4 武士集団の発展

承平天慶の乱以降は、その平将門を滅ぼした天慶勲功者、藤原秀郷、平貞盛、平公雅、そして源経基の子孫達が、「朝家の爪牙」となっていったが、その彼らが兵として認識されるには、一定のプロセスが必要であった。個人としてはまずは武官の地位を得ることだろう。近衛府、兵衛府は形骸化し、実際には衛門府と、左衛門尉が兼任する検非違使、馬寮、そして滝口、武者所、院政期においては北面武士である。
家系としての「兵の家」の形成過程で忘れてはならないのが、10世紀後半に現役武官ではないのに「朝家の爪牙」として動員されたことである。「大索」「盗索」と呼ばれ「武勇に堪えたる五位巳下」として天慶勲功者の子孫達が招集された。

4.1 源氏の大活躍

清原清衡の父は、もともとは平将門の乱で功績を挙げた藤原秀郷の子孫といわれている。それが東北へやってきて安倍氏の娘と結婚し、生まれたのが清衡だった。ところが、前九年合戦で安倍氏が滅び父も死んだため、清衡は母とともに清源氏に引き取られていた。
後三年合戦で勝った後、元の藤原氏を名乗りました。そこで、清衡、基衡、秀衡の三代を奥州藤原氏と呼ぶのです。
一方、清衡と一緒に戦った源義家はどうなったかというと、この戦いを中央政府に報告し褒賞=ご褒美を求めたが、政府はあくまでも清原氏の内紛であって国家に対する反乱ではないと判断し、そのため義家は何も得ることができずに、陸奥守の任期終了と共に都に戻っていきた。
ところが通説では、前九年・後三年合戦を通して源氏は東国武士との間に強固な主従関係を築き、「武士の棟梁」になった、とされてきた。

4.2 源氏の衰微及び平氏との闘争

10世紀末から11世紀にかけて、同族平致頼との軍事抗争に勝ち抜き、軍事貴族としての地位を固める。だが、当初は河内源氏ほどの勢力を築き得ず、白河上皇の院政期前半までは辛うじて五位であり、当時の貴族としては最下層(侍品)であった。伊勢平氏の家系は桓武平氏の嫡流の平国香、平貞盛の血筋であり、他の坂東八平氏に代表される家系と同様に、関東に住した。しかし、次第に清和源氏の有力な一党である河内源氏が鎌倉を中心に勢力を拡大し、在地の平氏一門をも服属させていった中で、伊勢平氏の家系は源氏の家人となることを潔しとせず伊勢国に下向し、あくまで源氏と同様、朝廷や権門貴族に仕える軍事貴族としての道を歩んだ。
その後、伊勢平氏は藤原道長のもとで源頼信らと同様、道長四天王とまでいわれた平維衡以来、源氏と双璧をなす武門を誇ったが、家系や勢力、官位とも河内源氏の風下に立つ存在であった。しかし、摂関家の家人としてその権勢を後ろ盾に東国に勢力を形成する河内源氏に対して、伊勢平氏は西国の国司を歴任して瀬戸内海や九州を中心とした勢力圏を形成し次第に勢力をかためていった。
さらに、摂関家の支配が弱まり、天皇親政が復活した後三条天皇以降、源平間の形勢は次第に逆転へと向かい、父と親子二代で前九年の役、後三年の役を平定し、武功と武門の棟梁としての名声、地方武士からの信頼ともに厚かった河内源氏の源義家に対する朝廷の警戒が強まり、白河法皇の治世下においては次第に冷遇されていくようになった。ことに勢力を伸張させて以降、河内源氏は仕えていた摂関家に対する奉公も以前のようでなく摂関家と疎遠になりつつあったこともあり、次第に後ろ盾をなくし勢力を減退させていった。一方伊勢平氏の棟梁である平正盛は伊賀国の所領を白河院に献上したこともあり、北面武士に列せられる栄誉を受けるようになり、次第に伊勢平氏が院や朝廷の重用を受けることとなり、伊勢平氏が河内源氏を凌ぐ勢いを持つようになった。
殊にその流れを決定づけたのは、源義家の次男で河内源氏の後継者と目されていた対馬守の源義親が任地での濫妨により太宰府より朝廷に訴えがあり、流罪となり、その後も流刑地である隠岐国においても濫妨に及んだため、伊勢平氏の平正盛による追討軍により、討たれたことによる。その後、1107年に出雲で反朝廷的行動の見られた源義親の追討使として因幡国の国守に任ぜられる。翌年、義親を討伐したという触れ込みで、義親の首級と称するものを都へ持ち帰った。
その子、正盛の子平忠盛も鳥羽上皇の時に内昇殿を許され、殿上人となり、刑部卿にまで累進するなどの寵愛を受け、平忠盛は次第に公卿に準ずる地位にまで家格を上昇させるに至った。正盛は備前・伊勢などの国守を歴任し、忠盛は播磨・伊勢の国守となる。これが後の伊勢平氏の豊かな財政の基礎となった。
 平忠盛の死後、平清盛が継ぎ、保元の乱・平治の乱を制し、従一位・太政大臣にまで昇進して天下人となり、「平家」一門の栄華を築き上げる。

4.3 源平氏の台頭

仁安3年(1168年)、六条天皇が退位して憲仁親王が即位した(高倉天皇)。高倉の即位は、清盛だけでなく、安定した王統の確立を目指していた後白河も望んでいたものであり、後白河と清盛は利害をともにする関係にあったといえる。この時期まで後白河と清盛の関係は良好であった。清盛の家系は、代々院に仕えることで勢力を増してきたのであり、清盛も後白河の院司として精力的に貢献を重ねてきた。応保2年(1162年)、後白河が日宋貿易の発展を目論んで摂津の大輪田泊を修築した際、清盛は隣接地の福原に日宋貿易の拠点として山荘を築いているが、このことは、後白河と清盛が共同して日宋貿易に取り組んでいたことを示している。
清盛は、若い頃から西国の国司を歴任し、父から受け継いだ西国の平氏勢力をさらに強化していた。大宰大弐を務めた時は日宋貿易に深く関与し、安芸守・播磨守を務めた時は瀬戸内海の海賊を伊勢平氏勢力下の水軍に編成して瀬戸内海交通の支配を強めていった。更に瀬戸内海航路や摂津の大輪田泊を整備して大量の宋銭を輸入し、国内で通貨として流通させ莫大な利益を得た。こうして涵養した実力を背景として、清盛は後白河と深く結びついていた。
また、基実が死去した際、清盛は摂関家が蓄積してきた荘園群を基実の正室・盛子に伝領させた。これにより清盛は厖大な摂関家領を自己の管理下へ置くことに成功した。摂関家を嗣いだ基房は伊勢平氏による押領だと非難したが、この事件は摂関家の威信の低下を如実に表しており、清盛一族は大きな経済基盤を獲得した。
以上に見るように、政治世界における武力が占める比重の増加、後白河と清盛の強い連携、後白河と滋子の関係、高倉の即位、清盛の大臣補任、日宋貿易や集積した所領(荘園)に基づく巨大な経済力、西国武士や瀬戸内海の水軍を中心とする軍事力などを背景として、1160年代後期に平氏政権が確立した。
この時期、後白河は院政の強化を図っており、清盛の子の重盛に軍事警察権を委任し、東海道・東山道・山陽道・南海道の追討を担当させた。また、内裏の警備のために諸国から武士を交替で上京させる内裏大番役の催促についても、清盛が担うようになっていた。こうした動きは、院と深く連携して院政の軍事警察部門を担当することを平氏政権の基盤に置くものであり、その中心には重盛がいたが、その一方で清盛は、西国に築いた強固な経済・軍事・交通基盤によって院政とは独自の路線を志向するようになっていたと考えられている。