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<前情提要>

趣味语言小故事:“日语”这一家子

日本語には、和語、漢語、そして外来語という出自の異なる3種の語彙が共存している。和語は「にほんご」家の家つき娘である。この家で生まれ育った。そして、お隣から婿を迎えた。これが漢語である。外来語は最近遠くからもらった養子、というところだろうか?この養子は金髪碧眼でなにかと目立つから、近所の娘たちにもてもてである。

和语、汉语词及外来语这三种出身各不相同的词汇共处在日语这一个屋檐下。和语是“日语”家族里的招赘女儿,从小在家中长大。之后,从邻居那来了个上门女婿,他就是汉语词。外来语是这俩夫妇收养的养子,来自远方,是这么回事吧?这个养子金发碧眼,怎么看怎么抢眼,所以很受附近女孩子们的欢迎。(了解详细内容>>>

<本期内容>

お父さん:指传入日本的汉语词。
お母さん:指日语中固有的和语。
从下文中两者之间的对话及对橘子的数法中可见汉语词与和语之间的差异。

みかんの数えかた

橘子的数法

ある日、くだんの「にほんご」家に知り合いからダンボール一箱のみかんが届いた。「ほほう、早速歳暮が届いたか。どれ、お母さん、何個あるか確認してみなさい」とお父さん。「はいはい、じゃ、いくつあるか確かめてみましょう」とお母さん。

某日,有朋友给之前提到的那个“日语”之家送来了一箱橘子。“吼吼~这就送来年末礼物了啊。哎,孩子他妈,你看看里面装了几个橘子。”父亲吩咐道。母亲回应说:“好好好,我来看看有多少。”

で、お母さんは数えはじめるのだが、このお母さんはちょっと不思議な数えかたをする。「ひとつ、ふたつ、みっつ…」そして「とお」までくると、これを一山にして脇によせ、また新たに「ひとつ、ふたつ、みっつ…」。そして最後に、できた山の数とはんぱを数えて、「お父さん、とおがみっつとあまりがななつありますよ」と報告する。このお母さんは10を超える数の概念がないから、こんな数えかたになる。

然后,母亲就开始数了起来,这位母亲的数法有点怪。“一、二、三……”,到了“十”后,她把这一堆橘子放到一边,重新开始数剩下的:“一、二、三……”最后她数了下橘子堆数与零头,报给了父亲:“孩子他爸,十个一堆有三堆,还有七个剩余哦。”这位母亲没有十以上的数字概念,所以就有了这种数法。

それをかたわらでいらいらしながら見ていたお父さん。「ええい、面倒だ!わしが確認してやる。それ、一、二、三…三十七、以上!」さすがにお父さんだけあって、数えかたも迅速確実だ。

父亲在一旁看得很不耐烦。“哎,真麻烦!我来数给你看。那个,一、二、三……三十七,好了!”不愧是父亲,数法果然快又准。

注:日本語の数詞には、原日本語に由来すると考えられている固有の和語の数詞(ひとつ、ふたつ、みっつ、…)と、漢字とともに中国から持ち込まれ日本語化した漢語の数詞(いち、に、さん、…)の二つの系列の数詞が併用されている。ただし、現代日本語で和語の数詞が普通に用いられるのは「ひとつ」 (1) から「とお」 (10) までに限られ、数としては「はたち」 (20) が年齢について専ら用いられるに過ぎない。

このお母さんは、気の毒なことにダンボール一箱のみかんを前にして、「たくさんある」とも「いっぱいある」とも言えない。なぜなら、どちらも漢語だからだ。どうしても言いたければ「あまたある」と言うしかないが、現代語として通用するかどうか。でも、お母さんはそんなことを気にしている様子はない。ものを数えたり分類したりすることはお父さんに任せきり。お母さんの関心は全然ちがうところにあるようだ。

可怜的是,这位母亲面对眼前这一箱橘子,既不能说“たくさんある”也不能说“いっぱいある”(意思均为“很多”)。因为它们都是汉语词。实在想说的话只能用“あまたある(日语古语词、意为数量多)”这词,只是能不能作为现代词通用就不知道了。不过母亲对于这种事情毫不在意,而是把对东西的清点、分类这些事都交给了父亲,她的注意力似乎完全在别的地方。

ものを数える、というのは人間生活の基本だから、どんな言語にも固有の数えかたがあるのではないか。韓国語では、漢数詞のほかに固有の数詞が99まであるらしい。固有の数詞と外来語系の数詞の関係や使い分けはどうなっているのか、みな10進法の体系になっているのか、などさまざまな言語を横断的に比較検討してみると面白い。

数数是人类生活的基本,所以不管什么语言都有其固有的数数方法不是么。据说在韩语中,除了汉语数词以外还有其自有的数词,能数到九十九为止。将各种语言进行横向比较、讨论也是相当有意思的,比如固有的数词和外来语类的数词之间的关系及运用、各语言中是否都有十进制体系等等。

ふたたび和数詞と漢数詞にもどって。

再次回到和语数词和汉语数词这个话题。

日本語では助数詞の違いによって、使われる数詞も違ってくる。この記事のはじめのほうに出てきた「一箱」や「一山」の場合、「ひとはこ」、「ひとやま」と言って「いちはこ」「いちやま」と言う人はいないだろう。これに対して、「一枚」や「一杯」の場合は「いちまい」「いっぱい」。助数詞が和語なら数詞も和語、というルールだろうか?

日语中量词不同,使用的数词也不同。像本文开头出现的“一箱”、“ 一山”这些词,读作“ひとはこ”、“ ひとやま”,没有人会说成是“いちはこ”、“いちやま”吧。相对的,“一枚”、“ 一杯”这些词则读成“いちまい”、“いっぱい”。量词是和语的话数词也是和语,是这么个规律吧?

前回、日本語ではシンクレティズムは一般的でない、と言ったけれども、数え方の場合は和漢の混成現象が起こっている。たとえば、「ひとり、ふたり、さんにん、よにん、ごにん…」など。上の「箱」の場合でも「五箱」になると、「ごはこ」と言うでしょうね。ここで早くも上のルールは崩れる。前言訂正が必要かな?

在上一篇文章中,我提到说日语里不太会有折中调和的情况(详情参见注释),然而在数数方面却发生了和汉混搭现象。比如“一人、俩人、三个人、四个人、五个人……”等等。上面的量词“箱”也是如此,数到“五箱”时,也会说“ごはこ”吧。之前提到的规律这么快就被打破了。或许我该订正下之前说过的话么?  

注:AとBがまざりあって、AでもBでもないCになる、という現象を宗教分野ではシンクレティズムというそうだが、日本ではことばでも料理でもシンクレティズムは一般的ではない。したがって、クレオールやピジンも育たない(作者意见,仅供参考)。

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