頃は安政の末、内藤家(延岡藩)の江戸
邸に福島金吾という武士があった、この男、剣術柔術が得意で、随って気象も逞しい人物で、凡そ世の中に怖い物無しと誇っていたが、或時測らず一種の妖怪に出逢って、なるほど世には不思議もあるものだと
流石に舌を巻いたと云う。即ち
五月の初旬、所謂る降りみ降らずみ五月雨の晴間なき
夕、所用あって赤阪辺まで出向き、その
帰途に
葵阪へ差掛ると、生憎に雨は烈しくなった。
当時の人は御存知あるまいが、
其頃は葵阪のドンドンと云っては有名なもので、
彼の溜池の流れを引いて漲り落つる水勢すさまじく、即ちドンドンと水音高く、滝なすばかりに渦巻いて流れ落つる水が、この頃の五月雨に水嵩増して、ドンドンドウドウと鳴る音物すごく、
況して大雨の夜であるから、水の音と雨の音の外には物の音も聞えず、
往来も絶えたる
戌の刻頃、一寸先も見え分かぬ闇を辿って、右のドンドンの
畔へ差掛ると、自分より二三間先に小さな人が歩いて行く。で、自分は足早に追付いて、提灯をかざして
熟視ると、年のころは十三四の小僧が、この大雨に傘も持たず下駄も穿かず、
直湿れに
湿れたる両袖を掻合せて、
跣足のままでぴたぴたと行く姿、いかにも哀れに見えるので、オイオイお前は
何処へ行くと
脊後から声をかけたが、小僧は見向きもせず返事もせず、矢はり俯向きしまま
湿れて行く、
此方は
悶れて、オイオイ小僧、何処へ往くのか知らぬが、
斯の
降雨のに尻も端折らずに
跣足で歩く奴があるものか、身軽にして威勢好く歩けと、近寄って声を掛けたが、この小僧やはり何とも云わぬ。唖か聾耳か、さりとは不思議な奴、兎も角もそんな
体裁ない風をして雨の中を歩く奴があるものか、待て待て、俺が始末をして遣ると、背後から手を伸して
其の
後褄を引あげ、裳をクルリと捲る途端にピカリ、はッと思って目を据えると、驚くべし、小僧の尻の左右に金銀の大きな眼があって、爛々として我を睨むが如くに輝いているから、一時は思わず
悸然としたが、
流石は平生から武芸自慢の男、この化物
奴と、矢庭に
右手に持ったる提灯を投げ捨てて、小僧の襟髪掴んで曳とばかりに投出すと、
傍のドンドンの中へ
真逆さまに転げ墜ちて、ザンブと響く水音、続いて聞ゆるはカカカカと云うような、怪しい物凄い笑い声、提灯は消えて真の闇。
汝れ化物、再び姿を現わさば真二つと、刀の柄に手をかけて
霎時の間、
闇き水中を睨み詰めていたが、ただ渦巻落つる水の音のみで、その後は更に音の沙汰もない。ええ
忌々しい奴だと呟きながら、
其夜は
其ままに
邸へ帰ったが、
扨能く能く考えて見ると、あれが果して妖怪であろうか、万一我が
驚愕と
憤怒の余りに、碌々に
其の正体も認めず、
□って
真実の人間を投込んだのではあるまいかと、半信半疑で
其夜を明し、翌朝念の為に再び
彼のドンドンへ往って見ると、
昨夜に変らぬは水の音のみで、更に人らしい者の姿も見えぬ、猶念の為に他の人々にも聞合せ、流れの末をも
其れぞれ取調べたが、小僧は愚か、犬の死骸さえ流れ寄ったと云う噂も聞えぬ。で、若し
真実の人間とすれば、右の如き大雨と云い夜中と云い、
殊に
彼のドンドンの如き急流の
深淵に於て、
迚も無事に浮び上れよう筈も無し、さりとて
其死体の見当らぬも不思議、正しく彼の小僧は河童であろう、イヤ
獺であろうと、知る者
何れも云い伝えて、
其当分は夜に入って
彼のドンドンの
畔を通る者もない位で、葵阪のドンドンには河童が住むという評判
盛であったが、
其後別に怪しい噂も無かったのを見れば、河童小僧、飛んだ目に逢って
懲々したのであろうか、兎にかく
其小僧の尻に金銀の眼が光っていた事は、福島金吾確かに見とどけたと云う事。
因みに記すも古めかしいが、右の溜池界隈には猶一種の怪談があって、これも
聊か前の内藤家に関係があるから、
併せてここにお噺し申そう、慶応三年の春も暮れて、山王山の桜も散尽くした頃の事で、
彼の溜池の畔に夜な夜な怪しい影がボンヤリと現われる。もっとも
其頃の溜池は中々広いもので、維新後に埋められて狭くなり、更に埋められて当時の如く町家立ち続く繁華の地となったが、慶応頃の溜池は深く広く、
其末のドンドンには前記の如く河童小僧さえ住むと云う位、其の向う岸即ち内藤家の
邸の裏手に当って、影とも分かず煙とも分かぬ朦朧たる物が、薄墨の絵の如くに茫として立迷っているのを、通行人が認めて不思議不思議と云い囃す、
其の評判を同邸の家中の者が聞伝えて、試みに赤坂の方へ廻って見渡すと、何さま人の噂に違わず、影か幻か朦朧たる物が水の上に立っていて、
其の形さながら人の如くであるから、
何れも唯だ不思議だ奇怪だと云うのみであったが、念の為に小舟を漕ぎ出して
其影の
辺に近づいて見ると影は消えて何にもない、
扨又
旧の岸へ帰って見ると、彼の影は依然として水の上に迷っている、これは恐らく水中に何物か沈んでいるのではあるまいかと、一同協議の上で、その
翌る朝更に小舟を漕ぎ出し、夜な夜な影の迷う
辺を
其処か
此処かと棹で探ると、緑伸びたる芦の根に何か触る物がある、
扨はと一同立騒いで直ちに
此れを引きあげると、思いきや
此れは年頃二十三四とも見ゆる町人風の男で、荒縄を以て手足を
犇々と縛られたまま投込まれたものと覚しく、色は蒼ざめ髪は乱れ、二目と見られぬ無残の体で、入水後已に幾日を経たのであろう、全身腐乱して
其の臭気
夥多しい、一同アッと顔見わせたが兎も角も
其死体を
舁き上げ、上に
其次第を届け
出でて、それぞれ詮議に手を
尽したが、この男は何者とも分らず、随って
其の死因も分らず、いわんや
其の下手人も分らず、詮議も
竟に
其なりけりに済んで了ったとは、
何ぼう哀れなる物語。で、
彼の怪しい人かげは、正しく
此の水死者の幽魂が夜な夜な形を現わして、未来の
救護を乞うたのであろうと云う噂で、これを思えば死者に霊無しとも云われまいと、現在その死体を引きあげた一人の昔噺。世にはかかる不可思議の事もあるものか。
(『文藝倶楽部』02[#「02」は縦中横]年5月号)
*〈日本妖怪実譚〉より。署名は「不語堂」使用。