5 武士が国家における主導権の確立

武士階層の形成のシンボルは鎌倉幕府の形成、武家政権はに全国への支配を強めるということである。各武家権力は、武力により政権を樹立した。源頼朝が確立したが、形式上朝廷から任ぜられる形で征夷大将軍の位に付く事で幕府を開き、封建制とも呼ばれる分権的な統治を行い、地方領主として地域の実効支配権を持つ武士の連合政権の形をとった。

5.1 源平合戦及び平氏の滅亡

治承5年(1181年)1月、高倉上皇が死去し、後白河院政が再開されたが、畿内に臨時の軍政を布くべしという高倉の遺志に基づいて、清盛は子の平宗盛を畿内周辺を直接管領する惣官に任じた。この惣官職は、畿内近国を軍事的に直轄支配することを目的に設置されたもので、平氏政権の武家政権としての性格を如実に表しており、平氏政権が本格的な武家政権へ成長していく可能性をここに見出しうると、学界では考えられている。清盛はこれにより京の富裕層から兵粮を徴収すると同時に、伊勢周辺の水軍に動員をかけて、反平氏勢力の追討に意欲を燃やしていたが、同年閏2月に熱病で急死し、平氏政権は大きな打撃を受けた。
清盛の死後、跡を継いだ宗盛は後白河との融和路線を採り、各地の叛乱も平氏の反撃と養和の大飢饉で小康状態となった。しかし、寿永2年(1183年)7月に木曾義仲の軍が北陸から一気に京へ進軍すると、義仲軍に主力を壊滅させられていた平氏は、ついに安徳天皇を伴って京を脱出し大宰府に下向するが、豊後の武士・緒方維栄に撃退され屋島にたどり着いた。この時点で平氏政権は、貴族社会に形成してきた基盤を捨て、西国の地方政権へと転落した。
平氏は、西国の勢力を再編成して軍の再建を進め、瀬戸内沿岸で義仲軍を徐々に押しやり、寿永3年(1184年)1月に義仲が鎌倉軍(源範頼・源義経軍)に滅ぼされる頃には福原を回復するまでに至っていた。平氏は、後白河の仲介による京への復帰を目指していたが、後白河にすれば平氏が政権に復帰することになれば再び院政停止・幽閉となる危険性があり、和平はありえなかった。平氏は半ば騙し討ちを受けた形で一ノ谷の戦いに敗北し、西下していった。
その後、平氏は西国の諸勢力を組織して戦争に当たっていたが、元暦2年3月、関門海峡での最終決戦(壇ノ浦の戦い)で義経軍に敗れて滅亡し、平氏政権は名実ともに消滅した。

5.2 鎌倉幕府の成立

1183年、義仲は北陸の倶利加羅峠の戦いで平氏を破る。その2か月後、義仲は京都に入り、平氏を都から西国に追いやる。いわゆる「平家一門の都落ち」だ。
しかし、義仲は後白河院と対立するようになり、頼朝の弟、義経に滅ぼされた。その後、義経らが率いる源氏の軍勢は、1184年2月の一の谷の戦い、1185年2月の四国の屋島の戦いで、平氏を破っていく。
そして1185年3月、壇の浦の戦いだ。舞台となったのは、本州と九州の間にある関門海峡でした。海上での激戦ののち、平氏軍は打ち破られてしまう。「もはやこれまで」と観念した清盛の妻は、孫に当たる幼い安徳天皇を抱いて海に身を投げ、平氏一門も次々と海に沈んでいく。
しかし内乱はこれでは終わらなかった。源氏の中で頼朝と義経の兄弟が対立を深めていったのだ。孤立した義経は、少年時代を過ごした奥州平泉の藤原秀衡のもとに身を寄せるが、頼朝の圧力を受けた息子の藤原泰衡によって殺されてしまった。頼朝はさらに1189年、その泰衡を滅ぼすとして、大軍を率いて奥州に攻め込み征服した。
平氏を滅ぼした後、頼朝は現在の岩手県、平泉に攻め入って藤原氏を滅ぼしました。全国の武士を結集させ、御家人制を確立しようとしたのだ。
 1183年には、源氏が後白河法皇から東海道・東山道の支配権を手に入れることに成功する。
さらに、弟の義経と対立が深まると、頼朝は後白河院に、義経追討のために諸国に「守護」を、荘園や公領に「地頭」を置く権限を認めさせた。奥州を征服した後には、朝廷から「権大納言」、「右近衛大将」という地位を得て、1192年、「征夷大将軍」に就任したのだ。

5.3 武家政治の最終確立

本格的な武家政権は、源頼朝が鎌倉幕府を開いた事により始まる。頼朝は、当初国衙の主として朝廷公家に追い使われていた東国武士集団反乱の旗手として登場する。しかし平家打倒の治承・寿永の乱を経て、寿永2年/治承7年(1183年)に後白河院から東国における統治権的支配権(東海道・東山道の実質的支配権)を認める寿永二年十月宣旨を与えられる。そして右近衛大将に任じられるがすぐに辞任し鎌倉に戻り翌建久2年(1191年)正月に前右大将として「政所吉書始」を行い家政機関を設置する。これが発展し鎌倉を本拠とした地方政権を樹立し、東国を中心に守護と地頭の設置を朝廷に認めさせる。その武家権力としての独立性を保つ機構を作るために近衛大将より格下の征夷大将軍に任ぜられ、その権力機構として幕府を開いた。この時点ではまだ東国中心の地方政権であったが天皇・上皇と並ぶ武家権力が誕生した。その武家権力としての独立性を保つ機構を作るために近衛大将より格下の征夷大将軍に任ぜられ、その権力機構として幕府を開いた。この時点ではまだ東国中心の地方政権であったが天皇・上皇と並ぶ武家権力が誕生した。頼朝とその子らの源家は三代で滅びるが、外戚でもあった御家人の北条氏は、摂家から藤原頼経を迎えて将軍へと就任させ以後「宮将軍」を続け、自身は執権として政権を握る。幕府は承久の乱で鎌倉の武家権力が朝廷権力に勝利して、旧平家領にも守護地頭を起き支配権を全国に広げ、ついに初の全国統一の武家政権となった。そして次第に朝廷へ介入し、地頭は国衙領や荘園へ浸食し、武家政権は徐々に全国への支配を強めた。

5.4 武家政治は日本封建社会への影響

封建制度が国家や社会の基盤となっていた時代。一般に、日本では鎌倉時代から明治維新までの武家政治の時代をさす。
武家政権の長は自己の軍事力によって政権を獲得して、封建制度的な土地所有と法律による支配を実施した。
武士が中央集権的封建制を確立し、社会の基本構造としての主従関係をもとにした封建制が、貴族政治や武家政治という形態を変えながらも継続していく中で、社会や共同体そのものの問題、つまり、その社会システムの構造を取り扱うことと、個人の在り方を問う道徳的な事柄とが徐々に区別され、社会システムの構造そのものを問うことがタブー視され、個人の人間関係の在り方だけを問う道徳的な問題だけが倫理的関心の主流になっていった。日本の近世以降の封建社会における武士階級の倫理及び価値基準の根本をなす、つまり武士道である。
武家の思想は、教育による家族制度の徹底化や徴兵制による軍事国家など明治近代日本に変化した形で生き残ってその後の日本を生み出す元になった。