日语文学作品赏析《ツワイク「三人の巨匠」 ドストイェフスキーの部(偉大な統一の破壊者、永遠の分裂者としての)》
○ワイルドがその中で鉱滓となってしまった熱の中で(監獄)ドストイェフスキーは輝く硬度宝石に形づくられた。
○災厄の変化者、あらゆる屈辱の価値の変革者としてのドストイェフスキー。
○彼は自己の生存の外的危険から最高の内的確実性を獲得し、苦悩は彼にとって所得となる、
○彼の芸術における悪魔的な価値変革力、
○運命に対する人間の勝利は、内面的魔術による外的存在の価値変革に外ならないという点から見れば 彼の生活は芸術的には悲劇であり 道徳的には並ぶものなき業績である。
p.159 ドストイェフスキーは運命に刻印された両極性(狂喜と破滅、明・闇、幸福と受難、広大に裂き開かれた感情の対立性)という点で、まさにこの点でのみ理解される、
○彼は自らの対立の狂信者である。
○彼の
○「いたるところ、何事によらず、生涯私は限界をのりこえた」神と悪魔とに緊張せしめる、
○ドストイェフスキーは決して規範を求めず、ただ充実をもつのみである。
○彼は運命の情熱的賭博においては賭物として遺憾なきまでに自らを投げ出すのである、なぜなら彼は赤と黒、死と生との流転の中にのみ酩酊の快さで自らの生存の全願望を感じるからである、
○彼等には真直な方向や明確な目的が全然なく、すべての価値の動揺、p.177その背景としての十九世紀のロシア p.179
○しかも新しい人間を創造する六日目の予感がある、p.179
○皆がみな限界をもたず未知の世界に立っている p.179
○彼は生を痛感することを希う p.169
○原泉から飲むことを欲す p.176
○彼等は生活を真裸となって感じ、生存の歓喜を痛感しようとはしても、生活を修得しようとか支配しようとは思わない。p.177
○彼にとっては人物は 自我の分裂した未解決の人間である限りにおいてのみ主人公として芸術化される価値をもつ。
バルザックの人物との対比
バルザックの人物は 要素であり、要素的なもののあらゆる本質的な特徴を有し、従って、倫理的なものと心理的なものとの反応の典型的な形式である。(これはよく見られている、そして、私たちの時代の人間がバルザックのきらいな一つの理由はここにもある、近代人は、バルザックの描く形式において倫理と心理との単純な反応に固定しきらないのであるから。ポンス ゴリオ その他 バルザックのメロドラマ性、非リアリティー)
○彼らは殆ど人間ではなく、むしろ人間化された特質、一つの情熱の精密機械である、p.172
バルザックにあっては 人物の名に相関概念としての特質をかける。すなわちラスティニィアクは吝嗇に ゴリオは犠牲に、ヴォートランは無政府に。
食うか、くわれるか=
∥
フランス
○ドイツ の全作品の主人公のタイプ 天才のタイプ
発展小説 修業時代よりマイスターへ
アンドレーエフのシムボリズム アナテマ
ロシア文学における宇宙的力や生存感 自我と生
この渾沌からロマンティックに羽ばたいて出たゴーリキイ、
○十九世紀の世界文学は自我の問題の文学であるが、その中におけるロシア文学とドストイェフスキーの自我の課題=トルストイその他の問題、
グレコの絵との連想[#「グレコの絵との連想」に枠囲み]
○我苦しむ。ゆえに我あり p.188
そしてこの「我あり」こそドストイェフスキーと彼の人物においては生の最高の凱歌である。
○自己誕生の神秘 p.190
○ドストイェフスキーの芸術は常に中心点を狙い、従って心理学における人間中の人間、つまりあらゆる文化の階層の背後に遠く横わっている絶対的で抽象的な、人間を狙っていることを忘れてはならない。p.191
○彼らは自己を知らぬが故に 尠くとも己を証明しようと試るのである。
○彼らは自己の何ものなるかを悟ろうとし、それ故に限界を求める、自我の最極点を、何よりも自己の深さを、灼熱と冷却とにおいて知ろうとする p.194
ここにおけるDの意味
○ドストイェフスキーが贏ようとつとめた共同体はもはや社会的なものではなくて宗教的なものである。彼は社会を求めないで、世界親和を求める。
自我人より全人。兄弟愛 和解
「悪霊」を読んでみたい。
Dのリアリズム
自然主義(科学に立っている)とのちがい
○顕微鏡の力と予言者の視力とをかね備えた 彼の幻想家的な知力にとむリアリズム、p.202
○一切を彼は不思議に内部から認識する ゾラとの著しき対比
フランスの自然主義の欠点 静物
○ドストイェフスキーは聴覚の天才
○直観的リアリズムの最高の勝利。
◎しかも猶 夢遊病者として感ずるのは何故であるか? p.220
解答
○彼の宇宙は世界ではなくて ただ人間だけである。風景に対して魯鈍である。p.221
○汎神主義の貴重な五穀が欠けている。
СССРが何故Dの作品を出版しないか
その理由は、彼の芸術におけるこの危険にとんだ二重性による おどろくべき迫真力と虚構との。
それこそドストイェフスキーの天国と地獄だったのだが。
○ドストイェフスキーよりもシェイクスピアは人間の精通者である。p.226
これはDの対立の分析の正確さをこわすほど安易な対比である。
構築と激情
○Dの熱情が常に作品の中に一への原始的混沌をもたらしている。決して調和に達していない。p.232
○生活力の総額の数秒時における痙攣 p.241
○彼の作品における 時間と空間との克服の能力は、認識の及ばないところである p.241
○つねにわき返っている肉と脳髄である。p.243
○彼の作品の冗漫性にある意味――事件の骨骼の下に、対話の肌の下にこうも 神経を一貫したような物語の体系をもたない。p.245
○限界のない人間は永遠のものに到達出来るけれども、模索することは出来ない p.246
芸術
‥ の問題の根源として。
モラル ↓
◎芸術は永遠に満たされぬ者にとってはただ一つの端初にすぎず、その終末は無窮の中にあるのだ。それは一階梯にすぎず殿堂そのものではない。
○限界の突破
そして、このことは平安を彼から奪うことを予約している。しかも 彼が芸術家であれば
○文学者への扱いかたのむずかしさの核もここにある。
◎ドストイェフスキーの文化上の貢献の意味ふかいものは自己認識の巨大な拡大 である。p.254
∥
無意識のものとか 潜在意識のものとかいう底知れぬものが彼の真実の世界であった。p.254
私――その崩壊――国民――再びそれとしての自分、この戻りかた。
芸術の根本的本質を持たないまま 日本の私小説はそこからぬけ出して、かえり見るだけの力の限界を踰えてより拡大された自己認識を与えるに成功し得なかった。
今日の文学の課題
尾崎士郎
○彼等が慾求するのは 慾望の充足を希うがためのみならず、それと同時にまた慾望を拒否された堕地獄の状態をも希うがためである。
○対立は対立を生むのである。p.259
○狂暴な循環の中に彼らの意欲の旋風は渦巻いている。p.260
○われわれは彼以前にこれほど密集的な感情の多様を知らず われわれの霊的混淆についてこれほど多くを知らなかったのである。p.261
◎われわれの認識の豊かさに徴して明かな通り、われわれが過去に比して感情の一層分化した最初の人間である、という暗示をわれわれに最初に与えたのが 彼であったのである。
×しかし時を経て、今日この不幸な分化の終焉はせまっている。再び人間は統一へ、霊と肉との調和をもってしかも休止し、妥協することない活動へ向う時代にさしかかっている。
ドストイェフスキーの考えかたをふえんすれば
「現代は個々の精神が彼の時代におけるような循環的混沌の中に上下していられないほど、精神の闘争力の源泉としての調和、性の一致を求め必要として来ている。それだけ限界は日常から拡大され、群としての人間精神の類型との対決の時期に立ち到っているのである。
広津和郎の「懐疑に耐える精神の強靭性」の破たん
そういう統一や調和が単純に見えるひとは、そのような統一や調和をもって 精神が立ち向わなくてはならない現代の地球的混沌の本質がわかっていないからにすぎない。
文学の課題はここにある、誰が、どのような作品で、現代がこのような精神によって拓かれるべきことを暗示するであろうか。ドストイェフスキーが前世紀の終りに、彼のロシアの混沌を身辺のうちに反映して示したように。」
神の苛責
神は生涯私を苦しめた。ドストイェフスキー
○われわれの内部と外部との神とその復活 このかくされた神がドストイェフスキーの全作品の問題である。p.271
○ドストイェフスキーにおけるあらゆる論議は、露西亜の思想と神の思想とに終っている。――そしてわれわれの見るところでは この二つの思想は彼にとって同一物なのである。p.271
○ドストイェフスキーの神は、肯定と否定とを同時にもつ対立の始祖であり、従って不安の原理だからである。p.272
○彼は神を安静として夢みたのに、しかも見出したのは矢張り火としてであった。p.273
○つねに逆に還り、徹底的な対照になり切っている作家ドストイェフスキーは信仰の必要をとき 他の誰よりも激越にそれを主張しているが――しかし彼自身は信心をもっていないのだ。p.276
◎無信仰の十字架に釘づけになった彼は民衆の前に正統派の教えを説き、智識は分裂し燃焼するということを知っていたので これを抑圧し、そして聖書に即した厳格な農民の信仰に、幸福を与えるような虚言を説教したのである。p.277
◎彼は宗教の問題を一種の神性の狂信を与えている国家の問題に移す。そして、彼の生涯の最も真摯な告白の中で「君は宗教を信じているか」という問に対し 極めて実直な奴隷のように「僕はロシアを信じている」と答えるのである。
なぜなら ロシア、それは彼の避難所であり、彼の救済だからである。ここに来て彼の言葉はもはや分裂ではなくて
○彼のこの救世主の文書は――暗黒の印象を与える。p.279
笞のようにビザンティンの十字架を手にした極悪な狂信的な中世紀の僧侶、恰もそんな風に彼は政治家、宗教的狂信者としてわれわれに向って来るのである。p.279
○口角泡をとばし、手をふるわせて彼はわれわれの世界に悪魔祓いをするのである。p.279
○ひとりロシアだけが正しく――反ヨーロッパ的、アジア的 蒙古的 ダッタン的であればあるほど、それだけ正しいのである。保守的 退嬰的 非進歩的 非理知的 偏狭固陋であればある程、それだけ正しいのである。大言壮語家! p.281
○理性よ、下れ! ロシアは矛盾なく 公言される
○狂妄な帝国主義は驕傲を僧衣に包んで「神の御意なり」と叫ぶのである。
○先ずもってわれわれヨーロッパの世界は、この新しい神の国、ロシアという世界国家の中で崩壊しなければならず、然るのち初めて救われるのである。文字通り彼は云っている「あらゆる人間は先ずロシア人とならねばならぬ」と。しかるのちはじめて新しい世界は始るのだ。ロシアは神を荷える国家であり、最初先ずそれは剣をもって世界を征服しなければならない。しかるのちにそれは初めて人類の「最後の言葉」を告げるであろう。この最後の言葉とは即ちドストイェフスキーにとっては あの和解を意味するのである p.282
ツワイクは、一九一九年にこの本を出した。しかし彼はこの部分では、分析のメスを浅くすべらせている。非力を、おのずから示して、このドストイェフスキーの狂信と洞察――むしろ直感をふわけしていない。そのところに彼の文芸史家としてのフェータルなものがひそんでいる。この。ドストイェフスキーのロシア主義の分析こそ、ツワイクを活かすか死なしたかのポイントにふれている。
○しかしこの場合ロシアとはいかなるものであるか。
ここでも リアリズムと空想力、火と水とのさわがしい混淆が行われているのである。p.285
各国文学精神の伝統的傾向について
○各国民は、自身の文学精神の傾向に特有のテンデンシイをもっているという事実。
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