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水道といっても、今のように台所で蛇口をひねって、水がジャーと出るということではもちろんない。江戸には初期から飲料水を確保するシステムがあった。水道。まさに水の道である。

虽说是自来水,江户时代的自来水当然也不是现在那样,厨房里扭开水龙头就有水哗哗流出。江户初期,确保饮用水的系统就已形成,即“水道”,这可是货真价实的水流之道。

家康が江戸幕府を開いたのが慶長8年(1603)。しかし、一朝一夕にして開府したのではなく、天正18年(1590)頃からいろいろ準備を始めていたようだ。飲み水の確保のためだけではなく、洪水を防ぐために川の付けかえをしたりして、河川を整備した。治水は、幕府を開く開かないにかかわらず、城下町経営の上で必要だったということだろう。

庆长8年(1603年),家康设立了江户幕府。然而,开府并非一朝一夕,从天正18年(1590年)起,各种准备就已经开始进行了。不仅仅是为确保饮用水,还为预防洪水进行改道工程,治理整治河川。治水是管理城下町的必然需求,无关幕府设立与否。

本格的な「神田上水」は寛永6年(1629)頃に完成し、江戸市中へ給水した。当時、江戸の都市造成は急ピッチで進んでいて、武家屋敷の急増、町人人口の増加など、飲料水の確保が急務だった。神田上水の主水源、井の頭池。現在のJR吉祥寺駅近くの井の頭恩賜公園にある。つまり、神田上水は、神田川を利用してつくられた。

正式的“神田管道”完工于宽永6年(1629年),给江户市区供水。当时,江户的都市建设正进行得火热朝天,武家公馆迅速增加,町人的人口也不断膨胀,因此饮用水的确保就成当务之急。神田管道的主要水源来自井之头池,位置就在现在JR吉祥寺车站附近的井之头恩赐公园。也就是说,神田管道是利用神田川修筑而成的。

水源から関口(現在の大滝橋の辺り)までは自然流を改修して利用し、関口で堰き止めて水位を上げ、神田川の北側にもう一本「白堀」といわれる水路をつくった。そして、水戸邸内(現在の後楽園辺り)を通して、神田川を懸樋(かけひ)で渡した。これが「水道橋」だ。現在の水道橋の名前はここからきているが、当時はもう少し下流(お茶の水駅側)にあった。

从水源地到拦河坝(现在的大龙桥附近)这段利用自然水流,在拦河坝将水流拦截,抬高水位,又在神田川北侧另建一条水路,称为“白堀”。就这样,神田川的水流经水户官邸(现在的后乐园附近),通过水管输送供水,这就是“水道桥”,现在水道桥的地名来源于此,而在当时,水道桥稍处在其下游,即今天的御茶水车站附近。

御茶水水道桥

江戸の発展はそれでも飲料水不足で、幕府は、承応3年(1654)に「玉川上水」を完成させた。水源を多摩川に求め、羽村(現在の東京都羽村市)から四谷大木戸(現在の新宿区四谷)までの約43キロメートルの水路をつくり上げた。当時は、水は高い所から低い所へ流れるという自然流下式だから、工事も気の遠くなる話である。

即便如此,饮用水还是未能满足江户的发展,于是幕府又于承应3年(1654年)完成了“玉川管道”工程。水源引自多摩川,在从羽村(现在的东京都羽村市)到四谷大木户(现在的新宿区四谷)之间修筑成一条长达约43公里的水路。在江户时代,引水方法是让水自动从高处流向低处的自流式,因而工程也可谓旷日持久。

水道桥

神田川を渡った神田上水や、四谷大木戸へたどり着いた玉川上水は、地下に張り巡らされた木や竹、石製のいわば水道管を通って上水井戸に溜められた。それをで汲み上げて使ったのである。

流经神田川的神田管道、到达四谷大木户的玉川管道通过铺设在地下的木制、竹制或石制的引水管道,蓄积在管道井中,水桶吊入井中即可汲水。

懸樋

湧き水や近くの小さな河川に飲料水を求めていた時代に、江戸という大都市の出現は、それなりの都市機能が必要だった。当時のロンドンでさえ、地上の小規模な人工水路で市内に給水していた頃である。「水道の水で産湯を使った」ことは、江戸っ子の自慢

在人们前往泉水或附近小河寻求饮用水的时代,江户这一大都市的出现需要相应的城市功能。就连当时的伦敦,也处在用地上的小型人工水路进行市内供水的时代。所以说,“咱家儿女出生用自来水洗澡”,的确是江户子的骄傲。

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