本文内容仅代表作者个人观点,仅供参考。

中国語の文章を見ていると「的」という字が日本語の「の」や「な」と同じように使われていて面白いなあ、と気づいたのは大学生の頃でした。で、それとこれとは全く関係がないとは思うのですが、時を同じくして、その頃から若い人たちの「的」の使い方がめちゃくちゃになってきたような気がするのです。

我还是大学生的时候,在读中文文章时发现“的”这字用法很有意思,就跟日语中的“の”还有“な”一样。虽然,这和我接下来要说的完全没有关系,但我感觉正是从那时候开始,年轻人开始乱用日语“的”字的。

それは例えば、「俺に言えば、意味な部分がもうちょっとはっきりしないと納得できねえな…」的な使い方です(笑)

比如下面这样的用法,“就我个人而言,意思这部分要是不弄的更清楚些,还真是无法让人信服啊……”(笑)。

もう、なんでもかんでも「的」で繋いでしまう、と言うか、なんでもかんでも「的」に凝縮してしまう表現がやたらとはびこってしまいました。10年前にも同じテーマで書いているのですが、あの時よりもずっとこの傾向が進んでしまったような気がします。

不管什么都用“的”来连接,或者说,把什么内容都浓缩在一个“的”字里的表达非常泛滥。虽然我在10年前也写过同样主题的文章,但总觉得现在是更甚了。

それは多分便利だからでしょう。断定を避けて「のような」「みたいな」というニュアンスを出す効果もあるのでしょうが、単なる接着剤としての便利さがこの傾向を促進しているのだと思います。

之所以会这样大概是因为“的”字比较方便吧。虽然它也能起到避开定论的作用,透露出“のような”“みたいな”(像、类似)之类的语气,但我想,“的”字使用之所以会如此泛滥,应该仅仅是因为它作为语言粘合剂来说比较方便。

まあ、言葉の世界で便利なものが幅を利かすのは仕方がないところではあるでしょう。むしろ私が気になるのは、単にやたらと「的」を使うということではなくて、「的」を使う必要がないところで余計な「的」を使ってしまっている表現です。

不过嘛,在语言这个世界里,方便的词句用处多也是无可厚非的。我在意的倒不是“的”字被频繁使用,而是那些画蛇添足现象。

例えば、上述の「俺的に言えば、意味的な部分がもうちょっとはっきりしないと納得できねえ的な…」という表現はあまり良い表現とは言えないかもしれませんが、「的」が不必要なところに「的」を使っているわけではありません。

比如我上面提到的句子“俺的に言えば、意味的な部分がもうちょっとはっきりしないと納得できねえ的な…”,也许这算不上什么好的表达,但也没有把“的”用在不必要的地方。

「的」が不必要なところに「的」を使っているとはどういうことかと言えば、例えばこんな表現です。

那么,画蛇添足用了“的”到底指的是什么情况呢?比如下面这些表达。

乱暴的な
優秀的な
巨大的な

年配の方は信じられないかもしれませんが、実際こういう使い方をする若者がいるのですよ。これらは単に「乱暴な」「巨大な」などと言えば良いのに、いつもの癖なのか、変な「的」がくっついてしまっているのです。

年纪大的人可能不敢相信,事实上确实有年轻人这样用哦。明明直接用“乱暴な”“巨大な”就可以了,也不知道是不是平时用惯了,偏要不伦不类的加上个“的”字。

「的」はどういう働きをするものかと言えば、単独では形容動詞の語幹にならない名詞の末尾に付いて、それを形容動詞化するためのものです。

说到“的”的作用,其实它是用来加在无法单独成为形容动词词干的名词后面,将其形容动词化的。

名詞には「だろ・だっ・で・に・だ・な・なら」の活用語尾を付けて形容動詞にできるものとそうでないものがあります。「乱暴」であれば「乱暴だろ(う)・乱暴だっ(た)・乱暴で・乱暴に・乱暴だ・乱暴な・乱暴なら(ば)」という風に形容動詞にすることができます。

有的名词加上“だろ・だっ・で・に・だ・な・なら”这些活用词尾能变成形容动词,但有的名词却不能。比如“乱暴”这个词,可以这样变形为形容动词——乱暴だろ(う)・乱暴だっ(た)・乱暴で・乱暴に・乱暴だ・乱暴な・乱暴なら(ば)。

ところが「暴力」という単語は同じように語尾を付けて形容動詞にすることができません。それを形容動詞的に使いたい時に持ってくるのが「的」という接尾語なのです。「的」を付けることによって「暴力的だろ(う)・暴力的だっ(た)・暴力的で・暴力的に・暴力的だ・暴力的な・暴力的なら(ば)」と活用できるようになるのです。

然而,“暴力”这个单词即便同样加上这些,也无法变成形容动词,想要将其当做形容动词那样使用的话,就要加上“的”这个接尾词,然后就可以这样活用了——暴力的だろ(う)・暴力的だっ(た)・暴力的で・暴力的に・暴力的だ・暴力的な・暴力的なら(ば)。

意味としては「のような」というニュアンスが加わります。上で何の気なしに使っている「形容動詞的に」というのも「形容動詞のように」という意味です。

加了“的”后,意思上会多出“のような”这样的语气。我在前面不经意间用的“形容動詞的に”就有“形容動詞のように”这样的意思。

「的」はそういう用法の、そういう意味の部品なのです。これは他の名詞と結合する時の接着剤にもなります。例えば「暴力的手段」などと。

“的”就是用在这些地方、表达这种意思的元素,它也能成为修饰词和别的名词相结合时的粘合剂。比如“暴力的手段”等等。

それに対して、乱暴は元から形容動詞の語幹なので、そこに「的」を加えることによって、日本語としては不自然な重複感が出てしまうのです。中国語なら「乱暴的」みたいな表現はあるのかもしれません。中国語には形容動詞の活用語尾といったものがないので、繋がりを明らかにするために必要になるのでしょう。

与此相对的,“乱暴”这词原来就是形容动词的词干,如果再加上一个“的”,从日语角度来说就会显得重复,给人感觉不自然。中文中也许会有“乱暴的(蛮横的,粗暴的)”这样的表达,但中文中没有形容动词活用词尾这种东西,为了让前后连接更加明了,所以才需要加吧。

でも、日本語の場合は、形容動詞の語幹に「的」をつけてはいけないのです。まずそこを見極める必要があります。そのためには、その名詞に「だろ・だっ・で・に・だ・な・なら」の活用語尾、とりわけ「な」を付けてみておかしくないかを考えれば良いのです。

然而,日语中就不能在形容动词词干后面加上“的”,我们首先要对此进行鉴别。为此,大家最好在对象名词后面加上“だろ・だっ・で・に・だ・な・なら”这些活用词尾,尤其是“な”,看看会不会奇怪。

「乱暴な」はおかしくないですが、「暴力な」は変です。だから「暴力的な」という表現が成立するのです。同じように、「優秀な」はよく聞く表現ですが、「優越な」とは聞きません。だから「優越的な」という表現が成立するのです。

“乱暴な”这种表达不怪,但是“暴力な”就会很怪了。因此,“暴力的な”这样的表达就能成立。同样的,“優秀な”这个表达经常能听到,但是“優越な”就没听说过。所以,“優越的な”这种说法是成立的。

一般に、動詞の語幹となる名詞(例えば「優先」)は、形容動詞の語幹にならないことが多い(「優先な」とは言わない)ので、そういう場合には「的」が付けられる(「優先的」となる)ことが多いのです。そんなことを憶えておくと判断の助けになります。

一般来说,能成为动词词干的名词(比如“優先”)中很多都是不能变成形容动词词干的(我们不会说“優先な”),这种情况下,它们后面多数都能加上“的”(变形成“優先的”)。记住这些会有助于你的判断。

もちろん言葉のことですから例外はあります。「健康な」という表現はおかしくないのに「健康的な」という表現も成立しています。ただ、この場合「健康な」と「健康的な」では若干意味が異なります。言わばそういう使い分けのために成立している表現なのです。

当然啦,既然是语言就会有例外。“健康な”这种表达明明不怪,“健康的な”却也能说得通。只是,在这种情况下,“健康な”与“健康的な”之间意思多少有些差别。也就是说,正是因为要区分使用,所以这俩表达都能成立。

「的」と同じく、最近の若い人の使い方が怪しげになっているものに「化」があります。

和“的”一样,最近年轻人用法比较怪的还有“化”。

形容動詞になる名詞に「的」が付かないように、活用語尾を付けて動詞になる名詞には「化」はつきません。例えば、「巨大化する」はOKだけれど「拡大化する」はおかしいのです。

正如能成为形容动词的名词后面不能加“的”一样,加上活用词尾能变成动词的名词也不能加“化”。比如,“巨大化する”可以,“拡大化する”就很怪。

ま、随分長くなってしまったので、これ以上拡大するのはやめておきますが(笑)

哎呀,洋洋洒洒写了这么多,我就不继续啰嗦了(笑)。

【咬文嚼字】“冷淡”一词在日本

声明:双语文章中,中文翻译仅代表译者个人观点,仅供参考。如有不妥之处,欢迎指正。