2008年08月31日付 不忘战争,呼吁和平
翻译:prettylj 整理解说:young忧雪
▼北京での「平和の祭典」にわいた夏、戦争を語り、平和の重みを訴える人々の姿が日本の各地にあった。忘却を拒み、風化にあらがって、未来を見つめる8月の言葉から。
因北京的“和平盛典”而沸腾的夏天,日本各地到处可见讲述战争、呼吁和平的人们的身影。就从“拒绝忘却、反抗风化、注视未来”的8月宣言说起吧。
▼広島の原爆の日、山口県下松市の集会に野坂清子さん(79)は姿を見せた。市原爆被害者の会の会長を務め、毎回参加している。「私たちにはもう何もできません。ただ体の続く限り、こうやって集会に出るだけ。あの日を風化させないように」。
广岛原子弹日,野坂清子女士(79)出现在了山口县下松市的集会上。她担任市原子弹被害者协会会长,每次都参加集会。“我们已经什么都做不了,只有像现在这样,在有生之年参加集会而已。尽量让那一天不被遗忘。”
▼横浜市に住む成田富男さん(78)は、自作の紙芝居でシベリア抑留の苦難を伝えている。40枚の絵をめくった後、「日本に帰ってうれしかったのは、戦争をしない国になっていたことだった」と話を結んだ。
住在横浜市的成田富男先生(78),通过自创的连环画剧,述说着被扣留在西伯利亚的苦难。翻了40页连环画后,发现他这样结尾道:“回到日本令人感到高兴的是日本成了不发动战争的国家。”
▼細菌戦で知られる731部隊の隊員だった千葉県の篠塚良雄さん(84)は各地で証言集会を開いてきた。「部隊にいたころ、考えることをやめていた。自分の行動の意味を考えれば気が狂ってしまう」。自分たちがしたことを闇に葬るわけにはいかない。そんな一心で全国に足を運ぶ。
曾是因细菌战而闻名的731部队的队员,千叶县的篠塚良雄先生(84)在各地召开证言集会。“在部队的时候,停止了思考。只要一想到自己行动的意思就会疯掉”。不能将自己做过的事情埋葬在黑暗里,抱着这样的信念在全国奔走。
▼盛岡市の駒井修さん(70)の父親は、捕虜虐待の罪で戦犯として処刑された。息子として謝りたいと昨夏、被害者の元英兵に会い、手書きのカードを渡された。「過去を悔やみながら振り返らないでください。二度と帰ってこないのだから。現在を賢く改善してください。未来に向かって恐れず進んでください」とあった。重い言葉を胸にこの夏、戦争を語る活動にいそしんだ。
盛岡市的駒井修先生(70)的父亲因俘虏虐待罪而罪为战犯被处死。作为儿子的他为了表示歉意,去年夏天拜会了原英国士兵的被害者,对方递给他一张手写的卡片。上面写道:“请不要一边后悔过去一边回头看。因为它不会再来第二次。请面向未来无所畏惧地向前冲!” 駒井修将这些话铭记于心,这个夏天,奔忙于各种讨论战争的活动。
▼世代を超えて悲劇を受け継ぎ、平和を守り継いでいく。戦後生まれの責任を、夏逝く空にあらためて思う。
承继超越年代的悲剧,继续守护和平。仰望夏天即逝的天空,重新思考出生于战后的我们所应负的责任。 解说:
背景:一九四五年八月六日午前八時十五分、一瞬の閃光が街を覆った。熱線と爆風と、大量の放射能。原子爆弾による犠牲者は、その年だけで十四万人を数える。 米軍爆撃機から投下された一発の原子爆弾によって広島市は廃虚と化した。 三日後の八月九日午前十一時二分、長崎市も、原爆によって壊滅的な被害を受けた。 六十三年後の今なお、多くの被爆者が後遺症に苦しんでいる。 核廃絶の訴えを「きれいごと」だと冷笑してはならない。原爆がもたらした惨状を世界の人々に伝え、後世に語り継いできた人々の、血のにじむような努力を過小評価すべきではない。 国際司法裁判所は九六年、「核兵器による威嚇と使用は一般的に国際法に違反する」との勧告的意見をまとめた。核廃絶が地球規模の課題として認識されるようになったのは、被爆者の痛切な訴えを正面から受け止めてきた世界のNGOや市民の力によるところが大きい。 更多翻译讨论尽在天声人语翻译讨论小组
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