主人は痘痕面あばたづらである。御維新前ごいっしんまえあばた大分だいぶ流行はやったものだそうだが日英同盟の今日こんにちから見ると、こんな顔はいささか時候おくれの感がある。あばたの衰退は人口の増殖と反比例して近き将来には全くそのあとを絶つに至るだろうとは医学上の統計から精密に割り出されたる結論であって、吾輩のごとき猫といえどもごうも疑をさしはさむ余地のないほどの名論である。現今地球上にあばたっつらを有して生息している人間は何人くらいあるか知らんが、吾輩が交際の区域内において打算して見ると、猫には一匹もない。人間にはたった一人ある。しかしてその一人がすなわち主人である。はなはだ気の毒である。
 吾輩は主人の顔を見る度に考える。まあ何の因果でこんな妙な顔をして臆面おくめんなく二十世紀の空気を呼吸しているのだろう。昔なら少しは幅もいたか知らんが、あらゆるあばたが二の腕へ立ち退きを命ぜられた昨今、依然として鼻の頭や頬の上へ陣取ってがんとして動かないのは自慢にならんのみか、かえってあばたの体面に関する訳だ。出来る事なら今のうち取り払ったらよさそうなものだ。あばた自身だって心細いに違いない。それとも党勢不振の際、誓って落日を中天ちゅうてん挽回ばんかいせずんばやまずと云う意気込みで、あんなに横風おうふうに顔一面を占領しているのか知らん。そうするとこのあばたは決して軽蔑けいべつの意をもってるべきものでない。滔々とうとうたる流俗に抗する万古不磨ばんこふまの穴の集合体であって、おおいに吾人の尊敬に値する凸凹でこぼこと云ってよろしい。ただきたならしいのが欠点である。
 主人の小供のときに牛込の山伏町に浅田宗伯あさだそうはくと云う漢法の名医があったが、この老人が病家を見舞うときには必ずかごに乗ってそろりそろりと参られたそうだ。ところが宗伯老が亡くなられてその養子の代になったら、かごがたちまち人力車に変じた。だから養子が死んでそのまた養子が跡をいだら葛根湯かっこんとうがアンチピリンに化けるかも知れない。かごに乗って東京市中を練りあるくのは宗伯老の当時ですらあまり見っともいいものでは無かった。こんな真似をしてすましていたものは旧弊な亡者もうじゃと、汽車へ積み込まれる豚と、宗伯老とのみであった。
 主人のあばたもその振わざる事においては宗伯老のかごと一般で、はたから見ると気の毒なくらいだが、漢法医にも劣らざる頑固がんこな主人は依然として孤城落日のあばたを天下に曝露ばくろしつつ毎日登校してリードルを教えている。
 かくのごとき前世紀の紀念を満面にこくして教壇に立つ彼は、その生徒に対して授業以外にだいなる訓戒を垂れつつあるに相違ない。彼は「猿が手を持つ」を反覆するよりも「あばたの顔面に及ぼす影響」と云う大問題を造作ぞうさもなく解釈して、不言ふげんかんにその答案を生徒に与えつつある。もし主人のような人間が教師として存在しなくなったあかつきには彼等生徒はこの問題を研究するために図書館もしくは博物館へ馳けつけて、吾人がミイラによって埃及人エジプトじん髣髴ほうふつすると同程度の労力をついやさねばならぬ。このてんから見ると主人の痘痕あばた冥々めいめいうちに妙な功徳くどくを施こしている。
 もっとも主人はこの功徳を施こすために顔一面に疱瘡ほうそうえ付けたのではない。これでも実は種え疱瘡をしたのである。不幸にして腕に種えたと思ったのが、いつのにか顔へ伝染していたのである。その頃は小供の事で今のように色気いろけもなにもなかったものだから、かゆい痒いと云いながら無暗むやみに顔中引きいたのだそうだ。ちょうど噴火山が破裂してラヴァが顔の上を流れたようなもので、親が生んでくれた顔を台なしにしてしまった。主人は折々細君に向って疱瘡をせぬうちは玉のような男子であったと云っている。浅草の観音様かんのんさまで西洋人が振りかえって見たくらい奇麗だったなどと自慢する事さえある。なるほどそうかも知れない。ただ誰も保証人のいないのが残念である。
 いくら功徳になっても訓戒になっても、きたない者はやっぱりきたないものだから、物心ものごころがついて以来と云うもの主人はおおいあばたについて心配し出して、あらゆる手段を尽してこの醜態をつぶそうとした。ところが宗伯老のかごと違って、いやになったからと云うてそう急に打ちやられるものではない。今だに歴然と残っている。この歴然が多少気にかかると見えて、主人は往来をあるく度毎にあばたづらを勘定してあるくそうだ。今日何人あばたに出逢って、そのぬしは男か女か、その場所は小川町の勧工場かんこうばであるか、上野の公園であるか、ことごとく彼の日記につけ込んである。彼はあばたに関する智識においては決して誰にも譲るまいと確信している。せんだってある洋行帰りの友人が来た折なぞは、「君西洋人にはあばたがあるかな」と聞いたくらいだ。するとその友人が「そうだな」と首を曲げながらよほど考えたあとで「まあ滅多めったにないね」と云ったら、主人は「滅多になくっても、少しはあるかい」と念を入れて聞き返えした。友人は気のない顔で「あっても乞食かたちぼうだよ。教育のある人にはないようだ」と答えたら、主人は「そうかなあ、日本とは少し違うね」と云った。
 哲学者の意見によって落雲館との喧嘩を思い留った主人はその後書斎に立てこもってしきりに何か考えている。彼の忠告をれて静坐のうちに霊活なる精神を消極的に修養するつもりかも知れないが、元来が気の小さな人間の癖に、ああ陰気な懐手ふところでばかりしていてはろくな結果の出ようはずがない。それより英書でも質に入れて芸者から喇叭節らっぱぶしでも習った方がはるかにましだとまでは気が付いたが、あんな偏屈へんくつな男はとうてい猫の忠告などを聴く気遣きづかいはないから、まあ勝手にさせたらよかろうと五六日は近寄りもせずに暮した。
 今日はあれからちょうど七日目なぬかめである。禅家などでは一七日いちしちにちを限って大悟して見せるなどとすさまじいいきおい結跏けっかする連中もある事だから、うちの主人もどうかなったろう、死ぬか生きるか何とか片付いたろうと、のそのそ椽側えんがわから書斎の入口まで来て室内の動静を偵察ていさつに及んだ。
 書斎は南向きの六畳で、日当りのいい所に大きな机がえてある。ただ大きな机ではわかるまい。長さ六尺、幅三尺八寸高さこれにかなうと云う大きな机である。無論出来合のものではない。近所の建具屋に談判して寝台けん机として製造せしめたる稀代きたいの品物である。何の故にこんな大きな机を新調して、また何の故にその上に寝て見ようなどという了見りょうけんを起したものか、本人に聞いて見ない事だからとんとわからない。ほんの一時の出来心で、かかる難物をかつぎ込んだのかも知れず、あるいはことによると一種の精神病者において吾人がしばしば見出みいだすごとく、縁もゆかりもない二個の観念を連想して、机と寝台を勝手に結び付けたものかも知れない。とにかく奇抜な考えである。ただ奇抜だけで役に立たないのが欠点である。吾輩はかつて主人がこの机の上へ昼寝をして寝返りをする拍子ひょうしに椽側へ転げ落ちたのを見た事がある。それ以来この机は決して寝台に転用されないようである。
 机の前には薄っぺらなメリンスの座布団ざぶとんがあって、煙草たばこの火で焼けた穴が三つほどかたまってる。中から見える綿は薄黒い。この座布団の上にうしろ向きにかしこまっているのが主人である。鼠色によごれた兵児帯へこおびをこま結びにむすんだ左右がだらりと足の裏へ垂れかかっている。この帯へじゃれ付いて、いきなり頭を張られたのはこないだの事である。滅多めったに寄り付くべき帯ではない。
 まだ考えているのか下手へたの考と云うたとえもあるのにとうしろからのぞき込んで見ると、机の上でいやにぴかぴかと光ったものがある。吾輩は思わず、続け様に二三度まばたきをしたが、こいつは変だとまぶしいのを我慢してじっと光るものを見つめてやった。するとこの光りは机の上で動いている鏡から出るものだと云う事が分った。しかし主人は何のために書斎で鏡などを振り舞わしているのであろう。鏡と云えば風呂場にあるにまっている。現に吾輩は今朝風呂場でこの鏡を見たのだ。この鏡ととくに云うのは主人のうちにはこれよりほかに鏡はないからである。主人が毎朝顔を洗ったあとで髪を分けるときにもこの鏡を用いる。――主人のような男が髪を分けるのかと聞く人もあるかも知れぬが、実際彼はほかの事に無精ぶしょうなるだけそれだけ頭を叮嚀ていねいにする。吾輩が当家に参ってから今に至るまで主人はいかなる炎熱の日といえども五分刈に刈り込んだ事はない。かならず二寸くらいの長さにして、それを御大ごたいそうに左の方で分けるのみか、右のはじをちょっとね返してすましている。これも精神病の徴候かも知れない。こんな気取った分け方はこの机と一向いっこう調和しないと思うが、あえて他人に害を及ぼすほどの事でないから、誰も何とも云わない。本人も得意である。分け方のハイカラなのはさておいて、なぜあんなに髪を長くするのかと思ったら実はこう云うわけである。彼のあばたは単に彼の顔を侵蝕しんしょくせるのみならず、とくのむかしに脳天まで食い込んでいるのだそうだ。だからもし普通の人のように五分刈や三分刈にすると、短かい毛の根本から何十となくあばたがあらわれてくる。いくらでても、さすってもぽつぽつがとれない。枯野にほたるを放ったようなもので風流かも知れないが、細君の御意ぎょいに入らんのは勿論もちろんの事である。髪さえ長くしておけば露見しないですむところを、好んで自己の非をあばくにも当らぬ訳だ。なろう事なら顔まで毛を生やして、こっちのあばた内済ないさいにしたいくらいなところだから、ただでえる毛をぜにを出して刈り込ませて、私は頭蓋骨ずがいこつの上まで天然痘てんねんとうにやられましたよと吹聴ふいちょうする必要はあるまい。――これが主人の髪を長くする理由で、髪を長くするのが、彼の髪をわける原因で、その原因が鏡を見る訳で、その鏡が風呂場にある所以ゆえんで、しこうしてその鏡が一つしかないと云う事実である。
 風呂場にあるべき鏡が、しかも一つしかない鏡が書斎に来ている以上は鏡が離魂病りこんびょうかかったのかまたは主人が風呂場から持って来たに相違ない。持って来たとすれば何のために持って来たのだろう。あるいは例の消極的修養に必要な道具かも知れない。むかし或る学者が何とかいう智識をうたら、和尚おしょう両肌を抜いでかわらしておられた。何をこしらえなさると質問をしたら、なにさ今鏡を造ろうと思うて一生懸命にやっておるところじゃと答えた。そこで学者は驚ろいて、なんぼ名僧でも甎を磨して鏡とする事は出来まいと云うたら、和尚からからと笑いながらそうか、それじゃやめよ、いくら書物を読んでも道はわからぬのもそんなものじゃろとののしったと云うから、主人もそんな事を聞きかじって風呂場から鏡でも持って来て、したり顔に振り廻しているのかも知れない。大分だいぶ物騒になって来たなと、そっとうかがっている。
 かくとも知らぬ主人ははなはだ熱心なる容子ようすをもって一張来いっちょうらいの鏡を見つめている。元来鏡というものは気味の悪いものである。深夜蝋燭ろうそくを立てて、広い部屋のなかで一人鏡をのぞき込むにはよほどの勇気がいるそうだ。吾輩などは始めて当家の令嬢から鏡を顔の前へ押し付けられた時に、はっと仰天ぎょうてんして屋敷のまわりを三度け回ったくらいである。いかに白昼といえども、主人のようにかく一生懸命に見つめている以上は自分で自分の顔がこわくなるに相違ない。ただ見てさえあまり気味のいい顔じゃない。ややあって主人は「なるほどきたない顔だ」とひとごとを云った。自己の醜を自白するのはなかなか見上げたものだ。様子から云うとたしかに気違の所作しょさだが言うことは真理である。これがもう一歩進むと、おのれの醜悪な事がこわくなる。人間は吾身が怖ろしい悪党であると云う事実を徹骨徹髄に感じた者でないと苦労人とは云えない。苦労人でないととうてい解脱げだつは出来ない。主人もここまで来たらついでに「おおこわい」とでも云いそうなものであるがなかなか云わない。「なるほどきたない顔だ」と云ったあとで、何を考え出したか、ぷうっとっぺたをふくらました。そうしてふくれた頬っぺたを平手ひらてで二三度たたいて見る。何のまじないだか分らない。この時吾輩は何だかこの顔に似たものがあるらしいと云う感じがした。よくよく考えて見るとそれは御三おさんの顔である。ついでだから御三の顔をちょっと紹介するが、それはそれはふくれたものである。この間さる人が穴守稲荷あなもりいなりから河豚ふぐ提灯ちょうちんをみやげに持って来てくれたが、ちょうどあの河豚提灯ふぐちょうちんのようにふくれている。あまりふくれ方が残酷なので眼は両方共紛失している。もっとも河豚のふくれるのは万遍なく真丸まんまるにふくれるのだが、お三とくると、元来の骨格が多角性であって、その骨格通りにふくれ上がるのだから、まるで水気すいきになやんでいる六角時計のようなものだ。御三が聞いたらさぞおこるだろうから、御三はこのくらいにしてまた主人の方に帰るが、かくのごとくあらん限りの空気をもってっぺたをふくらませたる彼はぜん申す通り手のひらでほっぺたを叩きながら「このくらい皮膚が緊張するとあばたも眼につかん」とまたひとごとをいった。
 こんどは顔を横に向けて半面に光線を受けた所を鏡にうつして見る。「こうして見ると大変目立つ。やっぱりまともに日の向いてる方がたいらに見える。奇体な物だなあ」と大分だいぶ感心した様子であった。それから右の手をうんとのばして、出来るだけ鏡を遠距離に持って行って静かに熟視している。「このくらい離れるとそんなでもない。やはり近過ぎるといかん。――顔ばかりじゃない何でもそんなものだ」と悟ったようなことを云う。次に鏡を急に横にした。そうして鼻の根を中心にして眼や額やまゆを一度にこの中心に向ってくしゃくしゃとあつめた。見るからに不愉快な容貌ようぼうが出来上ったと思ったら「いやこれは駄目だ」と当人も気がついたと見えて早々そうそうやめてしまった。「なぜこんなに毒々しい顔だろう」と少々不審のていで鏡を眼を去る三寸ばかりの所へ引き寄せる。右の人指しゆびで小鼻をでて、撫でた指の頭を机の上にあった吸取すいとがみの上へ、うんと押しつける。吸い取られた鼻のあぶらるく紙の上へ浮き出した。いろいろな芸をやるものだ。それから主人は鼻の膏を塗抹とまつした指頭しとうを転じてぐいと右眼うがん下瞼したまぶたを裏返して、俗に云うべっかんこうを見事にやって退けた。あばたを研究しているのか、鏡とにらくらをしているのかその辺は少々不明である。気の多い主人の事だから見ているうちにいろいろになると見える。それどころではない。もし善意をもって蒟蒻こんにゃく問答的もんどうてきに解釈してやれば主人は見性自覚けんしょうじかく方便ほうべんとしてかように鏡を相手にいろいろな仕草しぐさを演じているのかも知れない。すべて人間の研究と云うものは自己を研究するのである。天地と云い山川さんせんと云い日月じつげつと云い星辰せいしんと云うも皆自己の異名いみょうに過ぎぬ。自己をいて他に研究すべき事項は誰人たれびとにも見出みいだし得ぬ訳だ。もし人間が自己以外に飛び出す事が出来たら、飛び出す途端に自己はなくなってしまう。しかも自己の研究は自己以外に誰もしてくれる者はない。いくら仕てやりたくても、貰いたくても、出来ない相談である。それだから古来の豪傑はみんな自力で豪傑になった。人のお蔭で自己が分るくらいなら、自分の代理に牛肉を喰わして、堅いか柔かいか判断の出来る訳だ。あしたに法を聴き、ゆうべに道を聴き、梧前灯下ごぜんとうかに書巻を手にするのは皆この自証じしょう挑撥ちょうはつするの方便ほうべんに過ぎぬ。人の説く法のうち、他の弁ずる道のうち、乃至ないし五車ごしゃにあまる蠧紙堆裏としたいりに自己が存在する所以ゆえんがない。あれば自己の幽霊である。もっともある場合において幽霊は無霊むれいより優るかも知れない。影を追えば本体に逢着ほうちゃくする時がないとも限らぬ。多くの影は大抵本体を離れぬものだ。この意味で主人が鏡をひねくっているなら大分だいぶ話せる男だ。エピクテタスなどを鵜呑うのみにして学者ぶるよりもはるかにましだと思う。
 鏡は己惚うぬぼれの醸造器であるごとく、同時に自慢の消毒器である。もし浮華虚栄の念をもってこれに対する時はこれほど愚物を煽動せんどうする道具はない。昔から増上慢ぞうじょうまんをもっておのれを害し他をそこのうた事蹟じせきの三分の二はたしかに鏡の所作しょさである。仏国革命の当時物好きな御医者さんが改良首きり器械を発明して飛んだ罪をつくったように、始めて鏡をこしらえた人も定めし寝覚ねざめのわるい事だろう。しかし自分に愛想あいその尽きかけた時、自我の萎縮した折は鏡を見るほど薬になる事はない。妍醜瞭然けんしゅうりょうぜんだ。こんな顔でよくまあ人でそうろうりかえって今日こんにちまで暮らされたものだと気がつくにきまっている。そこへ気がついた時が人間の生涯しょうがい中もっともありがたい期節である。自分で自分の馬鹿を承知しているほどたっとく見える事はない。この自覚性じかくせい馬鹿ばかの前にはあらゆるえらがり屋がことごとく頭を下げて恐れ入らねばならぬ。当人は昂然こうぜんとして吾を軽侮けいぶ嘲笑ちょうしょうしているつもりでも、こちらから見るとその昂然たるところが恐れ入って頭を下げている事になる。主人は鏡を見ておのれの愚を悟るほどの賢者ではあるまい。しかし吾が顔に印せられる痘痕とうこんめいくらいは公平に読み得る男である。顔の醜いのを自認するのは心のいやしきを会得えとくする楷梯かいていにもなろう。たのもしい男だ。これも哲学者からやり込められた結果かも知れぬ。
 かように考えながらなお様子をうかがっていると、それとも知らぬ主人は思う存分あかんべえをしたあとで「大分だいぶ充血しているようだ。やっぱり慢性結膜炎だ」と言いながら、人さし指の横つらでぐいぐい充血したまぶたをこすり始めた。大方おおかたかゆいのだろうけれども、たださえあんなに赤くなっているものを、こうこすってはたまるまい。遠からぬうちに塩鯛しおだいの眼玉のごとく腐爛ふらんするにきまってる。やがて眼をひらいて鏡に向ったところを見ると、果せるかなどんよりとして北国の冬空のように曇っていた。もっとも平常ふだんからあまり晴れ晴れしい眼ではない。誇大な形容詞を用いると混沌こんとんとして黒眼と白眼が剖判ほうはんしないくらい漠然ばくぜんとしている。彼の精神が朦朧もうろうとして不得要領ていに一貫しているごとく、彼の眼も曖々然あいあいぜん昧々然まいまいぜんとしてとこしえに眼窩がんかの奥にただようている。これは胎毒たいどくのためだとも云うし、あるいは疱瘡ほうそうの余波だとも解釈されて、小さい時分はだいぶ柳の虫や赤蛙の厄介になった事もあるそうだが、せっかく母親の丹精も、あるにその甲斐かいあらばこそ、今日こんにちまで生れた当時のままでぼんやりしている。吾輩ひそかに思うにこの状態は決して胎毒や疱瘡のためではない。彼の眼玉がかように晦渋溷濁かいじゅうこんだくの悲境に彷徨ほうこうしているのは、とりも直さず彼の頭脳が不透不明ふとうふめいの実質から構成されていて、その作用が暗憺溟濛あんたんめいもうの極に達しているから、自然とこれが形体の上にあらわれて、知らぬ母親にいらぬ心配を掛けたんだろう。煙たって火あるを知り、まなこ濁ってなるを証す。して見ると彼の眼は彼の心の象徴で、彼の心は天保銭てんぽうせんのごとく穴があいているから、彼の眼もまた天保銭と同じく、大きな割合に通用しないに違ない。
 今度はひげをねじり始めた。元来から行儀のよくない髯でみんな思い思いの姿勢をとってえている。いくら個人主義が流行はやる世の中だって、こう町々まちまち我儘わがままを尽くされては持主の迷惑はさこそと思いやられる、主人もここにかんがみるところあって近頃はおおいに訓練を与えて、出来る限り系統的に按排あんばいするように尽力している。その熱心の功果こうかむなしからずして昨今ようやく歩調が少しととのうようになって来た。今までは髯がえておったのであるが、この頃は髯を生やしているのだと自慢するくらいになった。熱心は成効の度に応じて鼓舞こぶせられるものであるから、吾が髯の前途有望なりと見てとって主人は朝な夕な、手がすいておれば必ずひげに向って鞭撻べんたつを加える。彼のアムビションは独逸ドイツ皇帝陛下のように、向上の念のさかんな髯をたくわえるにある。それだから毛孔けあなが横向であろうとも、下向であろうともいささか頓着なく十把一じっぱひとからげににぎっては、上の方へ引っ張り上げる。髯もさぞかし難儀であろう、所有主たる主人すら時々は痛い事もある。がそこが訓練である。いやでも応でもさかにき上げる。門外漢から見ると気の知れない道楽のようであるが、当局者だけは至当の事と心得ている。教育者がいたずらに生徒の本性ほんせいめて、僕の手柄を見給えと誇るようなものでごうも非難すべき理由はない。
 主人が満腔まんこうの熱誠をもって髯を調練していると、台所から多角性の御三おさんが郵便が参りましたと、例のごとく赤い手をぬっと書斎のうちへ出した。右手みぎに髯をつかみ、左手ひだりに鏡を持った主人は、そのまま入口の方を振りかえる。八の字の尾にちを命じたような髯を見るや否や御多角おたかくはいきなり台所へ引き戻して、ハハハハと御釜おかまふたへ身をもたして笑った。主人は平気なものである。悠々ゆうゆうと鏡をおろして郵便を取り上げた。第一信は活版ずりで何だかいかめしい文字が並べてある。読んで見ると

拝啓いよいよ御多祥奉賀候がしたてまつりそろ回顧すれば日露の戦役は連戦連勝のいきおいに乗じて平和克復を告げ吾忠勇義烈なる将士は今や過半万歳声に凱歌を奏し国民の歓喜何ものかこれかんさきに宣戦の大詔煥発たいしょうかんぱつせらるるや義勇公に奉じたる将士は久しく万里の異境にりてく寒暑の苦難を忍び一意戦闘に従事しめいを国家に捧げたるの至誠は永く銘して忘るべからざる所なりしこうして軍隊の凱旋は本月を以てほとんど終了を告げんとす依って本会は来る二十五日を期し本区内一千有余の出征将校下士卒に対し本区民一般を代表し以て一大凱旋祝賀会を開催し兼て軍人遺族を慰藉いしゃせんが為め熱誠これを迎えいささか感謝の微衷びちゅうを表したくついては各位の御協賛を仰ぎ此盛典を挙行するのさいわいを得ば本会の面目不過之これにすぎずと存そろ何卒なにとぞ御賛成ふるって義捐ぎえんあらんことを只管ひたすら希望の至にえずそろ敬具

とあって差し出し人は華族様である。主人は黙読一過ののち直ちに封の中へ巻き納めて知らん顔をしている。義捐などは恐らくしそうにない。せんだって東北凶作の義捐金を二円とか三円とか出してから、逢う人ごとに義捐をとられた、とられたと吹聴ふいちょうしているくらいである。義捐とある以上は差し出すもので、とられるものでないにはきまっている。泥棒にあったのではあるまいし、とられたとは不穏当である。しかるにも関せず、盗難にでもかかったかのごとくに思ってるらしい主人がいかに軍隊の歓迎だと云って、いかに華族様の勧誘だと云って、強談ごうだんで持ちかけたらいざ知らず、活版の手紙くらいで金銭を出すような人間とは思われない。主人から云えば軍隊を歓迎する前にまず自分を歓迎したいのである。自分を歓迎したあとなら大抵のものは歓迎しそうであるが、自分が朝夕ちょうせきつかえる間は、歓迎は華族様にまかせておく了見らしい。主人は第二信を取り上げたが「ヤ、これも活版だ」と云った。

時下秋冷のこうそろ処貴家益々御隆盛の段奉賀上候がしあげたてまつりそろのぶれば本校儀も御承知の通り一昨々年以来二三野心家の為めに妨げられ一時其極に達し候得共そうらえども是れ皆不肖針作ふしょうしんさくが足らざる所に起因すと存じ深くみずかいましむる所あり臥薪甞胆がしんしょうたん其の苦辛くしんの結果ようやここに独力以て我が理想に適するだけの校舎新築費を得るの途を講じそろは別義にも御座なく別冊裁縫秘術綱要と命名せる書冊出版の義に御座そろ本書は不肖針作しんさくが多年苦心研究せる工芸上の原理原則にのっとり真に肉を裂き血を絞るの思をして著述せるものに御座そろって本書をあまねく一般の家庭へ製本実費に些少さしょうの利潤を附して御購求ごこうきゅうを願い一面斯道しどう発達の一助となすと同時に又一面には僅少きんしょうの利潤を蓄積して校舎建築費に当つる心算つもりに御座そろ依っては近頃何共なんとも恐縮の至りに存じ候えども本校建築費中へ御寄附被成下なしくださる御思召おぼしめここに呈供仕そろ秘術綱要一部を御購求の上御侍女の方へなりとも御分与被成下候なしくだされそろて御賛同の意を御表章被成下度なしくだされたく伏して懇願仕そろ□々そうそう敬具
大日本女子裁縫最高等大学院
校長  縫田針作ぬいだしんさく 九拝

とある。主人はこの鄭重ていちょうなる書面を、冷淡に丸めてぽんと屑籠くずかごの中へほうり込んだ。せっかくの針作君の九拝も臥薪甞胆も何の役にも立たなかったのは気の毒である。第三信にかかる。第三信はすこぶる風変りの光彩を放っている。状袋が紅白のだんだらで、あめぼうの看板のごとくはなやかなる真中に珍野苦沙弥ちんのくしゃみ先生虎皮下こひか八分体はっぷんたいで肉太にしたためてある。中からおさんが出るかどうだか受け合わないがおもてだけはすこぶる立派なものだ。

し我を以て天地を律すれば一口ひとくちにして西江せいこうの水を吸いつくすべく、し天地を以て我を律すれば我はすなわ陌上はくじょうの塵のみ。すべからくえ、天地と我と什麼いんもの交渉かある。……始めて海鼠なまこを食いいだせる人は其胆力に於て敬すべく、始めて河豚ふぐきつせるおとこは其勇気において重んずべし。海鼠をくらえるものは親鸞しんらんの再来にして、河豚ふぐを喫せるものは日蓮にちれんの分身なり。苦沙弥先生の如きに至ってはただ干瓢かんぴょう酢味噌すみそを知るのみ。干瓢の酢味噌をくらって天下の士たるものは、われいまこれを見ず。……
親友もなんじを売るべし。父母ふぼも汝にわたくしあるべし。愛人も汝を棄つべし。富貴ふっきもとより頼みがたかるべし。爵禄しゃくろく一朝いっちょうにして失うべし。汝の頭中に秘蔵する学問にはかびえるべし。汝何をたのまんとするか。天地のうちに何をたのまんとするか。神? 神は人間の苦しまぎれに捏造でつぞうせる土偶どぐうのみ。人間のせつなぐその凝結せる臭骸のみ。たのむまじきを恃んで安しと云う。咄々とつとつ、酔漢みだりに胡乱うろんの言辞を弄して、蹣跚まんさんとして墓に向う。油尽きてとうおのずから滅す。業尽きて何物をかのこす。苦沙弥先生よろしく御茶でも上がれ。……
人を人と思わざればおそるる所なし。人を人と思わざるものが、吾を吾と思わざる世をいきどおるは如何いかん。権貴栄達の士は人を人と思わざるに於て得たるが如し。ただひとの吾を吾と思わぬ時に於て怫然ふつぜんとして色をす。任意に色を作し来れ。馬鹿野郎。……
吾の人を人と思うとき、ひとの吾を吾と思わぬ時、不平家は発作的ほっさてき天降あまくだる。此発作的活動を名づけて革命という。革命は不平家の所為にあらず。権貴栄達の士が好んで産する所なり。朝鮮に人参にんじん多し先生何が故に服せざる。
在巣鴨  天道公平てんどうこうへい 再拝

 針作君は九拝であったが、この男は単に再拝だけである。寄附金の依頼でないだけに七拝ほど横風おうふうに構えている。寄附金の依頼ではないがその代りすこぶる分りにくいものだ。どこの雑誌へ出しても没書になる価値は充分あるのだから、頭脳の不透明をもって鳴る主人は必ず寸断寸断ずたずたに引き裂いてしまうだろうとおもいのほか、打ち返し打ち返し読み直している。こんな手紙に意味があると考えて、あくまでその意味をきわめようという決心かも知れない。およそ天地のかんにわからんものは沢山あるが意味をつけてつかないものは一つもない。どんなむずかしい文章でも解釈しようとすれば容易に解釈の出来るものだ。人間は馬鹿であると云おうが、人間は利口であると云おうが手もなくわかる事だ。それどころではない。人間は犬であると云っても豚であると云っても別に苦しむほどの命題ではない。山は低いと云っても構わん、宇宙は狭いと云ってもつかえはない。烏が白くて小町が醜婦で苦沙弥先生が君子でも通らん事はない。だからこんな無意味な手紙でも何とかとか理窟りくつさえつければどうとも意味はとれる。ことに主人のように知らぬ英語を無理矢理にこじ附けて説明し通して来た男はなおさら意味をつけたがるのである。天気の悪るいのになぜグード・モーニングですかと生徒に問われて七日間なぬかかん考えたり、コロンバスと云う名は日本語で何と云いますかと聞かれて三日三晩かかって答を工夫するくらいな男には、干瓢かんぴょう酢味噌すみそが天下の士であろうと、朝鮮の仁参にんじんを食って革命を起そうと随意な意味は随処にき出る訳である。主人はしばらくしてグード・モーニング流にこの難解な言句ごんくを呑み込んだと見えて「なかなか意味深長だ。何でもよほど哲理を研究した人に違ない。天晴あっぱれな見識だ」と大変賞賛した。この一言いちごんでも主人のなところはよく分るが、ひるがえって考えて見るといささかもっともな点もある。主人は何に寄らずわからぬものをありがたがる癖を有している。これはあながち主人に限った事でもなかろう。分らぬところには馬鹿に出来ないものが潜伏して、測るべからざる辺には何だか気高けだかい心持が起るものだ。それだから俗人はわからぬ事をわかったように吹聴ふいちょうするにもかかわらず、学者はわかった事をわからぬように講釈する。大学の講義でもわからん事を喋舌しゃべる人は評判がよくってわかる事を説明する者は人望がないのでもよく知れる。主人がこの手紙に敬服したのも意義が明瞭であるからではない。その主旨が那辺なへんに存するかほとんどとらえ難いからである。急に海鼠なまこが出て来たり、せつなぐそが出てくるからである。だから主人がこの文章を尊敬する唯一の理由は、道家どうけで道徳経を尊敬し、儒家じゅか易経えききょうを尊敬し、禅家ぜんけ臨済録りんざいろくを尊敬すると一般で全く分らんからである。ただし全然分らんでは気がすまんから勝手な註釈をつけてわかった顔だけはする。わからんものをわかったつもりで尊敬するのは昔から愉快なものである。――主人はうやうやしく八分体はっぷんたいの名筆を巻き納めて、これを机上に置いたまま懐手ふところでをして冥想めいそうに沈んでいる。
 ところへ「頼む頼む」と玄関から大きな声で案内を乞う者がある。声は迷亭のようだが、迷亭に似合わずしきりに案内を頼んでいる。主人は先から書斎のうちでその声を聞いているのだが懐手のままごうも動こうとしない。取次に出るのは主人の役目でないという主義か、この主人は決して書斎から挨拶をした事がない。下女は先刻さっき洗濯せんたく石鹸シャボンを買いに出た。細君ははばかりである。すると取次に出べきものは吾輩だけになる。吾輩だって出るのはいやだ。すると客人は沓脱くつぬぎから敷台へ飛び上がって障子を開け放ってつかつか上り込んで来た。主人も主人だが客も客だ。座敷の方へ行ったなと思うとふすまを二三度あけたりてたりして、今度は書斎の方へやってくる。
「おい冗談じょうだんじゃない。何をしているんだ、御客さんだよ」
「おや君か」
「おや君かもないもんだ。そこにいるなら何とか云えばいいのに、まるで空家あきやのようじゃないか」
「うん、ちと考え事があるもんだから」
「考えていたって通れくらいは云えるだろう」
「云えん事もないさ」
「相変らず度胸がいいね」
「せんだってから精神の修養をつとめているんだもの」
「物好きだな。精神を修養して返事が出来なくなった日には来客は御難だね。そんなに落ちつかれちゃ困るんだぜ。実は僕一人来たんじゃないよ。大変な御客さんを連れて来たんだよ。ちょっと出て逢ってくれ給え」
「誰を連れて来たんだい」
「誰でもいいからちょっと出て逢ってくれたまえ。是非君に逢いたいと云うんだから」
「誰だい」
「誰でもいいから立ちたまえ」
 主人は懐手ふところでのままぬっと立ちながら「また人をかつぐつもりだろう」と椽側えんがわへ出て何の気もつかずに客間へ這入はいり込んだ。すると六尺の床を正面に一個の老人が粛然しゅくぜん端坐たんざしてひかえている。主人は思わず懐から両手を出してぺたりと唐紙からかみそばへ尻を片づけてしまった。これでは老人と同じく西向きであるから双方共挨拶のしようがない。昔堅気むかしかたぎの人は礼義はやかましいものだ。
「さあどうぞあれへ」と床の間の方を指して主人をうながす。主人は両三年前までは座敷はどこへ坐っても構わんものと心得ていたのだが、そのある人から床の間の講釈を聞いて、あれは上段のの変化したもので、上使じょうしが坐わる所だと悟って以来決して床の間へは寄りつかない男である。ことに見ず知らずの年長者ががんと構えているのだから上座じょうざどころではない。挨拶さえろくには出来ない。一応頭をさげて
「さあどうぞあれへ」と向うの云う通りを繰り返した。
「いやそれでは御挨拶が出来かねますから、どうぞあれへ」
「いえ、それでは……どうぞあれへ」と主人はいい加減に先方の口上を真似ている。
「どうもそう、御謙遜ごけんそんでは恐れ入る。かえって手前が痛み入る。どうか御遠慮なく、さあどうぞ」
「御謙遜では……恐れますから……どうか」主人は真赤まっかになって口をもごもご云わせている。精神修養もあまり効果がないようである。迷亭君はふすまの影から笑いながら立見をしていたが、もういい時分だと思って、うしろから主人の尻を押しやりながら
「まあ出たまえ。そう唐紙からかみへくっついては僕が坐る所がない。遠慮せずに前へ出たまえ」と無理に割り込んでくる。主人はやむを得ず前の方へすり出る。
「苦沙弥君これが毎々君に噂をする静岡の伯父だよ。伯父さんこれが苦沙弥君です」
「いや始めて御目にかかります、毎度迷亭が出て御邪魔を致すそうで、いつか参上の上御高話を拝聴致そうと存じておりましたところ、幸い今日こんにちは御近所を通行致したもので、御礼かたがた伺った訳で、どうぞ御見知りおかれまして今後共よろしく」とむかし風な口上をよどみなく述べたてる。主人は交際の狭い、無口な人間である上に、こんな古風なじいさんとはほとんど出会った事がないのだから、最初から多少うての気味で辟易へきえきしていたところへ、滔々とうとうと浴びせかけられたのだから、朝鮮仁参ちょうせんにんじんあめん棒の状袋もすっかり忘れてしまってただ苦しまぎれに妙な返事をする。
「私も……私も……ちょっと伺がうはずでありましたところ……何分よろしく」と云い終って頭を少々畳から上げて見ると老人はいまだに平伏しているので、はっと恐縮してまた頭をぴたりと着けた。
 老人は呼吸を計って首をあげながら「私ももとはこちらに屋敷もって、永らく御膝元でくらしたものでがすが、瓦解がかいの折にあちらへ参ってからとんと出てこんのでな。今来て見るとまるで方角も分らんくらいで、――迷亭にでもれてあるいてもらわんと、とても用達ようたしも出来ません。滄桑そうそうへんとは申しながら、御入国ごにゅうこく以来三百年も、あの通り将軍家の……」と云いかけると迷亭先生面倒だと心得て
「伯父さん将軍家もありがたいかも知れませんが、明治のも結構ですぜ。昔は赤十字なんてものもなかったでしょう」
「それはない。赤十字などと称するものは全くない。ことに宮様の御顔を拝むなどと云う事は明治の御代みよでなくては出来ぬ事だ。わしも長生きをした御蔭でこの通り今日こんにちの総会にも出席するし、宮殿下の御声もきくし、もうこれで死んでもいい」
「まあ久し振りで東京見物をするだけでも得ですよ。苦沙弥君、伯父はね。今度赤十字の総会があるのでわざわざ静岡から出て来てね、今日いっしょに上野へ出掛けたんだが今その帰りがけなんだよ。それだからこの通り先日僕が白木屋へ注文したフロックコートを着ているのさ」と注意する。なるほどフロックコートを着ている。フロックコートは着ているがすこしもからだに合わない。そでが長過ぎて、えりがおっぴらいて、背中せなかへ池が出来て、わきの下が釣るし上がっている。いくら不恰好ぶかっこうに作ろうと云ったって、こうまで念を入れて形をくずす訳にはゆかないだろう。その上白シャツと白襟しろえりが離れ離れになって、あおむくと間から咽喉仏のどぼとけが見える。第一黒い襟飾りが襟に属しているのか、シャツに属しているのか判然はんぜんしない。フロックはまだ我慢が出来るが白髪しらがのチョンまげははなはだ奇観である。評判の鉄扇てっせんはどうかと目をけると膝の横にちゃんと引きつけている。主人はこの時ようやく本心に立ち返って、精神修養の結果を存分に老人の服装に応用して少々驚いた。まさか迷亭の話ほどではなかろうと思っていたが、逢って見ると話以上である。もし自分のあばたが歴史的研究の材料になるならば、この老人のチョンまげや鉄扇はたしかにそれ以上の価値がある。主人はどうかしてこの鉄扇の由来を聞いて見たいと思ったが、まさか、打ちつけに質問する訳には行かず、と云って話を途切らすのも礼に欠けると思って
「だいぶ人が出ましたろう」ときわめて尋常な問をかけた。
「いや非常な人で、それでその人が皆わしをじろじろ見るので――どうも近来は人間が物見高くなったようでがすな。むかしはあんなではなかったが」
「ええ、さよう、昔はそんなではなかったですな」と老人らしい事を云う。これはあながち主人が高振たかぶりをした訳ではない。ただ朦朧もうろうたる頭脳から好い加減に流れ出す言語と見ればつかえない。
「それにな。皆この甲割かぶとわりへ目を着けるので」
「その鉄扇は大分だいぶ重いものでございましょう」
「苦沙弥君、ちょっと持って見たまえ。なかなか重いよ。伯父さん持たして御覧なさい」
 老人は重たそうに取り上げて「失礼でがすが」と主人に渡す。京都の黒谷くろだに参詣人さんけいにん蓮生坊れんしょうぼう太刀たちいただくようなかたで、苦沙弥先生しばらく持っていたが「なるほど」と云ったまま老人に返却した。
「みんながこれを鉄扇鉄扇と云うが、これは甲割かぶとわりとなえて鉄扇とはまるで別物で……」
「へえ、何にしたものでございましょう」
「兜を割るので、――敵の目がくらむ所をちとったものでがす。楠正成くすのきまさしげ時代から用いたようで……」
「伯父さん、そりゃ正成の甲割ですかね」
「いえ、これは誰のかわからん。しかし時代は古い。建武時代けんむじだいの作かも知れない」
「建武時代かも知れないが、寒月君は弱っていましたぜ。苦沙弥君、今日帰りにちょうどいい機会だから大学を通り抜けるついでに理科へ寄って、物理の実験室を見せて貰ったところがね。この甲割が鉄だものだから、磁力の器械が狂って大騒ぎさ」
「いや、そんなはずはない。これは建武時代の鉄で、しょうのいい鉄だから決してそんなおそれはない」
「いくら性のいい鉄だってそうはいきませんよ。現に寒月がそう云ったから仕方がないです」
「寒月というのは、あのガラスだまっている男かい。今の若さに気の毒な事だ。もう少し何かやる事がありそうなものだ」
可愛想かわいそうに、あれだって研究でさあ。あの球を磨り上げると立派な学者になれるんですからね」
「玉をりあげて立派な学者になれるなら、誰にでも出来る。わしにでも出来る。ビードロやの主人にでも出来る。ああ云う事をする者を漢土かんどでは玉人きゅうじんと称したもので至って身分の軽いものだ」と云いながら主人の方を向いて暗に賛成を求める。
「なるほど」と主人はかしこまっている。
「すべて今の世の学問は皆形而下けいじかの学でちょっと結構なようだが、いざとなるとすこしも役には立ちませんてな。昔はそれと違ってさむらいは皆命懸いのちがけの商買しょうばいだから、いざと云う時に狼狽ろうばいせぬように心の修業を致したもので、御承知でもあらっしゃろうがなかなか玉を磨ったり針金をったりするような容易たやすいものではなかったのでがすよ」
「なるほど」とやはりかしこまっている。
「伯父さん心の修業と云うものは玉を磨る代りに懐手ふところでをして坐り込んでるんでしょう」
「それだから困る。決してそんな造作ぞうさのないものではない。孟子もうし求放心きゅうほうしんと云われたくらいだ。邵康節しょうこうせつ心要放しんようほうと説いた事もある。また仏家ぶっかでは中峯和尚ちゅうほうおしょうと云うのが具不退転ぐふたいてんと云う事を教えている。なかなか容易には分らん」
「とうてい分りっこありませんね。全体どうすればいいんです」
「御前は沢菴禅師たくあんぜんじ不動智神妙録ふどうちしんみょうろくというものを読んだ事があるかい」
「いいえ、聞いた事もありません」
「心をどこに置こうぞ。敵の身のはたらきに心を置けば、敵の身の働に心を取らるるなり。敵の太刀たちに心を置けば、敵の太刀に心を取らるるなり。敵を切らんと思うところに心を置けば、敵を切らんと思うところに心を取らるるなり。わが太刀に心を置けば、我太刀に心を取らるるなり。われ切られじと思うところに心を置けば、切られじと思うところに心を取らるるなり。人のかまえに心を置けば、人の構に心を取らるるなり。とかく心の置きどころはないとある」
「よく忘れずに暗誦あんしょうしたものですね。伯父さんもなかなか記憶がいい。長いじゃありませんか。苦沙弥君分ったかい」
「なるほど」と今度もなるほどですましてしまった。
「なあ、あなた、そうでござりましょう。心をどこに置こうぞ、敵の身の働に心を置けば、敵の身の働に心を取らるるなり。敵の太刀に心を置けば……」
「伯父さん苦沙弥君はそんな事は、よく心得ているんですよ。近頃は毎日書斎で精神の修養ばかりしているんですから。客があっても取次に出ないくらい心を置き去りにしているんだから大丈夫ですよ」
「や、それは御奇特ごきどくな事で――御前などもちとごいっしょにやったらよかろう」
「へへへそんな暇はありませんよ。伯父さんは自分が楽なからだだもんだから、人も遊んでると思っていらっしゃるんでしょう」
「実際遊んでるじゃないかの」
「ところが閑中かんちゅうおのずからぼうありでね」
「そう、粗忽そこつだから修業をせんといかないと云うのよ、忙中おのずかかんありと云う成句せいくはあるが、閑中自ら忙ありと云うのは聞いた事がない。なあ苦沙弥さん」
「ええ、どうも聞きませんようで」
「ハハハハそうなっちゃあかなわない。時に伯父さんどうです。久し振りで東京のうなぎでも食っちゃあ。竹葉ちくようでもおごりましょう。これから電車で行くとすぐです」
「鰻も結構だが、今日はこれからすいはらへ行く約束があるから、わしはこれで御免をこうむろう」
「ああ杉原すぎはらですか、あのじいさんも達者ですね」
杉原すぎはらではない、すいはらさ。御前はよく間違ばかり云って困る。他人の姓名を取り違えるのは失礼だ。よく気をつけんといけない」
「だって杉原すぎはらとかいてあるじゃありませんか」
杉原すぎはらと書いてすいはらと読むのさ」
「妙ですね」
「なに妙な事があるものか。名目読みょうもくよみと云って昔からある事さ。蚯蚓きゅういん和名わみょうみみずと云う。あれは目見ずの名目よみで。蝦蟆がまの事をかいると云うのと同じ事さ」
「へえ、驚ろいたな」
「蝦蟆を打ち殺すと仰向あおむきにかえる。それを名目読みにかいると云う。透垣すきがきすいがき茎立くきたちくく立、皆同じ事だ。杉原すいはらをすぎ原などと云うのは田舎いなかものの言葉さ。少し気を付けないと人に笑われる」
「じゃ、その、すい原へこれから行くんですか。困ったな」
「なにいやなら御前は行かんでもいい。わし一人で行くから」
「一人で行けますかい」
「あるいてはむずかしい。車を雇って頂いて、ここから乗って行こう」
 主人はかしこまって直ちに御三おさんを車屋へ走らせる。老人は長々と挨拶をしてチョン髷頭まげあたまへ山高帽をいただいて帰って行く。迷亭はあとへ残る。
「あれが君の伯父さんか」
「あれが僕の伯父さんさ」
「なるほど」と再び座蒲団ざぶとんの上に坐ったなり懐手ふところでをして考え込んでいる。
「ハハハ豪傑だろう。僕もああ云う伯父さんを持って仕合せなものさ。どこへ連れて行ってもあの通りなんだぜ。君驚ろいたろう」と迷亭君は主人を驚ろかしたつもりでおおいに喜んでいる。
「なにそんなに驚きゃしない」
「あれで驚かなけりゃ、胆力のすわったもんだ」
「しかしあの伯父さんはなかなかえらいところがあるようだ。精神の修養を主張するところなぞはおおいに敬服していい」
「敬服していいかね。君も今に六十くらいになるとやっぱりあの伯父見たように、時候おくれになるかも知れないぜ。しっかりしてくれたまえ。時候おくれの廻り持ちなんか気がかないよ」
「君はしきりに時候おくれを気にするが、時と場合によると、時候おくれの方がえらいんだぜ。第一今の学問と云うものは先へ先へと行くだけで、どこまで行ったって際限はありゃしない。とうてい満足は得られやしない。そこへ行くと東洋流の学問は消極的で大にあじわいがある。心そのものの修業をするのだから」とせんだって哲学者から承わった通りを自説のように述べ立てる。
「えらい事になって来たぜ。何だか八木独仙やぎどくせん君のような事を云ってるね」
 八木独仙と云う名を聞いて主人ははっと驚ろいた。実はせんだって臥竜窟がりょうくつを訪問して主人を説服に及んで悠然ゆうぜんと立ち帰った哲学者と云うのが取も直さずこの八木独仙君であって、今主人が鹿爪しかつめらしく述べ立てている議論は全くこの八木独仙君の受売なのであるから、知らんと思った迷亭がこの先生の名を間不容髪かんふようはつの際に持ち出したのは暗に主人の一夜作りの仮鼻かりばなくじいた訳になる。
「君独仙の説を聞いた事があるのかい」と主人は剣呑けんのんだから念をして見る。
「聞いたの、聞かないのって、あの男の説ときたら、十年前学校にいた時分と今日こんにちと少しも変りゃしない」
「真理はそう変るものじゃないから、変らないところがたのもしいかも知れない」
「まあそんな贔負ひいきがあるから独仙もあれで立ち行くんだね。第一八木と云う名からして、よく出来てるよ。あのひげが君全く山羊やぎだからね。そうしてあれも寄宿舎時代からあの通りの恰好かっこうで生えていたんだ。名前の独仙などもふるったものさ。むかし僕のところへ泊りがけに来て例の通り消極的の修養と云う議論をしてね。いつまで立っても同じ事を繰り返してやめないから、僕が君もうようじゃないかと云うと、先生気楽なものさ、いや僕は眠くないとすまし切って、やっぱり消極論をやるには迷惑したね。仕方がないから君は眠くなかろうけれども、僕の方は大変眠いのだから、どうか寝てくれたまえと頼むようにして寝かしたまではよかったが――その晩ねずみが出て独仙君の鼻のあたまをかじってね。夜なかに大騒ぎさ。先生悟ったような事を云うけれども命は依然として惜しかったと見えて、非常に心配するのさ。鼠の毒が総身そうしんにまわると大変だ、君どうかしてくれと責めるには閉口したね。それから仕方がないから台所へ行って紙片かみぎれへ飯粒をってごまかしてやったあね」
「どうして」
「これは舶来の膏薬こうやくで、近来独逸ドイツの名医が発明したので、印度人インドじんなどの毒蛇にまれた時に用いると即効があるんだから、これさえ貼っておけば大丈夫だと云ってね」
「君はその時分からごまかす事に妙を得ていたんだね」
「……すると独仙君はああ云う好人物だから、全くだと思って安心してぐうぐう寝てしまったのさ。あくる日起きて見ると膏薬の下から糸屑いとくずがぶらさがって例の山羊髯やぎひげに引っかかっていたのは滑稽こっけいだったよ」
「しかしあの時分より大分だいぶえらくなったようだよ」
「君近頃逢ったのかい」
「一週間ばかり前に来て、長い間話しをして行った」
「どうりで独仙流の消極説を振り舞わすと思った」
「実はその時おおいに感心してしまったから、僕も大に奮発して修養をやろうと思ってるところなんだ」
「奮発は結構だがね。あんまり人の云う事をに受けると馬鹿を見るぜ。一体君は人の言う事を何でもかでも正直に受けるからいけない。独仙も口だけは立派なものだがね、いざとなると御互と同じものだよ。君九年前の大地震を知ってるだろう。あの時寄宿の二階から飛び降りて怪我をしたものは独仙君だけなんだからな」
「あれには当人大分だいぶ説があるようじゃないか」
「そうさ、当人に云わせるとすこぶるありがたいものさ。禅の機鋒きほう峻峭しゅんしょうなもので、いわゆる石火せっかとなるとこわいくらい早く物に応ずる事が出来る。ほかのものが地震だと云って狼狽うろたえているところを自分だけは二階の窓から飛び下りたところに修業の効があらわれて嬉しいと云って、びっこを引きながらうれしがっていた。負惜みの強い男だ。一体ぜんとかぶつとか云って騒ぎ立てる連中ほどあやしいのはないぜ」
「そうかな」と苦沙弥先生少々腰が弱くなる。
「この間来た時禅宗坊主の寝言ねごと見たような事を何か云ってったろう」
「うん電光影裏でんこうえいり春風しゅんぷうをきるとか云う句を教えて行ったよ」
「その電光さ。あれが十年前からの御箱おはこなんだからおかしいよ。無覚禅師むかくぜんじの電光ときたら寄宿舎中誰も知らないものはないくらいだった。それに先生時々せき込むと間違えて電光影裏をさかさまに春風影裏に電光をきると云うから面白い。今度ためして見たまえ。むこうで落ちつき払って述べたてているところを、こっちでいろいろ反対するんだね。するとすぐ顛倒てんとうして妙な事を云うよ」
「君のようないたずらものに逢っちゃかなわない」
「どっちがいたずら者だか分りゃしない。僕は禅坊主だの、悟ったのは大嫌だ。僕の近所に南蔵院なんぞういんと云う寺があるが、あすこに八十ばかりの隠居がいる。それでこの間の白雨ゆうだちの時寺内じないらいが落ちて隠居のいる庭先の松の木をいてしまった。ところが和尚おしょう泰然として平気だと云うから、よく聞き合わせて見るとからつんぼなんだね。それじゃ泰然たる訳さ。大概そんなものさ。独仙も一人で悟っていればいいのだが、ややともすると人を誘い出すから悪い。現に独仙の御蔭で二人ばかり気狂きちがいにされているからな」
「誰が」
「誰がって。一人は理野陶然りのとうぜんさ。独仙の御蔭でおおいに禅学にり固まって鎌倉へ出掛けて行って、とうとう出先で気狂になってしまった。円覚寺えんがくじの前に汽車の踏切りがあるだろう、あの踏切りうちへ飛び込んでレールの上で座禅をするんだね。それで向うから来る汽車をとめて見せると云う大気焔だいきえんさ。もっとも汽車の方で留ってくれたから一命だけはとりとめたが、その代り今度は火にって焼けず、水に入っておぼれぬ金剛不壊こんごうふえのからだだと号して寺内じない蓮池はすいけ這入はいってぶくぶくあるき廻ったもんだ」
「死んだかい」
「その時もさいわい、道場の坊主が通りかかって助けてくれたが、その東京へ帰ってから、とうとう腹膜炎で死んでしまった。死んだのは腹膜炎だが、腹膜炎になった原因は僧堂で麦飯や万年漬まんねんづけを食ったせいだから、つまるところは間接に独仙が殺したようなものさ」
「むやみに熱中するのもししだね」と主人はちょっと気味のわるいという顔付をする。
「本当にさ。独仙にやられたものがもう一人同窓中にある」
「あぶないね。誰だい」
立町老梅君たちまちろうばいくんさ。あの男も全く独仙にそそのかされてうなぎが天上するような事ばかり言っていたが、とうとう君本物になってしまった」
「本物たあ何だい」
「とうとう鰻が天上して、豚が仙人になったのさ」
「何の事だい、それは」
「八木が独仙なら、立町は豚仙ぶたせんさ、あのくらい食い意地のきたない男はなかったが、あの食意地と禅坊主のわる意地が併発へいはつしたのだから助からない。始めは僕らも気がつかなかったが今から考えると妙な事ばかり並べていたよ。僕のうちなどへ来て君あの松の木へカツレツが飛んできやしませんかの、僕の国では蒲鉾かまぼこが板へ乗って泳いでいますのって、しきりに警句を吐いたものさ。ただ吐いているうちはよかったが君表のどぶきんとんを掘りに行きましょうとうながすに至っては僕も降参したね。それから二三日にさんちするとついに豚仙になって巣鴨へ収容されてしまった。元来豚なんぞが気狂になる資格はないんだが、全く独仙の御蔭であすこまで漕ぎ付けたんだね。独仙の勢力もなかなかえらいよ」
「へえ、今でも巣鴨にいるのかい」
「いるだんじゃない。自大狂じだいきょう大気焔だいきえんを吐いている。近頃は立町老梅なんて名はつまらないと云うので、みずか天道公平てんどうこうへいと号して、天道の権化ごんげをもって任じている。すさまじいものだよ。まあちょっと行って見たまえ」
「天道公平?」
「天道公平だよ。気狂の癖にうまい名をつけたものだね。時々は孔平こうへいとも書く事がある。それで何でも世人が迷ってるからぜひ救ってやりたいと云うので、むやみに友人や何かへ手紙を出すんだね。僕も四五通貰ったが、中にはなかなか長い奴があって不足税を二度ばかりとられたよ」
「それじゃ僕のとこへ来たのも老梅から来たんだ」
「君の所へも来たかい。そいつは妙だ。やっぱり赤い状袋だろう」
「うん、真中が赤くて左右が白い。一風変った状袋だ」
「あれはね、わざわざ支那から取り寄せるのだそうだよ。天の道は白なり、地の道は白なり、人は中間にって赤しと云う豚仙の格言を示したんだって……」
「なかなか因縁いんねんのある状袋だね」
「気狂だけにおおいったものさ。そうして気狂になっても食意地だけは依然として存しているものと見えて、毎回必ず食物の事がかいてあるから奇妙だ。君の所へも何とか云って来たろう」
「うん、海鼠なまこの事がかいてある」
「老梅は海鼠が好きだったからね。もっともだ。それから?」
「それから河豚ふぐ朝鮮仁参ちょうせんにんじんか何か書いてある」
「河豚と朝鮮仁参の取り合せはうまいね。おおかた河豚を食ってあたったら朝鮮仁参をせんじて飲めとでも云うつもりなんだろう」
「そうでもないようだ」
「そうでなくても構わないさ。どうせ気狂だもの。それっきりかい」
「まだある。苦沙弥先生御茶でも上がれと云う句がある」
「アハハハ御茶でも上がれはきびし過ぎる。それでおおいに君をやり込めたつもりに違ない。大出来だ。天道公平君万歳だ」と迷亭先生は面白がって、大に笑い出す。主人は少からざる尊敬をもって反覆読誦どくしょうした書翰しょかんの差出人が金箔きんぱくつきの狂人であると知ってから、最前の熱心と苦心が何だか無駄骨のような気がして腹立たしくもあり、また瘋癲病ふうてんびょう者の文章をさほど心労して翫味がんみしたかと思うと恥ずかしくもあり、最後に狂人の作にこれほど感服する以上は自分も多少神経に異状がありはせぬかとの疑念もあるので、立腹と、慚愧ざんきと、心配の合併した状態で何だか落ちつかない顔付をしてひかえている。
 折から表格子をあららかに開けて、重い靴の音が二た足ほど沓脱くつぬぎに響いたと思ったら「ちょっと頼みます、ちょっと頼みます」と大きな声がする。主人の尻の重いに反して迷亭はまたすこぶる気軽な男であるから、御三おさんの取次に出るのも待たず、通れと云いながら隔ての中のを二た足ばかりに飛び越えて玄関におどり出した。人のうちへ案内も乞わずにつかつか這入はいり込むところは迷惑のようだが、人のうちへ這入った以上は書生同様取次をつとめるからはなはだ便利である。いくら迷亭でも御客さんには相違ない、その御客さんが玄関へ出張するのに主人たる苦沙弥先生が座敷へ構え込んで動かん法はない。普通の男ならあとから引き続いて出陣すべきはずであるが、そこが苦沙弥先生である。平気に座布団の上へ尻を落ちつけている。ただし落ちつけているのと、落ちついているのとは、その趣は大分だいぶ似ているが、その実質はよほど違う。
 玄関へ飛び出した迷亭は何かしきりに弁じていたが、やがて奥の方を向いて「おい御主人ちょっと御足労だが出てくれたまえ。君でなくっちゃ、間に合わない」と大きな声を出す。主人はやむを得ず懐手ふところでのままのそりのそりと出てくる。見ると迷亭君は一枚の名刺を握ったまましゃがんで挨拶をしている。すこぶる威厳のない腰つきである。その名刺には警視庁刑事巡査吉田虎蔵よしだとらぞうとある。虎蔵君と並んで立っているのは二十五六のせいの高い、いなせ唐桟とうざんずくめの男である。妙な事にこの男は主人と同じく懐手をしたまま、無言で突立つったっている。何だか見たような顔だと思ってよくよく観察すると、見たようなどころじゃない。この間深夜御来訪になってやまいもを持って行かれた泥棒君である。おや今度は白昼公然と玄関からおいでになったな。
「おいこのかたは刑事巡査でせんだっての泥棒をつらまえたから、君に出頭しろと云うんで、わざわざおいでになったんだよ」
 主人はようやく刑事が踏み込んだ理由が分ったと見えて、頭をさげて泥棒の方を向いて鄭寧ていねいに御辞儀をした。泥棒の方が虎蔵君より男振りがいいので、こっちが刑事だと早合点はやがてんをしたのだろう。泥棒も驚ろいたに相違ないが、まさかわたしが泥棒ですよと断わる訳にも行かなかったと見えて、すまして立っている。やはり懐手のままである。もっとも手錠てじょうをはめているのだから、出そうと云っても出る気遣きづかいはない。通例のものならこの様子でたいていはわかるはずだが、この主人は当世の人間に似合わず、むやみに役人や警察をありがたがる癖がある。御上おかみの御威光となると非常に恐しいものと心得ている。もっとも理論上から云うと、巡査なぞは自分達が金を出して番人に雇っておくのだくらいの事は心得ているのだが、実際に臨むといやにへえへえする。主人のおやじはその昔場末の名主であったから、上の者にぴょこぴょこ頭を下げて暮した習慣が、因果となってかように子にむくったのかも知れない。まことに気の毒な至りである。
 巡査はおかしかったと見えて、にやにや笑いながら「あしたね、午前九時までに日本堤にほんづつみの分署まで来て下さい。――盗難品は何と何でしたかね」
「盗難品は……」と云いかけたが、あいにく先生たいがい忘れている。ただ覚えているのは多々良三平たたらさんぺいの山の芋だけである。山の芋などはどうでも構わんと思ったが、盗難品は……と云いかけてあとが出ないのはいかにも与太郎よたろうのようで体裁ていさいがわるい。人が盗まれたのならいざ知らず、自分が盗まれておきながら、明瞭の答が出来んのは一人前いちにんまえではない証拠だと、思い切って「盗難品は……山の芋一箱」とつけた。
 泥棒はこの時よほどおかしかったと見えて、下を向いて着物のえりへあごを入れた。迷亭はアハハハと笑いながら「山の芋がよほど惜しかったと見えるね」と云った。巡査だけは存外真面目である。
「山の芋は出ないようだがほかの物件はたいがい戻ったようです。――まあ来て見たら分るでしょう。それでね、下げ渡したら請書うけしょが入るから、印形いんぎょうを忘れずに持っておいでなさい。――九時までに来なくってはいかん。日本堤にほんづつみ分署ぶんしょです。――浅草警察署の管轄内かんかつないの日本堤分署です。――それじゃ、さようなら」とひとりで弁じて帰って行く。泥棒君も続いて門を出る。手が出せないので、門をしめる事が出来ないから開け放しのまま行ってしまった。恐れ入りながらも不平と見えて、主人は頬をふくらして、ぴしゃりと立て切った。
「アハハハ君は刑事を大変尊敬するね。つねにああ云う恭謙きょうけんな態度を持ってるといい男だが、君は巡査だけに鄭寧ていねいなんだから困る」
「だってせっかく知らせて来てくれたんじゃないか」
「知らせに来るったって、先は商売だよ。当り前にあしらってりゃ沢山だ」
「しかしただの商売じゃない」
「無論ただの商売じゃない。探偵と云ういけすかない商売さ。あたり前の商売より下等だね」
「君そんな事を云うと、ひどい目に逢うぜ」
「ハハハそれじゃ刑事の悪口わるくちはやめにしよう。しかし刑事を尊敬するのは、まだしもだが、泥棒を尊敬するに至っては、驚かざるを得んよ」
「誰が泥棒を尊敬したい」
「君がしたのさ」
「僕が泥棒に近付きがあるもんか」
「あるもんかって君は泥棒にお辞儀をしたじゃないか」
「いつ?」
「たった今平身低頭へいしんていとうしたじゃないか」
「馬鹿あ云ってら、あれは刑事だね」
「刑事があんななりをするものか」
「刑事だからあんななりをするんじゃないか」
頑固がんこだな」
「君こそ頑固だ」
「まあ第一、刑事が人の所へ来てあんなに懐手ふところでなんかして、突立つったっているものかね」
「刑事だって懐手をしないとは限るまい」
「そう猛烈にやって来ては恐れ入るがね。君がお辞儀をする間あいつは始終あのままで立っていたのだぜ」
「刑事だからそのくらいの事はあるかも知れんさ」
「どうも自信家だな。いくら云っても聞かないね」
「聞かないさ。君は口先ばかりで泥棒だ泥棒だと云ってるだけで、その泥棒がはいるところを見届けた訳じゃないんだから。ただそう思ってひとりで強情を張ってるんだ」
 迷亭もここにおいてとうてい済度さいどすべからざる男と断念したものと見えて、例に似ず黙ってしまった。主人は久し振りで迷亭をへこましたと思って大得意である。迷亭から見ると主人の価値は強情を張っただけ下落したつもりであるが、主人から云うと強情を張っただけ迷亭よりえらくなったのである。世の中にはこんな頓珍漢とんちんかんな事はままある。強情さえ張り通せば勝った気でいるうちに、当人の人物としての相場ははるかに下落してしまう。不思議な事に頑固の本人は死ぬまで自分は面目めんぼくを施こしたつもりかなにかで、その時以後人が軽蔑けいべつして相手にしてくれないのだとは夢にも悟り得ない。幸福なものである。こんな幸福を豚的幸福と名づけるのだそうだ。
「ともかくもあした行くつもりかい」
「行くとも、九時までに来いと云うから、八時から出て行く」
「学校はどうする」
「休むさ。学校なんか」とたたきつけるように云ったのはさかんなものだった。
「えらいいきおいだね。休んでもいいのかい」
「いいとも僕の学校は月給だから、差し引かれる気遣きづかいはない、大丈夫だ」と真直に白状してしまった。ずるい事もずるいが、単純なことも単純なものだ。
「君、行くのはいいが路を知ってるかい」
「知るものか。車に乗って行けば訳はないだろう」とぷんぷんしている。
「静岡の伯父に譲らざる東京通なるには恐れ入る」
「いくらでも恐れ入るがいい」
「ハハハ日本堤分署と云うのはね、君ただの所じゃないよ。吉原よしわらだよ」
「何だ?」
「吉原だよ」
「あの遊廓のある吉原か?」
「そうさ、吉原と云やあ、東京に一つしかないやね。どうだ、行って見る気かい」と迷亭君またからかいかける。
 主人は吉原と聞いて、そいつはと少々逡巡しゅんじゅんていであったが、たちまち思い返して「吉原だろうが、遊廓だろうが、いったん行くと云った以上はきっと行く」と入らざるところに力味りきんで見せた。愚人は得てこんなところに意地を張るものだ。
 迷亭君は「まあ面白かろう、見て来たまえ」と云ったのみである。一波瀾ひとはらんを生じた刑事事件はこれで一先ひとま落着らくちゃくを告げた。迷亭はそれから相変らず駄弁をろうして日暮れ方、あまり遅くなると伯父におこられると云って帰って行った。
 迷亭が帰ってから、そこそこに晩飯をすまして、また書斎へ引き揚げた主人は再び拱手きょうしゅしてしものように考え始めた。
「自分が感服して、おおいに見習おうとした八木独仙君も迷亭の話しによって見ると、別段見習うにも及ばない人間のようである。のみならず彼の唱道するところの説は何だか非常識で、迷亭の云う通り多少瘋癲的ふうてんてき系統に属してもおりそうだ。いわんや彼は歴乎れっきとした二人の気狂きちがいの子分を有している。はなはだ危険である。滅多めったに近寄ると同系統内にり込まれそうである。自分が文章の上において驚嘆の、これこそ大見識を有している偉人に相違ないと思い込んだ天道公平事てんどうこうへいこと実名じつみょう立町老梅たちまちろうばいは純然たる狂人であって、現に巣鴨の病院に起居している。迷亭の記述が棒大のざれ言にもせよ、彼が瘋癲院ふうてんいん中に盛名をほしいままにして天道の主宰をもってみずから任ずるは恐らく事実であろう。こう云う自分もことによると少々ござっているかも知れない。同気相求め、同類相集まると云うから、気狂の説に感服する以上は――少なくともその文章言辞に同情を表する以上は――自分もまた気狂に縁の近い者であるだろう。よし同型中に鋳化ちゅうかせられんでも軒をならべて狂人と隣り合せにきょぼくするとすれば、境の壁を一重打ち抜いていつのにか同室内に膝を突き合せて談笑する事がないとも限らん。こいつは大変だ。なるほど考えて見るとこのほどじゅうから自分の脳の作用は我ながら驚くくらい奇上きじょうみょうを点じ変傍へんぼうちんを添えている。脳漿一勺のうしょういっせきの化学的変化はとにかく意志の動いて行為となるところ、発して言辞と化するあたりには不思議にも中庸を失した点が多い。舌上ぜつじょう竜泉りゅうせんなく、腋下えきか清風せいふうしょうぜざるも、歯根しこん狂臭きょうしゅうあり、筋頭きんとう瘋味ふうみあるをいかんせん。いよいよ大変だ。ことによるともうすでに立派な患者になっているのではないかしらん。まださいわいに人をきずつけたり、世間の邪魔になる事をし出かさんからやはり町内を追払われずに、東京市民として存在しているのではなかろうか。こいつは消極の積極のと云う段じゃない。まず脈搏みゃくはくからして検査しなくてはならん。しかし脈には変りはないようだ。頭は熱いかしらん。これも別に逆上の気味でもない。しかしどうも心配だ。」
「こう自分と気狂きちがいばかりを比較して類似の点ばかり勘定していては、どうしても気狂の領分を脱する事は出来そうにもない。これは方法がわるかった。気狂を標準にして自分をそっちへ引きつけて解釈するからこんな結論が出るのである。もし健康な人を本位にしてそのそばへ自分を置いて考えて見たらあるいは反対の結果が出るかも知れない。それにはまず手近から始めなくてはいかん。第一に今日来たフロックコートの伯父さんはどうだ。心をどこに置こうぞ……あれも少々怪しいようだ。第二に寒月はどうだ。朝から晩まで弁当持参でたまばかり磨いている。これも棒組ぼうぐみだ。第三にと……迷亭? あれはふざけ廻るのを天職のように心得ている。全く陽性の気狂に相違ない。第四はと……金田の妻君。あの毒悪な根性こんじょうは全く常識をはずれている。純然たる気じるしにきまってる。第五は金田君の番だ。金田君には御目に懸った事はないが、まずあの細君をうやうやしくおっ立てて、琴瑟きんしつ調和しているところを見ると非凡の人間と見立てて差支さしつかえあるまい。非凡は気狂の異名いみょうであるから、まずこれも同類にしておいて構わない。それからと、――まだあるある。落雲館の諸君子だ、年齢から云うとまだ芽生えだが、躁狂そうきょうの点においては一世をむなしゅうするに足る天晴あっぱれごうのものである。こう数え立てて見ると大抵のものは同類のようである。案外心丈夫になって来た。ことによると社会はみんな気狂の寄り合かも知れない。気狂が集合してしのぎけずってつかみ合い、いがみ合い、ののしり合い、奪い合って、その全体が団体として細胞のようにくずれたり、持ち上ったり、持ち上ったり、崩れたりして暮して行くのを社会と云うのではないか知らん。その中で多少理窟りくつがわかって、分別のある奴はかえって邪魔になるから、瘋癲院ふうてんいんというものを作って、ここへ押し込めて出られないようにするのではないかしらん。すると瘋癲院に幽閉されているものは普通の人で、院外にあばれているものはかえって気狂である。気狂も孤立している間はどこまでも気狂にされてしまうが、団体となって勢力が出ると、健全の人間になってしまうのかも知れない。大きな気狂が金力や威力を濫用らんようして多くの小気狂しょうきちがい使役しえきして乱暴を働いて、人から立派な男だと云われている例は少なくない。何が何だか分らなくなった」
 以上は主人が当夜煢々けいけいたる孤灯のもとで沈思熟慮した時の心的作用をありのままにえがき出したものである。彼の頭脳の不透明なる事はここにも著るしくあらわれている。彼はカイゼルに似た八字髯はちじひげたくわうるにもかかわらず狂人と常人の差別さえなし得ぬくらいの凡倉ぼんくらである。のみならず彼はせっかくこの問題を提供して自己の思索力に訴えながら、ついに何等の結論に達せずしてやめてしまった。何事によらず彼は徹底的に考える脳力のない男である。彼の結論の茫漠ぼうばくとして、彼の鼻孔から迸出ほうしゅつする朝日の煙のごとく、捕捉ほそくしがたきは、彼の議論における唯一の特色として記憶すべき事実である。
 吾輩は猫である。猫の癖にどうして主人の心中をかく精密に記述し得るかと疑うものがあるかも知れんが、このくらいな事は猫にとって何でもない。吾輩はこれで読心術を心得ている。いつ心得たなんて、そんな余計な事は聞かんでもいい。ともかくも心得ている。人間のひざの上へ乗って眠っているうちに、吾輩は吾輩の柔かな毛衣けごろもをそっと人間の腹にこすり付ける。すると一道の電気が起って彼の腹の中のいきさつが手にとるように吾輩の心眼に映ずる。せんだってなどは主人がやさしく吾輩の頭をで廻しながら、突然この猫の皮をいでちゃんちゃんにしたらさぞあたたかでよかろうと飛んでもない了見りょうけんをむらむらと起したのを即座に気取けどって覚えずひやっとした事さえある。こわい事だ。当夜主人の頭のなかに起った以上の思想もそんな訳合わけあいさいわいにも諸君にご報道する事が出来るように相成ったのは吾輩のおおいに栄誉とするところである。ただし主人は「何が何だか分らなくなった」まで考えてそのあとはぐうぐう寝てしまったのである、あすになれば何をどこまで考えたかまるで忘れてしまうに違ない。向後こうごもし主人が気狂きちがいについて考える事があるとすれば、もう一ぺん出直して頭から考え始めなければならぬ。そうすると果してこんな径路けいろを取って、こんな風に「何が何だか分らなくなる」かどうだか保証出来ない。しかし何返考え直しても、何条なんじょうの径路をとって進もうとも、ついに「何が何だか分らなくなる」だけはたしかである。 

 


「あなた、もう七時ですよ」と襖越ふすまごしに細君が声を掛けた。主人は眼がさめているのだか、寝ているのだか、向うむきになったぎり返事もしない。返事をしないのはこの男の癖である。ぜひ何とか口を切らなければならない時はうんう。このうんも容易な事では出てこない。人間も返事がうるさくなるくらい無精ぶしょうになると、どことなくおもむきがあるが、こんな人に限って女に好かれた試しがない。現在連れ添う細君ですら、あまり珍重しておらんようだから、その他はして知るべしと云っても大した間違はなかろう。親兄弟に見離され、あかの他人の傾城けいせいに、可愛がらりょうはずがない、とある以上は、細君にさえ持てない主人が、世間一般の淑女に気に入るはずがない。何も異性間に不人望な主人をこの際ことさらに暴露ばくろする必要もないのだが、本人において存外な考え違をして、全く年廻りのせいで細君に好かれないのだなどと理窟をつけていると、まよいの種であるから、自覚の一助にもなろうかと親切心からちょっと申し添えるまでである。
 言いつけられた時刻に、時刻がきたと注意しても、先方がその注意を無にする以上は、むこうをむいてうんさえ発せざる以上は、そのきょくは夫にあって、妻にあらずと論定したる細君は、遅くなっても知りませんよと云う姿勢でほうきはたきかついで書斎の方へ行ってしまった。やがてぱたぱた書斎中をたたき散らす音がするのは例によって例のごとき掃除を始めたのである。一体掃除の目的は運動のためか、遊戯のためか、掃除の役目を帯びぬ吾輩の関知するところでないから、知らん顔をしていればつかえないようなものの、ここの細君の掃除法のごときに至ってはすこぶる無意義のものと云わざるを得ない。何が無意義であるかと云うと、この細君は単に掃除のために掃除をしているからである。はたきを一通り障子しょうじへかけて、箒を一応畳の上へすべらせる。それで掃除は完成した者と解釈している。掃除の源因及び結果に至っては微塵みじんの責任だに背負っておらん。かるが故に奇麗な所は毎日奇麗だが、ごみのある所、ほこりの積っている所はいつでもごみたまってほこりが積っている。告朔こくさく□羊きようと云う故事こじもある事だから、これでもやらんよりはましかも知れない。しかしやっても別段主人のためにはならない。ならないところを毎日毎日御苦労にもやるところが細君のえらいところである。細君と掃除とは多年の習慣で、器械的の連想をかたちづくってがんとして結びつけられているにもかかわらず、掃除のじつに至っては、妻君がいまだ生れざる以前のごとく、はたきと箒が発明せられざる昔のごとく、ごうあがっておらん。思うにこの両者の関係は形式論理学の命題における名辞のごとくその内容のいかんにかかわらず結合せられたものであろう。
 吾輩は主人と違って、元来が早起の方だから、この時すでに空腹になって参った。とうていうちのものさえぜんに向わぬさきから、猫の身分をもって朝めしに有りつける訳のものではないが、そこが猫の浅ましさで、もしや煙の立った汁のにおい鮑貝あわびがいの中から、うまそうに立ち上っておりはすまいかと思うと、じっとしていられなくなった。はかない事を、はかないと知りながら頼みにするときは、ただその頼みだけを頭の中に描いて、動かずに落ちついている方が得策であるが、さてそうは行かぬ者で、心の願と実際が、合うか合わぬか是非とも試験して見たくなる。試験して見れば必ず失望するにきまってる事ですら、最後の失望をみずから事実の上に受取るまでは承知出来んものである。吾輩はたまらなくなって台所へ這出はいだした。まずへっついの影にある鮑貝あわびがいの中をのぞいて見ると案にたがわず、ゆうめ尽したまま、闃然げきぜんとして、怪しき光が引窓を初秋はつあきの日影にかがやいている。御三おさんはすでにたての飯を、御櫃おはちに移して、今や七輪しちりんにかけたなべの中をかきまぜつつある。かまの周囲にはき上がって流れだした米の汁が、かさかさに幾条いくすじとなくこびりついて、あるものは吉野紙をりつけたごとくに見える。もう飯も汁も出来ているのだから食わせてもよさそうなものだと思った。こんな時に遠慮するのはつまらない話だ、よしんば自分の望通りにならなくったって元々で損は行かないのだから、思い切って朝飯の催促をしてやろう、いくら居候いそうろうの身分だってひもじいに変りはない。と考え定めた吾輩はにゃあにゃあと甘えるごとく、訴うるがごとく、あるいはまたえんずるがごとく泣いて見た。御三はいっこう顧みる景色けしきがない。生れついてのお多角たかくだから人情にうといのはとうから承知の上だが、そこをうまく泣き立てて同情を起させるのが、こっちの手際てぎわである。今度はにゃごにゃごとやって見た。その泣き声は吾ながら悲壮のおんを帯びて天涯てんがい遊子ゆうしをして断腸の思あらしむるに足ると信ずる。御三はてんとしてかえりみない。この女はつんぼなのかも知れない。聾では下女が勤まるわけがないが、ことによると猫の声だけには聾なのだろう。世の中には色盲しきもうというのがあって、当人は完全な視力を具えているつもりでも、医者から云わせると片輪かたわだそうだが、この御三は声盲せいもうなのだろう。声盲だって片輪に違いない。片輪のくせにいやに横風おうふうなものだ。夜中なぞでも、いくらこっちが用があるから開けてくれろと云っても決して開けてくれた事がない。たまに出してくれたと思うと今度はどうしても入れてくれない。夏だって夜露は毒だ。いわんやしもにおいてをやで、軒下に立ち明かして、日の出を待つのは、どんなにつらいかとうてい想像が出来るものではない。この間しめ出しを食った時なぞは野良犬の襲撃をこうむって、すでに危うく見えたところを、ようやくの事で物置の家根やねへかけあがって、終夜ふるえつづけた事さえある。これ等は皆御三の不人情から胚胎はいたいした不都合である。こんなものを相手にして鳴いて見せたって、感応かんのうのあるはずはないのだが、そこが、ひもじい時の神頼み、貧のぬすみに恋のふみと云うくらいだから、たいていの事ならやる気になる。にゃごおうにゃごおうと三度目には、注意を喚起するためにことさらに複雑なる泣き方をして見た。自分ではベトヴェンのシンフォニーにも劣らざる美妙のおんと確信しているのだが御三には何等の影響も生じないようだ。御三は突然膝をついて、揚げ板を一枚はねけて、中から堅炭の四寸ばかり長いのを一本つかみ出した。それからその長い奴を七輪しちりんの角でぽんぽんとたたいたら、長いのが三つほどに砕けて近所は炭の粉で真黒くなった。少々は汁の中へも這入はいったらしい。御三はそんな事に頓着する女ではない。直ちにくだけたる三個の炭をなべの尻から七輪の中へ押し込んだ。とうてい吾輩のシンフォニーには耳を傾けそうにもない。仕方がないから悄然しょうぜんと茶の間の方へ引きかえそうとして風呂場の横を通り過ぎると、ここは今女の子が三人で顔を洗ってる最中で、なかなか繁昌はんじょうしている。
 顔を洗うと云ったところで、上の二人が幼稚園の生徒で、三番目は姉の尻についてさえ行かれないくらい小さいのだから、正式に顔が洗えて、器用に御化粧が出来るはずがない。一番小さいのがバケツの中から雑巾ぞうきんを引きずり出してしきりに顔中で廻わしている。雑巾で顔を洗うのは定めし心持ちがわるかろうけれども、地震がゆるたびにおもちろいわと云う子だからこのくらいの事はあっても驚ろくに足らん。ことによると八木独仙君より悟っているかも知れない。さすがに長女は長女だけに、姉をもってみずから任じているから、うがい茶碗をからからかんと抛出ほうりだして「坊やちゃん、それは雑巾よ」と雑巾をとりにかかる。坊やちゃんもなかなか自信家だから容易に姉の云う事なんか聞きそうにしない。「いやーよ、ばぶ」と云いながら雑巾を引っ張り返した。このばぶなる語はいかなる意義で、いかなる語源を有しているか、誰も知ってるものがない。ただこの坊やちゃんが癇癪かんしゃくを起した時に折々ご使用になるばかりだ。雑巾はこの時姉の手と、坊やちゃんの手で左右に引っ張られるから、水を含んだ真中からぽたぽたしずくれて、容赦なく坊やの足にかかる、足だけなら我慢するが膝のあたりがしたたか濡れる。坊やはこれでも元禄げんろくを着ているのである。元禄とは何の事だとだんだん聞いて見ると、中形ちゅうがたの模様なら何でも元禄だそうだ。一体だれに教わって来たものか分らない。「坊やちゃん、元禄が濡れるから御よしなさい、ね」と姉が洒落しゃれた事を云う。そのくせこの姉はついこの間まで元禄と双六すごろくとを間違えていた物識ものしりである。
 元禄で思い出したからついでに喋舌しゃべってしまうが、この子供の言葉ちがいをやる事はおびただしいもので、折々人を馬鹿にしたような間違を云ってる。火事できのこが飛んで来たり、御茶おちゃ味噌みその女学校へ行ったり、恵比寿えびす台所だいどこと並べたり、或る時などは「わたしゃ藁店わらだなの子じゃないわ」と云うから、よくよく聞きただして見ると裏店うらだなと藁店を混同していたりする。主人はこんな間違を聞くたびに笑っているが、自分が学校へ出て英語を教える時などは、これよりも滑稽な誤謬ごびゅうを真面目になって、生徒に聞かせるのだろう。
 坊やは――当人は坊やとは云わない。いつでも坊ばと云う――元禄が濡れたのを見て「げんどこべたい」と云って泣き出した。元禄が冷たくては大変だから、御三が台所から飛び出して来て、雑巾を取上げて着物をいてやる。この騒動中比較的静かであったのは、次女のすん子嬢である。すん子嬢は向うむきになって棚の上からころがり落ちた、お白粉しろいびんをあけて、しきりに御化粧をほどこしている。第一に突っ込んだ指をもって鼻の頭をキューとでたからたてに一本白い筋が通って、鼻のありかがいささか分明ぶんみょうになって来た。次に塗りつけた指を転じて頬の上を摩擦したから、そこへもってきて、これまた白いかたまりが出来上った。これだけ装飾がととのったところへ、下女がはいって来て坊ばの着物を拭いたついでに、すん子の顔もふいてしまった。すん子は少々不満のていに見えた。
 吾輩はこの光景を横に見て、茶の間から主人の寝室まで来てもう起きたかとひそかに様子をうかがって見ると、主人の頭がどこにも見えない。その代り十文半ともんはんの甲の高い足が、夜具のすそから一本み出している。頭が出ていては起こされる時に迷惑だと思って、かくもぐり込んだのであろう。亀の子のような男である。ところへ書斎の掃除をしてしまった妻君がまたほうきはたきかついでやってくる。最前さいぜんのようにふすまの入口から
「まだお起きにならないのですか」と声をかけたまま、しばらく立って、首の出ない夜具を見つめていた。今度も返事がない。細君は入口から二歩ふたあしばかり進んで、箒をとんと突きながら「まだなんですか、あなた」と重ねて返事を承わる。この時主人はすでに目がめている。覚めているから、細君の襲撃にそなうるため、あらかじめ夜具の中に首もろとも立てこもったのである。首さえ出さなければ、見逃みのがしてくれる事もあろうかと、詰まらない事を頼みにして寝ていたところ、なかなか許しそうもない。しかし第一回の声は敷居の上で、少くとも一間の間隔があったから、まず安心と腹のうちで思っていると、とんと突いた箒が何でも三尺くらいの距離に追っていたにはちょっと驚ろいた。のみならず第二の「まだなんですか、あなた」が距離においても音量においても前よりも倍以上の勢を以て夜具のなかまで聞えたから、こいつは駄目だと覚悟をして、小さな声でうんと返事をした。
「九時までにいらっしゃるのでしょう。早くなさらないと間に合いませんよ」
「そんなに言わなくても今起きる」と夜着よぎ袖口そでぐちから答えたのは奇観である。妻君はいつでもこの手を食って、起きるかと思って安心していると、また寝込まれつけているから、油断は出来ないと「さあお起きなさい」とせめ立てる。起きると云うのに、なお起きろと責めるのは気に食わんものだ。主人のごとき我儘者わがままものにはなお気に食わん。ここにおいてか主人は今まで頭からかぶっていた夜着を一度にねのけた。見ると大きな眼を二つともいている。
「何だ騒々しい。起きると云えば起きるのだ」
「起きるとおっしゃってもお起きなさらんじゃありませんか」
「誰がいつ、そんなうそをついた」
「いつでもですわ」
「馬鹿を云え」
「どっちが馬鹿だか分りゃしない」と妻君ぷんとして箒を突いて枕元に立っているところは勇ましかった。この時裏の車屋の子供、八っちゃんが急に大きな声をしてワーと泣き出す。八っちゃんは主人がおこり出しさえすれば必ず泣き出すべく、車屋のかみさんから命ぜられるのである。かみさんは主人が怒るたんびに八っちゃんを泣かして小遣こづかいになるかも知れんが、八っちゃんこそいい迷惑だ。こんな御袋おふくろを持ったが最後朝から晩まで泣き通しに泣いていなくてはならない。少しはこの辺の事情を察して主人も少々怒るのを差しひかえてやったら、八っちゃんの寿命が少しは延びるだろうに、いくら金田君から頼まれたって、こんなな事をするのは、天道公平君よりもはげしくおいでになっている方だと鑑定してもよかろう。怒るたんびに泣かせられるだけなら、まだ余裕もあるけれども、金田君が近所のゴロツキをやとって今戸焼いまどやきをきめ込むたびに、八っちゃんは泣かねばならんのである。主人が怒るか怒らぬか、まだ判然しないうちから、必ず怒るべきものと予想して、早手廻しに八っちゃんは泣いているのである。こうなると主人が八っちゃんだか、八っちゃんが主人だか判然しなくなる。主人にあてつけるに手数てすうは掛らない、ちょっと八っちゃんに剣突けんつくを食わせれば何の苦もなく、主人のよこつらを張った訳になる。むかし西洋で犯罪者を所刑にする時に、本人が国境外に逃亡して、とらえられん時は、偶像をつくって人間の代りにあぶりにしたと云うが、彼等のうちにも西洋の故事に通暁つうぎょうする軍師があると見えて、うまい計略を授けたものである。落雲館と云い、八っちゃんの御袋と云い、腕のきかぬ主人にとっては定めし苦手にがてであろう。そのほか苦手はいろいろある。あるいは町内中ことごとく苦手かも知れんが、ただいまは関係がないから、だんだん成し崩しに紹介致す事にする。
 八っちゃんの泣き声を聞いた主人は、朝っぱらからよほど癇癪かんしゃくが起ったと見えて、たちまちがばと布団ふとんの上に起き直った。こうなると精神修養も八木独仙も何もあったものじゃない。起き直りながら両方の手でゴシゴシゴシと表皮のむけるほど、頭中引きき廻す。一ヵ月も溜っているフケは遠慮なく、頸筋くびすじやら、寝巻のえりへ飛んでくる。非常な壮観である。ひげはどうだと見るとこれはまた驚ろくべく、ぴん然とおっ立っている。持主がおこっているのに髯だけ落ちついていてはすまないとでも心得たものか、一本一本に癇癪かんしゃくを起して、勝手次第の方角へ猛烈なる勢をもって突進している。これとてもなかなかの見物みものである。昨日きのうは鏡の手前もある事だから、おとなしく独乙ドイツ皇帝陛下の真似をして整列したのであるが、一晩寝れば訓練も何もあった者ではない、直ちに本来の面目に帰って思い思いのたちに戻るのである。あたかも主人の一夜作りの精神修養が、あくる日になるとぬぐうがごとく奇麗に消え去って、生れついての野猪的やちょてき本領が直ちに全面を暴露しきたるのと一般である。こんな乱暴な髯をもっている、こんな乱暴な男が、よくまあ今まで免職にもならずに教師が勤まったものだと思うと、始めて日本の広い事がわかる。広ければこそ金田君や金田君の犬が人間として通用しているのでもあろう。彼等が人間として通用する間は主人も免職になる理由がないと確信しているらしい。いざとなれば巣鴨へ端書はがきを飛ばして天道公平君に聞き合せて見れば、すぐ分る事だ。
 この時主人は、昨日きのう紹介した混沌こんとんたる太古の眼を精一杯に見張って、向うの戸棚をきっと見た。これは高さ一間を横に仕切って上下共おのおの二枚の袋戸をはめたものである。下の方の戸棚は、布団ふとんすそとすれすれの距離にあるから、起き直った主人が眼をあきさえすれば、天然自然ここに視線がむくように出来ている。見ると模様を置いた紙がところどころ破れて妙なはらわたがあからさまに見える。腸にはいろいろなのがある。あるものは活版摺かっぱんずりで、あるものは肉筆である。あるものは裏返しで、あるものは逆さまである。主人はこの腸を見ると同時に、何がかいてあるか読みたくなった。今までは車屋のかみさんでもつらまえて、鼻づらを松の木へこすりつけてやろうくらいにまでおこっていた主人が、突然この反古紙ほごがみを読んで見たくなるのは不思議のようであるが、こう云う陽性の癇癪持ちには珍らしくない事だ。小供が泣くときに最中もなかの一つもあてがえばすぐ笑うと一般である。主人がむかし去る所の御寺に下宿していた時、ふすまを隔てて尼が五六人いた。尼などと云うものは元来意地のわるい女のうちでもっとも意地のわるいものであるが、この尼が主人の性質を見抜いたものと見えて自炊のなべをたたきながら、今泣いた烏がもう笑った、今泣いた烏がもう笑ったと拍子を取って歌ったそうだ、主人が尼が大嫌になったのはこの時からだと云うが、尼はきらいにせよ全くそれに違ない。主人は泣いたり、笑ったり、嬉しがったり、悲しがったり人一倍もする代りにいずれも長く続いた事がない。よく云えば執着がなくて、心機しんきがむやみに転ずるのだろうが、これを俗語に翻訳してやさしく云えば奥行のない、うすぺらの、はなぱりだけ強いだだっ子である。すでにだだっ子である以上は、喧嘩をする勢で、むっくとね起きた主人が急に気をかえて袋戸ふくろどの腸を読みにかかるのももっともと云わねばなるまい。第一に眼にとまったのが伊藤博文のちである。上を見ると明治十一年九月廿八日とある。韓国統監かんこくとうかんもこの時代から御布令おふれ尻尾しっぽを追っ懸けてあるいていたと見える。大将この時分は何をしていたんだろうと、読めそうにないところを無理によむと大蔵卿おおくらきょうとある。なるほどえらいものだ、いくら逆か立ちしても大蔵卿である。少し左の方を見ると今度は大蔵卿横になって昼寝をしている。もっともだ。逆か立ちではそう長く続く気遣きづかいはない。下の方に大きな木板もくばん汝はと二字だけ見える、あとが見たいがあいにく露出しておらん。次の行には早くの二字だけ出ている。こいつも読みたいがそれぎれで手掛りがない。もし主人が警視庁の探偵であったら、人のものでも構わずに引っぺがすかも知れない。探偵と云うものには高等な教育を受けたものがないから事実を挙げるためには何でもする。あれは始末にかないものだ。ねがわくばもう少し遠慮をしてもらいたい。遠慮をしなければ事実は決して挙げさせない事にしたらよかろう。聞くところによると彼等は羅織虚構らしききょこうをもって良民を罪におとしいれる事さえあるそうだ。良民が金を出して雇っておく者が、雇主を罪にするなどときてはこれまた立派な気狂きちがいである。次に眼を転じて真中を見ると真中には大分県おおいたけんが宙返りをしている。伊藤博文でさえ逆か立ちをするくらいだから、大分県が宙返りをするのは当然である。主人はここまで読んで来て、双方へにぎこぶしをこしらえて、これを高く天井に向けて突きあげた。あくびの用意である。
 このあくびがまたくじら遠吠とおぼえのようにすこぶる変調をきわめた者であったが、それが一段落を告げると、主人はのそのそと着物をきかえて顔を洗いに風呂場へ出掛けて行った。待ちかねた細君はいきなり布団ふとんをまくって夜着よぎを畳んで、例の通り掃除をはじめる。掃除が例の通りであるごとく、主人の顔の洗い方も十年一日のごとく例の通りである。先日紹介をしたごとく依然としてがーがー、げーげーを持続している。やがて頭を分け終って、西洋手拭てぬぐいを肩へかけて、茶の間へ出御しゅつぎょになると、超然として長火鉢の横に座を占めた。長火鉢と云うとけやき如輪木じょりんもくか、あか総落そうおとしで、洗髪あらいがみの姉御が立膝で、長煙管ながぎせる黒柿くろがきふちへ叩きつける様を想見する諸君もないとも限らないが、わが苦沙弥くしゃみ先生の長火鉢に至っては決して、そんな意気なものではない、何で造ったものか素人しろうとには見当けんとうのつかんくらい古雅なものである。長火鉢は拭き込んでてらてら光るところが身上しんしょうなのだが、この代物しろものは欅か桜かきりか元来不明瞭な上に、ほとんど布巾ふきんをかけた事がないのだから陰気で引き立たざる事おびただしい。こんなものをどこから買って来たかと云うと、決して買ったおぼえはない。そんなら貰ったかと聞くと、誰もくれた人はないそうだ。しからば盗んだのかとただして見ると、何だかその辺が曖昧あいまいである。昔し親類に隠居がおって、その隠居が死んだ時、当分留守番を頼まれた事がある。ところがその後一戸を構えて、隠居所を引き払う際に、そこで自分のもののように使っていた火鉢を何の気もなく、つい持って来てしまったのだそうだ。少々たちが悪いようだ。考えるとたちが悪いようだがこんな事は世間に往々ある事だと思う。銀行家などは毎日人の金をあつかいつけているうちに人の金が、自分の金のように見えてくるそうだ。役人は人民の召使である。用事を弁じさせるために、ある権限を委托した代理人のようなものだ。ところが委任された権力をかさに着て毎日事務を処理していると、これは自分が所有している権力で、人民などはこれについて何らのくちばしるる理由がないものだなどと狂ってくる。こんな人が世の中に充満している以上は長火鉢事件をもって主人に泥棒根性があると断定する訳には行かぬ。もし主人に泥棒根性があるとすれば、天下の人にはみんな泥棒根性がある。
 長火鉢のそばに陣取って、食卓を前にひかえたる主人の三面には、先刻さっき雑巾ぞうきんで顔を洗った坊ば御茶おちゃ味噌の学校へ行くとん子と、お白粉罎しろいびんに指を突き込んだすん子が、すでに勢揃せいぞろいをして朝飯を食っている。主人は一応この三女子の顔を公平に見渡した。とん子の顔は南蛮鉄なんばんてつの刀のつばのような輪廓りんかくを有している。すん子も妹だけに多少姉の面影おもかげを存して琉球塗りゅうきゅうぬり朱盆しゅぼんくらいな資格はある。ただ坊ばに至ってはひとり異彩を放って、面長おもながに出来上っている。ただたてに長いのなら世間にその例もすくなくないが、この子のは横に長いのである。いかに流行が変化しやすくったって、横に長い顔がはやる事はなかろう。主人は自分の子ながらも、つくづく考える事がある。これでも生長しなければならぬ。生長するどころではない、その生長のすみやかなる事は禅寺ぜんでらたけのこが若竹に変化する勢で大きくなる。主人はまた大きくなったなと思うたんびに、うしろから追手おってにせまられるような気がしてひやひやする。いかに空漠くうばくなる主人でもこの三令嬢が女であるくらいは心得ている。女である以上はどうにか片付けなくてはならんくらいも承知している。承知しているだけで片付ける手腕のない事も自覚している。そこで自分の子ながらも少しく持て余しているところである。持て余すくらいなら製造しなければいいのだが、そこが人間である。人間の定義を云うとほかに何にもない。ただらざる事を捏造ねつぞうしてみずから苦しんでいる者だと云えば、それで充分だ。
 さすがに子供はえらい。これほどおやじが処置に窮しているとは夢にも知らず、楽しそうにご飯をたべる。ところが始末におえないのは坊ばである。坊ばは当年とって三歳であるから、細君が気をかして、食事のときには、三歳然たる小形のはしと茶碗をあてがうのだが、坊ばは決して承知しない。必ず姉の茶碗を奪い、姉の箸を引ったくって、持ちあつかいにくい奴を無理に持ちあつかっている。世の中を見渡すと無能無才の小人ほど、いやにのさばり出てがらにもない官職に登りたがるものだが、あの性質は全くこの坊ば時代から萌芽ほうがしているのである。そのってきたるところはかくのごとく深いのだから、決して教育や薫陶くんとうなおせる者ではないと、早くあきらめてしまうのがいい。
 坊ばは隣りから分捕ぶんどった偉大なる茶碗と、長大なる箸を専有して、しきりに暴威をほしいままにしている。使いこなせない者をむやみに使おうとするのだから、いきおい暴威をたくましくせざるを得ない。坊ばはまず箸の根元を二本いっしょに握ったままうんと茶碗の底へ突込んだ。茶碗の中は飯が八分通り盛り込まれて、その上に味噌汁が一面にみなぎっている。箸の力が茶碗へ伝わるやいなや、今までどうか、こうか、平均を保っていたのが、急に襲撃を受けたので三十度ばかり傾いた。同時に味噌汁は容赦なくだらだらと胸のあたりへこぼれだす。坊ばはそのくらいな事で辟易へきえきする訳がない。坊ばは暴君である。今度は突き込んだ箸を、うんと力一杯茶碗の底からね上げた。同時に小さな口をふちまで持って行って、ね上げられた米粒を這入はいるだけ口の中へ受納した。打ちらされた米粒は黄色な汁と相和して鼻のあたまとっぺたとあごとへ、やっと掛声をして飛びついた。飛びつき損じて畳の上へこぼれたものは打算ださんの限りでない。随分無分別な飯の食い方である。吾輩はつつしんで有名なる金田君及び天下の勢力家に忠告する。公等こうらの他をあつかう事、坊ばの茶碗と箸をあつかうがごとくんば、公等こうらの口へ飛び込む米粒は極めて僅少きんしょうのものである。必然の勢をもって飛び込むにあらず、戸迷とまどいをして飛び込むのである。どうか御再考をわずらわしたい。世故せこにたけた敏腕家にも似合しからぬ事だ。
 姉のとん子は、自分の箸と茶碗を坊ばに掠奪りゃくだつされて、不相応に小さな奴をもってさっきから我慢していたが、もともと小さ過ぎるのだから、一杯にもった積りでも、あんとあけると三口ほどで食ってしまう。したがって頻繁ひんぱんに御はちの方へ手が出る。もう四膳かえて、今度は五杯目である。とん子は御はちのふたをあけて大きなしゃもじを取り上げて、しばらくながめていた。これは食おうか、よそうかと迷っていたものらしいが、ついに決心したものと見えて、げのなさそうなところを見計って一掬ひとしゃくいしゃもじの上へ乗せたまでは無難ぶなんであったが、それを裏返して、ぐいと茶碗の上をこいたら、茶碗にはいりきらん飯はかたまったまま畳の上へころがり出した。とん子は驚ろく景色けしきもなく、こぼれた飯を鄭寧ていねいに拾い始めた。拾って何にするかと思ったら、みんな御はちの中へ入れてしまった。少しきたないようだ。
 坊ばが一大活躍を試みて箸をね上げた時は、ちょうどとん子が飯をよそいおわった時である。さすがに姉は姉だけで、坊ばの顔のいかにも乱雑なのを見かねて「あら坊ばちゃん、大変よ、顔がぜん粒だらけよ」と云いながら、早速さっそく坊ばの顔の掃除にとりかかる。第一に鼻のあたまに寄寓きぐうしていたのを取払う。取払って捨てると思のほか、すぐ自分の口のなかへ入れてしまったのには驚ろいた。それからっぺたにかかる。ここには大分だいぶぐんをなしてかずにしたら、両方を合せて約二十粒もあったろう。姉は丹念に一粒ずつ取っては食い、取っては食い、とうとう妹の顔中にある奴を一つ残らず食ってしまった。この時ただ今まではおとなしく沢庵たくあんをかじっていたすん子が、急に盛り立ての味噌汁の中から薩摩芋さつまいものくずれたのをしゃくい出して、勢よく口の内へほうり込んだ。諸君も御承知であろうが、汁にした薩摩芋の熱したのほど口中こうちゅうにこたえる者はない。大人おとなですら注意しないと火傷やけどをしたような心持ちがする。ましてすん子のごとき、薩摩芋に経験のとぼしい者は無論狼狽ろうばいする訳である。すん子はワッと云いながら口中こうちゅうの芋を食卓の上へ吐き出した。その二三ぺんがどう云う拍子か、坊ばの前まですべって来て、ちょうどいい加減な距離でとまる。坊ばはもとより薩摩芋が大好きである。大好きな薩摩芋が眼の前へ飛んで来たのだから、早速箸をほうり出して、手攫てづかみにしてむしゃむしゃ食ってしまった。
 先刻さっきからこのていたらくを目撃していた主人は、一言いちごんも云わずに、専心自分の飯を食い、自分の汁を飲んで、この時はすでに楊枝ようじを使っている最中であった。主人は娘の教育に関して絶体的放任主義をるつもりと見える。今に三人が海老茶式部えびちゃしきぶ鼠式部ねずみしきぶかになって、三人とも申し合せたように情夫じょうふをこしらえて出奔しゅっぽんしても、やはり自分の飯を食って、自分の汁を飲んで澄まして見ているだろう。働きのない事だ。しかし今の世の働きのあると云う人を拝見すると、嘘をついて人を釣る事と、先へ廻って馬の眼玉を抜く事と、虚勢を張って人をおどかす事と、かまをかけて人をおとしいれる事よりほかに何も知らないようだ。中学などの少年輩までが見様見真似みようみまねに、こうしなくては幅がかないと心得違いをして、本来なら赤面してしかるべきのを得々とくとく履行りこうして未来の紳士だと思っている。これは働き手と云うのではない。ごろつき手と云うのである。吾輩も日本の猫だから多少の愛国心はある。こんな働き手を見るたびになぐってやりたくなる。こんなものが一人でもえれば国家はそれだけ衰える訳である。こんな生徒のいる学校は、学校の恥辱であって、こんな人民のいる国家は国家の恥辱である。恥辱であるにも関らず、ごろごろ世間にごろついているのは心得がたいと思う。日本の人間は猫ほどの気概もないと見える。なさけない事だ。こんなごろつき手に比べると主人などははるかに上等な人間と云わなくてはならん。意気地のないところが上等なのである。無能なところが上等なのである。猪口才ちょこざいでないところが上等なのである。
 かくのごとく働きのない食い方をもって、無事に朝食あさめしを済ましたる主人は、やがて洋服を着て、車へ乗って、日本堤分署へ出頭に及んだ。格子こうしをあけた時、車夫に日本堤という所を知ってるかと聞いたら、車夫はへへへと笑った。あの遊廓のある吉原の近辺の日本堤だぜと念を押したのは少々滑稽こっけいであった。
 主人が珍らしく車で玄関から出掛けたあとで、妻君は例のごとく食事を済ませて「さあ学校へおいで。遅くなりますよ」と催促すると、小供は平気なもので「あら、でも今日は御休みよ」と支度したくをする景色けしきがない。「御休みなもんですか、早くなさい」としかるように言って聞かせると「それでも昨日きのう、先生が御休だって、おっしゃってよ」と姉はなかなか動じない。妻君もここに至って多少変に思ったものか、戸棚からこよみを出して繰り返して見ると、赤い字でちゃんと御祭日と出ている。主人は祭日とも知らずに学校へ欠勤届を出したのだろう。細君も知らずに郵便箱へほうり込んだのだろう。ただし迷亭に至っては実際知らなかったのか、知って知らん顔をしたのか、そこは少々疑問である。この発明におやと驚ろいた妻君はそれじゃ、みんなでおとなしく御遊びなさいと平生いつもの通り針箱を出して仕事に取りかかる。
 その三十分間は家内平穏、別段吾輩の材料になるような事件も起らなかったが、突然妙な人が御客に来た。十七八の女学生である。かかとのまがった靴をいて、紫色のはかまを引きずって、髪を算盤珠そろばんだまのようにふくらまして勝手口から案内もわずにあがって来た。これは主人のめいである。学校の生徒だそうだが、折々日曜にやって来て、よく叔父さんと喧嘩をして帰って行く雪江ゆきえとか云う奇麗な名のお嬢さんである。もっとも顔は名前ほどでもない、ちょっと表へ出て一二町あるけば必ず逢える人相である。
「叔母さん今日は」と茶の間へつかつか這入はいって来て、針箱の横へ尻をおろした。
「おや、よく早くから……」
「今日は大祭日ですから、朝のうちにちょっと上がろうと思って、八時半頃からうちを出て急いで来たの」
「そう、何か用があるの?」
「いいえ、ただあんまり御無沙汰をしたから、ちょっと上がったの」
「ちょっとでなくっていいから、ゆっくり遊んでいらっしゃい。今に叔父さんが帰って来ますから」
「叔父さんは、もう、どこへかいらしったの。珍らしいのね」
「ええ今日はね、妙な所へ行ったのよ。……警察へ行ったの、妙でしょう」
「あら、何で?」
「この春這入はいった泥棒がつらまったんだって」
「それで引き合に出されるの? いい迷惑ね」
「なあに品物が戻るのよ。取られたものが出たから取りに来いって、昨日きのう巡査がわざわざ来たもんですから」
「おや、そう、それでなくっちゃ、こんなに早く叔父さんが出掛ける事はないわね。いつもなら今時分はまだ寝ていらっしゃるんだわ」
「叔父さんほど、寝坊はないんですから……そうして起こすとぷんぷんおこるのよ。今朝なんかも七時までに是非おこせと云うから、起こしたんでしょう。すると夜具の中へもぐって返事もしないんですもの。こっちは心配だから二度目にまたおこすと、夜着よぎそでから何か云うのよ。本当にあきれ返ってしまうの」
「なぜそんなに眠いんでしょう。きっと神経衰弱なんでしょう」
「何ですか」
「本当にむやみに怒るかたね。あれでよく学校が勤まるのね」
「なに学校じゃおとなしいんですって」
「じゃなお悪るいわ。まるで蒟蒻閻魔こんにゃくえんまね」
「なぜ?」
「なぜでも蒟蒻閻魔なの。だって蒟蒻閻魔のようじゃありませんか」
「ただ怒るばかりじゃないのよ。人が右と云えば左、左と云えば右で、何でも人の言う通りにした事がない、――そりゃ強情ですよ」
天探女あまのじゃくでしょう。叔父さんはあれが道楽なのよ。だから何かさせようと思ったら、うらを云うと、こっちの思い通りになるのよ。こないだ蝙蝠傘こうもりを買ってもらう時にも、いらない、いらないって、わざと云ったら、いらない事があるものかって、すぐ買って下すったの」
「ホホホホうまいのね。わたしもこれからそうしよう」
「そうなさいよ。それでなくっちゃ損だわ」
「こないだ保険会社の人が来て、是非御這入おはいんなさいって、勧めているんでしょう、――いろいろわけを言って、こう云う利益があるの、ああ云う利益があるのって、何でも一時間も話をしたんですが、どうしても這入らないの。うちだって貯蓄はなし、こうして小供は三人もあるし、せめて保険へでも這入ってくれるとよっぽど心丈夫なんですけれども、そんな事は少しも構わないんですもの」
「そうね、もしもの事があると不安心だわね」と十七八の娘に似合しからん世帯染しょたいじみたことを云う。
「その談判を蔭で聞いていると、本当に面白いのよ。なるほど保険の必要も認めないではない。必要なものだから会社も存在しているのだろう。しかし死なない以上は保険に這入はいる必要はないじゃないかって強情を張っているんです」
「叔父さんが?」
「ええ、すると会社の男が、それは死ななければ無論保険会社はいりません。しかし人間の命と云うものは丈夫なようでもろいもので、知らないうちに、いつ危険がせまっているか分りませんと云うとね、叔父さんは、大丈夫僕は死なない事に決心をしているって、まあ無法な事を云うんですよ」
「決心したって、死ぬわねえ。わたしなんか是非及第きゅうだいするつもりだったけれども、とうとう落第してしまったわ」
「保険社員もそう云うのよ。寿命は自分の自由にはなりません。決心できが出来るものなら、誰も死ぬものはございませんって」
「保険会社の方が至当しとうですわ」
「至当でしょう。それがわからないの。いえ決して死なない。誓って死なないって威張るの」
「妙ね」
「妙ですとも、大妙おおみょうですわ。保険の掛金を出すくらいなら銀行へ貯金する方がはるかにましだってすまし切っているんですよ」
「貯金があるの?」
「あるもんですか。自分が死んだあとなんか、ちっとも構う考なんかないんですよ」
「本当に心配ね。なぜ、あんななんでしょう、ここへいらっしゃるかただって、叔父さんのようなのは一人もいないわね」
「いるものですか。無類ですよ」
「ちっと鈴木さんにでも頼んで意見でもして貰うといいんですよ。ああ云うおだやかな人だとよっぽどらくですがねえ」
「ところが鈴木さんは、うちじゃ評判がわるいのよ」
「みんなさかなのね。それじゃ、あのかたがいいでしょう――ほらあの落ちついてる――」
「八木さん?」
「ええ」
「八木さんには大分だいぶ閉口しているんですがね。昨日きのう迷亭さんが来て悪口をいったものだから、思ったほどかないかも知れない」
「だっていいじゃありませんか。あんな風に鷹揚おうように落ちついていれば、――こないだ学校で演説をなすったわ」
「八木さんが?」
「ええ」
「八木さんは雪江さんの学校の先生なの」
「いいえ、先生じゃないけども、淑徳しゅくとく婦人会ふじんかいのときに招待して、演説をして頂いたの」
「面白かって?」
「そうね、そんなに面白くもなかったわ。だけども、あの先生が、あんな長い顔なんでしょう。そうして天神様のようなひげを生やしているもんだから、みんな感心して聞いていてよ」
「御話しって、どんな御話なの?」と妻君が聞きかけていると椽側えんがわの方から、雪江さんの話し声をききつけて、三人の子供がどたばた茶の間へ乱入して来た。今までは竹垣の外の空地あきちへ出て遊んでいたものであろう。
「あら雪江さんが来た」と二人の姉さんは嬉しそうに大きな声を出す。妻君は「そんなに騒がないで、みんな静かにして御坐わりなさい。雪江さんが今面白い話をなさるところだから」と仕事を隅へ片付ける。
「雪江さん何の御話し、わたし御話しが大好き」と云ったのはとん子で「やっぱりかちかち山の御話し?」と聞いたのはすん子である。「坊ばも御はなち」と云い出した三女は姉と姉の間から膝を前の方に出す。ただしこれは御話をうけたまわると云うのではない、坊ばもまた御話をつかまつると云う意味である。「あら、また坊ばちゃんの話だ」と姉さんが笑うと、妻君は「坊ばはあとでなさい。雪江さんの御話がすんでから」とかして見る。坊ばはなかなか聞きそうにない。「いやーよ、ばぶ」と大きな声を出す。「おお、よしよし坊ばちゃんからなさい。何と云うの?」と雪江さんは謙遜けんそんした。
「あのね。坊たん、坊たん、どこ行くのって」
「面白いのね。それから?」
「わたちは田圃たんぼへ稲刈いに」
「そう、よく知ってる事」
「御前がくうと邪魔だまになる」
「あら、くうとじゃないわ、くるとだわね」ととん子が口を出す。坊ばは相変らず「ばぶ」と一喝いっかつして直ちに姉を辟易へきえきさせる。しかし中途で口を出されたものだから、続きを忘れてしまって、あとが出て来ない。「坊ばちゃん、それぎりなの?」と雪江さんが聞く。
「あのね。あとでおならは御免ごめんだよ。ぷう、ぷうぷうって」
「ホホホホ、いやだ事、誰にそんな事を、教わったの?」
御三おたんに」
「わるい御三おさんね、そんな事を教えて」と妻君は苦笑をしていたが「さあ今度は雪江さんの番だ。坊やはおとなしく聞いているのですよ」と云うと、さすがの暴君も納得なっとくしたと見えて、それぎり当分の間は沈黙した。
「八木先生の演説はこんなのよ」と雪江さんがとうとう口を切った。「昔あるつじの真中に大きな石地蔵があったんですってね。ところがそこがあいにく馬や車が通る大変にぎやかな場所だもんだから邪魔になって仕様がないんでね、町内のものが大勢寄って、相談をして、どうしてこの石地蔵を隅の方へ片づけたらよかろうって考えたんですって」
「そりゃ本当にあった話なの?」
「どうですか、そんな事は何ともおっしゃらなくってよ。――でみんながいろいろ相談をしたら、その町内で一番強い男が、そりゃ訳はありません、わたしがきっと片づけて見せますって、一人でその辻へ行って、両肌もろはだを抜いで汗を流して引っ張ったけれども、どうしても動かないんですって」
「よっぽど重い石地蔵なのね」
「ええ、それでその男が疲れてしまって、うちへ帰って寝てしまったから、町内のものはまた相談をしたんですね。すると今度は町内で一番利口な男が、わたしに任せて御覧なさい、一番やって見ますからって、重箱のなかへ牡丹餅ぼたもちを一杯入れて、地蔵の前へ来て、『ここまでおいで』と云いながら牡丹餅を見せびらかしたんだって、地蔵だって食意地くいいじが張ってるから牡丹餅で釣れるだろうと思ったら、少しも動かないんだって。利口な男はこれではいけないと思ってね。今度は瓢箪ひょうたんへお酒を入れて、その瓢箪を片手へぶら下げて、片手へ猪口ちょこを持ってまた地蔵さんの前へ来て、さあ飲みたくはないかね、飲みたければここまでおいでと三時間ばかり、からかって見たがやはり動かないんですって」
「雪江さん、地蔵様は御腹おなからないの」ととん子がきくと「牡丹餅が食べたいな」とすん子が云った。
「利口な人は二度共しくじったから、その次には贋札にせさつを沢山こしらえて、さあ欲しいだろう、欲しければ取りにおいでと札を出したり引っ込ましたりしたがこれもまるでやくに立たないんですって。よっぽど頑固がんこな地蔵様なのよ」
「そうね。すこし叔父さんに似ているわ」
「ええまるで叔父さんよ、しまいに利口な人も愛想あいそをつかしてやめてしまったんですとさ。それでそのあとからね、大きな法螺ほらを吹く人が出て、わたしならきっと片づけて見せますからご安心なさいとさも容易たやすい事のように受合ったそうです」
「その法螺を吹く人は何をしたんです」
「それが面白いのよ。最初にはね巡査の服をきて、ひげをして、地蔵様の前へきて、こらこら、動かんとその方のためにならんぞ、警察で棄てておかんぞと威張って見せたんですとさ。今の世に警察の仮声こわいろなんか使ったって誰も聞きゃしないわね」
「本当ね、それで地蔵様は動いたの?」
「動くもんですか、叔父さんですもの」
「でも叔父さんは警察には大変恐れ入っているのよ」
「あらそう、あんな顔をして? それじゃ、そんなにこわい事はないわね。けれども地蔵様は動かないんですって、平気でいるんですとさ。それで法螺吹は大変おこって、巡査の服を脱いで、付け髯を紙屑籠かみくずかごほうり込んで、今度は大金持ちの服装なりをして出て来たそうです。今の世で云うと岩崎男爵のような顔をするんですとさ。おかしいわね」
「岩崎のような顔ってどんな顔なの?」
「ただ大きな顔をするんでしょう。そうして何もしないで、また何も云わないで地蔵のまわりを、大きな巻煙草まきたばこをふかしながら歩行あるいているんですとさ」
「それが何になるの?」
「地蔵様をけむくんです」
「まるではな洒落しゃれのようね。首尾よくけむいたの?」
「駄目ですわ、相手が石ですもの。ごまかしもたいていにすればいいのに、今度は殿下さまに化けて来たんだって。馬鹿ね」
「へえ、その時分にも殿下さまがあるの?」
「有るんでしょう。八木先生はそうおっしゃってよ。たしかに殿下様に化けたんだって、恐れ多い事だが化けて来たって――第一不敬じゃありませんか、法螺吹ほらふきの分際ぶんざいで」
「殿下って、どの殿下さまなの」
「どの殿下さまですか、どの殿下さまだって不敬ですわ」
「そうね」
「殿下さまでもかないでしょう。法螺吹きもしようがないから、とてもわたし手際てぎわでは、あの地蔵はどうする事も出来ませんと降参をしたそうです」
「いい気味ね」
「ええ、ついでに懲役ちょうえきにやればいいのに。――でも町内のものは大層気をんで、また相談を開いたんですが、もう誰も引き受けるものがないんで弱ったそうです」
「それでおしまい?」
「まだあるのよ。一番しまいに車屋とゴロツキを大勢雇って、地蔵様のまわりをわいわい騒いであるいたんです。ただ地蔵様をいじめて、いたたまれないようにすればいいと云って、夜昼交替こうたいで騒ぐんだって」
「御苦労様ですこと」
「それでも取り合わないんですとさ。地蔵様の方も随分強情ね」
「それから、どうして?」ととん子が熱心に聞く。
「それからね、いくら毎日毎日騒いでもげんが見えないので、大分だいぶみんながいやになって来たんですが、車夫やゴロツキは幾日いくんちでも日当にっとうになる事だから喜んで騒いでいましたとさ」
「雪江さん、日当ってなに?」とすん子が質問をする。
「日当と云うのはね、御金の事なの」
「御金をもらって何にするの?」
「御金を貰ってね。……ホホホホいやなすん子さんだ。――それで叔母さん、毎日毎晩から騒ぎをしていますとね。その時町内に馬鹿竹ばかたけと云って、なんにも知らない、誰も相手にしない馬鹿がいたんですってね。その馬鹿がこの騒ぎを見て御前方おまえがたは何でそんなに騒ぐんだ、何年かかっても地蔵一つ動かす事が出来ないのか、可哀想かわいそうなものだ、と云ったそうですって――」
「馬鹿の癖にえらいのね」
「なかなかえらい馬鹿なのよ。みんなが馬鹿竹ばかたけの云う事を聞いて、物はためしだ、どうせ駄目だろうが、まあ竹にやらして見ようじゃないかとそれから竹に頼むと、竹は一も二もなく引き受けたが、そんな邪魔な騒ぎをしないでまあ静かにしろと車引やゴロツキを引き込まして飄然ひょうぜんと地蔵様の前へ出て来ました」
「雪江さん飄然て、馬鹿竹のお友達?」ととん子が肝心かんじんなところで奇問を放ったので、細君と雪江さんはどっと笑い出した。
「いいえお友達じゃないのよ」
「じゃ、なに?」
「飄然と云うのはね。――云いようがないわ」
「飄然て、云いようがないの?」
「そうじゃないのよ、飄然と云うのはね――」
「ええ」
「そら多々良三平たたらさんぺいさんを知ってるでしょう」
「ええ、山の芋をくれてよ」
「あの多々良さん見たようなを云うのよ」
「多々良さんは飄然なの?」
「ええ、まあそうよ。――それで馬鹿竹が地蔵様の前へ来て懐手ふところでをして、地蔵様、町内のものが、あなたに動いてくれと云うから動いてやんなさいと云ったら、地蔵様はたちまちそうか、そんなら早くそう云えばいいのに、とのこのこ動き出したそうです」
「妙な地蔵様ね」
「それからが演説よ」
「まだあるの?」
「ええ、それから八木先生がね、今日こんにちは御婦人の会でありますが、私がかような御話をわざわざ致したのは少々考があるので、こう申すと失礼かも知れませんが、婦人というものはとかく物をするのに正面から近道を通って行かないで、かえって遠方から廻りくどい手段をとるへいがある。もっともこれは御婦人に限った事でない。明治のは男子といえども、文明の弊を受けて多少女性的になっているから、よくいらざる手数てすうと労力をついやして、これが本筋である、紳士のやるべき方針であると誤解しているものが多いようだが、これ等は開化の業に束縛された畸形児きけいじである。別に論ずるに及ばん。ただ御婦人にってはなるべくただいま申した昔話を御記憶になって、いざと云う場合にはどうか馬鹿竹のような正直な了見で物事を処理していただきたい。あなた方が馬鹿竹になれば夫婦の間、嫁姑よめしゅうとの間に起るいまわしき葛藤かっとう三分一さんぶいちはたしかに減ぜられるに相違ない。人間は魂胆こんたんがあればあるほど、その魂胆がたたって不幸のみなもとをなすので、多くの婦人が平均男子より不幸なのは、全くこの魂胆があり過ぎるからである。どうか馬鹿竹になって下さい、と云う演説なの」
「へえ、それで雪江さんは馬鹿竹になる気なの」
「やだわ、馬鹿竹だなんて。そんなものになりたくはないわ。金田の富子さんなんぞは失敬だって大変おこってよ」
「金田の富子さんて、あの向横町むこうよこちょうの?」
「ええ、あのハイカラさんよ」
「あの人も雪江さんの学校へ行くの?」
「いいえ、ただ婦人会だから傍聴に来たの。本当にハイカラね。どうも驚ろいちまうわ」
「でも大変いい器量だって云うじゃありませんか」
「並ですわ。御自慢ほどじゃありませんよ。あんなに御化粧をすればたいていの人はよく見えるわ」
「それじゃ雪江さんなんぞはそのかたのように御化粧をすれば金田さんの倍くらい美しくなるでしょう」
「あらいやだ。よくってよ。知らないわ。だけど、あのかたは全くつくり過ぎるのね。なんぼ御金があったって――」
「つくり過ぎても御金のある方がいいじゃありませんか」
「それもそうだけれども――あのかたこそ、少し馬鹿竹になった方がいいでしょう。無暗むやみに威張るんですもの。この間もなんとか云う詩人が新体詩集を捧げたって、みんなに吹聴ふいちょうしているんですもの」
「東風さんでしょう」
「あら、あの方が捧げたの、よっぽど物数奇ものずきね」
「でも東風さんは大変真面目なんですよ。自分じゃ、あんな事をするのが当前あたりまえだとまで思ってるんですもの」
「そんな人があるから、いけないんですよ。――それからまだ面白い事があるの。此間こないだだれか、あの方のとこ艶書えんしょを送ったものがあるんだって」
「おや、いやらしい。誰なの、そんな事をしたのは」
「誰だかわからないんだって」
「名前はないの?」
「名前はちゃんと書いてあるんだけれども聞いた事もない人だって、そうしてそれが長い長い一間ばかりもある手紙でね。いろいろな妙な事がかいてあるんですとさ。わたしがあなたをおもっているのは、ちょうど宗教家が神にあこがれているようなものだの、あなたのためならば祭壇に供える小羊となってほふられるのが無上の名誉であるの、心臓のかたちが三角で、三角の中心にキューピッドの矢が立って、吹き矢なら大当りであるの……」
「そりゃ真面目なの?」
「真面目なんですとさ。現にわたしの御友達のうちでその手紙を見たものが三人あるんですもの」
「いやな人ね、そんなものを見せびらかして。あの方は寒月さんのとこへ御嫁に行くつもりなんだから、そんな事が世間へ知れちゃ困るでしょうにね」
「困るどころですか大得意よ。こんだ寒月さんが来たら、知らして上げたらいいでしょう。寒月さんはまるで御存じないんでしょう」
「どうですか、あの方は学校へ行ってたまばかり磨いていらっしゃるから、大方知らないでしょう」
「寒月さんは本当にあの方を御貰おもらいになる気なんでしょうかね。御気の毒だわね」
「なぜ? 御金があって、いざって時に力になって、いいじゃありませんか」
「叔母さんは、じきに金、金ってひんがわるいのね。金より愛の方が大事じゃありませんか。愛がなければ夫婦の関係は成立しやしないわ」
「そう、それじゃ雪江さんは、どんなところへ御嫁に行くの?」
「そんな事知るもんですか、別に何もないんですもの」
 雪江さんと叔母さんは結婚事件について何か弁論をたくましくしていると、さっきから、分らないなりに謹聴しているとん子が突然口を開いて「わたしも御嫁に行きたいな」と云いだした。この無鉄砲な希望には、さすが青春の気に満ちて、おおいに同情を寄すべき雪江さんもちょっと毒気を抜かれたていであったが、細君の方は比較的平気に構えて「どこへ行きたいの」と笑ながら聞いて見た。
「わたしねえ、本当はね、招魂社しょうこんしゃへ御嫁に行きたいんだけれども、水道橋を渡るのがいやだから、どうしようかと思ってるの」
 細君と雪江さんはこの名答を得て、あまりの事に問い返す勇気もなく、どっと笑い崩れた時に、次女のすん子が姉さんに向ってかような相談を持ちかけた。
「御ねえ様も招魂社がすき? わたしも大すき。いっしょに招魂社へ御嫁に行きましょう。ね? いや? いやならいわ。わたし一人で車へ乗ってさっさと行っちまうわ」
「坊ばも行くの」とついには坊ばさんまでが招魂社へ嫁に行く事になった。かように三人が顔をそろえて招魂社へ嫁に行けたら、主人もさぞ楽であろう。
 ところへ車の音ががらがらと門前に留ったと思ったら、たちまち威勢のいい御帰りと云う声がした。主人は日本堤分署から戻ったと見える。車夫が差出す大きな風呂敷包を下女に受け取らして、主人は悠然ゆうぜんと茶の間へ這入はいって来る。「やあ、来たね」と雪江さんに挨拶しながら、例の有名なる長火鉢のそばへ、ぽかりと手にたずさえた徳利様とっくりようのものをほうり出した。徳利様と云うのは純然たる徳利では無論ない、と云って花活はないけとも思われない、ただ一種異様の陶器であるから、やむを得ずしばらくかように申したのである。
「妙な徳利ね、そんなものを警察から貰っていらしったの」と雪江さんが、倒れた奴を起しながら叔父さんに聞いて見る。叔父さんは、雪江さんの顔を見ながら、「どうだ、いい恰好かっこうだろう」と自慢する。
「いい恰好なの? それが? あんまりよかあないわ? 油壺あぶらつぼなんか何で持っていらっしったの?」
「油壺なものか。そんな趣味のない事を云うから困る」
「じゃ、なあに?」
花活はないけさ」
「花活にしちゃ、口がいさ過ぎて、いやに胴が張ってるわ」
「そこが面白いんだ。御前も無風流だな。まるで叔母さんとえらぶところなしだ。困ったものだな」とひとりで油壺を取り上げて、障子しょうじの方へ向けてながめている。
「どうせ無風流ですわ。油壺を警察から貰ってくるような真似は出来ないわ。ねえ叔母さん」叔母さんはそれどころではない、風呂敷包をいて皿眼さらまなこになって、盗難品をしらべている。「おや驚ろいた。泥棒も進歩したのね。みんな、解いて洗い張をしてあるわ。ねえちょいと、あなた」
「誰が警察から油壺を貰ってくるものか。待ってるのが退屈だから、あすこいらを散歩しているうちに堀り出して来たんだ。御前なんぞには分るまいがそれでも珍品だよ」
「珍品過ぎるわ。一体叔父さんはどこを散歩したの」
「どこって日本堤にほんづつみ界隈かいわいさ。吉原へも這入はいって見た。なかなかさかんな所だ。あの鉄の門をた事があるかい。ないだろう」
「だれが見るもんですか。吉原なんて賤業婦せんぎょうふのいる所へ行く因縁いんねんがありませんわ。叔父さんは教師の身で、よくまあ、あんな所へ行かれたものねえ。本当に驚ろいてしまうわ。ねえ叔母さん、叔母さん」
「ええ、そうね。どうも品数しなかずが足りないようだ事。これでみんな戻ったんでしょうか」
「戻らんのは山の芋ばかりさ。元来九時に出頭しろと云いながら十一時まで待たせる法があるものか、これだから日本の警察はいかん」
「日本の警察がいけないって、吉原を散歩しちゃなおいけないわ。そんな事が知れると免職になってよ。ねえ叔母さん」
「ええ、なるでしょう。あなた、私の帯の片側かたかわがないんです。何だか足りないと思ったら」
「帯の片側くらいあきらめるさ。こっちは三時間も待たされて、大切の時間を半日つぶしてしまった」と日本服に着代えて平気に火鉢へもたれて油壺をながめている。細君も仕方がないとあきらめて、戻った品をそのまま戸棚へしまいんで座に帰る。
「叔母さん、この油壺が珍品ですとさ。きたないじゃありませんか」
「それを吉原で買っていらしったの? まあ」
「何がまあだ。分りもしない癖に」
「それでもそんな壺なら吉原へ行かなくっても、どこにだってあるじゃありませんか」
「ところがないんだよ。滅多めったに有る品ではないんだよ」
「叔父さんは随分石地蔵いしじぞうね」
「また小供の癖に生意気を云う。どうもこの頃の女学生は口が悪るくっていかん。ちと女大学でも読むがいい」
「叔父さんは保険がきらいでしょう。女学生と保険とどっちが嫌なの?」
「保険は嫌ではない。あれは必要な「きっとだとも」
「およしなさいよ、保険なんか。それよりかその懸金かけきんで何か買った方がいいわ。ねえ、叔母さん」叔母さんはにやにや笑っている。主人は真面目になって
「お前などは百も二百も生きる気だから、そんな呑気のんきな事を云うのだが、もう少し理性が発達して見ろ、保険の必要を感ずるに至るのは当前あたりまえだ。ぜひ来月から這入るんだ」
「そう、それじゃ仕方がない。だけどこないだのように蝙蝠傘こうもりを買って下さる御金があるなら、保険に這入る方がましかも知れないわ。ひとがいりません、いりませんと云うのを無理に買って下さるんですもの」
「そんなにいらなかったのか?」
「ええ、蝙蝠傘なんか欲しかないわ」
「そんならかえすがいい。ちょうどとん子が欲しがってるから、あれをこっちへ廻してやろう。今日持って来たか」
「あら、そりゃ、あんまりだわ。だってひどいじゃありませんか、せっかく買って下すっておきながら、還せなんて」
「いらないと云うから、還せと云うのさ。ちっとも苛くはない」
「いらない事はいらないんですけれども、苛いわ」
「分らん事を言う奴だな。いらないと云うから還せと云うのに苛い事があるものか」
「だって」
「だって、どうしたんだ」
「だって苛いわ」
だな、同じ事ばかり繰り返している」
「叔父さんだって同じ事ばかり繰り返しているじゃありませんか」
「御前が繰り返すから仕方がないさ。現にいらないと云ったじゃないか」
「そりゃ云いましたわ。いらない事はいらないんですけれども、還すのはいやですもの」
「驚ろいたな。没分暁わからずやで強情なんだから仕方がない。御前の学校じゃ論理学を教えないのか」
「よくってよ、どうせ無教育なんですから、何とでもおっしゃい。人のものを還せだなんて、他人だってそんな不人情な事は云やしない。ちっと馬鹿竹ばかたけの真似でもなさい」
「何の真似をしろ?」
「ちと正直に淡泊たんぱくになさいと云うんです」
「お前は愚物の癖にやに強情だよ。それだから落第するんだ」
「落第したって叔父さんに学資は出して貰やしないわ」
 雪江さんはげんここに至って感にえざるもののごとく、潸然さんぜんとして一掬いっきくなんだを紫のはかまの上に落した。主人は茫乎ぼうことして、その涙がいかなる心理作用に起因するかを研究するもののごとく、袴の上と、つ向いた雪江さんの顔を見つめていた。ところへ御三おさんが台所から赤い手を敷居越にそろえて「お客さまがいらっしゃいました」と云う。「誰が来たんだ」と主人が聞くと「学校の生徒さんでございます」と御三は雪江さんの泣顔を横目ににらめながら答えた。主人は客間へ出て行く。吾輩も種取りけん人間研究のため、主人にして忍びやかにえんへ廻った。人間を研究するには何か波瀾がある時をえらばないと一向いっこう結果が出て来ない。平生は大方の人が大方の人であるから、見ても聞いても張合のないくらい平凡である。しかしいざとなるとこの平凡が急に霊妙なる神秘的作用のためにむくむくと持ち上がって奇なもの、変なもの、妙なもの、なもの、一と口に云えば吾輩猫共から見てすこぶる後学になるような事件が至るところに横風おうふうにあらわれてくる。雪江さんの紅涙こうるいのごときはまさしくその現象の一つである。かくのごとく不可思議、不可測ふかそくの心を有している雪江さんも、細君と話をしているうちはさほどとも思わなかったが、主人が帰ってきて油壺をほうり出すやいなや、たちまち死竜しりゅう蒸汽喞筒じょうきポンプを注ぎかけたるごとく、勃然ぼつぜんとしてその深奥しんおうにして窺知きちすべからざる、巧妙なる、美妙なる、奇妙なる、霊妙なる、麗質を、惜気もなく発揚しおわった。しかしてその麗質は天下の女性にょしょうに共通なる麗質である。ただ惜しい事には容易にあらわれて来ない。いやあらわれる事は二六時中間断なくあらわれているが、かくのごとく顕著に灼然炳乎しゃくぜんへいことして遠慮なくはあらわれて来ない。幸にして主人のように吾輩の毛をややともすると逆さにでたがる旋毛曲つむじまがりの奇特家きどくかがおったから、かかる狂言も拝見が出来たのであろう。主人のあとさえついてあるけば、どこへ行っても舞台の役者は吾知らず動くに相違ない。面白い男を旦那様にいただいて、短かい猫の命のうちにも、大分だいぶ多くの経験が出来る。ありがたい事だ。今度のお客は何者であろう。
 見ると年頃は十七八、雪江さんとっつ、っつの書生である。大きな頭をいて見えるほど刈り込んで団子だんごぱなを顔の真中にかためて、座敷の隅の方にひかえている。別にこれと云う特徴もないが頭蓋骨ずがいこつだけはすこぶる大きい。青坊主に刈ってさえ、ああ大きく見えるのだから、主人のように長く延ばしたら定めし人目をく事だろう。こんな顔にかぎって学問はあまり出来ない者だとは、かねてより主人の持説である。事実はそうかも知れないがちょっと見るとナポレオンのようですこぶる偉観である。着物は通例の書生のごとく、薩摩絣さつまがすりか、久留米くるめがすりかまた伊予いよ絣か分らないが、ともかくもかすりと名づけられたるあわせを袖短かに着こなして、下には襯衣シャツ襦袢じゅばんもないようだ。素袷すあわせ素足すあしは意気なものだそうだが、この男のはなはだむさ苦しい感じを与える。ことに畳の上に泥棒のような親指を歴然と三つまでいんしているのは全く素足の責任に相違ない。彼は四つ目の足跡の上へちゃんと坐って、さも窮屈そうにしこまっている。一体かしこまるべきものがおとなしくひかえるのは別段気にするにも及ばんが、毬栗頭いがぐりあたまのつんつるてんの乱暴者が恐縮しているところは何となく不調和なものだ。途中で先生に逢ってさえ礼をしないのを自慢にするくらいの連中が、たとい三十分でも人並に坐るのは苦しいに違ない。ところを生れ得て恭謙きょうけんの君子、盛徳の長者ちょうしゃであるかのごとく構えるのだから、当人の苦しいにかかわらずはたから見ると大分だいぶおかしいのである。教場もしくは運動場であんなに騒々しいものが、どうしてかように自己を箝束かんそくする力をそなえているかと思うと、憐れにもあるが滑稽こっけいでもある。こうやって一人ずつ相対あいたいになると、いかに愚□ぐがいなる主人といえども生徒に対して幾分かの重みがあるように思われる。主人も定めし得意であろう。ちり積って山をなすと云うから、微々たる一生徒も多勢たぜい聚合しゅうごうするとあなどるべからざる団体となって、排斥はいせき運動やストライキをしでかすかも知れない。これはちょうど臆病者が酒を飲んで大胆になるような現象であろう。衆を頼んで騒ぎ出すのは、人の気に酔っ払った結果、正気を取り落したるものと認めて差支さしつかえあるまい。それでなければかように恐れ入ると云わんよりむしろ悄然しょうぜんとして、みずかふすまに押し付けられているくらいな薩摩絣が、いかに老朽だと云って、かりそめにも先生と名のつく主人を軽蔑けいべつしようがない。馬鹿に出来る訳がない。
 主人は座布団ざぶとんを押しやりながら、「さあお敷き」と云ったが毬栗先生はかたくなったまま「へえ」と云って動かない。鼻の先にげかかった更紗さらさの座布団が「御乗んなさい」とも何とも云わずに着席しているうしろに、生きた大頭がつくねんと着席しているのは妙なものだ。布団は乗るための布団で見詰めるために細君が勧工場から仕入れて来たのではない。布団にして敷かれずんば、布団はまさしくその名誉を毀損きそんせられたるもので、これを勧めたる主人もまた幾分か顔が立たない事になる。主人の顔をつぶしてまで、布団とにらめくらをしている毬栗君は決して布団その物がきらいなのではない。実を云うと、正式に坐った事は祖父じいさんの法事の時のほかは生れてから滅多めったにないので、っきからすでにしびれが切れかかって少々足の先は困難を訴えているのである。それにもかかわらず敷かない。布団が手持無沙汰にひかえているにもかかわらず敷かない。主人がさあお敷きと云うのに敷かない。厄介な毬栗坊主だ。このくらい遠慮するなら多人数たにんず集まった時もう少し遠慮すればいいのに、学校でもう少し遠慮すればいいのに、下宿屋でもう少し遠慮すればいいのに。すまじきところへ気兼きがねをして、すべき時には謙遜けんそんしない、否おおい狼藉ろうぜきを働らく。たちの悪るい毬栗坊主だ。
 ところへうしろのふすまをすうと開けて、雪江さんが一碗の茶をうやうやしく坊主に供した。平生なら、そらサヴェジ・チーが出たとやかすのだが、主人一人に対してすら痛みっている上へ、妙齢の女性にょしょうが学校で覚え立ての小笠原流おがさわらりゅうで、おつに気取った手つきをして茶碗を突きつけたのだから、坊主はおおい苦悶くもんていに見える。雪江さんはふすまをしめる時に後ろからにやにやと笑った。して見ると女は同年輩でもなかなかえらいものだ。坊主に比すればはるかに度胸がわっている。ことに先刻さっきの無念にはらはらと流した一滴の紅涙こうるいのあとだから、このにやにやがさらに目立って見えた。
 雪江さんの引き込んだあとは、双方無言のまま、しばらくの間は辛防しんぼうしていたが、これではぎょうをするようなものだと気がついた主人はようやく口を開いた。
「君は何とか云ったけな」
古井ふるい……」
「古井? 古井何とかだね。名は」
「古井武右衛門ぶえもん
「古井武右衛門――なるほど、だいぶ長い名だな。今の名じゃない、昔の名だ。四年生だったね」
「いいえ」
「三年生か?」
「いいえ、二年生です」
「甲の組かね」
「乙です」
「乙なら、わたしの監督だね。そうか」と主人は感心している。実はこの大頭は入学の当時から、主人の眼についているんだから、決して忘れるどころではない。のみならず、時々は夢に見るくらい感銘した頭である。しかし呑気のんきな主人はこの頭とこの古風な姓名とを連結して、その連結したものをまた二年乙組に連結する事が出来なかったのである。だからこの夢に見るほど感心した頭が自分の監督組の生徒であると聞いて、思わずそうかと心のうちで手をったのである。しかしこの大きな頭の、古い名の、しかも自分の監督する生徒が何のために今頃やって来たのかとん推諒すいりょう出来ない。元来不人望な主人の事だから、学校の生徒などは正月だろうが暮だろうがほとんど寄りついた事がない。寄りついたのは古井武右衛門君をもって嚆矢こうしとするくらいな珍客であるが、その来訪の主意がわからんには主人もおおいに閉口しているらしい。こんな面白くない人のうちへただ遊びにくる訳もなかろうし、また辞職勧告ならもう少し昂然こうぜんと構え込みそうだし、と云って武右衛門君などが一身上の用事相談があるはずがないし、どっちから、どう考えても主人には分らない。武右衛門君の様子を見るとあるいは本人自身にすら何で、ここまで参ったのか判然しないかも知れない。仕方がないから主人からとうとう表向に聞き出した。
「君遊びに来たのか」
「そうじゃないんです」
「それじゃ用事かね」
「ええ」
「学校の事かい」
「ええ、少し御話ししようと思って……」
「うむ。どんな事かね。さあ話したまえ」と云うと武右衛門君下を向いたぎりなんにも言わない。元来武右衛門君は中学の二年生にしてはよく弁ずる方で、頭の大きい割に脳力は発達しておらんが、喋舌しゃべる事においては乙組中鏘々そうそうたるものである。現にせんだってコロンバスの日本訳を教えろと云っておおいに主人を困らしたはまさにこの武右衛門君である。その鏘々たる先生が、最前さいぜんからどもりの御姫様のようにもじもじしているのは、何かわくのある事でなくてはならん。単に遠慮のみとはとうてい受け取られない。主人も少々不審に思った。
「話す事があるなら、早く話したらいいじゃないか」
「少し話しにくい事で……」
「話しにくい?」と云いながら主人は武右衛門君の顔を見たが、先方は依然として俯向うつむきになってるから、何事とも鑑定が出来ない。やむを得ず、少し語勢を変えて「いいさ。何でも話すがいい。ほかに誰も聞いていやしない。わたしも他言たごんはしないから」とおだやかにつけ加えた。
「話してもいいでしょうか?」と武右衛門君はまだ迷っている。
「いいだろう」と主人は勝手な判断をする。
「では話しますが」といいかけて、毬栗頭いがぐりあたまをむくりと持ち上げて主人の方をちょっとまぼしそうに見た。その眼は三角である。主人は頬をふくらまして朝日の煙を吹き出しながらちょっと横を向いた。
「実はその……困った事になっちまって……」
「何が?」
「何がって、はなはだ困るもんですから、来たんです」
「だからさ、何が困るんだよ」
「そんな事をする考はなかったんですけれども、浜田はまだが借せ借せと云うもんですから……」
「浜田と云うのは浜田平助へいすけかい」
「ええ」
「浜田に下宿料でも借したのかい」
「何そんなものを借したんじゃありません」
「じゃ何を借したんだい」
「名前を借したんです」
「浜田が君の名前を借りて何をしたんだい」
艶書えんしょを送ったんです」
「何を送った?」
「だから、名前はして、投函役とうかんやくになると云ったんです」
「何だか要領を得んじゃないか。一体誰が何をしたんだい」
艶書えんしょを送ったんです」
「艶書を送った? 誰に?」
「だから、話しにくいと云うんです」
「じゃ君が、どこかの女に艶書を送ったのか」
「いいえ、僕じゃないんです」
「浜田が送ったのかい」
「浜田でもないんです」
「じゃ誰が送ったんだい」
「誰だか分らないんです」
「ちっとも要領を得ないな。では誰も送らんのかい」
「名前だけは僕の名なんです」
「名前だけは君の名だって、何の事だかちっとも分らんじゃないか。もっと条理を立てて話すがいい。元来その艶書を受けた当人はだれか」
「金田って向横丁むこうよこちょうにいる女です」
「あの金田という実業家か」
「ええ」
「で、名前だけ借したとは何の事だい」
「あすこの娘がハイカラで生意気だから艶書を送ったんです。――浜田が名前がなくちゃいけないって云いますから、君の名前をかけって云ったら、僕のじゃつまらない。古井武右衛門の方がいいって――それで、とうとう僕の名を借してしまったんです」
「で、君はあすこの娘を知ってるのか。交際でもあるのか」
「交際も何もありゃしません。顔なんか見た事もありません」
「乱暴だな。顔も知らない人に艶書をやるなんて、まあどう云う了見で、そんな事をしたんだい」
「ただみんながあいつは生意気で威張ってるて云うから、からかってやったんです」
「ますます乱暴だな。じゃ君の名を公然とかいて送ったんだな」
「ええ、文章は浜田が書いたんです。僕が名前を借して遠藤が夜あすこのうちまで行って投函して来たんです」
「じゃ三人で共同してやったんだね」
「ええ、ですけれども、あとから考えると、もしあらわれて退学にでもなると大変だと思って、非常に心配して二三日にさんちは寝られないんで、何だかぼんやりしてしまいました」
「そりゃまた飛んでもない馬鹿をしたもんだ。それで文明中学二年生古井武右衛門とでもかいたのかい」
「いいえ、学校の名なんか書きゃしません」
「学校の名を書かないだけまあよかった。これで学校の名が出て見るがいい。それこそ文明中学の名誉に関する」
「どうでしょう退校になるでしょうか」
「そうさな」
「先生、僕のおやじさんは大変やかましい人で、それにおっかさんが継母ままははですから、もし退校にでもなろうもんなら、僕あ困っちまうです。本当に退校になるでしょうか」
「だから滅多めったな真似をしないがいい」
「する気でもなかったんですが、ついやってしまったんです。退校にならないように出来ないでしょうか」と武右衛門君は泣き出しそうな声をしてしきりに哀願に及んでいる。ふすまの蔭では最前さいぜんから細君と雪江さんがくすくす笑っている。主人はくまでももったいぶって「そうさな」を繰り返している。なかなか面白い。
 吾輩が面白いというと、何がそんなに面白いと聞く人があるかも知れない。聞くのはもっともだ。人間にせよ、動物にせよ、おのれを知るのは生涯しょうがいの大事である。おのれを知る事が出来さえすれば人間も人間として猫より尊敬を受けてよろしい。その時は吾輩もこんないたずらを書くのは気の毒だからすぐさまやめてしまうつもりである。しかし自分で自分の鼻の高さが分らないと同じように、自己の何物かはなかなか見当けんとうがつきくいと見えて、平生から軽蔑けいべつしている猫に向ってさえかような質問をかけるのであろう。人間は生意気なようでもやはり、どこか抜けている。万物の霊だなどとどこへでも万物の霊をかついであるくかと思うと、これしきの事実が理解出来ない。しかもてんとして平然たるに至ってはちと一□いっきゃくを催したくなる。彼は万物の霊を背中せなかかついで、おれの鼻はどこにあるか教えてくれ、教えてくれと騒ぎ立てている。それなら万物の霊を辞職するかと思うと、どう致して死んでも放しそうにしない。このくらい公然と矛盾をして平気でいられれば愛嬌あいきょうになる。愛嬌になる代りには馬鹿をもってあまんじなくてはならん。
 吾輩がこの際武右衛門君と、主人と、細君及雪江嬢を面白がるのは、単に外部の事件が鉢合はちあわせをして、その鉢合せが波動をおつなところに伝えるからではない。実はその鉢合の反響が人間の心に個々別々の音色ねいろを起すからである。第一主人はこの事件に対してむしろ冷淡である。武右衛門君のおやじさんがいかにやかましくって、おっかさんがいかに君を継子ままこあつかいにしようとも、あんまり驚ろかない。驚ろくはずがない。武右衛門君が退校になるのは、自分が免職になるのとはおおいおもむきが違う。千人近くの生徒がみんな退校になったら、教師も衣食のみちに窮するかも知れないが、古井武右衛門君一人いちにんの運命がどう変化しようと、主人の朝夕ちょうせきにはほとんど関係がない。関係の薄いところには同情もおのずから薄い訳である。見ず知らずの人のためにまゆをひそめたり、鼻をかんだり、嘆息をするのは、決して自然の傾向ではない。人間がそんなに情深なさけぶかい、思いやりのある動物であるとははなはだ受け取りにくい。ただ世の中に生れて来た賦税ふぜいとして、時々交際のために涙を流して見たり、気の毒な顔を作って見せたりするばかりである。云わばごまかしせい表情で、実を云うと大分だいぶ骨が折れる芸術である。このごまかしをうまくやるものを芸術的良心の強い人と云って、これは世間から大変珍重される。だから人から珍重される人間ほど怪しいものはない。試して見ればすぐ分る。この点において主人はむしろせつな部類に属すると云ってよろしい。拙だから珍重されない。珍重されないから、内部の冷淡を存外隠すところもなく発表している。彼が武右衛門君に対して「そうさな」を繰り返しているのでも這裏しゃりの消息はよく分る。諸君は冷淡だからと云って、けっして主人のような善人を嫌ってはいけない。冷淡は人間の本来の性質であって、その性質をかくそうとつとめないのは正直な人である。もし諸君がかかる際に冷淡以上を望んだら、それこそ人間を買いかぶったと云わなければならない。正直ですら払底ふっていな世にそれ以上を予期するのは、馬琴ばきんの小説から志乃しの小文吾こぶんごが抜けだして、向う三軒両隣へ八犬伝はっけんでんが引き越した時でなくては、あてにならない無理な注文である。主人はまずこのくらいにして、次には茶の間で笑ってる女連おんなれんに取りかかるが、これは主人の冷淡を一歩むこうまたいで、滑稽こっけいの領分におどり込んで嬉しがっている。この女連には武右衛門君が頭痛に病んでいる艶書事件が、仏陀ぶっだ福音ふくいんのごとくありがたく思われる。理由はないただありがたい。強いて解剖すれば武右衛門君が困るのがありがたいのである。諸君女に向って聞いて御覧、「あなたは人が困るのを面白がって笑いますか」と。聞かれた人はこの問を呈出した者を馬鹿と云うだろう、馬鹿と云わなければ、わざとこんな問をかけて淑女の品性を侮辱したと云うだろう。侮辱したと思うのは事実かも知れないが、人の困るのを笑うのも事実である。であるとすれば、これからわたしの品性を侮辱するような事を自分でしてお目にかけますから、何とか云っちゃいやよと断わるのと一般である。僕は泥棒をする。しかしけっして不道徳と云ってはならん。もし不道徳だなどと云えば僕の顔へ泥を塗ったものである。僕を侮辱したものである。と主張するようなものだ。女はなかなか利口だ、考えに筋道が立っている。いやしくも人間に生れる以上は踏んだり、たり、どやされたりして、しかも人が振りむきもせぬ時、平気でいる覚悟が必用であるのみならず、唾を吐きかけられ、糞をたれかけられた上に、大きな声で笑われるのを快よく思わなくてはならない。それでなくてはかように利口な女と名のつくものと交際は出来ない。武右衛門先生もちょっとしたはずみから、とんだ間違をしておおいに恐れ入ってはいるようなものの、かように恐れ入ってるものを蔭で笑うのは失敬だとくらいは思うかも知れないが、それは年が行かない稚気ちきというもので、人が失礼をした時におこるのを気が小さいと先方では名づけるそうだから、そう云われるのがいやならおとなしくするがよろしい。最後に武右衛門君の心行きをちょっと紹介する。君は心配の権化ごんげである。かの偉大なる頭脳はナポレオンのそれが功名心をもって充満せるがごとく、まさに心配をもってはちきれんとしている。時々その団子っ鼻がぴくぴく動くのは心配が顔面神経につたわって、反射作用のごとく無意識に活動するのである。彼は大きな鉄砲丸てっぽうだまを飲みくだしたごとく、腹の中にいかんともすべからざるかたまりをいだいて、この両三日りょうさんち処置に窮している。その切なさの余り、別に分別の出所でどころもないから監督と名のつく先生のところへ出向いたら、どうか助けてくれるだろうと思って、いやな人のうちへ大きな頭を下げにまかり越したのである。彼は平生学校で主人にからかったり、同級生を煽動せんどうして、主人を困らしたりした事はまるで忘れている。いかにからかおうとも困らせようとも監督と名のつく以上は心配してくれるに相違ないと信じているらしい。随分単純なものだ。監督は主人が好んでなった役ではない。校長の命によってやむを得ずいただいている、云わば迷亭の叔父さんの山高帽子の種類である。ただ名前である。ただ名前だけではどうする事も出来ない。名前がいざと云う場合に役に立つなら雪江さんは名前だけで見合が出来る訳だ。武右衛門君はただに我儘わがままなるのみならず、他人はおのれに向って必ず親切でなくてはならんと云う、人間を買いかぶった仮定から出立している。笑われるなどとは思も寄らなかったろう。武右衛門君は監督のうちへ来て、きっと人間について、一の真理を発明したに相違ない。彼はこの真理のために将来ますます本当の人間になるだろう。人の心配には冷淡になるだろう、人の困る時には大きな声で笑うだろう。かくのごとくにして天下は未来の武右衛門君をもってたされるであろう。金田君及び金田令夫人をもって充たされるであろう。吾輩は切に武右衛門君のために瞬時も早く自覚して真人間まにんげんになられん事を希望するのである。しからずんばいかに心配するとも、いかに後悔するとも、いかに善に移るの心が切実なりとも、とうてい金田君のごとき成功は得られんのである。いな社会は遠からずして君を人間の居住地以外に放逐するであろう。文明中学の退校どころではない。
 かように考えて面白いなと思っていると、格子こうしががらがらとあいて、玄関の障子しょうじの蔭から顔が半分ぬうと出た。
「先生」
 主人は武右衛門君に「そうさな」を繰り返していたところへ、先生と玄関から呼ばれたので、誰だろうとそっちを見ると半分ほど筋違すじかいに障子からみ出している顔はまさしく寒月君である。「おい、御這入おはいり」と云ったぎり坐っている。
「御客ですか」と寒月君はやはり顔半分で聞き返している。
「なに構わん、まあ御上おあがり」
「実はちょっと先生を誘いに来たんですがね」
「どこへ行くんだい。また赤坂かい。あの方面はもう御免だ。せんだっては無闇むやみにあるかせられて、足が棒のようになった」
「今日は大丈夫です。久し振りに出ませんか」
「どこへ出るんだい。まあ御上がり」
「上野へ行って虎の鳴き声を聞こうと思うんです」
「つまらんじゃないか、それよりちょっと御上り」
 寒月君はとうてい遠方では談判不調と思ったものか、靴を脱いでのそのそ上がって来た。例のごとく鼠色ねずみいろの、尻につぎのあたったずぼんを穿いているが、これは時代のため、もしくは尻の重いために破れたのではない、本人の弁解によると近頃自転車の稽古を始めて局部に比較的多くの摩擦を与えるからである。未来の細君をもって矚目しょくもくされた本人へふみをつけた恋のあだとは夢にも知らず、「やあ」と云って武右衛門君に軽く会釈えしゃくをして椽側えんがわへ近い所へ座をしめた。
「虎の鳴き声を聞いたって詰らないじゃないか」
「ええ、今じゃいけません、これから方々散歩して夜十一時頃になって、上野へ行くんです」
「へえ」
「すると公園内の老木は森々しんしんとして物凄ものすごいでしょう」
「そうさな、昼間より少しはさみしいだろう」
「それで何でもなるべくの茂った、昼でも人の通らない所をってあるいていると、いつのにか紅塵万丈こうじんばんじょうの都会に住んでる気はなくなって、山の中へ迷い込んだような心持ちになるに相違ないです」
「そんな心持ちになってどうするんだい」
「そんな心持ちになって、しばらくたたずんでいるとたちまち動物園のうちで、虎が鳴くんです」
「そううまく鳴くかい」
「大丈夫鳴きます。あの鳴き声は昼でも理科大学へ聞えるくらいなんですから、深夜闃寂げきせきとして、四望しぼう人なく、鬼気はだえせまって、魑魅ちみ鼻をさいに……」
「魑魅鼻を衝くとは何の事だい」
「そんな事を云うじゃありませんか、こわい時に」
「そうかな。あんまり聞かないようだが。それで」
「それで虎が上野の老杉ろうさんの葉をことごとく振い落すような勢で鳴くでしょう。物凄いでさあ」
「そりゃ物凄いだろう」
「どうです冒険に出掛けませんか。きっと愉快だろうと思うんです。どうしても虎の鳴き声は夜なかに聞かなくっちゃ、聞いたとはいわれないだろうと思うんです」
「そうさな」と主人は武右衛門君の哀願に冷淡であるごとく、寒月君の探検にも冷淡である。
 この時まで黙然もくねんとして虎の話をうらやましそうに聞いていた武右衛門君は主人の「そうさな」で再び自分の身の上を思い出したと見えて、「先生、僕は心配なんですが、どうしたらいいでしょう」とまた聞き返す。寒月君は不審な顔をしてこの大きな頭を見た。吾輩は思う仔細しさいあってちょっと失敬して茶の間へ廻る。
 茶の間では細君がくすくす笑いながら、京焼の安茶碗に番茶を浪々なみなみいで、アンチモニーの茶托ちゃたくの上へ載せて、
「雪江さん、はばかりさま、これを出して来て下さい」
「わたし、いやよ」
「どうして」と細君は少々驚ろいたていで笑いをはたと留める。
「どうしてでも」と雪江さんはやにすました顔を即席にこしらえて、そばにあった読売新聞の上にのしかかるように眼を落した。細君はもう一応協商きょうしょうを始める。
「あら妙な人ね。寒月さんですよ。構やしないわ」
「でも、わたし、いやなんですもの」と読売新聞の上から眼を放さない。こんな時に一字も読めるものではないが、読んでいないなどとあばかれたらまた泣き出すだろう。
「ちっとも恥かしい事はないじゃありませんか」と今度は細君笑いながら、わざと茶碗を読売新聞の上へ押しやる。雪江さんは「あら人の悪るい」と新聞を茶碗の下から、抜こうとする拍子に茶托ちゃたくに引きかかって、番茶は遠慮なく新聞の上から畳の目へ流れ込む。「それ御覧なさい」と細君が云うと、雪江さんは「あら大変だ」と台所へけ出して行った。雑巾ぞうきんでも持ってくる了見りょうけんだろう。吾輩にはこの狂言がちょっと面白かった。
 寒月君はそれとも知らず座敷で妙な事を話している。
「先生障子しょうじを張りえましたね。誰が張ったんです」
「女が張ったんだ。よく張れているだろう」
「ええなかなかうまい。あの時々おいでになる御嬢さんが御張りになったんですか」
「うんあれも手伝ったのさ。このくらい障子が張れれば嫁に行く資格はあると云って威張ってるぜ」
「へえ、なるほど」と云いながら寒月君障子を見つめている。
「こっちの方はたいらですが、右のはじは紙が余って波が出来ていますね」
「あすこが張りたてのところで、もっとも経験のとぼしい時に出来上ったところさ」
「なるほど、少し御手際おてぎわが落ちますね。あの表面は超絶的ちょうぜつてき曲線きょくせんでとうてい普通のファンクションではあらわせないです」と、理学者だけにむずかしい事を云うと、主人は
「そうさね」と好い加減な挨拶をした。
 この様子ではいつまで嘆願をしていても、とうてい見込がないと思い切った武右衛門君は突然かの偉大なる頭蓋骨ずがいこつを畳の上にしつけて、無言のうちに暗に訣別けつべつの意を表した。主人は「帰るかい」と云った。武右衛門君は悄然しょうぜんとして薩摩下駄を引きずって門を出た。可愛想かわいそうに。打ちゃって置くと巌頭がんとうぎんでも書いて華厳滝けごんのたきから飛び込むかも知れない。元をただせば金田令嬢のハイカラと生意気から起った事だ。もし武右衛門君が死んだら、幽霊になって令嬢を取り殺してやるがいい。あんなものが世界から一人や二人消えてなくなったって、男子はすこしも困らない。寒月君はもっと令嬢らしいのを貰うがいい。
「先生ありゃ生徒ですか」
「うん」
「大変大きな頭ですね。学問は出来ますか」
「頭の割には出来ないがね、時々妙な質問をするよ。こないだコロンバスを訳して下さいっておおいに弱った」
「全く頭が大き過ぎますからそんな余計な質問をするんでしょう。先生何とおっしゃいました」
「ええ? なあにい加減な事を云って訳してやった」
「それでも訳す事は訳したんですか、こりゃえらい」
「小供は何でも訳してやらないと信用せんからね」
「先生もなかなか政治家になりましたね。しかし今の様子では、何だか非常に元気がなくって、先生を困らせるようには見えないじゃありませんか」
「今日は少し弱ってるんだよ。馬鹿な奴だよ」
「どうしたんです。何だかちょっと見たばかりで非常に可哀想かわいそうになりました。全体どうしたんです」
「なにな事さ。金田の娘に艶書えんしょを送ったんだ」
「え? あの大頭がですか。近頃の書生はなかなかえらいもんですね。どうも驚ろいた」
「君も心配だろうが……」
「何ちっとも心配じゃありません。かえって面白いです。いくら、艶書が降り込んだって大丈夫です」
「そう君が安心していれば構わないが……」
「構わんですとも私はいっこう構いません。しかしあの大頭が艶書をかいたと云うには、少し驚ろきますね」
「それがさ。冗談じょうだんにしたんだよ。あの娘がハイカラで生意気だから、からかってやろうって、三人が共同して……」
「三人が一本の手紙を金田の令嬢にやったんですか。ますます奇談ですね。一人前の西洋料理を三人で食うようなものじゃありませんか」
「ところが手分けがあるんだ。一人が文章をかく、一人が投函とうかんする、一人が名前を借す。で今来たのが名前を借した奴なんだがね。これが一番だね。しかも金田の娘の顔も見た事がないって云うんだぜ。どうしてそんな無茶な事が出来たものだろう」
「そりゃ、近来の大出来ですよ。傑作ですね。どうもあの大頭が、女にふみをやるなんて面白いじゃありませんか」
「飛んだ間違にならあね」
「なになったって構やしません、相手が金田ですもの」
「だって君が貰うかも知れない人だぜ」
「貰うかも知れないから構わないんです。なあに、金田なんか、構やしません」
「君は構わなくっても……」
「なに金田だって構やしません、大丈夫です」
「それならそれでいいとして、当人があとになって、急に良心に責められて、恐ろしくなったものだから、おおいに恐縮して僕のうちへ相談に来たんだ」
「へえ、それであんなに悄々しおしおとしているんですか、気の小さい子と見えますね。先生何とか云っておやんなすったんでしょう」
「本人は退校になるでしょうかって、それを一番心配しているのさ」
「何で退校になるんです」
「そんな悪るい、不道徳な事をしたから」
「何、不道徳と云うほどでもありませんやね。構やしません。金田じゃ名誉に思ってきっと吹聴ふいちょうしていますよ」
「まさか」
「とにかく可愛想かわいそうですよ。そんな事をするのがわるいとしても、あんなに心配させちゃ、若い男を一人殺してしまいますよ。ありゃ頭は大きいが人相はそんなにわるくありません。鼻なんかぴくぴくさせて可愛いです」
「君も大分だいぶ迷亭見たように呑気のんきな事を云うね」
「何、これが時代思潮です、先生はあまりむかふうだから、何でもむずかしく解釈なさるんです」
「しかしじゃないか、知りもしないところへ、いたずらに艶書えんしょを送るなんて、まるで常識をかいてるじゃないか」
「いたずらは、たいがい常識をかいていまさあ。救っておやんなさい。功徳くどくになりますよ。あの容子ようすじゃ華厳けごんの滝へ出掛けますよ」
「そうだな」
「そうなさい。もっと大きな、もっと分別のある大僧おおぞう共がそれどころじゃない、わるいいたずらをして知らんかおをしていますよ。あんな子を退校させるくらいなら、そんな奴らをかたぱしから放逐でもしなくっちゃ不公平でさあ」
「それもそうだね」
「それでどうです上野へ虎の鳴き声をききに行くのは」
「虎かい」
「ええ、聞きに行きましょう。実は二三日中にさんちうちにちょっと帰国しなければならない事が出来ましたから、当分どこへも御伴おともは出来ませんから、今日は是非いっしょに散歩をしようと思って来たんです」
「そうか帰るのかい、用事でもあるのかい」
「ええちょっと用事が出来たんです。――ともかくも出ようじゃありませんか」
「そう。それじゃ出ようか」
「さあ行きましょう。今日は私が晩餐ばんさんおごりますから、――それから運動をして上野へ行くとちょうど好い刻限です」としきりにうながすものだから、主人もその気になって、いっしょに出掛けて行った。あとでは細君と雪江さんが遠慮のない声でげらげらけらけらからからと笑っていた。

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