2008年07月15日付 国语学者大野晋逝世
翻译:killer231 整理解说:baiheps
▼旧制一高の入試に挑んだ国語学者の大野晋さんは、落ちたらパン屋になろうと思っていたそうだ。合格発表には父親が行ってくれた。首尾よく合格していた。何番で合格だったかと聞くと、父親は一息おいて「お前の後には誰もいないよ」(『日本語と私』)。
据说,国语学者大野晋在当初参加旧制第一高等学校入学考试时,曾抱定了如果落选就去开家面包店的想法。发榜时是父亲替他去看的。结果顺利地合格了。当他问父亲自己在合格者中排名第几时,父亲喘了口气说“你后面没有人了”。(《日本语和我》)
▼28人中28番。日本は腕の良いパン職人を失ったかもしれないが、優れた国語学者を得た。日本語の源流を追って時を超え、海を渡り、旅を続けてきた。その大野さんがきのう、88歳で亡くなった。
28人中的第28名。日本可能就此失去了一个技艺精湛的面包工匠,但却得到了一位优秀的国语学者。他超越时空追溯日语的源流,渡过海洋,一路跋涉而来。就是这位大野先生,昨天离开了人世,享年88岁。
▼東京の下町の砂糖問屋に生まれた。中学時代、山の手の級友宅へ遊びに行き、シチューやピアノに驚いた。同じ東京なのに言葉づかいも食べ物も違う。ショックを受けて下町へ帰ると、慣れ親しんだ「日本」があった。
大野晋出生于东京平民区的一个砂糖批发商家庭。中学时代,他曾到住在高级住宅区的同学家里玩,那里的西式炖菜和钢琴令他非常吃惊。同是住在东京,但从语言到食物都却是那么不同。受到刺激的他回到了平民区,那里有一个他所熟知的“日本”。
▼そうした体験をへて、「日本とは何か」が終生をかけた問いになる。還暦を過ぎて、南インドのタミル語に日本語の起源があるなどと発表して論争を呼んだ。大胆さゆえに批判もわいたが、信念はゆるがなかったようだ。
此番体验,令大野晋终生都在追问:“日本是什么?”。年过花甲他发表了诸如日语起源于印度南部的泰米尔语的观点,引起了争论。大胆的观点使得非议纷至沓来,但这些似乎都不曾动摇他的信念。
▼硬軟織りまぜて日本語の知恵袋であり、ご意見番でもあった。小紙の記事も、疑問には大野さん頼みが目立つ。たとえば、開店祝いなどで「〇〇さん江」となぜ書くか。大野さんいわく、「へ」だと「屁(へ)」を連想するからでは?
他涉猎极广,堪称日语的百科全书,同时,他也相当直率。就连本报在报道中有什么疑问时,也常常会向大野先生请教。例如:在开业祝词等里,为什么要写做“〇〇先生 江”这样的问题。大野先生说,估计是因为写成“へ”的话会令人联想到“屁(へ)”吧。
▼最近の文芸春秋誌の鼎談では、日本人が日本語を放棄しているようなカタカナ語の氾濫(はんらん)を嘆いていた(6月号)。交友のあった作家の丸谷才一さんは「本居宣長よりも偉い最高の日本語学者だった」と悼む。宣長と雲の上で、日本語談議を始めるころだろうか。
在最近的文艺春秋杂志的鼎谈(三者谈话)中,大野晋感叹现在片假名语言的泛滥,就好像是日本人要放弃日语一样(6月号)。他的老朋友作家丸谷才一称之为“比本居宣长更伟大的顶级日语学者”,以寄托哀思。现在,大野晋已经开始在天上与宣长谈议日语了吧。
解说: 1.大野 晋(おおの すすむ、男性、1919年8月23日 - )は、東京都生まれの国語学者。学習院大学名誉教授。東京大学文学部国文学科卒。橋本進吉に師事する。古代日本語の音韻、表記、語彙、文法、日本語の起源、日本人の思考様式など幅広い業績を残し、学会への影響も小さくない。特に『岩波古語辞典』の編纂や、日本語のタミル語起源説で知られる。ほかに上代特殊仮名遣の強調、係り結びの倒置説、品詞の割合とジャンルとの関連性を指摘した大野の法則なども知られる。主著は『日本語の起源』『日本語の文法を考える』『日本語の形成』『日本語練習帳』など。
2.ごいけん‐ばん【御意見番】豊かな経験と知識とを持ち、偉い人に対しても遠慮なく意見を述べ、忠告する人。 更多翻译讨论尽在天声人语翻译讨论小组
人民中国(日文月刊)杂志社官方授权 欢迎订阅 >> 翻译好帮手:卡西欧电子词典EW-V3800H(英汉日版)
|