日本人独特のものの考え方とか特質が、議論されることがあるが、あまり納得がいかない。日本人が控えめだなんて、ずうずうしい奴はいっぱいいる。手先が器用なのが日本人と言ったって、ジミーヘンドリックスの指さばきに対抗できる日本人ギタリストなんか居やしない。ましてや、自然への畏敬だとか能やワビ、サビあるいは仏教・神道と現代の日本人を結びつけようたって無理な話だ。日本人の多くが無宗教で、ものの考え方や生活習慣の基になっている発想を定式化することは、そもそも難しいことなのである。

日本人独特的思考方式、特性等常会被拿来讨论,但我并不怎么赞同。说日本人保守,但其中也有很多厚脸皮的人。说日本人手巧,却没有一个日本吉他演奏家能及吉米•亨德里克斯的指法。更何况,想要把对自然的敬畏、能,以及茶道的枯淡之趣、古雅或者佛教・神道与现代的日本人联系到一起根本就不可能。很多日本人不信教,很难将他们思考方式和生活习惯的基础公式化。

しかし、そのような中で、これは日本人でなければと思う発想が一つある。それは「ものだち思想」と名付けてよい発想で、「お茶断ち」とか「塩断ち」とかで願をかける考え方として知られている。

但是,这之中有种思想却是日本人特有的。可以命名其为“戒物思想”,以“戒茶”“戒盐”等起誓,向神佛祈愿的思考方式而闻名。

これは日本人独特の哲学で他にはあまり例を見ない。「お百度参り」とか「水ごり」も同様の発想に基づく信仰である。つまり何かを我慢すれば、(何の論理的必然性もないのに)別の所で願いがかなうと考える幸福平均一定の原理である。神社や泉にお賽銭を投げ入れるのも、財布の減りを我慢して、後日幸せの埋め合わせをしてもらおうという発想であるから、やはり「ものだち思想」に基づいた発想の変種である。日本人は宗教以前にこの「ものだち思想」を持っており、宗教すらもこの信仰にあわせてしまうのである。

这是日本人独有的哲学。“百次参拜”“洒水净身”等也是基于同样想法的信仰。总之是认为如果忍受什么,(尽管没有任何理论上的必然性)就能在其他的地方如愿以偿的幸福平均一定原理。往神社和泉水中投香资也是,认为只要忍受钱包变空,作为补偿,将来就会幸福。依然是基于“戒物思想”想法的变种。日本人在有宗教之前就已持有这种“戒物思想”,甚至宗教也迎合了这个信仰。

「ものだち思想」の発想は日常生活にまで染み通っており、我が子が熱を出せば、徹夜で看病する母親など、その典型と言えよう。別に側について起きていたって、子どもの熱とは関係がない。しっかり休息を取った方が、確かな判断が出来るだろう。しかし、日本の母親は看病したがる。これは宗教である。残業と称してダラダラと職場に居残るのは「帰宅断ち」で「仕事成就」の願かけをしている宗教であろう。「寒稽古」はもちろん「ものだち思想」そのものであるし、炎天下、外野のさらに遠くで声を上げさせられている野球部一年生は、野球の練習よりも、苦しさを我慢することで上達の悲願を達成しようとする「ものだち思想」の宗教行事を行っているといえる。

“戒物思想”也渗入到了日常生活中,可以说孩子发烧时彻夜看护的母亲就是典型。守在旁边不睡和孩子发烧没什么关系。好好休息才可以做出正确判断吧。但是,日本的母亲想看护在旁边。这是一种宗教。以加班为名拖拖拉拉留在单位就是以“不回家”祈愿“工作成就”的宗教吧。“冬季训练”当然是“戒物思想”的表现,而烈日下棒球部一年级学生被让在外场更远的地方大声练习,以忍受比棒球练习更辛苦的事情来祈愿进步。他们的做法可以说是“戒物思想”的宗教活动。

「我慢」が「幸せ」につながるという信仰が、日本人の最大の特質であり、それが日本を支えて来た。低賃金でも真面目に働く、それはその「我慢」が将来の幸せにつながると云う信仰の上に成り立つことなのである。だから、逆に定年で「我慢」の仕様がなくなる人は、将来の幸せを願えなくなる不安でさいなまれ、アメリカ人の様に定年後を楽しむことができない。年功序列も「我慢」が「幸せ」につながらなくてはならないなら、自然な発想である。かくして、日本には欧米にない社会制度ができあがった。経済成長も、モーレツ社員もこの「ものだち思想」が生み出した所産である。

把 “忍耐”和“幸福”相连的信仰是日本人最大的特点,正是这种特性支撑着日本一路走来。工资再低也认真工作,这是建立在现在的“忍耐”和将来的幸福相连的信仰之上的。因此,因退休无法再“忍耐”的人就会被没办法祈愿将来幸福的不安折磨,也就不能像美国人那样享受退休生活。年功序列也是把“忍耐”和“幸福”联系起来的自然的想法。就这样日本完成了欧美所没有的社会制度。经济成长期为工作拼命的职员也是“戒物思想”的产物。

このように、何から何まで、日本の特殊事情というのは「ものだち思想」で説明される。経済発展までもを宗教的発想で解明しようとするのは、けっしてこじつけではない。ウエーバーの「プロテスタンティズムと資本主義の倫理」だって結局これと同じたぐいの事をヨーロッパの宗教事情について延べ立てているのである。「ものだち思想」こそ日本の本質なのである。

像这样,日本的特殊状况无论什么都被用“戒物思想”说明。连经济发展都要用宗教思想来阐明绝不是牵强附会。韦伯的《新伦理教与资本主义精神》也多次把与此相似的事情和欧洲的宗教状况联系。“戒物思想”才是日本的本质所在。

この発想が日本人の心にしみついた独自のものであるとすれば、そう簡単にはなくならない。新しい技術の世の中になったたなったで新たな「ものだち思想」の展開がうまれる。しかし、ものごとは永遠ではありえない。若い世代にこの発想が希薄になってきたとき、日本が本当に変わって行く。社会生産の経済機構すら根底からひっくり返るからである。

如果把这种想法作为日本人内心独特的东西来看就没那么简单了。进入新技术世界新的“戒物思想”也就产生了。但是,事情不可能一成不变。年轻世代的这种思想变得淡薄的时候,日本也就开始变化了。因为社会生产的经济机制也是从根底垮台。