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竹中半兵衛は羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の参謀として活躍した名将だ。秀吉が仕えた織田信長に、家臣として仕えるように請われたが、これを断り、後に「天下人」となる秀吉の器量を見込み、参謀として仕えた。その戦(いくさ)上手は稀有な存在で、黒田孝高(官兵衛)と並んで戦国時代を代表する軍師として知られる。半兵衛の生没年は1544(天文13)~1579年(天正7年)。

名将竹中半兵卫作为羽柴秀吉(后来的“丰臣秀吉”)的参谋驰骋战国时代。秀吉的主公织田信长希望半兵卫加入自己麾下,向他发出邀请,然而半兵卫却看重了“天下人”秀吉的雄才大略,拒绝了信长,反而成为了秀吉的军师。这位用兵神妙的绝世天才与黑田孝高(官兵卫)一同作为代表战国时代的军师名扬后世。半兵卫的生卒年为1544(天文13年)-1579年(天正7年)。

竹中半兵衛は美濃斎藤氏の家臣で不破郡岩手城主・竹中重元の長男として生まれた。名は重治、諱は重虎、ただし通称の「半兵衛」が有名。弟に重矩。従兄弟に竹中重利。子に竹中重門(しげかど)がいる。

竹中半兵卫是不破郡岩手城主竹中重元的长子,竹中是美浓国斋藤氏的家臣。半兵卫名为重治,讳重虎,不过他的俗称“半兵卫”更加为人们熟悉。他有一个弟弟名叫重矩,还有一个堂弟竹中重利,其子名为竹中重门。

竹中半兵衛は1560年(永禄3年)、父の死去により家督を継ぎ、美濃菩提山城主となって、斎藤義龍に仕えた。1561年(永禄4年)、斎藤義龍が死去すると、その後を継いだ斎藤龍興に仕えた。しかし、この龍興が若年で凡庸だったために、家臣団が動揺。そんな状況を察知した織田信長の侵攻を受けることになる。ただ、ここで“知将”半兵衛が動く。1561年(永禄4年)、1563年(永禄6年)と2度にわたる織田勢の侵攻には、半兵衛の巧みな戦術で切り抜け、勝利した。

1560年(永禄3年),父亲重元离世,竹中半兵卫继任家督,侍奉斋藤义龙,成为美浓菩提山城主。1561年(永禄4年),斋藤义龙去世,斋藤龙兴继任。然而,龙兴少不更事,又庸碌无能,引起家臣团人心离散。于是察知这一情况的织田信长发起进攻。而就在此时,“智将”半兵卫开始行动了。1561年(永禄4年)、1563年(永禄6年),他两度用巧妙的战术打退织田军的进攻,取得胜利。

ところが、主君の龍興は酒色に溺れて政務を顧みようとしなかった。そこで、半兵衛はそんな主君に猛省を促すため、一計を案じ“ショック療法”に打って出る。大胆な「稲葉山城乗っ取り事件」がそれだ。彼は弟の重矩や舅の安藤守就ら一族16~17人の配下とともに、龍興の居城、稲葉山城(後の岐阜城)を、わずか1日で奪取することに成功する。あれだけ織田信長が攻めあぐんだ居城をである。半兵衛、19歳のときのことだ。

可是,主公斋藤龙兴依旧沉溺酒色,不理政事。于是,半兵卫为了敦促主公洗心革面,心生一计,展开了“休克疗法”。这就是谋略过人的“稻叶山城夺城事件”。他带领兄弟重矩、岳父安藤守就一族16、7人,仅用1天时间就取得了龙兴的居城稻叶山城(之后的岐阜城)。而就是这座居城,织田信长却久攻不却。此时的半兵卫仅19岁。

半兵衛が何故、このような“暴挙”とも思える挙に出たのか。それは、主君・龍興とその側近たちの半兵衛に対する評価、見方が関係している。半兵衛は少年のころから読書が好きだったばかりでなく、柔弱・愚鈍にみられたので、龍興は軽侮して、ややもすれば無礼をはたらいた。そのため、龍興の近習の者たちも半兵衛を軽く見て、折に触れては侮辱的な言動をした。この時代、男は強剛な上にも強剛、激烈な上にも激烈であることを良しとし、男たるもの絶えず煮えたぎっているような、激しい気概を持っているべきものと、皆が考えていたのだから、半兵衛はこれとは正反対だっただけに、双方にあつれきが生まれるのも無理はなかった。

半兵卫为什么做出这样堪称“暴举”的行动呢?这与主公龙兴及其侧近们对半兵卫的评价、看法不无关系。半兵卫年少时喜读诗书,不仅如此,他看似鲁钝,气质柔弱,因而备受龙兴的轻蔑,动辄遭遇无礼的待遇。由于这样,龙兴的侧近们也看不起半兵卫,一碰到机会就对他加以侮辱之举。在当时,大家都认为,男儿当以强而刚、勇而猛的风格为上,身为男子就要拔山盖世,拿出威猛的的气概。而半兵卫正好与此相反,因此双方自然也就产生出矛盾了。

こうして、日頃の汚辱を晴らすべく、心理作戦を織り込んだ、半兵衛の渾身の「稲葉山城乗っ取り作戦」が展開され、狙い通り稲葉山城は彼の手に帰した。城主・龍興は歯噛みをして悔しがりながらも、城外に逃げた。

就这样,为了洗清平日所受的耻辱,半兵卫制定出一个心理作战,全力以赴地展开了“稻叶山城夺取作战”。他的目的达到了,稻叶山城成为他囊中之物。城主龙兴虽切齿扼腕,也只得逃亡城外。

しかし半兵衛は半年後、稲葉山城を龍興に返還した。戦国の“下克上”の時代、主君に叛旗を翻し有力大名に伸し上がるケースも少なくないが、半兵衛の目的はそうではなかったのだ。彼は決して主君に叛旗を翻したのではないことを、身をもって示した。そして、自らは斎藤家を去り、北近江の浅井長政の客分として仕えたのだ。半兵衛が去った美濃斎藤氏は1567年(永禄10年)、信長の侵攻により滅亡した。

然而就在半年后,半兵卫又将稻叶山城归还给了龙兴。战国时代是一个“下克上”的时代,背叛主公自己成为有力大名的例子比比皆是,而半兵卫的目的却并不在此。他亲自证明自己绝不会对主公举起叛旗。此后他离开了斋藤家,成为北近江浅井长政的门客,侍奉其门下。1567年(永禄10年),失去半兵卫的美浓斋藤氏在信长的攻势下灭亡。

この後、竹中半兵衛は浅井長政から、請われるままに羽柴秀吉へと主君を変え、秀吉の天下取りに向けた数々の戦場において、効果的かつ巧みな調略活動などで秀吉軍を勝利に導いた。1579年(天正7年)、播磨三木城の包囲中に病に倒れ、36年の生涯を閉じた。死因は肺炎もしくは肺結核という。

此后,竹中半兵卫应浅井长政的邀请,转而投入羽柴秀吉麾下。在秀吉夺取天下的多次战役中,他施展各种奇计妙策,引导秀吉大军走向胜利。1579年(天正7年),半兵卫在包围播磨三木城时病倒,年仅36岁就离开人世。死因据说是肺炎或肺结核。

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