幕末動乱期、後に明治維新を打ち立てることになる多数の門下生を
輩出したことで有名な「松下村塾」、そしてその師「吉田松陰」。
幕末动乱时期,在著名的“松下村塾”门生中涌现出多位之后为明治维新奠基的人物,而这位老师正是“吉田松阴”。
短い生涯を自ら激しく燃やし、その情熱で周囲の人たちの心を揺り動かしました。
用热情燃烧了自己短暂的人生,用这种热情感染周围的人。
自らを「狂愚」と名乗った松陰。
松阴给自己起名“狂愚”。
「狂愚」とは現実の常識にとらわれないで、自分の信念に従い行動すること。
“狂愚”指的是不被现实所束缚,遵从自己的信念行事。
自分を「狂愚」と捉える考え方は、社会に対する絶望の表現である。社会をどんなに批判しても社会は、
馬耳東風で動こうとしない。逆に、頭がおかしいと扱われる。
将自己称为“狂愚”是他对社会感到绝望的表现。无论对社会进行怎样的批判,这个社会也不会对此有任何改变。反而认为你不正常。
のんびりしている社会に向かって、西洋が
攻めて来て国に災いをなす、などと言えば、狂人扱いされる。
如果对当今不思进取的社会,大声疾呼西方国家要侵略我们了,我们要亡国了等言论的话,就会被当成疯子。
■若い頃から「狂って」いた
■从年轻的时候开始就具有“狂人”的气质
吉田松陰先生は東北へ学ぶために旅行の計画を立てましたが藩からの許可がなかなかおりず、一緒に行く友人との約束の日を守ることを優先し脱藩したそうです。
吉田松阴计划去东北游学,但总得不到藩的许可,为了遵守与一同前往的友人间的约定,松阴做出了脱藩的决定。
当時の脱藩といえば、見つかれば死罪です。
在当时,脱藩被发现的话,就是死罪。
いくら目的が東北の海防調査という意義深いものとはいえ…。
不论去东北进行海防调查是多么意义深远的事也没有例外。
吉田松陰は安政元年(1854)3月、弟子の金子重之輔(重輔・かねこしげのすけ)とともに、再来したペリー艦隊の黒船に密航を企てます。
吉田松阴在安政元年(1854)3月,和弟子金子重之辅一同,密谋乘上第二次来航的佩里舰队。
特に周到な計画も立てずに、盗んだ小舟でアメリカ艦隊に横づけし、黒船の
デッキに乗り込みます。
没有特别周祥的计划,只是想乘盗取的小船拦住美国舰队,登上黑船的甲板。
当然追い返されました。
当然最后被追到强制返回了。
■牢屋へ入れられても全然めげない
■即使关进牢房也毫不在意
ちなみに松蔭は、生涯で何回も牢獄に入れられていて、最終的には前科5犯です。
顺带一提,松阴在一生之中受过多次牢狱之灾,最终记录是5次作案前科。
入獄および謹慎中を勉学の好機として驚くほど多くの本を読み、自らも原稿を書き、さらに松下村塾を継承して多くの青少年を教えた。
认为入狱是反思学习的好机会,会读数量惊人的书,同时会自己著书,并继承松下村塾,将书中思想教授给很多少年。
■弟子に心配されても聞く耳を持たない
■并没有把弟子的担忧放在心上
目に余る松陰の過激っぷりに、松下村塾の弟子たちは心配。「先生ちょっと落ち着け」と血判状まで出して諭すのですが、そんな
心暖かい弟子が
生ぬるいと映ったのか弟子との絶交を決意します。
看到松阴过激的行为,松下村塾的弟子们感到担忧。用表达了请“老师稍稍冷静些”的血印状劝诫老师,但松阴虽感怀于弟子们暖心的行为,却更加决意要与弟子们绝交。
■そして、潔く死刑に
■然后,高洁的死去
↑吉田松阴临终之碑(十思公园内) 東京都中央区日本桥小伝马町
「いよいよ首を斬る刹那の松陰の態度は、実にあっぱれなものであった。悠々として歩き運んできて、役人どもに一揖(いちゆう)し、“御苦労様”と言って端座した。その
一糸乱れざる堂々たる態度は、幕吏も深く感嘆した」
“快要行刑时松阴的态度实在是令人钦佩,悠然走到一旁,向行刑人作了个揖,说‘劳烦了’之后端坐下来。那种有条不紊堂堂正正的态度,连幕吏也很是赞叹”。
~僕は、獄に繋がれても、斬首の憂き目にあっても、天地神明にかけてこれまでしたことには恥じることはないので、わかっていてくださいね~
~我即使入狱,即使有被斩首的可能,也无愧于天地神明,并不觉得这是耻辱之事,希望你能明白~
現状に満足せず、常識という壁をいつも自らの行動で壊してきた松陰
不满足于现状的松阴,常常用自身的行动打破常识之壁。
だからこそ、黒船に乗り込み、クーデターを企て、何度も捕まりました。
正因为如此,才会想乘上黑船,企图发动武装政变,不断被捕。
考えすぎると何もできないということ。だからこそ狂愚を愛したのでしょう。
思虑过甚则做不成大事。因而才将狂愚作为信条吧。
■抑えきれない「狂気」
■无法抑制的“狂气”
狂うという字は、クレイジーという意味ではなく、本来は「自分でも持て余してしまうような情熱」を指します。
“狂”所指的不仅是狂热的意思,本来指的是“即使是自己也无法驱散的热情”。
「かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂」
“虽知前路不可为而为之,大和魂使然。”
「こうすればこうなる」と結果がわかっていても、やらなければいけない時がある…。
“明知山有虎,偏向虎山行(知其不可为而为之)”,有不得不做的时候…。
それこそが情熱であり、大和魂です。
这才是不畏生死的大和魂。
■「狂」の精神は弟子にも受け継がれる
■继承“狂”之精神的弟子们
その精神は高杉晋作や久坂玄瑞を中心とする子弟に受け継がれ、幕府との武力対決へと進んだ。
继承这种精神的弟子以高杉晋作、久坂玄瑞为中心,向幕府发动武力进攻。
山縣有朋は自分の名前を変えて山縣狂介とする。
山县有朋将自己的名字改为山县狂介。
高杉晋作は東洋の一狂生(普通は一書生と言いますよね)と名乗ります。
高杉晋作自称东洋一狂生(平常是说一书生)。
歴史に残る幕末の偉人たちは、松陰の「狂」の精神を
引き継ぎ活躍しました。
历史上活跃于幕末的伟人们,都不同程度继承了松阴“狂人”的精神。
常識を疑い、分別を忘れ、狂ったように自分の信じる道を往く。世の、有名無名の変革者には、常に狂があった。
怀疑常识,不在乎身份差别,如若狂人一般贯彻自己的道路向前迈进。人世中,不论有名、无名的变革者,都具备着“狂”的特征。
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