2008年08月01日付 反军国主义诗人将上银幕
翻译:aicn,藤原周助 整理解说:young忧雪
▼鶴彬(つる·あきら)という川柳作家を、どれほどの方がご存じだろう。昭和の初め、軍部などを批判する川柳を次々に作った人だ。特高に捕まって勾留されたまま、1938(昭和13)年に29歳で死んだ。今年が没後70年になる。
有多少人知道那位叫鶴彬的川柳诗作家呢?他是昭和初期以不断创作川柳来批判军政当局的诗人。被“特高”(特别高等警察)拘捕关禁,直至1938年(昭和13年)死于狱中(享年29岁)。今年是他去世70周年。
▼軍国色に染まる時代に立ち向かうように、その句はきっぱりと強い。〈屍のいないニュース映画で勇ましい〉〈銃剣で奪った美田の移民村〉〈手と足をもいだ丸太にしてかえし〉。2句目は旧満州への入植を、3句目は、手や足を失った帰還兵を詠んだものだ。
宛如与充满军国主义色彩的时代对峙一般,他的诗句铿锵有力。“新闻影片中,未有尸魂,只见勇者。”“挥舞刀枪,抢夺美丽田地,建起殖民村落。”“残手断足,归来的伤兵。” 第二句叙述了入侵满洲殖民地的情形,而第三句是为在战争中失去手脚归来的士兵所吟诵。
▼資本家にも痛烈な目を向けた。〈みな肺で死ぬる女工の募集札〉。紡績工場では、過酷な労働で胸を病む者が絶えなかった。〈初恋を残して村を売り出され〉は、貧困ゆえの娘の身売りである。
鶴彬对资本家也进行了激烈的痛斥。“死于肺病女工们的登记册”。在纺织工厂,因恶劣的劳动条件使患肺病的人不断出现。“卖身离山村而去,只留初恋时眷恋”,倾诉了因贫穷而被迫卖身女子的凄惨。
▼石川県で生まれ、本名は喜多一二(かつじ)といった。同じプロレタリア文芸家で、『蟹工船』を書いた小林多喜二に、字づらが似ているのは不思議である。大阪の町工場で働きながら、世にはびこる「非人間性」への怒りを燃やしていった。
鶴彬出生于石川县,真名叫喜多一二。与曾写过《蟹工船》的同是无产阶级的文学家小林多喜二,在字面上很相似,真是不可思议。他在大阪的私人小工厂工作时,为世间蔓延的“非人性”而忿忿不平。
▼その生涯をたどる映画作りが、70周年を機に始まっている。映画監督の神山征二郎さんは去年、人づてに鶴の話を聞いた。こんな人がいたのかと驚き、「もっと世に知られるべきだ」という思いに背中を押された。
借这次70周年纪念之际,他的生平经历将被搬上银幕。电影导演神山征二郎去年从传闻中听说了鶴的故事。为曾有这样的人感到震惊,“应该让世上人都知道。” 这个想法一直敦促着他。
▼「日本の破滅が見えていて、『この道を行くべからず』と叫び続けた人」だと、神山さんは、その人間像を胸に描く。そして鶴の死後、日米開戦から敗戦へと、日本が破滅への道を突き進むのは周知の通りである。内外の苦難への思いを深める8月が、今年もめぐってきた。
“看见了日本的破灭,‘不能再这样走下去了’,他是那个不断呐喊的人。” 这是神山心中所描绘的鶴彬的形象。然而就在鶴死后,从日美宣战到战败,正如众所周知的那样日本走向了灭亡的道路。加深对内忧外患的认识,今年8月又绕回到此话题上。 解说:
鹤彬: 「暁を抱いて闇にゐる蕾」「手と足をもいだ丸太にしてかへし」など数多くの鋭い反戦川柳を詠んだ鶴彬(つるあきら)は、石川県高松に生まれ、本名は喜多一二(きたかつじ)といいます。 「暴風と海の恋を見ましたか」というロマンチックな句をつくっていた少年が、社会運動の高まりのなかで成長し、19歳でナップ(全日本無産者芸術連盟)高松支部を結成。反戦句をつくって戦争反対を貫くとともに、21歳で金沢歩兵第七連隊に入営すると、日本共産青年同盟の機関紙『無産青年』をもちこむなど反戦活動をし、治安維持法違反で懲役2年の刑に。
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