日语文学作品赏析《田端人》
作者:芥川龍之介
来源:青空文库
2010-01-06 00:00
この度は田端 の人々を書かん。こは必ずしも交友ならず。寧 ろ僕の師友なりと言ふべし。
下島勲 下島先生はお医者なり。僕の一家は常に先生の御厄介 になる。又空谷山人 と号し、乞食 俳人井月 の句を集めたる井月句集の編者なり。僕とは親子ほど違ふ年なれども、老来トルストイでも何 でも読み、論戦に勇なるは敬服すべし。僕の書画を愛する心は先生に負ふ所少からず。なほ次手 に吹聴 すれば、先生は時々夢の中に化 けものなどに追ひかけられても、逃げたことは一度もなきよし。先生の胆 、恐らくは駝鳥 の卵よりも大ならん乎 。
香取秀真 香取先生は通称「お隣の先生」なり。先生の鋳金家 にして、根岸 派の歌よみたることは断 る必要もあらざるべし。僕は先生と隣り住みたる為、形の美しさを学びたり。勿論学んで悉 したりとは言はず。且 又先生に学ぶ所はまだ沢山 あるやうなれば、何ごとも僕に盗 めるだけは盗み置かん心がまへなり。その為にも「お隣の先生」の御寿命 のいや長 に長からんことを祈り奉る。香取先生にも何かと御厄介になること多し。時には叔父 を一人 持ちたる気になり、甘つたれることもなきにあらず。
小杉未醒 これも勿論年長者なり。本職の油画や南画以外にも詩を作り、句を作り、歌を作る。呆 れはてたる器用人と言ふべし。和漢の武芸に興味を持つたり、テニスや野球をやつたりする所は豪傑肌 のやうなれども、荒木又右衛門 や何かのやうに精悍 一点張りの野蛮人にはあらず。僕などは何か災難 に出合ひ、誰かに同情して貰ひたき時には、まづ未醒老人に綿々と愚痴 を述べるつもりなり。尤 も実際述べたことは幸ひにもまだ一度もなし。
鹿島龍蔵 これも親子ほど年の違ふ実業家なり。少年西洋に在りし為、三味線 や御神燈 を見ても遊蕩 を想はず、その代りに艶 きたるランプ・シエエドなどを見れば、忽ち遊蕩を想 ふよし。書、篆刻 、謡 、舞 、長唄、常盤津 、歌沢 、狂言、テニス、氷辷 り等 通ぜざるものなしと言ふに至つては、誰か唖然 として驚かざらんや。然れども鹿島さんの多芸なるは僕の尊敬するところにあらず。僕の尊敬する所は鹿島さんの「人となり」なり。鹿島さんの如く、熟して敗 れざる底 の東京人は今日 既に見るべからず。明日 は更 に稀 なるべし。僕は東京と田舎 とを兼ねたる文明的混血児なれども、東京人たる鹿島さんには聖賢相親しむの情――或は狐狸 相親しむの情を懐抱 せざる能 はざるものなり。鹿島さんの再び西洋に遊ばんとするに当り、活字を以て一言 を餞 す。あんまりランプ・シエエドなどに感心して来てはいけません。
室生犀星 これは何度も書いたことあれば、今更言を加へずともよし。只僕を僕とも思はずして、「ほら、芥川龍之介、もう好い加減に猿股 をはきかへなさい」とか、「そのステッキはよしなさい」とか、入らざる世話を焼く男は余り外 にはあらざらん乎 。但し僕をその小言 の前に降参するものと思ふべからず。僕には室生 の苦手 なる議論を吹つかける妙計 あり。
久保田万太郎 これも多言 を加ふるを待たず。やはり僕が議論を吹つかければ、忽ち敬して遠ざくる所は室生と同工異曲なり。なほ次手に吹聴 すれば、久保田君は酒客 なれども、(室生を呼ぶ時は呼び捨てにすれども、久保田君は未 だに呼び捨てに出来ず。)海鼠腸 を食はず。からすみを食はず、況 や烏賊 の黒作 り(これは僕も四五日前 に始めて食ひしものなれども)を食はず。酒客たらざる僕よりも味覚の進歩せざるは気の毒なり。
北原大輔 これは僕よりも二三歳の年長者なれども、如何 にも小面 の憎い人物なり。幸 にも僕と同業ならず。若し僕と同業ならん乎 、僕はこの人の模倣 ばかりするか、或はこの人を殺したくなるべし。本職は美術学校出の画家なれども、なほ僕の苦手 たるを失はず。只僕は捉 へ次第、北原君の蔵家庭 を盗 み得るに反し、北原君は僕より盗むものなければ、畢竟 得 をするは僕なるが如し。これだけは聊 か快とするに足る。なほ又次手 につけ加へれば、北原君は底抜けの酒客 なれども、座さへ酔 うて崩 したるを見ず。纔 に平生の北原君よりも手軽に正体を露 すだけなり。かかる時の北原君の眼はその俊爽 の色あること、画中の人も及ばざるが如し。北原君の作品は後代恐らくは論ずるものあらん。然れども眼は必ずしも論ずるものありと言ふべからず、即ち北原君の小面憎 さを説いて酔眼 に至る所以 なり。
(大正十四年二月)
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