荒木村重(1535~1586)

信長に反旗、逃亡の虚実|举兵造反信长、逃亡虚虚实实

摂津の土豪から身を起こした荒木村重むらしげは、織田信長の抜擢ばってきを受けて摂津一国の支配を任されながら、天正6年(1578年)には信長に反旗を翻し、その後、一族を皆殺しにされたことで知られている。その際、織田軍に包囲されていた有岡城(現在の兵庫県伊丹市)をわずかの供と脱出し、自らは命を永らえたことで、卑怯ひきょうな武将といったイメージがある。

荒木村重最初其实来自摄津市的豪族人家,受到织田信长的提拔后,被授予了摄津一带的控制权,天正6年(1578年),他举旗造反,想推翻织田信长,之后的发展正如大家所熟知的,他一族都被灭门了。那个时候,被织田信长军队包围在有冈城(现在的兵库县伊丹市)的他仅带着随从跑了出来,自己苟延残喘活了下来,所以给人以懦弱武将的印象。
(右图是歌川国芳执笔的村重画像,1848-49年)

なぜ反旗を翻したのか、なぜ一人だけ生きのびたのか、など謎は多い。通説では、石山本願寺との戦いのとき、村重の家臣がひそかに本願寺に兵糧を売っていたことが露見し、その弁明のため信長のもとに行こうとしたところ、一族や家臣たちから「行けば殺される」と言われ、謀反に踏み切ったとされている。

他为何要举兵谋反?又为何只有他得以保全性命?诸如此类的谜团有很多。通常的说法是,在与石山本愿寺战斗时,荒木村重的家臣秘密在本能寺贩卖军粮的事败露了,原本他是要到织田信长那里去辨明此事,但他的族人和家臣们都对他进言,认为“如果去了就会被杀”,所以他才下定决心踏上了谋反的道路。

しかし、実際のところは、播磨・三木城の別所長治べっしょながはると同じで、信長にそのままついていくか、毛利輝元に属すかで迷い、毛利を選択したのではないかと思われる。

但实际上,与播磨·三木城的别所长治一样,有人认为他(做出此举)是否是他为继续跟随织田信长,还是转投毛利辉元的问题迷茫之后,最后选择了毛利的缘故。

有岡城を脱出したのも、村重自らが直接毛利の援軍要請に出向くためだったものと考えられる。村重を卑怯者のように描くのは、信長側の宣伝に乗せられているように思えてしかたがない。

这种想法主要是因为,从有冈城逃脱出来之后,荒木村重自己还亲自前往向毛利辉元申请援军。我们不得不怀疑将荒木村重描述成懦弱者的是来自织田信长方面的宣传。

摂津一国の支配者として、村重は実に有能だった。それは、現在も伊丹市に一部残る惣構そうがまえの築造に明らかである。惣構えは総構えとも書かれ、惣曲輪そうぐるわ・総曲輪といわれることもあるが、城と城下町をすっぽり包む土塁や堀のことをいう。北条氏の小田原城の惣構えが有名であるが、築造年代で言うと、荒木村重の有岡城の惣構えの方が早い。

作为摄津一带的统治者,荒木村重其实是相当有才能的。这一点可以从目前还残存在伊丹市的堡垒构造中看出。“惣構え”(外围防御工事)还可以写作“総構え”,就是所谓"惣曲輪"或“总曲轮”的地方,是正好将外郭与城下町围绕起来的土垒或护城河。北条氏所在小田原城的外围防御工事就很有名,要说建造年份的话,荒木村重的有冈城的外围防御工事还要早些。

城下町を囲み、総延長約4キロ。堀の深さが5~7メートル、土塁の高さは3~5メートルほどで、これにより、城下の民衆も守っていたのである。織田軍の攻撃を1年近くもはねつけていることからも、惣構えの有効性が実証された形である。

外围防御工事环绕城下町,总长约为4千米。护城河深5-7米、土垒高3-5米左右,凭借这个防御工事,城下的民众也可以参与守卫城堡。有冈城抵挡住了织田信长的军队将近1年的攻势。充分证明了防御工事的有效性。

結局、残された一族・家臣は天正7年の有岡城落城後、信長に捕らわれて斬殺・焼殺されるが、村重および嫡男の村次は、尼崎城および花隈城で抵抗を続けた。村重は最終的には、尼崎から船で毛利氏の下に逃げ、その後、毛利氏の庇護ひごのもとで、余生を送った。道薫と号し、秀吉の茶会にも招かれているのである。利休七哲の一人でもあった。

最终,荒木剩下的家族成员和家臣在天正7年有冈城被攻陷后,被织田信长逮捕、斩杀或烧死,而荒木村重的嫡子村次在尼崎城和花隈城继续抵抗活动。荒木村重最后从尼崎城乘船跑到毛利辉元那儿,之后一直在毛利的庇护下度过了余生。他还被邀请去了丰臣秀吉的茶会,自号道熏。是所谓利休七哲中的一员。

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