文章

 僕に「文章にりすぎる。さうるな」といふ友だちがある。僕は別段必要以上に文章に凝つた覚えはない。文章は何よりもはつきり書きたい。頭の中にあるものをはつきり文章に現したい。僕はただそれだけを心がけてゐる。それだけでもペンを持つて見ると、滅多めつたにすらすら行つたことはない。必ずごたごたした文章を書いてゐる。僕の文章上の苦心といふのは(もし苦心といひ得るとすれば)そこをはつきりさせるだけである。他人の文章に対する注文も僕自身に対するのと同じことである。はつきりしない文章にはどうしても感心することは出来ない。少くとも好きになることは出来ない。つまり僕は文章上のアポロ主義を奉ずるものである。
 僕は誰になんといはれても、方解石はうかいせきのやうにはつきりした、曖昧あいまいを許さぬ文章を書きたい。

     言葉

 五十年ぜんの日本人は「神」といふ言葉を聞いた時、大抵たいてい髪をみづらにひ、首のまはりに勾玉まがたまをかけた男女の姿を感じたものである。しかし今日こんにちの日本人は――少くとも今日の青年は大抵たいてい長ながと顋髯あごひげをのばした西洋人を感じてゐるらしい。言葉は同じ「神」である。が、心に浮かぶ姿はこの位すでに変遷へんせんしてゐる。
  なほ見たし花にく神の顔(葛城山かつらぎさん
 僕はいつか小宮こみやさんとかういふ芭蕉ばせをの句を論じあつた。子規居士しきこじの考へる所によれば、この句は諧謔かいぎやくろうしたものである。僕もその説に異存はない。しかし小宮さんはどうしても荘厳な句だと主張してゐた。画力は五百年、書力は八百年に尽きるさうである。文章の力の尽きるのは何百年位かかるものであらう?

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