优秀奖

「私と日本」

李靖(山東大学)

正直に言うと、私と日本との間に緊密なつながりがなかったとてっきり思った。あたかも冬と夏のように、到底交差できない平行線のような関係だと言っても過言ではない。

しかし、本当に、冬と夏との間に何のつながりもないのか?ある偶然な機会において、私は、両者の中に、実は、「赤い(いと)」が存在していることに気がついた。一年中、季節は移り変わっているのは誰も知るであろう。春、夏、秋、冬。では、まさか厳冬が過ごした後、直接夏が訪れてくるわけではない。その中で、春はさながら「調停(ちょうてい)仲裁者(ちゅうさいしゃ)」のように、こっそりと訪れてきて、また、こっそりと橋渡しのような役割を果たすのではないだろうか。そこで、突然、私はこういうことを考える。

実は、私は、自分に属する春が同様にあるのではないだろうか。ある程度において、私と日本は平行線ではなく。かえって、ずっとある「赤い(いと)」に引かれるのではないだろうか。この発見を私は非常に喜んでいる。

 ここで私が言いたいの「春」は、毎日付き合ってくれる「日本語」のことである。しかし、それは本当の春のように優しくはない。それはあたかも“異化する人”のように、ギュッと私のくびをしめてしまい、 私は泥沼に踏み込んだように、なすすべもない。

大学に入り初日に、私は完全にそういう感じがした。事はこのようだ――初日に、先生は、それぞれの学生に何ページかのプリントを与えてくれたが、その具体的内容の記憶はもうはっきりしない。しかし、その中の一つの単語は、今まで、私の心の底にくっきり残っている。この単語があるからこそ、私の心は慌てた。実は、これは「亀」という単語のことである。私は、これが繁体の「亀」のことを知っているが、「亀」の上に、UFOのような不明なものが付け加えされている―“か”と“め”。故に、私は完全に迷った。どうしたらいいのかもわからなかった.

当時、私はどうしてもわからないところはこうだった:日本語のなかに漢字がある以上、なぜ中国語の読み方と異なっているのか、なぜ「gui」を読まなく、「か」「め」を読むのか。非常に不思議だと感じていた。日本語を学んだ後、私にはやっとその原因がわかった。それは日本語にそれなりの“仮名”という表音文字があり、でも、漢字を借りてきて記述しようとするからだ。私はこの原因を知った後、つまり日本語の由来は、中国と大きな関連性があるということを知り、日本語及び日本に対する親切感がわき起こった。

このまま一年間過ごした後、私はやっと日本語の醍醐味に浸れた。「大丈夫」この単語のおかげで、日本語と中国語とのニュアンスを理解することができるといえる。その時、初めて「大丈夫」この単語に接したとき、非常に驚いた。その意味は、なんと、危険や心配がなく安心できることを指すようだが、中国語では、大いに活躍できる男という意味だ。

何日か考えた後、インスピレーションがシュッと沸いた。中国語に立派な男だという意味があるからには、そこから「非常に強い」「非常に健康である」といった意味へ派生し、それで心配しなくてもいい。こう考えている間、日本語と中国語との微妙の関係が分かってきた、非常に面白い。

日本語はまるで強い磁石のように、私と日本、この関係のない平行線を交わらせた。では、将来、私と日本の関係はいっそう親しくなるのか、それとも、原点に戻るか。

実は、日本語によって、私はもう日本に強烈な優しさを持っている。適切にいうと、文字面で、日本と中国には一体どんな関係があるのか、それと、各国はどんなカルチャーショックがあるのか。これらの文化に好奇心を持っている。それで、将来においても、私と日本の関係は再び原点に戻らず、逆に、もっと親しくなると堅く信じている。

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