日语文学作品赏析《彼》
作者:芥川龍之介
来源:青空文库
2010-01-06 00:00
一
僕はふと旧友だった彼のことを思い出した。彼の名前などは言わずとも好 い。彼は叔父 さんの家を出てから、本郷 のある印刷屋の二階の六畳に間借 りをしていた。階下の輪転機 のまわり出す度にちょうど小蒸汽 の船室のようにがたがた身震 いをする二階である。まだ一高 の生徒だった僕は寄宿舎の晩飯をすませた後 、度たびこの二階へ遊びに行った。すると彼は硝子 窓の下に人一倍細い頸 を曲げながら、いつもトランプの運だめしをしていた。そのまた彼の頭の上には真鍮 の油壺 の吊 りランプが一つ、いつも円 い影を落していた。……
二
彼は本郷の叔父さんの家から僕と同じ本所 の第三中学校へ通 っていた。彼が叔父さんの家にいたのは両親のいなかったためである。両親のいなかったためと云っても、母だけは死んではいなかったらしい。彼は父よりもこの母に、――このどこへか再縁 した母に少年らしい情熱を感じていた。彼は確かある年の秋、僕の顔を見るが早いか、吃 るように僕に話しかけた。
「僕はこの頃僕の妹が(妹が一人あったことはぼんやり覚えているんだがね。)縁 づいた先を聞いて来たんだよ。今度の日曜にでも行って見ないか?」
僕は早速 彼と一しょに亀井戸 に近い場末 の町へ行った。彼の妹の縁づいた先は存外 見つけるのに暇 どらなかった。それは床屋 の裏になった棟割 り長屋 の一軒だった。主人は近所の工場 か何かへ勤 めに行った留守 だったと見え、造作 の悪い家の中には赤児 に乳房 を含ませた細君、――彼の妹のほかに人かげはなかった。彼の妹は妹と云っても、彼よりもずっと大人 じみていた。のみならず切れの長い目尻 のほかはほとんど彼に似ていなかった。
「その子供は今年 生れたの?」
「いいえ、去年。」
「結婚したのも去年だろう?」
「いいえ、一昨年 の三月ですよ。」
彼は何かにぶつかるように一生懸命に話しかけていた。が、彼の妹は時々赤児をあやしながら、愛想 の善 い応対をするだけだった。僕は番茶の渋 のついた五郎八茶碗 を手にしたまま、勝手口の外を塞 いだ煉瓦塀 の苔 を眺めていた。同時にまたちぐはぐな彼等の話にある寂しさを感じていた。
「兄 さんはどんな人?」
「どんな人って……やっぱり本を読むのが好きなんですよ。」
「どんな本を?」
「講談本 や何かですけれども。」
実際その家の窓の下には古机が一つ据えてあった。古机の上には何冊かの本も、――講談本なども載 っていたであろう。しかし僕の記憶には生憎 本のことは残っていない。ただ僕は筆立ての中に孔雀 の羽根が二本ばかり鮮 かに挿 してあったのを覚えている。
「じゃまた遊びに来る。兄さんによろしく。」
彼の妹は不相変 赤児に乳房を含ませたまま、しとやかに僕等に挨拶 した。
「さようですか? では皆さんによろしく。どうもお下駄 も直しませんで。」
僕等はもう日の暮に近い本所の町を歩いて行った。彼も始めて顔を合せた彼の妹の心もちに失望しているのに違いなかった。が、僕等は言い合せたように少しもその気もちを口にしなかった。彼は、――僕は未 だに覚えている。彼はただ道に沿うた建仁寺垣 に指を触 れながら、こんなことを僕に言っただけだった。
「こうやってずんずん歩いていると、妙に指が震 えるもんだね。まるでエレキでもかかって来るようだ。」
三
彼は中学を卒業してから、一高 の試験を受けることにした。が、生憎 落第 した。彼があの印刷屋の二階に間借 りをはじめたのはそれからである。同時にまたマルクスやエンゲルスの本に熱中しはじめたのもそれからである。僕は勿論社会科学に何 の知識も持っていなかった。が、資本だの搾取 だのと云う言葉にある尊敬――と云うよりもある恐怖 を感じていた。彼はその恐怖を利用し、度たび僕を論難した。ヴェルレエン、ラムボオ、ヴオドレエル、――それ等の詩人は当時の僕には偶像 以上の偶像だった。が、彼にはハッシッシュや鴉片 の製造者にほかならなかった。
僕等の議論は今になって見ると、ほとんど議論にはならないものだった。しかし僕等は本気 になって互に反駁 を加え合っていた。ただ僕等の友だちの一人、――Kと云う医科の生徒だけはいつも僕等を冷評 していた。
「そんな議論にむきになっているよりも僕と一しょに洲崎 へでも来いよ。」
Kは僕等を見比べながら、にやにや笑ってこう言ったりした。僕は勿論内心では洲崎へでも何でも行 きたかった。けれども彼は超然 と(それは実際「超然」と云うほかには形容の出来ない態度だった。)ゴルデン・バットを銜 えたまま、Kの言葉に取り合わなかった。のみならず時々は先手 を打ってKの鋒先 を挫 きなどした。
「革命とはつまり社会的なメンスツラチオンと云うことだね。……」
彼は翌年の七月には岡山 の六高 へ入学した。それからかれこれ半年 ばかりは最も彼には幸福だったのであろう。彼は絶えず手紙を書いては彼の近状を報告してよこした。(その手紙はいつも彼の読んだ社会科学の本の名を列記していた。)しかし彼のいないことは多少僕にはもの足 らなかった。僕はKと会う度に必ず彼の噂 をした。Kも、――Kは彼に友情よりもほとんど科学的興味に近いある興味を感じていた。
「あいつはどう考えても、永遠に子供でいるやつだね。しかしああ云う美少年の癖に少しもホモ・エロティッシュな気を起させないだろう。あれは一体どう云う訣 かしら?」
Kは寄宿舎の硝子 窓を後 ろに真面目 にこんなことを尋ねたりした、敷島 の煙を一つずつ器用に輪にしては吐 き出しながら。
四
彼は六高へはいった後 、一年とたたぬうちに病人となり、叔父 さんの家へ帰るようになった。病名は確かに腎臓結核 だった。僕は時々ビスケットなどを持ち、彼のいる書生部屋へ見舞いに行った。彼はいつも床 の上に細い膝 を抱 いたまま、存外 快濶 に話したりした。しかし僕は部屋の隅に置いた便器を眺めずにはいられなかった。それは大抵 硝子 の中にぎらぎらする血尿 を透 かしたものだった。
「こう云う体 じゃもう駄目 だよ。とうてい牢獄 生活も出来そうもないしね。」
彼はこう言って苦笑 するのだった。
「バクニインなどは写真で見ても、逞 しい体をしているからなあ。」
しかし彼を慰めるものはまだ全然ない訣 ではなかった。それは叔父さんの娘に対する、極めて純粋な恋愛だった。彼は彼の恋愛を僕にも一度も話したことはなかった。が、ある日の午後、――ある花曇りに曇った午後、僕は突然彼の口から彼の恋愛を打ち明けられた。突然?――いや、必ずしも突然ではなかった。僕はあらゆる青年のように彼の従妹 を見かけた時から何か彼の恋愛に期待を持っていたのだった。
「美代 ちゃんは今学校の連中と小田原 へ行っているんだがね、僕はこの間 何気 なしに美代ちゃんの日記を読んで見たんだ。……」
僕はこの「何気なしに」に多少の冷笑を加えたかった。が、勿論 何も言わずに彼の話の先を待っていた。
「すると電車の中で知り合になった大学生のことが書いてあるんだよ。」
「それで?」
「それで僕は美代ちゃんに忠告しようかと思っているんだがね。……」
僕はとうとう口を辷 らし、こんな批評 を加えてしまった。
「それは矛盾 しているじゃないか? 君は美代ちゃんを愛しても善 い、美代ちゃんは他人を愛してはならん、――そんな理窟 はありはしないよ。ただ君の気もちとしてならば、それはまた別問題だけれども。」
彼は明かに不快 らしかった。が、僕の言葉には何も反駁 を加えなかった。それから、――それから何を話したのであろう? 僕はただ僕自身も不快になったことを覚えている。それは勿論病人の彼を不快にしたことに対する不快だった。
「じゃ僕は失敬するよ。」
「ああ、じゃ失敬。」
彼はちょっと頷 いた後 、わざとらしく気軽につけ加えた。
「何か本を貸してくれないか? 今度君が来る時で善 いから。」
「どんな本を?」
「天才の伝記か何かが善い。」
「じゃジァン・クリストフを持って来ようか?」
「ああ、何でも旺盛 な本が善い。」
僕は詮 めに近い心を持ち、弥生町 の寄宿舎へ帰って来た。窓硝子 の破れた自習室には生憎 誰も居合せなかった。僕は薄暗い電燈の下 に独逸文法 を復習した。しかしどうも失恋した彼に、――たとい失恋したにもせよ、とにかく叔父さんの娘のある彼に羨望 を感じてならなかった。
五
彼はかれこれ半年 の後 、ある海岸へ転地することになった。それは転地とは云うものの、大抵は病院に暮らすものだった。僕は学校の冬休みを利用し、はるばる彼を尋ねて行った。彼の病室は日当りの悪い、透 き間 風 の通る二階だった。彼はベッドに腰かけたまま、不相変 元気に笑いなどした。が、文芸や社会科学のことはほとんど一言 も話さなかった。
「僕はあの棕櫚 の木を見る度に妙に同情したくなるんだがね。そら、あの上の葉っぱが動いているだろう。――」
棕櫚 の木はつい硝子 窓の外に木末 の葉を吹かせていた。その葉はまた全体も揺 らぎながら、細 かに裂 けた葉の先々をほとんど神経的に震 わせていた。それは実際近代的なもの哀れを帯びたものに違いなかった。が、僕はこの病室にたった一人している彼のことを考え、出来るだけ陽気に返事をした。
「動いているね。何をくよくよ海べの棕櫚はさ。……」
「それから?」
「それでもうおしまいだよ。」
「何 だつまらない。」
僕はこう云う対話の中 にだんだん息苦 しさを感じ出した。
「ジァン・クリストフは読んだかい?」
「ああ、少し読んだけれども、……」
「読みつづける気にはならなかったの?」
「どうもあれは旺盛 すぎてね。」
僕はもう一度一生懸命に沈み勝ちな話を引き戻した。
「この間 Kが見舞いに来たってね。」
「ああ、日帰りでやって来たよ。生体解剖 の話や何かして行ったっけ。」
「不愉快なやつだね。」
「どうして?」
「どうしてってこともないけれども。……」
僕等は夕飯 をすませた後 、ちょうど風の落ちたのを幸い、海岸へ散歩に出かけることにした。太陽はとうに沈んでいた。しかしまだあたりは明るかった。僕等は低い松の生 えた砂丘 の斜面に腰をおろし、海雀 の二三羽飛んでいるのを見ながら、いろいろのことを話し合った。
「この砂はこんなに冷 たいだろう。けれどもずっと手を入れて見給え。」
僕は彼の言葉の通り、弘法麦 の枯 れ枯 れになった砂の中へ片手を差しこんで見た。するとそこには太陽の熱がまだかすかに残っていた。
「うん、ちょっと気味が悪いね。夜になってもやっぱり温 いかしら。」
「何、すぐに冷 たくなってしまう。」
僕はなぜかはっきりとこう云う対話を覚えている。それから僕等の半町ほど向うに黒ぐろと和 んでいた太平洋も。……
六
彼の死んだ知らせを聞いたのはちょうど翌年 の旧正月だった。何 でも後 に聞いた話によれば病院の医者や看護婦たちは旧正月を祝 うために夜更 けまで歌留多 会をつづけていた。彼はその騒 ぎに眠られないのを怒 り、ベッドの上に横たわったまま、おお声に彼等を叱 りつけた、と同時に大喀血 をし、すぐに死んだとか云うことだった。僕は黒い枠 のついた一枚の葉書を眺めた時、悲しさよりもむしろはかなさを感じた。
「なおまた故人の所持したる書籍は遺骸と共に焼き棄て候えども、万一貴下より御貸与 の書籍もその中 にまじり居り候節 は不悪 御赦 し下され度 候 。」
これはその葉書の隅に肉筆で書いてある文句だった。僕はこう云う文句を読み、何冊かの本が焔 になって立ち昇る有様を想像した。勿論それ等の本の中にはいつか僕が彼に貸したジァン・クリストフの第一巻もまじっているのに違いなかった。この事実は当時の感傷的な僕には妙に象徴 らしい気のするものだった。
それから五六日たった後 、僕は偶然落ち合ったKと彼のことを話し合った。Kは不相変 冷然としていたのみならず、巻煙草を銜 えたまま、こんなことを僕に尋ねたりした。
「Xは女を知っていたかしら?」
「さあ、どうだか……」
Kは僕を疑うようにじっと僕の顔を眺めていた。
「まあ、それはどうでも好 い。……しかしXが死んで見ると、何か君は勝利者らしい心もちも起って来はしないか?」
僕はちょっと逡巡 した。するとKは打ち切るように彼自身の問に返事をした。
「少くとも僕はそんな気がするね。」
僕はそれ以来Kに会うことに多少の不安を感ずるようになった。
僕はふと旧友だった彼のことを思い出した。彼の名前などは言わずとも
二
彼は本郷の叔父さんの家から僕と同じ
「僕はこの頃僕の妹が(妹が一人あったことはぼんやり覚えているんだがね。)
僕は
「その子供は
「いいえ、去年。」
「結婚したのも去年だろう?」
「いいえ、
彼は何かにぶつかるように一生懸命に話しかけていた。が、彼の妹は時々赤児をあやしながら、
「
「どんな人って……やっぱり本を読むのが好きなんですよ。」
「どんな本を?」
「
実際その家の窓の下には古机が一つ据えてあった。古机の上には何冊かの本も、――講談本なども
「じゃまた遊びに来る。兄さんによろしく。」
彼の妹は
「さようですか? では皆さんによろしく。どうもお
僕等はもう日の暮に近い本所の町を歩いて行った。彼も始めて顔を合せた彼の妹の心もちに失望しているのに違いなかった。が、僕等は言い合せたように少しもその気もちを口にしなかった。彼は、――僕は
「こうやってずんずん歩いていると、妙に指が
三
彼は中学を卒業してから、
僕等の議論は今になって見ると、ほとんど議論にはならないものだった。しかし僕等は
「そんな議論にむきになっているよりも僕と一しょに
Kは僕等を見比べながら、にやにや笑ってこう言ったりした。僕は勿論内心では洲崎へでも何でも
「革命とはつまり社会的なメンスツラチオンと云うことだね。……」
彼は翌年の七月には
「あいつはどう考えても、永遠に子供でいるやつだね。しかしああ云う美少年の癖に少しもホモ・エロティッシュな気を起させないだろう。あれは一体どう云う
Kは寄宿舎の
四
彼は六高へはいった
「こう云う
彼はこう言って
「バクニインなどは写真で見ても、
しかし彼を慰めるものはまだ全然ない
「
僕はこの「何気なしに」に多少の冷笑を加えたかった。が、
「すると電車の中で知り合になった大学生のことが書いてあるんだよ。」
「それで?」
「それで僕は美代ちゃんに忠告しようかと思っているんだがね。……」
僕はとうとう口を
「それは
彼は明かに
「じゃ僕は失敬するよ。」
「ああ、じゃ失敬。」
彼はちょっと
「何か本を貸してくれないか? 今度君が来る時で
「どんな本を?」
「天才の伝記か何かが善い。」
「じゃジァン・クリストフを持って来ようか?」
「ああ、何でも
僕は
五
彼はかれこれ
「僕はあの
「動いているね。何をくよくよ海べの棕櫚はさ。……」
「それから?」
「それでもうおしまいだよ。」
「
僕はこう云う対話の
「ジァン・クリストフは読んだかい?」
「ああ、少し読んだけれども、……」
「読みつづける気にはならなかったの?」
「どうもあれは
僕はもう一度一生懸命に沈み勝ちな話を引き戻した。
「この
「ああ、日帰りでやって来たよ。
「不愉快なやつだね。」
「どうして?」
「どうしてってこともないけれども。……」
僕等は
「この砂はこんなに
僕は彼の言葉の通り、
「うん、ちょっと気味が悪いね。夜になってもやっぱり
「何、すぐに
僕はなぜかはっきりとこう云う対話を覚えている。それから僕等の半町ほど向うに黒ぐろと
六
彼の死んだ知らせを聞いたのはちょうど
「なおまた故人の所持したる書籍は遺骸と共に焼き棄て候えども、万一貴下より
これはその葉書の隅に肉筆で書いてある文句だった。僕はこう云う文句を読み、何冊かの本が
それから五六日たった
「Xは女を知っていたかしら?」
「さあ、どうだか……」
Kは僕を疑うようにじっと僕の顔を眺めていた。
「まあ、それはどうでも
僕はちょっと
「少くとも僕はそんな気がするね。」
僕はそれ以来Kに会うことに多少の不安を感ずるようになった。
(大正十五年十一月十三日)
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