昨日の本欄は「気持ちで涼を感じるゆとり」を呼びかけている。ゆとりと呼ぶほどの自信はないけれど、お盆休みに居た京都で、ささやかな涼味に何度か救われた。

昨天,本专栏呼吁大家要有“心静自然凉”的闲情。没有自信称为闲情,盂兰盆节假期期间,我在京都幸运地得到一些清凉。

炎天下で寺社を巡り、大原の三千院に着いたところで日が陰った。五感が我に返ったのか、チョボチョボという手水鉢(ちょうずばち)の音に耳が行き、池のアメンボに目が届く。虫が動くたび、雲を映す水面に同心円が薄く走る。そういうものが随分いとおしく見える。近くの寂光院では、天の打ち水のような通り雨に恵まれた。

我顶着烈日游览京都寺院,到达大原三千院时,太阳被云彩遮住了。这时,好象恢复了知觉,滴答滴答的洗手水盆的声音传入耳中,水池中的水马映入眼帘。虫子每一次游动,云彩倒映的水面上就泛起微微涟漪。这些看上去都非常可爱。在附近的寂光寺还下了场骤雨,象是老天洒的降温水。

嵯峨野を渡る風もうれしかった。〈涼しさを絵にうつしけり嵯峨の竹〉と芭蕉が詠んだ情景だろうか。竹林をくぐる細道を、葉ずれの音と、青い香が抜けていく。

吹过嵯峨台地的风也令人欣喜。“将清凉绘成图画的嵯峨竹”,这就是芭蕉所描写的情景吧。穿过竹林小道,竹叶婆娑声与阵阵清香散落其间。

そんな「ちょい涼(すず)」の体感は、再びの炎天下であえなく蒸発した。戸外の高温多湿と、店や車内を満たす人工の冷気。10度の差を往復するうち、わずかな温度の揺らぎはどうでもよくなる。気持ちで涼を味わうには、なるほど心身と時間のゆとりが要りそうだ。

那种“丝丝清凉”的感觉一到烈日下就一下子蒸发了。户外的高温多湿与商店、汽车内的充足的人工冷气。在这10度温差的反复体验中,对温度的细微变化也就变得麻木了。要用心去感觉清凉,就要有相应的闲情与闲暇。

うだる夏、底冷えの冬。晩年の谷崎潤一郎は京の寒暖差に耐えかね、渋々、熱海(あたみ)に越したという。そういう地に都があったから、四季の移ろいを受け流す知恵、楽しむ文化が広まったのかもしれない。負けずに遊べば、京に「さんずい」を添えるだけで涼しくなる。

苦夏、寒冬。据说晚年的谷崎润一郎不堪京都的冷热温差,不得已移居热海。也许因为首都设在这种地方,应对四季转换的智慧和体验文化才传播开来。苦中作乐的话,只要在京字旁添上“氵”就会变凉爽。

清水の舞台には赤トンボが舞い、ヒグラシが聞こえた。秋の気配とするのは甘かろうが、時が連れ去るのも暑さ寒さである。川面(かわづら)の京名物、納涼床にせめて気持ちだけでも転がし、優しい季節を待つとする。

清水寺观景台上,红蜻蜓在飞舞,茅蜩在歌唱。如此便认为秋天到了,是有些乐观,但时间也带走了寒暑。至少让心情在河面的京都名产—纳凉床上打个滚,等待美好季节的到来。