『わび』『さび』って言葉は、日本人ならどこかで一度は聞いたことがある言葉だと思います。もちろん『わび』は「詫び(謝る事)」でもなく、『さび』も「錆(金属が酸化して生じる膜)」でもありませんよ。

「わび」「さび」应该是所有日本人都听到过的词语。当然此处「わび」不是「詫び」(道歉)的意思,「さび」也不指金属氧化后生成的膜(锈)。

『わび』は「侘び」で、『さび』は「寂」という漢字を当てます。

「わび」指「侘び(闲静)」、「さび」的汉字应当为「寂」。

『わび』『さび』の意味と由来

「わび」「さび」的意义和由来

室町時代中期以降に「茶の湯」という「茶を立てて客人に供する作法」が確立して来ました。これは、豪華な茶器を使って盛大に行う「大名茶会」とそうでないものに分かれていき、武野紹鴎(たけのじょうおう)と言う人物が、「小さな草庵の座敷で、粗末な道具を使ってする茶会」を始めました。これを究めていき、大成させたのが「茶の湯の祖」で有名な千利休です。この中で、「物質面における不足や不自由を肯定し、簡素で閑静な生活を積極的に楽しむこと」が『わび』という概念になりました。

室町时代中期以后,「茶の湯(茶会)」这种沏茶供客人品尝的做法被确立并延续下来。这一茶会不同于使用豪华的茶具盛大举办的“大名茶会”,是一位叫武野绍鸥的人首先“在小小的草房的坐席上,使用粗鄙的茶具(沏茶)的茶会”而开始的。而究极精髓、集大成的是以“茶会始祖”而闻名的千利休。在这当中,“肯定物质层面的不足与贫乏,积极地享受简朴闲静的生活”成为「わび」一词的概念。

俳人、松尾芭蕉が確立した俳諧の世界の言葉で、「俳諧において、その句の題材や表現方法に表れているものでなく、その句の対象を捕えている作者の心情に表れているもの」として『さび』という言葉を表現しています。ですから、句の情景がにぎやかだったり、派手やかだったりしても、それを読んだ人の心に、淡々とした心情がある場合に「さびのある句」として、評価されました。また、芭蕉は『わび』の世界も大切にして、のちには『わびさび』という観念を俳句の中に入れ込んだとも言われています。

而在俳句诗人松尾芭蕉创立的俳谐世界的语言,“就俳谐而言,并不是从这句话的题材和表现手法中体现的,而是作者在描绘这句诗的对象时可以捕抓到的作者的心情”道出了「さび」这个词的含义。因此,无论诗的情境热闹还是华丽,在读诗人的心里,油然而生淡淡的感慨的场合可以用「さびのある句」来评价。同时,松尾芭蕉也十分看重「わび」的境界,于是之后将「わびさび」 这一观念导入了俳句(的创作当中)。

『わび』『さび』に見られる日本人の精神性

从「わび」「さび」可以观察到日本人的精神性

もともとは違う観点から発祥してきた「足りないことであっても、それで満足する『わび』」と「淡々とした静かな気持ちの表現である『さび』」が、いつのまにか「質素でありながらも静けさや寂しさを感じるものなどを、美しいと思うこと」という意味として、『わびさび』という言葉が使われるようになって来ました。

虽然原本起源于不同观点的“即使不圆满,这样也满足了”的「わび」以及“作为淡淡的恬静的心情的表达”的「さび」、「わびさび」在不知不觉间作为一种“朴素而又寂静的事物被认为是美的”的表达被使用开来。

たとえば、京都のお寺に行って感じる静けさや、その寺の枯山水などの日本庭園の素晴らしさ、水墨画に見られる芸術性など、華美ではない「静」の中にみられる、優雅な「動」を感じることが『わびさび』につながるでしょう。

例如,拜访京都的寺院感受到的沉静的氛围和枯山水式日本庭院的诗情画意,以及在水墨画上鉴赏到的艺术性等等,可以在低调不奢华的“静”里窥见、在优雅的“动”中感受,这些对美的欣赏也能同「わびさび」联系起来吧。

この精神は、日本人が古来から、季節の移り変わりに敏感で、桜の散りゆく様や紅葉の移ろいを心静かに愛でることにも表れています。物や情報があふれかえっている現代だからこそ、日本人の心情の基本となるべき『わびさび』に想いを馳せ、心静かなひと時を過ごすようにしましょう。

这种精神是日本人自古代起,由于对四季更迭的敏感,对于凋落的樱花和红叶的变迁也能静心欣赏的表现。正因为是物质和讯息爆炸的现代,遥想应为日本人心情基本的「わびさび」,片刻静心小憩一下吧。

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