天下統一目前の織田信長を殺害し、激動の渦中にいた武将、明智光秀が室町幕府の再興を図っていたことを示す新史料が発見された。

能够证明在天下即将统一之际,杀害织田信长、身处政变旋涡的武将明智光秀是企图复兴室町幕府的新历史资料被发现。

調査に当たる三重大の藤田達生(たつお)教授(日本史学)は「素直に読めば、光秀が自ら天下人になろうとした単独謀反説は成立しない」と解説するが、室町幕府再興の事前計画説には専門家からは疑問の声も上がっている。

展开此项调查的三重大的藤田达生教授(日本史学)解说道:“单纯地读这段历史,就会发现光秀抢夺统一天下大业的‘单枪匹马谋反说’无法成立。”但也有研究者对本能寺事变是为了复兴室町幕府有计划的行动这一观点提出疑问。

光秀の書状「土橋重治(しげはる)宛光秀書状」が書かれたのは天正10(1582)年6月12日。淀城(京都市伏見区)周辺にいた光秀が、反信長派の雑賀(さいか)衆リーダー・土橋重治から受け取った密書への返信と推察される。藤田教授らが今年5月から調査し、花押や筆跡が一致したため光秀の書状と判断した。

光秀写给土桥重治密信《土桥重治收件密信光秀致》的时间是天正10年(1582年)6月12日。该密信推测是当时身处淀城(京都市伏见区)附近地区的光秀回复来自反信长派杂贺众首领土桥重治密信的回信。藤田教授研究团队今年5月开始对信件进行了调查,花押与笔迹均一致,可以判断该密信为光秀亲笔之物。

室町幕府最後(第15代)の将軍の座を追われた足利義昭は当時、鞆(とも)(広島県福山市)にいた。書状は味方の情勢などを伝えた後、「詳細は上意(義昭)からご命じになられるとのことです。(私からは)申し上げられません」と結ばれている。

被拥立为室町幕府最后(第15代)的将军足利义昭当时身处鞆(广岛县福山市)。光秀在密信中传递了自己军队的情报之后,又加了一句“情报的详细内容来自君主(义昭)的旨意,并不是敝人的功劳。”

藤田教授は「分をわきまえた光秀らしさがにじみでている」と書状の印象を述べ、「(信長に追放された)天正元(1573)年をもって室町幕府滅亡とされるが、書状は幕府の権威が健在だった事実を突きつけている」とも話す。

藤田教授在阐述对这份密信的印象时说道:“书信字里行间透露出光秀特有的极具自知之明的分寸感”并表示,“我们通常认为足利义昭被信长所流放的天正元年(1573年)是室町幕府灭亡之时,不过从这份密报的内容来看,那时(天正10年/1582年)幕府的权威仍健在。”

大阪城天守閣の北川央(ひろし)館長も「戦国時代に入ると、足利将軍が京都を追われることはよくあった。本能寺の変まで、義昭、信長の2つの公儀が併存していたのは確かだ」と同意する。

大阪天守阁的北川央馆长也同意此观点:“进入战国时代,足利将军经常被追放到京都。直到本能寺之变前夕,确实存在义昭、信长两朝并存的态势。”

これに対し、天理大の天野忠幸准教授(戦国時代史)は、「義昭は信長に追われ、毛利氏に庇護(ひご)されていたが、反信長派大名などに幕府再興を働きかけていた。光秀は義昭に仕えた時期もあり、義昭を戴(いただ)く政権をつくることに最後の希望をかけたのだろう。ただ、義昭が変の黒幕だったとまでは言えないのではないか」と疑問を投げかける。

对此,天理大的天野忠幸准教授(战国时代史)提出疑问:“义昭被信长流放、毛利家也被庇护起来,这时反信长派大名开始了振兴幕府的运动。光秀也侍奉过义昭,或许他在拥戴义昭建立政权这最后的希望上下了赌注。只不过,凭借密信的内容并不能说明义昭是政变的幕后黑手吧?”

また本能寺の変に関する著書がある歴史学者、藤本正行氏も「義昭が光秀と連絡を取るために重治を使う必要があったことを示す書状でしかなく、『義昭黒幕説』など成り立たない」と否定する。

并且,著有本能寺之变相关书籍的历史学者藤本正行也表示否定:“这份密信只能说明义昭想要和光秀联系有必要利用重治,‘义昭黑幕说’无法成立。”

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