今日惊蛰 百虫复苏

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俳人の高浜虚子と加藤楸邨(しゅうそん)にどこか通じ合う一句がある。まず虚子。〈蜘蛛に生れ網をかけねばならぬかな〉。そして楸邨は〈糞(ふん)ころがしと生れ糞押すほかはなし〉。ふと哀感を催すのは、二つの虫の姿に、人と生まれたわが身の影がさすからか。

俳人高浜虚子和加藤楸邨两位都有一首情同此理的俳句。请看虚子的这一首,<生来为蜘蛛,织网一处处,虽说捕敌无遗漏,此世无自主>; 楸邨的这一首,<天生滚粪球,不嫌脏和臭,只做他人不做事,俗称推粪手>。之所以隐约地引发人悲哀之情感,或许是因为在这两种昆虫的身上,折射出我们生为人类之身影的缘故吧。

楸邨には小動物を詠んだ作が多い。虫をめぐっての一文で言う。「生きるということが、人間にとって崇高なものなら、糞をころがすことも、屁(へ)をひることも、虫にとっては崇高な生き方なのだ」と。ともあれ多彩な虫たちが冬から覚める、きょうは二十四節気の啓蟄(けいちつ)である。

楸邨创作过很多吟诵小动物的作品,并且还写有一篇关于昆虫的文章,“生存,对于人来说如果是崇高的话,那么,对于昆虫来说,诸如滚沸球、放屁等等也不失为一种崇高的生活方式”。姑且不细谈这些,今天是二十四节气中的惊蛰,丰富多彩的昆虫们将从冬眠中苏醒过来。

漢字に感服するのはこんなときで、「蠢く」と書いて「うごめく」と読む。春のもとに多くの虫。そういえば俳人の上田五千石に〈啓蟄に引く虫偏の字のゐるはゐるは〉がある。蠢くように辞典に並ぶ漢字のことだ。

往往在此时会对汉字产生一种感佩之情。“蠢”字念“ugomeku”,一个春字底下有好多虫子。经这么一解释,就让我想到了俳人上田五千石的一首俳 句,<时到惊蛰想起虫,久不相见忘尊容,翻看辞典查一查,虫旁文字往外涌>,句中指的就是爬满辞典的如同蠢蠢欲动之虫子的汉字。

蝶(ちょう)や蜻蛉(とんぼ)はまだかわいい。だが蜘蛛、螻蛄(けら)、蚯蚓(みみず)、蛞蝓(なめくじ)、さらに蛇、蜥蜴(とかげ)……と続けて書くとなかなか迫力がある。爬虫類(はちゅうるい)や昆虫、その他大勢、虫偏は生きものの一大勢力をなしている。

蝴蝶呀蜻蜓什么的尚且可爱,可蜘蛛、蝼蛄、蚯蚓、蛞蝓,甚至是蛇、蜥蜴……,继续写下去会感到越来越强的震慑。爬虫类、昆虫以及其他很多种虫子已成为了虫旁文字的主力军。

先日、東京の声欄に「津波被害の田んぼに春よ来い」という投書が載っていた。「震災前はあちこちから声が聞こえたカエルは戻って来るだろうか」と。蛙(かえる)もなじみ深い虫偏の生きもので、「初蛙(はつかわず)」など春の季語になっている。

日前,东京版的呼声栏目里刊登了一篇题为“遭受海啸之害的农田呼唤春天”的来稿,担心“震灾前叫声随处可闻的青蛙还能回来吗?”这蛙字也是我们熟悉的虫旁,而且诸如“初鸣之蛙”等都已经成了季语。

「蛇のいる田は良い田んぼ」と言うそうだ。そんな田は蛇の食べる蛙が多い。蛙は害虫を食べてくれる。つまり虫偏の多様の中で稲も育つ。あれから1年、命にぎわう春が巡ってほしい。

据说“有蛇的农田都是良田”,因为在这样的农田里有很多蛇所爱吃的青蛙,而青蛙又专吃害虫。这就是说,稻谷也是在各种虫旁生物的帮助下才得以成长的。从那次地震之后已过了1年,希望充满生机的春天早日来临。

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