第八届“荣鼎奖”全国青年日语高级翻译口译大赛初赛投稿原文

    如何にして子供に聞き喜ばれ読み楽しまれる文学作品を創作するか

  私が生まれたのは、北海道小樽市で、日本軍が中国東北で「九・一八事変」を起こし、本格的に中国侵略を開始した一九三一年の七月でした。小学校へ入ったのが、また日本軍が「盧溝橋事変」で中日戦争を開始した翌一九三八年四月でした。その夏、小樽市で看板店を開いていた父が、何を思ったのか、中国へ行ってみたいといいだし、単身、華北を訪れました。

 そして、当時の日本軍司令部の斡旋で、北京の王府井大街の裏通りで看板店を開くことにしました。それから父は一年に一度、日本に帰国するようになりました。父は中国が好きになり、中国人の先生について北京官話を習い、中国の人たちとも交際するようになりました。その父は、日本人は中国人を馬鹿にしているが、それは大間違いだ、中国の昔からの文化を少しでも知ったら、その偉大さがわかると私に聞かせたものです。

  父が中国へ行くようになり、私たちは北海道と違い、雪のない東京に近い、湘南の平塚市へ転居しました。そのために小学校も転校しました。しかし、そこは余所者を嫌う土地柄で、私は小学校を余所者の転校生として、過酷ないじめに逢いました。今思い出しても胸が痛むような扱いで、私は幼心にも人間の子どもはどうして、これほどにも残酷なことが出来るのだろうかと思い悩んだものでした。けれども歳月が過ぎると、私をいじめていた子たちは、私に対するいじめにあきたのと、多少の成長のためか私へのいじめもなくなりました。

 私は級友たちには父から聞いた中国の話は絶対にしませんでした。一度、中国人は日本人以上に我慢強いという話をしたため、私の父は中国のスパイだという噂を流されたからです。

 一九四一年一二月八日、日本は中日戦争を続けたまま、太平洋戦争を開始します。私は小学生のころ幼い弟妹を寝かしつけるために、彼等に昔話を聞かせましたが、あるときから、思いつくままにでまかせの即興で作り話をするようになりました。中でも私をいじめた年上の子をモデルにし、彼のたちの悪いいじめの模様をリアルに再現し、最後には私がメチャクチャに仕返しをするという話が滅法喜ばれました。つまり、私は現実にはいじめっ子に太刀打ち出来ませんでしたが、想像の中では、その憎らしいいじめっ子を「これでもか、これでもか!」というように、いじめられたことの何倍もの、すごい仕返しをして溜飲をさげたのです。もしかすると、そういうことが欲求不満を解消し、いじめに堪える力をつけてくれたのかも知れません。

  さて、太平洋での日本軍の行動は次第に敗色に覆われ始め、中日戦線でも手も足も出ない状態になり、日本本土もアメリカ空軍の爆撃で主な都市は焼け野が原となり、遂に一九四五年夏、日本は連合国であった米英中ソに降伏しました。そのとき私は中学二年生、満一四歳でした。それまで、私の層来の希望は職業軍人になることでした。学校でも天皇のために死ねる軍人になれという教育でしたから、将来は職業軍人になるという希望は、ごく普通のものでした。けれども、日本が敗戦した結果、日本の始めた戦争は犯罪的な侵略戦争であったことが明らかになり、日本は軍備を持たない平和国家に生まれ変わることになりました。私の職業軍人になるという将来の夢は雲散霧消してしまいました。 そんな時に私は宮澤賢治という作家の短編童話を読んで感動し、自分もこういう物語を書く作家になりたいと思うようになりました。私がそれまでに読んだ多くの子どもの本の物語は、日本の天皇は世界一尊い方であるとか、日本は世界一優れた神の国であるとか、日本の軍隊は世界一強いとか、日本が大東亜共栄圏を建設して、アジアの盟主になることが定めれているといったようなものが多く、私たち子ども読者は、それにみごとに騙されてきたのです。そこで私は武力や国際暴力などに拘わらない、真に平和で、楽しく、面白い子どもの物語を書く作家になりたいと思うようになり、高校生のころから児童文学の習作を始めました。

 そのころ早稲田大学には早大童話会という研究グループがあり、そこから多くの児童文学作家が巣立ちました。一九五〇年、私も早稲田大学へ入学し、その早大童話会にも入会しました。けれども当時の日本の児童文学は伝統的に大変生真面目で教訓的で、しかも長編がなく、短編が主流でした。早大童話会の学生たちは、その伝統派に抵抗して、リアリズムに立脚した少年小説を目指そうとしました。私もその一員でした。

 当時、日本の出版業界は不況時代といわれ、その中で児童書を専門にする出版社も親が安心して薦められる西欧の古典的名作の焼き直しで、何とか体裁を保っているような状態でした。そのために日本の新人の児童文学作家の長編を出版するなどということはまるで、奇跡だと思われていました。

 一九五五年、大学を卒業した私は、看板製作の画工をしながら、早大童話会出身の仲間たちと「小さい仲間」という同人誌を出し、私はそれに『赤毛のポチ』という長編物語を連載し、それが評判になりました。一九五七年頃、丹野節子さんという方が中日文化交流の会に出席された際に、「小さい仲間」の何部かを中国側に手渡しました。それがきっかけで、当時、中国の外国文学紹介誌「訳文」に「明天日本児童文学的旗手・山中恒」として紹介され、私にとっては誇らしく、また励みになりました。

 一九六〇年、創作長編児童文学の出版を始めた理論社という出版社が、私の作品『赤毛のポチ』と『とべたら本こ』(『我的名字叫一男』訳叶榮鼎・二〇〇九年・湖南少年児童出版社)を出版してくれました。
 それから児童文学作品の出版が盛んになりました。学校でも民間でも読書運動が盛んになりました。けれども、『この作品を読んで何かを学ぼう』というテーマ主義的作品が、氾濫し始めました。「作品として面白くなくても、テーマ=作品の狙いが優れていればよい」といった傾向が主流になり始めました。つまり一種の教材主義です。しかし、そのような傾向の本が、多くの子どもに歓迎されるわけがありません。そこへ漫画ブームが来ます。児童文学の本はますます子どもから敬遠されるようになりました。

 私は教材主義的学習的な物語は、そちらの傾向を持った多くの作家たちにまかせることにして、とにかく子どもが、げらげら笑いながら面白がって読んでくれるような読物の創作に専念することにしました。早大の大先輩であった坪田譲治という作家が「児童文学の作家になれる資質のある者は、自分の子ども時代のことを昨日のことのように思い出せる者だ」といいましたが、それは本当だろうと思います。それと子どもが面白がることを今でも面白いと思える子どもの感性を共有できることも重要だと思います。私は、漫画に対抗するのではなく、文字でそういう面白さを表現したいと思うようになりました。そしてはからずも、昔、幼い弟妹に作り話をしてやって、喜ばれたことを思い出したのです。「そうだ! あの調子で、子どもたちを面白がらせる物語を書いてやろう」というわけです。

 子どもたちは冒険物語が好きです。また妖怪、幽霊、お化けにも恐怖心を抱きながらも興味を持っています。超常現象といわれる不可解なものにも興味を抱いています。例えばドッペルゲンガーと呼ばれる現象、中国の仙人談にもよく登場しますが、霊魂が肉体から遊離してあちこち飛び回るという現象。つまり自分本人が山の上にいるはずなのに、もう一人の自分が海にいるというへんてこな現象です。そういうのが大好きです。しかも子どもは意外にも教訓的因縁話とか因果応報て復讐談が好きです。その一方で親子関係の厳しさに強烈な抵抗感があり、そこからの脱出を願望しています。それは否定すべきことではなく、ある種の成長現象のもたらす感情とも言えるでしょう。

 私はそうした子どもの興味心に見合う面白くて魅力的な物語を書きたいと思い、事実、書き続けて来ました。私にとって、最早、日本の戦前の児童文学伝統も戦後新教育児童文学も興味はありませんでした。ひたすら子ども読者と物語の中で楽しみ遊ぼうと心がけたのです。私に取っては児童文学の批評家が何を言おうと意に解しませんでした。そのために山中恒の作品はただ漫画を活字にしただけではないかとの悪口も言われましたが、私は否定も肯定もせずに、読者の子どもたちと楽しむことだけに専念してきました。その間、私の児童文学関係の著書が二〇〇点ほどになりました。この数の中には改訂版などのものも含まれておりますが、これも子ども読者の支持があったからだと自負しております。

 またその間、叶榮鼎さんの翻訳で、すでに二〇点ほどが中国の子ども読者の手に渡っております。すでに五年前の二〇〇六年に書いたことの繰り返しになりますが、その中の何点かを例に挙げておきます。二〇〇五年、広東教育出版社から刊行された『ぼくがぼくであること』(『不再離家出走』)も一種の親子関係断絶、家出願望が主題になっています。私は人生というものは、時間軸を中心として螺旋状に回転上昇していくもので、同じ位置にもどっても、すでに時間軸の数値が変わっています。つまり時間経過によって強烈に自分を縛りつけているものごとも客観的に見ること出来るようになります。そして家出した少年も、成長した少年としてもどってくるという物語で、原作は韓国でも出版され、日本では文庫化されて、今もなお売れ続けています。この作品が発表された時、多くの知り合いの母親たちから、この母親は自分をモデルにしたのだろうと抗議されたものである。

 また二〇〇六年、上海少年出版社から刊行された『くたばれかあちゃん』(『口阿口約 媽媽』)も、強烈な自己主張を子どもに押しつける母親に抵抗する息子の話です。母親に憎まれ口をたたきながら実は母親が大好きだという話です。しかし題名故に私は母親たちを敵に廻すという苦い経験を味わいました。
 また同じく上海少年出版社の『おれがあいつであいつがおれで』(『我是女也 、女也 是我』)は霊魂が入れかわる超常現象物語です。男女入れかわることで男女の体の差や感情の差、あるいは異性から観た自分といったアイデンティティーをさぐるといった物語で、これは日本では大林宣彦監督の手で映画化され、『転校生』の題名で大ヒットしました。また何度もテレビドラマ化されました。原作はフランス、ドイツ、オランダ、韓国でも翻訳出版され、『Change』の題名で韓国でも映画化され、そのversion は何度かテレビドラマ化されています。この映画は再び大林監督によりリ、二〇〇七年にメークされました。
  同じく上海少年出版社から出された『ぼくがもうひとり』(『阿壮想做男子漢』)は、これもドッペルゲンガーの一種で、自分がもう一人現れて、それが自分のできないことをやってくれるという願望の物語です。これなども元をたどれば、私自身の幼い頃の出任せ話の延長かもしれません。

  『こんばんはたたりさま』(『尋捜報復神』)も一種のお化け話ですが、道徳的な因果応報的な要素をふくんだもので、日本の子ども読者もこわがりながらも面白がって読んでくれました。これも「いじめ現象」への異議申し立てみたいなものです。つまり人を理不尽な目に遭わせると、何時かはその理不尽なことが自分にも襲いかかるという不気味な物語です。

  今、日本の子どもたちの多くはテレビゲームのソフトに夢中になっており、あまり読書に興味を示さなくなりました。しかし読書は人の心理的感情成長の栄養源補給のようなものです。それだけに、私はこれからも、このような子どもの興味心に見合う、空想的、幻想的、諧謔的な物語を書き続け、子どもの読書慾を刺激したいと思っています。

  また一九七〇年代に、日本の児童文学界に「戦争児童文学」というジャンルの児童書のブームがきました。私はそれらの児童文学作品を読んで、ある種の苛立ちを覚えました。それというのも、年表的誤差や戦後明らかにされたことが、恰も戦時中に判明していたかのような虚偽、或いは戦時生活で絶対に起こりえないことがしばしば起こるでたらめぶりに腹を立てたのです。そんなことから、自分の少国民時代―戦時下の日本では、子どものことをそのような名称で呼んだのです―の被教育体験を検証する『ボクラ少国民』という全六巻の戦時教育史を書きました。また、それが契機となり、成人向けの戦時史関係の研究書を三〇点ほど出版してきました。

 その一貫として二〇一〇年一一月、『戦時児童文学論』を出版いたしました。それは戦時中、日本の児童文学作家たちがどれほど日本の戦争を聖戦と賛美し、大日本帝国の素晴らしさを描いたかということを当時の彼等の作品そのものに触れて明らかにしたものです。今、その続編として『戦時児童文化論』の執筆に取り組んでおります。

 また、最近、中国の少年少女に人気だという金庸先生の一連の武侠小説『書剣恩仇録』、『射鵰英雄伝』、『秘曲 笑傲江湖』、『椅天屠龍記』などに目を通しました。なるほど、これなら中国の少年少女たちも楽しく読むだろうなと思いました。それぞれに美少女剣士趙敏、ホチントン、李沅芷などが登場するあたりは、私がこれまでに書いた悪童読物にも共通するものがありました。私自身は武侠小説を書いたことはありませんが、これを機会に、日本を舞台にした少年武侠小説にでも挑戦して、金庸先生のように日本の少年少女たちを楽しませてやろうかなとも思っております。(山中恒)

初赛投稿:于2011年06月08日下午1时开始,至至2012年5月8日晚上12时截稿(以邮件发送的时间为准), 参赛选手务必将译文同时投入本赛邮箱:jmw560721@,并请注明投稿人的姓名、邮编、住址、邮箱、手机、电话、身份证号码、出生年 月日、支付宝汇款凭证编号、最终学历及其毕业学校、翻译口译指导教师姓名与该教师口笔译业绩或者翻译口译培训机构名称。

参赛选手务必通过支付宝将参赛报名 费100元汇至:yrd555685@(第八届荣鼎奖全国青译赛账户),并请注明“参赛报名费”。未交报名费者的参赛译文无效。