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先日、部下が「まるで蜂の子を散らすように」と言うので、それを言うなら「蜘蛛の子を散らすように」だと訂正したのですが、まあ、それも仕方がないでしょう。蜘蛛の子も蜂の子も実際見たこともないのですから。

前些日子,下属说了句“像幼蜂一样四处逃散”,我指正他说,如果想表达向四处逃散,应该是“像幼蜘蛛一样四处逃散(日语固定表达)”,不过那也没办法,谁让他既没亲眼见过幼蜘蛛也没见过幼蜂呢。

かく言う私にしても、実際蜘蛛の子が散るところを見たという記憶が定かにはありません。あるいはテレビの動物番組か何かで見たのかもしれません。蜂の子にしても山村の温泉宿で佃煮になったものしか見たことがないように思います。

我虽这么说,但幼蜘蛛四处逃散的情景在我自己记忆中也很模糊。或许是在电视里的动物世界或者别的什么地方看过。就连幼蜂也只在山村温泉旅馆里见过被做成咸烹口味的。

こんな具合に、喩えの元となる風景が日本の国から消えかかっているために、そのことばも一緒になくなるのではないか、あるいは、ことばだけが残って語源の想像がつかなくなるのではないかという例がたくさんあります。

像这样的例子有很多,由于喻物本身正逐渐从日本消失,以至于人们担心相关表达是否也会一起消失,或者说,只有表达遗留下来,而语源则可能变得越来越陌生。

例えば「雨後の筍のように」などと言いますが、その表現を聞いて雨の後にタケノコがにょきにょき出てくるさまを想像して愉しめる人が、今の日本にどれくらいいるのでしょう?そもそも収穫した状態でしかタケノコを見たことがない日本人も増えているのではないでしょうか?私はもちろん生えているタケノコを見たことがあります。しかし、「一昨日見た時には何もなかったのに、昨日雨が降ったら急に出てきたなあ」などと実感したことは一度もありません。

比如“如雨后春笋般”之类的表达,如今在日本能有几个人听完后会在脑海中浮现出雨后春笋接连冒出的景象并乐在其中呢?说起来,恐怕越来越多日本人只见过收成后的笋吧?当然,长在地里的我是见过的。但像“前天看时还什么都没有,昨日下了场雨就突然冒出来了”这样的状态却没有过实际体验。

「柳が風になびくように」という表現も実感の湧かない人が増えてきているのではないでしょうか? 私が幼少の砌には、柳の木なんてそこかしこにあったものですが、最近はめっきり見なくなったような気がします。この表現も「雨後の筍」のように、いつしか誰かが「なんでそう言うの?」と言い出しそうな気のする表現です。

对于“如杨柳迎风”这样的表达同样没什么实感的人应该也在变多吧。在我年少时期,生活中随处可见杨柳,但近年来却一下子见不到了。或许有一天,它的语源会像“雨后春笋” 般变得陌生。

タケノコはまだ良いのです。スーパーに行けば売っているので、せめてそこで見ることができます。しかし、現物を全く見なくなってしまうものもあります。例えばヘビ。ヘビなんて昔はそこら辺にいたものですが、都会暮らしをしていると、もう何年も見たことがないと言う人が多いのではないでしょうか?

竹笋其实还算好的,因为超市就有得卖,至少去了还能见到。但如今有些东西却完全见不到实物了。比如蛇,过去还能在一些地方发现,如今生活在城市里,恐怕许多人已经多年没见过了吧?

ヘビにまつわる表現としては、「蛇腹」「蛇口」「蛇の目」などたくさんの日本語があります。昔の日本人はいろんなものの形状をヘビになぞらえたようです。ヘビを見なくなった今の若い子たちにすれば、どうしてそういう言い方になっているのか想像がつかないのではないでしょうか。

日语中有很多跟蛇有关的表达,比如“蛇腹(蛇纹管、飞檐)”、“蛇口(水龙头)”、“蛇の目(蛇眼伞)”等等。据说过去的日本人把各种东西的形状比作是蛇。对于如今不怎么见得到蛇的年轻孩子来说,很难想明白为什么要这么说吧。

ま、でも動物はまだ良いのです。動物園に行けば見られるわけですから。いや、「蛇の目」などというものはそれ自体が生活の中から消えようとしていますので、どっちみち分からなくなるものなのかもしれません。

不过嘛,动物也还算好,因为去动物园就能见得到。只是,“蛇眼伞”这些东西其本身就在渐渐从我们生活中消失,可能终究逃脱不了被人遗忘的命运。

そして、「蛇の目」という表現が消えるのであれば、同じように「蝙蝠傘」という表現も消えるのでしょう(たとえ蝙蝠傘という物自体は残ったとしても)。コウモリなんて、都市部では全く見なくなりましたから、それも仕方がないでしょう。

另外,如果“蛇眼伞”这样的表达会消失的话,那么同样的,“蝙蝠伞”也会消失吧(即便蝙蝠伞这个东西本身留了下来)。如今在城市里已经完全见不到蝙蝠了,这也没办法啊。

「蛇口」という表現はしっかり残っていますが、今このことばを音で聞いてヘビを意識する人はいないでしょう。同じように「がま口」と聞いて「蝦蟇(ガマ)」を思い浮かべられる人も極めて少ないはずです。ま、「がま口」もまたそれ自体が生活のシーンから消えて行きつつありますが。

“水龙头”这个表达依然很常用,但现今恐怕很少有人在听到这个词时会联想到蛇吧。同样的,听到“蛙嘴钱包”联想到“蛤蟆”的人也应该少之又少了。当然了,“蛙嘴钱包”其本身也在慢慢淡出人们的视线。

同じように消えつつあるものとして「張子の虎」があります。私の親の世代は中身の乏しい物や人間を「張子の虎みたいに」という言い方でよく揶揄していました。昔は張子細工の置物は大抵の家にひとつぐらいはありましたからね。今それを説明するのは至難の業になってきています。

同样的还有“纸老虎”。我父母那一辈经常会用“像纸老虎一样”这样的说法去嘲笑那些缺乏内涵的人或物。因为在过去,大家家里多少都会有一个这一工艺的摆件嘛。如今想要将其描述清楚简直是难上加难。

注:「張子虎」は虎の形をした首の動く張り子のおもちゃ。転じて 、首を振る癖のある人、また、虚勢を張る人、見かけだおしの人などをあざけっていう語。そもそも中国の虎王崇拝が日本に伝わり、作り始められたとされている。

逆にものは決して消えていないのに語源が全く分からなくなるものもあります。例えばイソギンチャクです。これは磯巾着なのですが、「磯」のほうは分かるにしても、和装の衰退とともに「巾着(キンチャク)」という入れ物も「がま口」同様使われなくなってきて、この生きものの名前がこれになぞらえて付けられているのだという実感が失われてしまいました。

反之,也有些东西本身还在但其语源已经完全变得陌生了。比如海葵,它写作“磯巾着”,由于和服文化逐渐衰退,“巾着(荷包)”这种小袋和“蛙嘴钱包”一样渐渐用得少了,因此即便知道“磯(海岸)”是什么,人们也很对这种生物的命名产生什么实感了。

注:日本名のイソギンチャクという名は、磯巾着であり、触手を縮め、口盤の縮んだ姿が巾着に似て見えることからその名がついたものと考えられている。

今回は動植物にちなんだことばを取り上げましたが、ことばもまた生きものなのです。動物や植物たちと同じように、次々と生まれてはまた死んで行き、新しいことばに取って代わられて行くのです。

这次我举的例子都是和动植物有关的,语言也不是死的,它们会像动植物一样一个接一个地诞生、消亡,不断更新换代。

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