军港城市横须贺:日式咖喱饭发源地
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横須賀は、「開国の街」としても知られています。江戸時代に、アメリカ合衆国の東インド艦隊司令長官ペリー提督が、艦隊を率いて浦賀沖に来航。大統領の親書を江戸幕府の役人に渡し、鎖国していた日本に港を開くよう要求します。初めて目にした西洋の船の異様さから、このときのペリーの艦隊が「黒船」と呼ばれるようになったのはご存じの通り。当初は開国を渋っていた幕府でしたが、黒船の迫力や欧米の進んだ文明に驚き、翌年に再び来航したペリーと日米和親条約を結び、下田、函館の2港を開港したのでした。
横须贺是有名的“开国之城”。江户时代,美利坚合众国东印度舰队司令官佩里提督率领舰队来到了横贺冲。他将美国总统的信笔书写交给江户幕府的官员,要求处于锁国状态的日本开放港口。众所周知,当时的人们初次见到来自西洋的奇异船只,就将佩里的舰队称为“黑船”。幕府一开始并不愿意打开国门,后来被黑船的威力和欧美的先进文明所震惊,第二年便与再次来日的佩里签订了《日美和亲条约》,开放下田与函馆两个港口。
横須賀には、現在私たちが食べている「カレーライス」の誕生にまつわるエピソードがあります。
明治時代の日本の海軍は、イギリスの海軍を模範としていましたが、イギリス海軍では「軍隊食」として、今の日本のカレーに近いシチューが食べられていたと言います。そこで日本海軍でも、このカレーを食事に取り入れました。最初はイギリス風にパンにカレーをつけて食べていたのが、とろみをつけてごはんにかけるようアレンジがなされ、日本海軍の軍隊食として定着したそう。このカレーが全国に広がり、日本のカレーライスとなったのです。
横须贺还有一则趣闻轶事,如今日本人常吃的“咖喱饭”就是诞生在这里的。
明治时代的日本海军以英国海军为模范,而英国海军的军队伙食就是与现在的日式咖喱相近的炖菜。于是日本海军也以这种咖喱作为伙食。最初是英式的咖喱配面包来吃,后改良为做成稠糊状配上米饭,并落实为日本海军的军队伙食了。后来这种咖喱推广至全国各地,成为了日本的咖喱饭。
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