京都東山の清水寺の大きな木造の舞台の見事な写真。清水寺は北法相宗の総本山で、最初に建立されたのは798年だが、この写真にあるのは1633年に建てられたもの。舞台の上に座っている一人の人物が見えるが、祈っているようだ。

这是京都东山的清水寺大型木造舞台的精美照片。清水寺是北法相宗的总本山,最初是建造于798年,不过照片上的建筑是1633年所修建的。可以看到舞台上跪坐了一个人,似乎是在祈祷着什么。

この舞台は、数百本の柱が支えている。江戸時代(1600~1867)には、13メートルあるこの舞台から飛んで生き延びることができたら、望みが叶うと信じられていた。江戸時代の記録によると、約234人が飛び降りて、生き延びたのは85.4%だった。その殆どは20代から30代の男性だが、12歳の男の子や80歳の男性も記録に残っている。近くの門前町の住民が再三寺に申し入れて柵が設けられたが、飛び降りは防げず、飛び降りがなくなったのは1872年に明治政府が法律で禁止してからのこと。

清水寺的舞台由数百根柱子支撑。江户时代(1600-1867)时,人们相信,从高达13米的清水寺舞台上跳下若还能保住性命,那么就实现愿望。根据江户时代的记载,大约有234人从舞台上跳下,活下来的达到了85.4%。其中大部分是20多岁到30多岁的男性,不过也有12岁男孩或80岁男性的记录。附近门前町的居民多次要求寺院设置栅栏,然而还是未能防止人跳下。直到1872年明治政府公布法律禁止,跳下清水寺舞台的行为才逐渐消失。

清水寺を建立したのは僧侶の延鎮だが、飛び降りには驚いたことだろう。彼は啓示を受けて木津川沿いに泉を求め1、この場所を見出し現在の東山である音羽山の滝に落ち着いて、778年に小さな祠を建てた。二年程後に、伝説的な将軍坂上田村麻呂(758~811)がこの地に鹿狩りに来たが、それは彼の夫人が身籠っており、鹿の血が出産の痛みに効くと信じられていたから。延鎮は鹿を殺すのは誤ったことだと説いて、将軍は罪の償いのための儀式を行なった。坂上田村麻呂は、その後寺の建立に指導的な役割を果たすことになり、寺は音羽の滝の清い水から清水寺と名付けられた。歳月を経て元の建物は何度かの火災で失われ、現存しているのは1633年に徳川家光(1604~1651)が再建したもの。

建立清水寺的人是僧侣延镇,或许跳下舞台之举让他感到惊讶吧。相传延镇得到了神佛的启示,沿着木津川寻找泉水,发现了这里,他在位于现在东山的音羽山瀑布落下脚,778年建立了一个小祠堂。大约2年后,传说中的将军坂上田村麻吕(758-811年)前往此地猎鹿,原因是他的夫人怀有身孕,当时相传鹿血能减轻分娩的疼痛。延镇劝导说,杀鹿是错误的行为,于是将军为了补偿过错举行了仪式。坂上田村麻吕后来在清水寺建立中发挥了指导性的作用,由于位于音羽瀑布清水之畔,寺院得名“清水寺”。此后历经千年岁月,寺院原来的建筑多次在火灾中烧毁,现在存留下来的是1633年德川家光重建的建筑。

今でも音羽の滝の清水は山から流れ落ちている。現在は三つの流れに別れていて、参詣者は石の樋を流れ落ちる水を飲むことができる。左側の流れの水を飲むと賢くなり、右側の流れの水を飲むと良縁に恵まれる。中央の流れの水を飲むと長生きできる。三つの流れ全てから飲んでも何も得られない。これは控え目であるべきだということと、貪欲は愚かだと教える意味がある。

直到今天,音羽瀑布之水依旧从山上淙淙流下。现在分成了三个分流,参拜者能够用石樋引用从山间流下的清水。喝了左侧的水能变得聪明,喝了右侧的水能结下良缘,喝了中央的流水则能长生。不过将三条水流的水全喝下则什么也得不到。这是教导人们应有节制,贪欲愚不可及。

1994年にはユネスコの世界文化遺産に登録された「古都京都の文化財」(京都、宇治、大津)の一つとなっている。

1994年,清水寺登陆教科文的世界文化遗产,属于“古都京都文化遗产(京都、宇治、大津)”的一部分。

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