日语文学作品赏析《八宝飯》
作者:芥川龍之介
来源:青空文库
2010-01-06 00:00
石敢当
今東光 君は好学の美少年、「文芸春秋」二月号に桂川中良の桂林漫録を引き、大いに古琉球風物詩集 の著者、佐藤惣之助君の無学を嗤 ふ。瀟麗 の文章風貌に遜 らず、風前の玉樹も若 かざるものあり。唯疑ふ、今君亦石敢当 の起源を知るや否や。今 君は桂川中良と共に姓源珠□ の説を信ずるものなり。されど石敢当に関する説は姓源珠□に出づるのみにあらず、顔師古 が急就章 (史游)の註にも、「衛有石※[#「石+昔」、186-上-10]鄭有石癸斉有石之紛如其後亦以命族石敢当」とあり。その何れを正しとすべき乎 、何人も疑ひなき能はざるべし。徐氏筆精に云ふ「二説大不相□亦日用不察者也」と。然らばその起源を知らざるもの、豈 佐藤惣之助君のみならんや。桂川中良も亦知らざるなり。今東光も亦知らざるなり。知らざるを以て知らざるを嗤 ふ、山客亦何ぞ嗤はざるを得んや。按 ずるに鍾馗 大臣の如き、明皇 夢中に見る所と做 すは素 より稗官 の妄誕 のみ。石敢当も亦実在の人物ならず、無何有郷裡 の英雄なるべし。もし又更に大方 の士人、石敢当の出処を知らんと欲せば、秋風禾黍 を動かすの辺、孤影蕭然たる案山子 に問へ。
猥談
聞説す、我鬼 先生、佐佐木味津三君の文を称し、猥談 と題するを勧 めたりと。何ぞその無礼なるや。佐佐木君は温厚の君子、幸ひに先生の言を容 れ、君が日星河岳 の文字に自ら題して猥談と云ふ。君もし血気の壮士なりとせんか、当 に匕首 を懐にして、先生を刺さんと誓ひしなるべし。その文を猥談と称するもの明朝に枝山 祝允明 あり。允明、字は希哲 、少 きより文辞を攻め、奇気甚 縦横なり。一たび筆を揮 ふ時は千言立ちどころに就 ると云ふ。又書名あり。筆法遒勁 、風韻蕭散と称せらる。その内外の二祖、咸 な当時の魁儒 たるに因 り、希哲の文、典訓を貫綜 し、古今を茹涵 す。大名ある所以 なり。然りと雖 も佐佐木君は東坡 再び出世底の才人、枝山等の遠く及ぶ所にあらず。この人の文を猥談と呼ぶは明珠 を魚目 と呼ぶに似たり。山客、偶 「文芸春秋」二月号を読み、我鬼先生の愚を嗤 ふと共に佐佐木君の屈 を歎かんと欲す。佐佐木君、請ふ、安心せよ。君を知るものに山客あり矣 。
赤大根
江口君はプロレタリアの文豪なり。「文芸春秋」二月号に「切り捨御免」の一文を寄す。論旨は昆吾 と鋭を争ひ、文辞は卞王 と光を競ふ。真に当代の盛観なり。江口君論ずらく、「星霜を閲 すること僅に一歳、プロレタリアの論客は容易に論壇を占領せり」と。何ぞその壮烈なる。江口君又論ずらく、「創作壇の一の木戸 、二の木戸、本丸も何時かは落城の憂目 を見ん」と。何ぞその悠悠たる。江口君三たび論ずらく、「プロレタリア文学勃興と共に、俄 かに色を染め加へし赤大根 の輩出山の如し」と。何ぞその痛快なる。唯山客の頑愚 なる、もしプロレタリアに急変したる小説家、批評家、戯曲家を呼ぶに赤大根を以てせんか、その論壇を占領し、又かの創作壇の一の木戸、二の木戸、乃至 本丸さへ占領せんとする諸先生も赤大根にあらざるや否や、多少の疑問なき能はず。且 山客の所見によれば、赤大根の繁殖したるはプロレタリア文芸の勃興以前、隣邦露西亜 の革命に端を発するものの如し。もし然りとせば江口君も、古色愛すべき赤大根のみ。もし又君の為に然らずとせんか、かの近来の赤大根は君の小説に感奮し、君の評論に蹶起 したる新鋭気鋭の青年にあらずや。君自身これが染上 げを扶 け、君自身これを赤大根と罵 る、無情なるも亦甚しいかな。君聴 け、啾啾 赤大根の哭 、文壇の夜気を動かさんとするを。然れども古人言へることあり。「英雄豈 児女の情なからんや」と。山客亦厳に江口君が有情の人たるを信ぜんと欲す。もし有情の人と做 さんか、君と雖 も遂に赤大根のみ。君と雖も遂に赤大根のみ。
瑯※山客 [#「王+牙」、187-下-3]
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田中純君は「文芸春秋」のゴシツプの卑俗に陥るを論難し、「古今の文人、誰か陽物 の大小を云々せんや」と言へり。我等も亦田中君の義憤に声援するを辞するものにあらず。然れども卑俗なるゴシツプを喜べるは古人も亦今人に劣らざりしが如し。谷三山 、森田節斎 両家の筆談を録せる「二家筆談」と言ふ書ある由、(三山は聾 なりし故なり。)我等は未だその書を見ねど、市島春城 氏の「随筆頼山陽 」に引けるを読めば、古人も亦田中君の信ずる如く陽物の大小に冷淡ならず。否、寧 ろ今人よりも溌溂たる興味を有したるが如し。
「山陽しばしば画師竹洞 の大陽物をなぶる。竹洞大いに怒り、自ら陽物を書き、『山陽先生、余の陽物を以て大なりと為す。拙者の陰茎 、僅に此 の如し』とかきて山陽に贈る。画工小田百合座に在り。曰く、『是は縮図 であらう、原本必ず大なり焉。』一座大笑す。(是より文人、竹洞を名づけて縮図先生と号す。)」(原文に交へたる漢文は仮名 まじりに書き改めたり。)
我等は今人は買冠 らねど、古人を買ひ冠ることは稀 なりと為さず。又同じ今人にしても、海の彼岸 にゐる文人を買ひ冠ることは屡 なり。然れども彼等も実際は我等と大差なき人間なるべし。或は我等の几側 に侍せしめ、講釈を聞かせてやるに足るものも存外少からざらん乎。と言へば大言壮語するに似たれど、兎 に角 彼等を冷眼に見るは衛生上にも幾分か必要なるべし。
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今人を罵 るの危険なることは趙甌北 の「簷曝雑記 」にその好例ありと言ふべし。南昌の人に李太虚 と言ふものあり。明の崇禎 中に列卿 と為 る。国変に死せず。李自成 に降 り、清朝定鼎 の後、脱し帰る。挙人徐巨源 と言ふものあり。嘗 之を非笑す。一日太虚の病を訪ふ。太虚自ら言ふ、「病んで将 に起 たざらんとす」と。巨源曰、「公の寿正に長し。必ず死せじ」と。之を詰 れば則ち曰、「甲申乙酉に(明の亡びたる〔二字欠〕の末年なり。)死せず。則ち更に死期無し」と。太虚怒る。これは怒るのも尤 もなり。更に又巨源、一劇を撰 す。この劇は太虚及び□芝麓 賊に降り、後に清朝の兵入るを聞くや、急に逃れて杭州に至り、追兵の至るに驚いて、岳飛 墓前、鉄鋳の秦檜 夫人の跨下 に匿 る、偶 この鉄像の月事 に値ひ、兵過ぎて跨下を這ひ出せば、両人の頭皆血に汚れたるを描けるものなり。太虚この劇の流行を聞き、丁度南昌に来れる□芝麓と共に、密 かに歌伶 を其の家に召し、夜半之を演ずるを観 る。演じて夫人の跨下を出づるに至るや、両人覚えず大哭 して曰、「名節地を掃 ふこと此 に至る。夫れ復 何をか言はん。然れども孺子 の為に辱 めらるること此に至る。必ず殺して以て忿念 を洩 らさん」と。乃 ち人をして才人巨源を何処 かの逆旅 に刺殺せしめたりと言ふ。按 ずるに自殺に怯 なるものは、他殺にも怯なりと言ふべからず。巨源のこの理を辨 へず、妄 りに今人を罵つて畢 に刀下の怨鬼 となる。常談も大概 にするものなりと知るべし。
猥談
聞説す、
赤大根
江口君はプロレタリアの文豪なり。「文芸春秋」二月号に「切り捨御免」の一文を寄す。論旨は
(大正十二年三月)
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田中純君は「文芸春秋」のゴシツプの卑俗に陥るを論難し、「古今の文人、誰か
「山陽しばしば画師
我等は今人は
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今人を
(大正十二年)
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