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日本語における非情物 の可能表現 について

目録
1. はじめに
2. 自動詞の可能表現に関わる要因
3. 自動詞と「(ら)れる」、「ことができる」との共起
4. まとめ
5. 参考文献

1. はじめに

可能表現に関する研究の多くは、可能が有情物の動作·状態の可能であるとしている。そのような研究の代表例として、藤井(1971)、青木(1980)、小松(1995)、津田(2000)などが挙げられる3)。また青木(1997)は、自動詞に注目し、可能の形式「(ら)れる」と「ことができる」には主体の意志性が大きく関わっていると指摘し、主体が非情物の場合には、擬人化と捉えられるものは別にして、自動詞に可能の形式をあてることができないとしている。

一方、奥田(1986)のように、非情物においても可能表現が存在することを認めている研究がある。奥田は、可能には「ある動作·状態を実現する能力が物にそなわっている」という意味を伝える「能力可能」があるとし、「能力の所有者としてあらわれてくるのは,かならずしも人間にかぎられるわけではない。人間以外の物をさししめす名詞も、主語の位置にあらわれることができる」と述べ、(2)のような非情物の「性質」に関する可能表現を、(1)のような有情物の可能表現と同様に、主体の「能力」に関する可能表現と見なしている。

(1)森のなかでは、伐木作業がかれをなぐさめるにちがいない。かれは、森にいけば、いつも一日に三十貫以上の割り木をつくることができる。(奥田1986:188)

(2)この結果、質量のじゅうぶんおおきな物質は、位置とはやさのいずれもが同時に確定した値をもつ物理的な状態にちかづくことができる。(同上:189)

有情物の能力が有情物の意志によって実現できるのに対して、非情物は意志を持たないため、非情物の性質は自らの意志で実現することができない。このような異質のものを同等に扱うのは妥当性に欠けているように思われる。

2.自動詞の可能表現に関わる要因

呂(2008)は、「動詞の意志性」、「主体性」、「事態の性質」が、無意志自動詞が可能表現に用いられるか否かに関わる要因であると指摘している。この指摘は無意志自動詞のみでなく、自動詞全体に当てはまると思われる。本稿では、この研究成果を援用しながら、考察を進めていきたい。以下に、呂(2008)に基づき、これら3つの要因について述べておく。

まず、動詞の意志性について見てみよう。動詞の意志性はつまり仁田(1991)で言う「自己制御性(self-controllability)」4)のことであり、それには段階性がある。仁田の考えを援用し、動詞の意志性の度合い、すなわち事態に対する主体の制御性の度合いにより、自動詞は「自己制御性を持つ自動詞」(例:走る、渡る)と、「過程の自己制御性を持つ自動詞」(例:落ち着く、勝つ)と、「非自己制御性を持つ自動詞」(例:咲く、混ざる)に分類することができる。これは次頁の図Ⅰのように示すことができる。軸の右に行けば行くほど、動詞の意志性の度合いが高くなるにつれ、自動詞は意志自動詞に近付き、可能表現に用いられやすくなる。主体が事態の結果まで制御できるほど意志性が高くなると、動詞は自己制御性を持つ自動詞、つまり意志自動詞になり、一般的に可能の両形式と共起できるようになる。次の(3)が非文であるのに対して、(4)は可能表現として成り立つのは、(3)における「混ざる」より、(4)における「助かる」のほうが意志性が高いからである。

(3)a. 水と油は混ざれない。
b. 水と油は混ざることができない。

(4)a.人間が地震に対して無力だとあきらめることはない。前もって適切な対策をとれば助かれるだろう。

b.人間が地震に対して無力だとあきらめることはない。前もって適切な対策をとれば助かることができるだろう。

図Ⅱのように示すことができる。軸の右に行くにつれ、主体が有情物に近付き、その主体性が増すとともに、事態の成立に対する関与度も高くなる。軸の右に分布する主体ほど、可能表現に用いられやすい。 下記の例文を比較してみよう。 (5)a.屋根は半分開いており、写真のように雨に打たれたければこうして自由に濡れられる。牛をあくまで自然の状態に近づけた飼い方が行われている。 b.屋根は半分開いており、写真のように雨に打たれたければこうして自由に濡れることができる。牛をあくまで自然の状態に近づけた飼い方が行われている。 以上、自動詞の可能表現に関わる3つの要因について見てきた。これらの要因はそれぞれ単独で存在しているものではなく、互いに繋がっている関係にある。そして、自動詞が可能表現に用いられるか否かに対して、同時に関与していることも少なくない。

3. 自動詞と「(ら)れる」、「ことができる」との共起

本節においては、主体が非情物である場合に、動詞の意志性、主体性、事態の性質という3つの要因がいかに総合的に作用して自動詞の可能表現に反映しているかを考察することによって、自動詞と可能の(ら)れる」、「ことができる」との共起条件を明らかにしたい。

(6)a.この車は時速100キロで走れる。

b.この車は時速100キロで走ることができる。

このような場合を除けば、非情物に関する表現に用いられる自動詞はすべて「非自己制御性を持つ無意志自動詞」であると考えられる。

まず、生物の本来的性質を表す場合について見てみよう。

(7)a.温帯性の植物である桜は亜熱帯地域では気温が20度を少し下回ってようやく咲ける。

b.温帯性の植物である桜は亜熱帯地域では気温が20度を少し下回ってようやく咲くことができる。

(8)a.永久歯が生えてくる7,8歳頃になると歯ぐきの切れていた所に骨を移植して前歯がきれいに生えられるよう、歯ぐきの形を整えます。

b.永久歯が生えてくる7,8歳頃になると歯ぐきの切れていた所に骨を移植して前歯がきれいに生えることができるよう、歯ぐきの形を整えます。

また、次の(9)のような、望ましいかどうかを判断しがたく、評価を伴わない本来的性質について客観的に叙述する場合も、主体性の働きにより、無意志自動詞は「ことができる」を用いて可能を表すことも可能である。

(9)a.本来コレステロールは油の一種であり、それだけでは水を主成分とする血液中に溶けられないので、血液中ではリポ·タンパクという特殊なタンパク質と結合して存在します。

b.本来コレステロールは油の一種であり、それだけでは水を主成分とする血液中に溶けることはできないので、血液中ではリポ·タンパクという特殊なタンパク質と結合して存在します。

一方、事物の本来的性質を表さない場合、あるいは、事物のマイナスの本来的性質を表す場合、無意志自動詞は可能表現にならない。

(10)a.包丁はずっと使わなければ錆びられる。

b.包丁はずっと使わなければ錆びることができる。

以上で考察してきたように、主体が非情物である場合、自動詞は「(ら)れる」を用いて可能を表しにくい。そして、事物の非マイナスの意味を含む本来的性質について叙述する場合には、「ことができる」と共起しやすくなる。この結果は次頁の表Ⅰのように示すことができる。

そして、無意志自動詞と「ことができる」との共起と、それに関わる事物の本来的性質、事態の性質という2つの要因との関係は、次の図Ⅲのように簡略に示すことができる。

表Ⅰ 無意志自動詞と可能の形式との共起条件(主体が非情物である場合)

事態の性質

表現形式

 

事物の本来的性質を表す場合

事物の本来的性質を 表さない場合

プラス

評価を伴 わない

 

マイナス

例:折れる、腐る、崩れる、 壊れる、直る

例:咲く、実る、生える、光 る、輝く

 

例:溶ける、増 える

例:散る、枯れ る、萎む、錆びる

 

  普通の事態

(ら)れる

 

×

 

 

×

 

×

ことができる

 

共起できる 場合がある

 

共起できる 場合がある

 

×

 

×

望ましい事態

(ら)れる

 

×

 

 

×

 

×

ことができる

 

 

 

×

 

×

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

4、まとめ

本稿では、主体が非情物である場合、動詞の意志性、主体性、事態の性質という3つの要因が具体的にいかに自動詞の可能表現に関わっているのかを分析することにより、自動詞はいかなる条件下で、可能の両形式「(ら)れる」、「ことができる」と共起できるのか、という問題について考察してきた。その結果は次のようにまとめることができる。

1)非情物の可能表現は非情物の本来的性質に関する可能を表す傾向がある。

2)非情物のプラスの本来的性質を表す自動詞は、可能表現に用いられやすい。一方、マイナスの本来的性質を表す自動詞と、本来的性質を表さない自動詞は可能表現に用いられにくい。

3)「(ら)れる」よりも、「ことができる」のほうが非情物の可能表現に用いられやすい。

1)宮島(1972:422)は、「<有情物>というのは、つまりほとんどは人間だが、動物も、感情や理性をもったものとしてあつかうばあいには、ここにはいる」と述べている。そして、藤井(1971)、青木(1980)、金子(1980)、渋谷(1986)、森田(1987)なども、人またはその他の動物を有情物とし、それ以外を非情物としている。本稿はこれらの研究に従う。

2)本稿では、「なぜお日様はいつも早く起きられるのだろう。」のような、非情物が擬人化されている場合の可能表現を考察の対象外とする。

3)藤井(1971)、青木(1980)などは非情物も可能表現になり得るとするが、そのほとんどは、「~し得る」の形に限られると主張している。「得る」は「文章語的なニュアンスを持つ」(渋谷1986)ため、本稿では研究対象としない。

4)「動きの主体が,動きの発生·遂行·達成を自分の意志でもって制御することができる,といった性質である」(仁田1991:243)。

参考文献

青木ひろみ(1997)「自動詞における?可能?の表現形式と意味―コトロールの概念と主体の意志性―」,『日本語教育』93号,日本語教育学会,pp.97-107
青木伶子(1980)『国語学大事典』,国語学会編,東京堂出版,pp.169-171
藤井正(1971)「可能」,『日本文法大辞典』,松村明編,明治書院,pp.124-126宮島達夫(1972)『動詞の意味?用法の記述的研究』,国立国語研究所,秀英出版
森田良行(1987)『角川小辞典7基礎日本語Ⅰ』,角川書店,pp.309-479
呂雷寧(2010)『現代日本語における可能表現に関する研究―無意志自動詞を中心に』,名古屋大学大学院国際言語文化研究科博士論文

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