春寒料峭 何时回暖

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今年が没後100年の石川啄木に、梅を詠んだ、どこかおかしくて淋(さび)しい一首がある。〈ひと晩に咲かせてみむと、/梅のを火に焙(あぶ)りしが、/咲かざりしかな。〉。3行書きだが、改行と読点をとばして読むと三十一文字(みそひともじ)のリズムになる。

今年是石川啄木过世100年,他有一首吟诵梅花的和歌让人觉得既奇妙又孤寂,<只盼梅花当晚现,花盆移置地炉边,火苗腾腾有热气,不知能否赏我脸?>。原文是分3行书写的,除去换行及逗点,读起来仍是三十一个音节的节奏。

実際に試したのか空想かはおいて、にじむ屈折は、思うにまかせぬ人生の投影だろう。しかし梅は、せっかちをしなくても寒さの中へきりりと開く。桜や桃が春の花なら、梅は春を呼ぶ花だ。

暂且不去深究是否真这么试验了还是只是个空想,然而其中渗透出的晦涩恐怕正是其难随心愿之人生的投影吧。其实,本不用着急,梅花自然会在严寒中凛然绽放。如果说樱及桃是春天之花的话,那么梅便是唤春之花。

中国、宋の陸游(りくゆう)は梅を愛した詩人だった。「落梅」という詩でこう言っている。桃や李(すもも)がよい季節を選んで咲くのは、それでかまわな い。だが氷と雪がきびしく張りつめる大地に、力いっぱい春を甦(よみがえ)らせようとしているのは誰か。梅ではないか――(『陸游』岩波書店)。花の姿に 「凜(りん)」の一字が似合うゆえんだろう。

中国宋朝的陆游就是一位爱梅的诗人,他在“落梅”中想要讲述的就是,桃李择良季而开,这并没有什么,然而在此冰封雪飘的严寒大地上竭力呼唤春天的又是谁人呢?不正是梅花吗?(摘引自《陆游》岩波书店出版)。这是因为一个“凛”字与其花姿实在契合的缘故吧。

その梅が、今年はどこも遅い。気象庁によれば東京の開花は平年より15日も遅かった。立春を過ぎれば「余寒」と言うが、酷寒の風にふるえる日が続く。北国のつぼみは降雪の下で身を固くしていよう。

可就是这梅,今年无论在何处都延迟了它的花期。据气象厅观察,东京地区的开放较一般年份晚了15天。立春过后一般称之为“余寒”,可今年在酷寒的大风中索索发抖的日子却没有间断过。北国的花蕾更是不畏降雪的严寒仍在挺身坚持。

思えば2月は不思議な月で、光は春なのに冬がきわまる。没後70年、与謝野晶子の詩「二月の街」はうたう。〈春よ春、/街に来てゐる春よ春、/横顔さへもなぜ見せぬ。/春よ春、/うす衣(ぎぬ)すらもはおらずに/二月の肌を惜むのか……〉

想来2月是个不可思议的月份,阳光虽说已进入了春天的轨迹,可冬天的寒冷却也到了它的极致。过世70年的与谢野晶子的诗歌“二月的街市”这样吟诵 道,<春天啊,春天/来到了街市上的春天啊,春天/为什么连你的侧脸都不愿显现。/春天啊,春天/你连薄薄的衣衫也愿不披上一件/是因为爱惜二月的肌肤?……>

寒気が流れ込み、週末はきびしく冷え込むという。だが、寒さの底で何かが兆している。ぴしり――と氷の割れる音に、耳を澄ます春よ早く来い。

又有寒流入境,据说周末仍有严重冰冻。然而,在这严寒的底部已经有了什么在躁动的迹象。快来吧,春天!让我们侧耳聆听你撕开冰面发出的喀拉拉——崩裂之声吧!

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