日本历史人物:满月相国藤原道长
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道長は藤原兼家の四番目の男子として誕生しました。兼家は兄の兼通と対立していたものの、やがて運命が開け、摂政になって息子たちをどんどん昇進させたのは先述の通りです。むろん道長も例外ではなく、極端なスピードで昇進してゆきます。しかしながら、所詮は四男。藤原氏を率いる立場になるとは、この時点では考えられないことでした。ところが、ある時事情が変わります。道長の兄たちが、病や疫病で次々とこの世を去り、摂関の地位が空白となったのです。そのため道長は、突如兄たちの後継と目される立場になります。
道长作为藤原兼家第四子诞生。如前述,尽管兼家曾和兄长兼通对立,但不久便时来运转,自己成为摄政,儿子们也步步高升。自然道长也不例外,他以惊人速度升职。尽管如此,道长终究身为第四子,此时谁也不会料想到,日后他竟贵为藤原氏一族的首领。然而,某时风向突转,道长的兄长们接连因疾病和瘟疫离世,摄关的继任者空缺。道长由此突然成为兄长们的后继人。
藤原道长
この世をば わが世とぞ思ふ もちづきの かけたることも なしと思へば
此世即吾世 如月满无缺 (茂吕美耶译)
意即:“世间皆为我囊中之物,就像满月永远无缺”。这场宴会堪称道长乃至藤原氏荣华富贵的顶点。
道長にはこんな有名なエピソードがあります。道長が若い頃、父の兼家が藤原公任という人物と息子たちを比べ「お前たちは公任の影を踏めるほどの才能もない」と悔しがったのですが、道長は「影どころか、その面を踏んづけてやります」と言い放ったというのです。ほかにも、敵対していた伊周と大声で怒鳴り合ったなどという話も伝わっています。権力闘争を勝ち抜いたわけですから、道長には冷徹な策謀家の面はもちろんあったでしょう。しかし、冷遇されていた藤原兼家の、しかも四番目の男子として生まれた道長は、本来であれば、平凡な貴族として平凡な人生を送っていてもおかしくなかったのです。それにもかかわらず最高の栄華を手にしたわけですから、とてつもない強運の持ち主でもありました。その上でさらに、上記のエピソードが示すような度胸や感性も持っていたと考えられます。
道长有这样一段著名轶闻,在他年轻时,父亲兼家曾将藤原公任与自家公子们做比较,“吾儿不及公任远甚,安能蹈其影耶”,道长则豪言:“儿岂蹈影,终踖其面矣”。其他流传的故事中,还有道长和伊周高声互斥对方等事迹。在权力斗争中获胜的道长自有其冷酷权谋家的一面,可他身为曾遭不遇的藤原兼家第四子,按理说即使作为一个平凡贵族度过平凡一生也毫不奇怪。然而他将至尊之位收入囊中,由此权倾天下。另外,如上段轶闻所述,他还是个胆略十足并且情感丰富的人。
藤原公任被称为“三船之才”,相传藤原道长游大井川,让精通汉诗、和歌、管弦的人分乘三条船,公任学识渊博,三条船皆可乘
こうして藤原氏は栄華を極めましたが、それは長くは続きませんでした。道長の子の頼通の時代までは、まだ藤原氏の権力は絶大でした。しかし、それを最後に、藤原氏の力は急速に萎んでしまいます。その理由は、天皇に嫁がせた頼通の娘に、男の子が生まれなかったことにありました。やがて後三条天皇という藤原氏と血縁の薄い天皇が即位し、自らの政治を行うようになったのです。これで事実上藤原氏による摂関政治の時代は終焉し、次の政治形態「院政」の時代へと歴史は進んでゆくのです。
如此,藤原氏极尽奢华,然而好景不长。直到道长之子赖通的时代,藤原氏仍权倾一时。不过,藤原氏最终没有逃出盛极必衰的命运。其原因是嫁给天皇的赖通之女没能生下男孩。没过多久,后三条天皇继位,开始亲理朝政。这样藤原氏的摄关政治时代实际上被画上句号,历史走向下一个政治形态“院政”时代。
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