いよいよ桜の季節がやって来ましたが、いつから日本人はこんなにも桜を愛するようになったのでしょうか?ニュースでも桜の開花情報は必ず放送されますよね。それほどまでに、私たちを惹きつける桜の魅力…それが実は、「国家によって作られたもの」だとしたら、みなさんはどうお思いになるでしょう。

又到了一年一度赏樱的季节,日本人是从什么时候开始对樱花如此着迷的呢?每年这个时候,各大新闻媒体也一定会对樱花的开放情况进行跟踪报道。如果说樱花迷人的魅力是由国家刻意营造出来的,大家会认同吗?

『改訂 桜は本当に美しいのか 欲望が生んだ文化装置』(水原紫苑/平凡社)は、歌人として名高い著者が、短歌や文学の中の「桜」というキーワードを抜き出し「日本を問う」という、新しい「桜論」を提示した一冊です。

《樱花真的美丽吗:产生欲望的文化装置》(水原紫苑/平凡社)的作者是一位有名的诗人,在书中,她以短歌、文学中经常出现的关键词“樱”为主要内容展开,提出了新的“樱花论”。

古代の人にとって桜は「山中に人知れず咲く花」であり、呪術的な側面も持った「祈りの対象」だったそう。それを「都の桜」として「大々的に美しいもの」と、ある意味、国家が誘導したのが『古今集』の和歌。「散る桜が美しい」という概念も、『古今集』から。「『古今集』は、大陸文化から独立した日本という国家幻想を作り上げるために、桜を共同体の象徴としたのではなかったか」というのが、著者の水原さんの考え。「美しい」という概念を、ただの植物だった「桜」を通して、「日本人全体の方向性」に仕立てあげ、国家が意図的に国民に共通感覚を与えた…と言ってもいいでしょうか。

对古人来说,樱花是“在山中无人知晓的地方静静开放”的花,据说在巫术中被用作“祈祷的对象”。最先赋予其“都之樱”概念的是《古今集》中的和歌。“散落的樱花美”这一概念也出自《古今集》。作者水原认为《古今集》之所以会提出这些概念是为了将日本这一国家从中国文化中脱离出来,将樱花作为日本国民共同体的象征。也可以说是国家有意识地通过“樱”给国民培养一种对于“美”这个概念的共同感觉。

そして本書では、近年の桜ソングの流行にも触れています。数々の桜を題材にした歌を、私たちが求めるのは、無意識の内に「失われた共同体を桜によって見出そうとしているから」かもしれないのです。著者はそんな「桜の使い方」を否定します。桜はあくまで「花」であり、ナショナリズム発揚のために用いられる道具にしてはいけないのだと。

书中还提及了近年樱花歌曲的流行现象。人们之所以如此追捧各种以樱花为题材的歌曲,可能是内心无意识的想要“通过樱花寻找消失的共同体”。作者对这种方式予以了否定,认为樱花只不过是“花”,并不能将其作为发扬民族主义的工具。

本書が問うのは文化を越えた《政治》の問題。私たち日本人が、桜を「本当に美しいのか」と立ち止まって考えるべき時代に来ていることを示唆しているように思いました。さて、少し堅苦しいことからお話をしてしまいましたが、それが本書の要旨だったため、触れさせてもらいました。けれど、私は全く違った読み方をするのも面白いのではないかと思います。

本书还探究了超越文化范畴的政治问题。旨在启示日本人应该停止盲从的脚步好好思考“樱花是否真的美丽”。通过列举一些刻板的事例来阐明其要旨。这种对樱花完全不同的理解非常有趣。

本書は、桜の文化を綴った一冊でもあるのです。日本の歴史で、いつから「桜」の名が現れるのか。『万葉集』に詠まれた桜、『古今集』『枕草子』『源氏物語』『新古今和歌集』といった、様々な名古典の「桜」に関係する部分を抜き出して、著者が解説を加えています。古典だけではなく、人物と桜の文化にも触れています。西行や定家、世阿弥、芭蕉…。そして近代文学、近代短歌、桜ソングまで、多岐にわたっています。

作者通过分析《万叶集》《古今集》《枕草子》《源氏物语》《新古今和歌集》等各种作品中与“樱”有关系的内容,阐明了日本历史上“樱”的名称是如何而来。除了这些古典著作,还介绍了与樱花文化有关的名人。例如西行、定家、世阿弥、芭蕉等。当然还涉及近代文学、近代短歌等各个方面。

本書では古代から現代までの文化面から「日本人の桜論」がうかがい知れるのです。桜を通して「政治」を憂うこともいいでしょう。一方で、「文化」を通して桜を感じることもできる本書。今年のお花見では、「どうして桜は美しいのだろう」と考えてみてもいいかもしれません。

在文化方面介绍了从古至今“日本人的樱花论”。不仅可以通过樱花了解“政治”,也可以通过“文化”感受樱花。

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