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摂関政治とは その一 助走期間

「望月の歌」は、端的に言うと、藤原道長が自らの栄華を喜んで詠んだ歌です。そして、その栄華を支えたのは「摂関政治」でした。摂関政治とは平安時代の中期を支えた政治システムで、藤原氏の一族が「摂政」や「関白」になって、天皇の代理や補佐として政治を行ったものです。

何谓摄关政治  其一 起步时期

“满月之歌”,直接而言,即是藤原道长为自己一族的荣华欣喜而吟诵的和歌。让道长得以一手遮天的正是“摄关政治”。“摄关政治”是支撑平安中期的政治系统,藤原氏一族担任“摄政”或“关白”,作为天皇的代理或辅佐人管理国政。

貞観8(866)年、藤原良房が摂政になりました。これが、皇族以外で初めての摂政です。その後、良房の子(正確には養子)である藤原基経も、皇族以外で初の関白にもなっています。これらが摂関政治のはじまりと言える出来事です。

贞观8年(866),藤原良房成为摄政,这是首位非皇族的摄政。之后,良房之子(实为养子)藤原基经也成为非皇族的首位关白。这一系列事件即为“摄关政治”的开始。

藤原良房

良房の摂政就任はただ突然抜擢されたものではなく、環境的な要因が作用しています。良房には娘(明子)があり、天皇の后でした。明子は皇子を産んだのですが、天皇が病死し、その皇子が天皇に即位します(清和天皇)。しかしその時、天皇はまだまだ幼年でした。そこで、朝廷の実力者であり、清和天皇のおじいさん(外祖父)にあたる良房が、天皇のサポート役につくという流れになったのです。

良房就任摄政,并非意外升迁,而是政治环境使然。良房有个女儿,名叫明子,为天皇皇后。明子产下皇子,天皇则病崩,皇子践祚(清和天皇)。然而天皇尚幼,于是在朝廷掌握大权的天皇外祖父良房由此成了天皇的辅佐人。

このような、「摂関への就任」と「天皇の血縁」というセットは、摂関政治の重要な「形」として受け継がれてゆくことになります。とは言え、ここで摂関政治が完成したというわけではありません。摂政、関白というのは律令の定めにない職で、そもそも不安定な面がありました。天皇が幼い時に代理をつとめるのが摂政、天皇が成人してから代理をつとめるのが関白という基準はあるのですが、それももう少し後に確立することで、この頃はあやふやです。また、基経以後、摂関の職はしばらく置かれていません。そういう不安定さが消え、摂関政治が一つの形としてかっちりと固まるには、まだ時間がかかります。良房、基経の時代は、摂関政治への準備期間、助走期間だったと言うのがよいかも知れません。

像这样,“任职摄关”与“天皇的血缘”这一组合就作为摄关政治的重要形式继承了下来。尽管这样,这时的摄关政治并未彻底定型。摄政、关白都不是律令制下的定职,起初并不稳定。在天皇幼年时担任其代理人的是摄政,天皇成人后代其理政的是关白,像这样的规则是在其后才确立的,此时还不明确。基经之后,摄关一职暂时未设。要消除不稳定因素,使摄关政治成为一种政治形态固定下来,还需要些时间。良房、基经的时代是走向摄关政治的准备阶段,也许称为起步时期较为合适。

宇治平等院(藤原氏荣华的象征,道长之子藤原赖通建立)

摂関政治とは その二 本格始動

良房や基経の時代、藤原氏の力は強力でしたが、後世のように唯一無二というほどでもありませんでした。藤原氏以外にも有力な氏族はあり、9世紀半ばから10世紀半ばまでの朝廷では壮絶な権力闘争が行われました。有名な「菅原道真の左遷」などは、この期間に起こった出来事です。

何谓摄关政治  其二 正式起动

在良房和基经的时代,藤原氏的势力虽已如日中天,却还未达到后来权倾天下的程度。除藤原氏还有其他有势力的贵族,因此在9世纪半至10世纪半这段时期,一场异常激烈的权力争斗在朝廷拉开。其中为人熟知的便有“菅原道真左迁”事件,诸如此类都是在这段时期里发生的事。

そして、基経から数代後の10世紀後半、ついに藤原氏は権力闘争の最終勝者となりました。他氏族は政治の場から事実上排除されました。時々の例外を除いて摂関が常に置かれ、藤原氏の有力者がそれを受け継ぐという形もほぼ定まりました。こうして、摂関政治時代が本格的に始まります。

于是,基经后经过数代人,到了10世纪后半期,藤原氏成为权争的最终获胜者。其他贵族实际上已被排除在权力圈外。摄关成为常设职务,除了少许例外,由出自藤原氏的贵族继任摄关这一形式也大致定型。这样,摄关政治时代正式拉开序幕。

こののち、権力闘争といえば藤原氏内部で起こるものがほとんどになります。そのような闘争の一つが、藤原兼通と兼家という兄弟の争いでした。兼通は弟の兼家と激しく対立し、自らが関白位に就くと兼家を冷遇するなどしました。しかし、対立のさなか、兼通がついに病死します。これで潮目が変わり、やがて兼家は摂政の地位を奪取しました。兼家は自分の息子らをどんどん昇進させるなどの露骨な手法で、一族を大いに栄えさせます。その息子たちの中の一人が、かの藤原道長でした。

此后,见诸史册的权力之争基本都发生在藤原氏内部。这些权争中的其中之一便是藤原兼通和藤原兼家的兄弟之争。兼通与弟弟兼家激烈对峙,自己担任关白却冷遇了兼家。然而,正值对峙高潮时,兼通最终病死。因此政治大势骤转,兼家不久便夺下摄政之位,他用尽露骨的伎俩,让自己的儿子们个个飞黄腾达,以此取得一族的荣华。藤原道长便是兼家的其中一个儿子。