日语文学作品赏析《一夜》
作者:夏目漱石
来源:青空文库
2010-01-06 00:00
「美くしき多くの人の、美くしき多くの夢を……」と髯 ある人が二たび三たび微吟 して、あとは思案の体 である。灯 に写る床柱 にもたれたる直 き背 の、この時少しく前にかがんで、両手に抱 く膝頭 に険 しき山が出来る。佳句 を得て佳句を続 ぎ能 わざるを恨 みてか、黒くゆるやかに引ける眉 の下より安からぬ眼の色が光る。
「描 けども成らず、描けども成らず」と椽 に端居 して天下晴れて胡坐 かけるが繰り返す。兼ねて覚えたる禅語 にて即興なれば間に合わすつもりか。剛 き髪を五分 に刈りて髯貯 えぬ丸顔を傾けて「描けども、描けども、夢なれば、描けども、成りがたし」と高らかに誦 し了 って、からからと笑いながら、室 の中なる女を顧 みる。
竹籠 に熱き光りを避けて、微 かにともすランプを隔てて、右手に違い棚、前は緑り深き庭に向えるが女である。
「画家ならば絵にもしましょ。女ならば絹を枠 に張って、縫いにとりましょ」と云いながら、白地の浴衣 に片足をそと崩 せば、小豆皮 の座布団 を白き甲が滑 り落ちて、なまめかしからぬほどは艶 なる居ずまいとなる。
「美しき多くの人の、美しき多くの夢を……」と膝 抱 く男が再び吟じ出すあとにつけて「縫いにやとらん。縫いとらば誰に贈らん。贈らん誰に」と女は態 とらしからぬ様 ながらちょと笑う。やがて朱塗の団扇 の柄 にて、乱れかかる頬 の黒髪をうるさしとばかり払えば、柄 の先につけたる紫のふさが波を打って、緑り濃き香油の薫 りの中に躍 り入る。
「我に贈れ」と髯なき人が、すぐ言い添えてまたからからと笑う。女の頬には乳色の底から捕えがたき笑の渦 が浮き上って、瞼 にはさっと薄き紅 を溶 く。
「縫えばどんな色で」と髯あるは真面目 にきく。
「絹買えば白き絹、糸買えば銀の糸、金の糸、消えなんとする虹 の糸、夜と昼との界 なる夕暮の糸、恋の色、恨 みの色は無論ありましょ」と女は眼をあげて床柱 の方を見る。愁 を溶 いて錬 り上げし珠 の、烈 しき火には堪 えぬほどに涼しい。愁の色は昔 しから黒である。
隣へ通う路次 を境に植え付けたる四五本の檜 に雲を呼んで、今やんだ五月雨 がまたふり出す。丸顔の人はいつか布団 を捨てて椽 より両足をぶら下げている。「あの木立 は枝を卸 した事がないと見える。梅雨 もだいぶ続いた。よう飽きもせずに降るの」と独 り言 のように言いながら、ふと思い出した体 にて、吾 が膝頭 を丁々 と平手をたてに切って敲 く。「脚気 かな、脚気かな」
残る二人は夢の詩か、詩の夢か、ちょと解しがたき話しの緒 をたぐる。
「女の夢は男の夢よりも美くしかろ」と男が云えば「せめて夢にでも美くしき国へ行かねば」とこの世は汚 れたりと云える顔つきである。「世の中が古くなって、よごれたか」と聞けば「よごれました」と□扇 に軽 く玉肌 を吹く。「古き壺 には古き酒があるはず、味 いたまえ」と男も鵞鳥 の翼 を畳 んで紫檀 の柄 をつけたる羽団扇 で膝のあたりを払う。「古き世に酔えるものなら嬉 しかろ」と女はどこまでもすねた体である。
この時「脚気かな、脚気かな」としきりにわが足を玩 べる人、急に膝頭をうつ手を挙 げて、叱 と二人を制する。三人の声が一度に途切れる間をククーと鋭どき鳥が、檜の上枝 を掠 めて裏の禅寺の方へ抜ける。ククー。
「あの声がほととぎすか」と羽団扇を棄 ててこれも椽側 へ這 い出す。見上げる軒端 を斜めに黒い雨が顔にあたる。脚気を気にする男は、指を立てて坤 の方 をさして「あちらだ」と云う。鉄牛寺 の本堂の上あたりでククー、ククー。
「一声 でほととぎすだと覚 る。二声で好い声だと思うた」と再び床柱に倚 りながら嬉しそうに云う。この髯男は杜鵑 を生れて初めて聞いたと見える。「ひと目見てすぐ惚 れるのも、そんな事でしょか」と女が問をかける。別に恥 ずかしと云う気色 も見えぬ。五分刈 は向き直って「あの声は胸がすくよだが、惚れたら胸は痞 えるだろ。惚れぬ事。惚れぬ事……。どうも脚気らしい」と拇指 で向脛 へ力穴 をあけて見る。「九仞 の上に一簣 を加える。加えぬと足らぬ、加えると危 うい。思う人には逢 わぬがましだろ」と羽団扇 がまた動く。「しかし鉄片が磁石に逢 うたら?」「はじめて逢うても会釈 はなかろ」と拇指の穴を逆 に撫 でて澄ましている。
「見た事も聞いた事もないに、これだなと認識するのが不思議だ」と仔細 らしく髯を撚 る。「わしは歌麻呂 のかいた美人を認識したが、なんと画 を活 かす工夫はなかろか」とまた女の方を向く。「私 には――認識した御本人でなくては」と団扇のふさを繊 い指に巻きつける。「夢にすれば、すぐに活 きる」と例の髯が無造作 に答える。「どうして?」「わしのはこうじゃ」と語り出そうとする時、蚊遣火 が消えて、暗きに潜 めるがつと出でて頸筋 にあたりをちくと刺す。
「灰が湿 っているのか知らん」と女が蚊遣筒を引き寄せて蓋 をとると、赤い絹糸で括 りつけた蚊遣灰が燻 りながらふらふらと揺れる。東隣で琴 と尺八を合せる音が紫陽花 の茂みを洩 れて手にとるように聞え出す。すかして見ると明け放ちたる座敷の灯 さえちらちら見える。「どうかな」と一人が云うと「人並じゃ」と一人が答える。女ばかりは黙っている。
「わしのはこうじゃ」と話しがまた元へ返る。火をつけ直した蚊遣の煙が、筒に穿 てる三つの穴を洩れて三つの煙となる。「今度はつきました」と女が云う。三つの煙りが蓋 の上に塊 まって茶色の球 が出来ると思うと、雨を帯びた風が颯 と来て吹き散らす。塊まらぬ間 に吹かるるときには三つの煙りが三つの輪を描 いて、黒塗に蒔絵 を散らした筒の周囲 を遶 る。あるものは緩 く、あるものは疾 く遶る。またある時は輪さえ描く隙 なきに乱れてしまう。「荼毘 だ、荼毘だ」と丸顔の男は急に焼場の光景を思い出す。「蚊 の世界も楽じゃなかろ」と女は人間を蚊に比較する。元へ戻りかけた話しも蚊遣火と共に吹き散らされてしもうた。話しかけた男は別に語りつづけようともせぬ。世の中はすべてこれだと疾 うから知っている。
「御夢の物語りは」とややありて女が聞く。男は傍 らにある羊皮 の表紙に朱で書名を入れた詩集をとりあげて膝の上に置く。読みさした所に象牙 を薄く削 った紙 小刀 が挟 んである。巻 に余って長く外へ食 み出した所だけは細かい汗をかいている。指の尖 で触 ると、ぬらりとあやしい字が出来る。「こう湿気 てはたまらん」と眉 をひそめる。女も「じめじめする事」と片手に袂 の先を握って見て、「香 でも焚 きましょか」と立つ。夢の話しはまた延びる。
宣徳 の香炉 に紫檀 の蓋があって、紫檀の蓋の真中には猿を彫 んだ青玉 のつまみ手がついている。女の手がこの蓋にかかったとき「あら蜘蛛 が」と云うて長い袖 が横に靡 く、二人の男は共に床 の方を見る。香炉に隣る白磁 の瓶 には蓮 の花がさしてある。昨日 の雨を蓑 着て剪 りし人の情 けを床 に眺 むる莟 は一輪、巻葉は二つ。その葉を去る三寸ばかりの上に、天井から白金 の糸を長く引いて一匹の蜘蛛 が――すこぶる雅 だ。
「蓮の葉に蜘蛛下 りけり香を焚 く」と吟じながら女一度に数弁 を攫 んで香炉の裏 になげ込む。「□蛸 懸 不揺 、篆煙 遶竹梁 」と誦 して髯 ある男も、見ているままで払わんともせぬ。蜘蛛も動かぬ。ただ風吹く毎に少しくゆれるのみである。
「夢の話しを蜘蛛もききに来たのだろ」と丸い男が笑うと、「そうじゃ夢に画 を活 かす話しじゃ。ききたくば蜘蛛も聞け」と膝の上なる詩集を読む気もなしに開く。眼は文字 の上に落つれども瞳裏 に映ずるは詩の国の事か。夢の国の事か。
「百二十間の廻廊があって、百二十個の灯籠 をつける。百二十間の廻廊に春の潮 が寄せて、百二十個の灯籠が春風 にまたたく、朧 の中、海の中には大きな華表 が浮かばれぬ巨人の化物 のごとくに立つ。……」
折から烈 しき戸鈴 の響がして何者か門口 をあける。話し手ははたと話をやめる。残るはちょと居ずまいを直す。誰も這入 って来た気色 はない。「隣だ」と髯 なしが云う。やがて渋蛇 の目を開く音がして「また明晩」と若い女の声がする。「必ず」と答えたのは男らしい。三人は無言のまま顔を見合せて微 かに笑う。「あれは画じゃない、活きている」「あれを平面につづめればやはり画だ」「しかしあの声は?」「女は藤紫」「男は?」「そうさ」と判じかねて髯が女の方を向く。女は「緋 」と賤 しむごとく答える。
「百二十間の廻廊に二百三十五枚の額が懸 って、その二百三十二枚目の額に画 いてある美人の……」
「声は黄色ですか茶色ですか」と女がきく。
「そんな単調な声じゃない。色には直 せぬ声じゃ。強 いて云えば、ま、あなたのような声かな」
「ありがとう」と云う女の眼の中 には憂をこめて笑の光が漲 ぎる。
この時いずくよりか二疋 の蟻 が這 い出して一疋は女の膝 の上に攀 じ上 る。おそらくは戸迷 いをしたものであろう。上がり詰めた上には獲物 もなくて下 り路 をすら失うた。女は驚ろいた様 もなく、うろうろする黒きものを、そと白き指で軽く払い落す。落されたる拍子 に、はたと他の一疋と高麗縁 の上で出逢 う。しばらくは首と首を合せて何かささやき合えるようであったが、このたびは女の方へは向わず、古伊万里 の菓子皿を端 まで同行して、ここで右と左へ分れる。三人の眼は期せずして二疋の蟻の上に落つる。髯なき男がやがて云う。
「八畳の座敷があって、三人の客が坐わる。一人の女の膝へ一疋の蟻が上る。一疋の蟻が上った美人の手は……」
「白い、蟻は黒い」と髯がつける。三人が斉 しく笑う。一疋の蟻は灰吹 を上りつめて絶頂で何か思案している。残るは運よく菓子器の中で葛餅 に邂逅 して嬉しさの余りか、まごまごしている気合 だ。
「その画 にかいた美人が?」と女がまた話を戻す。
「波さえ音もなき朧月夜 に、ふと影がさしたと思えばいつの間 にか動き出す。長く連 なる廻廊を飛ぶにもあらず、踏むにもあらず、ただ影のままにて動く」
「顔は」と髯なしが尋ねる時、再び東隣りの合奏が聞え出す。一曲は疾 くにやんで新たなる一曲を始めたと見える。あまり旨 くはない。
「蜜を含んで針を吹く」と一人が評すると
「ビステキの化石を食わせるぞ」と一人が云う。
「造り花なら蘭麝 でも焚 き込めばなるまい」これは女の申し分だ。三人が三様 の解釈をしたが、三様共すこぶる解しにくい。
「珊瑚 の枝は海の底、薬を飲んで毒を吐く軽薄の児 」と言いかけて吾に帰りたる髯が「それそれ。合奏より夢の続きが肝心 じゃ。――画から抜けだした女の顔は……」とばかりで口ごもる。
「描 けども成らず、描けども成らず」と丸き男は調子をとりて軽く銀椀 を叩 く。葛餅を獲 たる蟻はこの響きに度を失して菓子椀の中を右左 りへ馳 け廻る。
「蟻の夢が醒 めました」と女は夢を語る人に向って云う。
「蟻の夢は葛餅か」と相手は高からぬほどに笑う。
「抜け出ぬか、抜け出ぬか」としきりに菓子器を叩くは丸い男である。
「画から女が抜け出るより、あなたが画になる方が、やさしゅう御座んしょ」と女はまた髯にきく。
「それは気がつかなんだ、今度からは、こちが画になりましょ」と男は平気で答える。
「蟻も葛餅にさえなれば、こんなに狼狽 えんでも済む事を」と丸い男は椀をうつ事をやめて、いつの間にやら葉巻を鷹揚 にふかしている。
五月雨 に四尺伸びたる女竹 の、手水鉢 の上に蔽 い重なりて、余れる一二本は高く軒に逼 れば、風誘うたびに戸袋をすって椽 の上にもはらはらと所択 ばず緑りを滴 らす。「あすこに画がある」と葉巻の煙をぷっとそなたへ吹きやる。
床柱 に懸 けたる払子 の先には焚 き残る香 の煙りが染 み込んで、軸は若冲 の蘆雁 と見える。雁 の数は七十三羽、蘆 は固 より数えがたい。籠 ランプの灯 を浅く受けて、深さ三尺の床 なれば、古き画のそれと見分けのつかぬところに、あからさまならぬ趣 がある。「ここにも画が出来る」と柱に靠 れる人が振り向きながら眺 める。
女は洗えるままの黒髪を肩に流して、丸張りの絹団扇 を軽 く揺 がせば、折々は鬢 のあたりに、そよと乱るる雲の影、収まれば淡き眉 の常よりもなお晴れやかに見える。桜の花を砕いて織り込める頬の色に、春の夜の星を宿せる眼を涼しく見張りて「私 も画 になりましょか」と云う。はきと分らねど白地に葛 の葉を一面に崩して染め抜きたる浴衣 の襟 をここぞと正せば、暖かき大理石にて刻 めるごとき頸筋 が際立 ちて男の心を惹 く。
「そのまま、そのまま、そのままが名画じゃ」と一人が云うと
「動くと画が崩れます」と一人が注意する。
「画になるのもやはり骨が折れます」と女は二人の眼を嬉しがらしょうともせず、膝に乗せた右手をいきなり後 ろへ廻 わして体をどうと斜めに反 らす。丈 長き黒髪がきらりと灯 を受けて、さらさらと青畳に障 る音さえ聞える。
「南無三、好事 魔多し」と髯ある人が軽 く膝頭を打つ。「刹那 に千金を惜しまず」と髯なき人が葉巻の飲 み殻 を庭先へ抛 きつける。隣りの合奏はいつしかやんで、樋 を伝う雨点 の音のみが高く響く。蚊遣火 はいつの間 にやら消えた。
「夜もだいぶ更 けた」
「ほととぎすも鳴かぬ」
「寝ましょか」
夢の話しはつい中途で流れた。三人は思い思いに臥床 に入る。
三十分の後 彼らは美くしき多くの人の……と云う句も忘れた。ククーと云う声も忘れた。蜜を含んで針を吹く隣りの合奏も忘れた、蟻の灰吹 を攀 じ上 った事も、蓮 の葉に下りた蜘蛛 の事も忘れた。彼らはようやく太平に入る。
すべてを忘れ尽したる後女はわがうつくしき眼と、うつくしき髪の主 である事を忘れた。一人の男は髯のある事を忘れた。他の一人は髯のない事を忘れた。彼らはますます太平である。
昔 し阿修羅 が帝釈天 と戦って敗れたときは、八万四千の眷属 を領して藕糸孔中 に入 って蔵 れたとある。維摩 が方丈の室に法を聴ける大衆は千か万かその数を忘れた。胡桃 の裏 に潜 んで、われを尽大千世界 の王とも思わんとはハムレットの述懐と記憶する。粟粒芥顆 のうちに蒼天 もある、大地もある。一世 師に問うて云う、分子 は箸 でつまめるものですかと。分子はしばらく措 く。天下は箸の端 にかかるのみならず、一たび掛け得れば、いつでも胃の中に収まるべきものである。
また思う百年は一年のごとく、一年は一刻のごとし。一刻を知ればまさに人生を知る。日は東より出でて必ず西に入る。月は盈 つればかくる。いたずらに指を屈して白頭に到 るものは、いたずらに茫々 たる時に身神を限らるるを恨 むに過ぎぬ。日月は欺 くとも己れを欺くは智者とは云われまい。一刻に一刻を加うれば二刻と殖 えるのみじゃ。蜀川 十様の錦、花を添えて、いくばくの色をか変ぜん。
八畳の座敷に髯のある人と、髯のない人と、涼しき眼の女が会して、かくのごとく一夜 を過した。彼らの一夜を描 いたのは彼らの生涯 を描いたのである。
なぜ三人が落ち合った? それは知らぬ。三人はいかなる身分と素性 と性格を有する? それも分らぬ。三人の言語動作を通じて一貫した事件が発展せぬ? 人生を書いたので小説をかいたのでないから仕方がない。なぜ三人とも一時に寝た? 三人とも一時に眠くなったからである。
「
「画家ならば絵にもしましょ。女ならば絹を
「美しき多くの人の、美しき多くの夢を……」と
「我に贈れ」と髯なき人が、すぐ言い添えてまたからからと笑う。女の頬には乳色の底から捕えがたき笑の
「縫えばどんな色で」と髯あるは
「絹買えば白き絹、糸買えば銀の糸、金の糸、消えなんとする
隣へ通う
残る二人は夢の詩か、詩の夢か、ちょと解しがたき話しの
「女の夢は男の夢よりも美くしかろ」と男が云えば「せめて夢にでも美くしき国へ行かねば」とこの世は
この時「脚気かな、脚気かな」としきりにわが足を
「あの声がほととぎすか」と羽団扇を
「
「見た事も聞いた事もないに、これだなと認識するのが不思議だ」と
「灰が
「わしのはこうじゃ」と話しがまた元へ返る。火をつけ直した蚊遣の煙が、筒に
「御夢の物語りは」とややありて女が聞く。男は
「蓮の葉に蜘蛛
「夢の話しを蜘蛛もききに来たのだろ」と丸い男が笑うと、「そうじゃ夢に
「百二十間の廻廊があって、百二十個の
折から
「百二十間の廻廊に二百三十五枚の額が
「声は黄色ですか茶色ですか」と女がきく。
「そんな単調な声じゃない。色には
「ありがとう」と云う女の眼の
この時いずくよりか二
「八畳の座敷があって、三人の客が坐わる。一人の女の膝へ一疋の蟻が上る。一疋の蟻が上った美人の手は……」
「白い、蟻は黒い」と髯がつける。三人が
「その
「波さえ音もなき
「顔は」と髯なしが尋ねる時、再び東隣りの合奏が聞え出す。一曲は
「蜜を含んで針を吹く」と一人が評すると
「ビステキの化石を食わせるぞ」と一人が云う。
「造り花なら
「
「
「蟻の夢が
「蟻の夢は葛餅か」と相手は高からぬほどに笑う。
「抜け出ぬか、抜け出ぬか」としきりに菓子器を叩くは丸い男である。
「画から女が抜け出るより、あなたが画になる方が、やさしゅう御座んしょ」と女はまた髯にきく。
「それは気がつかなんだ、今度からは、こちが画になりましょ」と男は平気で答える。
「蟻も葛餅にさえなれば、こんなに
女は洗えるままの黒髪を肩に流して、丸張りの
「そのまま、そのまま、そのままが名画じゃ」と一人が云うと
「動くと画が崩れます」と一人が注意する。
「画になるのもやはり骨が折れます」と女は二人の眼を嬉しがらしょうともせず、膝に乗せた右手をいきなり
「南無三、
「夜もだいぶ
「ほととぎすも鳴かぬ」
「寝ましょか」
夢の話しはつい中途で流れた。三人は思い思いに
三十分の
すべてを忘れ尽したる後女はわがうつくしき眼と、うつくしき髪の
また思う百年は一年のごとく、一年は一刻のごとし。一刻を知ればまさに人生を知る。日は東より出でて必ず西に入る。月は
八畳の座敷に髯のある人と、髯のない人と、涼しき眼の女が会して、かくのごとく
なぜ三人が落ち合った? それは知らぬ。三人はいかなる身分と
(三十八年七月二十六日)
声明:本文内容均来自青空文库,仅供学习使用。"沪江网"高度重视知识产权保护。当如发现本网站发布的信息包含有侵犯其著作权的内容时,请联系我们,我们将依法采取措施移除相关内容或屏蔽相关链接。