるのは淋しいものです。
 村の名物が段々無くなります。本文の「葬式」に出た粕谷で唯一人の丁髷ちょんまげ佐平さへいじいさんも亡くなり、好人の幸さんも亡くなりました。文ちゃんのじいさんも亡くなりました。文ちゃんはかせにんで、苦しい中から追々工面くめんをよくし、古家ながら大きな家を建てゝ、其家から阿爺おやじの葬式も出しました。「斯様こんな家から葬式を出してもらうなんて、殿様だって出来ねえ事だ」と皆が文ちゃんの孝行をほめました。「腫物」に出た石山の婆さんも本家で亡くなりました。それは大正七年でしたが、其前年のくれに「腫物」の女主人公、莫連ばくれんひろも亡くなりました。お広さんは石山新家を奇麗につぶして了うた後、馴染なじみの親分と東京に往って居ました。「草とりしても、東京ではおやつに餅菓子が出るよ」なんか村の者に自慢して居ました。其内親分がある寡家ごけに入りびたりになって、お広さんが其処に泣きわめきの幕を出したり、かかり子の亥之吉が盲唖学校を卒業して一本立になっても母親をかまいつけなかったり、お広さんの末路は大分困難になって来ました。金に窮すると、石山家に来ては、石山さんの所謂『四両五両といたぶって』行きました。到頭腎臓じんぞうが悪くなり、水腫みずばれが出て、調布在の実家で死にました。死ぬまで大きな声で話したりして、見舞に往った天理教信者のおかずばあさんを驚かしたものです。離縁になってなかったので、お広さんのからだは矢張石山さんが引取って、こっそり隣の墓地に葬りました。葬式の翌日往って見ると、新しい土饅頭どまんじゅうの前にげ膳がえられ、茶碗の水には落葉が二枚浮いて居ました。白木の位配に「新円寂慈眼院恵光大姉しんえんじゃくじげんいんえこうだいし」と書いてあります。慈眼院恵光大姉――其処に現われた有無の皮肉に、私は微笑を禁じ得ませんでした。而してさびしい初冬の日ざしの中に立って、莫連お広の生涯を思い、もっと良い婦人おんなになるべき素質をもちながら、と私は残念に思うのでありました。お広さんが死んで、法律上にもいよいよやもお[#「環」の「王」に変えて「魚」、下巻-152-1]になった厚い唇のひささんは真白い頭をして、本家で働いて居ます。唖の巳代吉は貧しい牧師の金を盗んだり、五宿の女郎を買ったりして居ましたが、今は村に居ません。盲の亥之吉も、すえの弟も居ません。一人女ひとりむすめのお銀は、立派に莫連の後を嗣いで、今は何処ぞに活躍して居ます。
 お広さんを愛したり捨てたりした親分七右衛門じいさんは、今年くなり、而してやはり隣の墓地に葬られました。大きな男でしたが、火葬されたので、送葬そうそう輿こしは軽く、あまりに軽く、一盃機嫌でく人、送る者、笑い、ざわめき、陽気な葬式が皮肉でした。可惜あたらおとこをと私はまた残念に思うたのでありました。
「村入」の条に書いた私共の五人組の組頭くみがしら浜田の爺さんも、今年の正月八十で亡くなりました。律義な爺さんの一代にしっかり身上しんしょうを持ち上げ、偕白髪ともしらがの老夫婦、子、孫、曾孫の繁昌を見とどけてのめでたい往生でした。いつも莞爾々々にこにこして、亡くなる前日までなわうたりせっせと働いて居ました。入棺前、別れに往って見ると、死顔しがおもにこやかに、生涯労働した手はふしくれ立って土まみれのまま合掌して居ました。これは代田だいだ街道かいどうわきの墓地に葬られました。
 それから与右衛門さんとこのお婆さん、「信心なんかしませんや」と言うて居たお婆さんも亡くなりました。根気のよいお婆さんで、私も妻も毎々まいまい話しこまれて弱ったものです。居なくなって、淋しくなりました。「いなと云へどふるしひのがしひがたり、ちかごろ聞かずてわれひにけり」と万葉まんようの歌人がうた通りです。私共が外遊から帰ると、お婆さんは「四国しこく西国さいごくしなすったってねえ」と感にたえたように妻に云うて居ましたが、今は彼女自身遠く旅立ってしまいました。彼女は文ちゃんの爺さんが葬られて居る北の小さな墓地に葬られました。其処にはお婆さんには孫、与右衛門さんには嗣子あととりであったきつい気のちゅうさん、海軍の機関兵にとられ、肺病になって死んだ忠さんも葬られて居ます。
 草履作りが名人の莞爾々々にこにこした橋本のお爺さん、お婆さん、其隣の大尽の杉林のお婆さん、亡くなった人人も二三に止まりません。年寄りがくのは順ですが、老少不定の世の中、若い者、子供、赤ン坊の亡くなったのも一人や二人でありません。前に言うた忠さん、それから千歳村墓地敷地買収問題の時、反対がわ頭目とうもくとなって草鞋わらじがけになって真先に働いたしっかり者の作さんも亡くなりました。半歳立たぬに、作さんの十六になる一人女も亡くなりました。私共が粕谷へ引越しの前日、東京からバケツと草箒くさぼうき持参で掃除に来た時、村の四辻よつつじで女の子をおぶった色の黒いちいさい六十爺さんに道を教えてもらいました。お爺さんは「村入」で「わしとおまえは六合の米よ、早く一しょになればよい」と中音ちゅうおんに歌うた寺本の勘さん、即ち作さんの阿爺おとっさんで、背の女児は十六で亡くなった其孫女でした。
 まだ気の毒な亡者もうじゃも、より気の毒な生き残りも二三あります。
 それ等を外にしては、石山さん、勘爺さん、其弟の辰爺さん、仁左衛門さん、与右衛門さん、武太さん、田圃向うの信心家のお琴婆さん、天理教のおかず婆さん、其他の諸君も皆無事です。土の下、土の上、私共の択んだ故郷粕谷は上にも下にも追々と栄えて行きます。都落ちして其粕谷にすでに十七年を過ごして、私が五十六、妻が五十、頭は追々白くなって、気は恒春園の恒に若く、荒れた園圃と朽ち行く家の中にやがて一陽来復の時を待ちつゝ日一日と徐に私共の仕事をすすめて居ます。
 書きたい事に切りがありませんが、其は他日の機会に譲って、読者諸君の健康を祝しつつここに一先ひとまず此手紙の筆をさしおきます。
大正十二年十二月三十日
東京府 北多摩郡
千歳村 粕谷
恒春園に於て
徳冨健次郎


[#改丁、左右中央に]



    附録



[#改丁]



    ひとりごと

      蝶の語れる

 われ毛虫けむしたりし時、みにくかりき。吾、てふとなりてへばひとうつくしとむ。人の美しと云ふ吾は、そのかみの醜かりし毛虫ぞや。
 吾、醜かりし時、ひとわれうとみ、み、嫌ひて避け、見るごとに吾を殺さんとしぬ。吾、美しと云はるゝに到れば、ひとあらそうて吾を招く。吾れの変れる。人のまなこなき乎。
 吾、醜しと見られし時、わがむねのいたみて、さびしく泣きたることいかばかりぞや。そのとききみひとり吾を憐みぬ。
 君、吾が毛虫たりし時、吾を憐みて捨てざりき。故に蝶となれる吾は、今つばさある花となりて、願はくは君が為に君の花園に舞はん。


[#改ページ]



    旅の日記から

     熊の足跡

      勿来

 連日れんじつ風雨ふううでとまった東北線が開通したと聞いて、明治四十三年九月七日の朝、上野うえのから海岸線の汽車に乗った。三時過ぎ関本せきもと駅で下り、車で平潟ひらがたへ。
 平潟は名だたる漁場りょうばである。湾の南方を、町から当面とうめん出島でしまをかけて、蝦蛄しゃこう様にずらり足杭あしくいを見せた桟橋さんばしが見ものだ。雨あがりの漁場、唯もうなまぐさい、腥い。静海亭せいかいていに荷物を下ろすと、宿の下駄傘を借り、車で勿来関址なこそのせきあと見物に出かける。
 町はずれの隧道とんねるを、常陸ひたちから入って磐城いわきに出た。大波小波□々どうどうと打寄する淋しい浜街道はまかいどうを少し往って、唯有とあ茶店さてんで車を下りた。奈古曾なこそ石碑せきひ刷物すりもの、松や貝の化石、画はがきなど売って居る。車夫くるまや鶴子つるこおぶってもらい、余等はすべ足元あしもとに気をつけ/\鉄道線路を踏切って、山田のくろ関跡せきあとの方へと上る。道もに散るの歌にちなんで、芳野桜よしのざくらを沢山植えてある。若木わかきばかりだ。みち、山に入って、萩、女郎花おみなえし地楡われもこう桔梗ききょう苅萱かるかや、今を盛りの満山まんざんの秋を踏み分けてのぼる。車夫くるまやが折ってくれた色濃い桔梗の一枝ひとえだを鶴子はにぎっておぶられて行く。
 浜街道の茶店から十丁程上ると、関のあとに来た。馬のの様な狭い山の上のやゝ平凹ひらくぼになった鞍部あんぶ八幡はちまん太郎たろう弓かけの松、鞍かけの松、など云う老大ろうだいな赤松黒松が十四五本、太平洋の風に吹かれて、みどりこずえ颯々さっさつの音を立てゝ居る。五六百年の物では無い。松の外に格別古い物はない。石碑は嘉永かえいのものである。茶屋ちゃやがけがしてあるが、夏過ぎた今日、もとより遊人ゆうじんの影も無く、茶博士さはかせも居ない。弓弭ゆはず清水しみずむすんで、弓かけ松の下に立って眺める。西にし重畳ちょうじょうたる磐城の山に雲霧くもきり白くうずまいて流れて居る。東は太平洋、雲間くもまる夕日のにぶひかりを浮べて唯とろりとして居る。鰹舟かつおぶね櫓拍子ろびょうしほのかに聞こえる。昔奥州へ通う浜街道は、此山の上を通ったのか。八幡太郎も花吹雪はなふぶきの中を馬で此処ここを通ったのか。歌は残って、関の址と云う程の址はなく、松風まつかぜばかり颯々さっさつぎんじて居る。人の世の千年は実に造作ぞうさもなく過ぎて了う。茫然ぼうぜんと立って居ると、苅草かりくさいっぱいにゆりかけた馬を追うて、若い百姓ひゃくしょうが二人峠の方から下りて来て、余等の前を通って、またむこうみねへ上って往った。
 日のくれに平潟の宿に帰った。湯はぬるく、便所はむさく、魚はあたらしいが料理がまずくてなまぐさく、水を飲もうとすれば潟臭かたくさく、加之しかもおびただしい真黒まっくろにたかる。早々そうそう蚊帳かやむと、夜半よなかに雨が降り出して、あたまの上にって来るので、あわてゝとこうつすなど、わびしい旅の第一夜であった。


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      浅虫

 九月九日から十二日まで、奥州おうしゅう浅虫あさむし温泉滞留たいりゅう
 背後うしろを青森行の汽車が通る。まくらの下で、陸奥湾むつわん緑玉潮りょくぎょくちょうがぴた/\ものいう。西には青森の人煙ゆびさす可く、其うしろ津軽つがる富士の岩木山が小さく見えて居る。
 青森から芸妓連げいしゃづれの遊客が歌うて曰く、一夜いちやうてもチマはチマ。
 五歳いつつの鶴子初めてかもめを見て曰く、阿母おかあさん、白いからすが飛んで居るわねえ。
 旅泊りょはくのつれ/″\に、浜からひろうて来た小石で、子供一人成人おとな二人でおはじきをする。余が十歳の夏、父母にともなわれて舟で薩摩境さつまざかいの祖父を見舞に往った時、たった二十五里の海上を、風が悪くて天草の島に彼此十日もふながかりした。昔話も聞き尽し、永い日を暮らしかねて、六十近い父と、五十近い母と、十歳の自分で、小石をひろうておはじきをした。今日きょう不器用な手に小石を数えつゝ、不図其事を思い出した。
 海岸を歩けば、帆立貝ほたてがいからが山の如く積んである。浅虫で食ったものゝ中で、帆立貝の柱の天麩羅てんぷらはうまいものであった。海浜随処に□瑰まいかいの花が紫に咲き乱れて汐風にかおる。
野糞のぐそそと浜辺はまべ□瑰花まいくわいくわ


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      大沼

       (一)

 津軽つがる海峡を四時間にせて、余等を青森から函館へ運んでくれた梅ヶ香丸は、新造の美しい船であったが、船に弱い妻は到頭酔うて了うた。一夜函館埠頭ふとうきと旅館に休息しても、まだ頭が痛いと云う。午後の汽車で、直ぐ大沼へ行く。
 函館停車場はごく粗朴そぼくな停車場である。待合室では、真赤にくらい酔うた金襴きんらん袈裟けさの坊さんが、仏蘭西人らしいひげの長い宣教師をつかまえて、色々くだを捲いて居る。宣教師は笑いながら加減かげんにあしらって居る。
 札幌さっぽろ行の列車は、函館の雑沓ざっとうをあとにして、桔梗、七飯なないいと次第に上って行く。皮をめくる様に頭が軽くなる。臥牛山がぎゅうざんしんにした巴形ともえなりの函館が、鳥瞰図ちょうかんずべた様に眼下に開ける。「眼に立つや海青々と北の秋」左のまどから見ると、津軽海峡の青々とした一帯の秋潮しゅうちょうを隔てゝ、はるかに津軽の地方が水平線上にいて居る。本郷へ来ると、彼酔僧すいそうは汽車を下りて、富士形の黒帽子をかぶり、小形の緑絨氈みどりじゅうたんのカバンをげて、蹣跚まんさんと改札口を出て行くのが見えた。江刺えさしへ十五里、と停車場の案内札に書いてある。函館から一時間余にして、汽車は山を上り終え、大沼駅を過ぎて大沼公園に来た。遊客ゆうかくの為に設けたかたばかりの停車場である。こゝで下車。宿引やどひきが二人待って居る。余等はみちびかれて紅葉館のはたともに立てた小舟に乗った。宿引は一礼いちれいして去り、船頭はぎい櫓声ろせいを立てゝぎ出す。
 黄金色こがねいろに藻の花の咲く入江いりえを出ると、広々とした沼のおも、絶えて久しい赤禿あかはげの駒が岳が忽眼前におどり出た。東の肩からあるか無いかのけぶり立上のぼって居る。余が明治三十六年の夏来た頃は、汽車はまだ森までしかかゝって居なかった。大沼公園にも粗末そまつな料理屋が二三軒水際みぎわに立って居た。駒が岳の噴火も其後の事である。然し汽車は釧路くしろまで通うても、駒が岳は噴火しても、大沼其ものはきゅうって晴々はればれした而してしずかな眺である。時は九月の十四日、然し沼のあたりのイタヤかえではそろ/\めかけて居る。処々なら白樺しらかばにからんだ山葡萄やまぶどうの葉が、火の様に燃えて居る。空気は澄み切って、水は鏡の様だ。夫婦島めおとじまの方に帆舟が一つはしって居る。櫓声静に我舟の行くまゝに、かもが飛び、千鳥ちどりが飛ぶ。やがて舟は一の入江に入って、紅葉館の下に着いた。女中が出迎える。おびただしくイタヤ楓の若木を植えた傾斜を上って、水に向う奥の一間ひとまに案内された。
 都の紅葉館は知らぬが、此紅葉館は大沼にのぞみ、駒が岳に面し、名の如く無数の紅葉樹に囲まれて、瀟洒さっぱりとした紅葉館である。殊に夏の季節も過ぎて、今は宿もひっそりして居る。まきを使った鉱泉に入って、古めかしいランプの下、物静かな女中の給仕で沼のこいふなの料理を食べて、物音一つせぬ山の上、水のきわの静かな夜のねむりに入った。
 真夜中まよなかにごろ/\と雷が鳴った。雨戸のすきから雷が光った。而してざあと雨の音がした。起きて雨戸を一枚って見たら、最早もう月が出て、沼の水にほたるの様に星が浮いて居た。

       (二)

 明方あけがたにはまたぽつ/\降って居たが、朝食あさめしを食うと止んだ。小舟でつりに出かける。汽車の通うセバットの鉄橋のあたりに来ると、また一しきりざあと雨が来た。鉄橋のかげに舟を寄せて雨宿あまやどりする間もなく、雨は最早過ぎて了うた。此辺は沼の中でもやゝ深い。小沼の水が大沼に流れ入るので、水は川の様に動いて居る。いくら釣っても、ざすふなはかゝらず、ゴタルと云うはぜの様な小魚こざかなばかり釣れる。舟を水草みずくさの岸にけさして、イタヤの薄紅葉うすもみじの中を彼方あち此方こちと歩いて見る。下生したばえを奇麗に払った自然の築山つきやま、砂地の踏心地ふみごこちもよく、公園の名はあっても、あまり人巧じんこうの入って居ないのがありがたい。駒が岳のよく見える処で、三脚をえて、十八九の青年が水彩写生すいさいしゃせいをして居た。駒が岳に雲が去来きょらいして、沼の水も林も倏忽たちまちの中にかげったり、照ったり、見るに面白く、写生に困難らしく思われた。時が移るので、釣を断念し、また舟に上って島めぐりをする。大沼の周囲めぐり八里、小沼を合せて十三里、昔は島の数が大小百四十余もあったと云う。中禅寺の幽凄ゆうせいでもなく、霞が浦の淡蕩たんとうでもなく、大沼は要するに水を淡水にし松をなら白樺しらかば其他の雑木にした松島である。沼尻はたきになって居る。沼には鯉、鮒、どじょうほか産しない。今年銅像を建てたと云う大山島、東郷島がある。昔此辺の領主であったと云う武家の古い墓が幾基いくつも立って居る島もあった。夏は好い遊び場であろう。今は寂しいことである。それでも、学生のいで行く小さなボートの影や、若い夫婦の遊山舟ゆさんぶねも一つ二つ見えた。舟を唯有とある岸に寄せて、ことに美しい山葡萄の紅葉を摘んで宿に帰った。
 午後ははがきなど書いて、館の表門から陸路停車場に投函とうかんに往った。やわらかな砂地に下駄をみ込んで、あしやさま/″\の水草のしげった入江の仮橋を渡って行く。やゝ色づいたかば、楢、イタヤ、などのこずえからとがった頭のあかい駒が岳が時々顔をす。さびしい景色である。北海道の気が総身そうみにしみて感ぜられる。
 夕方館の庭から沼に突き出たみさきはなで、細君が石に腰かけて記念に駒が岳の写生をはじめた。余は鶴子と手帖の上を見たり、附近あたりの林で草花を折ったり。秋の入り日のまたたく間に落ちて、山影水光さんえいすいこう見るが中に変って行く。夕日の名残なごりをとゞめてあかく輝やいた駒が岳の第一峰が灰がかった色にめると、つい前の小島も紫から紺青こんじょうに変って、大沼の日は暮れて了うた。細君はまだスケッチの筆を動かして居る。黯青あんせいに光る空。白く光る水。時々ポチャンと音して、魚がはねる。水際みぎわの林では、宿鳥ねどりが物に驚いてがさがさ飛び出す。ブヨだか蚊だか小さな声でうなって居る。
「到頭出来なかった」
 ぱたんと画具箱えのぐばこふたをして、細君は立ち上った。鶴子をう可く、しゃがんでうしろにまわす手先に、ものがやりとする。最早露が下りて居るのだ。


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      札幌へ

 九月十六日。大沼を立つ。駒が岳を半周はんしゅうして、森に下って、噴火湾ふんかわんの晴潮をかず汽車の窓から眺める。室蘭通むろらんがよいの小さな汽船が波にゆられて居る。汽車は駒が岳をうしろにして、ずうと噴火湾に沿うて走る。長万部おしゃまんべ近くなると、湾をへだてゝ白銅色の雲の様なものをむら/\と立てゝ居る山がある。有珠山うずさんです、と同室の紳士は教えた。
 湾をはなれて山路にかゝり、黒松内くろまつない停車ていしゃ蕎麦そばを食う。蕎麦の風味が好い。蝦夷えぞ富士□□□□と心がけた蝦夷富士を、蘭越らんごえ駅で仰ぐを得た。形容端正、絶頂まで樹木をまとうて、秀潤しゅうじゅん黛色たいしょくしたたるばかり。しきりに登って見たくなった。車中知人O君の札幌さっぽろ農科大学に帰るに会った。夏期休暇に朝鮮漫遊して、今其帰途である。余市よいちに来て、日本海の片影へんえいを見た。余市は北海道林檎りんごの名産地。折からの夕日に、林檎畑は花の様な色彩を見せた。あまり美しいので、売子うりこが持て来た網嚢入あみぶくろいりのを二嚢買った。
 O君は小樽おたるで下り、余等は八時札幌に着いて、山形屋に泊った。


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      中秋

 十八日。朝、旭川あさひがわへ向けて札幌を立つ。
 石狩いしかり平原は、水田已にばんで居る。其間に、九月中旬まだ小麦の収穫をして居るのを見ると、また北海道の気もちにえった。
 十時、汽車は隧道とんねるを出て、川を見下ろす高い崖上がいじょうの停車場にとまった。神居古潭かむいこたんである。急に思立って、手荷物諸共もろともあわてゝ汽車を下りた。
 改築中で割栗石わりぐりいし狼藉ろうぜきとした停車場を出て、茶店さてんで人を雇うて、鶴子と手荷物をわせ、急勾配きゅうこうばいの崖を川へ下りた。暗緑色あんりょくしょくの石狩川が汪々おうおうと流れて居る。両岸から鉄線はりがねったあぶなげな仮橋が川をまたげて居る。橋の口に立札がある。文言もんごんを読めば、曰く、五人以上同時にわたる可からず。
 ず/\橋板を踏むと、足のそこがふわりとして、一足毎ひとあしごとに橋は左右に前後に上下にれる。飛騨ひだ山中、四国の祖谷いや山中などの藤蔓ふじづるの橋の渡り心地がまさに斯様こんなであろう。形ばかりの銕線はりがねてすりはあるが、つかまってゆる/\渡る気にもなれぬ。下の流れを見ぬ様にして一息ひといきに渡った。橋の長さ二十四間。渡り終って一息ついて居ると、炭俵すみだわらを負うた若い女が山から下りて来たが、たたずむ余等に横目をくれて、飛ぶが如く彼吊橋つりばしを渡って往った。
 山下道やましたみちを川に沿うてさかのぼること四五丁余、細い煙突から白い煙を立てゝ居る木羽葺こっぱぶきのきたない家に来た。神居古潭の鉱泉宿である。取りあえず裏二階の無縁畳へりなしだたみの一室に導かれた。やがて碁をうって居た旭川の客が帰って往ったので、表二階の方に移った。硫黄のにおいがする鉱泉に入って、二階にくつろぐ。麦稈帽むぎわらぼうの書生三人、ひさし髪の女学生二人、隣室となりまに遊びに来たが、次ぎの汽車で直ぐ帰って往った。石狩川の音が颯々さあさあと響く。川向うの山腹の停車場で、鎚音つちおと高く石を割って居る。ごうと云う響をこだまにかえして、まれに汽車が向山を通って行く。寂しい。昼飯に川魚をと注文したら、石狩川を前にいて、罐詰のたけのこの卵とじなど食わした。
 飯後はんご神居古潭を見に出かける。少し上流の方には夫婦岩めおといわと云う此辺の名勝があると云う。其方へは行かず、先刻さっき渡った吊橋の方に往って見る。橋の上手かみてには、ならの大木が五六本川面かわづらへ差かゝって居る。其かげに小さな小屋がけして、そまが三人停車場改築工事の木材をいて居る。橋の下手しもてには、青石峨々ががたる岬角こうかくが、橋の袂からはすに川の方へ十五六間突出つきでて居る。余は一人とがった巌角がんかくを踏み、荊棘けいきょくを分け、みさきの突端に往った。岩間には其処そこ此処ここ水溜みずたまりがあり、紅葉した蔓草つるくさが岩にからんで居る。出鼻に立って眺める。川向う一帯、直立三四百尺もあろうかと思わるゝ雑木山ぞうきやまが、水際から屏風びょうぶを立てた様にそびえて居る。其中腹を少しばかり切りひらいて、こゝに停車場が取りついて居る。ほばしらの様な支柱を水際のがけから隙間すきまもなく並べ立てゝ、其上に停車場は片側かたかわ乗って居るのである。停車場の右も左も隧道とんねるになって居る。汽車が百足むかでの様に隧道をい出して来て、此停車場に一息ひといきつくかと思うと、またぞろぞろ這い出して、今度は反対の方に黒く見えて居る隧道のあなわるゝ様に入って行く。向う一帯の雑木山は、秋まだ浅くして、見る可き色もない。眼は終に川に落ちる。丁余ちょうよの上流では白波しらなみの瀬をなして騒いだ石狩川も、こゝでは深い青黝あおぐろい色をなして、其処そこ此処に小さなうずを巻き/\彼吊橋の下を音もなく流れて来て、一部は橋のたもとから突出たいわさまたげられてこゝにふちたたえ、余の水は其まゝ押流して、余が立って居る岬角こうかくって、また下手対岸の蒼黒い巌壁がんぺきにぶつかると、全川の水はげられた様に左に折れて、また滔々とう/\と流してく。去年の出水には、石狩川が崖上がけうえの道路を越して鉱泉宿まで来たそうだ。このせまい山のかいを深さ二丈も其上もある泥水が怒号どごうして押下った当時のすさまじさが思われる。今は其れ程の水勢は無いが、水を見つめて居ると流石さすがすごい。橋下の水深は、平常ふだん二十余ひろ。以前は二間もある海のさめがこゝまで上って来たと云う。自然児しぜんじのアイヌがさゝげた神居古潭かむいこたんの名もつかわしく思われる。
 夕飯後ゆうめしご、ランプがついて戸がしまると、深い深い地のそこにでも落ちた様で、川音がます/\耳について寂しい。宿からはぎの餅を一盂ひとはちくれた。今宵こよい中秋ちゅうしゅう十五夜であった。北海道の神居古潭で中秋にうも、他日の思出の一であろう。雨戸を少しあけて見たら、月は生憎あいにく雲をかぶって、朦朧もうろうとした谷底を石狩川が唯さあさあと鳴って居る。


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      名寄

 九月十九日。朝神居古潭かむいこたんの停車場から乗車。金襴きんらん袈裟けさ紫衣しえ、旭川へ行く日蓮宗の人達で車室は一ぱいである。旭川で乗換のりかえ、名寄なよろに向う。旭川からは生路である。
 永山ながやま比布ぴっぷ蘭留らんると、眺望ながめは次第に淋しくなる。紫蘇しそともつかず、麻でも無いものを苅って畑にしてあるのを、車中の甲乙たれかれが評議して居たが、薄荷はっかだと丙が説明した。
 やがて天塩てしおに入る。和寒わっさむ剣淵けんぶち士別しべつあたり、牧場かと思わるゝ広漠こうばくたる草地一面霜枯しもがれて、六尺もある虎杖いたどりが黄葉美しく此処其処に立って居る。所謂泥炭地でいたんちである。車内の客は何れも惜しいものだと舌鼓したつづみうつ。
 余放吟して曰く、
泥炭地耕すべくもあらぬとふさはれ美し虎杖いたどりの秋
 士別では、共楽座きょうらくざなど看板を上げた木葉葺こっぱぶきの劇場が見えた。
 午後三時過ぎ、現在の終点駅名寄着。丸石旅館に手荷物を下ろし、茶一ぱい飲んで、直ぐれいの見物に出かける。
 旭川平原をずっとちぢめた様な天塩川の盆地ぼんちに、一握ひとにぎりの人家を落した新開町。停車場前から、大通りをかぎの手に折れて、木羽葺が何百か並んで居る。多いものは小間物屋、可なり大きな真宗しんしゅうの寺、天理教会、清素せいそな耶蘇教会堂も見えた。店頭みせさきで見つけた真桑瓜まくわうりを買うて、天塩川に往って見る。可なりの大川、深くもなさそうだが、川幅一ぱい茶色の水が颯々さあさあと北へ流れて居る。鉄線はりがねを引張った渡舟がある。余等も渡って、少し歩いて見る。多いものはブヨばかり。倒れ木に腰かけて、路をさし覆う七つ葉の蔭で、真桑瓜をいた。甘味の少ないは、争われぬ北である。最早もう日が入りかけて、うすら寒く、秋のゆうべの淋しさが人少なの新開町を押かぶせる様に四方から包んで来る。ふたたび川を渡って、早々宿に帰る。町の真中まんなかを乗馬の男が野の方からかけを追うて帰って来る。馬蹄ばていの音が名寄中なよろじゅうに響き渡る。
 宿の主人は讃岐さぬきの人で、晩食ばんめしの給仕に出た女中は愛知の者であった。隣室となりまには、先刻さっき馬を頼んで居た北見の農場に帰る男が、客と碁をうって居る。按摩あんまの笛が大道を流して通る。


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      春光台

 明治三十六年の夏、余は旭川まで一夜泊いちやどまり飛脚旅行ひきゃくりょこうに来た。其時の旭川は、今の名寄よりも淋しい位の町であった。降りしきる雨の中を車で近文ちかぶみに往って、土産話みやげばなしにアイヌの老酋ろうしゅうの家を訪うて、イタヤのマキリなぞ買って帰った。余は今車の上から見廻みまわして、当年のわびしい記憶を喚起よびおこそうとしたが、明治四十三年の旭川から七年前の旭川を見出すことは成功しなかった。
 余等は市街を出ぬけ、石狩川を渡り、近文のアイヌ部落を遠目に見て、第七師団の練兵場れんぺいじょうを横ぎり、車を下りて春光台しゅんこうだいに上った。春光台は江戸川を除いた旭川のこうだいである。上川かみかわ原野を一目に見て、旭川の北方に連塁の如く蟠居ばんきょして居る。丘上おかうえは一面水晶末の様な輝々きらきらする白砂、そろ/\青葉のふちかばめかけた大きな□樹かしわのきの間を縫うて、幾条の路がうねって居る。直ぐ眼下がんかは第七師団である。黒んだ大きな木造もくぞうの建物、細長い建物、一尺の馬が走ったり、二寸の兵があるいたり、赤い旗が立ったり、喇叭らっぱが鳴ったりして居る。日露戦争凱旋がいせん当時、此丘上おかのうえに盛大な師団招魂祭しょうこんさいがあって、芝居、相撲、割れる様な賑合にぎわいの中に、前夜恋人こいびとの父から絶縁の一書を送られて血を吐く思の胸を抱いて師団の中尉寄生木やどりぎの篠原良平が見物に立まじったも此春光台であった。
 余は見廻わした。丘の上には余等の外に人影も無く、秋風がばさり/\かしわの葉をうごかして居る。
春光台はらわたちし若人わこうど
    しのびて立てば秋の風吹く
 余等は春光台をりて、一兵卒に問うて良平が親友しんゆう小田中尉の女気無おんなげなしの官舎を訪い、しばらく良平を語った。それから良平が陸軍大学の予備試験に及第しながら都合上後廻わしにされたをいきどおって、硝子窓がらすまどを打破ったと云う、最後に住んだ官舎の前を通った。其は他の下級将校官舎の如く、板塀いたべいに囲われた見すぼらしい板葺いたぶきの家で、かきの内には柳が一本長々とえだれて居た。失恋の彼が苦しまぎれに渦巻の如く無暗に歩き廻った練兵場は、曩日のうじつの雨で諸処水溜りが出来て、紅と白の苜蓿うまごやしの花が其処此処にむらをなして咲いて居た。


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      釧路

       (一)

 旭川に二夜ふたよ寝て、九月二十三日の朝釧路くしろへ向う。釧路の方へは全くの生路である。
 昨日石狩岳いしかりだけに雪を見た。汽車の内も中々寒い。上川かみかわ原野を南方へ下って行く。水田が黄ばんで居る。田や畑の其処そこ此処ここけ残りの黒い木のかぶが立って居るのを見ると、ひらけ行く北海道にまだ死に切れぬアイヌの悲哀かなしみが身にしみる様だ。下富良野しもふらので青い十勝岳とかちだけを仰ぐ。汽車はいよ/\夕張と背合わせの山路やまじに入って、空知川そらちがわの上流を水にうてさかのぼる。砂白く、水は玉よりも緑である。此辺は秋已に深く、万樹ばんじゅしもけみし、狐色になった樹々きぎの間に、イタヤかえでは火の如く、北海道の銀杏なる桂は黄のほのおを上げて居る。旭川から五時間余走って、汽車は狩勝かりかつ駅に来た。石狩いしかり十勝とかちさかいである。余は窓から首を出して左の立札たてふだを見た。
狩勝停車場
 海抜一千七百五十六フィート、一二
狩勝トンネル
 延長参千九フィートインチ
釧路百十九まいる
旭川七十二哩三分
札幌百五十八哩六分
函館三百三十七哩五分
室蘭二百二十哩
 三千フィート隧道とんねるを、汽車は石狩から入って十勝へ出た。此れからは千何百呎の下りである。最初蝦夷松椴松のみどりひいであるいは白く立枯たちかるゝ峰を過ぎて、障るものなきあたりへ来ると、軸物の大俯瞰図のする/\と解けて落ちる様に、眼は今汽車の下りつゝある霜枯しもがれ萱山かややまから、青々とした裾野につゞく十勝の大平野を何処までもずうと走って、地とそらけ合うあたりにとまった。其処そこに北太平洋がひそんで居るのである。多くの頭が窓から出て眺める。汽車は尾花おばなの白く光る山腹を、波状をいて蛇の様にのたくる。北東の方には、石狩、十勝、釧路、北見の境上きょうじょうわだかま連嶺れんれいが青く見えて来た。南の方には、日高境の青い高山こうざんが見える。汽車は此等の山を右の窓から左の窓へと幾回か転換して、到頭平野に下りて了うた。
 当分はかしわの林が迎えて送る。追々大豆畑が現われる。十勝は豆の国である。旭川平原や札幌深川間の汽車の窓から見る様な水田は、まだ十勝に少ない。帯広おびひろは十勝の頭脳ずのう河西かさい支庁しちょう処在地しょざいち、大きな野の中の町である。利別としべつから芸者げいしゃ雛妓おしゃくが八人乗った。今日網走線あばしりせんの鉄道が※別りくんべつ[#「陸」の「こざと」に代えて「冫」、下巻-175-15]まで開通した其開通式に赴くのである。池田駅は網走線の分岐点ぶんぎてん、球燈、国旗、満頭飾まんとうしょくをした機関車なども見えて、真黒な人だかりだ。汽車はこゝで乗客の大部分を下ろし、汪々おうおうたる十勝川の流れにしばらくは添うて東へ走った。時間がおくれて、浦幌うらほろで太平洋の波の音を聞いた時は、最早車室しゃしつの電燈がついた。此処から線路は直角をなして北上し、一路断続だんぞく海の音を聞きつゝ、九時近くくたびれ切って釧路に着いた。車に揺られて、十九日の欠月けつげつを横目に見ながら、夕汐ゆうしお白く漫々まんまんたる釧路川に架した長い長い幣舞橋ぬさまいばしを渡り、輪島屋わじまやと云う宿に往った。

       (二)

 あくる日めしを食うと見物に出た。釧路町は釧路川口の両岸にまたがって居る。停車場所在のかわは平民町で、官庁、銀行、重なる商店、旅館等は、大抵橋を渡った東岸にある。東岸一帯は小高いおかをなしておのずから海風かいふうをよけ、幾多の人家は水のはたから上段かけて其かげむらがり、幾多の舟船は其蔭に息うて居る。余等は弁天社から燈台の方に上った。釧路川と太平洋にはさまれた半島の岬端で、東面すれば太平洋、西面すれば釧路湾、釧路川、釧路町を眼下に見て、当面とうめんには海と平行して長くいたおかの上、水色に冴えた秋の朝空にあわいへだてゝ二つならんだ雄阿寒おあかん雌阿寒めあかんの秀色を眺める。湾には煙立つ汽船、漁舟が浮いて居る。幣舞橋にはありの様に人が渡って居る。北海道東部第一の港だけあって、気象頗雄大である。今日きょう人をたずぬ可く午前中に釧路を去らねばならぬので、見物は□々そこそこにして宿に帰る。


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      茶路

 北太平洋の波の音の淋しい釧路の白糠しらぬか駅で下りて、宿の亭主を頼み村役場に往って茶路ちゃろに住むと云うM氏の在否ざいひ調しらべてもらうと、先には居たが、今は居ない、行方ゆくえは一切分からぬと云う。兎も角も茶路に往って尋ねる外はない。妻児さいじを宿に残して、案内者を頼み、ゲートル、運動靴、洋傘かさ一柄いっぺい、身軽に出かける。時は最早もう午後の二時過ぎ。茶路までは三里。帰りはドウセ夜に入ると云うので、余はポッケットに懐中電燈かいちゅうでんとうを入れ、案内者は夜食の握飯にぎりめし提灯ちょうちんを提げて居る。
 海の音をうしろに、鉄道線路を踏切ふみきって、西へやりの様に真直まっすぐにつけられた大路を行く。左右は一面じめ/\した泥炭地でいたんちで、反魂香はんごんこうの黄や沢桔梗さわぎきょうの紫や其他名を知らぬ草花が霜枯しもがれかゝった草を彩どって居る。煙草たばこの火でも落すと一月も二月もぷす/\くすぶって居ます、と案内者が云う。路の一方にはトロッコのレールが敷かれてある。其処そこ此処ここで人夫がレールや枕木まくらぎを取りはずして居る。
如何どうするのかね」
「何、安田やすだ炭鉱たんこうへかゝってたんですがね。エ、二里ばかり、あ、あの山のかげになってます。エ、最早しちゃったんです」
 案内者はこう云って、仲に立った者が此レールを請負うけおって、一間ばかりの橋一つにも五十円の、枕木一本が幾円のと、不当なもうけをした事を話す。枕木は重にドスならで、北海道に栗は少なく、釧路などには栗が三本と無いが、ドスなら堅硬けんこうにして容易にちず栗にも劣らぬそうである。
 案内者は水戸みとの者であった。五十そこらの気軽きがるそうな男。早くから北海道に渡って、近年白糠に来て、小料理屋をやって居る。
随分ずいぶん色々な者が入り込んで居るだろうね」
「エ、りゃ色々な手合てあいが来てまさァ」
「随分破落戸ならずものも居るだろうね」
「エ、何、其様そうでもありませんが。――一人ひとり困ったやつが居ましてな。よく強淫をやりァがるんです。成る可く身分の好い人のかみさんだの娘だのをいくんです。身分の好い人だと、成丈外聞のない様にしますからな。何時いつぞやも、農家の娘でね、十五六のが草苅くさかりに往ってたのを、やつつらまえましてな。丁度其処に木をりに来た男が見つけて、大騒おおさわぎになりました。――其奴ですか。到頭村から追い出されて、今では大津に往って、漁場りょうばかせいで居るってことです」
 山が三方から近く寄って来た。唯有とあ人家じんかに立寄って、井戸の水をもらって飲む。桔槹はねつるべ釣瓶つるべはバケツで、井戸側いどがわわたり三尺もあるかつらの丸木の中をくりぬいたのである。一丈余もある水際みずぎわまでぶっ通しらしい。而して水はさながら水晶すいしょうである。まだ此辺までは耕地こうちは無い。海上のガス即ち霧が襲うて来るので、根菜類こんさいるいは出来るが、地上にそだつものは穀物蔬菜何も出来ず、どうしても三里内地に入らねば麦も何も出来ないのである。
 鹿の角を沢山背負せおうて来る男に会うた。茶路川ちゃろかわの水れた川床が左に見えて来た。
 二里も来たかと思う頃、路はほとんど直角に右に折れて居る。最早もう茶路の入口だ。路傍に大きな草葺の家がある。
「一寸休んで往きましょうかな」と云って、案内者が先に立って入る。
 大きなをきって、自在じざいに大薬罐の湯がたぎって居る。すすけた屋根裏からつりさげた藁苞わらつとに、焼いた小魚こざかなくしがさしてある。柱には大きなぼン/\がかかって居る。広くとった土間の片隅は棚になって、茶碗ちゃわんさら小鉢こばちるいが多くのせてある。
 額の少し禿げた天神髯てんじんひげの五十位の男が出て来た。案内者と二三の会話がある。
「茶路は誰を御訪おたずねなさるンですかね」
 余はMの名を云った。
「あ、Mさんですか。Mさんなれば最早茶路には居ません。昨年越しました。今は釧路に居ます。釧路の西幣舞町にしぬさまいまちです。葬儀屋そうぎやをやってます。エ、エ、わたしとはごく懇意こんいで、つい先月も遊びに往って来ました」
と云って、主は戸棚とだなから一括いっかつした手紙はがきを取り出し、一枚ずつめくって、一枚のはがきを取り出して見せた。まさしく其人の名がある。
「かみさんも一緒いっしょですかね?」
 実は彼は内地の郷里に妻子を置いて、渡道とどうしたきり、音信不通いんしんふつうだが、風のたよりに彼地で妻を迎えて居ると云うことが伝えられて居るのであった。
「エ、かみさんも一緒に居ます。子供ですか、子供は居ません。たしか大きいのが満洲まんしゅうに居るとか云うことでしたっけ」
 案外早くらちいたので、余は礼を云って、直ぐ白糠しらぬかへ引かえした。
「分かってようございました。エ、あのひとですか、たしか淡路あわじの人だと云います。飯屋めしやをして、大分儲けると云うことです」と案内者は云うた。
 白糠の宿に帰ると、秋の日が暮れて、ランプのかげ妻児さいじが淋しく待って居た。夕飯を食って、八時過ぎの終列車で釧路に引返えす。


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      北海道の京都

 釧路で尋ぬるM氏に会って所要を果し、翌日池田を経て※別りくんべつ[#「陸」の「こざとへん」に代えて「冫」、下巻-181-2]に往って此行第一の目的なる関寛翁訪問を果し、滞留六日、旭川一泊、小樽一泊して、十月二日二たび札幌に入った。
 往きに一昼二夜、復えりに一昼夜、皮相ひそう瞥見べっけんした札幌は、七年前に見た札幌とさして相違を見出す事が出来なかった。耶蘇教やそきょう信者が八万の都府とふに八百からあると云う。ただ一台来た自動車を市の共議で排斥したと云う。二日の夜は独立教会でT牧師の説教を聞いて山形屋に眠り、翌日はT君、O君等と農科大学を見に往った。博物館で見た熊の胃から出たアルコール漬の父親の手子供の手は、余の頭を痛くした。明治十四五年まで此札幌の附近にまだ熊が出没したと思えば、北海道も開けたものである。宮部みやべ博士の説明で二三植物標本を見た。樺太かばふとの日露国境の辺で採収さいしゅうして新に命名された紫のサカイツヽジ、其名は久しく聞いて居た冬虫夏草とうちゅうかそう、木のずいを腐らす猿の腰かけ等。それから某君によりて昆虫の標本を示され、美しい蝶、命短い蜉蝣ふゆうの生活等につき面白い話を聞いた。にれの蔭うつ大学の芝生、アカシヤの茂る大道の並木、北海道の京都札幌はい都府である。
 余等は其日の夜汽車で札幌を立ち、あくる一日を二たび大沼公園の小雨こさめに遊び暮らし、其夜函館に往って、また梅が香丸で北海道に惜しい別れを告げた。


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      津軽

 青森に一夜あかして、十月六日の朝弘前ひろさきに往った。
 津軽つがるは今林檎りんご王国の栄華時代である。弘前の城下町を通ると、ケラをて目かご背負うた津軽女つがるめも、草履はいて炭馬をひいた津軽男も、林檎い/\歩いて居る。代官町だいかんまちの大一と云う店で、東京に二箱仕出す。奥深おくぶかい店は、林檎と、箱と、巨鋸屑おがくずと、荷造りする男女で一ぱいであった。
 古い士族町、新しい商業町、場末ばすえのボロ町を通って、岩木川いわきがわを渡り、城北三里板柳いたやぎ村の方へ向うた。まだ雪を見ぬ岩木山は、十月の朝日に桔梗の花の色をして居る。山をめぐって秋の田が一面に色づいて居る。街道は断続榲□まるめろな村、林檎の紅い畑を過ぎて行く。二時間ばかりにして、岩木川の長橋を渡り、田舎町には家並やなみそろうて豊らしい板柳村に入った。
 板柳村のY君は、林檎園の監督をする傍、新派の歌をよみ文芸を好む人である。一二度粕谷の茅廬にも音ずれた。余等はY君の家に一夜厄介やっかいになった。文展ぶんてんで評判の好かった不折ふせつの「陶器つくり」の油絵、三千里の行脚あんぎゃして此処にも滞留たいりゅうした碧梧桐「花林檎」の額、子規、碧、虚の短冊、与謝野夫妻、竹柏園社中の短冊など見た。十五町歩の林檎園に、撰屑よりくずの林檎の可惜あたらころがるのを見た。種々の林檎を味わうた。夜はY君の友にして村の重立たる人々にも会うた。余はタァナァ水彩画帖をY君に贈り、其フライリーフに左の出たらめを書きつけた。
林檎あけ榲□まるめろ黄なる秋の日を
    岩木山下いわきさんかに君とかたらふ
 あくる朝は早く板柳村を辞した。岩木川の橋を渡って、昨夜会面した諸君に告別し、Y君の案内により大急ぎで舞鶴城へかけ上り、津軽家祖先の甲冑かっちゅうの銅像の辺から岩木山を今一度眺め、大急ぎで写真をとり、大急ぎで停車場にかけつけた。Y君も大鰐おおわにまで送って来て、こゝにたもとわかった。余等はこれから秋田、米沢、福島をて帰村す可く汽車の旅をつゞけた。


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     紅葉狩

      紅葉

 とついで京都に往って居るすえむすめの家を訪うべく幾年か心がけて居た母と、折よく南部なんぶから出て来た寄生木やどりぎのお新お糸の姉妹を連れて、余の家族を合せて同勢どうぜい六人京都に往った。松蕈まつだけおそく、紅葉には盛りにちと早いと云う明治四十三年の十一月中旬。
 京都に着いて三日目に、高尾たかお槇尾まきのお栂尾とがのおから嵐山あらしやまの秋色を愛ずべく、一同車をつらねて上京の姉の家を出た。堀川ほりかわ西陣にしじんをぬけて、坦々たんたんたる白土の道を西へ走る。丹波から吹いて来る風が寒い。行手には唐人とうじんかむりを見る様に一寸青黒いあたまの上の頭をかぶった愛宕山あたごやまが、此辺一帯の帝王がおして見下ろして居る。御室おむろでしばらく車を下りる。株立ちのひくい桜は落葉し尽して、からんとした中に、山門さんもんの黄が勝った丹塗にぬりと、八分の紅を染めたもみじとが、何とも云えぬおもむきをなして居る。余は御室が大好きである。直ぐ向うのならびが岡の兼好けんこうが書いた遊びずきの法師達が、ちごを連れて落葉にうずめて置いた弁当を探して居やしないか、と見廻みまわしたが、人の影はなくて、唯小鳥のさえずる声ばかりした。
 車は走せて梅が畑へ来た。柴車しばぐるまいて来るおばさんも、苅田かりたをかえして居る娘も、木綿着ながらキチンとした身装みなりをして、手甲てっこうかけて、足袋はいて、髪は奇麗きれいでつけて居る。労働が余所目よそめに美しく見られる。日あたり風あたりがあらく、水も荒く、軽い土が耳の中鼻の中までむ余の住む武蔵野の百姓女なぞは中々、う美しくはして居られぬ。八年前余は独歩どっぽ嵐山から高尾に来た時、時雨しぐれに降られて、梅が畑の唯有とある百姓家にけ込んでみのを借りた。山吹の花さし出す娘はなくて、ばあさんが簑を出して呉れたが、「おべゝがだいなしになるやろ」と云うので、余は羽織はおりを裏返えしに着て、其上に簑をはおり、帽子を傾けて高尾に急いだ。瓢箪ひょうたんなど肩にして芸子と番傘の相合傘あいあいがさで帰って来る若い男等が、「ヨウ、勘平猪打ししうちの段か」などゝはやした。
 いよ/\高尾に来た。車を下りて、車夫くるまやに母を負うてもらい、白雲橋を渡って、神護寺内じんごじないの見晴らしに上った。紅葉もみじはまだ五六分と云う処である。かけ茶屋の一にあがって、姉が心尽しの弁当をたのしく開いた。余等はまた土皿投かわらけなげを試みた。手をはなれた土皿は、ヒラ/\/\と宙返ちゅうがえりして手もとに舞い込む様に此方こなたの崖に落ち、中々谷底たにそこへはとどかぬ。色々の色にこがれて居る山と山との間の深い谷底を清滝川きよたきがわが流れて居る。川下がきとめられて緑礬色りょくばんいろの水が湛え、褐色かっしょくの落葉が点々として浮いて居る。
「水をいて如何どうするのかな」
「水力電気たら云うてな、あんたはん」と茶を持て来たおばこのかみさんが云う。
 余は舌鼓したつづみをうった。
 余等は高尾を出て、清滝川に沿うてさかのぼり、槇の尾を経て、栂の尾に往った。
 とがの尾は高尾に比して瀟洒しょうしゃとして居る。高尾から唯少し上流にさかのぼるのであるが、此処のもみじは高尾よりもめて居る。寺畔の茶屋から見ると、向う山の緑青ろくしょういた様な杉の幾本いくもとうつって楓の紅が目ざましく美しい。斯栂の尾の寺に、今は昔先輩の某が避暑ひしょして居たので、余は同窓どうそうの友と二三日泊りがけに遊びに来たものだ。其は余が十二の夏であった。余等は毎日寺の下の川淵かわぶちおよぎ、三度□□南瓜とうなすで飯を食わされた。村から水瓜すいかを買うて来て、川にひたして置いて食ったりした。余は今記念の為に、川に下りて川水の中から赤い石と白い石とをひろった。清滝川は余にとりて思出おもいで多い川である。栂尾に居た年から八年程後、斯少し下流愛宕あたごふもと清滝の里に、余は脚気かっけを口実に、実は学課をなまけて、秋の一月を遊び暮らし、ミゼラブルばかり読んで居たことがある。
 栂の尾から余等は広沢ひろさわの池をて嵐山に往った。広沢の池の水がされて、ふなや、どじょうが泥の中にばた/\して居た。
 嵐山の楓は高尾よりもまだ早かった。嵐山其ものと桂川かつらがわとは旧に仍って美しいものであったが、川の此岸こなたには風流に屋根ははぎいてあったが自働電話所が出来たり、電車が通い、汽車が通い、要するに殺風景さっぷうけいなものになり果てた。最早三船の才人さいじんもなければ、小督こごう祇王ぎおう祇女仏御前ほとけごぜんもなく、お半長右衛門すらあり得ない。
「暮れて帰れば春の月」と蕪村ぶそんの時代は詩趣満々ししゅまんまんであった太秦うずまさを通って帰る車の上に、余は満腔まんこうの不平をく所なきに悶々もんもんした。
 斯く云う自分も其仲間だが、何故なぜ我日本国民は斯く一途いちずになるであろう乎。彼は中々感服家で、理想実行家である。趣味の民かと思うたら、中々以て実利実功の民である。東叡山を削平さくへいして、不忍しのばずの池を埋めると意気込み、西洋人の忠告によって思いとまった日本人は、其功利の理想を盛に上方かみがたに実行して居る。億万円にも代えられぬ東山のどうをくりぬいて琵琶湖の水を引張ひっぱって見たり、鴨東おうとう一帯を煙とおとにおいけがしてしまったり、せまい町内に殺人電車をがたつかせたり、嵐山へ殺風景を持込もちこんだり、高尾の山の中まで水力電気でかきわしたり、努力、実益、富国、なんかの名の下に、物質的偏狂人へんきょうじん所為しょいを平気にして居る。心ある西洋人は何と見るだろう
 京都、奈良、伊勢、出来ることなら須磨明石舞子をかけて、永久日本の美的博物館たらしむ可きで、其処そこに煙突の一本も能う可くばもうけたくないものである。再び得難い天然を破壊し、失い易き歴史のあとを一掃して、其結果に得る所は何であろう乎。殺風景なる境と人と、荒寥こうりょうたる趣味の燃えくずを残すに過ぎないのではあるまい乎。
 日本国はたとえば主人が無くて雇人が乱暴する家の様だ。邦家千年の為にはかる主脳と云うものがあるならば、斯様こんな馬鹿げた仕打はせまい。余は日本を愛するが故に、日本が無趣味のくにとなり果つるを好まぬ。余は京畿けいきを愛する故に、所謂文明に乱暴されつゝある京畿を見るのが苦痛である。


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     義仲寺

 三井寺で弁慶の力餅を食って、湖上の風光を眺める。何と云っても琵琶湖は好い。
あれ叡山えいざんです。彼が比良です。彼処あすこう少し湖水に出っぱった所に青黒あおぐろいものが見えましょう――彼が唐崎からさきの松です」
 余はこしかけを離れて同行の姉妹しまいゆびさした。時計を見れば、最早二時過ぎて居る。唐崎の松を遠見でまして、三井寺を下り、埠頭はとばから石山行の小蒸汽に乗った。
 丁度八年前の此月である。今朝鮮に居る義兄と、余は同車して唐崎の松に往った。彼は夫婦仲好のまじないと云って誰でも探すと笑いつゝ、松にじ上り、松葉の二つい四本一頭にくくり合わされたのを探し出してくれた。それから車で大津に帰り、小蒸汽で石山に往って、水際みぎわの宿でひがいしじみの馳走になり、相乗車で義仲寺ぎちゅうじに立寄って宿に帰った。秋雨あきさめの降ったり止んだり淋しい日であった。
 斯様こんな事を彼が妹なる妻に話す間に、小蒸汽は汽笛を鳴らしつゝ湖水を滑べって、何時見ても好い水から湧いて出た様な膳所ぜぜの城をかすめ、川となるべく流れ出したみずうみの水と共に鉄橋をくゞり、瀬田せたの長橋をくぐり、石山の埠頭はとばに着いた。
 手荷物を水畔すいはんの宿に預けて、石山の石に靴や下駄の音をさせつゝ、余等は石をひろい、紅葉を拾いつゝ、石山寺にまいった。うどくらい内陣の宝物も見た。源氏之間げんじのまは嘘でも本当にして置きたい様な処であった。余等は更に観月堂かんげつどうに上った。川を隔てゝ薄桃色に禿げた□冠山を眺め、湖水のくくれて川となるあたりに三上山みかみやま蜈蚣むかでい渡る様な瀬田の橋を眺め、月の時を思うてややひさしく立去りかねた。
 秋の日は用捨なくかたむいた。今夜は宇治ときめたので、余等は山を下ると、川畔かわばたの宿にもいこわず、車を雇うた。二人乗ににんのりが二台。最早上方でなければ滅多に二人乗は見られぬ。姉妹は生れてはじめてである。
 姉妹を乗せた車は先きに、余等三人を乗せた車は之につゞいて、瀬田川せたがわの岸に沿いつゝ平な道を馬場の方へ走る。日は入りかけて、樺色かばいろくんじた雲が一つ湖天にいて居る。湖畔の村々には夕けぶりが立ち出した。からすが鳴く。粟津あわづに来た時は、並樹の松にあおもやがかゝった。
「此れがねえ、木曾きそ義仲よしなかが討死した粟津が原です」
と余は大きな声して先きの車を呼んだ。ふりかえった姉妹の顔も、唯ぼんやりと白かった。
 車は一走ひとはしりして、燈火ともしびあかるい町の唯有とある家の前に梶棒かじぼうを下ろした。
「何だ」
「義仲寺どす」
 余は呆気あっけにとられた。八年前秋雨あきさめの寂しい日に来て見た義仲寺は、古風なちまたはさまって、小さな趣あるいおりだった。
 余は舌鼓したつづみうって、門をたゝいて、しいて開けてもらって内に入った。内は真闇まっくらである。車夫に提灯ちょうちんを持て来させて、妻や姉妹に木曾殿きそどのとばせをの墓を紹介しょうかいした。
 外には汽関車の響や人声が囂々ごうごうと騒いで居る。


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      宇治の朝

 宇治うじに着いたのが夜の九時。万碧楼まんぺきろう菊屋に往って、川沿いの座敷に導かれた。近水楼台先得月、と中井桜洲山人のがくがかゝって居る。
 此処ここは余にも縁浅からぬ座敷である。余の伯父はすぐれた大食家たいしょくかで、維新の初年こゝに泊ってうなぎ蒲焼かばやきを散々に食うた為、勘定に財布さいふの底をはたき、淀川の三十石に乗るぜにもないので、頬冠ほおかむりして川堤を大阪までてく/\歩いたものだ。伯父の血をひいた余とても御多分にれぬ。八年前の秋、此万碧楼に泊った余は、霜枯時しもがれどきの客で過分の扱いを受け、紫縮緬むらさきちりめんの夜具など出された。御馳走ごちそうも伯父の甥たるにじざる程食うた。食うてしまったあとで、蟇口がまぐちのぞいて見た余は非常に不安を感じた。そこで翌朝宿の者には遊んで来ると云い置いて、汽車で京都に帰った。少し都合もあって其日は行かれず、電報、手紙も臆劫おっくうだし、黙って打置うちおき、あくる日になって宇治に往った。万碧楼では喰逃くいにげが帰って来たと云う顔をして、茶代も少し奮発ふんぱつしたに関せず、紫縮緬の夜具は雲がくれて、あまり新しくもない木綿の夜具に寝かされた。主の方では無論覚えて居る由もない。余は独笑坪えつぼに入った。
 腰硝子こしがらすの障子を立てたきり、此座敷に雨戸はなかった。二つともした燭台しょくだいの百目蝋燭の火はまたたかぬが、白い障子越しに颯々さあさあと云う川瀬のおとが寒い。障子をあけると、宇治の早瀬はやせに九日位の月がきら/\くだけて居る。ピッ/\ピッ/\千鳥ちどりいて居る。

           *

 朝起きて顔を洗うと、余は宿の褞袍どてらを引かけ、一同は旅の着物になって、茶ものまず見物に出かけた。宇治橋は雪の様なしもだ。ザクリ/\下駄の二の字のあとをつけて渡る。昔太閤様たいこうさまは此処から茶の水を汲ませたものだ、と案内者の口まねをしつゝ、彼出張った橋の欄間らんまによりかゝって見下ろす。矢を射る如き川面かわづらからは、真白に水蒸気が立って居る。今も変らぬ柴舟しばぶねが、見る/\橋の下を伏見ふしみの方へ下って行く。朝日山から朝日が出かゝった。橋を渡ってまだ戸を開けたばかりの通円茶屋つうえんぢゃやの横手から東へ切れ込み、興聖寺こうしょうじの方に歩む。美しい黄の色が眼を射ると思えば、小さな店に柚子ゆずが小山と積んである。何と云う種類しゅるいか知らぬが、朱欒ざぼん程もある大きなものだ。旅先たびさきながら看過みすごし難くて、二銭五厘宛で五個買い、万碧楼に届けてもらう。
 興聖寺の石門せきもんは南面して正に宇治の急流きゅうりゅうに対して居る。岩をり開いた琴阪とか云う嶝道とうどうを上って行く。左右のがけから紅に黄に染みたもみじが枝をさしのべ落葉を散らして、頭上はにしき、足も錦を踏んで行く。一丁も上って唐風からふうの小門に来た。此処から来路らいろを見かえると、額縁がくぶちめいた洞門どうもんしきられた宇治川の流れの断片が見える。金剛不動の梵山ほんざん趺座ふざして、下界流転るてんの消息は唯一片、洞門をひらめき過ぐる川水の影に見ると云う趣。心憎こころにくい結構の寺である。
 □駝師うえきや剪裁せんさいの手を尽した小庭を通って、庫裡くりに行く。誰も居ない。尾の少しけたとしりた木魚と小槌こづちが掛けてある。二つ三つたゝいたが、一向出て来ぬ。四つ五つれよとたたく。無作法のおとがやっと奥に通じて、雛僧すうそうが一人出て来た。別に宝物ほうもつを見るでもなく、記念に画はがきなど買って出る。
 雲上うんじょうから下界に降る心地して、惜しい嶝道とうどうを到頭下り尽した。石門を出ると、川辺に幾艘の小舟がつないである。小旗など立てた舟もある。船頭が上って来て乗れとすゝめる。
如何どうだ、舟で渡って見ようか」
「えゝ、渡りましょう」
 一同舟に乗った。
 川上を見ると、獅子飛ししとび、米漉こめかしなど云う難所にいじめられて来た宇治川は、今山開けさわるものなき所に流れ出て、いしゆみをはなれたの勢を以て、川幅一ぱいの勾配こうばいある水を傾けて流して来る。紅に黄に染めた上流両岸の山は、あお朝靄あさもやて、山蔭の水も千反せんたん花色綸子はないろりんずをはえたらん様に、一たび山蔭を出て朝日がすあたりに来ると、水も目がさめた様に麗々れいれいと光り渡って、滔々とうとうと推し流して来る。瀬の音がごう/\/\、ざあ/\ざあと川面かわつら一面に響く。
「好いなァ」思わず声をあげる。
 船頭は軋々ぎいぎいと櫓のおとをさせて、ほゞ山形やまなりに宇治川を渡す。
「何て奇麗な水でしょう」妻は舷側ふなばたの水を両手にすくい上げて川をめる。鶴子が真似まねる。
 平等院びょうどういんの岸近く細長い島がある。浮島と云うそうだ。島をおお枯葭かれよしの中から十三層の石輪塔せきりんとうが見える。
「あの塔は何かね、先には見かけなかった様だが」
「近頃掘り出したンどす。宝塔ほうとうたら云うてナ、あんたはん」
と船頭が説明する。水は早し、川幅かわはばは一丁には越えぬ。惜しと思うまに渡してしまって、舟は平等院上手かみての岸についた。
 舟賃ふなちんを払うて、其処そこに三つ四つ設けられた茶店の前を過ぎて、うつくしい紅葉をひろいつゝ余等は平等院に入った。


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      嫩草山の夕

 奈良は奠都てんと千百年祭で、町は球燈きゅうとう、見せ物、人の顔と声とで一ぱいであった。往年おうねんとまった猿沢池さるさわのいけの三景楼に往ったら、主がかわって、名も新猫館しんねこかんと妙なものにけて居る。うんざりしたが、思い直して、こゝに車を下りた。
 茶一わん、直ぐ見物に出かける。
 上方客かみがたきゃく、東京っ子、芸者、学生の団体、西洋人、生きた現代は歴史も懐古も詩も歌も蹂躙じゅうりんして、鹿も驚いた顔をして居る。其雑沓ざっとうの中をうて、先ず春日祠かすがしもうでた。田舎みやげの話し草に、若宮前で御神楽おかぐらをあげて、ねじりろうの横手を通ると、種々の木の一になって育って居る木がある。寄木やどりぎ、と札を立てゝある。大阪あたりの娘らしいのが、「良平りょうへいさんよ」と云う。お新さんがお糸さんと顔見合わせて莞爾にっこりした。お新さんはそっと其内の椿の葉を記念の為にちぎった。
 嫩草山わかくさやまの麓の茶屋に来た頃は、秋の日が入りかけた。草履ぞうりをはいた娘子供が五六人、たら/\とすべる様に山から下りて来た。
如何どうだ、上って見ようか」
「え、上りましょう」
 足の悪いお新さんと鶴子を茶店ちゃみせに残して、余はくつのまゝ、二人の女は貸草履に穿えて上りはじめた。
 名を聞いてだに優にやさしい嫩草山は、見て美しく思うてなつかしい山である。八年前の十一月初めて奈良に来たゆうべ、三景楼の二階から紺青こんじょうにけぶる春日山に隣りして、てんの皮もて包んだ様な暖かい色の円満ふっくらとした嫩草山の美しい姿を見た時、余の心は如何様どんなおどったであろう。丁度あつらえたように十五夜のまん丸な月が其上に出て居た。然し其時はあわたゞしい旅、山に上るもはたさなかった。今はじめて其ふところ辿たどるのである。
 霜枯しもがれそめたひくすすき苅萱かるかやや他の枯草の中を、人が踏みならした路が幾条いくすじふもとからいただきへと通うて居る。余等は其一を伝うて上った。打見たよりも山は高く、思うたよりも路は急に、靴の足は滑りがちで、約十五分を費やして上り果てた時は、ひたいせなあせばんで居た。頂はやゝ平坦へいたんになって、麓からは見えなかった絶頂が、まだ二重になってうしろひかえて居る。唯一つある茶店は最早もう店をしまいかけて、頂には遊客ゆうかくの一人もなかった。
 余等よらは額の汗をぬぐうて、嫩草山の頂から大和の国の国見をすべく眼をはなった。
 ゆうべである。
 日はすでに河内かわち金剛山こんごうせんと思うあたりに沈んで、一抹いちまつ殷紅色あんこうしょく残照ざんしょうが西南の空を染めて居る。西生駒いこま信貴しぎ、金剛山、南吉野から東多武峰とうのみね初瀬はつせの山々は、大和平原をぐるりとかこんで、蒼々そうそうと暮れつゝある。此暮山ぼざん屏風びょうぶに包まれた大和の国原くにはらには、夕けぶり立つ紫の村、黄ばんだ田、明るい川の流れ、神武陵、法隆寺、千年二千年の昔ありしもの、今生けるものゝすべてが、夜の安息に入る前に、日に名残を惜んで居る。
 余等は麓の方に向うて、「おゝい」と声をかけた。一つの影が縁台えんだいをはなれて、山をのぼりはじめた。それは鶴子をうた車夫であった。やがて上りついて、鶴子は下り立った。
 余等は更にながめた。最早麓に一人残ったお新さんの影もよくは見えない。
 直ぐ後の方でがさ/\と草が鳴ったと思うたら、夕空ゆうぞらうつって大きな黒い影が二つぬうと立って居る。其れは鹿であった。
 足の下で、奈良ならの町の火が美しくつき出した。はちれの唸□つぶやきの様な人声物音が響く。
 ぼうン!
 麓の方で晩鐘いりあいが鳴り出した。其鐘のうながさるゝかの如く、からす唖□□あああと鳴いて、山の暮から野の黄昏たそがれへと飛んで行く。
 余等は今一度眼を平原へいげんに放った。最早日の名残も消えて、眼に入る一切のものはあおもやに包まれた。
 大和は今暮るゝのである。

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