“本日土用丑の日”は、平賀源内(ひらがげんない/1728-1780)の名コピーとされる。彼は、蘭学者であり博物学者でも戯作者でもあった。天才、異才、奇才と称されるように、様々な分野に手を広げ、マルチタレントのような生涯を送った有名人である。科学者として、文学者として、また発明家やビジネスマンとしても、八面六臂(はちめんろっぴ)の大活躍だ。

“本日土用丑之日”是平贺源内(1728年-1780年)创作的著名广告词。平贺既是兰学家、博物学家,也是一位通俗小说家。正如他被称为天才、异才、奇才一般,平贺源内在许多领域都成就斐然,是一个一生多才多艺的名人。不管是作为科学家、文学家,还是作为发明家、生意人,他都能施展出非凡之才。

そんな活躍ぶりから、夏の土用の丑の日に鰻を食べる習慣は平賀源内の宣伝文句から始まったという俗説が生まれた。この話には、実はあまり根拠がなく、裏付ける史料も残っていない。狂歌や洒落本で知られる大田南畝(おおたなんぼ/1749-1823)説もある。

他的这些佳话也使得一个民间掌故应运而生,那便是,夏季土用丑日食用鳗鱼的习惯是起源于平贺源内的一句广告词。实际上这个故事并没有什么根据,能证明它的史料也寥寥无几。所以也有说法认为,故事的主角应该是以创作狂歌和洒落本闻名的大田南畝(1749年-1823年)。

その俗説によると、あるとき鰻屋の主から売り上げアップの相談を受けた源内は“本日土用丑の日”と半紙に書いてやったという。それを店先に貼ったところ、千客万来、店は大繁盛したというのである。

根据民间的说法,某位鳗鱼铺的老板为了增加鳗鱼的销量,前去咨询了平贺源内。于是源内在纸上书写:“本日土用丑之日”。老板把这张纸贴在店铺门口,结果来客络绎不绝,店铺的生意一下就红火了起来。

なぜ土用丑の日が鰻に結びつくのかには訳があった。この丑の日には「う」のつく物を食べる習慣がもともとあり、梅干し、うどん、瓜類などを食べるのが夏の暑い時季に体に良いとされていたからである。そこに注目したのが源内、「う」のつく鰻をクローズアップした。広告効果は抜群、現実的に夏バテに鰻が効くこともあって、以来鰻を食べることが習慣化し現在に続いている。土用の丑の日には、無性に鰻を食べたくなってしまうのが日本人ではないだろうか。理由などないのだが、あの美味しい蒲焼を食べたくなってしまうのだ。不思議な食文化ではある。

那么为什么要把鳗鱼和土用丑日联系起来呢,这其中是有原因的。“丑”日原本就有一个习惯,即吃名字里带有“う”的食物,因为在炎热的夏天里,吃点梅干(うめぼし)、乌冬面(うどん)、瓜类(うり)等食物,对身体是有很多好处的。平贺源内正是抓住了这一点,在带有“う”字的鳗鱼上大作了一番文章。从此以后,土用丑日吃鳗鱼成为了大家的习惯,一直持续至今。每到了土用丑日,就会对鳗鱼馋得慌,大概也就日本人会这样了吧。说到原因也没有啥特别的,其实就是很想吃美味的蒲烧鳗鱼。真是一种奇妙的饮食文化。

鰻は刺身でも食べられるそうだが、通常は蒲(かば)焼、うな重、うな丼としていただくことが多い。歴史を振り返ってみると、『万葉集』の大伴家持(おおとものやかもち)の歌には、鰻が夏痩せに効くことが詠み込まれている。大昔から我々の祖先は鰻を食べていたのは確かのようだ。おそらく何らかの方法で焼いたのだろう。

鳗鱼虽然也会被用于刺身的食材,但大多数情况还是被做成蒲烧、鳗鱼盖饭。回顾历史会发现,早在《万叶集》中,大伴家持吟咏的和歌就提到了鳗鱼对消除苦夏很有效。看来在很早以前,我们的祖先就已经在食用鳗鱼了。或许用了一些其它的方法来烤制吧。

江戸時代の風俗誌『守貞謾稿(もりさだまんこう)』には蒲焼の名前の由来が紹介されている。それによると、昔は鰻を輪切りにして串刺にして焼いたため、その形状が蒲(がま)の穂に似ていることから、蒲(がま)が転じて蒲(かば)焼になったのだという。

江户时代的风俗志《守贞谩稿》中就介绍了蒲烧名字的由来。据其记载,以前的人一般是把鳗鱼切成圆片,用竹签串成一串后烧烤,其形状正好和香蒲的穂很相似,于是“蒲烧”之名也就应运而生了。

鰻を開いてたれをつけて焼くという食べ方は、室町時代には既に上方で行われており、やがて江戸に下ってきたのだろう。元禄年間(1688~1704)には蒲焼の小屋掛け程度の店は登場したと思える。

把鳗鱼切开,加上佐汁烧烤的做法早在室町时代就已通行于京洛地区了,后来大概又传到了江户。在元禄年间(1688年-1704年),叫卖蒲烧的小摊就已经出现了。

うな丼は、文化年間(1804~1818)に日本橋堺町の芝居小屋の金主(スポンサー)である「大久保今助」の発案した食べ方とされている。日々仕事に忙しい彼は鰻が大好物、いつも芝居小屋に出前をさせていたが、焼きざましを残念に思い、丼に温かいごはんと蒲焼を一緒にして蓋をしたものを思いつき注文したのが始まりという。

鳗鱼盖饭相传是文化年间(1804年-1818年),日本桥堺町戏班的赞助人大久保今助想出来的吃法。每天忙于生意的今助特别爱吃鳗鱼,总会让外卖送到戏班,然而蒲烧变凉让他感到可惜,于是他想出一个办法,让店家在碗里混合着热饭和蒲烧,盖上盖子,据说这就是鳗鱼盖饭的开端了。

いずれにしても鰻は高価な食べ物だったが、江戸後期には庶民の食べ物にもなっていく。屋台も数多く出て蕎麦に近い値段で食べることができたようである(鰻一串が十六文、蕎麦一杯が十六文)。

不管怎样,鳗鱼是一种价格昂贵的食物,然而到了江户后期,鳗鱼野逐渐成为庶民的美食。在小摊贩多有售卖,价格接近荞麦,成为平民也能享用的食物。(鳗一串十六文,荞麦一碗十六文)

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