日语文学作品赏析《鉛をかじる虫》
色々見せてもらったものの中で面白かったものの一つは「鉛をかじる虫」であった。低度の顕微鏡でのぞいてみると、ちょっと
虫の口から何か特殊な液体でもだして鉛を化学的に侵蝕するのかと思ったが、そうでなくて、やはり本当に「かじる」のだそうである。その証拠にはその虫の
これらの説明を聞いた時に不思議に思われたのは、鉛を食って鉛の糞をしたのでは、いわば米を食って米の糞をするようなもので、いったいそれがこの虫のために何の足しになるかということである。米の中から栄養分を摂取して残余の不用なものを「米とは異なる糞」にして排泄するのならば意味は分かるが、この虫の場合は全く諒解に苦しむというより外はない。
『西遊記』の怪物孫悟空が刑罰のために銅や鉄のようなものばかり食わされたというお
何のために鉛をかじるかが疑問である。送電線の被覆鉛管の内部にどんなものがはいっているか、そんなことを虫が知っていようとは思われないから、虫の目的はやはり鉛自身にあることは明白である。それなら単なる道楽かというに、虫が道楽をするというのも受取りにくい仮説である。何かしらこの虫の生存に必需な生理的要求のために本能的にかじると考える外はないように思われる。
こんな疑問を起こしているうちに、妙なことを聯想した。
われわれが小学校中学校高等学校を経て大学を卒業するまでの永い年月の間に修得したはずの知識は、分量で測ることが出来るとすればずいぶん多量なものであろうと思われる。十七、八年の間かじりつづけ、呑み込みつづけて来た知識のどれだけのプロセントが自分の身の養いになっているかと考えてみても、これはちょっと容易には分かりかねる
そんなに綺麗に忘れてしまうくらいならば始めから教わらなくても同じではないかという疑問が起こるとすれば、これは自分が今この鉛を食う虫に対して抱いた疑問と少し似た所がある。
「知らない」と「忘れた」とは根本的にちがう。これはいうまでもないことである。しかしそれが全く同じであるとしても、忘れなかった僅少なプロセントがその人にとってはもっとも必要な全部であるかもしれないのである。
世の中に工率百プロセントの器械は一つもない。注ぎ込んだエネルギーの一部は必ず無駄になって消費される。電燈の場合などでも肝心の光になるエネルギーは消費される電力の割合にわずかな小部分で、あとはみんな不必要な熱となって宇宙に放散する。この、物質界に行われる原理を、鉛を食う虫の場合の生理的現象に応用する訳には行かないし、いわんや人間の精神現象に持ち込むべき所由はもとよりない。それにもかかわらず「無駄を伴わない
鉛をかじる虫も、人間が見ると能率ゼロのように見えても実はそうでなくて、虫の方で人間を笑っているかもしれない。人間が山から莫大な石塊を掘りだして、その中から微量な貴金属を採取して、残りのほとんど全質量を放棄しているのを見物して、現在の自分と同じようなことをいっているかもしれない。
こう考えてみると、道楽息子でもやはり学校へやった方がいいように思われ、分からないむずかしい本でも読んだ方がいいようであり、ろくでもない研究でも、しないよりはした方がいいようにも思われ、またこんな下らない随筆でも書かないよりは書いた方がいいようにも思われてくるのである。
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