沪江日语阅读提示:双击或划选日语单词,查看详细解释,并可收录进生词本以供记忆学习。

今年も5月の第二日曜日『母の日』がやってきます。横浜高島屋は、約20年前から母の日弁当を販売しているそうです。これまで、母の日のプレゼントには婦人雑貨などの定番品が根強い人気を得て来ましたが、昨年あたりから弁当の売り上げが伸びているそうです。

今年的“母亲节”又要来了。据说,横滨高岛屋从20多年前就在出售母亲节便当。一般情况下母亲节礼物人们似乎大都是选购女性日用品,可去年起母亲节便当的销量突然开始有所上升。

最近のお母さんたちは、好みの物は一通り買い揃えていることが多いため、物よりも一緒に過ごす時間を贈る傾向が定着しつつあるのではないかということのようです。

究其原因,近来的妈妈们喜欢的东西大都已经买得差不多了,与其送那些东西,不如送上一家团圆的美好时光,这样的倾向似乎正渐渐扎根于人们心中。

母の日の来るよ不孝を量(はか)るため 福永耕二

母亲节来,试探不孝有几分

鹿児島県川辺(かわなべ)町生まれの福永耕二(1938~1980)は、地元大学に在学中、20歳の若さで水原秋櫻子(しゅうおうし)の主宰する俳誌『馬酔木(あしび)』の巻頭を飾るまでになります。大学卒業後、地元で教職に就きますが、水原秋櫻子のもとで俳句を学びたい気持ちを押さえ難く千葉県の私立市川高校へ転任します。

福永耕二(1938-1980),出生在鹿儿岛县川边町,在当地大学读书时,就登上了水原秋樱子主办的俳句杂志《马醉木》卷首,当时他才20岁。大学毕业后,他曾在当地执教,最终按捺不住想在水原秋樱子门下学习俳句的热情,调至千叶县的私立市川高中任教。

親に対する気持ちはあってもそれを行動で示すとなれば、女の子ほどまめでないのが男。ましてや、遠く離れた異郷にいる。母の日が来るたびに、何にもしていない、何もしてやれない自分の不甲斐なさが際立って感じられたのでしょう。

说到把对父母的感情付诸行动,男人总不及女子那般殷勤。更何况是在远隔千里的异乡。每逢母亲节到来,自己却什么也不做,也不能为母亲做些什么,也就越发觉得自己一无是处吧。

福永は、昭和46年(1971年)に、わずか32歳の若さで馬酔木の編集長を務めるまでになりますが、翌年の春、鹿児島にいる父を亡くし、いよいよ母を一人故郷に残すことになりました。つぎの句は父を亡くした翌年の夏に詠まれたものです。

昭和46年(1971年),年仅32岁的福永成了《马醉木》杂志的总编,然而第二年春天,在鹿儿岛的父亲亡故,从此故乡只剩母亲一人。下面两句便是第二年夏天所作。

ひとり棲(す)む母を侮(あなど)り袋蜘蛛 福永耕二

独居老母蜘蛛欺

雲青嶺(くもあおね)母あるかぎりはわが故郷 福永耕二

云绕青岭,母亲在处是吾乡

久し振りに帰郷すると、母が台所で甲斐甲斐しく手料理を作ってくれています。母もだいぶん年老いたものだと思いながら、その様子をながめていると、天井からするすると蜘蛛が降りてきます。『母を侮り』という中七に、福永の自責の思いが詠み込まれています。

回到久违的故乡,母亲不辞辛劳亲自下厨。心想着母亲真的老了,一边望着那身影,却发现一只蜘蛛从屋顶旁若无人地滑下来。中间部分的『母を侮り』也融入了作者的自责之意。

二つ目の句の青嶺(あおね)とは夏山のことです。背後にもくもくと積乱雲が沸きあがる夏の日の故郷の山々を思い出しながら、母に思いを馳せたのでしょう。この句は、千貫平という、東シナ海を望む薩摩半島南部の山の上に建てられた句碑に刻まれています。

后一句中青嶺(あおね)指夏天的山。想必是在想起故乡的群山背后积雨云滚滚涌起的情景时,不禁联想到了母亲。这首俳句被刻在了萨摩半岛南部千贯平山上所建的句碑上。

昭和40年(1965年)に鹿児島を発って、俳句の情熱をもって上京した福永でしたが、その15年後に志半ばにして、42歳の若さでこの世を去りました。

昭和40年(1965年)离开鹿儿岛,满怀对俳句的一腔热情来到东京,却在15年后壮志未酬之时英年早逝,年仅42岁。

(文中敬称略)

【参考】
・神奈川新聞社運営のコミュニティーサイト・ローカルニュース
・福永耕二句集『踏歌』(1997年発行、邑書林句集文庫)

声明:双语文章中,中文翻译仅代表译者个人观点,仅供参考。如有不妥之处,欢迎指正。