引言

平安时代是日本文学文学史上出现优秀文学作品的时代。

除了日本人创作的汉诗、汉文以外,假名的发明和普及也催生了以宫廷生活为舞台的和歌、故事、随笔、日记文学等日本独特的文学形式宫廷女官为主的贵族多活跃在这些领域。她们的作品达到了平安文学的巅峰,在日本文学文学史上占有重要地位。

今天我们一起来学习第一部由女性创作的假名日记——《蜻蛉日记》

(注意:本文有一定补充和删改,中日文并非完全对照。)

作品名的“蜻蛉”有什么含义?

“蜻蛉”是一种类似于蜻蜓一样的柔弱的昆虫,与之相类似的,还有“蜉蝣”、“蛛丝”,它们都被当时日本人看成是无常、虚幻的象征

日本的女性的一生,恰如蜻蛉,无法自己把握 ,柔弱无常

概况

《蜻蛉日记》的内容及对后世的影响

『蜻蛉日記』は974年(天延二年)以降の成立と言われ、作者は藤原道綱の母である。女性の手による最初の仮名日記である。上中下の3巻よりなる。上巻が結婚してからの15年間、中・下巻はそれぞれその後の3年を綴っている。藤原兼家の求婚から書き始め、二十一年間の苦悩に満ちた婚姻生活を回想しながら綴られたものである。

作者は強い自意識を持って、当時の一夫多妻の制度の中で、夫に裏切られた女性の内面の苦しみと傷、また夫の愛を諦めた自分が一子道綱へ示す愛情などを切なく綴っている。内省的な批判性は『源氏物語』に大きな影響を与えたそうである。

《蜻蛉日记》完成于974年(天延二年)之后,作者是藤原道纲的母亲。《蜻蛉日记》是最早由女性创作的假名日记。全书分为上中下三卷。作者从藤原兼家向自己求婚开始写起,回忆了持续21年充满痛苦的婚姻生活

作者具有强烈的自我意识,她在书中描写了在当时一夫多妻制下遭到丈夫背叛的女性内心的苦恼与伤痛。作品还描写了对丈夫心如死灰的作者、对独子道纲寄予的钟爱。据说《蜻蛉日记》自省性的批判意识对《源氏物语》产生了很大影响

考点提示第一部日记文学《土佐日记》《土佐日记》作者为男性——紀貫之;而《蜻蛉日记》是第一部由女性创作的假名日记

《蜻蛉日记》的作者及生平介绍

作者

藤原道綱母(ふじわらのみちつなのはは)(?―995)

平安時代の歌人、日記文学作者。父は文章生出身で伊勢守などを歴任した藤原倫寧。母は刑部大輔源認の娘と伝えられるが異論もある。弟に歌人として知られる藤原長能、姪に『更級日記』作者の菅原孝標女がいる。中古三十六歌仙のひとりであり、のちには本朝三美人のひとりともされた。

天暦954年,政治的実権を握りつつあった右大臣藤原師輔の3男で、当時右兵衛佐の職にあった藤原兼家から求婚され、やがて結婚。『蜻蛉日記』にもみえる「嘆きつつ一人寝る夜の明くる間はいかに久しきものとかは知る」など37首が『拾遺集』以下に入集。歌人として活躍していたが、995年(長徳1)5月初めごろ60歳余で没した。

日本平安时代中期的歌人,父亲是藤原伦宁,母亲是大辅源认的女儿,丈夫是藤原兼家,弟弟藤原长能是广为人知的歌人,侄女的代表著作为《更级日记》,其子是藤原道纲,中古三十六歌仙、女房三十六歌仙、百人一首歌人。《尊卑分脉》称其是本朝三美人之一藤原道纲母是大贵族藤原兼家的众多妻子之一,称为道纲母是因为当时平安时代妇女社会地位低下,不传其名,而借用其子藤原道纲来称呼

天历8年(954年),她嫁给藤原兼家,当时兼家的正室藤原时姬已经诞下藤原道隆。最初,夫妻生活也过得不错,翌年她更替兼家诞下次子藤原道纲,可是随着兼家与其他女性结婚,两人渐渐疏远。天禄2年(971年),长间待在寺院的她被兼家强行带返居所。她也曾经前往长谷寺和石山寺参拜求子,可是未能如愿以偿。晚年,她搬至贺茂川附近的中河(或中川)居住(现京都府京都市上京区今出川通至寺町通一带)。长德元年5月2日(995年6月2日),约60岁的时候死去。

关键词:一夫多妻制、走婚制

背景

平安時代は一夫多妻制だが、複数の妻の中にもランク付けがあり、その一番上の位にいるのが正妻である。父方の血筋の良い女性などを正妻として迎え入れ、その他にも妻がいるというわけである。妻は三日の儀を執り行い、結婚した者のみとし、儀式を執り行わなかった場合は愛人となる。立場としては正妻が一番上だが、結婚した後も夫が足繁く通うには、後継ぎとなる男児を産むこと、和歌などで夫の気を引くなど努力が必要になる。当時、貴族の女性は親と夫の援助なしには生活出来ず、夫に捨てられボロボロになった家で夫の訪問を待ち続けるしかない女性や、やむなく都を離れた女性も多くいた。

藤原道綱母は結婚した次の年には藤原道綱を産み、正妻時姫より寵愛されていたと考えられることが多いだが、『蜻蛉日記』ではそのような幸せな様子は描かれず、愛人を作って自分のもとに通いに来ない兼家に対する嘆きに多くの筆を割いている。

平安时代为一夫多妻制、走婚制(结婚后夫妇不同居,丈夫走访对方的居住场所)妻子中地位最高的为正妻,正妻的家庭背景很强大。同时,只有妻子才能享受三日的仪式,否则便是作为情人般的存在。虽说正妻地位最高,但是为获得丈夫宠爱,女子们需要努力生下继承人、用和歌等其他手段吸引丈夫的注意力。所以这种制度在一定程度上导致了女性的不幸

藤原道纲母在结婚后的第二年生下了藤原道纲,通常被认为比正室时姬更受宠爱,但在《蜻蛉日记》中描写幸福生活的笔触较少,而是用最私密、最细腻的日记与和歌文体,揭开封建婚姻制度下女性真实的情感与生存状态,她述说了在一夫多妻制度之下遭到丈夫背叛女性内心的苦恼以及伤痛。除描写自己的感情生活之外,作者在作品中对独子藤原道纲寄予钟爱。

《蜻蛉日记》的详细内容

上卷

兼家の求婚から始まり、結婚。次の年には道綱が産まれる。順調に見えた結婚生活のはずだったが、父が陸奥(現在の青森県全域と岩手県の北西部にあたり)に赴任し、母が亡くなり、町の小路の女という兼家の浮気相手が出現し、妊娠といった様々な不幸に見舞われる。また、作者は道綱しか子供を授からないが、時姫は三男二女に恵まれる。(三男が藤原道長)

中卷

作者方と時姫方の従者が乱闘する事件が起きる。その結果、作者は少し離れた所に転居する。その後、兼家は東三条邸に新居を建設するが、新居に迎え入れられたのは時姫母子だけで、時姫と作者の立場の差が大きく開いていた。この巻の特徴として、独詠歌が多いことがあげられる。通常、歌の多くは男女間で贈り合う贈答歌である。一方で、独詠歌は「独りで詠んだ歌」のことである。そのため、独詠歌が多いということは「相手にされず独りでいることが多い」ということを意味している。

下卷

今までの夫婦生活中心に描かれていたが、下巻になると描かれなくなっていく。広幡中川に作者が転居した後兼家の来訪もなくなる。下巻で中心的に描かれるのは、作者が迎えた養女と養女に求婚した右馬頭遠度の物語である。

考点回顾

问题:

1. 『蜻蛉日記』の作者は誰ですか。

2.作者は誰と結婚しましたか。

3. 問2の人物は作者の他に誰と結婚していますか。

4. 『蜻蛉日記』以前に出来た日記文学は何ですか。

5. 作者の子供は誰ですか。

6. 『蜻蛉日記』は後世に対する影響は何ですか。

答案:

1. 藤原道綱母。

2. 藤原兼家。

3. 時姫。

4. 「土佐日記」。

5. 藤原道綱。

6. 最初の仮名日記として、これからの日記文学だけでなく、内省的な批判性は『源氏物語』にも大きな影響を与えた。

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