日语文学作品赏析《或敵打の話》
作者:芥川龍之介
来源:青空文库
2010-01-06 00:00
発端
肥後 の細川家 の家中 に、田岡甚太夫 と云う侍 がいた。これは以前日向 の伊藤家の浪人であったが、当時細川家の番頭 に陞 っていた内藤三左衛門 の推薦で、新知 百五十石 に召し出されたのであった。
ところが寛文 七年の春、家中 の武芸の仕合 があった時、彼は表芸 の槍術 で、相手になった侍を六人まで突き倒した。その仕合には、越中守 綱利 自身も、老職一同と共に臨んでいたが、余り甚太夫の槍が見事なので、さらに剣術の仕合をも所望 した。甚太夫は竹刀 を執 って、また三人の侍を打ち据えた。四人目には家中の若侍に、新陰流 の剣術を指南している瀬沼兵衛 が相手になった。甚太夫は指南番の面目 を思って、兵衛に勝を譲ろうと思った。が、勝を譲ったと云う事が、心あるものには分るように、手際よく負けたいと云う気もないではなかった。兵衛は甚太夫と立合いながら、そう云う心もちを直覚すると、急に相手が憎 くなった。そこで甚太夫がわざと受太刀 になった時、奮然と一本突きを入れた。甚太夫は強く喉 を突かれて、仰向 けにそこへ倒れてしまった。その容子 がいかにも見苦しかった。綱利 は彼の槍術を賞しながら、この勝負があった後 は、甚 不興気 な顔をしたまま、一言 も彼を犒 わなかった。
甚太夫の負けざまは、間もなく蔭口 の的になった。「甚太夫は戦場へ出て、槍の柄を切り折られたら何とする。可哀 や剣術は竹刀 さえ、一人前には使えないそうな。」――こんな噂 が誰云うとなく、たちまち家中 に広まったのであった。それには勿論同輩の嫉妬 や羨望 も交 っていた。が、彼を推挙した内藤三左衛門 の身になって見ると、綱利の手前へ対しても黙っている訳には行かなかった。そこで彼は甚太夫を呼んで、「ああ云う見苦しい負を取られては、拙者の眼がね違いばかりではすまされぬ。改めて三本勝負を致されるか、それとも拙者が殿への申訳けに切腹しようか。」とまで激語した。家中の噂を聞き流していたのでは、甚太夫も武士が立たなかった。彼はすぐに三左衛門の意を帯して、改めて指南番瀬沼兵衛 と三本勝負をしたいと云う願書 を出した。
日ならず二人は綱利の前で、晴れの仕合 をする事になった。始 は甚太夫が兵衛の小手 を打った。二度目は兵衛が甚太夫の面 を打った。が、三度目にはまた甚太夫が、したたか兵衛の小手を打った。綱利は甚太夫を賞するために、五十石 の加増を命じた。兵衛は蚯蚓腫 になった腕を撫 でながら、悄々 綱利の前を退いた。
それから三四日経ったある雨の夜 、加納平太郎 と云う同家中 の侍が、西岸寺 の塀外 で暗打ちに遇 った。平太郎は知行 二百石の側役 で、算筆 に達した老人であったが、平生 の行状から推して見ても、恨 を受けるような人物では決してなかった。が、翌日瀬沼兵衛の逐天 した事が知れると共に、始めてその敵 が明かになった。甚太夫と平太郎とは、年輩こそかなり違っていたが、背恰好 はよく似寄っていた。その上定紋 は二人とも、同じ丸に抱 き明姜 であった。兵衛はまず供の仲間 が、雨の夜路を照らしている提灯 の紋に欺 かれ、それから合羽 に傘 をかざした平太郎の姿に欺かれて、粗忽 にもこの老人を甚太夫と誤って殺したのであった。
平太郎には当時十七歳の、求馬 と云う嫡子 があった。求馬は早速公 の許 を得て、江越喜三郎 と云う若党と共に、当時の武士の習慣通り、敵打 の旅に上 る事になった。甚太夫は平太郎の死に責任の感を免 れなかったのか、彼もまた後見 のために旅立ちたい旨を申し出でた。と同時に求馬と念友 の約があった、津崎左近 と云う侍も、同じく助太刀 の儀を願い出した。綱利は奇特 の事とあって、甚太夫の願は許したが、左近の云い分は取り上げなかった。
求馬は甚太夫喜三郎の二人と共に、父平太郎の初七日 をすますと、もう暖国の桜は散り過ぎた熊本 の城下を後にした。
一
津崎左近 は助太刀の請 を却 けられると、二三日家に閉じこもっていた。兼ねて求馬 と取換した起請文 の面 を反故 にするのが、いかにも彼にはつらく思われた。のみならず朋輩 たちに、後指 をさされはしないかと云う、懸念 も満更ないではなかった。が、それにも増して堪え難かったのは、念友 の求馬を唯一人甚太夫 に託すと云う事であった。そこで彼は敵打 の一行 が熊本の城下を離れた夜 、とうとう一封の書を家に遺して、彼等の後 を慕うべく、双親 にも告げず家出をした。
彼は国境 を離れると、すぐに一行に追いついた。一行はその時、ある山駅 の茶店に足を休めていた。左近はまず甚太夫の前へ手をつきながら、幾重 にも同道を懇願した。甚太夫は始 は苦々 しげに、「身どもの武道では心もとないと御思いか。」と、容易 に承 け引く色を示さなかった。が、しまいには彼も我 を折って、求馬の顔を尻眼にかけながら、喜三郎 の取りなしを機会 にして、左近の同道を承諾した。まだ前髪 の残っている、女のような非力 の求馬は、左近をも一行に加えたい気色 を隠す事が出来なかったのであった。左近は喜びの余り眼に涙を浮べて、喜三郎にさえ何度となく礼の言葉を繰返 していた。
一行四人は兵衛 の妹壻 が浅野家 の家中にある事を知っていたから、まず文字 が関 の瀬戸 を渡って、中国街道 をはるばると広島の城下まで上って行った。が、そこに滞在して、敵 の在処 を探 る内に、家中の侍 の家へ出入 する女の針立 の世間話から、兵衛は一度広島へ来て後 、妹壻の知るべがある予州 松山 へ密々に旅立ったと云う事がわかった。そこで敵打の一行はすぐに伊予船 の便 を求めて、寛文 七年の夏の最中 、恙 なく松山の城下へはいった。
松山に渡った一行は、毎日編笠 を深くして、敵の行方 を探して歩いた。しかし兵衛も用心が厳しいと見えて、容易に在処を露 さなかった。一度左近が兵衛らしい梵論子 の姿に目をつけて、いろいろ探りを入れて見たが、結局何の由縁 もない他人だと云う事が明かになった。その内にもう秋風が立って、城下の屋敷町の武者窓の外には、溝を塞 いでいた藻 の下から、追い追い水の色が拡がって来た。それにつれて一行の心には、だんだん焦燥の念が動き出した。殊に左近は出合いをあせって、ほとんど昼夜の嫌いなく、松山の内外を窺 って歩いた。敵打の初太刀 は自分が打ちたい。万一甚太夫に遅れては、主親 をも捨てて一行に加わった、武士たる自分の面目 が立たぬ。――彼はこう心の内に、堅く思いつめていたのであった。
松山へ来てから二月 余り後 、左近はその甲斐 があって、ある日城下に近い海岸を通りかかると、忍駕籠 につき添うた二人の若党が、漁師たちを急がせて、舟を仕立てているのに遇 った。やがて舟の仕度が出来たと見えて、駕籠 の中の侍が外へ出た。侍はすぐに編笠をかぶったが、ちらりと見た顔貌 は瀬沼兵衛に紛 れなかった。左近は一瞬間ためらった。ここに求馬が居合せないのは、返えす返えすも残念である。が、今兵衛を打たなければ、またどこかへ立ち退 いてしまう。しかも海路を立ち退くとあれば、行 く方 をつき止める事も出来ないのに違いない。これは自分一人でも、名乗 をかけて打たねばならぬ。――左近はこう咄嗟 に決心すると、身仕度をする間も惜しいように、編笠をかなぐり捨てるが早いか、「瀬沼兵衛 、加納求馬 が兄分、津崎左近が助太刀 覚えたか。」と呼びかけながら、刀を抜き放って飛びかかった。が、相手は編笠をかぶったまま、騒ぐ気色もなく左近を見て、「うろたえ者め。人違いをするな。」と叱りつけた。左近は思わず躊躇 した。その途端に侍の手が刀の柄前 にかかったと思うと、重 ね厚 の大刀が大袈裟 に左近を斬り倒した。左近は尻居に倒れながら、目深 くかぶった編笠の下に、始めて瀬沼兵衛の顔をはっきり見る事が出来たのであった。
二
左近 を打たせた三人の侍は、それからかれこれ二年間、敵 兵衛 の行 く方 を探って、五畿内 から東海道をほとんど隈 なく遍歴した。が、兵衛の消息は、杳 として再び聞えなかった。
寛文 九年の秋、一行は落ちかかる雁 と共に、始めて江戸の土を踏んだ。江戸は諸国の老若貴賤 が集まっている所だけに、敵の手がかりを尋ねるのにも、何かと便宜が多そうであった。そこで彼等はまず神田の裏町 に仮の宿を定めてから甚太夫 は怪しい謡 を唱って合力 を請う浪人になり、求馬 は小間物 の箱を背負 って町家 を廻る商人 に化け、喜三郎 は旗本 能勢惣右衛門 へ年期切 りの草履取 りにはいった。
求馬は甚太夫とは別々に、毎日府内をさまよって歩いた。物慣れた甚太夫は破れ扇に鳥目 を貰いながら、根気よく盛り場を窺 いまわって、さらに倦 む気色 も示さなかった。が、年若な求馬の心は、編笠に憔 れた顔を隠して、秋晴れの日本橋 を渡る時でも、結局彼等の敵打 は徒労に終ってしまいそうな寂しさに沈み勝ちであった。
その内に筑波颪 しがだんだん寒さを加え出すと、求馬は風邪 が元になって、時々熱が昂 ぶるようになった。が、彼は悪感 を冒しても、やはり日毎に荷を負うて、商 に出る事を止めなかった。甚太夫は喜三郎の顔を見ると、必ず求馬のけなげさを語って、この主 思いの若党の眼に涙を催させるのが常であった。しかし彼等は二人とも、病さえ静に養うに堪えない求馬の寂しさには気がつかなかった。
やがて寛文十年の春が来た。求馬はその頃から人知れず、吉原の廓 に通い出した。相方 は和泉屋 の楓 と云う、所謂 散茶女郎 の一人であった。が、彼女は勤めを離れて、心から求馬のために尽した。彼も楓のもとへ通っている内だけ、わずかに落莫とした心もちから、自由になる事が出来たのであった。
渋谷 の金王桜 の評判が、洗湯 の二階に賑わう頃、彼は楓の真心に感じて、とうとう敵打 の大事を打ち明けた。すると思いがけなく彼女の口から、兵衛らしい侍が松江 藩の侍たちと一しょに、一月 ばかり以前和泉屋へ遊びに来たと云う事がわかった。幸 、その侍の相方 の籤 を引いた楓は、面体 から持ち物まで、かなりはっきりした記憶を持っていた。のみならず彼が二三日中 に、江戸を立って雲州 松江 へ赴 こうとしている事なぞも、ちらりと小耳 に挟んでいた。求馬は勿論喜んだ。が、再び敵打の旅に上るために、楓と当分――あるいは永久に別れなければならない事を思うと、自然求馬の心は勇まなかった。彼はその日彼女を相手に、いつもに似合わず爛酔 した。そうして宿へ帰って来ると、すぐに夥 しく血を吐いた。
求馬は翌日から枕についた。が、何故 か敵 の行方 が略 わかった事は、一言 も甚太夫には話さなかった。甚太夫は袖乞 いに出る合い間を見ては、求馬の看病にも心を尽した。ところがある日葺屋町 の芝居小屋などを徘徊 して、暮方宿へ帰って見ると、求馬は遺書を啣 えたまま、もう火のはいった行燈 の前に、刀を腹へ突き立てて、無残な最後を遂げていた。甚太夫はさすがに仰天 しながら、ともかくもその遺書を開いて見た。遺書には敵の消息と自刃 の仔細 とが認 めてあった。「私儀 柔弱 多病につき、敵打の本懐も遂げ難きやに存ぜられ候間 ……」――これがその仔細の全部であった。しかし血に染んだ遺書の中には、もう一通の書面が巻きこんであった。甚太夫はこの書面へ眼を通すと、おもむろに行燈をひき寄せて、燈心 の火をそれへ移した。火はめらめらと紙を焼いて、甚太夫の苦 い顔を照らした。
書面は求馬が今年 の春、楓 と二世 の約束をした起請文 の一枚であった。
三
寛文 十年の夏、甚太夫 は喜三郎 と共に、雲州松江の城下へはいった。始めて大橋 の上に立って、宍道湖 の天に群 っている雲の峰を眺めた時、二人の心には云い合せたように、悲壮な感激が催された。考えて見れば一行は、故郷の熊本を後にしてから、ちょうどこれで旅の空に四度目の夏を迎えるのであった。
彼等はまず京橋 界隈 の旅籠 に宿を定めると、翌日からすぐに例のごとく、敵の所在を窺い始めた。するとそろそろ秋が立つ頃になって、やはり松平家 の侍に不伝流 の指南をしている、恩地小左衛門 と云う侍の屋敷に、兵衛 らしい侍のかくまわれている事が明かになった。二人は今度こそ本望が達せられると思った。いや、達せずには置かないと思った。殊に甚太夫はそれがわかった日から、時々心頭に抑え難い怒と喜を感ぜずにはいられなかった。兵衛はすでに平太郎 一人の敵 ではなく、左近 の敵でもあれば、求馬 の敵でもあった。が、それよりも先にこの三年間、彼に幾多の艱難を嘗 めさせた彼自身の怨敵 であった。――甚太夫はそう思うと、日頃沈着な彼にも似合わず、すぐさま恩地の屋敷へ踏みこんで、勝負を決したいような心もちさえした。
しかし恩地小左衛門は、山陰 に名だたる剣客であった。それだけにまた彼の手足 となる門弟の数も多かった。甚太夫はそこで惴 りながらも、兵衛が一人外出する機会を待たなければならなかった。
機会は容易に来なかった。兵衛はほとんど昼夜とも、屋敷にとじこもっているらしかった。その内に彼等の旅籠 の庭には、もう百日紅 の花が散って、踏石 に落ちる日の光も次第に弱くなり始めた。二人は苦しい焦燥の中に、三年以前返り打に遇った左近の祥月命日 を迎えた。喜三郎はその夜 、近くにある祥光院 の門を敲 いて和尚 に仏事を修して貰った。が、万一を慮 って、左近の俗名 は洩 らさずにいた。すると寺の本堂に、意外にも左近と平太郎との俗名を記した位牌 があった。喜三郎は仏事が終ってから、何気 ない風を装 って、所化 にその位牌の由縁 を尋ねた。ところがさらに意外な事には、祥光院の檀家たる恩地小左衛門のかかり人 が、月に二度の命日には必ず回向 に来ると云う答があった。「今日も早くに見えました。」――所化は何も気がつかないように、こんな事までもつけ加えた。喜三郎は寺の門を出ながら、加納 親子や左近の霊が彼等に冥助 を与えているような、気強さを感ぜずにはいられなかった。
甚太夫は喜三郎の話を聞きながら、天運の到来を祝すと共に、今まで兵衛の寺詣 でに気づかなかった事を口惜 しく思った。「もう八日 経てば、大檀那様 の御命日でございます。御命日に敵が打てますのも、何かの因縁でございましょう。」――喜三郎はこう云って、この喜ばしい話を終った。そんな心もちは甚太夫にもあった。二人はそれから行燈 を囲んで、夜もすがら左近や加納親子の追憶をさまざま語り合った。が、彼等の菩提 を弔 っている兵衛の心を酌 む事なぞは、二人とも全然忘却していた。
平太郎の命日は、一日毎に近づいて来た。二人は妬刃 を合せながら、心静 にその日を待った。今はもう敵打 は、成否の問題ではなくなっていた。すべての懸案はただその日、ただその時刻だけであった。甚太夫は本望 を遂 げた後 の、逃 き口 まで思い定めていた。
ついにその日の朝が来た。二人はまだ天が明けない内に、行燈 の光で身仕度をした。甚太夫は菖蒲革 の裁付 に黒紬 の袷 を重ねて、同じ紬の紋付の羽織の下に細い革の襷 をかけた。差料 は長谷部則長 の刀に来国俊 の脇差 しであった。喜三郎も羽織は着なかったが、肌 には着込みを纏 っていた。二人は冷酒 の盃を換 わしてから、今日までの勘定をすませた後、勢いよく旅籠 の門 を出た。
外はまだ人通りがなかった。二人はそれでも編笠に顔を包んで、兼ねて敵打の場所と定めた祥光院 の門前へ向った。ところが宿を離れて一二町行くと、甚太夫は急に足を止めて、「待てよ。今朝 の勘定は四文 釣銭が足らなかった。おれはこれから引き返して、釣銭の残りを取って来るわ。」と云った。喜三郎はもどかしそうに、「高 が四文のはした銭 ではございませんか。御戻りになるがものはございますまい。」と云って、一刻も早く鼻の先の祥光院まで行っていようとした。しかし甚太夫は聞かなかった。「鳥目 は元より惜しくはない。だが甚太夫ほどの侍も、敵打の前にはうろたえて、旅籠の勘定を誤ったとあっては、末代 までの恥辱になるわ。その方は一足先へ参れ。身どもは宿まで取って返そう。」――彼はこう云い放って、一人旅籠へ引き返した。喜三郎は甚太夫の覚悟に感服しながら、云われた通り自分だけ敵打の場所へ急いだ。
が、ほどなく甚太夫も、祥光院の門前に待っていた喜三郎と一しょになった。その日は薄雲が空に迷って、朧 げな日ざしはありながら、時々雨の降る天気であった。二人は両方に立ち別れて、棗 の葉が黄ばんでいる寺の塀外 を徘徊 しながら、勇んで兵衛の参詣を待った。
しかしかれこれ午 近くなっても、未 に兵衛は見えなかった。喜三郎はいら立って、さりげなく彼の参詣の有無を寺の門番に尋ねて見た。が、門番の答にも、やはり今日はどうしたのだか、まだ参られぬと云う事であった。
二人は惴 る心を静めて、じっと寺の外に立っていた。その間に時は用捨なく移って、やがて夕暮の色と共に、棗の実を食 み落す鴉 の声が、寂しく空に響くようになった。喜三郎は気を揉 んで、甚太夫の側へ寄ると、「一そ恩地の屋敷の外へ参って居りましょうか。」と囁いた。が、甚太夫は頭 を振って、許す気色 も見せなかった。
やがて寺の門の空には、這 い塞 った雲の間に、疎 な星影がちらつき出した。けれども甚太夫は塀に身を寄せて、執念 く兵衛を待ち続けた。実際敵を持つ兵衛の身としては、夜更 けに人知れず仏参をすます事がないとも限らなかった。
とうとう初夜 の鐘が鳴った。それから二更 の鐘が鳴った。二人は露に濡れながら、まだ寺のほとりを去らずにいた。
が、兵衛はいつまで経っても、ついに姿を現さなかった。
大団円
甚太夫 主従は宿を変えて、さらに兵衛 をつけ狙った。が、その後 四五日すると、甚太夫は突然真夜中から、烈しい吐瀉 を催し出した。喜三郎 は心配の余り、すぐにも医者を迎えたかったが、病人は大事の洩れるのを惧 れて、どうしてもそれを許さなかった。
甚太夫は枕に沈んだまま、買い薬を命に日を送った。しかし吐瀉は止まなかった。喜三郎はとうとう堪え兼ねて、一応医者の診脈 を請うべく、ようやく病人を納得させた。そこで取りあえず旅籠 の主人に、かかりつけの医者を迎えて貰った。主人はすぐに人を走らせて、近くに技 を売っている、松木蘭袋 と云う医者を呼びにやった。
蘭袋は向井霊蘭 の門に学んだ、神方 の名の高い人物であった。が、一方また豪傑肌 の所もあって、日夜杯 に親みながらさらに黄白 を意としなかった。「天雲 の上をかけるも谷水をわたるも鶴 のつとめなりけり」――こう自 ら歌ったほど、彼の薬を請うものは、上 は一藩の老職から、下 は露命も繋 ぎ難い乞食 非人 にまで及んでいた。
蘭袋は甚太夫の脈をとって見るまでもなく、痢病 と云う見立てを下 した。しかしこの名医の薬を飲むようになってもやはり甚太夫の病は癒 らなかった。喜三郎は看病の傍 、ひたすら諸々 の仏神に甚太夫の快方を祈願した。病人も夜長の枕元に薬を煮 る煙を嗅 ぎながら、多年の本望を遂げるまでは、どうかして生きていたいと念じていた。
秋は益 深くなった。喜三郎は蘭袋の家へ薬を取りに行く途中、群を成した水鳥が、屡 空を渡るのを見た。するとある日彼は蘭袋の家の玄関で、やはり薬を貰いに来ている一人の仲間 と落ち合った。それが恩地小左衛門 の屋敷のものだと云う事は、蘭袋の内弟子 と話している言葉にも自 ら明かであった。彼はその仲間が帰ってから、顔馴染 の内弟子に向って、「恩地殿のような武芸者も、病には勝てぬと見えますな。」と云った。「いえ、病人は恩地様ではありません。あそこに御出でになる御客人です。」――人の好さそうな内弟子は、無頓着にこう返事をした。
それ以来喜三郎は薬を貰いに行く度に、さりげなく兵衛の容子 を探った。ところがだんだん聞き出して見ると、兵衛はちょうど平太郎の命日頃から、甚太夫と同じ痢病のために、苦しんでいると云う事がわかった。して見れば兵衛が祥光院へ、あの日に限って詣 でなかったのも、その病のせいに違いなかった。甚太夫はこの話を聞くと、一層病苦に堪えられなくなった。もし兵衛が病死したら、勿論いくら打ちたくとも、敵 の打てる筈はなかった。と云って兵衛が生きたにせよ、彼自身が命を墜 したら、やはり永年の艱難は水泡に帰すのも同然であった。彼はついに枕 を噛 みながら、彼自身の快癒を祈ると共に、併せて敵 瀬沼兵衛 の快癒も祈らざるを得なかった。
が、運命は飽くまでも、田岡甚太夫に刻薄 であった。彼の病は重 りに重って、蘭袋 の薬を貰ってから、まだ十日と経たない内に、今日か明日かと云う容態 になった。彼はそう云う苦痛の中にも、執念 く敵打 の望を忘れなかった。喜三郎は彼の呻吟 の中に、しばしば八幡大菩薩 と云う言葉がかすかに洩れるのを聞いた。殊にある夜は喜三郎が、例のごとく薬を勧めると、甚太夫はじっと彼を見て、「喜三郎。」と弱い声を出した。それからまたしばらくして、「おれは命が惜しいわ。」と云った。喜三郎は畳へ手をついたまま、顔を擡 げる事さえ出来なかった。
その翌日、甚太夫は急に思い立って、喜三郎に蘭袋を迎えにやった。蘭袋はその日も酒気を帯びて、早速彼の病床を見舞った。「先生、永々の御介抱、甚太夫辱 く存じ申す。」――彼は蘭袋の顔を見ると、床 の上に起直 って、苦しそうにこう云った。「が、身ども息のある内に、先生を御見かけ申し、何分願いたい一儀がござる。御聞き届け下さりょうか。」蘭袋は快く頷 いた。すると甚太夫は途切 れ途切れに、彼が瀬沼兵衛をつけ狙 う敵打の仔細 を話し出した。彼の声はかすかであったが、言葉は長物語の間にも、さらに乱れる容子 がなかった。蘭袋は眉をひそめながら、熱心に耳を澄ませていた。が、やがて話が終ると、甚太夫はもう喘 ぎながら、「身ども今生 の思い出には、兵衛の容態 が承 りとうござる。兵衛はまだ存命でござるか。」と云った。喜三郎はすでに泣いていた。蘭袋もこの言葉を聞いた時には、涙が抑えられないようであった。しかし彼は膝を進ませると、病人の耳へ口をつけるようにして、「御安心めされい。兵衛殿の臨終は、今朝 寅 の上刻 に、愚老確かに見届け申した。」と云った。甚太夫の顔には微笑が浮んだ。それと同時に窶 れた頬 へ、冷たく涙の痕 が見えた。「兵衛――兵衛は冥加 な奴でござる。」――甚太夫は口惜 しそうに呟 いたまま、蘭袋に礼を云うつもりか、床の上へ乱れた頭 を垂れた。そうしてついに空しくなった。……
寛文 十年陰暦 十月の末、喜三郎は独り蘭袋に辞して、故郷熊本へ帰る旅程に上 った。彼の振分 けの行李 の中には、求馬 左近 甚太夫 の三人の遺髪がはいっていた。
後談
寛文 十一年の正月、雲州 松江 祥光院 の墓所 には、四基 の石塔が建てられた。施主は緊 く秘したと見えて、誰も知っているものはなかった。が、その石塔が建った時、二人の僧形 が紅梅 の枝を提 げて、朝早く祥光院の門をくぐった。
その一人は城下に名高い、松木蘭袋 に紛 れなかった。もう一人の僧形は、見る影もなく病み耄 けていたが、それでも凛々 しい物ごしに、どこか武士らしい容子 があった。二人は墓前に紅梅の枝を手向 けた。それから新しい四基の石塔に順々に水を注いで行った。……
後年黄檗慧林 の会下 に、当時の病み耄けた僧形とよく似寄った老衲子 がいた。これも順鶴 と云う僧名 のほかは、何も素性 の知れない人物であった。
ところが
甚太夫の負けざまは、間もなく
日ならず二人は綱利の前で、晴れの
それから三四日経ったある雨の
平太郎には当時十七歳の、
求馬は甚太夫喜三郎の二人と共に、父平太郎の
一
彼は
一行四人は
松山に渡った一行は、毎日
松山へ来てから
二
求馬は甚太夫とは別々に、毎日府内をさまよって歩いた。物慣れた甚太夫は破れ扇に
その内に
やがて寛文十年の春が来た。求馬はその頃から人知れず、吉原の
求馬は翌日から枕についた。が、
書面は求馬が
三
彼等はまず
しかし恩地小左衛門は、
機会は容易に来なかった。兵衛はほとんど昼夜とも、屋敷にとじこもっているらしかった。その内に彼等の
甚太夫は喜三郎の話を聞きながら、天運の到来を祝すと共に、今まで兵衛の
平太郎の命日は、一日毎に近づいて来た。二人は
ついにその日の朝が来た。二人はまだ天が明けない内に、
外はまだ人通りがなかった。二人はそれでも編笠に顔を包んで、兼ねて敵打の場所と定めた
が、ほどなく甚太夫も、祥光院の門前に待っていた喜三郎と一しょになった。その日は薄雲が空に迷って、
しかしかれこれ
二人は
やがて寺の門の空には、
とうとう
が、兵衛はいつまで経っても、ついに姿を現さなかった。
大団円
甚太夫は枕に沈んだまま、買い薬を命に日を送った。しかし吐瀉は止まなかった。喜三郎はとうとう堪え兼ねて、一応医者の
蘭袋は
蘭袋は甚太夫の脈をとって見るまでもなく、
秋は
それ以来喜三郎は薬を貰いに行く度に、さりげなく兵衛の
が、運命は飽くまでも、田岡甚太夫に
その翌日、甚太夫は急に思い立って、喜三郎に蘭袋を迎えにやった。蘭袋はその日も酒気を帯びて、早速彼の病床を見舞った。「先生、永々の御介抱、甚太夫
後談
その一人は城下に名高い、
後年
(大正九年四月)
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