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幕末の英雄、桂小五郎は逃げてばかりいた?!
桂小五郎は、幕末から明治維新にかけて活躍した倒幕の中心人物である。実際は
ヒーローとしてのイメージから程遠い、逃げてばかりいたという記録が残っているそうです。
幕末的英雄桂小五郎经常逃跑?
桂小五郎是活跃于幕末到明治维新的倒幕中心人物。而实际上,他和英雄的形象相距甚远,留下的记载显示,他总是逃之夭夭。
注:因为遁逃技术甚佳,又被称为“逃跑小五郎”
【池田屋事件】
彼は定刻より早く着いたため、向かいの因州屋敷で碁を打っていて襲撃を逃れたようです。
禁門の変
池田屋事件
由于比预定时间先到达,他前往对面的因州官邸下棋,侥幸逃过了袭击。
禁门之变
找了借口未参加战斗。
その後、会津藩に掴まりますが、大便をしたいと偽りスキを見て逃げ出したそうです。なぜ、こんなにも逃げ出すことが出来たのか……それは、幾松という京都の三本松の芸者をスパイとして雇い情報を得ていたからだそうです。
后来被会津藩拘留时,他假装如厕,趁看守大意逃之夭夭。为什么每次都能成功逃脱呢?据说是因为雇佣了京都三本松的艺妓几松作间谍,搜集了信息。
明治時代、美男子コンテストが行われていた?!
1910(明治43)年9月22日、毎日新聞の前身である毎日電報が新聞紙上で美男子を募集したところ、1000通もの応募があったそうです。
明治时代曾举行过美男选秀?
1910年(明治43年)9月22日,每日新闻社的前身每日电报在报纸上征募美男,收到了1000封报名信。
優勝は加賀前田家の
末裔『前田利彭(まえだとしちか)』!!この後、前田利彭は前田家から追放されたそうです(理由は不明です)。美男子コンテストの開催理由としては、日露戦争に勝利した日本が海外に向け、「日本にはこんな立派な男子がいる」と知らしめようとしたためだそうです。
优胜者是加贺前田家的后裔前田利彭。后来,前田利彭被前田家赶出家门(原因不明)。说到美男选秀的举办理由,据说是日俄战争胜利的日本为了向海外宣传“日本男子的气派”。
「マジ」という単語は江戸時代から存在
えっ!?マジで?
1810年頃に演じられた、鶴屋南北作「当穐八幡祭」(できあき やわたまつり)という歌舞伎に「ほんに男猫も抱いて見ぬ、マジな心を知りながら・・・」というセリフがあるそうです。マジでマジが使われてますw
“まじ”一词早在江户时代就已存在
哎!当真?
1810年公演的鹤屋南北所作的歌舞伎《当穐八幡祭》中有这样一句台词:“抱一抱公猫,便知他真实的心”。当真用上了“まじ”ww
平安美人は、おしろいが剥がれ落ちるのを避けるため、極力笑わなかった
平安文学には「ものを食べた」とか「笑った」という情景を描いたものがほとんどないそうです。貴族の女性はおしろいを厚く塗っていたため、顔の
筋肉が動かしにくく、無理に動かせば剥がれ落ちたらしいのです。誰も人前で笑わないので、それがいつのまにか上品とされるようになったんだとか。
平安时代的美人为了防止化妆粉脱落,极力避免发笑。
平安文学中,几乎找不到“吃东西”或是“笑起来”之类的情景。贵族的女性由于在脸上涂了一层厚厚的白粉,运动面部肌肉也就不太灵活了。若是过度运动白粉就会脱掉。大概因为她们经常不苟言笑,不知不觉便被视为文雅的举止了吧。
猫は仏教伝来とともに中国から渡ってきた
喵星人是随着佛教一起从中国传到日本的
理由は、大切な経典をネズミから守る為なんだとか。
据说理由是为了保护珍贵的佛经不被老鼠咬毁。
最澄と空海は本の貸し借りで喧嘩して絶交した
813年11月、最澄が「理趣釈経」の借用を申し出たのですが、空海は「文章修行ではなく実践修行によって得られる」との見解を示して拒絶、それ以後、交流は相容れなかったそうです。
最澄与空海因借书争吵绝交
813年11月,最澄向空海提出借阅《理趣释经》,而空海则予以拒绝,认为“(了悟佛理)不应由阅读经典得来,而应实际修行”,从此以后,两人再也没来往过。
日本古来の五重塔の耐震性は、高層ビルより優秀
京都の東寺五重塔、奈良の興福寺五重塔など、日本古来の木造塔の耐震性が、現代の高層ビルよりも優れていることが、大阪工業大工学部の教授(地震工学)の調査で分かったそうです。塔の振動周期(揺れの往復にかかる時間)が、同じ高さの鉄筋コンクリート建造物より長く、地震の揺れと共振しにくいためなんだとか。
日本自古留存的五重塔,耐震性强过现代高楼
据大阪工业大学工学系教授的调查,京都东寺五重塔、奈良五重塔等日本古代的木造塔具有比现代高楼还强的耐震性。说到原因,据说是塔的振动周期(来回晃动所用的时间)比同等高度的钢筋混凝土建筑更长,因此就很难随地震的晃动发生共振。
江戸時代 ヒゲの武士はいない
江戸時代、戦国の遺風を嫌った幕府が大名、旗本、武士達にヒゲをつけさせないようにしました。1670年、4代将軍家綱は「大ヒゲの禁止令」まで出したそうです。ただ、あごの先のヒゲ程度については、武士以外、大目に見られたそうです。
江户时代没有蓄胡的武士
江户时代,由于幕府不喜欢战国的遗风,因此规定大名、旗本、武士们都不能留胡子。1670年,四代将军德川家纲甚至还下达了“禁留胡须令”。不过,武士以外的阶层在下颌蓄一点胡须则能得到宽大处理。
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