日本人は同調的だとかよく言われる。それが長期的な不況の一因だとか言われているのもよく聞く。同調的だから革新が起きないんだ的な論法。

人们常说日本人有附和性,也经常听人说这是长期不景气的原因之一。主要观点就是附和性导致不会发生革新运动。

この手の話というのは数値化することが極めて困難あるいは不可能で、つまり実証することはできない。でも実感として感じられるものは、少なくとも僕にとってはある。

想把上面的话数值化非常困难或者说根本就不可能,总之是无可证实。但作为可以实际感受到的感觉,至少我有。

どうしてこうなったのか。

为什么会这样?

具体的には、欧米と日本で何が違うのか。

具体地说,欧美和日本有什么不同?

信じられているものが違う。欧米人は、神を信じる。日本人は、周囲の人間を信じる。たぶんその程度のことだと思う。

相信的东西不同。欧美人信神,而日本则相信周围的人。我想不同点大概就在于此。

日本と欧州の戦乱の時代を見てみる。

来看下日本和欧洲的战乱时代。

ところで、「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」というフレーズで有名な、戦国乱世的武士道へのノスタルジーの集大成である『葉隠』という本がある。この本は江戸時代に書かれた。『葉隠』には「同性愛というのは男女の愛よりも重要なものである。だからホモセックスには気をつけろ。同性愛の最も顕著なものが主君への忠義である」というようなことが書かれている。

“武士道惯看死亡”,有本因这句话闻名于世的、集战国乱世武士道思乡情结大成的书,叫《叶隐》,成书于江户时代。《叶隐》中有这样的内容:同性之间的爱比男女之间的爱更重要,所以要小心同性恋。同性爱最具代表性的体现就是对君主的忠义。

具体例もある。顕著なところでは室町幕府初代将軍足利尊氏は側近にして寵童の饗庭氏直に幕軍の主力を指揮させた(これは高一族が殲滅されたという危急の事情にもよるだろうが)。織田信長は寵童森蘭丸に麾下の指揮を任せた。

有例为证。比较有名的是,室町幕府初代将军足利尊氏任命身边的宠童饗庭氏为亲信,指挥幕府主力军(虽说可能也有高一族被歼灭这一危急情况的原因)。织田信长也任命宠童森兰丸为其麾下指挥。

ここで欧米を振り替えってみる。欧州で有名な戦争と言えば十字軍がある。神の名のもとに、イスラム世界を徹底的に蹂躙した。騎士達は神に忠誠を誓い出撃した。散文的な事情を言えば、イスラム商人の商圏を破壊しようとした欧州商人が教皇を突き上げたのだろう。しかし、教皇は、十字軍に参加すればあらゆる罪が許されるという触れを出したところ、参加兵力は増大した。権力に居座る腐敗した層は別として、末端のもの達への「神の権威」の威力は凄まじいものがあった。

在这儿回顾下欧美。说到欧洲最有名的战争要说下十字军。他们借神之名对伊斯兰世界进行了彻底的摧残。骑士们宣誓对神的忠诚而出击。通俗来说,欧洲商人为了破坏伊斯兰商人的商圈才向教皇施压吧。参加十字军一切罪恶都会被宽恕,教皇的这一告示一贴出,参加兵力就增大了。盘踞于权力的腐败阶层另当别论,面向基层的“神的权威”的威力是何等可怕!

この以上二つの事実が日本社会が多様性を確保出来ない、即物的な社会しか構築出来ないことの理由ではないかと思う。

以上两个事实难道不是日本社会无法确保多样性,不能构筑单纯现实社会的理由吗?

欧米人は神を信じる。それと同じように日本人は周囲の他人を信じている。

欧美人信神。与此相同的是日本人更相信周围的人。

日本人にとって、他人とは神なのだろうと思う。神を信じているのだから、明治維新以後欧米型の政治制度を簡単に取り込むことが出来た。

我想对日本人来说,他人也许就是神吧。因为信神,所以明治维新后轻易就把欧美政治制度引进了日本。

欧米人と日本人の精神世界構造というのは、実は殆ど似ているのではないかと思う。それは、騎馬民族の活動圏を中心とした文明圏論みたいなので説明がつくことだと思う(こういうこと言ってたの誰だか忘れた)。騎馬民族がいて、その外側にイスラムと中国がいて、その外側に欧州と日本がある、みたいなの。

说到欧美人与日本人的精神世界的构造,实际上不是几乎完全一样么?就是类似于以骑马民族的活动圈为中心的文明圈论这样的说明(忘记是谁说过的了)。就像有骑马民族存在,外面有伊斯兰和中国,再往外有欧洲和日本。

でも、欧米人と日本人で決定的に違うことがある。神は、存在しない。他人は、存在する。

但是,欧美人与日本人有本质的不同。神不存在,但他人是存在的。

キリスト教者にこれを言えば怒られるかもしれない。神は確かにいるかもしれない。しかし、神を知覚出来る人などいない。知覚出来ている人がいたとしても、それを立証することは出来ない。つまり、神はいない。あるいは、いてもいなくても、同じ。

对基督教徒这么说的话可能会惹火对方。或许神确实是存在的,但没人能感知到。即便是感知到神的存在,也无法拿出证据来证明。总之,神不存在,或者说存在不存在都一样。

散文的なことを言えば、ヤハウェはユダヤ人の地場信仰が形式論理学と結び付いて生まれた化け物にすぎないし、カトリックの神などそれにさらに欧州の地蔵信仰が混ざったキメラにすぎない。

通俗来说,耶和华不过是犹太人将地场信仰与形式伦理学结合在一起的产物,而天主教的神更不过是欧洲的地藏信仰相互融合的产物。

神を信じるとはどういうことか。つまり、自らの思考の内に存在するものを信じるということであり、自分を信じるということ。

信神究竟是怎么回事呢?总之,就是相信自己思想中存在的东西,相信自己。

でも、他人は存在する。知覚出来る。他人を信じるとは、他人を信じること。

但是,他人是存在的,是能够感知到的。相信他人就是相信他人。

信じることは力になる。しかし、制約にもなる。

信则生动力。但同时也成为一种制约。

信じているものが自分なら、自己を変革することで、いかようにも飛躍することが出来る。他者の変革を(場合によっては)許容することが出来る。

如果信的是自己,通过改变自己,无论怎么样都能完成大的提升。(有的情况下)能容许他者的变革。

しかし、他者を信じているならば、そうはいかない。一人二人の他者を変革することはできる。しかし、数十万人数百万人の他者を変革することはできない。他者を信じ他者により制約されることが意識を作りその集合体が社会システムを作っている。多様性は確保されない。

但如果信的是其他人就行不通了。可以改变一两个其他人,却无法改变数十万数百万个。信别人,然后因此受到制约,这导致意识的形成,这个集合体构成社会系统。多样性得不到确保。

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