創作生涯の始まり|创作生涯的开始

芥川龍之介は大正時代の代表的な短編作家として知られている。夏目漱石と並ぶ近代日本文学の双璧であり、未だに読者の心をつかんで離さない天才作家である。

芥川龙之介(1892-1927)是大正时代短篇作家的代表人物,与夏目漱石并称为近代日本文学双璧,被誉为天才作家,至今仍然对众多读者有极大的吸引力。

芥川龍之介はの年、辰の月、辰の日、辰の時に生まれたので、辰之介、つまり龍之介と命名されたそうだ。本姓は新原だった。生後七ヶ月で母親が突然心の病に侵された。そのため、龍之介は母の実兄の芥川家の養子となった。

芥川龙之介于在辰年辰月辰日辰时出生,故名辰之介,即龙之介。本姓新原。7个月大的时候母亲突患精神病,因此龙之介被过继给母亲兄长芥川家做养子。

教育熱心の叔母の影響で龍之介は小さい頃から書物と親しむことができた。子供の時の愛読書は「西遊記」が第一である。それから「水滸伝」も愛読書の一つである。一時は「水滸伝」の中の一百八人の豪傑の名前を悉く諳記したことがある。本への執着はやがて創作活動の情熱へと昇華していきます。

姨妈对教育有很大热情,受她的影响,龙之介从小就热爱读书。童年时代最喜欢读《西游记》《水浒传》也是他喜欢的书之一,有一段时间甚至能完整背出一百零八好汉的名字。他对于书本的执着最终化为了创作的激情。

高等小学校と中学時代の龍之介は仲間たちと回覧雑誌を作ることに熱中した。ある回覧雑誌には夏目漱石の「吾輩は猫である」をもじった作、「我輩も犬である」を寄せている

就读高等小学和中学时期,龙之介和朋友们热衷于创办传阅杂志,在其中一本杂志上,芥川发表了《我是狗》,这是一部模仿夏目漱石《我是猫》的戏谑之作。

大正二年、龍之介は東京帝国大学英文科入学。大学に入った龍之介は本格的な創作活動を始めた。大正四年、23歳の時、龍之介は柳川龍之介という名で《羅生門》を発表した。 ところが、この作品はには大した反響がなかった。しかし、後の「鼻」は師匠の夏目漱石に絶賛され、 龍之介の出世作となった。

大正二年(1913年),龙之介进入东京帝国大学英文系,此后,他正式开始了文学创作。大正四年,23岁之时,龙之介以柳川龙之介的笔名发表了《罗生门》。但是这部作品却没有引起很大反响。之后的《鼻子》却受到老师夏目漱石的盛赞,成为龙之介的成名作。

恋に落ちた龍之介|龙之介的恋爱

22歳の時、龍之介は上総一ノ宮で一夏を過ごした。吉田弥生という女性に恋をした龍之介はここで恋文を書いた。しかし、この恋は養家の猛反対に遭い、止むを得ず結婚を断念した。翌年心の痛みを癒すべく、龍之介は旅を出たりした。

22岁那年,龙之介在千叶县的一之宫町度过了一个夏天。那时,他正和一名叫吉田弥生的女性谈恋爱,在此地给对方写过情书。但是这场恋爱却遭到养父母的反对,最终他不得不放弃了结婚的念头。第二年,为了平复情伤,龙之介出外旅行。

面白いことに、龍之介は24歳の時にも同じここ一宮で恋文を綴った。この女性こそのちの妻となる塚本文。恋文はとても暖かくて、文に対する深い愛情が読み取られる。恋文はこう書かれてあった。
「僕のやってゐる商売は 
今の日本で、一番金にならない商売です。
その上、僕自身もに金はありません。
ですから、生活の程度から云へば何時までたってても知れたものです。
それから、僕はからだもあたまもあまり上等に出来上がってゐません。
(あたまの方はそれでもまだ少しは自信があります。)
うちには、父、母、叔母としよりが三人ゐます。それでよければ来て下さい。
繰返して書きますが、理由は一つしかありません。
僕は文ちゃんが好きです。それでよければ来て下さい。」

有趣的是,24岁的时候,还是在一之宫,龙之介又给另一位女性写了情书,她就是后来的妻子,塚本文。这封情书写得温情脉脉,从中可窥见他对妻子的深情。
“我从事的职业,在当今日本最不赚钱。
而且,我本人也没什么财产。
未来生活水平改善的希望也不大。
天生身体和头脑也算不上出色(在头脑方面还有少许自信)。
家里有父亲,母亲和姨妈三位老人,要是不介意的就请嫁过来吧。
反反复复写了这么多,理由只有一个。
那就是我喜欢文。要是这样就可以的话就请嫁过来吧。”

关于芥川龙之介的自杀>>