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甲府藩主徳川綱豊(のちの第6代将軍家宣)の家臣西田清貞の子として生まれる。間部宮内、のち間部越前守は、猿楽師喜多七太夫の弟子であったが、貞享元年(1684年)に甲府藩主徳川綱豊(後の6代将軍徳川家宣)の用人になり、甲府徳川家の分限帳には新井白石とともに詮房の名が見られる。藤原氏山蔭流間鍋氏であるが、徳川綱豊の命によって間部氏となる。 宝永元年(1704年)、綱豊の江戸城西の丸城入に伴ない甲府徳川家家臣団は幕臣に編入され、詮房は従五位下越前守に叙任し、側衆になり、1500石加増。その後も累次加増され、宝永3年(1706年)には、相模国内で1万石の大名となった。のちに加増を重ね高崎藩5万石を得た。

间部诠房是甲府藩主德川纲丰(之后的第6代将军家宣)的家臣西田清贞之子。间部宫内(间部诠房),即后来的间部越前守是猿乐师喜多七太夫的弟子,贞享元年(1684年),他成为甲府藩主德川纲丰的执事,在甲府德川家的家臣名簿上,“诠房”一名与新井白石一同见于纸上。间部氏原属藤原氏山阴流的间锅氏,后受德川纲丰之命改名为间部氏。宝永元年(1704),甲府的德川家臣团随纲丰进入江户城西的丸城,被收编为幕臣,诠房也任职从五位下越前守,成为将军身边的侍从,并加增1500石。此后又连连加俸,宝永3年(1706)在相模国成为1万石的大名。此后又不断加俸,增至高崎藩5万石。

间部诠房

日本の歴史上において、猿楽師であった者が大名になった例は他にない(なお、猿楽師自身ではないが、猿楽師の子が徳川幕府内において強大な権勢を振るった例として大久保長安があげられる)。詮房は、側衆としての格が上がり、若年寄に次ぐ地位になり、ついで序列上、老中の次席を命じられた。

在日本历史上,猿乐师成为大名者仅此一例(虽非猿乐师却是猿乐师之子,在德川幕府权倾一时的还有大久保长安)。身为将军的侍从(侧众),诠房位高权重,地位仅次于若年寄,在官位品级上,又被任命为老中次席。

詮房は、将軍家宣儒学者新井白石とのトロイカ体制で、門閥の譜代大名や将軍に対して強い影響力を有する大奥などの勢力をさばき、「正徳の治」を断行した。

诠房与将军家宣、儒者新井白石之间形成了三人共治制,他们惩治门阀谱代大名和对将军有强大影响力的大奥等势力,推行“正德之治”。

しかしながら、詮房、白石の政治は、その政治的権威が将軍家宣にのみ依拠するという不安定な基盤に拠っており、特に家宣死後、幼少の家継が将軍職を継ぐにあたり、門閥層や反甲府派の幕閣の抵抗がいよいよ強まり、政治改革が中々進まなかったのが実情である。

然而,诠房与白石的施政权威仅依靠将军家宣,后台是很不稳定的。特别是在家宣死后,年幼的家继继任将军,来自门阀派和反甲府派阁僚的抵抗愈发地强烈,政治改革难以推行。

そのため、家継が幼少のまま病没し、譜代大名や大奥などの推挙で徳川吉宗が8代将軍に就任すると、両人は一切の政治的基盤を喪失し失脚した。しかしながら大名としての地位を剥奪されることはなく、領地を関東枢要の地高崎から、遠方の村上藩に左遷されたにとどまり、形式の上では5万石の大名であり続けた。

因此,在家继幼年夭折,由谱代大名和大奥推举的德川吉宗就任八代将军后,两人失去了所有政治后台,被逐出政坛。不过间部的大名身份并未被剥夺,他的领地从关东要枢高崎改迁至遥远的村上藩,在形式上,仍是5万石的大名。

江户时代的将军侍从

享保5年7月16日(1720年8月19日)、詮房は暑気あたりで村上の地にて死去。享年55(満54歳没)。後を養嗣子(実弟)の間部詮言が継いだ。間部家は上野国高崎藩5万石から越後国村上藩5万石を経て越前国鯖江藩5万石で明治維新を迎え、華族令によって子爵を授けられる。

享保5年7月16日(1729年8月19日),诠房因中暑死于村上,享年55岁。养子(弟弟)间部诠言继其后。间部家从上野国高崎藩移至越后国村上藩,后封为越前国鲭江藩5万石,明治以后依照华族令被授予子爵尊号。

人物逸話

真面目で信義に篤い人物だったとされ、他の幕臣は交代で勤務にあたったが、詮房は徳川家宣に昼夜片時も離れず勤務したため、家宣も詮房のことは特に信頼していたという。

其人其事

诠房是个认真、并笃于信义的人,其他幕臣皆轮换办公,而诠房则不分昼夜,片刻不离地在德川家宣身边工作,因此深受家宣信赖。

新井白石は「身のがなく」、「きわめて生質の美なるところありて、おおかた古の君子の人にも恥じまじき」と詮房を評した。また、白石は家宣の死後に政治に対して消極的になることも多かったが、そのような白石を励まして能力を引き出すことに尽力したという。

新井白石对诠房如此评价:“他从没有闲暇”、“生性高雅,与诸古君子同列也无需腆颜”。另外,白石在家宣死后,政治上多倾向消极,诠房则勉励白石,为让他发挥才能而倾注了全力。

家宣死後、大奥へ頻繁に出入りし月光院と密会を重ねていたとか、大奥で月光院と一緒にいるときの詮房のくつろいだ様子から、徳川家継が「詮房はまるで将軍のようだ」と乳母に言ったなどという逸話がある。さらに月光院と詮房は桜田御殿時代から深い仲であったとか、また詮房の旧姓が間鍋であることと家継の幼名鍋松から、家継は詮房の子でないかという説がある。だが、これらはいずれも俗説に過ぎず信憑性は低い。

家宣死后,诠房频繁出入大奥,多次密会月光院,德川家继在大奥见到诠房与月光院一起,十分亲昵,他对乳母说:“诠房就像将军一样”。又有观点认为,月光院和诠房自樱田御殿时代就相是老相识,诠房的旧姓是间锅,家继幼名是“锅松”,因此家继可能是诠房之子。不过,这些都是民间传说,可信度很低。

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