优秀奖

「異母姉妹」

李玲妤(齐齐哈尔大学外国语学院)

一年前に、私は温州から斉々哈爾に大学に来た。小さい頃からずっと雪が見たかったから、大学志望は東北の大学にした。初めて来たとき、北方の気候は南方とすっかり違うことに驚きを感じたが、ここの立派な木を見たり、すごい吹雪を経験したりしたら、感激でいっぱいになった。

先日、日本人の先生は斉々哈爾を紹介するビデオを企画した。私はそれに参加して、扎龍と嫩江の案内の役を担当することになった。

扎龍は丹頂鶴で有名な中国第一の自然保護区である。さまざまな天然の湖沼は扎龍に嵌め込まれたクリスタルガラスのようだ。鶴が舞い上がるとき、天地の果てしない広さを感じて、都市の喧騒を忘れて、心も伸び伸びする。

しかし、嫩江については何も知らなかった。何を紹介すればいいのか困っているとき、先生に「与謝野晶子が嫩江のほとりの留園に来たことを話してはどうか」と言われた。そして、先生に彼女の歌を見せてもらった。

「窓に倚り梨の花をば見上げたる夫人の顔も白き夕暮」、「我身をば中華の貴女の逍遥の車に見出づ夕日のもと」...。これらの歌を読んだ時、「わあ、美しい」と思った。私はまだ日本語初心者なので、この歌の完全な意味はよく分からないが、美しいと感じた。本当に不思議な感覚だ。何故だろうか。意味がよく理解できないのに、柔らかい月光が窓の外から梨の花びらを照らす画面があらわれた。華服を着た女たちがくつろぐゆったりした気持ちが目の前にあるように感じられる。特に感取されたのは、歌人が詠んだこの綺麗で人を酔わせる景色の好ましさだ。

また、先月、電子辞書を買ったばかりの時、私は辞書の中の小説の名前「幽霊」に引かれた。この小説の名前がおもしろくて、ためらわずに読み始めた。でも、初心者にとって内容は難しくて、全部理解できたと言えない。読んでいる最中、自分はいったい何を読んでいるのだろうとも思ったけれども、案外に、読み進めば進むほど著者が釀し出した怖い味わいにひたっていく自分がいた。

一方で、西洋の作品は、内容が全部分かり、ストーリーの背景も分かっても、最後まで作者が本当に伝えたいことが分からないことがよくある。有名な詩人の詩句、たとえば「Had I not seen the sun, I could have borne the shade. But light a newer Wilderness」もそうだ。たとえこの詩の意味がよく分かっても、詩人が何か伝えたいのか、彼女の気持ちがどうなのかは、しかとは感じられない。感情に共感しにくい。

それに対して、日本の作品の場合、背景や意味などぜんぜん理解できなくても、作者が作り出した雰囲気も伝えたい感情も感じられる。それは、中日文化に共通性があることがその理由ではないだろうか。共通性があるから、感情にも共感しやすくなる。

その共通性は、まず、日本と中国が同じ流れを受け継いでいることに由来する。唐時代に日本は、漢字、飲食文化、風俗などを学びながら、自分の文化を作り上げた。日本は中国の伝統文化と一脈相通じていながら、また全く違う姿を見せる。中国と日本の文化は同源異流だということができると思う。同源であるので互いに絆がある。でも、双方はときどきこの絆を見失うことがあった。

中国と日本は同父異母の姉妹とよく似ていると思う。彼女たちは同じ父から生まれて、容姿や性格などがぜんぜん違うにせよ、血の本源が同じだ。そのためにかえて反発しあいこともあるかもしれない。でも、たとえどんなに痛切な争いが起こっても、最後はきっとなかなかおりできる。姉妹だから、同じ血の絆がある。これは両人ともよくわかっていることで、それが互いに離れがたい理由となる。それが中日関係の原点だと思う。

中日関係の原点に戻れば、本来は明るくて、輝かしいに相違ない。それに、平和ということは両国人民にとって望ましいことだ。 今も中日の間にちょっとした矛盾があるにしても、将来は互いに真の親しみを感じあえると信じている。姉妹だから。

斉々哈爾の嫩江に遊んだ与謝野晶子はこの詩を書いたことでも有名だ。「ああ、おとうとよ、君を泣く、君死にたまうことなかれ、未に生れし君なれば、親のなさけはまさりしも、親は刃をにぎらせて、人を殺せとおしえしや、人を殺して死ねよとて、二十四までをそだてしや」。戦争に兵士として取られた弟を詠んだ反戦詩である。中国でも日本でも、人々は平和を望んでいる。静かな嫩江の流れのほとりで、それを感じる。

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