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外国語を勉強する者にとって、幼い頃に外国で現地の言葉を身につけたり、両親の母国語がそれぞれ違っていたりして自然と2ヶ国語を習得した人というのは、 喉から手が出るほど羨ましい。すんごく大変な思いをして外国語を習得する苦労を知っているだけに、幼児期にネイティブ並の語学力を身につけられるなんて、一体どんな感覚なんだろう、僕には一生味わうことのない感覚だ、などと思ってしまう。16才の時、米国に1年間住んだが、もう時既に遅し。

有些人从小身居国外,于是学会了当地语言,有些人父母母语不同,于是自然而然地掌握了两种语言,对于他们,外语学习者简直是羡慕嫉妒恨。正因为吃了很多苦,也深知外语学习的不易,我才一辈子都不会明白,儿时便能掌握不亚于本土人的外语能力究竟是种什么样的感觉。虽然在16岁时我去美国住了一年,但也已经晚了。

今や、日本のどこもかしこも英語ブーム。書店には英会話の参考書がズラリ、テレビを点ければ英会話番組、電車に乗れば英会話の中吊り広告。新聞や雑誌にもその宣伝が出ている。そして、まだ日本語もおぼつかない子供のうちから英語を!と躍起になっている親の何と多いこと。まぁ確かに、僕も外国語を専門として勉学に勤しんでいた身分として、その気持ちは本当に良く分かる。出来ることなら、僕も子供時代に戻って英語シャワーを浴びたいと思う。

如今,日本到处是英语热潮。书店里英语会话的参考书齐刷刷一排、打开电视就能看到英语口语节目、乘坐电车会发现车厢中挂着英语会话广告,就连报纸、杂志上都有相关宣传。还有,竭力想让孩子们在牙牙学语阶段就拿下英语的父母不在少数。不过确实,作为一个把外语当专业勤学苦读的学习者来说,我也非常能理解这种心情。如果可以,我也想回到孩童时代,在英语的沐浴下习得知识。

ところがである。伝える為だけでなく、物事を考える手段でもあるのが言葉。人間の言語中枢の基礎がほぼ完成する8~10歳の間に、母国語とは全く異なる体系と原理の言葉を詰め込むと混乱を来してしまい、成人になってからも思考力の不安定な人が多いと、多くの学者が観察報告として挙げているらしい。ショックだった。幼少期に外国で暮らした人や、両親の母語が異なる人に多いのだとか。この事実は、何度か本で目にしたことがある。その度に、「じゃあ、あの人はどうなんだろう?」「はて、その人は大丈夫だったんだろか?」「おや、この人は年齢的な問題でクリアしてんのかな?」などと思考を巡らせていた。

但是,语言这东西不是只为了传递交流而存在,它也是人们思考事物的一种方式。据说很多学者都提出了观察报告,指出不少人存在这样的问题,那就是——在人类语言中枢根基基本打扎实的8~10岁之间,大脑若被大量塞入和母语体系、原理截然不同的语言就会导致混乱,然后即使成年后思考能力也依然不稳定。这让我很震惊。据说童年时期身居国外、或父母双方母语不同的人群中,这种情况很多见。我也在不少书中看到过这个事实,然后每次都会左思右想,“那,那谁是什么情况啊?”、“哎呀,那个人没事吧?”、“哎哟,这人,因为年龄问题所以不会有事哦?”

しかしよくよく考えてみると、確かに頷けるような気もする。外国語というのは、母国語よりも上達することは絶対に有り得ないと言われている。母国語がしっかり身についていればいるほど、学ぶ外国語もそれに比例した語学力になる。確かに、外国帰りで外国語を流暢にペラペラと話す人は一見羨ましく思うが、反面、日本語が実に中途半端な人もいる。そういう人は、実はそのペラペラと話しているかのように見える外国語も中途半端なのだ。例えば、外国に住んでいても親が一生懸命漢字や日本語に触れさせたり、学校に通わせたりしている場合はまた事情が違うかも知れないが、そうでない人と話すと、興ざめすることがよくある。日本人でもなければ、外国人でもないような言葉を話し、感覚も日本人でもないような外国人でもないような。それは、単に外国語を好きで勉強していた、ちょっくら外国に住んでいたくらいの僕には理解出来ない感覚なのだ。

不过,其实认真想下便也会觉得有些道理。都说外语这东西不可能会比母语学的更好。母语功底越是扎实,所学的外语也越能到达一定的高度。乍一看,国外回来的人外语说的溜溜的确实很让人羡慕,但反而言之,也有人日语其实是个半吊子,而他们那些听起来流利的外语实际上也是半吊子。举个例子,当然,即便住在国外,也依然有父母拼命让孩子接触汉字和日语、甚至送去学校学习,这样的话情况也许会有不同,但如果不是这样的人,那和他们说话便会很无趣,这是常有的事。他们说的话既不像日本人也不像外国人,本人给人的感觉也是如此。这种感觉对于我这个单纯因喜欢外语而学习、在国外呆了没多久的人来说,是无法理解的。

外国語が出来れば通訳が出来る、という単純計算式は成り立たない。帰国子女に通訳が少ないのには、そこに理由がある。通訳とは片方の言語が優れているだけでは出来ない商売。僕が大好きな米原万里さんは帰国子女にしてロシア語通訳の第一人者となられたが、日本語に対する劣等感を拭う為に、相当な努力をされたのだと思う。

会外语就能翻译,这样简单的方程式是不成立的。归国子女中做翻译的人很少,这也有一定的道理,因为仅凭单方面的语言优势做不好翻译这工作。我很喜欢的米原万里是归国子女,后来成为了俄语翻译第一人,我想她为了抹去在日语方面的自卑感,一定下了不少功夫。

僕の場合、幼少期に何年も外国に住んでいた帰国子女ではないので、外国に留学した際、日本語による日記と手紙を毎日せっせと書き続けたお陰で、現地の言葉よりも、日本語が上達してしまったというクチだ。しかしそれもどうかと思う。同じ位せっせとその外国語も書けば良かったのに、人間、結局は郷愁の念にかられて、日本語のない世界に行くと日本語が恋しくて仕方がなくなる。日本語を読みたい、日本語を喋りたい、日本語を書きたい。貪り食うように日本語を読み、 喋り、書いた。あの思いは凄まじい。

再说说我自己,我并非是童年时期久住国外的归国子女,因此在外留学期间每天坚持写日语日记、书信,结果日语进步的比外语还要快。但其实我也觉得挺有问题的,明明该用同样的精力去拼命写那外语才对,可是人啊,一旦去到没有日语的世界,便会分外思念日语且无法自拔,这皆是乡愁所致。想读日语、想说日语、想写日语。所以我当时贪婪地读着日语、说着日语、写着日语,那种情感很是可怕。

そして今、日本にいるからといって外国語学習に精を出しているというわけではない。日本語ばかりである。人間、楽な方へと流れていくもの。もし僕のような者が幼少期に外国で暮らしていたら、きっと今よりもっと思考能力が低下していたに違いない。やはりこれで良かったのだ。

现如今,我也没有因为身在日本所以在外语学习上多么卖力,因为周围都是日语。人这种生物总是会想往轻松的方向去。像我这样的人儿时要是在国外生活,思考能力肯定比现在还要低下。还是现在这样最好。

语言学习者:学习外语难、教人母语更难

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