はじめに

日本の武士というのは、10世紀から19世紀にかけての日本に存在し、戦闘を本職とするとされた宗家の主人を頂点とした家族共同体の成員である。古代末に発生した武士はその武力で古代を終焉させ、中世社会で主導的な役割を果たして、近世で完成された社会体制を築き上げた。同義語として兵者、侍、武者などがある。
そして、武家政権は、日本史の中世から近世にかけて、武家が地方社会を実効支配する武士層を掌握した中央政権を指す。武士政権とも呼ぶ。一般には、12世紀後半の源頼朝による鎌倉幕府の設立から、1867年(慶応3年)の徳川慶喜による大政奉還まで、約680年間に渡る武家による政権を指すが、源頼朝が確立したが、形式上朝廷から任ぜられる形で征夷大将軍の位に付く事で幕府を開き、封建制とも呼ばれる分権的な統治を行い、地方領主として地域の実効支配権を持つ武士の連合政権の形をとった。武家政権の長は自己の軍事力によって政権を獲得して、封建制度的な土地所有と法律による支配を実施した。だが、その政権及びその長としての公認はいまだ中央権力としての地位を保っていた天皇による将軍宣下によって現実的な権力と貴種性の承認によって初めて確立しえた。
武士がいつ登場したかは実はとても難しい問題だ。「武士」という言葉自体は、奈良時代の史料にも見えるので、奈良時代に登場したと考えることもできる。何をもって私たちが「武士」と呼ぶのかによって、武士がいつ、どのようにして現れたかについてはいろいろな説がある。
ただ一般的には、武士は平安時代に生まれたと考えられていますので、源氏を首長とする武士集団は、源平闘争で勝利して、武士階層が国家における主導権の確立というシンボルの鎌倉幕府し、江戸時代まで続き、約680年間続いたその武士の姿を追ってみたいと思う。

1 武士とは

日本の武士は、10世紀から19世紀にかけての日本に存在し、戦闘を本分とするとされた宗家の主人を頂点とした家族共同体の成員である。古代末に発生した武士はその武力で古代を終焉させ、中世社会で主導的役割を果たし、近世で完成された社会体制を築き上げた。同義語として兵者、侍、武者などがある。
武士は社会的身分であると同時に、武芸という芸能を家業とする職業的な身分であるとも規定できる。つまり、馬上の射芸や合戦の作法を継承する家に生まれ、それを継いだ人物が武士であると言える。逆に言えば、いくら武芸に優れていて身分が高くても、出生が武士身分でない限り、武士とは認められなかった。これ以外で武士の身分を得るには、正統な武士身分の者の郎党となってその家伝来の武芸の伝授を受け、さらに新たに独立の家を起こすにあたって家芸の継承権を得るしかなかった。この道筋が子孫の増加、分家以外で武士身分に属する家系が拡大する機会となった。
また、中世になり武門の家が確立した後でも、それとは別に朝廷の武官に相当する職種が一応存在したが、たとえこの官職を得ても、武士身分出身でなければ武士とは認められなかった。ここで言う武門の家とは、承平天慶勲功者子孫(承平天慶の乱で勲功のあった者の子孫)が基本であり、その中でも「源氏」および「平氏」の諸流と藤原秀郷の子孫の「秀郷流」が特に有名である。これら以外では藤原利仁を始祖とする「利仁流」や、藤原道兼の後裔とする宇都宮氏が多く、他に嵯峨源氏の渡辺氏や大江広元が有名な大江氏などがあり、有力な武士団はこれらの家系のいずれかを起源としていた。特に下克上が一般化する以前においてこの認識が強く、戦国期の豊臣秀吉のように、百姓その他武士身分以外出身の人物は、当然、武士として認められるはずがなかった。先祖の武名によって自分の家が武士として認められていたため、彼らは自分の家系や高名な先祖を誇っていたとも言える。