鈴ヶ森刑場跡

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旧東海道と第一京浜(国道15号)が交わるあたりに鈴ヶ森刑場跡はある。今は車がひっきりなしに通ってうるさいが、かつては海岸線がすぐ近くまで迫る、寂しい場所だったそうだ。もともと江戸の刑場は、北は浅草、南は芝にあった。しかし、人口が増えて江戸の町が拡大したのに伴い、浅草の刑場は千住へ、芝は鈴ヶ森へと、1651年(慶安4年)に移された。

旧东海道和第一京滨(国道15号)相交之处是铃森刑场遗址。如今这里车水马龙喧闹嘈杂,可据说过去临近海岸线,是一个荒凉的地方。江户原来的刑场中,北有浅草、南有芝。可随着人口增加江户街道扩大,1651年(庆安4年),浅草的刑场移往千住,芝移往铃森。

礎台

最初に鈴ヶ森で磔(はりつけ)になったのは、幕府転覆を企て未遂に終わった「由井正雪の乱(慶安の変)」の首謀者の一人、丸橋忠弥だ。処刑の際に使用されたという礎台が今も残っている。礎台には正方形の穴があいている。「この穴に角柱をたて、そこに男性は股(また)を開き、女性は閉じて縛ったんです。そして両脇からやりで刺したんです」と鈴ヶ森刑場跡にある大経寺のご住職の奥さんの小越(こごし)早苗さん(55)がそっと教えてくれた。

首位被刺死在铃森的人是“庆安之变”首谋之一的丸桥忠弥,他颠覆幕府的企图以失败告终。现在这里依旧残留了处刑时所用的磔刑台。台中央凿开了一个正方形的洞。“在这个洞里插上方柱,男子大腿分开绑在柱上,女子则是两腿闭拢捆绑的。然后行刑人从两侧使用长枪捅刺受刑者”,铃森刑场大经寺住持夫人小越早苗(55)悄声告诉我。

(背景提示:庆安之变是庆安四年(1651年)4月到7月发生的事件。首谋者是由井正雪、丸桥忠弥、金井半兵卫等人。当时幕府三代将军德川家光大行严刑峻法,将关原之战和大阪之战以来的大多数大名减封、改易,由此造成浪人数量激增,这部分人对幕府的政策怨声载道,由井正雪得到这些浪人支持,聚集起浪人伺机谋叛,庆安4年(1651)4月,家光去世,年仅11岁的家纲继将军位。正雪认定这是天赐良机,便开始正式计划推翻幕府。根据计划,丸桥忠弥火烧江户,由井正雪和金井半兵卫分别在京都、大阪起义,趁乱拥天皇逃往高野山,以取得讨伐德川将军的敕命。然而由于同伴出卖计划泄露,7月,丸桥忠弥在江户被捕。由井正雪、金井半兵卫自尽。8月10日,丸桥忠弥被处磔刑。)

火あぶり台

礎台の横には、ひらべったく丸い火あぶり台が置かれている。恋しい人に会いたいがために放火して捕まった八百屋お七が、この上で鉄柱に縛られ、生きたまま焼き殺されたという。この熱暑の中で、想像するだけでも汗が噴き出る。磔台と火あぶり台の前には、だれが供えたのか、きれいな花が供えられていた。思わず合掌した。

磔刑台一旁摆放着带扁平状的圆形火刑台。相传,欲与恋人相见纵火被捕的八百屋于七就是被捆在这上面,活生生地被烧死。在这样的酷热下,仅是想象就已是汗流浃背。磔台和炮烙台前供奉着一束清丽的花,不知是谁供奉于此。我情不自禁合掌祈祷。

(背景提示:八百屋于七生活在江户时代前期,是八百屋太郎兵卫的女儿。因欲见情人而不得企图纵火,以纵火未遂的罪名被逮捕,那时她仅有16岁,江户町奉行(相当于东京市长)甲斐庄正亲怜惜其幼小,想放她一马,按照法律,15岁以下可罪减一等免于死刑,而且当时户籍制度尚不完备,年龄确认以本人口头为准,甲斐便打算用这一条就她性命,然而八百屋于七坚持自己已满16岁,而且还交出证明,甲斐不得已判处于七死刑。1683年4月25日,于七受火刑而死。井原西鹤将这件事写进了《好色五人女》中。)

お堂

鈴ヶ森刑場は、1871年(明治4年)まで利用され、大勢の人が処刑された。昔のこと故、中には冤罪(えんざい)で命を失った人も多かったらしい。処刑された人を供養するためにお堂がたてられ、後に大経寺となり、今も亡くなった人たちを供養している。

铃森刑场一直使用到1871年,很多人被处死在这里。由于过去刑罚尚未完备,似乎也有不少人是蒙冤死去的。为了供奉被处死的人,这里建了一座小祠堂,后来成了大经寺,至今仍供奉着死去的人们。

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