巻第一 17~19 額田王が近江の国に下った時に作った歌
 
17
味酒(うまさけ)三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の際(ま)に い隠るまで 道の隈(くま) い積るまでに 
つばらにも 見つつ行かむをしばしばも 見放(みさ)けむ山を 情(こころ)なく 雲の 隠さふねしや
 
18
三輪山を しかも隠すか 雲だにも 情(こころ)あらなも 隠さふべしや (这首尤其不错)
 
19
へそかたの 林のさきの 狭野榛(さのはり)の 衣(きぬ)に付くなす 目につくわが背

记住 是5 7 5 7 7 的节奏。
也就是说5个假名 7个假名 5个假名 7个假名 7个假名
(当然也会有增加或减少的现象 按照分句来念 就可以了)


意味

<17>
なつかしい三輪の山よ、あの山が奈良山の山の間に隠れてしまうまで、道の曲がり角が幾重にも重なるまで、よくよく振り返り見ながら行きたいのに、何度でも望み見たい山なのに、無情にも雲がさえぎり隠してよいものか。
 
<18>
なつかしい大和の国の三輪山を、なぜそのように隠すのか、せめて雲だけでも思いやりがあってほしい。隠したりなんかしないでほしい。
 
<19>
へそかた(三輪山)の、林の先端の野榛が衣によく付くように、よく目につく私の愛しい人よ。

歌人介绍

額田王(ぬかたのおおきみ)

万葉初期の代表的な女流歌人。鏡王(かがみのおおきみ)の娘で、額田女王とも書く。生没年は不詳。はじめ大海人皇子(おおあまのおうじ·後の天武天皇)に召されて、十市皇女(とおちのひめみこ)を生んだが、後に天智天皇に愛され、近江の大津宮に仕えた。

作品はおもに斉明·天智朝の公的な場面におけるもので、天皇の代理として、あるいは群臣の代弁者として歌を詠む専門的な宮廷歌人の最初といえる。巻一には、西征する軍団の出航時の歌「熟田津(にぎたづ)に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬいまは漕ぎ出でな」があるが、これは老齢の斉明天皇に代わって詠んだ歌とされる。巻ニの春秋優劣歌などの対句表現には中国文学の影響をみることができ、中国文学の教養をもつ女帝治世下の宮廷歌人として重要な位置を占めている。

天智·天武天皇との三角関係をしめすとされた巻一の「あかねさす」以下の贈答歌は、たいへん意味深長だ。前の夫(大海人皇子)の人目をはばからない求愛の行為に対し、口ではそれをたしなめながらも、心ではひそかに思い慕っている心情を吐露、いっぽう大海人皇子の返歌は、自分の思いを豪放率直に表出している。この時、大海人皇子は40歳くらい、額田王は35歳くらいで、当時としてはもうかなりの年配であり、宴席での戯れの歌とする説が強い。

しかしながら、この贈答には単なる戯れでは片づけられない心の葛藤が感じられる。それはその後の壬申の乱に至る歴史を見るとき、より強く思われてならない。

説明

663年の白村江の戦いで唐·新羅連合軍に大敗した中大兄皇子は、唐の侵略に恐れおののいた。そのため、都を内陸深く近江に遷し、各地に城を築いた。しかし、『日本書紀』によれば、この遷都は民には喜ばれず、風刺の童謡が歌われたり原因不明の火事が相次いだという。そうしたなか強行された遷都の途上、額田王が中大兄皇子になり代わってこの歌を詠んだとされる。18は17の長歌に添えられた反歌。19は左注に、「今考えると、唱和の歌とは思われない。ただ、旧本にはこの順に載せているので、このまま載せておく」とある。

三輪山(奈良県桜井市)は山全体が大神(おおみわ)神社の御神体であり、しばしば祟りを及ぼすと畏れられていた。そのため、山の魂を鎮め、同時に自分たちの行路の安全と新都の繁栄を祈りつつ、朝夕見慣れた三輪山との別れを惜しんだ。長歌に詠われている、道の曲がり角ごとに幾度も振り返ってなつかしむさまは、国境を越える際の儀礼だったという。

またこれらの歌は、額田王の、愛する大海人皇子との別れ、中大兄皇子に従って近江に下らなければならない切ない気持ちを表したとする見方もある。